藪を突いて蛇を出す
「あ、雨……」
「え?」
この日、夕方からシフトに入っていた一と立花の二人は揃って窓を見た。
立花は悲しそうな顔で降り始めた雨を眺めている。
「ど、どうしよう。傘忘れちゃった……」
困り果てた様子で店内をウロウロと行ったり来たり繰り返し、立花は涙目で一を見た。そんな目を向けられても困ると言わんばかりに、一は視線を逸らす。
「店に置いてある傘を使えば良いよ」
「え? い、良いの?」
「うん。俺も昨日使ったし」
立花はホッと安堵の息を吐いた。
「はじめ君は優しいね」
「……まあ、良いや」
雨が降り始めれば、ただでさえ少ない客足は自然と途絶え、今日も大した事件は無く、深夜勤務の三森に引き継ぎ、一は急ぎ店を後にした。
「……大丈夫だよな……」
一は恐る恐る、店から持ち出した傘を広げる。どこからどう見ても普通のビニール傘。どこから、どう見ても。だが、一は今ちょっとした恐怖心に駆られていた。何故ならば、一が持ち出した傘は、あのアイギスだったのだから。杞憂。傘を広げてみると、普通に雨から身を守ってくれるし、一がそう願わない限りはアイギスも力を発揮しない。
「使えるじゃん……」
一の向かう先は家ではない。先日、山田の巫女装束をクリーニングに出した店である。非常に、気は重かったし、足取りも決して軽い物ではなかったが、一は約束を守るべくその店に急いだ。
駒台の街。
時刻は午後十時を回り、雨も降り出した。外出している人は殆ど居らず、居たとしても家路を急ぐ者が殆どであった。傘を差し、足早に急ぐ人々。
「殺さなくて良かったのか?」
「はっ、悪人みたいな台詞吐くのね」
その中で、彼らは異質だった。明らかに異質で異常で、一線を画した存在だった。彼らを見てしまった者は目を逸らし、足を止めるか足を速める。雰囲気で分かる。
――何かがおかしい。
「俺が悪人? 冗談がキツイな」
「ま、あのままほっといても問題無いでしょ。大した情報は得られなかったけど、競争相手が一人脱落した訳だしね」
雨の降る中、傘も差さず二人組の男女は歩く。男女ともに背が高く、黒いスーツを着こなしていた。男はサングラスを掛けていて、ラウンド髭を生やした強面。その隣を優雅に歩く女は、長い黒髪を手で弄びながら、鬱陶しそうに雨を、空を睨む。
フリーランス『天気屋』。長雨と糸原、その二人であった。
「……痛っ」
糸原が肩を押さえる。表情こそ平常だったが、彼女の額からは脂汗が流れていた。
「タイマンなら負けていたな」
長雨は糸原を心配する様子も無く、先刻の戦闘を思い返す。
「ざっけんじゃ無いわよ。あんた何もやってなかったじゃない」
「ふん、俺が後ろに立っていただけでも二対一の意味はあったと言うものだ。心配するな、相棒。お前が死んでいたとしても、俺が後は何とかしていたさ」
糸原の刺すような視線を受け流し、長雨は嘯いた。
「はん、言ってなさいよ」
「しかし『神社』か。八塩折の酒の一族、中々に出来るようだったな」
長雨は顎に手を遣りながら、しみじみと呟く。
「八塩折?」
「知らないのか? ヤマタノオロチを討った酒の事だ。その酒をオロチが呑んで、酔っている隙にスサノオが首を刎ねたのさ。英雄とは言え相手は化け物。姑息な手段に頼らざるを得なかったんだろうさ」
「良いんじゃない? とにかくさ、勝負事ってのは勝てば良いのよ」
「その通りだ。さて、あそこへ戻る前に腹に何か入れておくとしよう。俺は先に戻る。相棒、お前は何か買って来い」
「……あんで私よ?」
「銃の手入れをしておかなければならん。アレは時間が掛かる。それとも、お前が手入れをしてくれるのか?」
にやりと、長雨は不敵に笑った。
「何でも良いのね?」
糸原は大げさに肩を竦め、来た道を引き返していく。
滅茶苦茶恥ずかしかった。顔から火が出るとはあの事だと、一はクリーニングの済んでいる巫女装束の入った袋を提げながら、心底からそう思う。
「……はあ」
意味も無く溜め息を吐き、一は家路を急いだ。
雨は勢いこそ大した物ではなかったが、止む気配を全く見せない。常に体中にへばり付く様な、粘着質な雨だった。雨の所為で視界も悪く、街灯は点滅を繰り返していて、一の目を戸惑わせる。
あと二つ路地を曲がればアパートにたどり着く。一はぼんやりとそれだけを思い、一つ目の路地を曲がった。
「――――っ!」
曲がった所で、一は異様な気配に気付く。気配の正体こそ分からなかったが、いつの間にか現れていた鳥肌が全てを物語っていた。体が教えている。一に伝えようとしている。
危ない、と。
だが、一はそのまま歩いていった。手に持っていたアイギスの安心感と、家がすぐそこにあるのに引き返すなんて面倒だと言う投げやりな気持ちが、がむしゃらに足を進ませる。
二つ目の路地。一の足は少しだけ鈍ったが、意を決し路地を曲がった。
「………………」
アパートが見える。一の住んでいるアパート。その入り口近くの塀に、誰かが座っていた。座っていた、と言うよりも、壁にもたれ掛かっていると言った方が正しいかもしれない。既に彼女は、座っていられるほどの体力も無かったのだから。
一はその女に近付いていく。見覚えがあった。雨に濡れた体。短い銀髪。背が高く、威圧的な雰囲気を備えていた女。
「………………栞、さん?」
山田栞。フリーランス『神社』。袖の破けた巫女装束が良く似合っていた女は、今は一から借りたジャージを着ていた。返事は無い。
一はアイギスを投げ出し、山田に駆け寄った。
「栞さん!」
山田の、雨で濡れた体を抱え、一は必死で呼びかける。声を掛ける。何故か山田は傘を手に持っていた。一がコンビニから持って帰った傘だった。尤も、一はその傘を店に持っていくのを忘れていたのだが。とにかく、その傘が邪魔だったので、一は山田の手から傘を奪おうとする。しかし、傘は離れない。山田は傘を離さない。
「……っ! 栞さん!」
こんな時に。山田に対する心配より先に、一は苛立ちが募る。
「邪魔だから離せっつーの!」
一向に返事は無い。山田からは動こうとする気配すら窺えない。
ドクンと、一の心臓が跳ねた。鈍く、重く、暗く。一の体を痛めるかのように心臓は打つ。早鐘を打つ心臓に対して、体の動きは酷く鈍重だった。一はふらりと立ち上がり、山田の近くにへたり込む。
「返事、して下さいよ」
頭が真っ白になっていた。何で、どうして、こんな事に。考えても考えても答えは出てこない。一の瞳は何も映してはいなかった。降り止む事のない雨も、道に転がったままのアイギスも、すぐ傍の山田も。何もかも真には映っていなかった。
「……はじめ」
「!」
消えそうな声。一はしっかりとその声を聞き届け、弾かれる様に山田を見つめる。しゃがみ込み、彼女の体を支えた。
「悪い。やられちまった」
かはは、と。乾いた声で山田は笑う。
「……救急車呼びますから」
「駄目だ呼ぶな。心配すんな。オレは死にゃしねえよ」
「怪我してるじゃないですか……」
出血こそ無かったが、一が山田の体を触るたび、山田は苦悶の表情を張り付かせていた。恐らくは打ち身、下手をすれば骨折。運が悪ければ内臓に。
「オレの体だ。オレが一番良く分かってる。だから、呼ぶな」
「……知りませんよ」
そう言って一は山田の肩を支えた。
「立てますか?」
山田は一を振り解き、その場で軽くステップを踏んでみせる。
「おら、文句ねえだろが。それよか、転がってる傘拾っとけよ」
「はあ……」
言われたとおりに一はアイギスを拾った。
「とりあえず、部屋に行きましょう」
山田は短く答える。その手に傘を握ったまま。
「……いつまで持ってんですか、それ」
「ん。ああ、いや、そうだな」
今まで、その存在に気が付いていなかった風に傘を見つめ、山田は頭を掻く。
階段を上りながら、一は財布から鍵を取り出した。
「つーか栞さん、外に出て一体何をやってたんですか?」
「ん。お前を待ってたんだよ」
「は?」
「……お前、傘忘れていっただろ。困ってんじゃねえかなって」
山田は一から視線を逸らしながら、ばつが悪そうに台詞を並べる。
「あんな所で待っててもしょうがないでしょうに……」
「かはは、かもな」
とりあえず、一は山田の着替えをアパートの廊下で待つ事になった。扉を背にして立ったまま、一は考える。誰が、あんな事をしたのか。どうして、こんな事が起こったのか。考えても考えても仕方の無い事だった。繋がりそうで繋がらない何か。噛み合いそうで噛み合わない何かをすぐ傍に感じながら、一の気持ちが重くなっていく。
「良いぞ」
「あ、はい」
一はゆっくりと扉を開いた。部屋には、巫女がいた。袖の破れた巫女装束を着た山田が。白い小袖と緋色の袴。紅白のコントラストが眩しく一の目に映る。
「突っ立ってんなよ。座れ」
曖昧に頷き、一は腰を下ろした。こたつの卓には、いつの間にか料理が並べられている。山田が作っておいた物だろう。メニューは、ご飯に味噌汁、魚の照り焼き、きんぴらごぼう。大皿には豚の角煮。料理から立ち上る湯気と、温かい匂いが一の食欲をそそった。
「……えっと?」
しかし、こうしてご飯を食べている場合ではないのではないかと。一は山田を不思議そうに見つめる。
「う。何だよ?」
「いや、食べてて、大丈夫なんですか?」
とにかく、何が起こったのかを知らなければならない。
「あ、当ったり前だろ! 食えるモンしかここには並んでねえよ!」
「……あー、分かりました。それじゃ食べながら話を……」
怒らせてしまった。理由は分からないが、山田が不機嫌では話も進まない。そう判断した一は箸を手に取った。しかし、正直に言えば一もおなかは空いていたし、何より美味しそうだった。温かい食卓。こんな食事を取るのは何年ぶりだろうか。
「早く食べろよ」
山田は何故か箸を持っておらず、一の動向を睨んでいるだけだった。先に食べてしまったのかもしれない。一は山田に対して少しだけ申し訳ない気分に陥る。
「………………」
一が選んだのはきんぴらごぼうだった。
「……美味いか?」
山田は伏目がちになりながら、顔を赤く染め、一へ尋ねる。
「美味しいですよ」
きんぴらごぼうを咀嚼、嚥下の完了した一はあっけらかんとそう言った。
「おい」
「はい?」
「もっと間を取ってくれても良いんじゃねえのか……」
「?」
何の事を言っているのか一にはさっぱり分からなかったが、きんぴらごぼうが美味しかったのでもう一口運ぶ。ご飯も進む。
「やっぱ良い。そんじゃオレも食うかな」
山田は嬉しそうに箸を取り出し、きんぴらごぼうに手を付けた。
一はとにかく話を聞きたかったが、もう少し食べてからでも良いかな、と。味噌汁を啜る。美味しかった。ひどく、美味しかった。
半分ほど料理を片付けたところで、
「『天気屋』にやられた」
と、唐突に山田は口を開いた。
一は豚の角煮を飲み込み、そんな名前をどこかで聞いていたなあ、と記憶を引っ張り出す。
「……フリーランスの、ですか?」
「ああ。連中オレの持ってる情報が欲しかったんだろうさ。オレも口は割らなかったけどよ」
「連中?」
その言葉に、一は相手が複数人だと推測した。
「割と本気で相手してたんだけどな、相手は予想以上に強かった。二人掛かりってのは言い訳になんねえな」
かはは、と山田は笑う。
「二人相手に生きていられたんだから御の字だと思いますけどね」
「まあ、向こうも殺す気は無かったと思うぜ。適当に痛めつけられて、適当なところで帰っていきやがった。舐められてたのかもな」
「どんな人たちだったんです?」
「……暗くて良く分からなかったけどよ、男と女の二人組だ。黒いスーツを着てよ、オレよりも背がでかかったな。実際にオレとやり合ったのは女の方だ。獲物も使ってなかった癖にすげえ強かったぜ」
「卑怯な奴らですね」
一は言いつつ、お茶碗にご飯をよそった。
「だがよ、それよりもヤバかったのは目だ」
山田は箸を止め、天井を見上げる。
「目?」
「女の目だ。氷みてえに滅茶苦茶冷たかった。正直、目だけで人を殺せるとしたらさ、あんな目なんだろうなとか、柄にも無く思っちまったよ」
「……目、か」
一はその目を見た事は無かったが、フリーランスがそう言うぐらいなのだ。自分なら本当に目だけでも殺されていたんだろうなあと、少しの間考えに耽った。
「あの、栞さん」
「改まってどうしたよ?」
一は魚の骨をばらしながら、
「ヤマタノオロチは、この街に出るんですか?」
そう、聞いた。
山田は笑う。
「ははっ、そんな話、まだ信じてたのかよ?」
「嘘だったんですか?」
はっはっはっと笑った後、山田は懐から酒瓶を取り出し、一気に呷った。
「……出るぜ」
「どっち、なんですか?」
「そうだな、お前には世話になったし、教えといてやるよ。信じてくれるかどうかはこの際置いといて、だ」
「信じますよ」
「……ありがとよ。まず何から説明すりゃ良いのかな。あー、そうだ。お前さ、ヤマタノオロチを倒したのが誰か知ってるか?」
図書館で勉強していて良かったと一は思う。一は誇らしげに「知ってます」と答えた。
「あっそ」
そっけない。
「じゃあさ、ヤマタノオロチはどうしてスサノオに負けたと思う?」
「……どうして?」
斬新な切り口からの質問だったので、一は少しの間考える。考える事は重要なのだ。
「スサノオが強かったから、ですか?」
「違うな。確かにスサノオは強かったと思うけどよ、それだけじゃ足りねえ。それだけじゃスサノオもクシナダヒメもさ、オロチの腹ん中にいたと思うぜ」
「……えっと」
一は再び考える。資料なら午前中に何冊も読んだ筈なのに。一は自分の記憶力を恨んだ。
「時間切れだ」
山田はドンと卓を叩く。その音に驚いた一がそちらを見ると、山田の手に酒瓶が握られているのを確認した。そこで一は気付く。一でも気付く。ナコトならばとっくに気づいているかも知れない。
「お酒、ですか」
「おうよ。八塩折の酒。こいつが無きゃ蛇退治は始まんねえ」
ヤマタノオロチを『蛇』と称する山田の気概に感心するより先、一は件の物語を思い出した。
「あ、確か、オロチをお酒で酔わせて、その隙に首を落としたって……」
「覚えてるじゃねえか。まあ、そう言うこった。ヤマタノオロチを倒したのはスサノオじゃねえ、酒なのさ。そしてその酒を造った一族。そいつらがオレのご先祖って訳だ」
あまりにも普通に言うので、一は山田の言葉を理解出来てしまった。
「え? し、栞さんが?」
「そう言ってんだろ。まあ、遠い先祖だけどよ。遠すぎて果たしてマジかどうか分からねえけどさ、とにかくやま――オレらの家は昔から酒造りを生業にしてきたんだ。来るべき時が来るまでな」
「それが、今なんですか?」
「ああ。ヤマタノオロチが出来上がる前にぶっ倒すのがオレの、『神社』の役目なのさ。幸いっつーか何つーか、オロチはまだ出来上がっちゃいねえ。今なら手負いのオレでも倒せる」
山田は握り拳を作り、憎憎しげに窓を睨みつける。その向こうの雨を、叢雲を、まだ見えない、姿を現さない八俣遠呂智を。
「あの、出来上がってないってどういう意味ですか?」
一は山田が怒っているように思えたので、ビクつきながらも質問をしてみる。
「……お前さ、ヤマタノオロチみてえなデカい奴がいきなり街に出てくると思うか?」
「出てくるときは何でも出てくると思いますけど」
「オロチは出ないんだよ。そうじゃねえんだ。日本書紀や古事記の時代と違ってな、今の温い世の中じゃ、神様や化け物たちも、そう上手くはいかねえのさ」
「聞いてばっかりで申し訳ないんですけど、どういう事ですか?」
「神気さ。神気ってのが足りねえのさ。今の時代に神様や化け物を心の底から信じてる誇大妄想ヤローなんていねえだろ? 居たとしても、そいつは少数派だ。異常なんだよ。オレだって昔から親や年寄り連中に「オロチ退治は任せた」なんて言い聞かされてここまでデカくなったけどよ、ヤマタノオロチなんて、ンな事信じられるか普通? 正直な、フリーランスやってる今だってオレは半信半疑だ。ソレは確かに居てる。この世に存在してる。けどよ、やっぱ現実味が湧かねえのさ」
返事こそしなかったが、一も心中で山田に同意する。確かに、おかしいのだ。今の世の中。だが、誰も何も言わないから、こうしてこの世は回っているのかもしれない。勤務外だってフリーランスだって、神を信じる少数派と等しい存在なのだから。
「オレは良く分かんないんだけどよ、力の弱いソレってのは人間が信じようが信じまいが、お構い無しに出てくるらしい。けどさ、力の有り過ぎる、でか過ぎる奴はそう簡単にこの世に出ることなんて無いんだ。有り得ねえんだ。だってさ、誰も信じてねえもん。誰も想像もしてない奴がいきなり出てくるなんておかしいのさ。お前だって聞いた事ねえか? 人間の頭の中で想像する物は、いつか必ず創造できる物なんだってよ。飛行機だって核だって、最初は考えた奴の方が頭おかしいって言われてたんだぜ。オレは成る程って思ったね」
「でも、ヤマタノオロチは――」
「――出る。間違いねえ」
山田は言い切る。一はその言葉に、強い不安を覚えた。不安は頭の中を這いずり回り、考えたくも無い事を、言いたくも無い事を、一の口まで運んでくる。
「……なら、そうまで言うなら、この世にヤマタノオロチを信じてる人がいるって事なんですか?」
そう言い切った一の喉が訳も無く渇いた。
「オレが、オレが八塩折の酒を作った奴らを遠い先祖に持つならさ、いるんだよ。お前の言う通り、怪物なんか信じてやがるイカレた奴がな」
「つまり?」
「存在するのさ、ヤマタノオロチの子孫がな」
ゾクリ、と。一の肌が粟立つ。部屋の中の空気が重くなる。
「……子孫、が? でも、蛇、なんでしょう? 蛇が子供を作っていたって言うんですか?」
つまりそれは。その事について考えただけで、一は吐き気を覚えた。
「はっ、異種間交配ぐらいお前だって知ってんだろ? 珍しくもねえんじゃねえか? ほら、レオポンとかライガーとかさ」
「でも、交雑種ってのは大概一代で終わりじゃないですか。無茶苦茶なんですよ、同属でも無いのに、無理矢理生まされた子供に力は無い筈です。生き残るのも難しいのに、ましてや子供を作るだなんて……」
「ハイブリッドって言葉、知ってるか?」
「そんなの言いようです」
「へっ、だから先に言ったろ。オレは別に信じてもらわなくても良いんだぜ。とにかくよ、いるんだよ。オロチの子孫が、今この街にな。そんでそいつは厄介な事にヤマタノオロチってのを心底信じてて、挙句の果てにおかしな奴らの力を借りて、そのオロチ様を復活させようとしてるのさ」
馬鹿みてえだろ。そう言うと、山田はおかしそうに笑った。そして一は不思議に思う。
「あの、どうしてそこまで知ってるんですか?」
今までおかしそうに笑っていたのが嘘みたいに、ピタリと山田は哄笑を止め、一に向き直ってから、
「そいつは昔『神社』だったのさ。つい一月前までの話だ」
聞いた者が底冷えしそうな声を放った。その声は、怒りから来る物でも、悲しみから来る物でもない。
「……じゃあ、栞さんは……」
「へっ、そうだよ。軽蔑すんなら軽蔑してくれて良いぜ。そうさ、そうさそうさそうさ。仲間殺しさ、身内殺しさ。オレァ、人間を殺しに来たんだよ。ヤマタノオロチはあくまでおまけだ。オレの目的はオロチの血を引く者の抹殺。裏切り者への制裁。人を殺す為だけに、ここまで来たんだ」
「……っ。栞さん……」
「一。オレに同情するな。軽蔑しろ、限りなくな」
一は何も言えない。
「世話になったな」
山田は立ち上がった。一には目もくれず、扉を目指して。
一は咄嗟に袴の裾を掴んだ。山田は引っ張られた衝撃で、足元からバランスを崩し一に圧し掛かるような形になる。小さな呻き声が二つ漏れ、部屋には衝撃音の後、静寂が訪れる。
やがて。
「……なあ、一」
圧し掛かったままの体勢、仰向けの山田は呟いた。
「……なんですか」
圧し掛かられたままの体勢、うつ伏せの一は呟いた。背中越しに言い知れぬ気を感じる。一はこの感じを知っていた。
「ぶっ飛ばして良いか?」
「あの、先に煙草吸ってきて良いですか?」
「あ? お前煙草吸うのか? 辞めとけ辞めとけ、煙草なんて百害あって一利無しだぜ。呑むなら酒にしとけ。知ってるか? 酒は万病に効く薬なんだぜ」
「煙草が健康に悪いんじゃなくて、健康が煙草に悪いって聞いた事あります?」
はっはっはっと山田は豪快に笑う。一しきり笑ってから。
「バカァッ!!」
マウントポジションでしこたま殴られた一は、山田を宥めてとりあえず煙草を吸いに外に出た。
山田は煙草の煙が非常にお嫌いな様子であった。
一は、今だけ傘代わりのアイギスを持ち、廊下を進んだ。強くはないが、それでも雨は降っている。降り続けている。いつになったら止むのだろう。この雲は消えてくれるのだろうと。柄にも無く、何かに祈りながら。
「……寒いな……」
階段を下りながら呟いて、煙を吸い込む。食後の一服は格別だった。自然、一の頬が緩む。
「はっ、締まりの無い顔ね」
後ろから声がした。誰のものだろう、誰に告げたものだろう。一は不思議に思いながら振り向く。
「……いと、はらさん?」
アパートの入り口近くの塀へもたれるように、傘も差さずにそれはいた。糸原四乃。一の元、同居人。
「何を、してるんですか?」
一は糸原に近付いていく。恐ろしく、無防備に。
「近付くんじゃないわよ、勤務外」
「えっ?」
冷たい声だった。冬の寒さにも、雨の無情さにも引けを取らない、そんな声。一は思わず立ち止まってしまう。戸惑いながら、糸原の顔を窺った。
「……っ!」
恐ろしく、冷たい目だった。氷みたいに、滅茶苦茶に冷たい目。自分以外の全てのモノを見下しているような、視線だけで、目を合わせたものを殺せそうな目。カトブレパスなんか比じゃなかった。一の体が震える。
「私はね、あんたに警告しに来てやったのよ」
平坦に、冷淡に糸原は告げた。
「何を、言ってるんですか?」
一の声は固く、震えていた。膝が笑う。膝が笑う。膝が笑う。
「あいつをボコボコにした時点で気付くべきだったわね。『神社』があんたの知り合いだったなんて。はっ、あんたよっぽど運が無いのね」
「どうして……?」
どうして『神社』の事を、山田の事を知っているのか。糸原に尋ねたかったが、それ以上一は何も言えなかった。
「どうして知ってるのって? もう気付いてんでしょ、私の正体に」
「し、知りません……」
「その通り。私はフリーランスよ。今まで言う必要も無いから黙ってたけどね。『天気屋』って言うの。ベンキョーんなったかしら?」
軽そうに、あの日の朝みたいに、同じ口調で糸原は言う。
「出て、行ったんじゃ無かったんですか……。駒台から」
俺の家から。
「は? そんなの私の勝手じゃない。とにかくさ、私らの仕事の邪魔になるかもしんないから、あんた、出て来ないでよね」
「仕事……?」
「『神社』からはろくな情報聞けなかったけどね、私ら『天気屋』はヤマタノオロチを追ってんのよ。勤務外より先に、他のフリーランスより先に、確実にそいつを殺して、私らはビッグマネーを手に入れるって訳」
「じゃあ……、今まであなたが勤務外を続けていたのは……」
一の言った言葉に、糸原が吹き出した。
「はっ、ははっ……。そうよ、あいつらのシフトの確認をしたかったし、色々と勤務外の手口も教えてもらったわ。ふっ、ふふっ、バカみたい……」
「本当に、糸原さんが山田さんを……?」
「山田? あー、『神社』の事? そーよ。私がやったわ。ま、殺してないから別に良いじゃない。命あっての物種でしょ? 尤も、今回のヤマには関われないぐらい痛めつけといたけど」
ぎりりと、一は歯を軋ませる。強く、拳を握る。
「俺を利用してたんですね……」
「自惚れんじゃないわよクソガキ。あんたなんか、何とも思っちゃいないわ。思ったことも、一度だって無い。ただ、あんたがあの時、あそこに居ただけよ。特別扱いされてるとか思ってたの? 自己中心的ね、死んだ方が良いわ」
糸原は続けた。
「あんたみたいな、チビなんかじゃなくって、もっとカッコイイ金持ちにでも身ィ寄せてた方が楽だったわ。つーか、あんた、最悪だったわ。今まで私も『最悪』って呼ばれてる人間にあった事があるけどさ、あんたは格別に群を抜いてダントツに最悪だったわ」
糸原は続ける。
「家族ごっこはもう終わり。終わった。終わってたのよ、ハナっからね。気持ち悪い、吐き気のするぐらい歪な馴れ合いも、全部終わり、ははっ」
「それでも……」
「あ?」
一は虚ろな目で糸原を見た。とてもじゃないが、あの冷たい目を見る事なんて出来そうになかったから。それでも。
それでも。
「……それでも、俺は、楽しかった……」
呟いた一に、糸原が襲い掛かった。腹に一発。一の胃が揺れる。一は倒れた。
「ざけんじゃないわよ!」
糸原は一に飛び掛る。顔面に一発。一の鼻から血が溢れた。
「ここまで言われて! 何がどう楽しかったってのよ!」
一は抵抗もしないで、ただ殴り続けられる。
「私は全然楽しくなかった!」
内臓が潰れているかも知れない。
「あんたなんか居なけりゃ良かった!」
骨が折れているかも知れない。
「ここでの生活なんて! 全部!」
それでも、一は殴られ続ける。
「全部最悪だった!」
叫んで、殴って、疲れ果てたのか、糸原は一から離れた。
「……ここで、一生そうしてれば良いのよ」
それだけだった。それだけ言って、糸原は立ち去っていく。
一から、離れていく。
一はどうする事も出来ずに、雨に打たれる糸原の後姿を見送った。その、寂しそうな後姿を。