竜頭蛇尾
「おいおい、ンだよこれ……」
件の工事現場に到着した三森と堀が見たのは、見るも無残。細切れにされた四つの蛇たちだった。手間が省けたとも思えない。
「ヒドイですね。しかし、この切り口は……」
眼鏡の位置を直しながら、堀はソレの残骸に近付いていく。傷口の切断面を認めると、堀は神妙に頷いた。
「堀さン、なンか気付いたのか?」
「ええ。どうしてこんな事態になっているかは知る由もありませんが、誰がやったのかは分かりました」
三森は訝しげに眉根を険しく寄せる。
「この鋭い切り口、私は見た事があります。三森さんも、恐らくは」
「……ああ」
ソレの切断面を見た瞬間、三森も理解できた。
「けど、どうしてあいつがソレを殺すンだかな」
「いやあ、そこまでは。彼女はもう辞めた人間の筈、何ですけどねえ」
「……辞めた?」
「ええ」
三森は心底驚いた。感情を出さないように気を付けながら呟く。
「この事はまだ、店長と私、ジェーンさんしか知りませんから」
「へっ、そういう事はいつも社員だけが知ってんだな」
少しばかり皮肉と不満を込めた後、ふと、三森は気付く。社員しか知らない。と言う事ならば。
「なあ、あいつは知ってンのかな」
「一君、ですか?」
「その、ア、アレだ。あいつらさ、一緒に住んでンだろ? どうなんだろって……」
腕を組み、天水を浴びながら堀は唸った。
「気になるんですか?」
「……あンまり」
「まあ、私も気になりますけどね。しかし、男と女の事ですから、根掘り葉掘り聞くのも野暮でしょう」
事もなげに言ってのける。
「野暮、か」
「もしくは不粋」
「不粋……」
自分が非難されているようで、三森は軽くショックを受けた。
「……ところで三森さん、一君たちの心配をするのも良いですが、仕事を忘れないで下さいよ」
「はあ!? 心配なンてしてねェよ!」
泥が服に跳ねるのも構わずに、三森は大股でぬかるんだ地面を歩いていく。
「どこに行くんですか?」
「あン中! 何か残ってっかもしれねェ!」
三森はビルを指差した。壁が壊れていたり、入り口付近が滅茶苦茶に荒らされている事から、このビルが戦場になったのは容易に想像がつく。手掛かりが残されていれば良いのだが。 堀は溜め息を吐き、
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
乱暴に歩く三森から、距離を置いて静かに付いていく。
「………………」
死んでいるソレに目線を合わせると、堀は苦笑。
「ああ、鬼はいないんでしたっけ」
「早くしてくれよ!」
急かされ、堀は少しだけ歩調を早めた。
そう、鬼はもういない。
堀のワゴン車を見かけた時はヒヤリとしたが、気付かれた様子も無かったので一は胸を撫で下ろした。目の前の商店街を抜ければ、とりあえずは大丈夫だろうと希望的観測。
「まずは良くやったと言っておこう」
思わず後ずさる。
どこからともなく聞こえてきた無感情な声。一は身構え、周囲を警戒した。
「だが、少しばかり期待外れだ」
背後から、耳元に吹き掛けられる暖かい吐息に、一の心臓が口から飛び出しそうになる。大げさなくらい距離を取って振り返れば、詰まらなさそうにこちらを見つめる冷たい瞳があった。
「……中ボスみたいな登場の仕方すんなよ。心臓に悪いだろが」
「ふっ、一一、それは私の勝手だろう。そも、私を誰だと思っている? オンリーワン近畿支部、情報部二課実働所属の春風麗だぞ。登場の仕方ぐらい自由にやらせて貰うさ」
「別に構わないけどさ、耳元に息掛けるのはやめてくれよ」
やれやれと言った風に春風は肩を竦めてみせる。
「ではどうすれば良いのだ」
「……普通で良いよ」
「ふん、一一、貴様が普通を口にするか。面白い、良いだろう。次は普通に現われてやる。普通にな」
「強調すんなよ! てめえ屋根の上から飛び降りてきたり地面から穴掘って出てきたりしたらぶっ飛ばすからな」
一の指摘に春風の目が見開かれる。
「……成る程な」
「その手があったか、みたいな顔すんな!」
本当にやりそうだった。
「まあ、次回の楽しみにしておけ。それよりもだ、一一。貴様は期待以上の成果は出せなかったが、私の予想通りには掻き回してくれた。礼を言うぞ」
「……さいで。ちなみに、どうすりゃお前の期待に応えられたんだ?」
「簡単な話だ、死者を出せ。一一、貴様自身も、三森冬も糸原四乃も山田栞も誰も死んでいないではないか」
「良い事じゃねえか! ソレを片付けられて、その上誰も死んでねえんだぜ」
ふん、と。拗ねたように春風は鼻で笑った。
「見ていてつまらん」
最低の観客だった。
「もっとギャラリーを湧かせろ。そんな事では少年漫画の主人公にはなれんぞ」
「もう俺は少年じゃない」
「いつまでも少年の心を忘れるなと言っている。そう、私のようにな」
「お前女じゃん!」
そこで春風は瞳に侮蔑の色を宿らせる。春風という人間を知らなければ分からない程度の、小さな変化。
「……ふん、性差別か。良いご身分だな、一一。貴様に私の何が分かる」
「お前が女だって事ぐらいは、分かるつもりだけどな」
「果たしてどうかな。実は男かも知れんぞ」
一はそろそろ面倒になってくる。
「なあ、用ってそんだけ? 俺さ、実は急いでるんだよ」
「胸でも触らせれば、私が女かどうかハッキリするかもな」
「……………………………………先を急ぐから」
「そうか。では最後に、礼と言っては何だが糸原四乃の居場所を教えてやろう」
「いや、いらない」
一は手を振り、春風に背を向ける。
「……なぜだ? 一一、貴様の目的だろうに」
ピタリと足を止め、面倒臭そうに一は頭を掻いてみせた。
「あー、アレだ。なんつーかさ、お前に聞いちゃダメな気がする」
「ふん、難儀な奴だな」
「……男ってな、皆そうだよ」
多分。
「つまらん意地とくだらんプライドだな。私が、情報部が教えてやると言っている」
「だあーっ! るっせえな、いらないって言ってんだろ! それに、ああ、アレだ。見当はついてるから、良い。大丈夫……」
語尾が弱かったが、春風は気にしない様子だった。
「まあ良い。精々這いずり回れ」
「そーします」
ではな、と。春風は一が見もしないのに手を上げる。
「おう。もう顔見せんなよ」
一は振り向かなかった。どうせ、もうそこには誰もいないと分かっていたから。
暗い、暗い場所だった。何の明かりも届かない深い闇。深い地の底かもしれないし、この世でもなかったかもしれない。ただ黒く塗り潰された世界。
キイキイ、と。喧しく泣き喚きながら、黒い霧がそこに立ち込める。霧は大量のコウモリだった。やがてコウモリたちが霧散し、一斉に飛び去っていくと白いモノが現れる。
「くっ……」
白い、外套。身に纏っているのは小柄な老人で、顎に蓄えられた髭が目立つ。青髭だった。酷く疲弊している様子で、その場にしゃがみ込んで動かなかった。
「あ? ぎゃはははっ! ジィさんおい、どうしたよそんなに疲れちまってよ!?」
頭の悪そうな、チンピラの様に柄の悪い声。
「……主か」
青髭は声の主を認めると、相手をするのも辛そうに目を瞑る。
「あぁん? おいおいマジか、あんたがそんなになるなんて珍しいじゃねぇか!」
声の主はそんな青髭に気を遣う素振りも見せず、愉しそうに近づいていく。
「他の者は?」
「今日は俺サマだけだぜ。知ってんだろ、全員色々やってんじゃねぇ? あんたみたいにな、面白おかしく笑ってんだぜどうせ! あーあ! なのに俺サマは留守番! ひでぇ話だ、不公平だとは思わねぇか!?」
青髭は眉を顰め、声の主、軽そうな性質の男を見遣った。
「じゃんけんで負けたのはお主じゃろう……」
ピクリ、と。男の動きが止まる。
「……そうだよ、そうなんだよ! てめぇら俺サマを嵌めたんじゃねぇのか!? 俺サマ以外の奴が全員チョキで! なんで俺サマだけパーなんだよ!?」
「ワシが知るか」
「もーどーでもいーけどさー。こーしてあんたが帰ってきたって事は、当分は出ねぇんだろ? よっしゃ、留守番交代だぜ」
「……よかろう、好きにしろ」
その言葉を聞き、男は盛大に笑った。「どこにしよーかな」「だれにしよーかな」なんて大声で放ちながらその場でステップを踏んでいる。
「ん」
やがて、男が動きを止めた。一瞬物事を考えた風に目を瞑った後、青髭に問いかける。
「ところでよ、あんたさ、どこのどいつにやられたんだ?」
「……やられてなどおらん」
「おい! おいおいおいおい! そのナリで言うかよ! 誰がどっから逆立ちして見たって、やられてねぇとは言わせねぇぞあんた! 良いよ、隠すなよ、笑わねぇからさ、言ってみな、んん?」
男は愉しそうに青髭の顔を覗き込んだ。青髭は男から顔を離すと、仕方なく口を開く。
「……日本の勤務外、それとフリーランスじゃ」
「日本? 日本の奴らにやられちまったってのか!? おいおい、あんな小せぇ連中に痛め付けられたっての!? ぎゃはははははははは!」
腹を抱え、転がりながら男は笑い崩れた。
「黙らんか、小僧」
見る者を凍り付かせる視線と、聞く者を竦み上がらせる声。
「……へいへい。分かってますともさ。けどさー、俺サマに言わせりゃまだまだあんたの方が小僧なんだけど?」
だが、男は平然とした様子で軽口を叩く。
「……知っておる。じゃがな、ならば相応の振る舞いを見せてみい」
そりゃ無理だ。男はきっぱりと言い放ち立ち上がる。
「で? あんたはなんで日本に行ったんだよ? あそこはあのストーカー女のシマだろ?」
「少しばかり日本のソレに興味が湧いたのでな、創ってやったんじゃよ。なに、あの娘には許可を貰っておった。『奴に手を出すな』と言う条件付でな」
「はー、つくる、ねえ。面倒って言うか、よーやるぜホント。んなの引っ張ってくりゃ楽なのによ」
男は体を伸ばしながらあくびを一つ。
「……ふん。物を壊す事しか出来ぬ、主には言われたくないな。大体の話、ワシの勝手じゃろう」
「元人間のキョージって奴? 大変だねえ、あんた」
青髭は男の言葉を聞き流し、息を整え起き上がった。
「主はどうするつもりじゃ?」
「おう! 何も考えてねぇな」
「ふむ、では日本はどうじゃ?」
不満そうな表情が男の顔に張り付く。
「やーだよ、あんな小さい国つまらなさそうじゃねぇか。俺サマは好き勝手やらせて貰うぜ。そうだな、あいつも動く気無さそうだし、とりあえず世界でも獲っちまうか!」
「好きにせい」
「ちぇー、ノリ悪いな。ま、俺サマは行くから、留守番頼んだぜジィさん!」
心底から愉しそうに、男は駆け出した。
その後姿を眺めながら青髭は凶悪な笑みを浮かべる。ああ、愉しくなりそうだ、と。
本当は見当なんてついてなかった。汚れた体と疲れた心を引き摺って、一は街を歩く。誰も居ない夜を抜けるかのように進む。
会えたらなにを伝えようか。それだけを考えて一は行く。どこに向かえば良いかなんて分からなかったが、自然と、足は動いていた。どれくらい雨に打たれていたのだろう。
「あ……」
一はアパートの前まで戻ってきていた。入り口近くの塀にもたれ掛かると、大きく、深く息を吐く。煙草が吸いたかった。そう言えば、と。出かける前に部屋の鍵を掛けていなかった事に気付き、一はアパートの階段をゆっくりと気だるげに上って行く。
「……はろー」
右手を上げて、罰が悪そうに笑う女がいた。一の部屋の扉の向かいで三角座りしている、黒いスーツを着た女。
「糸原さん……」
その姿を見たとき、全てが吹っ飛んだ。もう、今まで考えていた事なんてどうでも良くなってくる。
「あはは、久しぶりって感じ」
「……鍵、開いてますよ」
「ん、知ってる」
糸原は悲しそうに扉を眺めた。どこか、遠い物を見ているような、空っぽな瞳で。
一は何も言えなくて、つくづく自分はアドリブに弱いのだと、ぼんやりと思う。
そうして、お互いが何も言わないまま、言えないまま時間が過ぎていく。
「聞かないのね」
ぽつり、と糸原が呟いた。
一は頭を掻き、ズボンのポケットに手を伸ばした。煙草は部屋に置きっぱなしだった事を思い出し、もう一度頭を掻く。
「……糸原さんの気まぐれには慣れてます」
「慣らせてあげたのよ」
「みたいですね」
苦笑して、一は壁に背を預けた。
「ビルから出た時、ソレが死んでるのを見ました。あれって、俺を助けてくれたん、ですか?」
「さあね。私って嘘吐きだから、信じない方が良いわよ」
糸原は、どこか厭世的なものを感じさせる微笑を湛える。
「ねえ、あのフリーランスは?」
「三森さんたちが向かってましたからね。今頃は病院じゃないでしょうか」
今度お見舞いにでも行った方が良いだろうか。一は今更になって山田に罪悪感を覚えた。
「……あんたは?」
「え?」
「あんたは、一緒に行かなくて良かったの?」
その意味を察する事が、一には出来なかった。
「ああ、今日は俺サボりです。あはは、次行ったら二人とも店長に怒られますね」
「私、辞めたんだけど?」
「……じゃあ戻りましょう」
「無理」
糸原は膝に顔を埋める。そんな彼女を、一は今までに見た事が無かったので対応に困った。
「……まあ、その話は明日にでもするとして」
一はドアノブに手を掛ける。
「とりあえず、今日はもう寝ましょう」
「無理」
「なにが無理なんですか」
「無理。絶対無理。全部無理」
「子供ですかあなたは。ほら、立って下さいよ」
手を差し伸べるも、にべもなく一はそれを払われた。
「やっぱ無理。勤務外に戻るのも、生きてくのも、その部屋に入るのも、もう無理なの」
「俺の部屋に入るのがそんなに嫌ですか」
ふるふると、力無く糸原は首を振る。
「帰りたい」
「矛盾してますよ」
「だって私、裏切ったんだよ」
「誰を?」
「バカ! あんたをよ!」
一の耳を穿つ雨音。しくしくと啼いていた。泣いていた。
「……えーとですね、その……」
「許して欲しいし、戻りたいよ。けど、そんなの虫が良すぎる……」
「俺は気にしてませんよ」
「嘘だ」
「……嘘じゃないですってば」
本心だった。糸原さえ戻ってくれば、もうそれで良かった。
「あんたを殴ったし、嘘付いたし、あんたの知り合いも傷つけちゃったのよ」
「だから、慣れてますって」
「……ド変態」
「糸原さん、俺は裏切られたなんて思っちゃいませんよ。だって、何だかんだ言ってあなたは戻ってきてくれたじゃないですか」
糸原は顔を上げる。一と目が合って、慌てて目を伏せた。
「……俺は、借りを返して欲しいんですよ。あなたが来てから家計は火の車で、貯金も底を尽きかけてます」
「それは……」
「一万円じゃ足りません」
金額の問題ではなかったが、一は言葉を紡ぐ。
「釣り合いが取れてません。だから、戻ってきて、しっかり働いて返してください」
「一……」
「それに、家に誰かが居てくれるってのは、その、結構良いものでした」
思ってたよりも、ずっと。
糸原は答えない。一は気恥ずかしかったが、不思議と嫌な気分はしなかった。ふと、空を見上げる。雨雲は街を覆い、雨は変わらず街を叩いていた。それでも、雨は勢いを失って小降りになっている。もうすぐ、雨は止むだろう。
「私さ……」
「はい」
「家族ってのが、いないのよ」
「……亡くなったんですか?」
不躾な聞き方だったが、今更でもあったので一はあまり気にしない。
「んーん。私さ、ちっちゃい時に、私を産んだ奴に捨てられたらしいのよ」
「らしい?」
「覚えてないのよ。拾ってくれた奴が教えてくれたの、お前は俺と血が繋がって無いんだ、って、びっくりしたけど、そいつには育ててもらった恩もあったし、あまり関係は変わらないで言う事も聞いてたのね」
「糸原さんが?」
信じられない。一には想像も出来なかった。
「何よその目は」
「ああ、いえ、続きを聞かせてください」
「……その、私を育ててくれた奴はまともな奴じゃ無くてね、結構やばい事にも手ぇ出してたのよ。んで、二人とも追い詰められた」
一は黙って聞いていた。そして、何となく話も見えてくる。
「気付いたと思うけど、私らを追ってたのはタルタロスよ」
「……いったい、何をやったんですか?」
「これよ」
そう言って、糸原はスーツの内ポケットから糸を取り出した。彼女の武器。拠り所。
「糸がどうかしたんですか?」
「鈍いわね。私らはこれをタルタロスから盗んでやったの。高く売れるって聞いてさ、そしたら予想以上にあいつらしつこくて……」
方法まで聞こうとは思わなかった。糸原の事、手八丁口八丁で何とかしたのだろうと、鈍い一でも予想がついた。
「でも、私らも粘った。それこそ奴らが交渉を持ち出してくるくらいね」
「まさか、それって」
「ま、早い話がどっちかを差し出せって事言われたの。私らも長い間逃げてて疲れてたし、向こうも犠牲出したくなかったんでしょ。でも、逃げられちゃ面子が立たない。守りたい。そういうのがあって、だからこそ成り立った訳だけど」
「……じゃあ、糸原さんがその人の代わりに」
「ま、そんなトコ」
合点が行った。一先ず納得して、一は糸原の言葉を咀嚼していく。少しばかり急な話だったので理解が追いつかなかったが。
「そんで、運良く抜け出せて、この街であんたと会った」
あの日、あの目で、汚れた服を着ていても関係ない。高潔で誇り高い瞳で。
「……先に謝っとくけど、あの時は誰でも良かったんだかんね」
「あれ? 謝られてる気がしないんですけど」
「もう、私疲れてたの。逃げて走り回ってボロボロだったし、とりあえず手頃な場所で休んだら……その、休んだら……」
糸原は言い淀む。
「……構いません」
どうせ、そんな関係じゃない。
「……ごめん、『天気屋』に戻ろうと思ってた。でも、でもさ」
「はい」
「戻れなかった。つーかさ、そんなの忘れてた。あんなに笑ったの久しぶりだったし、ご飯は美味しかったし……」
一には意外だった。笑うのが久しぶり。あんなに楽しそうに笑ってた人が、笑わない日があったとでも言うのか。
「ダラダラしてたよね、こたつで昼まで寝たり、寝付けない時は夜中ずっと話したりさ」
「……付き合わされましたねえ」
「フリーランスだった頃なんて、忘れられた。そんぐらい、あそこは楽しかった」
何故。
「でも、裏切られるのが、捨てられるのが恐かった。楽しい日の次は、いつも考えてたの。明日は、この街から放り出されるんじゃないかって……」
何故。
「そんな時さ、あいつから電話が掛かってきたの。フリーランスをやり直さないかって」
「……電話?」
「ケータイ。もう捨てたけど、ずっと持ってたの。結局はそういうのを今まで捨てきれなかったから」
「そう、だったんですか」
一には何も言えなかった。口をついたのは単なる相槌。
「私、嫌だったの。いつか裏切られるなら、自分から裏切った方が、ごめん。楽だったから」
「……俺が、店の皆が裏切ると思ったんですか?」
糸原はゆっくりと頷いた。一は深く息を吐く。
「そんな事しませんよ。糸原さんがどんな育てられ方して来たのか、知りたくもありませんけど、俺たちは、あ、いや……、少なくとも俺は裏切りません」
目尻に涙を浮かべながら、糸原は顔を上げた。
「……私、戻っても良いの?」
「さっきから言ってます」
「でも、やっぱり私……」
ハッキリしない彼女を見て、一は覚悟を決める。本当はこんな事有耶無耶の内にしたかったのだが仕方ない。後で、彼女が元に戻った時、どんな事を言われても我慢しようと、そう思う。
すう、と、静かに、長く息を吸い込み吐き出していく。視線は合わせたくなかったし、どんな顔で言えば良いのか分からないから、一は空を仰ぐ。
「……糸原さん、元通りに丸く収めましょう。またこたつでみかん食べて、テレビ見ながらくだらない事話して、美味しいものを一緒に食べましょう。たまに、北さんからお金巻き上げて無駄遣いしても文句言いません。その、家賃も払わなくて良いです。だから、その、戻ってきてください。『おかえり』って言ってください。あー、その、正直に言います。俺は、あなたがいないと淋しいんです」
言ってしまった。今まで生きてきて、一番恥ずかしかった。
糸原は呆気に取られたのか、口を開けて、間の抜けた表情で一を見つめている。
「……何それ、プロポーズ?」
「違いますよ!」
「バーカ、分かってるわよ」
「……それと、俺たちを過去形にしないでくださいよ。もう、勝手にいなくならないでください」
「ありゃ、はじめちゃんは私がいないと淋しいの?」
一はグッと堪える。
「勝手にいなくなっちゃうと、皆に迷惑が掛かるでしょう」
「はいはい」
「明日、謝りに行きましょう」
「はいはい」
「話聞いてます?」
一は糸原を強く見据える。さっきまで居心地が悪そうに座っていたのに、いつのまにか立ち上がり、糸原は空を眺めていた。
「雨、止んだわね」
「……ですね」
黒い叢は風に流され、少しずつ千切れていき、隠していた月を解放していく。
「真ん丸で綺麗ね」
「あー、けど少し欠けてますね」
「私らみたいね。歪でさ、いつ壊れてもおかしくなくて」
「……時間が経てば、月は綺麗に丸くなりますよ」
それこそ、明日になれば。
「私たちはどーなんのかなー」
「さあ、知りたくも無いですね」
「ふふ、そうね」
二人はぼんやりと月を眺めた。
「……あの、さ」
トン、と。
糸原は、一の胸に軽く頭を置く。自然な動きだったので、一は少しの間何が起こったのか分からないでいた。
「糸原さん?」
「私さ、やっぱあんたじゃ無いとダメみたい」
「あ、え……?」
訳が分からない。一は視線を泳がせ、明かりに誘われ、月に助けを求めた。
「にのまえ?」
「は、はい?」
糸原は顔を伏せたままで。
「嘘吐きで、ケチで、わがままで、ちょっとだけ性格が悪い私だけど、捨てないでください。裏切らないでいて貰えますか? また一緒に楽しいこと、してくれますか?」
「え、あ、その、勿論。こちらこそ、その、よろしくお願いします」
一はしどろもどろになりながら手を遊ばせる。
――この人は誰だ。
糸原は顔を上げ、悪戯っぽく笑った。
「ふふ、糸原四乃よ。よろしくね」
視線など合わせられる筈もない。
――まあ、誰でも良い、か……。
「……良い名前、ですね」
横目で見た彼女の笑みは、初めて出会ったあの日のように誇り高く、嘘みたいに似合っていた。