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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
やまたのおろち
65/328

封豕長蛇

 雨が、降り続いていた。



 一は布団から身を起こす。眠れない。眠れない。何度も目が覚める。目を瞑っても、睡魔は訪れない。寝返りを何度も打ち、暗い部屋に目を凝らす。

 幾ら耳を澄ませても、狭い部屋の中には一人分の呼吸しか聞こえなかった。

「煙草……」

 呟いて、一は立ち上がる。テーブルにはクシャクシャになった、空っぽの煙草の箱。コートを羽織り、靴を履く。鍵を開け、扉を開けた。雨音が妙に耳に響く。一は立てかけておいた傘を手に取り、アパートの階段を下りた。階段を下り切り、傘を広げる。

 煙草を買いに行く。口実だった。街を歩けば、当て所なくさ迷えば、もしかしたら。


 ――もしかしたら。


 一は苦笑する。一種、その笑みは自嘲だった。冗談じみた、馬鹿げた考え。

 それでも、一は歩き出す。雨粒は傘を打ち、街灯が僅かに彼を照らしていた。闇夜の中、視線を忙しなく動かす。もう、糸原はいないと言うのに。分かっているのに、理解しているつもりなのに、体は動く。

 雨に打たれ雨に打たれ一は歩いた。歩いて歩いて雨に打たれて、一は自分でも気づかない間に、川の近くまで来ていた。今にも川の水全部が溢れそうな程の状態。荒れ狂う川をぼんやりと眺める。

 雨は一を打ち川を打ち地面を打った。雨音を聞きながら、川に近付いていく。誰かが、雨の日には気をつけろと言っていた。お前は、ソレよりも川に気をつけろと言っていた。

 一は呆けた頭で川に近付く。

「おい、あぶねぇぞ」

「…………………………」

「おいってば」

 一は肩を掴まれた。抵抗する事もせず、振り向かされる。

「オレの話聞いてんのかよ」

 鋭い眼光で射抜かれた。だが、一は気圧される事も怯む事も無く、ゆっくりとその手を振り解く。

「……なんですか」

「お前自殺志願者か?」

 女だった。霞掛かった一の頭が徐々に晴れていく。

「……違います」

 一は自分の肩を掴んだ女を今一度見た。

「自殺する奴以外にゃ、こんな所近づく奴は居ないだろ」

 女は珍しい格好をしている。白い小袖に緋袴。巫女装束のようだった。ただ、袖が破かれている。背が高く、短い銀髪。

 女は傘も差さず、一を見下ろしていた。

「『神社』……」

 一は呟く。

「オレの事知ってんのか?」

 女は驚いたように一の顔を睨んだ。一は気にもせず、女をぼんやりと観察する。全身を濡らした女はどこか色っぽかったが、気にしない。

「フリーランスがこの街に何の用ですか?」

「お前同業者か?」

 訝しげな視線を寄越したまま、巫女装束を着た女は問いかける。

「勤務外です」

「……喧嘩売ってる訳じゃないよな?」

「どう捉えてもらっても結構です」

 一は感情を込めずに、冷めた目で言い放った。

「見るからに弱っちそうだなお前……」

「さあ、人を見かけだけで判断するのは良くないと思いますけどね」

「ははっ、威勢は良いじゃねえかよ。けどよ、別にオレはお前なんかに構ってる暇はねえんだ。中々楽しい奴だからよ、見逃してやるぜ。オラ、オレの気が変わらないうちにとっとと逃げな」

 女は一を顎でしゃくる。親指を立て、適当な道を指していた。行け、という事なのだろう。一は何も考えず、女の指示に従う。

「今度見かけたら、こうは行かねえぞ」

「そりゃどうも、山田栞(やまだ しおり)さん」

 無意識のまま、一はそう言っていた。手を上げて歩く。

「覚悟は出来てるらしいな」

 その手を、女に掴まれた。

 一は目だけを女に向ける。

「見逃してくれるんじゃなかったんですか?」

「……お前さ、人の嫌がる事はするなって親に言われなかったか?」

「さあ、言われたかも知れませんね」

 女は無言で一の腹を殴った。重く、鋭く、早い。一は何が起きたのかも分からず、傘を手放して体を「く」の字に折り曲げる。女は一の髪を鷲掴み、無理矢理自分へ向かせた。

「男の子は女の子苛めちゃ駄目だろ。謝れ、訂正しろ」

「……何を……?」

 一は吐き気を堪えながら、何とか聞き返す。

「『神社』はな、名前を呼ばれんのが大っ嫌いなんだよ。知らなかったのか?」

「……知りませんよ、あんたの事なんて」

 冗談抜きで。

 女は一の顔に自分の顔を近付ける。一は流石にたじろいで、身を捩った。女は一の体を抱き寄せて、一の瞳を見つめる。

「マジなのか、それ?」

「マジです……」

 一は必死で視線を逸らし、女から距離を取ろうと試みた。

「そりゃ悪かった」

 女は一から手を離す。

「人の腹殴っといてそりゃ無いでしょうよ」

「謝ったじゃねえか」

 本当に悪びれる様子も無く、女は尊大に腕を組んだ。

「じゃあアレか。金でも渡せって言うのか? それともアレか、オレの体を寄越せってか?」

「……いえ。俺が悪かったです。引き分け。ドロー。このままお互い別れましょう。今日の事は水に流して」

「つまんねえ奴だな」

 結構です。そう言って一は女に背を向けて再び歩き出す。振り返らず、歩く。

「へっくしっ!」

 豪快なくしゃみが後ろから聞こえてきた。一は少しだけ迷って立ち止まる。頭を掻きながら振り向いて、歩き出した。

「どうした? やっぱりオレの体が惜しくなったか?」

 へへっと女が笑う。一は無視して傘を差し出す。

「今更ですけど、使ってください」

 女は一と傘を見比べた。

「……お前が濡れるだろ。オレは良いよ、もうずぶ濡れだから気にすんな」

「俺が気になるんです。良いから使ってくださいよ」

「駄目だ。お前が使え。唯でさえ弱そうなツラしてるんだから、風邪でも引かれちゃ寝覚めが悪くなら…………へくしっ!」

 一は無言で傘を差し出す。

「……なあ、お前鼻紙持ってないか?」

「家になら……」

「分かった。じゃあ傘は要らねえ。紙をくれ。お前の家、こっから近いのか?」

 女は勝手に歩き出し始めた。

「俺の家!? 来るんですか?」

「傘貰う訳にゃいかねえだろ?」

 少しの間、一は立ち尽くす。

 ――どうせ、家には誰も居ないんだ。

「良いですよ。こっちです」

「お、そっちか。ところでさ、お前んち酒ねえか?」

 女――山田栞――は豪快に笑った。



「一人暮らしか?」

「え……?」

 一の部屋に入るなり、山田はそう問いかけた。

「……そう見えますか?」

「見えねえ。歯ブラシとか、コップとかさ、どう見てもペアじゃねえか」

 山田は部屋を見回しながら事も無げに言う。

「女の人ってそういうの敏感なんですね」

 一は感慨深げに言って、山田にタオルを手渡した。山田は受け取ったタオルで髪の毛を拭き始める。

「部屋に上げても良いのか? 彼女がいるのによ。オレだって一応女なんだぜ」

「いや、良いんです」

「ふーん。振られたのか? 案外、自殺志願ってのも百パー嘘とは言えなかったんじゃねえか?」

 一は言葉に詰まった。

 その様子を見て、山田はばつが悪そうにタオルへ顔を埋める。

「あー、悪ぃ。冗談のつもりだったんだけどよ」

「そんなんじゃ無いですから」

 一は軽く笑った。誤魔化すような、そんな笑み。

「そうか? それなら良いんだけどよ」

「ああ、着替えは置いてあるジャージ使ってください」

「……良いのか?」

 一は頷く。

「そんじゃ有り難く使わせて貰うぜ」

 山田は笑ってタオルをテーブルの上に置き、しかしジャージに手を伸ばす事を躊躇っているような、そんな素振りを見せる。

「? どうしました?」

「いや、あのよ。言い辛いんだけどさ。お前、オレの着替え見たいのか?」

「……着替え終わったら呼んで下さい」

 頭を掻きながら一はアパートの廊下に出た。扉をゆっくりと閉め、深く息を吐く。

「まずった……」

 ――あの人はそんなの気にしなかったから。

 扉に背を預け、一は廊下に腰を下ろした。



 変わった奴。

 山田の一に対する第一印象はそれだった。初対面の相手に、それもフリーランスである自分に喧嘩腰で対応する人間なんてそうはいない。おまけに自分を殴った相手を部屋に招き入れる。とんでもない奴だと、山田は内心で笑った。

「おい、良いぜ」

 扉越しに声を掛けると、一は少し躊躇しながら部屋に入ってくる。

「サイズ、大丈夫ですか?」

「おう。ちょっと胸が苦しいけどな」

 山田の言葉に一は苦笑した。

「服、洗っておきましょうか?」

「……お前って変わってるよな」

「そうですか?」

 意外そうに一は答える。彼のその態度に、やはり変わっていると山田は改めて思った。

「この際だ。頼むぜ」

「分かりました。あーと、その……」

 言いよどむ一を山田は睨む。

「男だろ、はっきり言え」

「あー、じゃあ、あなたの事、何て呼べば良いですか?」

 思っても居なかった質問に、山田の顔がきょとんと固まる。

「は、ははっ。やっぱお前って面白いな。オレの名前か? そうだな……」

「聞いて良い事かどうかは分かりませんけど、どうして名前で呼ばれるのが嫌なんですか?」

「聞いてんじゃねえかよ」

 山田は笑った。

「アレだ、『山田』なんて普通の名前、オレは嫌いなんだよ。面白くもなんともねえ」

「月並みですが、全国の山田さんに失礼な発言ですよ」

「まさかお前も山田じゃないだろうな?」

「違います。俺の名前は数字の一が二つで、一一(にのまえ はじめ)です」

「へえ、珍しい名前だな」

 心底羨ましかった。

「オレのと交換しようぜ」

「冗談でしょ」

「ちょっと本気だった。所でよ、何で(はじめ)はオレの名前知ってたんだ?」

 一は少しだけ表情を変える。

「……『神社』の話は聞いてましたから」

「へへっ、オレも有名になったもんだな」

「で、何て呼べばいいですか?」

 山田は思案する。

「そうだな、特別に栞って呼んで良いぜ。下の名前はそんなに嫌いじゃねえんだ」

「じゃあ栞さん。聞きたい事が一つあるんですが、聞いても良いですか?」

 一はこたつの電源を入れながら山田に尋ねた。

「オレが答えられることならな」

「それじゃあ、あの、どうして駒台に来たんですか?」

「オレがフリーランスだからだ。この街にゃ、どうもソレが多く出るらしいって聞いたからな」

「……本当にそれだけですか?」

 しつけえ奴だと、山田は舌打ちする。

「確かお前勤務外だったな。あんだよ、『神社』の情報収集でも頼まれてんのか?」

「単なる好奇心です。あ、すいません話したくない事があるなら別に構いません」

「ふーん……」

 という事は、山田がこれ以上何も話さなければ、一に話したくないような事があると、そう取られてしまう。

「腕っ節はねえのに、弁は立つんだな」

「えっと、俺が、ですか?」

 そうだよ、と山田はぶっきら棒に言った。山田は一が鈍い奴だと思うのと同時、羨ましくも思う。

「ヒントだけやるよ。一、お前勤務外だろ? 飯の種取られちまったらオレも生活が成り立たなくなっちまうからな」

「でも、や――栞さんって本業は杜氏じゃないんですか?」

「なんだ、知ってんのか。まあ、酒造りは訳あって今休業中だ。フリーランスがオレの本業になってるんだよ」

「へえ……」

 一はまじまじと山田の手を見つめる。

「な、何見てんだよ」

「手、綺麗だなって。そう言えば、杜氏の人の手は綺麗って聞いた事ありますね。お酒って肌に良いんですか? 化粧品にも使われてるって聞いた事があるんですけど」

「しっ、知るか!」

 山田は咄嗟に手を隠して、一を怒鳴りつけた。

「馬鹿! オレの話を黙って聞いてろ!」

「ご、ごめんなさい」

 息を整え、山田は少し声を潜めるように話を続ける。

「……一、八俣遠呂智(やまたのおろち)って知ってるか?」

「八岐大蛇ですか? えっと、でっかい蛇の怪物です、よね」

 一はこめかみを指で押さえながら、たどたどしく記憶を辿る。

「おう。流石に知ってるか。じゃあな一、その八俣遠呂智がこの街、駒台に出るって言ったら、お前は信じるか?」

「じゃあ、栞さんがここに来たのは……」

「違う! 仮定の話だ。出るって言ったらって、そう言ったろ! 出るとは言ってねえ!」

「……ああ、そうでしたか。にしても、八岐大蛇。んー、俄かには信じられない話ですね」

 一は考え込む。山田はゴロリと横になった。

「とりあえず、世話になる」

「あ、はい。それで、えっと、ヒントってのは?」

「それだけだ。オレは疲れたから寝る。……寝込み襲おうとしたら、幾らお前でもただじゃおかねえぞ」

「誰も襲いませんよ。それじゃ俺も寝ます。電気消しますよ」

「……おう」

 やがて一の宣言どおり、部屋の明かりが落とされる。

「……やっぱ変わってやがる……」

「何か言いましたか?」

「言ってねえよ! とっとと寝ろ!」



 ――俺は寂しかったのかもしれない。



 山田が目を覚ますと、そこは見慣れないところだった。見慣れない天井、見慣れない部屋。身を起こし、部屋中を見回す。

「……何処だ、ここ」

 ゆっくりと立ち上がり体を伸ばすと、部屋の中央、テーブルの上に自分の持ってきていた酒瓶が置かれているのが目に入った。

 山田が酒瓶を何気なく手に取ると、酒瓶を重しにしていたのか、メモ用紙がヒラヒラと舞い降りてくる。訝しげにそのメモ用紙を拾い上げ、寝ぼけ眼で目を通した。そこには『出かけてきます。昼ごろには戻るので留守番お願いします。一一』と、簡潔に記されている。

「ああ……」

 そこで山田は、ようやく昨晩の出来事を思い出した。ふと、自分の服装を確認する。ジャージだった。自分が今まで着ていた巫女装束を探しても、何処にも無い。冷蔵庫の中から缶ビールを発見したところで、山田は一に洗濯を頼んでいた事を思い出す。

「ちっ、こんな格好じゃ外に出れねえじゃねえか……」

 缶ビールの蓋を開け、一息で半分ほどを飲み干し、山田は横になった。

 ――留守番、ね。

 別にそんな約束にもならない約束を守る必要なんて山田には無かったのだが。



 ――オレは寂しかったのかもしれない。



 山田を部屋に置いてきた事に若干の不安を感じていた一だったが、図書館へと向かうバスの中でまどろんでいる内にそんな事はどうでも良くなっていた。

 陽光が窓を貫く。一の顔を差し、睡魔を差し向ける。

「ふあ……」

 大きなあくびを一つしてから、一は座席に座りなおした。バスの振動が、疲れた体に心地いい。瞼を閉じて揺れに身を任せていると、最寄り駅に到着する事を告げるアナウンスが聞こえてきた。

 やがて、ドアの開く音。一は急いでバスから飛び降りた。久々の太陽の光を全身に受けながら、図書館までの道をのんびりと歩く。気持ち良かったが、それも束の間のひと時。陽光は曇り空の切れ間から、僅かに顔を覗かせているだけだった。

 一は右手に持った傘を握りなおし、空を見上げる。また今日も、雨が降るのだろう。



 彼らは寂しかったのかもしれない。



 つくも図書館。一はその施設の扉を潜り、館内の空気を吸い込んだ。本の群れに囲まれた一は何気なく周囲に目を遣る。お目当ての()は受付でぼんやりと立っていた。

「仕事しろよ」

 受付に近付き、一は気さくに声を掛ける。

 声を掛けられた人物は、一の存在など気にも留めていないという風に、ちらりと一を一瞥しただけで、また視線を宙に向けた。セーラー服の上からエプロンを着た、眼帯の少女。一はその人物、黄衣(きごろも)ナコトに「おい」ともう一度呼びかける。

「……ナンパならお断りです。死んで下さい」

「お前さあ、命の恩人にそんな口利いて良いわけ?」

 溜め息を吐き、ナコトはやっと一に向き直った。

「恩着せがましい人は嫌いです」

「そりゃ悪かった。だけどこれだけは言わせてくれ、お前をナンパする気なんざねえよ」

「どうでしょうかね」

 ナコトは侮蔑の感情を瞳に宿らせて一を睨む。

「最近、と言いますか、あたしがこの図書館で働かせてもらってから、頻繁に、或いは定期的に男性から声を掛けられるんです」

 一はそこで、ナコトを何となく見た。何となく。

「まあ、口さえ利かなきゃそこそこに見えるからなお前。文学少女っつーの? 何か儚げって言うか」

「フォローのつもりですか? あたしは非常に不愉快です。下劣な輩の下劣な視線を受けているあたしの身にもなってみて下さい。そんな事、絶対に言えませんから」

「案外良い気分なんじゃねえの?」

 ナコトは無言で一を見た。一はその視線に耐え切れず顔を逸らす。

「ごめん」

「分かってもらえれば良いです。許しましょう。あたしは空よりも高く海よりも広くあなたよりも確実に寛大な心を持っていますから」

「……まあ、上手くやってるようで何よりだ。九十九先生や先輩の司書さんとは仲良くやってるか?」

「あなたはあたしの保護者ですか? 違うでしょう。ならそんな口を利かないで下さい。ナンパ目的の男性客よりも目障りです。癇に障ります。有体に言えばむかつきます」

 一は押し黙った。

「九十九館長には非常によくして貰っています。先輩も、あたしと本の趣味が似てて話していて楽しいです。フリーランスやってた時よりも、少しだけ楽しいです」

 ナコトはそう言って、微笑む。一はゆっくりと頷いた。

「そっか。それは良かった。本当に良かったよ。でもな、最初から素直にそう言ってくれれば俺の心は傷つかなくて済んだのに」

「ニヤニヤ。年下に翻弄される気分は如何ですか?」

「非常に不愉快です。もう帰りたいです」

「お客様、お帰りはあちらになります」

「くそっ! 板に着いててなんかムカつく!」

 完全に手玉に取られていた。

「それより、何か用事があったんじゃないんですか? それともあたしに会いに来ただけなんですか?」

「分かってると思うけど、お前じゃなくて図書館に用事があるんだよ」

「分かってます。自分でも言ってて吐きそうになりました」

「……お前に仕事を頼みたいんだけど」

 一は会話を打ち切る。これ以上は身が、心が持たなかった。

「仕事?」

 ナコトは不思議そうに聞き返す。

「うん。ちょっと気になる事があってさ、調べ物に来たんだけど……」

 一はグルリと館内を見回した。

「本が多すぎて、俺だけじゃ資料を集めるだけで日が暮れちまう」

「成る程。そこであたしの力を借りたいと。そう仰るわけですね」

「うん。手伝ってよ」

「気安いですね」

 ジロリとナコトは一をねめつける。

「幸い今は館内に人も少ない事ですし、日本人の伝統芸能、土下座の一つでもして貰いましょうか」

「……ついでに足でも舐めりゃ満足か?」

「俗物! あたし、あたしっ! あなたの事を信じていたのに……」

 ナコトは顔を手で覆い隠し、泣き崩れる。

 一は肩を落とし、頭を抱えた。

「なあ、手伝ってよ……」

「そうですね、苛めるのも飽きた事ですし。哀れな迷える子羊に魂の救済をして上げましょう」

「お前漫画の読みすぎじゃねえ?」

 ナコトはカウンターを出て、一の傍に立つ。

「何についての資料をお求めで?」

「八岐大蛇だ」

「という事は、そうですね。日本書紀や古事記、竜や蛇に纏わる伝承……。その辺りを何十冊か持って来れば足りますか?」

「……充分だよ。俺も手伝おうか?」

「お客様にそんな事はさせられません。あなたは、そう、ですね。二階の隅の席を取っておいて下さい。十分ぐらいで持ってきますから」

「って言うかさ、図書館って非営利じゃないの? お客様とかお前が言いたいだけじゃねえ?」

「黙って席に着いといて下さいお客様。館内では静かに、その汚い口をしっかり閉じておいて下さいお客様」

「語尾にお客様付ければ良いと思うな! 逆に不愉快だ!」

 一は憤慨した。酷く憤った。それでも、ナコトの指示通り、二階の隅の席にきちんと座って待つ。情けない事に、ナコトには何故か逆らえなかった。



 ぼんやりと席に座って待っていると、十分もしない間に、ナコトは本を抱えて一の元へとやって来た。

「すげえ。ちょっと見直したぜお前の事」

「ありがとうございます。重いからとっとと本を受け取って下さい」

「……あ、うん」

 一はナコトの持っていた本の半分ばかりを受け取り、机の上に置いていく。ナコトもそれに倣って本を置いていく。本の総数は二十にも上っていた。

「ありがたいけど、こりゃしんどそうだ。昼頃には戻れないな……」

「約束でもしてるんですか? あなたのくせに」

「一々毒を吐くな。俺に恨みでもあんのか」

「……いえ、無いです」

 ナコトは俯いて、深刻そうな顔つきになる。

「え? な、何?」

「実はあたしって毒舌家なんですよ」

「『実は』は付けなくて良いから」

「これは実話なんですが、あたしって毒舌家なんですよ」

「それならオーケー」

 一は続きを促した。

「あたし、イライラを溜め込んでしまうタイプなんです。ほら、あたしってお淑やかだから、人には強く言えないし、物には当たれないし……」

「……それで?」

「でも、定期的にストレスを発散させないと、凄く苦しいんです。死んでしまいそうになるんです。最近は……鬱陶しい人も良く来るんです。いえ、鬱陶しい人しか来ないと言うべきか……。でも、一応、一応、一応はお客さんだし、あたしは司書だから、何も言えないんです」

「嫌な予感がするけど、お前の言いたい事は分かった」

「そうですか、分かってもらえましたか。それでは、死んで下さい」

 ナコトは嬉しそうに微笑む。一はグッと堪えた。

「……つまり。アレか、毒を吐かなきゃしんどいのに、周りにそんな事を言える人間が居ないと。だから、あー、だから……」

「あなたはあたしにとって無くてはならない特別な存在です」

「嬉しくねえ……。本当に嬉しくねえ……」

「さあ、八岐大蛇について調べましょう。あなたはこっちの本を読んでください」

 ナコトは一に本を手渡す。

「……いや、別にそこまでは手伝ってくれなくて良いんだぞ」

「暇ですから」

 それだけ言うと、ナコトは本に視線を落とした。仕方なく、一は手渡された本の表紙を確認する。『サルでも分かる! 足し算引き算! 目指せ霊長類ナンバーワン!』

「てめえ!」

「館内ではお静かにっ、館長に進言してあなたを出入り禁止にして貰いますよ」 

「ぐっ……!」

 本当に有り得そうだったので一は黙った。敗北感で胸が一杯だった。



 そこは駒台の郊外だった。建設途中で放り出されたビルが連なる、廃墟じみた通りだった。駒台住民は、殆どそこには近付かない。夜な夜な不良じみた若者が屯するし、何よりそこら一帯は明かりも無く、不気味だった。

「久しぶりね」

 だから、彼らには都合が良かった。

「……一年ぶりか」

「二年よ」

 廃墟と化したビルの一つ。そこに彼らは居た。彼ら。男と女の二人組。昼でも暗い、朽ちたビルの中。彼らの姿はまるでシルエットみたいになっていた。

「どう? 元気でやってたの?」

 女の問いに、男は小さく笑う。

「お前が言うか。ふっ、あそこはどうだった?」

「地獄よ。一切の誇張表現無しにね」

「だが、出られたようだな。流石は俺の元相棒だ」

 男は座ったまま銃の手入れをしていた。銃身が長く、スコープのついている銃だった。

「まだ、それ使ってんのね」

「ああ。何年経とうが俺は俺だ」

長雨(ながあめ)。あんたは変わらないのね」

 長雨と呼ばれた男は作業の手を止める。

「お前は変わったようだ。少しだけ丸くなったか?」

「ふん、私のナイスバディはあの頃のままよ」

「……その様だな」

 女はゆっくりと歩を進め、男――長雨――の対角線上の壁に背を預けた。

「ここには何の用?」

「元フリーランスの言う事とは思えんな。決まっている。フリーランス(おれ)が動くのはいつだって自分の為だ」

「あんたの網に、大物でも引っ掛かったのかしら?」

「まだだ。まだ網には何も掛からん」

「そ」

「だが、もうすぐ掛かるさ」

「なら、私も一口乗らせてもらおうかしら?」

 そこで長雨は初めて表情を見せる。驚きの表情。

「ふん、どういう風の吹き回しだろうな」

 長雨はサングラスの位置を直す。

「昨日には昨日の、今日には今日の、明日には明日の風が吹くってね」

 女は一歩足を踏み出した。

 廃墟ビルの一室。曇っていた空の所為で、今まで光が差し込んでいなかったその一室に、一筋の陽光が差し込む。部屋は少しずつ照らされていった。長雨と呼ばれた男の姿がハッキリしていく。

 長雨は、サングラスを掛けた、ラウンド髭を生やしている強面の男だった。精悍な、幾つもの修羅場を潜って来たような顔つき。年齢は二十代後半から三十代前半だろうか。髪型は短いパンチパーマ。背は高く、筋肉質のたくましい体つき。黒いスーツが男には良く似合っていた。

「あら、あんた全然変わってないのね」

 女の姿も、少しずつ明らかになっていく。長雨同様、黒いスーツに身を包んでいた女の背も高かった。長く美しい黒髪。整った顔立ち。瞳は酷く冷たい。自分以外の全てを見下しているかのような、女のプライドの高さを窺わせるような、そんな眼だった。

「お前もな。あの頃と変わっていない。安心したぞ」

「なら、これでフリーランス『天気屋』の復活って所かしらね」

「良いだろう。糸は錆び付いていないだろうな?」

「死神の名は伊達じゃないわ」

 女は長雨の挑発を受け、内ポケットから自身の獲物を取り出す。穴の空いたグローブをはめ、女は長雨に対して手招きをした。

 長雨は傍らに置いてあったハンドガンを無造作に掴み、女へと発砲する。発射音がけたたましく響いたが、廃墟と化したビルの周囲に人影は存在しない。

 問題なんて全く無かった。

「どう?」

 問題なんて全く無かった。

「合格だ。良いだろう。『天気屋』の復活だな」

 長雨は大した感動も見せずに、それだけ言うと銃の手入れに戻る。

 女は自身の獲物、糸を室内に張り巡らせて、自分を狙った弾丸を木っ端微塵に切り刻んでいた。退屈そうに糸を巻き戻し、弾丸だった金属片を足で踏み付ける。

「獲物は?」

「ヤマタノオロチだ。久々のビッグネームだな」

「良いわね――」

 女は笑った。

「――稼げそうじゃない」

 フリーランス『天気屋』。

 糸を操り、意図を操る稀代の詐欺師。

 黒髪の死神。

 天上天下唯我独尊の裏切り屋。

「ところで相棒。今まで、どうやって暮らしていたんだ?」

「ああ、ちょっと勤務外とかやってたのよ」

 元、オンリーワン北駒台店勤務外店員。

 元、一一の厄介な同居人。

「中々楽しかったわ」

 糸原四乃。

 糸原はそう言って、もう一度笑った。

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