蛇に睨まれた蛇
素晴らしい、出来損ない。
階段付近のスペースが狭かったのが、一にとって幸いした。背後からの、二つの頭を有した蛇。ソレの奇襲は功を奏さない。広げたアイギスによって、蛇は充分な力を発揮出来ないでいた。頭が多くても中身は獣。獲物を奪い合うが如く、互いに互いを押し合って、蛇の進軍は困難を窮めている。非常に、自分勝手に。非力な一でも耐え切れるほどに。
「一、どけ! オレが仕留める!」
「……ダメです!」
「言ってる場合か!」
一よりも進んでいた山田が踊り場から叫ぶ。
だが、
「先に行ってください!」
一は山田の援軍を拒んだ。
「頭潰しゃあ終わりだ! 邪魔なんだよ!」
違う。そうじゃない。頭は、ここに無い。一は頭を振る。
「……頭じゃない! 分かってるでしょうに! オロチの頭は、こいつらじゃないんです!」
山田は一の剣幕に面食らう。
「な……? お前……?」
邪魔だ。邪魔だ邪魔だ。自分の見せ場はもう終わりだ。
「あんたの相手はこんな雑魚じゃない!」
疲れた。一はアイギスを握る手に力を込めて蛇を押し戻す。蛇は一の気勢に圧されたのか、すぐには仕掛けてこなかった。その隙に一は振り返る。
「なるべく早く、頼みます」
静かだが、力強い声だった。半ば気圧されるまま無言で頷くと、山田は駆け出す。一はその音を聞いて少しだけほっとした。
もう、時間が無い。
情報部がヤマタノオロチを確認してからきっかり三十分後、オンリーワン北駒台店の電話が鳴った。時刻は十時を過ぎた頃。電話に出たのは店長。その場に居た勤務外は三森のみ。この日、深夜勤務に入っていたはずの一は未だ姿を現していなかった。
「連絡は?」
気楽そうに三森が尋ねると、店長は睨むだけで何も言わない。
「……別に、今に始まった事じゃねェだろ」
オンリーワンのバイトは長続きしない。ソレと深く関係している所為だ。誰も、危険には首を突っ込みたくない。
「そうじゃない。いや、確かに一と糸原は首を捻りたくなるほど腹が立つがな」
店長は首を振る。
「じゃあ何だよ?」
「情報部の手際の悪さだ」
「……春風か? それも今に始まった事じゃねーだろ」
三森は指と指を擦り合わせ火花を走らせ、銜えていた煙草の先を火で浸した。
「奴は何か隠している」
「そりゃ、いつもの勘か?」
ああ、と。店長は自信たっぷりに頷く。
「私は、私しか信じないんでな」
「……あっそ。そういうンは任せる。私は戦うだけだ」
三森は煙草を灰皿に押し付けた。
「どうしたら良い?」
「うん、現場までは遠い。堀が迎えに来るまで店で待機だ」
「あ? 店には誰が残るンだよ」
「ゴーウェストを堀が拾ってくる。可哀想に、今日は休みだったのにな」
遠い目で店長は呟いた。
「どれもこれもあいつらの所為かよ。ちっ、顔見せやがったらぶっ飛ばしてやる」
「……そうだな。罰をくれてやろう」
彼らが、帰ってくるのならば。戻ってきてくれるのならば。
走った。
振り返りたくなるのを堪えて、足を止めてしまうのを耐えて、山田は走った。彼女の背には一の命が圧し掛かっている。不思議と、重たくは感じなかった。でも、早く、もっと早く。
飼い主。八俣遠呂智の飼い主さえ何とかすれば。あの男さえ倒せば。あいつさえ、止める事が出来れば終わる。
淀んだ空気を肩で掻き分けて、山田は辿り着いた。ビルの最上階。迷う事はない。部屋は一つしかなかったのだから。入り口の前に立って目を凝らすと、誰かが居るのが見えた。異常。山田は油断せず部屋に足を踏み入れる。
大きな部屋だった。恐らくは大人数の会議にでも使う予定だったのだろう。部屋の中央には長机が幾つもあり、長方形をかたどっている。壁には、立て掛けられたパイプ椅子。
「●●」
山田は名前を呼ぶ。今までに何度も呼んできた、呼びたくて仕方の無かった名前を。ずっと、追いかけていた人を。
「ほほ、オロチを仕留めたか?」
しゃがれた声が返ってくる。山田は顔を顰めた。
「まだだよ。今からだ」
知らない。聞いた事の無い声だった。状況が分からない。理解出来ない。あいつはどうした。分からない。分からないが、今までの『神社』としての経験が山田を状況に対応させる。こいつは、敵だと。
拳を作り、山田は一歩踏み出す。異質な空気が体に纏わり付いて、酷く息苦しかった。
「ワシを殺すか? お若いの」
ちっ。山田は舌打ちして、相手を探りながら声を発する。
「オロチをどうにかしろ。さもねえと、知らん顔だからって容赦しねえぞ」
「恐い恐い、最近の若いのは血の気が多くていかん、いかんぞ娘。もっと冷静にならんとなあ」
「オレの性分だ。何十年経とうが変わりゃしねえぜ」
ほっほっほっ。ヒトを小馬鹿にするような笑い声。
徐々に、暗闇に目が慣れていく。山田はついに声の主を捉えた。主は椅子に座っている。白いマントを羽織った、小柄な老人だった。顎に髭を蓄えていて、彼はそれを指で弄っている。一見すればどこにでもいる好々爺だ。
だが。普通の人間が、ましてや老人が、こんな所に、こんな朽ち果てた場所にいる筈が無い。
「爺さん、オレは急いでる。あんたをぶっ飛ばすのが早いのか、あんたがソレを止めんのが早いのか、まだ計りかねてるだけなんだぜ? 慎重に言葉を選んでくれよ。オレは頭が悪いんだ」
かはは、と。豪快に笑う。笑いながらも、警戒は怠らない。机を挟んで、山田の向かいに悠然と座る老人。間違いなく、何かある。
「話に聞いた通りで驚いておるよ、娘。いや、フリーランス『神社』」
老人は禿頭を恭しく下げると、
「遅くなってしまったが、初めましてじゃな」
わざとらしい所作ではあったが、彼には不思議と似合っていた。
「はっ、ご丁寧にどうも」
不敵に笑い、山田も返す。
「で、聞きたいんだがよ。あんた以外の人間がここにいなかったか?」
「ほっ、面白い事を言うのう、娘。ここには人間なぞおりゃせんよ」
老人は長い顎髭を弄りながら視線を部屋の隅に向けた。
「いるとすれば――」
コロリ、と。
物音が聞こえた。山田は音のした方、部屋の隅に目を向ける。
「――蛇の吾子、鬼の首くらいかの」
老人は快活に、愉快に笑った。それこそ、鬼の首を取ったかのように。
山田の目が見開く。まるで、信じられないようなモノを見る目付き。転がってきたのは、ヒトの首だった。その首は、その顔、その、男は。
「……●●、情けねえな」
探し続けていた男は。
それも一瞬の事。目を瞑り、山田は擦れた声を出す。疲れ切った、何かを打ち砕かれたような絶望が重くもたれ掛かり、体から力が抜けていく。
「蛇を渡してやったというに、少し反抗的だったのでなあ」
「……そりゃ、手間が省けたぜ」
「んん? つまらん反応じゃな、そこな男とお主は恋仲だったのでは?」
老人は嫌らしい声音で問い掛ける。
「残念だけどよ、オレの片思いだ。いや、だった、か」
「乾いておるのう」
「おう。使いきっちまったからな」
だけどよ。山田は呟き、体勢を低くして身構えた。視線は老人から逸らさず、自分からは逸らさせない。
「全く何も感じちゃいないって訳じゃねえのさ。確かにこいつは死んで当然の人間だ。現に、オレはこいつを殺しにきた訳だしな」
「それはそれは……」
「……オレはこいつが好きだった。それこそ、身内をこいつに殺されるような目に遭ってもだ。歪んでるだろ?」
はっはっはっと、豪快な笑い声。
「ぶつけるモンが無いならそれまでだったがよ。聞きたい事も出来た。悪いな爺さん、今のオレと出会っちまったからには、何者だろうが知ったこっちゃねえ。色々と付き合って貰うぜ」
「ふむ。有り余る若さを受け止めるのも、老いた者の役目じゃろうなあ」
老人は組んでいた腕を解き、指を鳴らす。刹那、床に転がっていた男の首が宙に浮き、粉々に砕けた。血と肉が床にこびり付き、即座に乾いていく。床が血を吸っている。山田はそう錯覚した。
「あいつに蛇を渡したっつったな?」
老人は鷹揚に頷く。
「うむ。欲しがっていたのでな。ワシも日本のソレに興味はあった。じゃから、引き受けて、創ってやったのよ」
「……創った、だあ?」
ソレを、創る。聞いた事も、考えた事もない答えに、山田の顔が強張った。
「神をも恐れぬ所業じゃなあ。ほっほっ……」
「マジな話なら、あんた大した悪魔だぜ。異常だとは思っちゃいたがな」
その言葉を否定するように、老人はゆっくりと首を振る。
「ワシなど、まだまだ。なんせ悪魔を呼び出す事がワシの本懐じゃからな」
「ちっ、皮肉も効きゃしねえ」
「……生憎、主よりも長くこの世におるのでな。それよりも娘、何か聞きたい事があるのではないかな?」
見透かした目。気に入らない。山田は唾を吐き捨てる。血が混じっていた。気に入らない。自分の何が分かるというのだ。この悲しみも、怒りも、憎しみも虚しさも、全部自分だけの物だというのに。
「……一つだけ」
だが。
「あいつは、オレの事何か言ってたか?」
どうしても。嘘でも良い。知りたい。たった一つの冴えない答えが欲しかった。
「ふむ……」
老人は目を細める。考え込んでいる風でもあった。やがて老人は目を瞑り、
「今際の際に、主の名を呼んでいたなあ。くく、自分で捨てた女の事をな。付け入り、騙し、裏切った相手の名を」
これで満足か、と言わんばかりの口調で語った。山田は満足気に頬を弛ませる。嘘でも、良かった。
「そっか……」
憑き物が落ちた気分。体が軽くなる。血が抜けすぎたのかもしれない。
「若いの、どうする? ここまで話に付き合ってやったワシをどうしたい?」
「ああ、表に人を待たせてる。蛇を止めてくれないなら、あんたを殺すしかねえな」
老人は細めた目をゆっくりと開いていく。
「ワシを殺したところで、蛇が止まるかどうかも分からんのにか?」
「……言ったろ。付き合って貰うぜ。オレの全ての矛先は、今あんたに向いてんだ」
山田は笑った。部屋の空気が張り詰めていく。
「ほう? 中々の昂ぶりじゃな。良かろう……」
「おう、フリーランス『神社』、山田栞だ。よろしくな、爺さん」
ステップを踏む山田に対し、老人は未だ席を立とうとしない。余裕たっぷりに口を開く。
「円卓の奇士、第六席の青髭じゃ。お手柔らかにな」
山田がビルの最上階に到着した頃、一は必死に入り口を守っていた。
狭い空間。低い知能のソレ。吹っ切れた気持ち。今、一には追い風が吹いている。アイギスを持つ手に力を入れさえすれば、蛇はすぐに引いていく。二つの頭が同時に向かってくるも、互いが勢いを殺し合い、一の元まで満足に届かない。
しかし、確実に疲労は積み重なっていく。腕が鈍い。徐々に奥へ追いやられていく。足が重い。
「や、ばっ……」
更に、一には疑念があった。先程から浮かんでは沈む、どうしようもない考え。果たして、本当にこれで終わりなのだろうか。蛇の頭は、二つだけなのだろうか。
八俣遠呂智。八つの頭を持つ巨大な蛇。偉大な神。稀代のソレ。
一は山田から、オロチは出来損ないだと聞いていた。しかし、これはどうした事だ。これでは、これではまるで。
――本当に、八俣遠呂智では無いか。
気のせいか、蛇の勢いが増しているように思える。一はふと、下げていた頭を上げてみた。なるほど、と。得心がいく。一の眉根が険しく寄せられる。何のことは無い。蛇の頭が四つに増えていた。しかも、あくまで一からは見える範囲での話である。もしかしたら、四つどころの話では無いのかもしれない。
「……畜生」
相変わらず、蛇の頭は悪かった。四つの頭が功を競って一へと押し寄せる。それでも、単純に一の負担は二倍になる。二倍疲れ、二倍、持たなくなる。
いつまで持つのか、もう分からない。一は、静かに忍び寄る何かを感じ取り始めていた。
先手を打ったのは山田だった。
近くにあった椅子を蹴飛ばし、老人へ放つ。避けられるだろうと思いながら蹴った椅子だったが、老人は座ったまま指を鳴らすだけ。
「年寄りなんでな、少しハンデを貰うとするぞ」
真っ直ぐに老人へと向かっていた筈の椅子が、突如として宙に浮いた。
「何しやがった!」
驚いた。驚いたが、今の山田にとってそんな事は大した問題ではない。叫びながら、山田は左足で老人の顔面を狙う。
だが、その攻撃は届かなかった。蹴り付けた椅子と同じく、山田の足も宙で止められる。その上、動けなかった。
「ほほ、早いのう。素晴らしく早い。若さとは良い、じゃが、若すぎる」
老人はスッと腕を上げる。山田の足首が締め付けられていく。見えない何か。訳が分からぬまま、苦悶の喘ぎを山田は洩らした。
「てめ、え……、何を……?」
「ワシは何もしておらんよ」
片足を上げさせられた体勢から、山田は攻撃を試みる。必死で腕を伸ばすが届かない。足と同じく、腕も締め上げられた。
「がああっ!」
「さて、思ったより時間も掛かった。幾ら愚鈍だと言え、勤務外もそろそろ来るやもしれん。面倒ごとは迅速に潰すとしようかの」
パチン、と。音が鳴る。
一、二、三、四。
止むことの無い打撃。蛇の頭は一を喰らう為に、遮二無二突進を繰り返す。
このままではいつか死ぬ。絶対防御。不壊の盾。アイギス。だが、道具が優れていても、結局の話扱うのは人間なのだ。勿論、使い手が優れていれば道具を自在に使いこなし、そのスペックを一から十にも引き上げる事もあるだろう。
「ああああああああっ!」
使い手が、良ければ。
何も、一が優れていない訳ではない。曲がりなりにもギリシャで最高の、最硬の盾を使える人間なのだ。少なくとも彼はアイギスに、アテナに、メドゥーサに認められた男。選ばれるべくして選ばれた人間。
優れている。
しかし、肉体的な面はどうしようもなく普通なのだ。一はあくまで普通の人間。良くも悪くも、一はアイギスを行使する事によって、普通の人間より身を守る術に長けているだけ。少しだけ、生きられるかもしれないだけ。何を以てして優れ、何を基準にして劣るとするのか。とにもかくにも。一は普通の人間で、アイギスは特異な道具で、釣り合いはもう取れそうに無くて、一はもう、持ちそうに無かった。それだけは、確か。
「……うあああっ!」
肉体は限界を越えていた。それでも一はここから動かない。逃げない。全てを『神社』に預けたのだ。思いも、願いも、命も。なぜ自分がこんな事をしているのか。任せたからだ。賭けたからだ。自分一人だけではどうしようもなかったから、一は山田に頼った。オロチを止める為に。いや、何よりも、糸原にもう一度会う為に。言わなければならない。聞かなければならない。返してもらわなければならない。伝えなければならない。いや、言いたい。聞きたい。返してほしい。伝えたい。
「……っ!」
だから、邪魔だ。
失せろ消えろ退け去れ疾く去ね無くなれ亡くなれ死んでしまえ殺す必ず。高が、高が蛇が。高が出来損ないが。高が八俣遠呂智が。
「俺の邪魔をすんじゃねえよ!」
ソレがたじろいだ。感情の籠もっていなかった無機質な爬虫類の瞳。赤い、赤い目。今、そこに初めて感情が宿る。
その時、アイギスが眩く光った。一の手へと光輝は伝わり、消えていく。
――使って。
誰かの声。知らない声。美しい、声。
その声に導かれるように、一は頭の中から記憶を引っ張り出した。ハッキリとあの女神の声が思い出される。
「う、あ、アイギィィィィィイス!」
世界が光り、変わっていく。顕現する。
一の背後を見据え、一の背後の何かに見られ、蛇たちは固まった。身動きが取れない。入り口付近に集まったまま、ソレは石にでもなったみたいに凍っている。
「はっ……、……はあっ、はっ……」
一はハッキリと見た。蛇たちに浮かんだ感情。瞳に宿った、隠しきれない恐怖を捉える。そして認める。
オロチ以上の存在、力を。
見てしまう。感じてしまう。その姿を、あの重みを。
「……顔を見るのは、初めてだな」
オロチとは言え、今はただの、出来損ないの蛇たちが動けなくなるのも無理はない。それ程までに彼女は美しかった。
――蛇姫。
しな垂れ掛かり、一の顔を覗き込む灰色の目。彼女の腕は一を抱え、彼女の体は一を捉える。その目を見ただけで石に変えられてしまいそうな、異質な目。埒外の威圧。度を越した美は恐怖に変貌を遂げる。
一は身を以てその事を体験した。全てを捧げ、委ね、何もかもを捨ててしまいたい。だが、耐えた。アイギスへの耐性が付いていた事もあったが、それ以上に一は彼女が気に入らなかった。この美しさが気持ち悪くて仕方なかった。自身を奮い立たせ、メドゥーサの誘惑を無視し彼女の腕を払い除ける。
「――――」
メドゥーサは不満げに一を睨む。何事か囁いたが、声は誰にも届かなかった。
アイギスに埋め込まれたメドゥーサが、どうして実体を成し現われたのか。何が起きているのか、一には分からない。そもそも分かろうともしなかった。
しかし、状況を理解するより先に一は状況に対応する。メドゥーサのお陰でオロチは向かってこない。
つまり、使える。
一は心中でメドゥーサに命じた。問題ない。使い方は分かっている。思い出した。記憶の中であの女神に言われた事。
「――――」
メドゥーサは笑う。怪しく、淫靡に。心得たと言わんばかりに。長い髪が顔に掛かるのも気にしないで、蛇姫はオロチを見る。
ただ、見るだけ。それだけで蛇の頭、四つの内二つが完全に止まった。あっけなく石と化した。動けない。反応しない。何にも心を動かさない。
ソレは石になってしまったのだから。
体も、心も、時をも止める力。メドゥーサの美しさ。命を止める事すら、彼女の前では些末な出来事だった。
「……すげえ……」
一は感心する。恐怖も畏怖も不安も歓喜も当てはまらない。まるで無垢な少年に戻った気分。自分よりも上のモノを見て、ひたすらに『すごい』と思うだけ。懐かしくなり、震えた。
そう、思ったのは一だけではない。残ったソレも本能で察知していた。
ああ、格が違う、と。
同じソレ。同じ化け物。同じ異形。同じ蛇。なのに、明らかに違っている。コレは何だと体が震え頭が麻痺した。
「――――」
メドゥーサは笑う。委ねろと。任せろと。
蛇は彼女の、灰色の目を恐れ、言い様の無い感覚に駆られ飛び出していく。真っ正面に一へ向かう。
天井が砕けた。
一はアイギスを広げ、降り掛かる破片から身を守る。天井へと飛び込み、砕いたのは一を襲った蛇であった。真っすぐに一へと向かったソレは途中で軌道を変えた。
――怯えたのだ。
頭は向かったのに、筈なのに。体が拒否した。これ以上メドゥーサに近づきたくない。だから体は上へと逃げる。その先に壁があろうと天井があろうと関係ない。一刻も早く、ソレはここから立ち去りたかった。
パチン、と音が鳴り、その音に重なり掻き消すように、より大きな音が轟いた。
「これは……!」
老人が部屋中に視線を走らせる。部屋が強い衝撃で揺れていた。と言うよりも、建物全体が衝撃で揺れている。
「かはっ……」
そのショックで山田の拘束が緩んだ。片足を長机の上に付け、腕一本を犠牲にする覚悟で脱出を試みる。存外、足も腕もすんなりと抜けた。山田は老人から距離を取り、呼吸を整える。
「娘っ、何か仕掛けたのか?」
「……うるせえジジイ、てめえこそ卑怯な手使いやがって」
座ったままの老人だったが、彼からは余裕が消えていた。形相が怒りに染まっていく。山田は少しだけ楽しくなってきた。
未だ鳴り響く轟音は徐々に大きくなっていく。何かがこのフロアに近づいてきている様子だった。
「むう、オロチか?」
老人は指を鳴らす。一瞬の後、部屋の壁が突如として割れた。大きく穴の開いた箇所からは外が見える。椅子に座ったままの体勢で、老人はそこに目を遣り、驚愕した。
その視線に釣られるように、山田も外に目を配る。
「……はっ、かはは! やるじゃねえか!」
豪快に笑うと、山田は腹を抱えた。
老人は憎憎しげに山田を睨み、顎髭を一本抜き取る。
「勤務外めぇ……」
「残念だったな、爺さんよ。八俣遠呂智はもう終わりだぜ」
終わりだと、そう言った時なぜか無性に虚しくなった。
山田はもう一度外の、工事現場を確認する。雨は止む衰えを見せないで地面と四つのソレを叩き続けていた。細切れになった、四つの蛇。オロチの名残。無造作に、無作為に無意味に肉片が散らばっている。誰がやったのかは知らないが、山田には確信めいた心当たりがあった。
「さて、と」
老人は分かっていないが、オロチはこちらに向かっている。後、数秒も経たないうちに姿を見せるだろう。その時が勝負だ。形勢は逆転しつつある。どんな裏技を使ったのか知らないが、折角一が作ってくれた見せ場だ。応えない訳にはいかない。
気合いを入れ直し、山田はしゃがんで長机の足を掴む。今の体には少しばかり重たかったが、無理な話ではない。
「おい、爺さん」
老人は無言で山田を見た。
「何じゃ、それは……?」
「分かんねえか? かははっ、ただの机だよ」
長机を片手で持ち上げた山田は笑う。
「気でも触れたか、娘」
「おう。気ぐらい触れるぜ」
床が砕けた。
えげつない勢いで、何かが室内を通り過ぎていく。下から、上へ。床から、天井へ。突き抜けていくのはソレの長い胴体だった。
「ぬう、オロチか!?」
老人が驚愕の声を上げた。刹那、老人の矮躯が宙を滑る。しゃがれた呻きを洩らしながら、椅子から叩き落とされ、壁に叩きつけられる。
「ぬおお――!」
「痛えかよジジイ。ま、悪く思うんじゃねえぞ。とりあえずさっきやられた分は返しといたからな」
長机を老人に向け、片手で振るった山田は首の骨を鳴らした。
「安心しな、いたぶる趣味は持ち合わせちゃいねえ。次で決めてやる」
「くっ……」
山田は机を振りかぶる。凄まじい風切音を聞きながら、老人は悔しそうに唇を噛んだ。
「ブラドっ、撤退じゃ!」
「ああ?」
振り下ろしていた拳を途中で止め、山田は老人から離れる。
黒い霧が老人の体を包んでいた。見間違えでもなんでもない。白い外套が黒く、黒く染まっていく。白が完全に黒で隠れた刹那、霧が一斉に散り、その形を一変させる。
「ちっ……」
それは大量のコウモリだった。何十匹と言う小さいモノがそれぞれに喧しく泣き喚き、壁の隙間、穴の開いた床や天井へと飛び去っていく。
「逃げられたか……」
後にはもう、何も残っていなかった。山田は壁を殴り砕き苛立ちをぶつける。青髭と名乗った老人も、八俣遠呂智も、ずっと追い求め、恋い焦がれた男の影も形も、綺麗に。さっぱりに消えて失せた。
幼い頃より言い聞かされてきた『神社』の役目も、小さな時から始まった淡い思いも、全て終わり。
「ふう……」
か細い息を吐き、山田は壁を背にもたれ掛かり、やがて座り込む。限界だった。『天気屋』とソレから受けたダメージが、気の抜けた今になって襲い掛かってくる。気力と意地と、男への思いだけで持たせてきた体だったが、もう、そんな意味も無くなった。全部無くなったのだ。
自然と感情が堰を切る。頬を暖かい涙が伝い、冷たい床と乾いた自分に染み込んでいく。噛み殺すような啜り泣きは、やがて嗚咽に変わった。
――もう、死のう。
山田は俯いていた頭を上げる。視線の先には、男の血が染み込んだ場所。ここで死ねるのなら、あっちで一緒になれるかもしれない。子供じみた、否、子供でも笑ってしまうような馬鹿げた考え。
しかし、山田はそれに縋った。おもむろに腕を上げ、拳を作る。幾多のソレを殺し、数多の命を奪った、自慢の拳。自分一人、ただの人間一人を死なすには充分過ぎた。これで胸を貫けば、全てが終わる。終わらせられる。
「……何やってんですか」
いつのまにか。気まずそうな面持ちで一はそこにいた。呆れた声で山田を見遣ると、頭を掻きながら近付いていく。
「一、か」
「その様子だと、終わっちゃったみたいですね」
「まあ、な」
何となくだが、一には察しが付いている。恐らく、事態は後味の悪い展開で、一先ずの終わりを迎えたであろう事を。
「かはは、お前も上手い事やってくれたじゃねえか。お陰で助かったぜ」
「……? まあ、お役に立てたのなら嬉しいですね」
なのに。山田はそんな事をおくびにも出さず笑ってくれる。
だから一は、山田が泣いている所を見たのは黙っておいた。
「立てます? とりあえずここから出ましょう。もうすぐ勤務外の人たちも来ますから、事情を話して病院にでも連れていって貰いましょう」
「……いや、必要ねえ」
「怪我、してるじゃないですか」
山田は視線を落とす。
「オレさ、もうどうでもよくなっちまった」
「栞さん……」
「一、お前はまだ終わってねえだろ。あの女はどうした?」
一は何か言いたそうだったが口を噤んだ。
「なら、行けよ」
「……分かってます。だけど、あなたを連れてってからだ。俺の目の前で死なれても困るんですよ」
「……お前に止める権利があんのかよ?」
なら。そう、一は呟く。
「どうして……。どうしてあの時、あなたは俺を止めたんです?」
山田は口をポカンと開け、目を瞑ってから観念したように笑った。
「分かった、分かったよ。勤務外が来るんだな? そいつらに訳を話して医者に行きゃ、一はそれで満足か?」
「ええ。じっとしてて下さいね」
「おう」
一は満足そうに微笑み、山田に背を向けた。
「なあ、一」
「何ですか?」
「オレ、お前の事好きだぜ」
一は振り向かず、
「ありがとうございます。俺も山田さんの事好きです」
部屋から立ち去っていく。山田はその姿を見届けると、大の字に寝転がり笑う。
「かはは、また振られちまった」
その笑いは、やはり豪快な物であった。