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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
やまたのおろち
71/328

蛇に睨まれた蛇

 素晴らしい、出来損ない。



 階段付近のスペースが狭かったのが、一にとって幸いした。背後からの、二つの頭を有した蛇。ソレの奇襲は功を奏さない。広げたアイギスによって、蛇は充分な力を発揮出来ないでいた。頭が多くても中身は獣。獲物を奪い合うが如く、互いに互いを押し合って、蛇の進軍は困難を窮めている。非常に、自分勝手に。非力な一でも耐え切れるほどに。

「一、どけ! オレが仕留める!」

「……ダメです!」

「言ってる場合か!」

 一よりも進んでいた山田が踊り場から叫ぶ。

 だが、

「先に行ってください!」

 一は山田の援軍を拒んだ。

「頭潰しゃあ終わりだ! 邪魔なんだよ!」

 違う。そうじゃない。頭は、ここに無い。一は頭を振る。

「……頭じゃない! 分かってるでしょうに! オロチの頭は、こいつらじゃないんです!」

 山田は一の剣幕に面食らう。

「な……? お前……?」

 邪魔だ。邪魔だ邪魔だ。自分の見せ場はもう終わりだ。

「あんたの相手はこんな雑魚じゃない!」

 疲れた。一はアイギスを握る手に力を込めて蛇を押し戻す。蛇は一の気勢に圧されたのか、すぐには仕掛けてこなかった。その隙に一は振り返る。

「なるべく早く、頼みます」

 静かだが、力強い声だった。半ば気圧されるまま無言で頷くと、山田は駆け出す。一はその音を聞いて少しだけほっとした。

 もう、時間が無い。



 情報部がヤマタノオロチを確認してからきっかり三十分後、オンリーワン北駒台店の電話が鳴った。時刻は十時を過ぎた頃。電話に出たのは店長。その場に居た勤務外は三森のみ。この日、深夜勤務に入っていたはずの一は未だ姿を現していなかった。

「連絡は?」

 気楽そうに三森が尋ねると、店長は睨むだけで何も言わない。

「……別に、今に始まった事じゃねェだろ」

 オンリーワンのバイトは長続きしない。ソレと深く関係している所為だ。誰も、危険には首を突っ込みたくない。

「そうじゃない。いや、確かに一と糸原は首を捻りたくなるほど腹が立つがな」

 店長は首を振る。

「じゃあ何だよ?」

「情報部の手際の悪さだ」

「……春風か? それも今に始まった事じゃねーだろ」

 三森は指と指を擦り合わせ火花を走らせ、銜えていた煙草の先を火で浸した。

「奴は何か隠している」

「そりゃ、いつもの勘か?」

 ああ、と。店長は自信たっぷりに頷く。

「私は、私しか信じないんでな」

「……あっそ。そういうンは任せる。私は戦うだけだ」

 三森は煙草を灰皿に押し付けた。

「どうしたら良い?」

「うん、現場までは遠い。堀が迎えに来るまで店で待機だ」

「あ? 店には誰が残るンだよ」

「ゴーウェストを堀が拾ってくる。可哀想に、今日は休みだったのにな」

 遠い目で店長は呟いた。

「どれもこれもあいつらの所為かよ。ちっ、顔見せやがったらぶっ飛ばしてやる」

「……そうだな。罰をくれてやろう」

 彼らが、帰ってくるのならば。戻ってきてくれるのならば。



 走った。

 振り返りたくなるのを堪えて、足を止めてしまうのを耐えて、山田は走った。彼女の背には一の命が圧し掛かっている。不思議と、重たくは感じなかった。でも、早く、もっと早く。

 飼い主。八俣遠呂智の飼い主さえ何とかすれば。あの男さえ倒せば。あいつさえ、止める事が出来れば終わる。

 淀んだ空気を肩で掻き分けて、山田は辿り着いた。ビルの最上階。迷う事はない。部屋は一つしかなかったのだから。入り口の前に立って目を凝らすと、誰かが居るのが見えた。異常。山田は油断せず部屋に足を踏み入れる。

 大きな部屋だった。恐らくは大人数の会議にでも使う予定だったのだろう。部屋の中央には長机が幾つもあり、長方形をかたどっている。壁には、立て掛けられたパイプ椅子。

「●●」

 山田は名前を呼ぶ。今までに何度も呼んできた、呼びたくて仕方の無かった名前を。ずっと、追いかけていた人を。


「ほほ、オロチを仕留めたか?」


 しゃがれた声が返ってくる。山田は顔を顰めた。

「まだだよ。今からだ」

 知らない。聞いた事の無い声だった。状況が分からない。理解出来ない。あいつはどうした(・・・・・・・・)。分からない。分からないが、今までの『神社』としての経験が山田を状況に対応させる。こいつは、敵だと。

 拳を作り、山田は一歩踏み出す。異質な空気が体に纏わり付いて、酷く息苦しかった。

「ワシを殺すか? お若いの」

 ちっ。山田は舌打ちして、相手を探りながら声を発する。

「オロチをどうにかしろ。さもねえと、知らん顔だからって容赦しねえぞ」

「恐い恐い、最近の若いのは血の気が多くていかん、いかんぞ娘。もっと冷静にならんとなあ」

「オレの性分だ。何十年経とうが変わりゃしねえぜ」

 ほっほっほっ。ヒトを小馬鹿にするような笑い声。

 徐々に、暗闇に目が慣れていく。山田はついに声の主を捉えた。主は椅子に座っている。白いマントを羽織った、小柄な老人だった。顎に髭を蓄えていて、彼はそれを指で弄っている。一見すればどこにでもいる好々爺だ。

 だが。普通の人間が、ましてや老人が、こんな所に、こんな朽ち果てた場所にいる筈が無い。

「爺さん、オレは急いでる。あんたをぶっ飛ばすのが早いのか、あんたがソレを止めんのが早いのか、まだ計りかねてるだけなんだぜ? 慎重に言葉を選んでくれよ。オレは頭が悪いんだ」

 かはは、と。豪快に笑う。笑いながらも、警戒は怠らない。机を挟んで、山田の向かいに悠然と座る老人。間違いなく、何かある。

「話に聞いた通りで驚いておるよ、娘。いや、フリーランス『神社』」

 老人は禿頭を恭しく下げると、

「遅くなってしまったが、初めましてじゃな」

 わざとらしい所作ではあったが、彼には不思議と似合っていた。

「はっ、ご丁寧にどうも」

 不敵に笑い、山田も返す。

「で、聞きたいんだがよ。あんた以外の人間がここにいなかったか?」

「ほっ、面白い事を言うのう、娘。ここには人間なぞおりゃせんよ」

 老人は長い顎髭を弄りながら視線を部屋の隅に向けた。

「いるとすれば――」

 コロリ、と。

 物音が聞こえた。山田は音のした方、部屋の隅に目を向ける。

「――蛇の吾子(わこ)、鬼の首くらいかの」

 老人は快活に、愉快に笑った。それこそ、鬼の首を取ったかのように。

 山田の目が見開く。まるで、信じられないようなモノを見る目付き。転がってきたのは、ヒトの首だった。その首は、その顔、その、男は。

「……●●、情けねえな」


 探し続けていた男は。


 それも一瞬の事。目を瞑り、山田は擦れた声を出す。疲れ切った、何かを打ち砕かれたような絶望が重くもたれ掛かり、体から力が抜けていく。

「蛇を渡してやったというに、少し反抗的だったのでなあ」

「……そりゃ、手間が省けたぜ」

「んん? つまらん反応じゃな、そこな男とお主は恋仲だったのでは?」

 老人は嫌らしい声音で問い掛ける。

「残念だけどよ、オレの片思いだ。いや、だった、か」

「乾いておるのう」

「おう。使いきっちまったからな」

 だけどよ。山田は呟き、体勢を低くして身構えた。視線は老人から逸らさず、自分からは逸らさせない。

「全く何も感じちゃいないって訳じゃねえのさ。確かにこいつは死んで当然の人間だ。現に、オレはこいつを殺しにきた訳だしな」

「それはそれは……」

「……オレはこいつが好きだった。それこそ、身内をこいつに殺されるような目に遭ってもだ。歪んでるだろ?」

 はっはっはっと、豪快な笑い声。

「ぶつけるモンが無いならそれまでだったがよ。聞きたい事も出来た。悪いな爺さん、今のオレと出会っちまったからには、何者だろうが知ったこっちゃねえ。色々と付き合って貰うぜ」

「ふむ。有り余る若さを受け止めるのも、老いた者の役目じゃろうなあ」

 老人は組んでいた腕を解き、指を鳴らす。刹那、床に転がっていた男の首が宙に浮き、粉々に砕けた。血と肉が床にこびり付き、即座に乾いていく。床が血を吸っている。山田はそう錯覚した。

「あいつに蛇を渡したっつったな?」

 老人は鷹揚に頷く。

「うむ。欲しがっていたのでな。ワシも日本のソレに興味はあった。じゃから、引き受けて、創ってやったのよ」

「……創った、だあ?」

 ソレを、創る。聞いた事も、考えた事もない答えに、山田の顔が強張った。

「神をも恐れぬ所業じゃなあ。ほっほっ……」

「マジな話なら、あんた大した悪魔だぜ。異常だとは思っちゃいたがな」

 その言葉を否定するように、老人はゆっくりと首を振る。

「ワシなど、まだまだ。なんせ悪魔を呼び出す事がワシの本懐じゃからな」

「ちっ、皮肉も効きゃしねえ」

「……生憎、主よりも長くこの世におるのでな。それよりも娘、何か聞きたい事があるのではないかな?」

 見透かした目。気に入らない。山田は唾を吐き捨てる。血が混じっていた。気に入らない。自分の何が分かるというのだ。この悲しみも、怒りも、憎しみも虚しさも、全部自分だけの物だというのに。

「……一つだけ」

 だが。

「あいつは、オレの事何か言ってたか?」

 どうしても。嘘でも良い。知りたい。たった一つの冴えない答えが欲しかった。

「ふむ……」

 老人は目を細める。考え込んでいる風でもあった。やがて老人は目を瞑り、

「今際の際に、主の名を呼んでいたなあ。くく、自分で捨てた女の事をな。付け入り、騙し、裏切った相手の名を」

 これで満足か、と言わんばかりの口調で語った。山田は満足気に頬を弛ませる。嘘でも、良かった。

「そっか……」

 憑き物が落ちた気分。体が軽くなる。血が抜けすぎたのかもしれない。

「若いの、どうする? ここまで話に付き合ってやったワシをどうしたい?」

「ああ、表に人を待たせてる。蛇を止めてくれないなら、あんたを殺すしかねえな」

 老人は細めた目をゆっくりと開いていく。

「ワシを殺したところで、蛇が止まるかどうかも分からんのにか?」

「……言ったろ。付き合って貰うぜ。オレの全ての矛先は、今あんたに向いてんだ」

 山田は笑った。部屋の空気が張り詰めていく。

「ほう? 中々の昂ぶりじゃな。良かろう……」

「おう、フリーランス『神社』、山田栞だ。よろしくな、爺さん」

 ステップを踏む山田に対し、老人は未だ席を立とうとしない。余裕たっぷりに口を開く。

「円卓の奇士(きし)、第六席の青髭じゃ。お手柔らかにな」



 山田がビルの最上階に到着した頃、一は必死に入り口を守っていた。

 狭い空間。低い知能のソレ。吹っ切れた気持ち。今、一には追い風が吹いている。アイギスを持つ手に力を入れさえすれば、蛇はすぐに引いていく。二つの頭が同時に向かってくるも、互いが勢いを殺し合い、一の元まで満足に届かない。

 しかし、確実に疲労は積み重なっていく。腕が鈍い。徐々に奥へ追いやられていく。足が重い。

「や、ばっ……」

 更に、一には疑念があった。先程から浮かんでは沈む、どうしようもない考え。果たして、本当にこれで終わりなのだろうか。蛇の頭は、二つだけなのだろうか。

 八俣遠呂智。八つの頭を持つ巨大な蛇。偉大な神。稀代のソレ。

 一は山田から、オロチは出来損ないだと聞いていた。しかし、これはどうした事だ。これでは、これではまるで。

 ――本当に、八俣遠呂智では無いか。

 気のせいか、蛇の勢いが増しているように思える。一はふと、下げていた頭を上げてみた。なるほど、と。得心がいく。一の眉根が険しく寄せられる。何のことは無い。蛇の頭が四つに増えていた。しかも、あくまで一からは見える範囲での話である。もしかしたら、四つどころの話では無いのかもしれない。

「……畜生」

 相変わらず、蛇の頭は悪かった。四つの頭が功を競って一へと押し寄せる。それでも、単純に一の負担は二倍になる。二倍疲れ、二倍、持たなくなる。

 いつまで持つのか、もう分からない。一は、静かに忍び寄る何かを感じ取り始めていた。



 先手を打ったのは山田だった。

 近くにあった椅子を蹴飛ばし、老人へ放つ。避けられるだろうと思いながら蹴った椅子だったが、老人は座ったまま指を鳴らすだけ。

「年寄りなんでな、少しハンデを貰うとするぞ」

 真っ直ぐに老人へと向かっていた筈の椅子が、突如として宙に浮いた。

「何しやがった!」

 驚いた。驚いたが、今の山田にとってそんな事は大した問題ではない。叫びながら、山田は左足で老人の顔面を狙う。

 だが、その攻撃は届かなかった。蹴り付けた椅子と同じく、山田の足も宙で止められる。その上、動けなかった。

「ほほ、早いのう。素晴らしく早い。若さとは良い、じゃが、若すぎる」

 老人はスッと腕を上げる。山田の足首が締め付けられていく。見えない何か。訳が分からぬまま、苦悶の喘ぎを山田は洩らした。

「てめ、え……、何を……?」

「ワシは何もしておらんよ」

 片足を上げさせられた体勢から、山田は攻撃を試みる。必死で腕を伸ばすが届かない。足と同じく、腕も締め上げられた。

「がああっ!」

「さて、思ったより時間も掛かった。幾ら愚鈍だと言え、勤務外もそろそろ来るやもしれん。面倒ごとは迅速に潰すとしようかの」

 パチン、と。音が鳴る。



 一、二、三、四。

 止むことの無い打撃。蛇の頭は一を喰らう為に、遮二無二突進を繰り返す。

 このままではいつか死ぬ。絶対防御。不壊の盾。アイギス。だが、道具が優れていても、結局の話扱うのは人間なのだ。勿論、使い手が優れていれば道具を自在に使いこなし、そのスペックを一から十にも引き上げる事もあるだろう。

「ああああああああっ!」

 使い手が、良ければ。

 何も、一が優れていない訳ではない。曲がりなりにもギリシャで最高の、最硬の盾を使える人間なのだ。少なくとも彼はアイギスに、アテナに、メドゥーサに認められた男。選ばれるべくして選ばれた人間。

 優れている。

 しかし、肉体的な面はどうしようもなく普通なのだ。一はあくまで普通の人間。良くも悪くも、一はアイギスを行使する事によって、普通の人間より身を守る術に長けているだけ。少しだけ、生きられるかもしれないだけ。何を以てして優れ、何を基準にして劣るとするのか。とにもかくにも。一は普通の人間で、アイギスは特異な道具で、釣り合いはもう取れそうに無くて、一はもう、持ちそうに無かった。それだけは、確か。

「……うあああっ!」

 肉体は限界を越えていた。それでも一はここから動かない。逃げない。全てを『神社』に預けたのだ。思いも、願いも、命も。なぜ自分がこんな事をしているのか。任せたからだ。賭けたからだ。自分一人だけではどうしようもなかったから、一は山田に頼った。オロチを止める為に。いや、何よりも、糸原にもう一度会う為に。言わなければならない。聞かなければならない。返してもらわなければならない。伝えなければならない。いや、言いたい。聞きたい。返してほしい。伝えたい。

「……っ!」

 だから、邪魔だ。

 失せろ消えろ退け去れ()く去ね無くなれ亡くなれ死んでしまえ殺す必ず。高が、高が蛇が。高が出来損ないが。高が八俣遠呂智が。

「俺の邪魔をすんじゃねえよ!」

 ソレがたじろいだ。感情の籠もっていなかった無機質な爬虫類の瞳。赤い、赤い目。今、そこに初めて感情が宿る。

 その時、アイギスが眩く光った。一の手へと光輝は伝わり、消えていく。


 ――使って。


 誰かの声。知らない声。美しい、声。

 その声に導かれるように、一は頭の中から記憶を引っ張り出した。ハッキリとあの(・・)女神の声が思い出される。

「う、あ、アイギィィィィィイス!」

 世界が光り、変わっていく。顕現する。

 一の背後を見据え、一の背後の何か(・・・)に見られ、蛇たちは固まった。身動きが取れない。入り口付近に集まったまま、ソレは石にでもなったみたいに凍っている。

「はっ……、……はあっ、はっ……」

 一はハッキリと見た。蛇たちに浮かんだ感情。瞳に宿った、隠しきれない恐怖を捉える。そして認める。

 オロチ以上の存在、力を。

 見てしまう。感じてしまう。その姿を、あの重みを。

「……顔を見るのは、初めてだな」

 オロチとは言え、今はただの、出来損ないの蛇たちが動けなくなるのも無理はない。それ程までに彼女は美しかった。

 ――蛇姫。

 しな垂れ掛かり、一の顔を覗き込む灰色の目。彼女の腕は一を抱え、彼女の体は一を捉える。その目を見ただけで石に変えられてしまいそうな、異質な目。埒外の威圧。度を越した美は恐怖に変貌を遂げる。

 一は身を以てその事を体験した。全てを捧げ、委ね、何もかもを捨ててしまいたい。だが、耐えた。アイギスへの耐性が付いていた事もあったが、それ以上に一は彼女が気に入らなかった。この美しさが気持ち悪くて仕方なかった。自身を奮い立たせ、メドゥーサの誘惑を無視し彼女の腕を払い除ける。

「――――」

 メドゥーサは不満げに一を睨む。何事か囁いたが、声は誰にも届かなかった。

 アイギスに埋め込まれたメドゥーサが、どうして実体を成し現われたのか。何が起きているのか、一には分からない。そもそも分かろうともしなかった。

 しかし、状況を理解するより先に一は状況に対応する。メドゥーサのお陰でオロチは向かってこない。

 つまり、使える。

 一は心中でメドゥーサに命じた。問題ない。使い方は分かっている。思い出した。記憶の中であの女神に言われた事。

「――――」

 メドゥーサは笑う。怪しく、淫靡に。心得たと言わんばかりに。長い髪が顔に掛かるのも気にしないで、蛇姫はオロチを見る。

 ただ、見るだけ。それだけで蛇の頭、四つの内二つが完全に止まった。あっけなく石と化した。動けない。反応しない。何にも心を動かさない。

 ソレは石になってしまったのだから。

 体も、心も、時をも止める力。メドゥーサの美しさ。命を止める事すら、彼女の前では些末な出来事だった。

「……すげえ……」

 一は感心する。恐怖も畏怖も不安も歓喜も当てはまらない。まるで無垢な少年に戻った気分。自分よりも上のモノを見て、ひたすらに『すごい』と思うだけ。懐かしくなり、震えた。

 そう、思ったのは一だけではない。残ったソレも本能で察知していた。

 ああ、格が違う、と。

 同じソレ。同じ化け物。同じ異形。同じ蛇。なのに、明らかに違っている。コレは何だと体が震え頭が麻痺した。

「――――」

 メドゥーサは笑う。委ねろと。任せろと。

 蛇は彼女の、灰色の目を恐れ、言い様の無い感覚に駆られ飛び出していく。真っ正面に一へ向かう。

 天井が砕けた。

 一はアイギスを広げ、降り掛かる破片から身を守る。天井へと飛び込み、砕いたのは一を襲った蛇であった。真っすぐに一へと向かったソレは途中で軌道を変えた。

 ――怯えたのだ。

 頭は向かったのに、筈なのに。体が拒否した。これ以上メドゥーサに近づきたくない。だから体は上へと逃げる。その先に壁があろうと天井があろうと関係ない。一刻も早く、ソレはここから立ち去りたかった。



 パチン、と音が鳴り、その音に重なり掻き消すように、より大きな音が轟いた。

「これは……!」

 老人が部屋中に視線を走らせる。部屋が強い衝撃で揺れていた。と言うよりも、建物全体が衝撃で揺れている。

「かはっ……」

 そのショックで山田の拘束が緩んだ。片足を長机の上に付け、腕一本を犠牲にする覚悟で脱出を試みる。存外、足も腕もすんなりと抜けた。山田は老人から距離を取り、呼吸を整える。

「娘っ、何か仕掛けたのか?」

「……うるせえジジイ、てめえこそ卑怯な手使いやがって」

 座ったままの老人だったが、彼からは余裕が消えていた。形相が怒りに染まっていく。山田は少しだけ楽しくなってきた。

 未だ鳴り響く轟音は徐々に大きくなっていく。何かがこのフロアに近づいてきている様子だった。

「むう、オロチか?」

 老人は指を鳴らす。一瞬の後、部屋の壁が突如として割れた。大きく穴の開いた箇所からは外が見える。椅子に座ったままの体勢で、老人はそこに目を遣り、驚愕した。

 その視線に釣られるように、山田も外に目を配る。

「……はっ、かはは! やるじゃねえか!」

 豪快に笑うと、山田は腹を抱えた。

 老人は憎憎しげに山田を睨み、顎髭を一本抜き取る。

「勤務外めぇ……」

「残念だったな、爺さんよ。八俣遠呂智はもう終わりだぜ」

 終わりだと、そう言った時なぜか無性に虚しくなった。

 山田はもう一度外の、工事現場を確認する。雨は止む衰えを見せないで地面と四つのソレを叩き続けていた。細切れになった、四つの蛇。オロチの名残。無造作に、無作為に無意味に肉片が散らばっている。誰がやったのかは知らないが、山田には確信めいた心当たりがあった。

「さて、と」

 老人は分かっていないが、オロチはこちらに向かっている。後、数秒も経たないうちに姿を見せるだろう。その時が勝負だ。形勢は逆転しつつある。どんな裏技を使ったのか知らないが、折角一が作ってくれた見せ場だ。応えない訳にはいかない。

 気合いを入れ直し、山田はしゃがんで長机の足を掴む。今の体には少しばかり重たかったが、無理な話ではない。

「おい、爺さん」

 老人は無言で山田を見た。

「何じゃ、それは……?」

「分かんねえか? かははっ、ただの机だよ」

 長机を片手で持ち上げた山田は笑う。

「気でも触れたか、娘」

「おう。気ぐらい触れるぜ」


 床が砕けた。


 えげつない勢いで、何かが室内を通り過ぎていく。下から、上へ。床から、天井へ。突き抜けていくのはソレの長い胴体だった。

「ぬう、オロチか!?」

 老人が驚愕の声を上げた。刹那、老人の矮躯が宙を滑る。しゃがれた呻きを洩らしながら、椅子から叩き落とされ、壁に叩きつけられる。

「ぬおお――!」

「痛えかよジジイ。ま、悪く思うんじゃねえぞ。とりあえずさっきやられた分は返しといたからな」

 長机を老人に向け、片手で振るった山田は首の骨を鳴らした。

「安心しな、いたぶる趣味は持ち合わせちゃいねえ。次で決めてやる」

「くっ……」

 山田は机を振りかぶる。凄まじい風切音を聞きながら、老人は悔しそうに唇を噛んだ。

「ブラドっ、撤退じゃ!」

「ああ?」

 振り下ろしていた拳を途中で止め、山田は老人から離れる。

 黒い霧が老人の体を包んでいた。見間違えでもなんでもない。白い外套が黒く、黒く染まっていく。白が完全に黒で隠れた刹那、霧が一斉に散り、その形を一変させる。

「ちっ……」 

 それは大量のコウモリだった。何十匹と言う小さいモノがそれぞれに喧しく泣き喚き、壁の隙間、穴の開いた床や天井へと飛び去っていく。

「逃げられたか……」

 後にはもう、何も残っていなかった。山田は壁を殴り砕き苛立ちをぶつける。青髭と名乗った老人も、八俣遠呂智も、ずっと追い求め、恋い焦がれた男の影も形も、綺麗に。さっぱりに消えて失せた。

 幼い頃より言い聞かされてきた『神社』の役目も、小さな時から始まった淡い思いも、全て終わり。

「ふう……」

 か細い息を吐き、山田は壁を背にもたれ掛かり、やがて座り込む。限界だった。『天気屋』とソレから受けたダメージが、気の抜けた今になって襲い掛かってくる。気力と意地と、男への思いだけで持たせてきた体だったが、もう、そんな意味も無くなった。全部無くなったのだ。

 自然と感情が堰を切る。頬を暖かい涙が伝い、冷たい床と乾いた自分に染み込んでいく。噛み殺すような啜り泣きは、やがて嗚咽に変わった。

 ――もう、死のう。

 山田は俯いていた頭を上げる。視線の先には、男の血が染み込んだ場所。ここで死ねるのなら、あっちで一緒になれるかもしれない。子供じみた、否、子供でも笑ってしまうような馬鹿げた考え。

 しかし、山田はそれに縋った。おもむろに腕を上げ、拳を作る。幾多のソレを殺し、数多の命を奪った、自慢の拳。自分一人、ただの(・・・)人間一人を死なすには充分過ぎた。これで胸を貫けば、全てが終わる。終わらせられる。

「……何やってんですか」

 いつのまにか。気まずそうな面持ちで一はそこにいた。呆れた声で山田を見遣ると、頭を掻きながら近付いていく。

「一、か」

「その様子だと、終わっちゃったみたいですね」

「まあ、な」

 何となくだが、一には察しが付いている。恐らく、事態は後味の悪い展開で、一先ずの終わりを迎えたであろう事を。

「かはは、お前も上手い事やってくれたじゃねえか。お陰で助かったぜ」

「……? まあ、お役に立てたのなら嬉しいですね」

 なのに。山田はそんな事をおくびにも出さず笑ってくれる。

 だから一は、山田が泣いている所を見たのは黙っておいた。

「立てます? とりあえずここから出ましょう。もうすぐ勤務外(うち)の人たちも来ますから、事情を話して病院にでも連れていって貰いましょう」

「……いや、必要ねえ」

「怪我、してるじゃないですか」

 山田は視線を落とす。

「オレさ、もうどうでもよくなっちまった」

「栞さん……」

「一、お前はまだ終わってねえだろ。あの女はどうした?」

 一は何か言いたそうだったが口を噤んだ。

「なら、行けよ」

「……分かってます。だけど、あなたを連れてってからだ。俺の目の前で死なれても困るんですよ」

「……お前に止める権利があんのかよ?」

 なら。そう、一は呟く。

「どうして……。どうしてあの時(・・・)、あなたは俺を止めたんです?」

 山田は口をポカンと開け、目を瞑ってから観念したように笑った。

「分かった、分かったよ。勤務外が来るんだな? そいつらに訳を話して医者に行きゃ、一はそれで満足か?」

「ええ。じっとしてて下さいね」

「おう」

 一は満足そうに微笑み、山田に背を向けた。

「なあ、一」

「何ですか?」

「オレ、お前の事好きだぜ」

 一は振り向かず、

「ありがとうございます。俺も山田(・・)さんの事好きです」

 部屋から立ち去っていく。山田はその姿を見届けると、大の字に寝転がり笑う。

「かはは、また振られちまった」

 その笑いは、やはり豪快な物であった。

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