うなずく者
死体は動かない。
ワゴンで待機していた堀は座席に深く腰掛けていた。一たちの向かった先をぼんやりと眺めながら、堀は眼鏡を押し上げる。
怠惰な時間だ。せっかく前線に戻ってきたと言うのに。ふわふわとした気持ちのまま、堀は何気なく携帯電話を手に取った。
「……と」
手にした瞬間、マナーモードにしていたので、堀の携帯電話は無音で震える。メールではなく、着信だった。非通知。一つ咳払いして、堀は営業用の声に切り替える。
「……はい、堀です」
『私だ』
無感情な声だった。堀にはその声だけで誰か分かったので、黙ったまま相手を待つ。
『調査が終わった。お前の言っていた通りだったな』
「……では、やはり――」
『いや、お前の言っていた人物とまでは分からなかった。だが、確実に今回の事件には黒幕が居る』
堀は息を呑んだ。そうして、続きを待つ。
『堀、今どこに居る?』
「今は現場の近くで待機しています」
『ソレには誰が当たった?』
その質問の意味が、堀には分からない。
「……一君、神野君、『図書館』の黄衣さんです」
戸惑いながらも堀は答える。
『そうか。ではすぐに呼び戻せ』
随分と乱暴な話だった。
「訳を話してください。彼らは業務に入りました。そう簡単には……」
『黄衣オキナの遺体が見つからなかった。理由は分からんが、何者かが持ち去った可能性が高い。そして、その何者かは確実に今回のソレと関わりがある筈だ。見ず知らずの人間が現場に近づくなど、有り得ん』
「……遺体が見つからなかったのと、彼らを呼び戻すのと何か関係が?」
確かに、妙な話ではあった。黄衣ナコトは、相棒であった黄衣オキナの死を目撃して、死体をそのままにして逃げ帰った。現場は、以前から付近の住人も近づくことは無く、ソレ発生後は情報部の迅速な処置により、住民の避難も終了している。つまり黄衣オキナの死体は、情報部が現場に到着する前に何者かの手によって消えたということになる。
『持ち去った人物が誰かは分からんが、これだけは言えるぞ。マズイ事態だとな』
「『図書館』の抜け殻を何に使うのか知りませんが、確かに、良くない感じですね。分かりました。一度体勢を整えましょう」
『賢明だ。ではな、堀』
電話が切れたのを確認し、堀は車を飛び出した。杞憂。勘違い。妄想。やはり、自分の考えは間違っていない。正しかった。
堀は一人ほくそ笑むと、泉へと駆ける。
ナコトの放った鎖はソレへと一直線に駆けていった。鎖の先端が、カトブレパスの細い首の横を通り抜けるのを確認すると、ナコトは腕を動かす。絶妙な加減で以って、鎖は軌道を変えてカトブレパスの首に巻きついていった。幾重にも、幾重にも、幾重にも。俯いたままのソレは抵抗せずに鎖を受け入れる。巻きついていく鎖。回転を失った鎖はソレの首を挟んで、ナコトと一直線に結ばれた。
「ああっ!」
声を上げ、ナコトは思い切り腕を引っ張る。ソレの首に巻きついた鎖が、肉を千切っていく。鎖はぎちりぎちりと音を立て、皮を裂き、肉に食い込み、
――ブチッ!
一際大きな音が鳴り、ソレの骨を断った。宙に浮いたソレの首は重力に逆らわず落ちていく。泉へと、まっさかさまに。水音と飛沫を上げ、ソレの首は水中に沈んでいった。
顛末を見届けたナコトは、鎖を泉に浸して返り血を洗い、引き戻す。乾いた音を連れ、鎖は主へと帰還する。濡れている事に構いもせず、ナコトは鎖を全身に巻きつけた。
「――――」
淀みの無いその動き。一は少しばかり見惚れていた。これが『図書館』。紛れも無く、フリーランス。
「どうしました?」
ナコトは呆けていた一を鼻で笑う。ハンチング帽の位置を直し、眼鏡を人差し指で押し上げ、優雅に一へと歩み寄る。
「言ったでしょう。あなたには何も期待していないと」
「……本当に一発だったな」
「本、早く返して下さい」
ナコトは一の抱えている『アルアジフ』に目を向けた。一はナコトにそれを手渡す。
「どうだよ、仇取れて嬉しいか?」
「まあ、それなりには、ですね」
ナコトは顔を背けながら言う。照れているナコトのその顔は、本当に、少しだけ。ほんの少しだけ、一には可愛らしく見えた。
「そっか。そりゃ良かった」
「じゃあ堀さんの所に戻るか。神野君、行こう」
一とナコトは泉から背を向ける。
神野は頷いた。
「お腹が空きました。何か食べたいですね」
「そうか、水ならあるぞ。水を飲みなさい、水を」
「……あたしの勝利を祝おうという意気込みが感じられませんね。あたしに見惚れてたくせに」
「み、見惚れてねぇよっ」
「戦闘中でも、あなたのおぞましい視線を感じていました。まるであたしの体を舐め回すように…………鬼畜ですか、あなたは」
「良いか、一つだけ言っとくぞ。俺は年下だろうが女だろうが関係なく殴れる人間なんだ」
「自ら鬼畜宣言とは、やりますね。あなたには心底恐れ入りますよ。という訳で今すぐあたしから二メートル離れて下さい」
ダラダラと喋りながら二人は歩く。
神野は、その場から動いていなかった。動けなかった。その異形に、異常に、異質に、目を奪われる。だから、声も出せなかった。助けを呼べなかった。誰にも訴えられなかった。
「――あ、に……」
一さんと、そう言いたかった。口が開きにくい。喉が開かない。声が小さい。誰かに助けて欲しい。手から力が抜けていく。カランと、神野の持っていた竹刀袋が地面に落ちた。
「神野君?」
その音を聞いて、一が振り向く。
泉から、黄衣オキナが現れた。
俯いていた。
だから、顔なんて分からなかった。ただ、それが人間の形を留めていたから、「ああ、こいつは人間なんだ」と、そう思う。泉から出てきたそれは、大量の水を滴らせながら足を踏み出した。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
二足歩行で草を踏みしめ大地を踏みしめ歩くその姿。紛れも無く、人間だった。足もある。顔もある。だが、それはふらついている。収まりの悪い体だった。
風が吹く。
風は一たちを通り抜け、それの腹を通り抜ける。腹部の真ん中には大きな穴が空いていた。穴からは、赤いものが見えている。骨と肉と皮が見えている。剥き出しになった臓器は、風に吹かれて震えていた。
それなのに、それは歩く。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
それの歩いた地面には跡が付く。泉の水だけでなく、粘着質な液体が地面にこびり付いていく。それの腕は何かを掴んでいた。見覚えのある、何か。
考える。なんだろう。あれは、あれは、あれは。
そして、それは歩みを止める。俯いたまま、もう、動かなくなった。
最初に反応したのはナコトだった。
それを見た瞬間、力を奪われたようにへたり込む。体を掻き抱き、目を見開いてナコトは絶叫した。
その叫びで、一は我に返る。まず、近くに居たナコトの傍にしゃがみ込み、声を掛ける。
全くの無反応。泉から現れたモノにも注意しながら、呆然としている神野に走りよっていく。 神野は一の声に反応する。苦しそうに呼吸を繰り返し、その場に蹲った。
訳が分からない。一はとりあえず、逃げようと思った。ここから立ち去らないと、まずいと思った。
叫び続けるナコトの肩を揺すり、何度も呼びかける。だが、ナコトは何かに取り憑かれたかのように奇声を上げていた。
一は神野とナコトの間を右往左往する。こんな事をしている場合じゃない。だが、どうにも事態は動かない。
「良い声ね、その子」
悪い方向にしか。
この世の憎しみ全てを集めたような低い声。一は確かにその声を聞いた。
見たくは無かったが、一は泉に目を向ける。濡れた男。その隣に、闇が浮かび上がっていく。闇を塗りつぶす深い闇。漆黒は姿を変えていき、人のような形を作った。
「……なんだよ、これ……」
一が唾を飲み込もうと喉を鳴らす。何も飲み込めない。喉はからからに渇いていた。場に立ち込める濃密な、死の気配。ずっしりと、肩に何かが圧し掛かるような気がした。
闇の中、コートが翻る。衣擦れの音を立てて現れたのは、緑色の髪をした、背の低い女。白い肌だった。白過ぎて、一には気味悪く見えた。
女の目はどこか虚ろで、焦点が合っていない。
ふらり、と。女の体が緩々と動く。泉から出てきた男に近付き、頭を撫でた。
「上手くいっ、た。ふふ……」
女の顔が綻ぶ。この場にはそぐわない、楽しそうな顔。
撫でられた男は嬉しそうに笑った。ぽっかりと、穴が空いた喉で。異形な声で、男は笑う。くつくつと、静かに、嬉しそうに。
ゾクリ、と。一の背筋に怖気が走る。体は強張り、血が凍る。足が竦み、脳は警告を繰り返す。今までに、何度もソレを見た。一は何度もソレを見てきた。会った。出遭った。戦った。でも、それでも、ここまで、ここまでの恐ろしさは初めてだった。見てくれはただの女。それなのに、目の前の女が、釣瓶落としよりも鎌鼬よりもシルフよりもアテナよりもアラクネよりもガーゴイルよりも『影』よりも、何よりも恐ろしく見える。
「……あ、か……はっ……」
一の意思に従わず、口が勝手に動き出した。体が、空気を欲しがっているのに呼吸が出来ない。あまりの息苦しさに体を曲げる。
「ボウヤ、どうしたの?」
問いかける声は優しかった。優し過ぎて、気持ちが悪かった。
一は顔だけを何とか上げる。アイギスを握る手にも力が入らない。抵抗、出来ない。
「立って」
女の言葉に、一は心中で反論する。
――無理に決まってんだろ……。
心とは裏腹に、体は女に答えた。一は俯いたまま、見えない何かに無理矢理に立ち上がらされた。
「はっ……は、は? なに、これ……」
必死に空気を吸い込み、一が泣きそうな声になる。
一の視線は女へと釘付けにさせられた。見たくないのに、目が離せない。離れない。
女は男の持っていた物を奪い取る。
頭だった。
ついさっき、ナコトが千切ったソレの頭。うつむく者、カトブレパスの細い首が頭の付け根から垂れ下がっている。ぽたぽたと、水と血を垂れ流している。
女は口の端を釣り上げ、妖しく微笑んだ。我が子を愛しむ様な視線をソレに向けている。
「…………」
やがて、女はソレに口付けをした。
「……っ!」
ナコトの鎖によって千切り取られたソレの傷口へ、唇を付ける。まだ、血も乾いていない。濡れた血肉は泉の水と混ざり合い、ドロドロになっていた。それこそ、一が吐き気を覚えるほどに。そんな傷口へ、女は愛おしそうに唇を何度も重ねた。トロンと、酒にでも酔っているのか、目を細める。女の長い舌が、傷口から覗いていた骨を舐める。
何度も、何度も、何度も何度も何度も!
一の気が遠くなる。目を逸らしたい光景なのに、何故か女から目が離せない。声も出ない。大声で喚き散らしたい。恐怖をぶちまけたい。瞼を無理矢理に開かれているような、そんな感触を一は覚えた。
「……はっ、はぁ……あっ……」
女の息が荒くなる。舌で舐め、唇を重ね、愛しげにソレのソレを愛し続ける。女の細く、白い指がソレの肉を掻き分けていく。
ずぶり。
ずぶり。
白い指が、赤い肉の中に埋まっていく。女はソレに深く口づけをしながら、一へ誘うような視線を向けた。
一歩、一の足が独りでに動く。行きたくないのに。動きたくないのに。勝手に、足は動く。近付いていく。ソレとの距離が。そっちに行ったら駄目なのに。終わるのに。一の足は止まらない。もう、止まらない。
「……や、やめ……」
何とかそれだけを口にする。意味など、とうに無かった。一が自信の終わりを覚悟したその時、足に何かが巻きついた。
じゃらり、と。
足を引っ張られた一は直立したまま地面に激突する。顔からだった。鼻を強く打ちつけ、口の中には血の味が広がっていく。痛かった。熱かった。けど、意識はそこでやっと帰って来てくれた。ゆっくりと手を握る。体はもう、自分の物になっていた。口から血を吐き出し、立ち上がる。振り向くと、ナコトの冷笑が見えた。
――ちくしょう。
一は悪夢から抜け出て、我に返り、現実へと戻る。
「……悪ぃ」
だから一は礼を言う。
「いえ、先ほどの姿は良くお似合いでしたよ」
ナコトの顔には脂汗が浮かんでいた。それでも、ナコトは一へ軽口を叩く。悪夢から負けないように、飲み込まれないように。
一にはその事が嬉しくて嬉しくて、嬉しくて仕方が無かった。
「……そっか。それじゃあ――」
一は女を強く睨む、
「――逃げるぞ」
頷き、ナコトは鎖を一から巻き戻す。
一は流れる血を袖で拭き、神野の元まで駆け寄った。背後で何かが動く気配を感じたが、一たちは振り返らない。もう戦うなんて考えられなかった。今はただ、この場から離れたかった。
神野も息を吹き返して立ち上がる。三人は出口である藪へと走った。
「歩む死」
背後から、潰れた声がする。同時に、空気を切り裂く音も聞こえた。急に一の周囲が寒くなる。神野とナコトを先に行かせた、殿の一が振り返った。網膜に焼きついたのは、這い寄る死の風。
「……うわあああ!」
アイギスを翳したのは一の本能だった。死を恐れ、生を渇望する意地汚い人間の本能が一を守った。凄まじい衝撃を弾き、アイギスは絶対零度の魔術を相殺し、この世から掻き消す。それでも衝撃は確実に一に伝わっていた。手は痺れて握力を失いアイギスを地面に落としてしまう。自分も逃げなければ死んでしまう。殺されてしまう。無理矢理にアイギスを引っつかみ、一は背を向けた。
「歩む死」
声は朗々と響く。潰れた声で、気持ちの悪い声で。
怖気を感じ、一は藪へと身を隠す。彼のすぐ傍を人魂のようなモノが奔った。藪を凍て付かせながら、やがてそれは掻き消える。二人が見えなくなったのを確認して、一も全速力で走った。悪夢から逃げた。
ああ、夢はいつも、すぐ傍にあるのに。
藪に入った堀は妙な音を聞いた。
衝撃音。何と何がぶつかれば、そんな音になるのか。堀は焦りを感じ、速度を上げて駆けた。刹那、正面から突然現れたものとぶつかる。
「うわっ」
情けない声だった。
学ランを着た、背の高い少年。
「……神野、君?」
「に、一さんが!」
神野はぶつかった人物が堀だと言う事に気づくと、切羽詰った様子で訴える。それだけで、堀には全てが理解できた。
「一分下さい」
だから、告げた。示した。
「じゃなくて! あたし達はあの人を助けて! 早く逃げましょうって言ってるんです!」
ナコトの剣幕に怯む事無く、堀は続ける。
「私が行きます。武器を取ってきます。ですから、一分稼いで下さい」
全てが理解出来た堀には、この事態がまずい事だとも理解できていた。そして、決着を着けなければいけないと、そう理解した。神野とナコトは、唯一の希望が絶望に変わったと、そう感じた。理解した。
「もう良いです! あたし達だけでも!」
「――また、逃げるんですか?」
ナコトは弾かれたように堀へ振り向く。
「……あなた……」
「一君はあの場に居るんでしょう? なのにあなたは見捨てるんですか? 私はそう聞きました」
「堀さん! けど、相手は!」
「神野君、あなたも勤務外でしょう。確かに後衛にあなたを指名しましたが、私は仲間を見捨てて逃げろとまでは命じていません」
食い下がる神野にも、堀は淡々と告げた。
「そ、そんな……」
「ですから、一分です。こうして話をしている間にも一君は危険な目に遭っているんです。だから、私が出ると言っているんです」
堀は強く示した。自分でも、酷な事を言っているのだと分かっている。この子らが、どんなモノを相手にしているのかも分かっている。
でも、それでも堀は。
「……一分を一秒でも過ぎればあたし達は逃げます。あなたがどんなに強かろうが、あの場を何とかしてくれるんだとしても、あたし達は逃げます」
ナコトは鎖を握りながら、強く示す。
「良いでしょう『図書館』。ならばしっかりと六十秒、稼いで下さい」
堀を睨み、ナコトは背を向け走り去った。
神野は、示せない。
「お、俺は……」
もう堀にも時間は残されていなかった。自分でも、本当に酷いとも分かっていながら。
「逃げたければ、逃げなさい」
彼にそれだけを告げ、車へと走り去った。
神野は、彼は、彼は。
一は藪から出られなかった。直接見なくても分かる。あいつが自分を狙っていると分かっていた。もう動けない。出口まではまだ遠い。飛び出しても、絶対の死からは逃れられない。
静かに呼吸を整え、一はアイギスを強く握った。ならば、粘る。少しばかりの確信があった。神野とナコトは先に逃れた。つまり、堀のところへ戻れた筈。ならば社員である堀の事、どうにかして自分を助けてくれるだろうと、そんな打算めいたものがあった。だから、相手がこのまま動かない限りは、このまま時間が過ぎるのを待つ。
「歩む死」
怖気を誘う醜悪な声。
一は咄嗟にアイギスを構えた。
――位置がバレた!
どうしてと思うより先に、こちらへ駆け寄ってくる人影が見えた。
「堀さん!?」
期待を込めた、一の声。
「違います!」
現れたのは、セーラー服。
「どうしてお前なんだよ!」
狙われたのは一ではなく、無防備に現れたナコトだった。一は凄まじい速度で飛んでくる人魂と、ナコトの間に体を滑り込ませる。両手でアイギスを握り、一は人魂へと自らぶつかっていった。気が狂いそうになる衝撃に、目を瞑る。
「あああああ! 死ねぇぇぇクソ眼鏡!」
物騒な叫びを上げ、一はアイギスで魔術を掻き消した。
「一分です!」
「お前が死ぬまでの時間か!?」
一とナコトは背の高い草むらの中に姿を隠す。ナコトは一を睨みながら、
「違います、あの堀って人が来るまで時間を稼いで下さいっ」
自棄になった口調で口を開けた。
「はああ? 逃げるんじゃないのかよ?」
一の打算は脆くも崩れ去る。期待が消え、言いようの無い不安が一の心を塗り潰していく。
「あたしだって逃げたいんですっ、けどっ、けどっ!」
「……堀さんが、何とかしてくれるんだな?」
「知りません!」
だが、やるしかなかった。戦いたくはなかったが、逃げることも封じられている。
「一分だな?」
「……あなた、本当に?」
半ば、一は自棄になっていた。悪夢にあてられていたのかもしれない。それでも一は、一は。
「まだ、終わってないだろ」
傍で震える、小さな女の子の仇を取ってやりたかった。夕焼けを一緒に眺めた、ただの本好きの女の子の悲しみを少しでも取り除いてやりたかった。ソレに仲間が殺された、そんな女の子を、助けたかった。それだけは、その思いだけは、どんなに恐ろしい目に遭わされても揺らがない。
……何故なら一は。
「カトブレパスじゃない。あの女だ。あいつがお前の仲間を殺したんだ」
「……そんな事、どうして」
「分かるんだ。絶対あいつだ」
「でもっ、もうそんな事言ってる場合じゃないんですよ!?」
ナコトは懇願した。もう、良かった。敵討ちなんて端から諦めていたから。だけど、そうでもしないと、オキナに申し訳が立たなかったから。
だから、だから、だから。
「そんな事かよ。仇を討ちたいってのは嘘かよ?」
「あたし達が死んだらどうにもならないんですよ……?」
一は自棄になっていた。ナコトの襟元を掴み上げ、自分の顔を近付ける。
「店で泣いたのは嘘だったのか?」
「ちっ、違います。それより、顔を近づけないで下さい」
「じゃあお前は誰の為に泣いたんだ?」
ナコトは何も言えず俯く。
一はナコトの顔を引っつかみ、無理矢理に自分へ向かせた。
「俯くんじゃねぇ。答えろよ」
「あ、あたしは……」
「歩む死」
遠くで声が聞こえる。一はナコトから手を離し、アイギスを前方に向けた。
「答えろよ」
ナコトに背を向け、一は魔術を迎え撃つ。絶対零度が絶対防御にぶち当たる。一は歯を食い縛り、それに耐えた。
「あたし……あたし、自分の為に泣いてました……」
蚊の鳴くような声。
仲間を殺された自分がかわいそうだったから。怖い目に遭わされた自分がかわいそうだったから。悲劇のヒロインを気取ってみたかったから。
一はその答えに納得する。疑問が、氷解していく。
「じゃあ、今からやろうぜ敵討ち」
一は悪戯っぽく、ぎこちない笑顔を作った。
「に、のまえ、さん……?」
許してくれるのか。こんな、自分を。ナコトは信じられない様子で一を見る。
「やろうぜ、黄衣ナコト」
ああ。それは、誰の名前だったのだろう。
ナコトは下を向いた。
俯く為じゃなく、頷く為に。自分の意思を示す為に。
「一さん、あたし……」
「俺、良い名前だろ?」
「……まあまあですね」
ナコトは微笑んだ。
一も笑って、前を向いた。