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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
やまたのおろち
63/328

SNAKE STALKER

 雨は今日も降り続いていた。

 昼過ぎに雨音で目を覚ました一は、糸原が居ないことに気付く。時計を見ると、既に勤務時間は過ぎていた。店から電話が無いことから、糸原が仕事に行っているのだと一は安心する。午後から講義を受けようが迷ったが、雨が降っていたので一は寝なおそうと決意した。雨は、どうにも全てを鈍らせる。

「……ふあ……」

 あくびを隠すことも無く、一は大口を開けた。こたつのスイッチを入れ、温まるのを待つ間テレビを見て時間を潰す。足元から、徐々に温度が上がっていくのを感じ、気持ちが穏やかになるのを感じた。充分な暖かさになったのを体で確認し、枕に頭を預ける。目を瞑れば、睡魔はすぐに大挙してきた。雨音を聞きながら、まどろむ意識に全てを委ねていく。

 コン、と。

 そこで一は雨音以外の音を聞いた。何かを叩いたような、軽い感じの音。

 コン、と。

 もう一度、その音が聞こえた。一はやっと、自室の扉がノックされている事に気付く。新聞か、宗教の勧誘だろうと思い込み、一は無視することに決めた。

「おい、坊主。いねえのか?」

「……んー?」

 扉越しに聞こえてくる無骨な男の声。一はその声に聞き覚えがあった。

「今日はあの女もいねえのか……」

 独り言のようだったのだが、その声は一の耳にも届くほどの声量。

 仕方無しに、

「今日は誰も居ませんよ」

 と、寝ながらの姿勢で言った。

「あ? 居るじゃねぇか!」

 突込みが返って来る。

「まあ良い。あの詐欺師が帰ってきたら言っとけ。この間の負け分は取り戻すってな」

「はーい」

 適当に返事をし、一は寝返りを打った。

 やがて、廊下を進み、階段を下りていく音が聞こえてくる。声の主は帰ったのだろう。声の主の、北英雄(きた ひでお)は。階下に住む、このアパートの住人。中年の男性。一は数回だけ北の姿を確認した事があるが、よれよれのシャツに、よれよれのズボン、無精髭の、適当な感じの独り身の男性。北の姿は常にそのような物だった。酒と煙草と賭け事が大好きな、典型的な駄目な大人と、一は北の事をそう認識している。

 一は殆どの場合。こうして北と扉越しにしか会話を交わさないが、糸原はちょくちょくと北の部屋に遊びに行っているようだった。そして、北は間違いなく糸原に遊ばれているようだった。有体に言えば、鴨にされている。賭け事が好きな北。賭け事が好きな糸原。賭ける物は勿論、金だった。そして糸原は、一が思っている以上に詐欺師だったようで、時たま北からイカサマ紛いのギャンブルを仕掛け金を巻き上げている。その金は、一には一円たりとも入ってこない。全て糸原のポケットマネーになっていた。

 と言うわけで一は、北、と言うこのアパートの住人に同情めいた仲間意識を抱いている。



「……ちっ」

 オンリーワン北駒台店には険悪な雰囲気が漂っていた。フロアには、外からの雨音と誰かが時折発する舌打ち以外、他の音は一切無い。その雰囲気を作り出していたのは、午前からシフトに入っている糸原と、昨日の深夜からシフトに入っている三森だった。

 三森と糸原。

 この二人は、他の北駒台店のメンバーも認める仲の悪さである。そして当人たちもその事は自覚していた。つまり、自他共に認める犬猿の仲。理由は今となってはハッキリしないし、当人たちも口を割ろうとはしないが、とにかく三森は糸原の事が嫌いで、糸原も三森の事が嫌いだった。お互いがお互いの事を自分の視界から消えて欲しいと願っている。馬が合わないなんて生易しい物ではない。隙あらば、殺してやろうかなんて考える事もあると、彼女らは一に話した事があった。

「ちっ」

 牽制。

 糸原は三森の方を見ないで舌を打つ。

 そうまでしてお互いの事が嫌いならば、どちらかがどちらかの目の届かない場所――バックルームなど――に行けば良い物だが、彼女らはそうはしなかった。どちらかが離れれば、離れた方の負け(・・)になるから。そう、彼女らは認識している。だから、こんな異常な雰囲気を作り上げた二人は、異常な雰囲気の中で立っていた。ある種、自業自得。

 そして今日はとびきり最悪な日だった。降りしきる豪雨。常に耳を刺す雨音。雨が降れば憂鬱な気分になる人間は、決して少なくない。三森も糸原も、そういう人種だった。いつにも増して店内は険悪だった。最悪だった。その空気を察してか、今日は立ち読み客ですら居ない。入ってくるには入ってくる客も居たのだが、カウンターで悪鬼の様に立っている三森、もしくは糸原を見て、何も買わずにそそくさと立ち去っていくのだ。全く以って、店としての機能を成していない。

 そもそも、店長がこの二人を一緒のシフトにしなければ良いのだが、贅沢を言っていられないほどに北駒台店の人員は不足していた。一般も、勤務外ですら足りていない。ギリギリのシフト。それでも一時期よりはマシだと言える。三森も糸原も、その事を分かっているが故に何も言えない。何も言わない。

「暇……」

 糸原は立ち疲れたのか、カウンターに飛び乗り腰を下ろす。無意味にレジを開け、札束の枚数を確認していく。

「いちまーい、にーまーい、さんまい、よんまい、ごーまい、ろくまい……」

「うぜェよ! 声に出して数えんじゃねぇ!」

 糸原の平坦な抑揚が気に障ったのか障らなかったのか、とにかく三森は糸原に噛み付いた。

「……ななまい、はちまい、きゅうまい、じゅうまい……」

 三森は舌打ちして、煙草に火を点ける。いつもならば一が店内で喫煙する事を咎めるのだが。

「じゅういちまい、じゅうにまーい、じゅうさんまい……。……、いちまい、足りない……」

「店長に報告しとけよ」

「犯人は誰……?」

「てめェしかいねーだろうが!」

「あー! 退屈!」

 数えていた札束をレジ内に乱暴にしまいこみ、糸原は乱暴にレジを閉めた。

「そんなに退屈なら外掃除して来いよ」

「……あんたが行ってきなさいよ」

「こンな天気の日に外うろつくアホはいねェよ」

「私だってわざわざ濡れに外出るほど馬鹿じゃないわ」

 そこで、二人は気が付く。その、アホと馬鹿が居る事に。いつの間にか店内には、客が居た。背の高い、女性客。その客は滅茶苦茶に体を濡らしている。

「何アレ、コスプレ……?」

 糸原がそう呟いてしまうのも無理からぬ物だった。その客は、白い小袖に緋袴を着用しており、糸原のイメージしている巫女にピッタリだった。ただ、袖のところは乱暴に破られており、顔立ちこそ整っているが、女性客は巫女と呼ぶには相応しくない豪胆な雰囲気を備えている様に感じられる。短い銀髪も、腰に下げた小さな酒瓶のような物も、彼女の体も濡れていないところなど無く、歩くたびにフロアを水浸しにしていった。

「ちっ、本当にアホがいやがった」

 三森は女性客の振る舞いに辟易する。誰が掃除するんだと、内心で毒づいた。

 ……尤も、掃除をする気は端から三森には無かったのだが。

「あ。帰った」

 巫女装束の客は、店内を適当にうろついただけで何も買わずに出て行ってしまう。傘も買わずに、雨の降る外へと、出て行ってしまう。

「頭おかしいンじゃねぇの、あいつ」

「そうね、あんたは頭が悪いけどね」

 さらりと糸原は言い放った。

「……最近の新人は言葉遣いもわからねェらしいな」

「年は私の方が上でしょ。働いた年数なんかより生きた年数を敬いなさいな」

「ようは言い方だよなァ、良いか、私はお前と敬老の日が大嫌いなンだよ」

「私は年寄りが嫌いよ。この国の平均寿命って長すぎると思わない? 人間五十年って豊臣秀吉も言ってたじゃない。日本が狭いのは全部死に際を見誤った奴らの所為よ。昔日本を支えてくれたって言っても、もう良いじゃん。とっとと極楽浄土に行きゃあ土地はもっと余ってみんなハッピーになるのに」

「老害ってのは、しゃあねェだろ。そんなモンだろが。私が敬老の日が嫌いなンは、年寄りを敬うのは祝日にするほどだと思ってねーからだ。私の婆ちゃんは馬鹿にすンな。まあ、概ね分かる気もするけどな。それと、人間五十年って言ったのは織田信長だぞ」

「鳴かないの? それなら良いわ、殺すから。一句出来たわね」

「季語がねェぞ」

「うっさいわね、マザコ……。グランドマザコン」

「ンだとコラァ!?」

 仲が悪い。まあ、そんな物である。



 彼女は蛇を探していた。小さな、とても小さな蛇である。小さすぎて見つからないような、そんな蛇。

 雨の降りしきる中、彼女は銀髪が濡れる事も厭わず、服が濡れるのも構わず、蛇を探し続ける。それが彼女に、フリーランス『神社』に課せられた任務だった。そして同時に、山田栞(やまだ しおり)に背負わされた使命でもあった。

 使命。

 栞の背には、少しばかり重い物。重すぎて、背中はとっくに麻痺している。何も感じられなくなっている。何も、感じたくはない。だから、只管になって蛇を探す。見つかる見つからないは関係無い。とにかく、考え事をする前に体を動かしていたかった。

 栞は腰に手を伸ばし、酒瓶のような物を手に取る。逡巡してから、瓶の中身を口に含んだ。

 ――美味かった。

 瓶の中身は酒。肴は、雨で良い。他には何もいらない。雨を眺め、雨に打たれ、酒を呑む。

 それだけで、充分だ。

 栞は口の端を釣り上げ、空を見上げる。

「今日も元気だ酒が美味いってな」

 大きなくしゃみを一つ放ち、栞は鼻を豪快に啜った。



 惰眠を貪っていた一は電話のベルによって叩き起こされた。寝ぼけ眼で、寝起きの頭で、もはや条件反射の様に受話器を取る。

「……もしもし」

 少しだけ声が不機嫌な物になっていた。

『早田だ』

 短く答えた、偉そうな調子な電話の向こう。

「なんだ早田か、切るぞ」

 答えを待たず一は受話器を置いた。電話を切った。一秒と経たずに電話が鳴る。

「もしもし」

 平坦な調子で一は喋った。

『早田だ』

「なんだ早田か、切るぞ」

『駄目だ。私の心が持たない』

「緊急の用事か? いつも言ってんだろ、電話するなって」

 一は電話が好きではない。ぼんやりとしている時に、急に音が鳴るものは苦手だったのだ。

『む。だが先輩にはやはり携帯電話をお勧めしたい』

「……苦手なんだ。って、これも前に言ったろうが」

『私はもっと先輩と他愛無い事を夜中に話したり、メールで益体も無い事柄についてやり取りしたいのだ』

「ふーん。俺が携帯買ってもお前にだけメリットがあるよな。フェアじゃないぞスポーツマン。俺は携帯電話を購入すればどんなメリットが得られるんだ? 返答次第では考えない事も無い」

『一肌脱ごう』

 スポーツマンには突っ込みを入れず、早田はさっぱりと言う。

『とは言っても既に全裸なのだがな』

「あっそ全裸ね。ってことは今家か。随分とフリーダムだな、今家には家族居ないの?」

『いや、今リビングでお母さんと再放送のドラマを見ている』

「俺がお前の母親なら、泣いてるかお前の顔面ぶん殴ってるわ」

『先輩に殴られるなら吝かではない……。と言うか望ましいぐらいだ。どうだ先輩、今ここで言葉責めをすると言うのは?』

「どうだじゃねぇよ。つーかさ、お前のキャラ設定に色々と問題があるような気がしてきたぞ……。お前はもっとさ、爽やかなスポーツ少女じゃ無かったか」

『確かに処女だが』

「少女だよ馬鹿!」

『すまん、先輩の滑舌が悪くてな』

「だからお前の耳が悪いんだよ!」

『それより先輩、先輩の家は大丈夫か?』

「は?」

『雨だ。四日前からずっと降っているだろう。先輩の家は川の近くではなかったか?』

「……いや、結構距離離れてるし大丈夫だと思うけど」

 成る程と、一は納得した。早田は川の氾濫によって一の家が床上浸水の被害に遭っているのかどうか気になっていたらしい。

『そうか、それなら心配ない。実は私の家の近くに川があってな。滅茶苦茶増水しているのだ』

「この雨だもんな。お前んちは大丈夫なのか?」

『問題ない。ただ泳げそうに無いな。せっかく水着を着ていったのに』

「今は冬だとか色々突っ込みたいけどさ、もう良いよ電話切って良い?」

『まだ喋り始めたばかりだろう。切らないでくれ、切ったら先輩の家まで水着で押しかける。いや押し倒す』

「何で水着前提なんだよ! だからお前は俺の家に上げたくないんだ!」

『ちゃんとスクール水着だ』

「ちゃんとの意味が分からない!」

 しかし一の心は揺れている。

『しかしこの天気では学校に行くのも憂鬱だな。実際昨日から私は、自主休講の形を取っている』

「部活も出来ないしな」

『その通りだ。まあ、部活は良いとして。私としては先輩の顔が見れないので酷く寂しい』

「それはどうも」

『しかも休む前に私が学校で最後に見たのが楯列だったのだ。最悪だ』

「別に良いだろ。あいつは元気にしてたか?」

『川に突き落とした』

「あいつ泳げるのかな」

『バタフライで下流まで下っていった』

「俺、お前らと距離を置こうかと思うんだ」

『実行しなければ別に構わないぞ。思うだけなら先輩の自由だ。さあ、好きなだけ私の事を想ってくれ』

 一は電話を切った。一分も立たない内に電話がけたたましく鳴る。

「もしもし」

『早田だ』

「もー、何だよ。何か用でもあんのかよー」

『投げやりにならないでくれ。私はただ先輩の声を聞きたいだけなのだ。顔を見れないなら、せめて声だけでも聞かせてくれ。あまり先輩が私に冷たいと、そっちに行ってしまうかも知れない』

「脅迫かてめぇ。つーかな、来れる物なら来てみろ」

『分かった。しばし待て』

「ちなみに俺引っ越したから」

『……いや、先輩の(オド)は移動していない。引っ越したのは嘘だろう』

「なあ、気って何? 何なの? お前って何なの?」

『私は先輩の可愛い後輩だ』

「可愛さあまって憎さ歪を越えた百二十パーセントだよ」

『それじゃあ今から行くぞ。裸で待機していてくれ』

「なっ……! 辞めろ、来るな!」

 クックックッと、早田は喉の奥で笑う。

「なんだその悪役笑いは」

『先輩は照れ屋さんだな。良いだろう、裸に靴下で待機していてくれ』

 一は咄嗟に武器になるようなものを探した。今現在、糸原はバイト中だし、この部屋には自分一人だけだ。今から助けを呼んだところで間に合うとは思えない。

「待って。待て待て待て。今からじゃお前の体が濡れてしまう。お前はフットサル部の宝なんだ。体を冷やすな。辞めてくれ、俺はお前の事を思って言っているんだ。頼むから来るな」

『心配は無用だ。もう濡れている』

「聞かないから。俺は何も聞いてないから」

『ああ……、昂ぶってきた……』

「荒い息遣いを辞めろ!」

『はあ、はあ、すぐに行くから……』

「やめてぇ!」

『む。ドラマが良い所に差し掛かった。先輩、済まないがまた今度』

 ブツリと、あっさり電話が切られた。一はしばし受話器を眺め、安堵の溜め息を零す。しかし、自分よりドラマを優先された事に言い知れぬ何かが湧いて来た。

「……やだ、嫉妬してる……?」

 考えれば考えるほど気持ち悪かったので、一は寝ることにした。雨音がやけに煩い。雨なんて、止んでしまえば良いのに。降らなければ良いのに。



 夜になると、雨は上がっていた。

 一はゆっくりと身を起こす。テレビをつけて、ぼんやりと映像を眺めた。内容は頭に入ってこない。世界のドコドコでソレが現れた、誰かが事故で死んだ、そういう事柄は聞き取れるが、それだけだ。それ以上の事は耳に届かない。頭に入らない。晩御飯はどうするか、考えているとアパートの階段を、誰かが上る音が聞こえてきた。その音は規則的にコツコツと響き、一の部屋の前で止まる。

「私よ」

 一には聞き覚えのある声だった。しかし、疑念が沸き起こる。果たしてこの声は、本当に糸原の物だろうかと。

「……合言葉を言え」

「はあ?」

 ドア越しから呆れた声。一は怯まない。

「でないと開けません」

「……四乃さんの包容力は世界一!」

 無言で一は扉を開けた。開けた瞬間額を殴られる。

「何のつもりよ!」

「俺の貞操が掛かってたんです!」

「掛かってたのは鍵じゃない! あんたの貞操なんて知るかっ!」

 糸原は陰干しにしていたタオルを引っつかみ、適当に髪の毛を乾かしていく。

「あー、帰ってくる途中で雨止んだわ。最悪ね、ホント気分悪い」

「銭湯行きます?」

「そうしよっかな。あんたは?」

「ん。俺も行きます」

「オッケー、あと、私バイト辞めるわ」

「いつですか?」

「今月末。だから、えーと……」

「後、一週間ぐらいですね」

「うん。せいせいするわ」

 何気なく、会話が進む。

「けど、こっからは出て行かないかんね。別の所で働くつもり」

「いや、出て行って下さいよ……」

「るっさいわね。私の勝手でしょ」

 一は銭湯へ行く準備を続けていた。

「ああ、店長が言ってたわよ。なんかでっかいソレが来るかも知れないってさ」

「曖昧だなあ。もっと詳しく聞いてないんですか?」

「さあ。私にはもう関係無いしね」

「はあ、俺も辞めようかな」

「だったらさあ……」

 糸原は髪を拭きながら、

「どっか遠いトコ行こっか。んで適当に働いてさ、適当に暮らすの」

 そんな事を言った。

「……魅力的な提案ですけど。俺学生なんで」

「辞めちゃえば?」

「学校を、ですか?」

「全部。ぜーんぶ辞めちゃえば」

 一は苦笑する。

「そう言う訳にも行かないでしょう。まあ、糸原さんが言ってる事を、考えた事が無いって言ったら、嘘になりますけどね」

「ふーん。……、私とじゃヤなの?」

「そうじゃなくって、出来ないって言ってるんですよ。学校あるし、バイトもあるし」

「だから、私と遠いトコ行くのとさ、今の生活。私と遠いトコに行く方が嫌って事?」

「は……?」

 何を言ってるのかが分からなかった。一は目を見開いて糸原を見つめる。時間が、流れていく。

「冗談よ」

 やがて糸原は、一から顔を背けるように、タオルに顔を埋めた。

「全部、冗談」

 なんでもないように、糸原は笑う。

「………………」

 一はどこか、自分を遠くから見つめているような感覚に襲われた。



 小さかった。

 小さかったはずだった。だが、蛇は力を得た。大きくなった。大きくなってしまった。

 八つの頭の内、蛇は二つ、頭を取り戻した。

「………………」

 『神社』の目を掻い潜り、蛇は進む。

 力を、力を、力を。

 力を取り戻す為に。

 爬虫類特有の、感情の篭らない目が獲物を捉える。地面を這い、壁を這い、獲物に這いよる。獲物のすぐ後ろにまで、蛇は近付いた。

「さあ、行け」

 どこからとも無く聞こえた、冷たい声。それを合図に蛇は口を開けた。毒腺から、毒液の分泌が開始されていく。充分な量を牙に含ませたところで、蛇は噛み付いた。獲物の足に食らい付くと、その箇所から血が滲む。

 噛まれた事にに気付いた獲物は振り返り、自身の足を見て驚愕。必死に振り解こうと足を振り回す。

 しかし、蛇は更に深く牙を突き立てた。薄い皮を、鋭い牙が、貫いていく。穴が空き、血が溢れ、その穴から毒は伝っていった。

 毒は血を辿り、神経に到達していく。獲物の足が震え、膝から崩れ落ち、動けなくなっていく。

 蛇は、牙を一旦外し、先が二つに分かれた舌をチロリと覗かせ、獲物を無感情に見つめた。獲物の顔が恐怖に歪んでいく。助けは来ない。誰も来ない。蛇は口を開ける。牙を見せる。顎を、外していく。

 獲物は、その光景を生まれて始めて見た。故に恐れる。全身が震える。目が、揺れる。蛇は獲物の状態など無視して、顎を限界まで外した。

「いいぞ、食え」

 それもまた合図。蛇はその声を聞き、獲物に噛み付く。爪先から、大きく開いた口を使って、飲み込んだ。

 獲物が悲鳴を上げる。痛みは、無い。肉を、皮を、骨を削がれるのに、何も感じない。食われる痛みは感じない。毒の成分に、痛みを麻痺させるモノが含まれていたのか、とっくに獲物の感覚の方が麻痺していたのか。獲物はただ、悲鳴を上げて、痛みも無いまま、自分の体が少しずつ蛇に呑まれて行くのを見るしか出来なかった。

 食われるままに食われ、呑まれるままに呑まれ。抵抗さえも許されていない。出来ない。生きながら、未だ意識のハッキリしている体のまま、体が食われていくのを、少しずつ壊れていくのを眺める。殺されていく。生きたまま、殺される。

 痛みで失神した方が、獲物にとっては幾分かマシと言えた。否、最高の贅沢と言える。もう死ねた方が楽だと言える。だが、死ねない。体が完全に完璧に完膚なきまでに蛇の口内に体内に消えていくのを、最後の最期まで見届けなければいけない。感じていなければならない。

 確実な死は足元から迫ってきていた。獲物は目の前の全てを投げたように目を瞑る。せめてもの、死へ対する『抵抗』だった。

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