盲信者、蛇に怖じず
雨はもう、止まないのかもしれない。
一は背中で地面を感じながら、降りしきる天水を体で受けていた。殴られた所がズキズキと痛む。吐き気がするし、鼻からは血が出ていた。口の中に鉄の味がじんわりと広がっていく。呻きながら上半身だけを起こす。
「はっ、ははっ……」
何故か一は笑ってしまった。糸原にここまで手酷くされた事についてなのか、服がずぶ濡れになった事についてなのか、それとも、ここまで自分を痛めつけた糸原を恨む事の出来ない自分についてなのか。何がおかしかったのか、自分でも分からない。あるいは全部。あるいは全部違うのかもしれなかった。
「貴様はマゾヒズムの傾向があるらしいな、一一」
「糸原さんはどこに行った?」
一のすぐ傍には、スーツ姿の春風麗がいつの間にか立っている。細長い手足に腰まで伸ばした長い髪。傘も差していないのに、春風の体は殆どと言っていいほど濡れていなかった。
「何故、抵抗しなかった?」
「俺が知るか」
「そうか。やはり私と貴様は似ているな」
無感情に、無表情に春風は言う。
「……どこがだよ?」
「言ったろう。私も貴様も、一人になるのが嫌なんだ。そのくせ、他人の事を心から嫌って、心から信じない。歪なのさ。形が悪く、酷く終わっている」
「そういや、お前は『天気屋』の事も言ってたな。知ってたのか?」
「全部は知らん。だが、一一。貴様の知りたい事を私は知っている」
「糸原さんの事も、知ってたのか?」
「貴様がそれを知りたいのであればな」
一は深く溜め息を吐いた。息を吸い込み、吐くだけで喉が痛む。
「……なら、あの人が今どこにいるのか教えてくれ」
「また殴られに行くのか」
「場合によっちゃ、そうなるかもしんないな」
「一一、貴様はどうしたいんだ? それとも、糸原四乃にどうして欲しいんだ?」
分からない、そう言って一は立ち上がった。落ちていたアイギスを拾い上げ、口内に溜まっていた血と唾液を地面に吐き捨てる。
「貴様らは付き合っていたのか?」
「多分、違うと思う」
一は多分、違うと思った。
「一方的に好きだったのか?」
「そうかも知れない」
一はそうかも知れないと思った。
「糸原四乃は、貴様にとって何なんだ?」
「分からない」
一には分からなかった。
「歪な、家族ごっこだそうだな。貴様はまた、戻りたいのか? 繰り返したいのか?」
「うん」
春風は「そうか」と呟き、内ポケットから、徐に携帯電話を取り出した。
「一一、駒台にヤマタノオロチが現れた。未だ不完全の、ただの巨大な蛇としてな」
「……そっか」
「今では使われていない、建設途中のビルが連立する地区だ。貴様も知っているだろう、北部の商店街を抜けたところだ。その内の一つの建物から、先ほどソレの存在が確認された。つまり、今回は南の出番が無いと言う事だ。現在動いているのは、フリーランスだけ。『天気屋』、辛うじて『神社』か」
「お前……?」
「さて、ここに電話があるな? 私はオンリーワン近畿支部情報部二課実働所属、春風麗として北の連中に伝えてやらねばならん。『死ね、勤務外ども』とな。相手は出来損ないとは言え日本神話の怪物だ。時間を掛ける道理は無い」
「今日は、三森さんだ」
呆然と、一は呟く。
「そうなればどうなるか、分かるだろう?」
一の考えうる中でも、それは最悪だった。勤務外の三森とフリーランスの糸原がかち合う事になれば。
「そこで、だ。一一、貴様に時間をやろう」
「は、はあ? お前何言ってんだ?」
「今の事態は、私にとってはある程度望ましいのだ」
「……お前も一応、オンリーワンの人間だろ……」
「それ以上に、私は三森冬が嫌いだ。お前が出張り、事態を掻き回す事になれば北駒台にもフリーランスにも、強いて言えばソレにも打撃を与えられるかも知れん」
春風は携帯電話を弄びながら、やはり無感情に言った。
「先に言っておくが、私は戦闘に手を貸さん。南の連中も動かん。私が連絡をしなければ、基本的に勤務外も動かん。どういう意味か、分かるか?」
「俺は別に、戦いに行くわけじゃない」
「それでもだ。貴様の味方はいないと言う事だ。一人で、一人で貴様は動かなくてはならん。ソレを倒すのか、糸原四乃をどうするのか、何をするのか。何をするにしても、貴様は一人だ」
「何度も言うなボケ」
「交渉と行こう、一一。私が与える物は時間だ。邪魔の入らない時間を作ってやる。貴様が一人で場を掻き回す為のな。では、貴様は何を与えてくれる?」
一は唾を吐き捨て、傘で意味も無く地面を抉る。
「……俺がお前にやれる物なんて何も無い。お前には何かあげようって言う気もねえ。先に言っとくぞ、俺はお前の事が好きじゃない」
「奇遇だな、私もだ」
「でもな。お前が俺に時間をくれるってんなら、俺にあいつらを掻き回して欲しいってんならやってやるよ。何もやらねえんだ、期待にぐらい応えてやるよ。ギブアンドテイクだ。お互いがお互いの事を嫌いで。けど、噛み合っちゃいるんだ。だから、それ以上は負からない」
「ふん、立場を弁えていない様だな」
「……俺を使える人間じゃねえよ、お前」
一は笑う。ハッタリだった。
「良いだろう、今から三十分作ってやる」
「作るってな……。電話しないだけだろ?」
「その通りだ。だが一一、貴様は電話をしないだけで三十分稼げるのか?」
詭弁だ。だが一は何も言わない。
「期待はしていない。精々張り切ってくれ」
「分かってるよ。とっとと失せろ」
「ふっ、走れ臆病者」
一が視線を地面に落とすと、その隙に春風の気配は無くなった。服はずぶ濡れ、顔は血で汚れ、体には鋭い痛み。確かにマゾかも知れない、と。一は妙に納得する。
雨は駒台の街を打ち続ける。落ちた水は建物と言う建物に染み込んでいく。上から下へ。
駒台の街、北部。今は使われなくなった、廃墟と化したビル。連立したその中の一つ、フリーランス『天気屋』はいた。
飽きもせず外を眺める黒い瞳。『天気屋』の片割れ、長雨はコンクリートの隙間を覗きながら呟いた。
「止みそうに無いな」
「そうね……」
長雨の対角線上、糸原は壁に背を預けて佇んでいる。光の差し込まない室内なので、彼女の表情は伺えない。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
「別に。すこぶる快調よ」
「……相棒、ただの買出しにしては時間を食っていたようだが?」
「立ち読みしてたのよ」
糸原の様子に不審な点は無い。だが、長雨には、「不審な点が無い」と言う事が引っ掛かった。今回の仕事は今までの獲物とは比にならないぐらい大きく、強い。ヤマタノオロチを狩るに当たって一切の憂慮を断ち切っておきたかった。
「やる気はあるんだろうな」
「うっさいわね、ちゃんとあるわよ。無くてもこんなちょろい仕事、どうって事ないしー」
「ならば良い。『天気屋』の評判を落としたくないからな」
長雨はコンクリートの隙間から隣のビルを眺める。ビルとは言っても、今長雨たちが居るのと同じく、とうに人の手が入らなくなった廃ビルだ。
「フリーランスが他人の目ぇ気にしてもしょうがないと思うけど?」
「俺はそうは思わん。名前が知られてるだけでも、幾分か動きやすくなる」
「……あんた、おかしいんじゃない? 名前知られてる方が動きにくいに決まってるわ」
朽ちた建物。隣のビル。長雨は何度もそれを見る。確認する。ソレを見る。
「そうか、お前はタルタロスに居たのだったな」
事も無げに長雨は言った。
「あんたが送ったんじゃない。私を裏切ってね」
糸原が長雨へ一歩だけ踏み込む。
「ふん、俺に裏切られたのが悲しかったか?」
「冗談。舐めた事言ってると後ろから切り刻むわよ」
「おかしいな、前衛はお前の役の筈だぞ」
長雨は視線を糸原に移し、目だけで笑った。糸原は肩を竦めて見せると、それ以上は何も言わず、内ポケットから取り出したグローブをはめる。糸を使う際に自身の指を傷つけない為の、グリップ力上昇の為の、オープンフィンガーグローブ。
「長雨、手筈は?」
「いつも通りだ。俺が狙撃してソレの注意を逸らし、隙を作る。出来た隙にお前が飛び込め。何も変わっちゃいない。いつも通りだ」
「了解。いつ仕掛けるの?」
長雨はスーツの袖を捲くり、腕時計で時刻を確かめる。
「同業者の邪魔は入らないが、勤務外がいつ出張ってくるか分からん。俺のライフルの手入れが終わり次第開始する。お前は現場へ向かっていろ」
「オッケ、なるべく早くしてよね」
「ああ、なるべくな」
糸原は体を伸ばしてから階段を降りていく。
その足音を聞きながら、長雨は一人ほくそ笑んだ。非常に、酷薄な笑みだった。
手にはアイギス。既に止まっているが、鼻からは血。腕は痛む。足も腹も頭も痛かった。服はぐちゃぐちゃ。雨で濡れ泥で汚れ血に染まっている。だが、そんな事はどうでも良かった。一は歩き出す。
「おい」
振り返らなくても、一にはその声が誰の物か分かった。
「……栞さん」
「だから言ったろ、煙草なんて百害あって一利なしだってよ。お前、煙草吸うたびに毎度毎度そんなんなっちまうのか?」
「煙草は関係無いですよ」
乾いた、一の苦笑。
山田は舌打ちして一の肩に手を置いた。
「お前、どこに行くつもりだ?」
「ちょっとそこまで」
「はぐらかすんじゃねえ。一がどこに行くのか、オレにだって何となく分かってんだ」
「流石フリーランス、鼻が良いんですね」
「馬鹿野郎、オレは今風邪気味なんだよ」
一は肩に置かれた手を払いのける。
「そんな人を連れて行くわけにはいきません」
「お? 心配してくれてんのか?」
「……そうです」
「かはは、オレも舐められたもんだ。お前みたいな弱っちい奴に心配されるとはよ」
豪快に笑ってから、山田は再び一の肩に手を置いた。一の顔が苦痛で歪む。
「……おい、大概にしろ。風邪気味だろうが骨が何本折れてようが、内臓潰れてようが、それでもお前よりオレの方が強いんだぜ?」
一の骨が軋んだ。山田は徐々に力を込めていく。
「言え。オロチはどこにいやがる」
「し、知りません……」
肩を潰す勢いで、山田は一の肩を容赦なく掴んだ。
「アレはオレの獲物だ。手ぇ出す気なら、ここでお前を潰す」
「ほ、本当に……、ただの身内なんですか?」
「んだと?」
山田の手から一瞬力が抜ける。その一瞬で一は山田から逃れた。
「本当に、ただの元『神社』なんですか?」
「誰の事言ってやがる」
「あなたが、殺そうとしてる相手ですよ」
「……ああ、ただのイカれ野郎だ。それがどうしたってんだ」
一は首を振る。
「違う気がする。その人、本当にただの『仲間』なんですか? 本当に、ただの『身内』なんですか?」
「そう言ってんだろうが!」
「じゃあ、どうしてそうまでなれるんです?」
山田は思わず口をつぐんだ。
「骨が折れてまで、内臓が潰れてまで、そうまで必死になって、本気になって。どうしてですか?」
「お前には、関係ねえだろ……」
「答えてください」
「関係ねえって言ってんだろ!」
一は動じない。
「答えて下さい。俺は聞きたい。俺は、あなたが他人の為に必死になれる理由が知りたいんです」
「うるせえ!」
一は屈しない。
「教えてくれなきゃ、俺も何も教えません。ヤマタノオロチがどこにいるのかも、あなたの大切な人がどこにいるのかも」
「違うって言ってんだろうが! なら! お前はどうだって言うんだよ!? お前だって無茶苦茶にされてんじゃねえか! ボロボロだろうが! じゃあ何でだよっ、お前だって誰かの為に必死になってんじゃねえのか!?」
一は怯えない。
「だから聞きたいんです。正直、俺にもよく分からないんです。どうしてここまでされてその人の事を憎めないのか、怒れないのか。どうしてこんなになってまで、どうして……、……どうしてその人にまだ会いたいと思えるのか……」
「……一……」
「ごめんなさい栞さん。『天気屋』の女と俺は知り合いなんです」
山田の視界がぶれる。
「俺の『身内』がしでかした事です。許して欲しいとは言いません」
「気に、すんな。お前がやった事じゃねえ」
「栞さんは、許せないんですよね? 自分の身内がやった事を」
「……当然だろ。身内の不始末はオレの不始末だ」
「大切な人なんですよね、殺したいって言ってる人の事」
「ああ……」
苦虫を噛み潰したような表情。だが一は納得できた。やっぱり、と。
「お前は、どうなんだよ? あの女をどうしたいんだ? 殴られたんだろ? 裏切られたんだろ?」
「殴られましたけど、裏切られたわけじゃないと思います。それと、どうしたいってのはさっきも聞かれました」
「? オレは聞いてねえぞ」
一は頭を掻く。髪の毛が濡れて少し気持ち悪かった。
「あ、そうでしたね。じゃあもう一度。俺は、分からないんですよ、まだ」
「分からないのに行くってのか?」
「分からないから、行くんじゃないんですかね」
はっはっはっと、山田は豪快に笑う。
「死ぬぞ、お前」
一はソレのいるであろう方角を見つめた。
「一人じゃ間違いなく死ぬでしょうね」
「……分かってんじゃねえか」
にいい、と。山田の口の端がつり上がる。
「俺はとりあえずあの人ともう一度話したい。あの人にもう一度会いたい。けど、あの人はヤマタノオロチを狙ってる。つまり、ヤマタノオロチなんて邪魔なんですよ。ソレを先にどうにかしないと何も出来やしないんです」
「小難しいんだよ、一は。言え、奴はどこだ」
まだ、一は答えを貰ったわけじゃなかった。結局のところ、何も分かっちゃいない。なぜ自分が糸原に会いたいのかも、山田の本心も分からない。何も、分からない。だが、一は山田に場所を教えた。
「よし、行くぞ」
場所を聞いた山田はすぐに歩き出す。
「どこか、知ってるんですか?」
「知るか! 早く着いて来い、先越されちまうぞ!」
小走りで山田に追いつくと、一は隣に並んだ。
山田は自分の体と一の体を眺めた後、
「手負い二人か」
そう、呟く。『神社』とは言え、流石に心細げのようだった。
「しかも片方は頼りない素人ですね」
まるで他人事の様に一は笑う。
「はっ、任せろよ。少々痛んでたってオレは『神社』だ。言ったろ、ヤマタノオロチを倒すのはオレの仕事だ。八塩折の役目だ。スサノオは精々、死なねえよう後ろで見てな」
「じゃあそうしようかな」
「バァカ、頼りにしてんぜ」
山田は豪快に笑う。よく笑う人だ。一はそう思った。羨ましいと思った。だから、一も笑う。今から戦場に行く人間とは思えないぐらい、思われないぐらいに、二人はおかしそうに笑った。
オンリーワン近畿支部情報部、二課実働所属漣。彼は春風の直属で、春風の唯一の部下だった。漣は今、突然いなくなった上司を探すべく、駒台の街を奔走している。
「くそっ」
口から漏れるのは愚痴と上司への陰口。
探すと言っても、春風は自分の上司だ。春風が本気になって姿を眩まそうと思ったら、自分ではとてもじゃないが探しきれない。漣は溜め息を吐きつつ、雨が降って視界の悪い街並みを、ビルの屋上から見下ろす。眼下を歩く人々の、色とりどりの傘が妙に眩しく見えた。
「……電話にも出やしないし……」
内ポケットから携帯電話を取り出してみては、春風からの連絡があるかどうかを確かめる。もう何通メールを送ったか、何回電話を掛けた事か。もしかしたら、連絡の取れない状態に追い込まれているのかもしれないが、春風に限ってそんな事は無いだろうと頭を振って、馬鹿な考えを頭の片隅に追いやった。
駒台北部の商店街を抜けたときだった。漣は人の姿を目の端で捉える。別段珍しい事ではない。一般人が立ち寄らない、廃ビルの連立する地帯であったが、素行の悪い人間が屯する話も聞いていたし、平時であればその人影を見逃していたかもしれない。
「春風さんっ」
漣は廃ビルの一つ、そこで雨宿りをしている人影に声を掛ける。見逃す筈も、見間違う筈も無かった。
「……漣か」
「な、こんな所で何をしてるんですか? 早くヤマタノオロチを探さないと……」
春風は漣を一瞥しただけで、感情の篭っていない瞳で曇り空を見上げ、雨音に耳を傾ける。
「職務放棄ですか。上に言いつけますよ」
「勝手にしろ」
「……冗談です。冗談にしない為にもソレを探しましょうよ」
漣は泣きそうになりながら情けない声を上げた。
廃ビル。その中の一つを指差して、春風は詰まらなさげに溜め息を吐く。
「どうやら、まだまだ私には追い付けていないようだな」
「えっ?」
「ソレはあそこだ。一一と『神社』、『天気屋』が当たっている」
「ああ、なんだ……。もう店に連絡までしてるんですね」
手際の良い事だ。漣は改めて自分の上司を誇らしげに思う。
「連絡はしていない。そうだな……」
春風は内ポケットから携帯電話を取り出して現在時刻を確認した。
「十五分は連絡するな」
「はっ? あ、あの、その、意味が分からないんですが? そんな指示来てましたっけ?」
「来ていない。あえて言うなら私の指示だ。聞けないか?」
「……順序立てて話して欲しいんですが……」
何となく、漣には察しがついている。先ほど春風の口から出た言葉。一一。
――! 一一!
とことんまで。漣は一の事が気に入らなかった。ぎりりと歯を食い縛る。
「また、一一ですか」
「ふっ、気に入らないか?」
「俺たちの任務をこうまで妨害するんです。一一は、ハッキリ言って障害、不確定要素です。気に入る理由がありますか」
春風は漣を見た。彼の、嫉妬に燃える瞳。
「同感だ。だが、私にとっては利用価値のある人間だ」
「利用? あなたは一体、何をしたいって言うんです? 最近の――じゃなくて、あなたの下についてからずっと思ってました。情報部の人間にしては春風さん、あなたは勤務外なんかと関わりすぎてます。どんな事情があるにせよ、許されない事ですよ」
「……お前が知る必要は無い。私がお前の事を知る必要が無いようにな。私の事が気に入らないなら本部にそう言え。ふっ、私なんて吹けばすぐに飛ぶさ」
気に入らないなら。
漣は皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「あなたはずるい人だ」
何が吹けば、この人が飛ぶと言うのか。漣は春風を見つめた。どこまでも自由な人だ。全てを知っていて、全てを語らない。
「十五分ですね。分かりました。この事が上にバレたら一緒に始末書でも何でも書きますよ」
「私は始末書なんぞ書いた事が無い。漣、頼むぞ」
「ちょいと自由過ぎやしませんか?」
それでも、自分はこの人の分まで始末書を書こうと、書くのだろうなと、そう思う。彼女の瞳に自分が映っていない今、そんな事ぐらいしか、自分には出来ないのだからと。
――残り十分。
一と山田は駒台の北部の商店街を抜け、件の地区に足を踏み入れた。
山田は周囲の廃ビルをキョロキョロと見回し、
「オロチはどこだ?」
切羽詰った様子で一にそう尋ねる。
「この中のどれかでしょうね」
何食わぬ顔で一は答えた。本当に他人事みたく冷静な口振り。
「……場所、知ってるんじゃなかったのか?」
「いや、その筈だったんですけど。情報源が、細かそうに見えて実は大雑把な奴だからな……」
やっぱり似ているのかもしれない。一は頭を抱えたくなるのを堪えて顔を上げる。
「と、とにかく、このビルのどこかにヤマタノオロチの出来損ないも、その、あなたの目的の人もいるんです。探しましょう」
「しょうがねえな。じゃあ、オレはこっちから探す」
山田は分かれた道。左を指差した。指差しながらそちらへ歩いていく。一には振り向きもしないで。
「だ、ちょ、ちょっと待ってください! 別れて探すのは良いんですけど、見つけたらどうします?」
「……ん?」
意味が分からないと言った風に山田が一へ振り返る。
「いや、聞き返さないで下さい。当然の事を聞いてるんです俺は」
戦力分散は愚の骨頂。一にとっては重要な事だった。慣れてきたとは言え、ソレとの戦闘に関して一はまだ素人に毛が生えた程度の力しか持っていない。力。腕力、体力、判断力etcetc……。
それより何より、一は一人でいるのが怖かった。
「栞さんが先に見つけた場合はともかく、俺が先に見つけた場合はどうするんですか?」
「おい、オレを心配しろよ」
「してます。で、どうするんですか?」
「……助けが欲しい時は大声を出せ。簡単だろ」
あっさりと、簡単な事を山田は言う。
「あ、はい。そうですね」
簡単過ぎて、一にはそれ以上の案がすぐには思いつきそうに無い。
「心配すんな。雨が降っちゃいるが、周りにゃ殆ど人もいねえだろうし音もねえ。でけえ音立てりゃ嫌でも聞こえるよ」
「分かりました。じゃあ、ちゃんとしっかり絶対、俺が助けを求めたらすぐに来てくださいよ」
「……やっぱ頼りねえなあ、お前」
山田は呆れ顔で一を眺めた。
「返す言葉もありません。それじゃあ俺はこっちを探しますから」
「おう、奴を見つけたらすぐにオレを呼べよ」
言われるまでも無い。一はおっかなびっくり明かりの無い道を進んでいく。
糸原に会う。
一は曲がりなりにも、そう決意して、それだけを思ってここまでやって来たが、やはり怖いものは怖い。未だに。ソレとの戦いなんて決して慣れそうにもなかった。まして、勤務外ではなく一人の人間としてソレと戦うなんて考えたくも無い。
ビルとビルとの間、狭い路地を当て所なく歩いていると、ふと懐かしい光景が頭を過ぎった。
――鎌鼬。
初めて、一がソレと戦おうと思った相手。初めて、一が戦ったソレ。否、戦いと呼べるような物では無かった。無茶苦茶に突っ込んで、なるように身を任せただけの向こう見ずな行動。
「………………」
あの時は味方がいた。三森がいた。今、一の傍には誰もいない。いつだってそうだった。ソレと相対するときには、戦うときには誰かが傍にいた。一の近くには、必ず誰かが。
一はとりあえず歩いてはいるが、今すぐにも歩みを止めたくて仕方が無かった。何もしていないのに、何もされていないのに、呼吸が苦しくなる。見えない何かが、自身の体を上から押し潰そうとしているような。得体の知れないモノを感じながら歩く。
歩く。
深く、暗く広がる闇。挫けそうになるが、一は歩く。歩き続ける。足は震えた。一つ一つ、ビルの外周と内部を調べていく。止まりそうだった。しゃがみ込んで休んでしまいたかった。それでも、何かが一を歩かせている。彼を歩かせるのは一つの思い。
――糸原。
ハッキリしていない。漠然とした何か。
一は図書館での、黄衣ナコトとのやり取りを思い出す。
信仰。
縋り、祈り、拠り所とする何か。自身を歩かせるもの。一が信じているものは見えない何か。神や仏ではなかった。この街のどこかにいるであろう、その人に会う、会えるという事を信じて一は歩く。確信など無かった。盲信めいた不確かな何か。だが。信仰など、何かを信じるという事など所詮はそんな物なのだろう。信じたくなければ信じなければ良い。信じたければ信じれば良い。そんな物。




