生殺し
自然の脅威。
どれだけ科学が進歩しようと、文明が躍進しようと、人間が進化しようと、自然の力は変わらない。自然の脅威は衰えない。どれだけ高いビルを建てようと、地震が起これば崩れ去り、素晴らしい薬を作っても、嵐が起これば飛んで去り、どれだけ人間が居ても、津波一つも止められない。
古来から、人間の歴史と言うのは自然との、戦いの歴史なのだ。
人間は、正体の分からない、意味の分からない物を酷く嫌う。酷く怯える。だから人間は進化してきた。何でもかんでも、こじつけておきたいのだ。地震の起こるメカニズム。人は何故人を殺すのか。幽霊の正体見たり枯れ尾花。
人間は古来、正体不明の天災を神の仕業だと考えていた。嵐は神の息吹だと、地震は神の震えだと、干ばつは神の怒りだと。人間に対する罰を、神は与えているのだと。一種、信仰である。その一方で天災を非常に恐れていた。自然の力を崇め、称えるのと同時に、怯え、恐怖していた。人間は自然を、動物や生物に喩えていた。
八俣遠呂智
日本書紀では八岐大蛇と表記されている。日本の、有名すぎるほど有名な伝説の生物。八つの頭と八つの尾を持ち、目は鬼灯のように真赤で、背中には苔や木が生え、腹は血で爛れており、八つの谷と八つの峰に跨るほど巨大な、蛇の怪物。八俣遠呂智は、出雲国に毎年現れ、凶暴すぎる気性と凶悪すぎる力を以ってして、生贄を要求していた。だが、その悪逆の限りも一人の勇者によって終わらされる。
スサノオ。
この軍神が八俣遠呂智を退治した。そこで、八俣遠呂智は終わった筈だった。
雨が、降り続いていた。
駒台、一の部屋。
「行きたくないわ」
こたつに潜ったままの糸原が、不意にそんな事を言う。今日の糸原はスーツ姿であった。コンビニのシフトに入っている日は、大抵スーツを着ていて、今日も一応、糸原は夕方からの勤務になっていた。なっていたのだが。
「サボろっかなー」
一は「またか」と内心ウンザリして、糸原を無視して、テレビに意識を向けた。
「最近ずっと気が滅入るのよね。何でだと思う?」
窓に当たる雨の音。アパートの廊下に振り続ける雨の音。
「……雨が降ってるからでしょ」
「何で雨が降ったら憂鬱になんのかな」
糸原はうつ伏せから仰向けの体勢に変えて、天井を見上げる。
「服が濡れるからじゃないですか。濡れたら気持ち悪いじゃないですか、やっぱり」
その答えを糸原は鼻で笑った。
「男なら濡れるより濡らしたいもんね」
「誰もそんな事言っていません。って言うか、そろそろ行かなきゃマジで遅刻しますよ。一昨日も遅刻してたんですから、今日はちゃんと行かないと店長に怒られますよ」
「一昨日『も』じゃなくて、一昨日『だけ』よ。そーれーにー、別に私は怒られたって気にしないもーん。高がコンビニのバイトじゃない。口うるさく言われたら辞めりゃ良いのよ、辞めりゃ」
糸原は悪びれずに寝転がった。
「バイトぐらい行って下さいよ。俺だって雨でめんどくさいけど学校行ってんのに」
「行かなきゃ良いじゃん」
「部屋に引き篭もってるよりかは、外に出たほうが幾分か気が紛れると思いますよ。働いてたら憂鬱な気分もどっか行くかもしれませんし」
「バーカ。働くから憂鬱になんのよ。もう、ずっとこのままで過ごしたいわね。私が死ぬまであんたに養ってもらってさ。ご飯食べるのもめんどいから「あーん」ってして貰ってー、で、寝んの。そんで一生そのまま。うわっ、最高じゃない?」
「俺だって女の子にそんなんされたいですよ」
一はテレビに映っているバラエティ番組をぼんやりと眺めながら、やはりぼんやりと答える。
「……あんたなら、されるんじゃない?」
「誰がしてくれるって言うんですか。イカれたボランティアか聖人君子でも無い限り、俺みたいな奴に尽くしてくれる人間いませんよ」
「んー、ほら、ジェーンちゃんとか」
「あいつにそんな事されるぐらいなら、俺は死を選びます」
「ふーん。勿体無い」
「本当に時間が勿体無い。もう十分前ですよ。今から行けばギリギリ間に合うじゃないですか、ほら糸原さん、ゴーゴー」
やる気なさげに手を上げて、一は糸原を鼓舞した。
糸原は不承不承こたつから抜け出し、体を伸ばして、電話に手を伸ばす。
「電話してる暇なんか有りませんよ」
「……あ、うん、そうそう。私私ー」
一の言葉を無視して、糸原は誰かと会話を始めた。電話越しの声は、一には届かない。一体誰と話をしているんだろうと、不思議がる。
「うん、そう。っつーわけで、オッケー?」
糸原はやたらとフランクに喋っていた。そもそも、一は彼女が真面目に喋る所なんて殆ど見た事が無かったが。一の心配をよそに、糸原は受話器を置く。
「オッケー。一」
糸原は一を見遣り、ガッツポーズを作った。
「あんたが私の代わりに働いて」
一は言葉の意味を理解できずに、脳内で弄ぶ。規則的な雨音を捉えたまま、テーブルに顔を伏せた。
「……誰に電話したんですか?」
「店長。行きたくないっつったら、代わりを探せって。だからあんたが行くって言っといた」
まるでその事が当たり前であるかの様に糸原は言い放つ。
「俺だって行きたくないのに……」
「あんた、何か勘違いしてるわ。あんたが行きたくないって気持ちと、私の行きたくないって気持ち。絶対に私の気持ちの方が上なのよ。だからあんたが行ってくるのが筋ってモンなの。お分かり?」
「分かってたまるか!」
だが結局、一は三十分ばかり遅刻してオンリーワン北駒台店のバックルームに顔を出すことになる。
雨が、降り続けていた。
「お兄ちゃん、眠いノ?」
心配そうに、ジェーンは一の顔を見上げる。
一は大丈夫だと言って、頭を振った。
「遅刻もするし、最近むくんでるヨお兄ちゃん」
「別に俺の顔腫れてなくね?」
「ア、ミステイクミステイク。緩んでるネ、だよ」
「……糸原さんの所為だよ」
止みそうに無い雨。一は気だるげに窓の向こうを見遣る。
「人のせいにしちゃダメだよ」
「はいはい、分かってますよ。でも、ホント眠い。この雨じゃ客も来ないし、裏で寝てても良い?」
「だ、だめっ!」
ジェーンは血相を変えて叫んだ。一はその声の大きさに驚いて、遅まきながら耳を塞ぐ。
「なんだよ、もっと兄を労われよ。俺はこんなにお前の事を愛していると言うのになあ……」
「It is a lie! お兄ちゃんこそ、もっと妹を大事にしてヨ! アタシの方がもっともっとお兄ちゃんの事を愛してるもん!」
「超大事にしてんじゃん」
「……お兄ちゃんはちゃんぽん過ぎるヨ」
「それを言うなら、あー。ちゃらんぽらんか? あ、誰がちゃらんぽらんだ。けしからん、お前をここまで大きくしてやったのは一体誰のお陰だと……。……、いや、大きくないな。すまん」
「Goddamn!」
「汚い言葉を使うなっ」
一はジェーンの頭を軽く叩いた。
「痛い。痛い。お兄ちゃんはランボーだヨ。ホリは優しかったのになー」
「ああ、そうか。帰ってきた堀さんと会ったのか。……、ふーん、そうか、優しくしてもらったのか」
ジェーンは悪戯っぽく笑ってから、
「……気になる?」
一の反応を窺う様に上目遣いになる。
「まあな。今度会ったらお礼言わなきゃ。お菓子貰ったんだろ?」
「もらってナイ!」
「じゃあ何だよ? お菓子に付いてるおまけでも貰ったのか? いや、それとも……」
「何ももらってないヨ……。違うモン。ホリはネ、アタシのことをladyとして扱ってくれたの。……誰かさんと違ってネ」
ジェーンはジト目で一を見た。一はおでんの仕込をしていた。
「ジェーン、がんも取ってきて」
「アタシ、ドクターじゃないんだけど」
「下らない事言ってんじゃねぇよ。癌じゃない。おでんの具に決まってんだろが」
「……アタシそんなの知らないもーん、アイドンノー」
ジェーンは一から視線を逸らし、口笛を吹く。
「だいたい、お兄ちゃん。バイトのくせにSVであるアタシに命令するなんて、十年早いヨ」
「どっちかって言うと一年遅いんだよって感じだな。って言うか、今更そんな事言っても意味無いぞ。ほら、ゴーゴー走れ走れ」
「団子お断りダカラ」
「元からやる気ねぇよ」
「ダンコ男割り」
「おおう、何かどこかが痛くなってきた気がする」
「ダンコ、お断り……?」
「良く言えました。はい、がんも取ってきて」
「……じゃあ、今日は一緒に帰ろうよ」
ジェーンは先ほどとは打って変わって殊勝な態度になった。一の袖をぎゅっと掴んで、少しだけ顔が赤くなっている。
「途中までか?」
「アタシの家まで」
「雨降ってんじゃんよー。あ、もしかしてお前、傘無いのか?」
「……ン。うん、そう」
一は深く息を吐き、頭を掻いた。
「しょうがないな。次は忘れんなよ」
「やったっ、アイアイガサだネ」
ジェーンは快活に笑う。
一はその笑顔を見て、ほんの少しだけ楽な気持ちになれた。
雨が、降り続けていた。
駒台の街を、雨が濡らしていく。ビルも、木々も、人も、全てを平等に濡らしていた。人々は出来る限り外出を控え、仕方なく出かける場合は傘を差し、体を濡らさないようにしている。駒台の駅前、人々は足早に歩いていた。ある者は屋根のある建物を目指し、ある者は家を目指している。濡れないようにしたい。改札口の近くには、傘を持っていないので誰かしらと連絡を取って時間を潰したり、親兄弟の迎えが来るのを待っている者もいた。
人ごみの中、彼女はいた。
――異質。
傘も差さず、雨を厭う素振りも見せず、彼女は確かにそこにいた。只管に雨に打たれ、雨に濡れ、雨の下に立っている。豪快に袖の破けた、巫女装束。白い小袖に緋袴。巫女の衣装を着てはいるが、おおよそ巫女と呼ぶのを躊躇われる、半ば破戒僧的な雰囲気を彼女は漂わせていた。雨に濡れた短い銀髪。腰には小さな、酒瓶の様なものをぶら下げていた。彼女の身長は高く、人々を見下ろす様に悠然と立っている。顔立ちは整っていたが、彼女に声を掛けようとする異性は存在しなかった。
誰も、彼女に近寄らない。近寄れない。
彼女が雨に打たれてからどれ程の時間が経ったろうか。
「はっくしょんっ!」
豪快なくしゃみを一つ放つと、巫女装束の女は鼻を啜る。ジト目で周囲を見回すと、彼女は「さみぃ」と言い捨て、駅前を後にした。
フリーランス『神社』、山田栞。
それが彼女の名前だった。
雨が、降り続いていた。
「一時間か……」
商品を陳列していた一が、ぼそりと呟いた。
「あと、一時間しかナイ……」
商品を陳列していたジェーンが、ぼそりと呟いた。二人は時計を眺めながら、作業の手を止める。結局、勤務終了まで残り一時間を切った段階で、客といえる客は殆ど来なかったのだ。
「納品終わったらヤバイぐらい暇になりそうだな。なあ、寝てたら駄目?」
「……そんなに眠いなら寝てくれバ? ケド、勤怠は切っておいてよネ」
「怒ってんじゃねえよ」
「アタシを怒らせるようなコト、さっきからお兄ちゃんが言ってたくせに」
隣同士で作業しながらも、二人はどこか気まずい。
「可愛い妹と言葉によるスキンシップを取ろうとしてるだけだ」
「お兄ちゃんが言うコトは、何だか意地悪に聞こえるのっ」
「昔のお前はもっと素直で可愛かったのになあ。いつからこんなに擦れてしまったんだろう……。俺は悲しい。悲しすぎて眠たくなってきた」
一はわざとらしく肩を竦めた。
ジェーンは無視して、珍しくも店内に入ってきた客に挨拶をする。そこで、彼女の作業の手がもう一度止まった。不審に思った一が振り返る。客を見る。
「……今日は祭りでもあったっけ」
その客の服装に、一もしばしあっけに取られた。白い小袖に、緋袴の巫女装束を来た女性客。それだけでも充分目を引く格好だというのに、女性の袖は無茶苦茶に破れていて、腰には酒瓶のような物をぶら下げていた。体はずぶ濡れで、短い銀髪がやけに一の目に留まる。
「む。お兄ちゃん、いつまで見てるの」
ジェーンに袖を引っ張られ、一は仕方なく作業に戻った。必要以上に時間を掛け、時間を潰し、納品作業は完了する。一は台車に商品の詰まっていたケースを積み、バックルームへと運び入れ、一言二言店長と会話を交わしてから店内に戻った。
「……なんだ」
「さっきの人なら立ち読みしてすぐに帰ったヨ」
一の呟いた言葉を耳聡く拾い、ジェーンは軽蔑の眼差しを一に向けた。
「別に何も言ってないじゃんか」
「ふーん、どうせミコさんの服に見とれてたんでしょ」
「だって珍しいんだから仕方ないだろ」
「……そんなにあの服が良いノ?」
「浪漫を感じるよな、あの服」
ボケッとしたまま、一は呟く。
「じゃあ、上に掛け合ってみようカナ……」
「何か言った? お腹空いたのか? 喉渇いたのか? 眠たいのか?」
「子供扱いしないでってば!」
「ああ、そうだ。仕事終わったら店長が話あるってさ」
「アタシに?」
一は首を振った。
「俺にも」
雨は、降り続いていた。
勤務の終了した一とジェーンは、深夜勤務の三森に引継ぎを頼み、バックルームに戻った。店長は椅子に座ったまま煙草を吹かしている。
「話ってなんですかー」
一は制服を脱ぎながら店長に尋ねた。
「……先にお疲れ様です、だろうが。私を誰だと思ってるんだお前は」
「話が無いなら帰りますよ」
「あのな、あんまり舐めた真似ばっかしてたら首にするぞ」
「良いですよ。首にされたら北駒台の情報持って南に行きますから」
のらりくらりとかわす一に、店長の苛立ちが増していく。
「お前、今日来た時からそんなんだよな。私に恨みでもあるのか。言いたい事があるなら言え。私は逃げも隠れもせんぞ」
「店長に恩こそ感じてはいますけど、恨みなんて一つも無いですよ。俺が恨んでるのは糸原さんです」
「お前が代わるから悪いんだろうが。自分の蒔いた種だろう。生えてきたものは自分で刈り取れ」
「事後承諾だったんですよ!?」
一はロッカールームから曲がったハンガーを取り出し、無理矢理そこに制服を掛けた。
「そうじゃない。根本的な問題だ」
「? どういう意味ですか?」
はあ、と。店長は溜め息を吐いてみせる。
「分かってないなら別に良い。まあ、糸原との同居はその様子じゃ上手くいっているらしいな。仲が良過ぎるのは考え物だと、私は思うが」
「さあ、どうなんでしょうね。上手くいかされてるって感じですけど」
「まあ良いさ。それより話だ。ゴーウェスト、ニヤニヤしてないで話を聞く姿勢を作れ」
「ニヤニヤなんてしてないんだケド?」
ジェーンは脱いだ制服を椅子に掛け、コートを羽織った。
「実はだな。本部から連絡が来ていて、勤務外店員に必ず伝えろと、そう言われている事がある」
「ニューイヤーね」
「それはもう良い。で、だな、まず、何から言おうか、と言うより、どう言うかだな……」
店長は腕を組み、椅子に深く腰掛ける。
「……結構、重要な話だったりします?」
「いや、本部の話は特に大した物じゃない。アレだ、最近、勤務外の活動を邪魔する輩が居るらしい。まあ実際居るんだけどな。それでだな……」
「滅茶苦茶大事な話じゃないですか!」
「うるさい。大声出すな。今更そんな事言わなくたって、お前は既に知っているだろう。カトブレパスの時に、遭っている筈だ」
一を睨み、店長は煙草を口だけで銜えた。
「っと、あの、森賀って人の事ですか?」
「ん、その通りだ。そういう連中が世界中に現れ始めたらしい。幸い日本じゃあ大きな被害は出ていないが、インドや北欧辺りは相当なダメージを受けたそうだ」
店長は何気なく言う。大きな被害は出ていない、と。一の、癇に障った。
「日本でも、被害は出たでしょう……」
「おいおい、まさか『図書館』の事を言っているのか? フリーランス一組が終わっただけで済んだんだぞ。そんな些末な事を大きな被害なんて呼んでいたら、インド人に殺されるぞ」
確かに、その通りかもしれない。一は口を堅く閉ざす。
「……ボス? 結局、その人たちは何者なノ? どうしてアタシたちの邪魔をするのか、どうしてそんなコトをするのか、ハッキリしないんだけど」
ジェーンが場を察したのか、話題を変えた。
店長は喉の奥で笑いを噛み殺し、煙草を灰皿に押し付ける。
「全く分からん。だが、ソレを殺す私らを邪魔して、まるでソレを利用して私らを殺そうとしている奴らが現れたのは確かだ」
「クールじゃないわネ。本当に彼らは人間なのカシラ?」
「全く分からん。とにかく、本部から勤務外への通達は以上だ。何か質問はあるか?」
問われた一とジェーンは何も言えなかった。質問が、あり過ぎて何を聞けば良いのかまるで分からなかったからだ。
「無いとみなす。じゃあ、次は大事な大事な私の話だ。良く聞けよ」
店長は沈黙を自分勝手に解釈して、話を続ける。一を見て、ジェーンを見てから、
「この仕事を続ける気はあるか?」
何気なく、そう言った。アイギスを使っていないのに、時間が止まる。最初、一は店長が何を言ったのかが分からなかった。この仕事、オンリーワンでの、勤務外を、続ける気はあるのか、と。
「オフコース。グノコッチョウ、そんな質問アタシには無意味よボス」
ジェーンは戸惑っていたがハッキリと、店長にそう言った。
「そうか。一、お前はどうする? いや、どうしたい?」
「……俺は」
性急に答えを求められ、一は弱る。
「その、他の人たちはどうなんですか? 皆続けるって、言いました?」
「他人は関係無いだろう。今私は、お前に聞いているんだ」
店長は強く突っぱねた。
「いきなりじゃないですか、その質問は」
「良いから答えろ、私も暇じゃないんだ」
「……続けますよ」
半ば自棄になりながら、一はぶっきら棒に口にした。
「そうか。なら答えを聞いていないのは糸原だけだな」
「一昨日に聞かなかったんですか?」
「いや、あいつは保留にしてくれと言っていた。本当なら、今日答えが聞けると思っていたんだがな」
「その手があったか……」
一は頭を抱えて悔しがる。
「それじゃあ話は終わりだ。三森が言ってたが、雨は強くなる一方だとさ。川が氾濫するかもしれんから、気をつけて急いでなるべく慎重に早く帰れよ」
難しい注文だったが、一は気楽に手を上げて返事をした。ロッカールームから普通の傘を取り出し、ジェーンの帰り支度を待ち、ジェーンと連れ立って店の外に出る。
「酷いな」
一の呟いた言葉は雨音に掻き消された。
「早く帰ろうよっ、アイアイガサでっ」
「何でそんなに楽しそうなんだよ……」
傘を広げ、一はジェーンを招き入れる。
「レッツゴウ!」
「暴れんな、濡れるぞ」
まるで子守だ。苦笑しながらも、一は少しだけ楽しい気分になれた。
一はジェーンを送り届けると、すぐに来た道を引き返し、アパートまでの道を歩く。やや駆け足でアパートまで到着し、階段を上り、自室の扉をノックする。
「ちょい待って」
雨が降っているからだろうか、糸原は一が思っていたよりも素直に扉を開けた。
「酷いですよ、雨。銭湯行こうかと思ったけど、これじゃ風呂に入っても、風呂から出たら意味なくなりますね」
「げー。じゃ明日朝一で風呂屋行こうよ。ジメジメしてたからサッパリしたいのよねー。お姉さん、実は一日に二回は風呂入らなきゃ死んじゃう体質なの。知らなかったでしょ? だからついさっき生き返ったところだったんだかんね。いや、あんた運が良いわマジで」
「良いからタオル渡して下さいよっ」
一は糸原からタオルを受け取り、髪の毛の水分を弾いていく。
「そう言えば今日、店長から仕事続ける気はあんのかって聞かれましたよ」
その言葉は、一なりの『ジャブ』だった。唯一あの店で糸原だけが答えを出していない。他の面子は恐らくは、全員が答えを出しているであろうと一には予想できている。全員が、続けると。だから、糸原の答えが、保留している答えが知りたかった。
「私は無いわよ」
「え?」
軽い牽制に、えげつないカウンターを合わされた気分だった。一の頭が少し揺らぐ。
「あによその間抜け面。だから、私は勤務外なんて続ける気無いって言ってんのよ」
糸原は至極当然に、そう口にした。
「辞め、ちゃうんですか?」
「……逆に。あんたはどうして続けるって言ったの?」
「俺まだ何も言ってないんですけど」
「はん、私にカマ掛けようなんて甘いのよ。あんたがもし辞めるなんて言ってたら、そんな普通の顔して帰ってくる訳無いじゃない」
一はタオルで顔を隠しながら、
「妙に冴えてますよね、糸原さんって」
会話を続ける。
「あんたみたいなお人よしに褒められても嬉しくないわよ。で? さっきの質問だけどさ、何であんたは続けるなんて言ったのよ?」
「いや、だって辞める理由なんて別に無いかなーって」
「じゃあ、私も同じね。それが辞める理由よ」
「……続ける理由も特に無いって事ですか?」
「だあって、ソレと戦うなんて危ないじゃん。死ぬかもしんないのよ? まあ、別に続けても良いけど、ヤバイ橋渡る必要も無いでしょ。向こうから辞めていいよ、みたいな感じで聞いてくんだからさ、お言葉に甘えちゃうじゃん普通」
糸原はヘラヘラと笑った。
「んー、じゃあまたシフト変わっちゃいますね」
一は一通り体を拭き終わったので、タオルを置いてジャージに着替え始める。
「あんたも辞めれば?」
ふと、糸原はそんな事を口にした。
こたつで寝転んでいるので、一からは糸原の表情が見えない。
「新しいバイト先探すの面倒だからなあ……」
「探せば良いじゃん」
「だから、面倒だって――」
「――理由、あんたにはあんじゃん」
拗ねた様な糸原の物言いに、一はたじろいだ。
「別に、ありませんよ」
「あっそ」
「……明日、昼からでしたよ」
「知ってる。何か、もう眠いわ、あんた待ってて起きてた訳だし」
「オヤスミナサイ……」
雨は、止みそうになかった。