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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
やまたのおろち
70/328

突き過ぎた藪

「あんのバカ……!」

 自分が折角忠告してやったというのに、しこたま殴りつけてやったというのに、そいつはそこにいた。ソレに立ち向かうにしては、あまりにも力不足な、頼りないモノを持って。一は角材の感触を確かめるように素振りしている。今から草野球でもしに行くかのような、気軽い雰囲気で。

 糸原は物陰から一を睨み、歯軋りして、スーツの内ポケットから携帯電話を乱暴に引き抜いた。

『……どうした』

 程なくして、冷たい声が聞こえてくる。

 糸原は深呼吸してから、

「作戦変更よ私が出るわあの勤務外には頼れないからねオッケー? ちゃんと援護してよね」

 一気に捲くし立てた。

『いや、このまま待つぞ』

 ピクリと、糸原の眉が動く。

「あー、ちょっと早口過ぎた? あの勤務外はね、もう駄目。戦えないの。だから、私が出るしかない。分かった? 分かってくれた? 分かってくれたわよね?」

『それでも、囮ぐらいには使えるだろう』

「……本気で言ってるわけ?」

『それは俺の台詞だ。わざわざあの男と揃って食われるつもりか?』

「んなつもりも趣味も無いっつーの」

 わざとらしく溜め息を一つ。

「あんたが何と言おうと、私は動く」

『そうか。ならばあの男を撃つしかないな』

 糸原の聞き間違いじゃなかった。

「何ですって?」

『あの男を殺すと言ったんだ』

 まただ。勝手に糸原の呼吸が乱れ始める。鼓動が早くなる。喉が渇きだす。

『相棒、お前の様子がおかしい事には気付いていた』

 長雨は続けた。

『お前と再会して、俺は随分と驚いたぞ。あの(・・)女がここまで丸くなるものかと、変わるものなのか、とな』

「私は……変わっちゃいない」

 苦虫を噛み潰したような糸原の表情。自分の顔も、長雨はスコープ越しに覗いているんだろうと考え、糸原は更に顔を歪ませる。

『いや、変わった。俺が言うんだ、間違いない。微笑ましいぐらいに人間らしくなったじゃないか。育ての親として少しばかり鼻が高くなるな。こんな俺でも人間を一人育て上げられるのか、なんてな』

「あんたなんかに育てられた覚えは無いわ……!」

 フッと、電話越しに哂われた。

『お前の糸も、意図も、誰がそこまで叩き込んでやった?』

「うるさいっ」

『答えろ、四乃。親に捨てられたお前を拾ったのは? 名前を付けてやったのは?』

「頼んでないでしょうがっ!」

 このまま電話を握り潰してやろう。糸原は力を込める。モノが軋む音が長雨にも伝わった。

『その電話も、俺が渡したものだろう? タルタロスで取り上げられなかったようだな。これは驚きだ。くくっ、最近は驚かされ続けている。俺もまだまだ勉強が足りないなあ』

「黙って私に従えってのよ!」

『お前を変えたのは誰だ?』

 思わず、糸原の体が硬直する。芯まで底冷えさせられ、体が震えた。

『答えろ。お前を変えたのは誰だ?』

 答えられるはずが無い。

「私は私よ! 私のまま!」

 なるべく冷静になろうと試みるが、すぐそこにある絶望が邪魔をしている。糸原は話題を逸らそうと必死に努めた。

「……とにかく長雨、そろそろね、私も立ちっぱなしは飽きてきたの」

『都合の悪い事からは話を逸らす、か。話術は進歩していないな。そうか、そうか』

「長雨?」

『気に入らないな。手塩にかけて育てたモノを横取りされた気分だ』

 その言葉に、糸原の胸糞が悪くなる。

「私はあんたの物でも、誰の物でも無いわ」

『ああ、そうだな。撃つか。勤務外だな。勤務外がお前を変えたんだな。あの男か、それとも別の誰か。少しばかりむかむかして来た』

「違うわ。けどね、私の指示を無視する気なら、私にだって考えがあるわよ」

『いつから俺に指図できるようになったんだ、羊飼い?』

「押し問答してる時間は無いの。切るわ」

 糸原は無益な通話を終了すべく、ボタンに手を伸ばした。

『切れば撃つ』

 指が止まる。止められる。たった一言で。

『見えてきたぞ、やはりお前を変えたのはあの男のようだな』

「はっ、何が見えてきたって? 老けたんじゃないの、長雨」

『男を撃つ。お前が勝手な真似をすれば撃つ。電話を切れば撃つ」

「乱暴ね」

 皮肉を込め、敵意を込める。

『嫌いじゃないだろう?』

 軽々と皮肉で返され、糸原の眼光が鋭くなった。

「あんたの、そういうふてぶてしいトコは嫌いじゃないけどね」

『くくっ、アレがそんなに大事か? 一体どんな話術、魔術、技術を使われればお前がこうまで甲斐甲斐しくなるのか。気になるなあ。あの男には、俺にも是非ご教授願いたい』

「……どうすれば良いってのよ?」

 埒が明かない。このままでは、このままでは。

『大人しくしていれば良い。そら、状況開始だ』

 何気なく、糸原はソレの方へ目を遣った。



 蛇の頭がビルの入り口から現れる。一はアイギスがまだ蛇に刺さったままなのを確認して、まずは一息吐いた。もしもアイギスがオロチの飼い主とやらに奪われていれば洒落にならない。持っている角材ではどうにも頼りない。

「……きやがれってんだ」

 蛇は一に答えるかのごとく、鎌首をもたげた。高い位置から獲物を見下し、細長く甲高い威嚇音を発する。口を大きく開くと、獰猛な牙が顔を覗かせた。

 まずは攻撃を避けなくてはいけない。一は蛇から距離を取るように後ずさる。

 獲物が怯んだところを見るや否や、蛇はそれへ食らいつくべく飛び掛った。一は持っていた角材を投げつけ、蛇の右方向から回り込む。狙いはアイギス。蛇は角材など殆ど意に介さず、真っ直ぐ向かった。しかし、一にとっては一瞬でも蛇の狙いが逸れれば良かった。間一髪と言うところだが、蛇の大口は空気と泥と雨だけを飲み込む。一はアイギスの柄へ手を伸ばし、思い切り引き抜こうとした。

「だああ!」

 だが、引き抜けない。雨でぐちゃぐちゃにぬかるんだ地面の所為か、踏ん張りが利かないのだ。時間もチャンスも、もう訪れないかもしれない。そう判断した一は柄を握ったまま、蛇の体目掛けて飛んだ。ソレの体に突き刺さったままのアイギスを支点にして、一はバランスを崩しながらも着地する。

 蛇は一を振り落とす為に体を揺すった。泥がそこかしこに跳ね、一と蛇の体を汚していく。

 泥が目に入りそうになったので一は思わず目を瞑った。蛇の縦横無尽な動きが一を揺さぶる。えげつないロデオ。落ちれば食われてそこで終わり。必死にアイギスにしがみ付き、声にならない声を上げ、耐え続ける。

「返せっつーの!」

 靴底に付いた泥を蛇の鱗で削ぎ落とし、眼下の地面よりは踏ん張りが利くようになったところで一はもう一度力を込めた。さっきまではビクともしなかったアイギスが少しずつ抜けていく。もう一息。

「――――――ッ!」

 痛みに耐えかね、蛇が今までに無い動きを見せた。体に乗った異物を振り払う為と言うよりか、どうしようもなく体を只管に震わせるような、本能から来る動き。一は対応できずに足を滑らせた。アイギスの柄を掴んだまま、片足を宙に遊ばせる。必死に足を伸ばすが、もう蛇の動きは捕らえ切れない。

「あと少しっ……!」

 無理な体勢から、一は根限り力を込める。

「――――!」

 届かなかった。蛇の頭が上下に揺れて、一は中空へ投げ出される。叫びは雨音より小さかった。一の視界が灰色の雲とビルだけになり、すぐに転換。地面と蛇の体を視界の端に捉えつつ、地面に叩きつけられた。腹を見せた状態では受身も取れず、緩やかにワンバウンドしてから体を大の字に伸ばす。

「いたい……」

 情けない声。動けない。動かしたくない。もしかしたら、今度こそ骨でも折れたんじゃないかと、雨に濡れて唯でさえ冷たい体に冷や汗が流れる。

 すぐ傍には蛇の体が見えていた。恐怖を感じながら、一はそれでも動けない。

「……くそ……」

 蛇は未だ体を揺すって、地面に擦り付けて痛みを逃がそうと苦心している。立つなら今しかない。一はおっかなびっくり体を駆動させていく。

「お」

 動いた。動ける。まだ動ける。

 今日が雨で助かったと一は思った。地面がぬかるんでいなければ、衝撃が吸収されずに固い土へ強かに打ちつけ、本当に骨でも何でも折っていたのかもしれない。

 ツイてるのか、ツイていないのか。ともかく、一の手元には角材どころかアイギスが帰ってきていない。何も無い。徒手空拳じゃアクションを起こす気にもなれないが、そこらの角材を掴んだところで結果は変わらない気もしていた。

 もう一度飛び乗るしかない。

 手詰まりではないが、恐ろしくさじを投げたくなる状況に一は追い込まれていた。

 それでも、一は絶望していない。

 悲観もしていない。悲壮感などここにはない。

 落胆も失意も失望もない。断念も観念も諦観こそしていない。

 どうせ、自分が出来る事は限られている。選択肢など端から存在していない。こと、戦闘行為に関しては、自分が成しえる事など絶無だと、理解していた。

 一一には、殆ど何も無い。能力も武器も意思も信念も信仰も戦術も戦略も皆無だと、そう信じていた(・・・・・)

 自分にある物は借り物の力と、ほんの少しの願望。向こう見ずな勇気。命知らずと謗られても、無考えと哂われても、無茶でも無謀でも何でも良い。

 何故なら。

 一は蛇に向かって歩き出す。唇の端が何故か釣り上がった。頭を打った覚えは無いが、どこかおかしくなったのかもしれない。それでも良いやと一は笑った。

 鬼灯の様に赤く染まった二つの瞳。正面から向き合い、一は照れくさそうに頭を掻いた。

 蛇は狙いを定め、舌を覗かせ牙を尖らせ口を開いて歓喜に酔う。もうすぐ自分を手こずらせた獲物を食える、と。あと少し、もう少し食べれば、なれる。なれる。なれるのだ。本物のオロチに。日本神話唯一と言っても良い蛇神の力を手に出来る。あの、八俣遠呂智に。

 一は笑う。

 力は無い。ソレを一人きりで殺しきるなんて有り得ない。

 武器は無い。女神から盾は借りているが、奪われたまま。

 意思など無い。糸原、と。名目はあったが、流されるままにここに来たような物だった。

 戦術も戦略も作戦も戦法も、何も知らない。薄っぺらな、向こう見ずな勇気だけ。

 だから、もう良い。要らない。

「お願いします」


 吹っ飛んだ。


 ソレが何かに横合いから殴りつけられ、工事現場の一番端、ブロック塀まで飛ばされた。蛇は体を薙ぎ倒され、ブロックを破壊しながらけたたましく啼いた。耳を劈く破壊音と衝撃音。ソレの頭はブロック塀の下敷きになる。

「うわ……」

 一は思わず呻く。

「はじめぇ! 大声出せつったろ!」

 蛇の長い胴体を踏みしだきながら、袖の破れた白い小袖、緋袴を身に纏った女が現れる。女の短い銀髪は雨を弾いていた。その様子に一は少し、見惚れる。

「……ああ、はい」

「はいじゃねえだろ。おら、怪我ねえか?」

 ――山田栞。『神社』。八塩折の切り札。破戒巫女。

「無い、と思います」

「……よく持ってたな(・・・・・)。出来損ないとは言え、ありゃオロチだぜ? 並の神経してねえんだな、勤務外ってのもよ」

「褒めてくれてます?」

 山田はぶっきら棒にそっぽを向く。

「褒めてやるよ。古今東西、あんなのに夜討ち不意打ち何も無しで突っ込む奴はそうはいねえぜ? どっかが壊れてるか、そもそも元から無いのか、人間にしとくにゃ勿体無いな」

「……褒めてないですよ」

「うるせえ。しっかしまあ、アレだ。認めてやるぜ勤務外。惚れちまいそうだぜ、一一」

「そりゃどうも。そいじゃ俺は休んでおきます」

 一は山田に背を向けた。

「おいおい。八塩折の酒(オレ)が来て、スサノオ(おまえ)がいるんだ。蛇退治はこっからじゃねえの」

 グッと、山田は一を逃がすまいと肩を掴む。非常に痛かった。

「十束の剣なら持ってないんです。あいつに取られちゃいましたよ」

「あー?」

 一はソレの頭を指差す。山田もつられてそこに目を遣った。

「あー、あーあーあー、成る程な。ありゃ鱗にでも引っかかってんだろ。よっしゃ、まずはあの傘取り返せば良いんだな」

「くれぐれも丁重に。ギリシャのそこそこ(・・・・)良い盾なんですから。女の子を扱うように優しくお願いしますね」

「任せろよ男前」

 豪快に笑って、山田はソレの元へと駆け出した。

「任せたぜ男前」

 何も無くて良い。一はとみにそう思う。

 自分には何も無くて良い。力も技も武器も意思も、要らない。仲間がいれば良い。代わりに戦ってくれる人がいれば良い。一緒に死んでくれる人がいれば良い。だから、自分に見せ場はいらない。何もいらない。



 何故だか悔しかった。無性に腹が立った。何も出来ない自分にか、自分以外の人間を頼ったあいつにか。理由は分からない。とにかく、釈然としない。

『あいつか。行動不能に追い込んだ筈だが』

「……自慢じゃないけど、骨もイかせたし、内臓も潰した筈よ。私がね」

 語尾を強め、糸原は得体の知れない苛立ちを長雨にぶつけた。

『ふん、こうなってしまえば、お前を突っ込ませておいても良かったな。神社が来てしまった、となると手間が掛かりすぎる』

「二回トリガーを引くだけじゃない」

『違う。単純に捉えればそうだが、そうではない。あの男一人ならばどうにでも出来たが、二人になると話は変わってくる。一発、ないし殆ど連射で仕留めなければ俺の位置が割り出される。自慢じゃないが、接近戦は苦手なんだ』

「はっ、臆病風吹かせるからよ。で? どーすんのよ。このまま見とくだけ?」

『そうだな。ソレを倒して気が緩んでいるところに撃ち込むとするか。神社ならば、手負いだとしても倒しきるだろう。有り難い話だ』

 ハッと、糸原は鼻で笑う。

「そこまでやりゃ臆病者も充分立派よ」

『と言う事でだな、相棒、戻って来い』

「……そう、ね」

 一先ずは安心だろう。納得はしていないが、『神社』ならばそこそこは安心だ。それに、自分が長雨の傍にいれば何かしらの牽制も出来る。

「分かったわ」

『安心したか?』

「何がよ?」

『奴が撃たれなくて、安心したか?』

 冷たい。どこまでも冷たい声だった。

 糸原は返事をせずに通話を切る。さっきまでは気にならなかったのに、やけに雨が鬱陶しくて、冷たくて、悲しかった。



「おらあっ!」

 山田の拳が蛇の胴体に減り込む。蛇は啼き、赤子の様に喚いて体を捻らせ捩じらせる。もはやそれは悲鳴だった。

 戦闘は激化している。

 一は離れたところで山田とオロチを見ていた。圧倒的だった。山田は、只管に強い。どうしてこんな人が糸原に負けたのだろうかと、疑ってしまうほどに。オロチはまだ出来損ないだと言っていた。それでも、それでもやれるものか。ここまでやれるものなのかと、一は震える。

 そして思った。

「栞さん! 俺の傘!」

 早くアイギスを。未だ原形こそ留めているが、蛇の激しい動きで根元から。何てことも有り得るかもしれない。実際、そんな事は起こり得ないだろうとも思ってはいたが、どう見てもただのビニール傘のそれを見ると、どこか、そんな普通めいた考えも湧いてきてしまう。

 一の不安を知ってか知らずか。山田は傘の事など忘れたかのように拳を振るっていた。無茶苦茶に、滅茶苦茶に。狙いなど知った物かと、ただ、ただ拳を振り上げ、振り下ろす。無暗に、矢鱈に。

 蛇は拳を食らい、鱗を剥がされ、肉を捲られ、時には骨を砕かれる。その度に奇声を上げ、啼き、喚いた。

 圧倒的。

 少しばかり、一はやり過ぎだと思ってしまう。無論、蛇に対して何の情けも持ってはいなかった。だが、それでも。

「……何で」

 どうして、山田はあんなに怒っているのだろう。一はどうしてか分からないが、そう思った。



 憎い。憎い。憎い。

 こいつが、こんな奴がいなければ、いなければ、あんな事には、こんな事には。

「あああああああああ!」

 既に蛇は動きを止め始めていた。生命力が人間よりも幾分か優れていようが、こうまで痛めつけられては動く気すら起こらないのだろう。真赤な瞳は力無く、虚空を見つめている。

「栞さんっ!」

 自分を呼ぶ声が聞こえた。そこで山田は我に返る。拳を下ろし、肩で息をしながらソレを見遣った。もう、蛇は抵抗しない。ヤマタノオロチの出来損ないは動く事を諦めている。

「……いけねえ」

 山田は無造作にアイギスを引き抜いた。傷口から血が溢れ、鱗が剥げたが、蛇はもう呻く事すらしない。

「栞さん……」

「おらよ」

 近付いてきた一にアイギスを放る。一は両手でそれを受け取った。

「死んでるんですか?」

「いや、まだ生きてるけどよ。生きてるだけだな」

「生きてるだけ、ですか?」

 一は訝しげに尋ねる。

「ああ、放っといても良い。飼い主を探すぞ」

 山田はビルを見上げた。一も倣い、同じく見上げる。

「馬鹿と煙は何とやら、ですか」

「ただの馬鹿なら良いんだけどな。相手はとびきりの馬鹿だ。気を付けろよ」

 呟くと、山田はビルの入り口に足を踏み入れた。

 一も続く。建物内は電気など通っておらず、薄暗かった。色濃い闇が視界を狭め、足を踏み出す気力を挫く。瞼を閉じ、無理矢理に目を慣らそうとした。

「上だな」

「上、ですか」

 ヘッと鼻で笑うと、山田は階段を顎でしゃくる。

「濁ってやがる。上に行くほどにな」

 何が、とは聞かなかった。分かってしまった一は、黙ってアイギスを握る。

「オレの前に出るなよ」

 頷き、一は山田に続いた。

 ――失策。

 最初にそう気付いたのは一だった。何かが砕ける音。弾かれるように振り返る。

 居た。

 一たちが入ってきたビルの入り口。そこから大きく、ソレ自身の、顎の関節を最大に開けた口が見えた。

「一ッ! 下がれ!」

 間に合わない。獲物を飲み込むべく、大穴が一らに襲い掛かる。

 そこには二つ、口があった。皮も鱗も引き裂かれた、見るも無残な蛇の頭と、その頭からまっさらな頭が生えていたのだ。二つの分かれた、首が。二俣の、オロチ。

 蛇の生命力を、生きようとする気概を、死にたくないという執念を山田は甘く見ていた。一もまた、油断していた。

 そう、執念深いモノを例える時に使われる生き物。

 ――蛇。

 蛇はまだ、死んでいなかったのに。



 長雨は笑った。あまりにも楽しそうに。あまりにもおかしそうに。あまりにも、嬉しそうに。

「気持ち悪いわよ、何笑ってんの?」

 咎めるような糸原の口調。だが、長雨は気にする風でもなく、スコープを覗き続ける。

「腐っても蛇。八俣遠呂智は力を取り戻しつつあるらしいな」

 ビルに戻ってきた糸原は、濡れた髪の毛を手櫛で整えていく。

「……説明を求めるわ、私にも分かるようにね」

 クククと、怖気の走る笑い声。糸原は身震いを隠す。

「狂ってきたんだよ、予定がな。あのフリーランスと男。五体満足じゃ出てこられんな。いや、そもそも満足な部位が残っているかどうか……」

「蛇は死んだんでしょ? そう言ってたじゃない」

「アレはただの蛇じゃない。とっておきの悪意が込められた、とびきりの悪意だ」

 糸原は舌を打つ。やっぱり、か。

「狂ってんのは、誰かしらね」

 恐らくは目の前の男。長雨は何かを知っている。もしかしたら全部知っているのかも知れない。何も知らないのかも分からない。だが、糸原は直感した。

 ――天気屋はもう終わり。

 レージングを構えると、糸原は長雨から距離を取る。

「タイミングが良すぎるのよね」

「藪から棒だな」

 長雨はスコープから視線を逸らさない。

「あの電話も、あの蛇も、あのフリーランスも」

 自分の、気持ちも。

「何もかも、あんたの掌に纏められてる。動かされてる。これは私の勘違い?」

「勘に頼るなと教えた筈だ」

 空を切り裂く風切り音。

「……何の真似だ」

 長雨のすぐ傍の、コンクリートの壁が削り取られる。

「あんた、何を知ってるの?」

 長雨は一向に視線を逸らさない。

「やはり、あの男を撃つべきだったな」

「……じゃあ撃てば?」

 そこで初めて、長雨が糸原に視線を寄越した。

「言ったろう。俺は、殴り合いは好きじゃない」

 そして穏やかに笑みを湛える。

「平和的に解決しようや、相棒。そう、天気屋らしく、な」

 長雨が取り出したのは、銀色に輝く一枚の硬貨。それを見て、糸原も笑った。

「私がタルタロスにぶち込まれた時の?」

「ああ。あの時にコイントスで使った百円玉だ」

 裏か、表か。

 たったそれだけの事で。全てを決められる。

「安い命だ」

「はっ、百円? そんなんで先を決められるだなんて――」

 糸原はコインを長雨から受け取り、

「――勿体ないくらいよ」

 指で中空目掛け弾いた。

「裏だ」「表よ」

 やがて、コインは糸原の手の中に吸い込まれる。

「あの時も、俺は裏を取り、お前は表を取ったな」

 まるで勝ち誇るように長雨は口元を吊り上げた。

「あの時は、私が地獄を見て、あんたが地獄を見ずに済んだっけね」

 目を瞑り、糸原は静かに微笑む。

「四乃、分かってるな? 俺たち天気屋の意見が割れた時には……」

「……覚えてるわよ。『運に頼れ』ってね。けどさ、私としては勘と運の違いってのを教えて貰いたいところなのよね」

「ふん、百円以下の安い自分なんざ信じるなって事だ」

 あっそ。短く呟き、糸原は外の景色を見遣った。蛇がざわめき、蠢いているのが見える。あのビルの中に、あいつはまだ居るのだろうか。

「さて、確認しておこうか。コインが裏なら、お前は俺の言う事を聞く。表ならば、俺がお前の言う事を聞く。問題は?」

「無いわ」

「そうか。先に言っておくが、俺は、お前を俺の物にするぞ。一生。死ぬまで俺の傍に居ろ。そう言うつもりだ」

「へん、あっそ」

 糸原は手を広げる。銀の光が煌いた。



 雨が、降り続く。

 彼女は雨音に耳を傾けた。少しだけ、振り返る。

 身寄りの無い、親に捨てられた自分。拾ってくれた男。名前を付けてくれて、育ててくれた男。天気屋としての、相棒。裏切る事と騙す事でしか、彼女はこの世を生き抜けなかった。それ以外の方法を、知らなかった。

 だけど、彼女は知ってしまった。気付いてしまった。

 だから、彼女はもう。



「残念、私は誰の物でも無いし、誰かの物になるつもりも無いわ」

「表、か」

 コインは、表だった。糸原は内ポケットにそれをしまい込む。

 長雨は厭世的に笑う。彼もまた、直感したのだ。

「……あんたにゃ少しぐらいは感謝してるわ。けどさ、もう私裏切りたくないのよ。もうね、しんどい。疲れた。限界」

「傘の男、助けるのか?」

「裏切ったり殴ったり詰ったり。滅茶苦茶にしてやったけどね、へん、知らないわ。私の好きなようにやらしてもらうんだから」

 そうか。それだけ言うと、長雨は床に腰を下ろす。

「我儘に育ったものだ。間違えた、かな。折角の右腕を手放してしまう事になるとは」

「駒の間違いでしょ。新しくパートナー見っければ?」

「さて、自信が無いな」

 笑い飛ばし、糸原は背を向けた。前を向いた。

「そいじゃ、行くわ。生きててもその顔、もう見せないでよね」

 糸原はポケットから携帯電話を取出し、床に滑らせる。高く、乾いた音が室内を占拠した。

「四乃、愛している」

「聞こえない」

 それだけだった。糸原は駆け足で室内から、このビルから、長雨の元から立ち去ったのだ。

「さて……」

 随分とあっさりした再会と別れ。ここまでお膳立てして貰ったと言うのに。

 痛い。しかし、長雨は心のどこかでは、これも良しと納得している。雛鳥の巣立ちを見送る親の気分。恋い焦がれたヒトを達観して見送る気分。これも人生。これが別れ。これで良い。

それに、自身が生きているならばまだ機会は残されている。一人ほくそ笑むと、長雨は事の顛末を見届ける事に決めた。


 チャンスをくれた、あの男への礼儀として。


 ああ、雨はまだ降り続けていた。

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