いい加減にしやがれ
一分は六十秒。
六十秒は一分。
相手は死んでいる魔術師と得体の知れない女。
呑まれていた。一は呑まれていた。ナコトも呑まれていた。そんな事は、自分たちでも分かりきっていた。
それでも、一は覚悟する。ナコトも覚悟する。相手が元相棒であろうと、なんであろうと。自分たちは生きている。死にたくない。だから、だから、だから。
まず一が藪から飛び出した。反応した黄衣オキナが、魔術を行使する。一はアイギスで飛んできたそれを受け止めた。
その隙に、ナコトが駆け出す。狙いはあの女。ソレの首を愛しげに愛撫する、あの女。ナコトは鎖を回し、充分に速度を稼いで放り投げる。
暴風、暴力、暴虐の象徴。自らに向かってくる鎖を一瞥すると、女は何を思ったのか、その場に倒れた。鎖は標的を失い、空を切り裂いていく。
一投目は失敗。ナコトは鎖を巻き戻そうと力を込めた。足を踏ん張り、腕を引く。
そしてあの声。あの醜悪な声。クトゥルフの魔術が、ナコトを狙いに奔っていく。
一はまだ痺れの取れない腕であるのも厭わずに、二射目を防ぐべく、ナコトの前に躍り出た。
ナコトは鎖が一に当たらないように器用に軌道を変える。
一は地面をしっかりと踏み、両手でアイギスを握った。一発目と同じ威力。同じ衝撃。だが、疲弊している一には耐え難い威力と衝撃だった。アイギスが黄衣オキナの魔術を相殺したと同時、一は軽く吹っ飛ぶ。叫び、地面に倒れて呻いた。
ナコトは一に構わず、戻しきった鎖を緑色の髪をした女へ放る。女は倒れたままだ。確実に鎖は標的を捉える。
ナコトも一も、そう思っていた。
――それが現れるまでは。
倒れたままの女が泉に手を浸す。泉は女の触れたところから、徐々に色を変えていく。
黒く、赤く、どす黒く。
清廉な水が汚れていく。穢れていく。鎖が届くより先、泥水の如く酷く濁った泉から、生き物が飛び出てきた。文字通り飛び出してきたのは、細長いシルエットをした蛇のような生物。体表が粘膜で覆われている生き物が、数匹泉からロケットのように射出される。飛び出た生き物は女を守るように、次から次へ鎖にぶつかっていく。無茶苦茶な速度の鎖に負けないような、無茶苦茶な速度だった。蛇のような生物は鎖にぶつかり、体を粉々に砕かれる。砕かれては地面に落ち、地面に落ちては砕かれる。続々と湧き続ける生物は体当たりを止めはしない。始めのうち、鎖は生物の勢いを殺し続けていたが、衝撃が二桁を越えると鎖の速度の方が殺されていく。
「……まずいです」
呟いたナコトの額から冷や汗が零れた。ナコトの危惧していた通り、鎖は速度を失い、力を奪われ地面に乾いた音を立てて落ちる。
終わりではなかった。鎖の勢いを殺しきった生物は、次の標的を定める。即ち、敵。一と、ナコトへ。
飛ぶ飛ぶ飛ぶ飛ぶ飛ぶ。
自身へ向かってくる生物を見上げ、一はその正体に気がついた。
「こんなもんにっ!」
アイギスを広げ、一はナコトを庇える位置に立つ。それこそ生物の衝撃は、黄衣オキナの魔術と変わりが無いように感じた。一発一発が重い。生物はアイギスに接触するとすぐに掻き消えていく。だが、その数に終わりが見えない。いつまでもいつまでも一に降り続けて行く。
一の後ろのナコトも気が付いた。どうして。何で。そんな考えに至る前に、
「ウナギ……?」
見た物をそのまま口にする。細長いシルエット。粘膜を帯びた体。水から現れた生物。アイギスに体当たり、掻き消されていくその姿。どこからどう見ても、あのウナギだった。こんな物がどうしてこの場に現れ、あまつさえ自分たちを襲っているのか、一たちには分からない。
少なくとも、一はもうこれから先ウナギを食べたいと思えなくなった。
一の腕に痺れが走る。断続して痛みが走る。
「何とかしろよ!」
「どうしろって言うんですか!」
一の八つ当たりに、ナコトは声を荒げた。
「お前も魔術を使えよ! その本は飾りかっつーの!」
ナコトの直ぐ傍に落ちている魔導書『アルアジフ』を一瞥し、一は叫ぶ。
「……あ、その……」
落ちている魔導書を見て、ナコトは申し訳なさそうな顔になった。
「あたし、魔術なんて使えないんです」
一の目の前が白くなる。追い討ちをかけるように、黄衣オキナが口を開ける。彼のすぐ傍に紙片が現れ、人魂のようなモノに打って変わった。周囲の温度を下げ尽くし、凍て尽くす死の風。風に乗って、死を歩ませる名状しがたきものの眷属。
ウナギの群れを浴び続けている一に、魔術が突き刺さる。アイギスを握る手が、痛い。このまま手を離せば、目の前の痛みからは逃げられる。
だが一は、歯を食い縛って耐えていた。
「一さんっ!」
年下を守るのには慣れていた。だから一は耐え続ける。守らないといけない。逃げてはいけない。ごめん、ごめん、と。心中で謝り続ける。
……一は、ナコトと誰かを重ねていた。
ナコトを守れば、誰かを守っている。そんな気持ちになれたから。
「ああああああっ!」
自分でも信じられないくらいの声だった。一は雄叫びを上げ、弱気になる自分を奮い立たせる。自分は、何も出来ない。三森のように強くない。糸原のように美しくない。ジェーンのように賢くない。立花のように、堀のように、神野のように、店長のように。
誰にもなれない。
一には、耐える事しか出来ない。アイギスが自分の力じゃない事には気付いていた。あくまで、これは女神に貰ったモノだから。一一の力じゃない。
自分は無力だ。叫ぶしか、耐えるしか、意地汚く生きる事しか出来ない。勤務外になりたいわけじゃなかった。戦いなんてもっての外だった。
一はただ、もう一度、もう一度だけ――。
「痛いっつってんだよ!」
――ホームランを打ちたかった。
ヒーローになりたかった。
誰かを助けたくも、守りたくも無い。自分の為だけに、一はあの時、女神に答えた。
溢れ出る感情に任せて、一はアイギスを振った。
最高の、フルスイング。
黄衣ナコトの魔術を、ウナギの群れを、一はアイギスで振り抜く。人魂は一直線に打ち返され、ウナギの群れは跳ね返ったそれと、飛び出てくるそれとがぶつかり合い、地面に次々と落下していった。
「うそ……」
ナコトには、アイギスが一の叫びに答えたかのように見えた。一瞬だけ、ナコトに見えた幻。髪の長い女だった。主を守るように、女は一を抱いていた。後姿だったので、彼女にはそれが誰か分からない。一瞬の光景。女は、すぐに見えなくなる。
「一さんっ! 魔導書を探してっ!」
女の姿が消えた直後、閃きが走った。ナコトは気付き、叫ぶ。
幾ら相手がソレとは言え、死体だからとは言え、元相棒だと言え、黄衣オキナだったとしても、魔術を行使するには絶対にクリアしなくてはいけない条件がある。それは魔導書。書が無ければ、術者は何も出来ない。
さっきまでは突然現れた黄衣オキナに動揺していたが、一のスイングを見てナコトは我に返る。
「本を取り返せば、オキナは何も出来ません!」
一は咄嗟に傘を下ろし、黄衣オキナを凝視した。穴の開いた喉。穴の開いた腹。どこまでも薄気味悪い、人間『だった』黄衣オキナ。
一は見つけた。黄衣オキナの腹の中、微かに覗いていたそれを。
「腹の中だ!」
「フォローを!」
ナコトは駆け出した。黄衣オキナの腹部を、自分も確認する。なるほど確かに魔導書。皮と肉と骨と臓器に、隠されるようにしてそれはあった。
魔導書さえ奪えば、砲台と化した黄衣オキナを無力化できる。絶望の中の、一筋の希望。細い糸を辿る様な、危うい望み。だが、一たちはそれに賭けた。切欠になるかもしれない。魔導書さえ奪えば。黄衣オキナさえ無力化すれば。
残りは、あの女だけになる。
一は全身に力が戻るのを感じていた。先行するナコトの後ろに付き、一は黄衣オキナに注意を払う。
ナコトは一直線に魔導書へと向かっていた。手が血で汚れる事も構わない。相棒の体を傷つける事になろうとも構わない。全ては、仇を討つ為だったから。
「歩む死」
声を聞いた一は叫ぶ。
「止まれ黄衣!」
「分かっています!」
悔しそうに歯噛みして、ナコトは一の後ろへ戻った。
距離が近くなった分、対応を間違えば一たちの命は無い。一つの失敗が死へ直結する。一とナコト。どちらか片方でも命を落とせば、もう片方も命を失う。
集中していた。かつて無いほど一は一つの事に集中していた。
ナコトも同じだった。黄衣オキナに、全神経を、全てを払っていた。
だから、気付かなかった。
一は必死で魔術に耐える。背後のナコトを感じながら、精一杯地面を踏みしめた。やがてアイギスは魔術を掻き消す。絶対の力。
ナコトはオキナの第二撃を警戒しながらも、一の後ろから躍り出る。
女が、笑っていた事にも気付かずに。
傘を翳していた一には見えなかった。ナコトだけに見えている。女の、嫌らしく、妖しい笑みが。そして、女の抱えたそれが。
カトブレパスの首が。
カトブレパスと目が合った。その瞬間、ナコトの意識が飛んでいく。希望も絶望も焦りも悲しみも怒りも何もかも消えていく。手には力が入らない。足が縺れ倒れこむ。仇を討つ事も、オキナの事も、目の前で笑う女の事も、支えてくれた一の事も、全て吹っ飛んだ。声を出す事も叶わない。ただ苦しくて苦しくて、ナコトは弱弱しい呼吸を繰り返す。誰かが叫んでいるのが聞こえた。多分、一の物だろうと推測する。
あんな情けない声を出せる人物が、ナコトには他に見つからなかったから。
アイギスを下げた一が最初に見たのは、黄衣オキナ。次に目に入ったのは、倒れているナコトだった。弱弱しく、今にも止まってしまうような呼吸を繰り返している。
まず、一の力が抜けた。虚無感。絶望感。最悪の考えを振り払い、一はナコトに駆け寄っていく。
「お別、れ。待ってあげるわ、ねえ?」
女が何事か喋っているが、一の耳には入らない。必死でナコトの名を叫ぶ。叫び続ける。
「ふ、ふ。良い声ね、ボウヤも」
――黙れ!
体を揺する事は躊躇われた。とにかくナコトを安静にさせておきたい。一はさり気なくナコトの前に出て、女らから庇うようにしゃがみ込む。
「そろそ、ろ。良い?」
――黙れ! 黙れ! 黙れ黙れ黙れ!
「黄衣っ! おい! おいってば!」
「……に、の……」
「ごめん! 喋んなくて良いから!」
ナコトは手を伸ばす。自分の体から、何かが抜けていくのを感じていた。伸ばされた手を、一はしっかりと掴む。
「黙って寝てろ! 後は俺が何とかするから!」
嘘だった。
無理だった。
不可能だった。
苦しそうにしながら、ナコトは微笑む。一に応える。
「歩む死」
背後からの容赦ない声。一は「ごめんっ」と謝りつつ、ナコトから手を離す。アイギスを構え、黄衣オキナへと向き合った。振り向いたと同時、魔術が一を襲う。相変わらず凄まじい衝撃だった。だが、もう退けない。一はもう逃げられない。それでも、一の腕に力が入らない。
もう六十秒なんてとうに過ぎているのではないか。
涙が出てきた。どうして、自分たちがこんな目に遭わなければならないのか。
もう、嫌だった。
アイギスは魔術を掻き消した。だが、一にはそこからどうする事も出来ない。
絶対防御。不壊の結界。女神の盾。
それだけだった。アイギスで攻撃を防ぐ事が出来ても、アイギスを使って攻撃を仕掛けることは出来ない。
ギリシャ神話最高。世界でも最高峰のアイテム。しかし、アイギスは盾だった。もう、どうしようもない。一には気力が残っていない。
「あ、ら? 終わり? ふ、ふ」
女が笑う。カトブレパスの首を投げ捨て、指を緩やかに動かした。それを合図に、黄衣オキナが口を開ける。
い。た。か。
絶望の三文字。
一はアイギスを構えた。だが、防ぎ切る自信なんてもう無かった。
風が奔る。邪悪の皇太子の眷属。イタカがアイギスに襲い掛かる。
一は歯を食い縛る事もできず、ずるずると後退していく。そのすぐ後ろには、ナコトがいる。なのに。あれほど誓った筈なのに、もう、駄目だった。
「歩む死」
ダメ押しだった。連続で放たれる魔術。今の一には、もう、限界。
ごめん。ごめん。ごめん。
誰に謝っているのかすら、一には分からない。死が目前に迫っているのにどうしようも出来ない。
風が奔る。
二発目の魔術がアイギスに着弾する、その瞬間、風が奔る。
どこかで見たことのある女たち。一の目には、それが天使に見えた。自分とナコトを絶望から運び去る、一筋の光。
四つの光は、一とナコトを連れ、離れた場所に着地する。
「…………大丈夫?」
眠そうに問いかける声。赤み掛かった、茶髪。その手には、天使には似つかわしくない大きな鎌。オンリーワンの制服を着た女。
「ヒルデさん……?」
ゆっくりと、ヒルデは頷いた。
彼女の傍には三人の女。ニット帽を深めに被った女。包帯を顔中に巻いた女。虚ろな目をした女。彼女らはそれぞれ、槍と盾を持っていた。オンリーワンの制服を着ていたが、紛れも無く彼女らは戦士の装いであった。
「あなた達、天使だったんですか?」
その問いに、ニット帽を被った女は馬鹿にしたように笑う。
「言うじゃんお兄さん。天使だなんて、おちょくってんの?」
「す、すみません」
「…………その子は?」
ヒルデは心配そうにナコトを見遣った。
「……その、カトブレパスの眼を見ちゃって……」
ワルキューレたちはナコトに近付く。
「なーにコイツ? 超地味なんだけど?」
喋っているのはニット帽の女だけだったが、他の二人も同じような感想を持っているようだった。
「…………シルト」
「う、そんな目で見ないで。冗談っすよ」
「こいつを早く病院へ連れてかないと……」
一は悲痛な声で訴える。
だが、シルトと呼ばれたニット帽の女は涼しげだった。、
「おかしくね? アイツの眼で見られたら即死じゃなかったっけ?」
こくり、と。ヒルデは頷いた。
「…………シュー?」
シューと呼ばれた、包帯姿の女はナコトの顔をじっと眺める。尤も、包帯越しからは本当にナコトが見えているのか、ハッキリはしなかったが。
「片目だけじゃん」
シューは事も無げに言った。
「あー、だからまだ生きてんだね、そいつ」
「どういう意味ですか?」
「熱くなんないでよお兄さん。何? こいつあんたの彼女なワケ?」
ケラケラと笑うシルトの襟首を掴み、
「良いから教えろっつってんだ。髪の毛生えたらまた千切るぞボケ」
一は脅し文句を口にする。
シルトは一の剣幕に押され、やれやれと言った感じに口を開けた。
「……ちっ、アレだよ。要は半殺しの状態なのよソイツ、オッケー?」
一はナコトの顔をよく見た。なんとも言えない、酷い光景。ナコトの片目はグチャグチャに潰れていた。
「助かるんですか?」
ふるふる、と、ヒルデは首を横に振る。
「……分からないの。ごめん……」
悲しそうにヒルデは俯いた。
「てめぇこら! ヒルデさん泣かすんじゃねぇよ!」
シルトが喚いているが、一にはその事を気にする余裕も無い。
「じゃあどうすれば!」
「黙りな、お兄さん」
グイっと、肩を掴まれた一の背筋が凍る。
一の耳元へ、シューは一の肩を掴みながら囁いた。
「私らはさ、あんたらを助けに来たワケじゃないの。ソレを殺しに来た勤務外なの」
シューは槍を握り、妖しく微笑んでいる女を睨む。
「ヒルデさん、行ってきます」
「…………気を付けて」
頷くと、シューを先頭にシルトと残っていた女が駆け出した。
だが、今の一には戦闘がどうなるかより、ナコトの方が気になっていた。
「ヒルデさん!」
一に呼ばれたヒルデは何も応えずに、鎌を握り締めている。
「南駒台が俺たちを助けに来たんじゃないって、そんなの分かってます! でも教えてください! どうすれば良いんですか? こいつはどうすれば助かるんですか?」
ヒルデは応えない。
「……勝手な事言ってるの、分かってるつもりです。けど、それでも俺は……」
「…………あの人」
鎌を女の居た方向に向け、ヒルデは悲しげな声を出す。
「あれを殺せば、その子はカトブレパスの呪いから解かれるかもしれない……」
「本当、ですか?」
「…………ごめんね、あくまで可能性なの。私、そういうの専門じゃないから…………」
その言葉が本当でも、嘘でも、一の心に沸々と何かが湧き上がって来る。だが、行動に移そうとまでは思えない。怖い。恐ろしい。死にたくない。自分はまだ、生きていたい。
「俺……」
「……?」
「多分、って言うか絶対、足手まといになります」
一の言わんとする事を理解して、ヒルデは少しだけ残念そうに顔を伏せる。
「…………分かった。でも、あの人が来るまでそこに居てあげて」
「あの人?」
ヒルデは藪の入り口の方へ鎌を翳す。
「…………キミの上司」
静かに微笑み、ヒルデは優しい声を出した。
先頭のシューが女へと槍を放り投げる。その槍は、黄衣オキナの魔術によって砕かれた。控えていたシルトが魔術の隙を突き、走り抜けていく。
緑髪の女は徐にカトブレパスの首を掲げた。
「せこいんだよ!
シルトは持っていた盾で自身の視界を隠す。
「歩む死」
視界を隠しながら、シルトは走って魔術を避けた。魔術の着弾した地面一帯が一瞬にして凍土と化す。恐れることなくシルトは走った。槍を突き出し、女へ迫る。
「ふ、ふ」
女は死が目前にあるという、この状況下で笑った。女は動じない。先刻の泉のように、女が地面に手を置くと、触れた箇所から変色していく。
黒く、赤く、どす黒く。
混沌とした黒から現れたのは灰色。牙を持った、灰色の狼。
「――――!」
唸り声を上げ、突如現れた狼はシルトへ襲い掛かった。盾を食い破らんと牙を立て続ける。
「何なんだよコイツ!?」
均衡状態に、黄衣オキナが割って入った。死の呪文、人魂がシルトへ突っ込んでいく。その時、シルトの前にシューが盾を前にして割り込んだ。
「一度下がるよっ」
「もうっ!」
凄まじい衝撃を斜めに受け流し、魔術を無効化した事を確認したシューは、シルトの盾に食い下がっていた狼を蹴っ飛ばす。狼は高い声を上げて地面を滑っていった。
「うざいっつーの!」
その隙に、シルトとシューが距離を取る。
こうして戦乙女たちの、戦いの火蓋が切って落とされた。
「…………キミはどうするの?」
一は答えられない。
「俺は……」
握り締めたアイギスも答えてくれない。
「……私、そろそろ行くね……」
ヒルデは戦場に目を向けた。一から目を背け、背を向け、敵に鎌を向ける。一瞬の躊躇いの後、ヒルデは地を駆けた。
残された一は力を奪われたようにナコトの傍にしゃがみ込む。未だ震えるナコトの手を握りながら、一は謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめんな、敵討ちとか簡単に言っちゃってさ……」
返事は無かったが、ナコトのか細い呼吸が、自身を責めているように一には感じられた。
「やっぱり、向いてないんだよな。俺にはさ……」
もはや誰に語るでもなく、一は続ける。
「……頑張って……」
ビクリと、一の肩が震えた。一は握った手に力を込める。
「黄衣……?」
ナコトの目はまだ死んでいない。残った眼で、一をしっかりと捉えている。
「……仇、討ってください」
もう、消えそうな声。
それでも、意思を込めた声。
半分死んでいる人間。そんな彼女の視線に一は気圧された。
「大丈夫。南の人たちが来たからさ、あんな奴らすぐに――」
一の言葉に、ナコトは弱弱しく首を振る。
「あなたが……」
「――!」
あなたが。
あなたが。
「俺、が……?」
「……うん」
声は消えそうで、握り返す力も弱くて、今にも、死にそうで。
なのに、ナコトの意思は強い。一を信じきった眼で、ナコトは一を見つめる。それ以上は何も言わずにナコトは瞼を閉じた。
一は思わずナコトの脈を取る。顔を近づけ呼吸を確認する。
生きている。
ナコトはまだ生きている。ナコトの意思は生きている。
「受け継ぎましたか?」
背後から優しそうな声。一が振り返ると、堀がいた。彼の後ろには、ばつの悪そうな顔をした神野。
「彼女の意思は、受け継ぎましたか?」
「……一分、過ぎてますよ」
「いやあ、南の方々を見た物でして。時間を稼いでくれるだろうと」
堀は何故か苦笑する。一にはその笑いが、耐え難かった。
「もっと早く来てくれれば! 黄衣はこんな目に遭わなかったのに!」
あんな眼と遭う羽目には、ならなかった。
「……その件については悪いと思っています」
「抜け抜けとさぁ!」
一は堀に詰め寄る。明らかに八つ当たりだった。
だが、堀は甘んじて受け入れる。一の怒りは良く分かる。堀には、一の行き場の無い感情を受け止めるのも、また自分の仕事だと良く分かっていた。
「ですから、行きましょう。仇を討つんでしょう?」
「……あんな化け物相手に? 俺はただの人間なんですよ」
「そうですね。相手は化け物。一君は人間です」
「だったら!」
「それがどうしました?」
狼狽する一を無視し、堀は続ける。
「『図書館』の仇を討つんでしょう? あなたは黄衣ナコトさんから、先ほど受け継いだはずです。意思を、彼女の純然たる決意を」
「でもっ!」
「言葉による答えなど要りません。そうでしょう?」
静かな口調だったが、堀の言葉には反論の出来ない何かが秘められていた。
「……堀さん。俺、怖いです」
「私もです」
「死にたくないです」
「私もです」
「まだ、生きていたいです」
「……私もです」
「でも、俺……」
握った手は暖かった。
握った手は震えていた。
「何とかしたいです。こいつを助けてやりたいんです……」
「しましょう」
堀は持っていた武器を地面に突き刺す。獲物は槍。全長で二メートルに達するほどの長さを誇る、堀の武器。
「その為に、私は戦います」
「一さん、俺も手伝います。もう、逃げません」
二人に見つめられ、一は頷く。
「一君。仇を討つのは南の方々でも、私でも、他の誰でもありません」
「……分かってます」
一はナコトの手を離し、立ち上がった。
「宜しい。では、あの女は私がどうにかしましょう。アレが術さえ解けば、黄衣ナコトは助かります。ですが時間に余裕はありません」
「どう、行くんですか?」
堀は神妙に頷く。
「私が突っ込みます。神野君と一君は援護を」
「結局力技なんスね……」
「いやあ、古今東西力が物を言うモンですよ。それでは、南に負けないように、そして、死なないように頑張りましょうか、皆さん」
「ははっ、勿論です」
全員が、敵を向く。
「しっかり付いてきて下さいよ!」
「おっしゃあ!」
神野の叫びを合図に、全員が戦場へ向かった。