鎖の復讐者
俯くな、前を見ろ。
ニット帽を被った女。顔を包帯で隠した女。目が死んでいる女。
三人は横一列に並んでいた。
「…………やっぱりやめた方が」
彼女らを見ながら、ヒルデは上目遣いに言う。
「駄目よ。ヴァルハラが名を上げるチャンスなんだから。いざと言うときにはウールヴヘジンもバーサーカーも呼んであげる。だからほら、行きなさい」
ヒルデの懇願を聞き流し、胸元の開いた赤いビジネススーツを着た女は言い放った。
ヒルデは逡巡する。変わり果てた戦乙女。彼女らを連れてソレを殺しに行く。以前の彼女らならいざ知らず。
だが、ヒルデにとって、今の彼女らはとんでもない足手まといだった。しかし、自身は雇われの身。上司の指示には逆らえない。
「北駒台なんかに負けてらんないのよ。ほら、どうしたの、行きなさいってば」
「…………時間を…………」
「幾ら時間を与えても、もう元には戻らないわ、それ。代わりは手配してあるから、とりあえず向かいなさい。日も暮れてきたし、さっさと帰りたいのよね、私」
言う事を聞いてくれない、使えない上司にヒルデは嫌気が差す。
「知りませんから…………」
「大丈夫よ。エチオピアのソレ如き、あんた一人で大丈夫でしょ」
分かりました。呟き、ヒルデはロッカールームに保管してある鎌を手にした。目線だけで、戦乙女に合図を送る。ニット帽の女だけがヒルデに答えた。
「初陣よ、決めてらっしゃい」
返事はせずに、ヒルデは戦乙女を引き連れバックルームを出て行く。
彼女らの後姿を見届け、残った女は煙草に火を点けた。
「厄介ったらありゃしないわ」
紫煙を吐き捨て、女は乱暴に壁を蹴った。
オンリーワン北駒台店。
「良し、お前ら集まれ」
煙草片手に、店長が椅子ごと器用に移動する。バックルームの真ん中に椅子をつけると、ふんぞり返り煙草に口をつけた。
「もう分かっていると思うが、さっき情報部から指示が来た」
集まった面々をゆっくりと眺め、店長は灰を床に落とす。
「自衛隊の団地の、近くの泉に出たそうだ。種類は獣、カトブレパス。犠牲者は一人。上からは確実に仕留めろと言われている」
「カトブレパスで間違いないですよね?」
一が念を押した。
「私に言うな、情報部に言え」
「なあ店長、出たって、一体だけか?」
「何だ三森、一体じゃ足りないか?」
店長は喉の奥で笑う。
「確認だよ、確認。けどま、何だ、物足りねえっちゃあ、物足りねェな」
「心配するな。今日はお前が留守番だ」
「はあ!? あンでだよ!」
パイプ椅子から立ち上がり、あまつさえその椅子を蹴飛ばし、三森は店長に食って掛かった。
「残念だが、先約がある」
そう言うと、店長は部屋の隅にいたナコトに目を向ける。視線を向けられたナコトは恥ずかしそうに俯き、体に巻きつけている鎖を弄った。
「私よりフリーランスを優先するってのかよ!」
「どっちにしろ、ミツモリは今日シフト入って無いんだケド?」
「呼んだのはてめぇだろうがチビ!」
「吠えるな三森。お前を呼んだのは悪いが念の為だ。もしもの時に備えて、お前には店で待機していてもらう」
涼しい顔で店長は言う。
「あのー、じゃあ今回は誰が行くんですか?」
おずおずと、一が手を挙げた。
店長が腕を組み天井を見上げる。
「そうだな……」
その様子を見ていた神野が一の背中を軽く叩いた。
「あの人何も考えてなかったんですか?」
「……多分。あの人アレだから」
「聞こえてるぞ男ども。決まった、お前らが行け」
声を揃えて一と神野が抗議の声を上げる。
「ちゃんと考えて下さいよ!」
「俺新人なんスけど!」
「確かに、お兄ちゃんたちだけじゃ心配ネ」
「煙草ばっかスパスパ吸いやがって!」
「店長、しっかり考え直して下さい」
「年増!」
「おい、私に行かせろよ」
口々に店長以外の人間が意見を口にした。店長は煙草を床にポイ捨てし、一の顔をジッと見る。
「今私の悪口言ったろ」
「言ってませんよ、本当の事を言っただけです」
「遅刻したくせに調子に乗るな」
近くにあった空き缶を手に取り、店長は一に投げつけた。缶は一の顔のすぐ傍の壁に跳ね返り、音を立てて床に転がる。
「……殺す気ですか?」
「私だってちゃんと考えているさ。まず、今回のメンバーから黄衣は外せん」
その言葉に三森は眉を顰めた。
「なあ、だから何でだよ? そもそも、フリーランスがどうしてこんな所に居るんだっつーの」
「話せば長くなります。今は一刻を争う状況なんですよ? 後にしてもらえませんか?」
ナコトは三森から顔を背ける。
「うーわ、コイツすっげームカつくわ」
「黄衣とは約束してしまったからな。それで、残り二人だが」
「え? 何で残り二人なんですか?」
神野が爽やかな声でそう尋ねた。
「ウチの規則だ」
「……ソレと戦うのに、ルールが必要なんですか?」
「若いな神野、羨ましいぞ。確かに色々と言いたい事はあると思うが、雇われは黙って飲み込め」
「……は、はい」
「ああいう人だから、とりあえず黙って従っておけば良いよ」
一が神野の肩を持つ。
「糸原と立花はもう休みだ。ゴーウェストには店に残ってもらい、三森のフォローを頼む。それで一と神野が勤務外として黄衣と一緒に行けば、な?」
「何が『な?』ですか。俺だって今日はもう休みですよ」
「私なんて二連休だったンだぞ」
「さっきからごちゃごちゃとうるさい。良いから行け、これだから人数増えると嫌なんだ」
店長はそれだけ言うと、椅子に体重を預けた。一はこれ以上店長には期待しない事にする。
「……ジェーン、SVとしての意見を聞かせてくれ」
「アタシもノープロブレムだと思うワ。お兄ちゃんならきっと大丈夫」
「あのな、SVとしての意見が聞きたいんだよ俺は。黄衣と俺と神野君で、絶対に大丈夫なんだろうな? 命の保障は出来るんだろうな?」
一は不安そうにジェーンを見つめる。頬を朱に染めながら、ジェーンは一の傍に近付き、背伸びをした。
「心配」
「……ほら見ろ」
「But、お兄ちゃんは行かなきゃダメ」
ジェーンは人差し指を一に突きつける。
「こーいうコト言いたくないんだけど、今コマダイは大変なの。アタシも出来る限り皆のフォローをしたい。ケド、それも難しくなっちゃう」
「そうなのか?」
「イエス。だから、だからニノマエ、がんばって」
はにかんだ笑顔を目の前で見せられると、一はそれ以上何も言えなくなってしまった。ジェーンから視線を逸らし、照れくさそうに頬を掻く。
「……しょうがねえな。なんだよ、店長も始めからそう言ってくれれば良かったのに」
恨みがましい目で店長を見ると、一はジェーンの頭に手を置いた。
「頑張りますよ。じゃあ店の事は任せるな。あの人たちだけじゃどうしようもないからな」
「……うん。ケド、お兄ちゃん? 子ども扱いはもうしないでよネ」
「はいはい」
「おらっ、いつまでもホームドラマやってンじゃねェぞ、とっとと行きやがれ」
三森が一の尻を蹴飛ばし、舌打ちする。
「蹴る事無いじゃないですか」
「うっせェボケ。おらっ、落とすなよ」
一が投げ渡されたのはどこからどう見ても、ただのビニール傘。傘の柄をしっかりと握り、一は三森に礼を言う。
周りに視線を配ると、神野は既に制服を脱ぎ、学ランの状態だった。竹刀袋を抱え、壁にもたれ掛かっている。ナコトは相変わらず恥ずかしそうに俯いて鎖を弄っていたが、一の視線に気が付くと不機嫌そうにそっぽを向いた。
「勤務外ども、準備は出来たようだな」
店長が顔を上げる。
「ソレは前回の場所から動いていない。現場までは堀が送ってくれるらしい、外で待ってるから早く行ってやれ」
一たち討伐組は顔を見合わせ、それぞれ頷いた。
一たちが店を出ると、黒いワゴン車が目に入った。車の近くには、スーツ姿の優男。眼鏡の位置を直しながら、彼はにこやかに微笑む。
「久しぶりですね」
「堀さん、元気にしてましたか?」
懐かしい顔に、一の心が少しだけ躍った。堀はぎこちなく笑う。
「こっちに戻って、やっと元気になったって感じですかね。一君も元気そうで何よりです」
「……あの、店長たちに挨拶は?」
「いやあ、電話で店長に復帰を告げると『そうか』って一言。相変わらずクールですね、店長は。そんな訳で、別に良いんじゃないですか?」
「あの人はっとにもう……」
ふと、一が後ろを向くと神野とナコトは所在無さげに突っ立っていた。
「……おや、確か後ろの方々は」
「新人の神野君と、その、フリーランスの黄衣です」
一がそう紹介すると、神野は頭を下げ、ナコトは俯いた。値踏みするような視線を後ろの二人に向け、堀は車のドアを開ける。
「立ち話もなんですから、とりあえずは中に。移動中に自己紹介を済ませましょう」
堀の提案に三人は頷く。
一が助手席。神野とナコトは後部座席に乗り込み、堀が運転席でシートベルトを締め、ドアを閉める。
アラクネ。唐突に一は思い出してしまった。あの日もこの車に乗った事を、思い出す。アイギスを握る手に力が入った。そうだ、また、夜が始まる。
北駒台店のバックルームで、三森は椅子にもたれて煙草を吹かしていた。静かな部屋に時折、店長のマウスを弄る音だけが聞こえてくる。最近一が買ってきた、バックルーム専用の灰皿に短くなった煙草を押し付けると、三森は椅子から立ち上がった。
「なあ店長、マジにあいつらだけで大丈夫なのか?」
店長はパソコンのディスプレイから視線を外し、ゆっくりと顔を上げる。
「一が心配か?」
「あいつらって言ったンだけどな、私は」
ニヤニヤと笑う店長を見下げ、三森はジャージのポケットに手を突っ込んだ。
「フリーランスはともかくよ、あの二人はまだ新人もいいトコだろうが」
「だからだ。お前も気づいているだろう、三森。今年の駒台は、ソレが異常に現れていることを」
「そういや、春風にも同じこと言われたな」
「クルーひとりひとりの質を上げなきゃならん。去年までの、お前一人に頼りきりの状態じゃ店は回しきれなくなるぞ。それどころか、非常に面倒で考えたくは無いが、駒台で年を越せんかも知れんな」
気だるげに、店長は煙草に火を点ける。
「どういうこったよ」
「そのままの意味だ。ソレの数が増えた。先日のアラクネ戦で、徒党を組むソレが居るというのも明らかになった。そして、これはまだ誰にも言ってなかったんだがな、どうも最近のソレには作為めいた意図を感じるんだよ」
「……店長の勘ってのは、当たるンだよな」
「勘だけじゃない。堀も言っていた。カトブレパスが単体でフリーランスを殺すなんて有り得んとな」
「私は考えンのが嫌いなんだけどさ、つまりそれって、誰かが裏で糸引いてるって事になンのか?」
三森の言葉には答えず、店長はただただ紫煙を吐く。
「有り得ねーだろ、ンな事」
「……だといいがな」
夜道を黒いワゴンが走る。何の変哲も無い、普通の光景。中に、勤務外とフリーランスが詰まっていることを除きさえすれば。
「それではおさらいしましょうか」
ハンドルを握りながら、堀はにこやかに笑う。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからずという気休めもあります。まず敵についてですが、カトブレパスで間違いは無いでしょう。では神野君、カトブレパスの能力を」
突然呼びかけられた神野が目を泳がせた。
「えーっと、そいつの眼を見たら死ぬ……?」
「正解です。ではどうすれば良いでしょうか、はい、黄衣さん」
「……眼を見なければ良いんです」
ナコトは淡々と告げる。堀はニヤリと笑い、「正解です」と告げた。
「では、どうして『図書館』の片割れは死んでしまったのか、はい、一君」
「……カトブレパスの眼を見たからです」
酷な質問だ。一はナコトを気にしながらそう思う。だが同時に、明確にしておかなければならない事だと思った。ハッキリと、口にしておかなければならない問題。
「優等生揃いで嬉しい限りですね。では黄衣さん、あなたの相棒は本当にソレの目を見ましたか?」
ナコトは持っていた本を掻き抱き、俯く。
「……あいつは見た、筈です。あたしは後ろに居たから何が起こったのか、ちゃんと見てないけど」
それでも、気丈に声を振り絞った。
「覚えている限りの事を話してもらえませんか。ああ、既に店長か誰かには話したと思いますが、私はまだあなたの状況を把握していませんので」
「……ソレと出会って、オキナがソレに魔術で仕掛けて、その、消されたんです」
「魔術を、ですか?」
「はい。そうです」
俄かには信じられない話だと、神野は思う。魔術を掻き消された事ではなく、魔術の存在自体を信じられない。
堀は淡々と喋る。
「『図書館』については、オンリーワンの社員である私も知っています。クトゥルフを使いこなす中々の使い手だと。実際彼の挙げた功績は大きい。ですが、カトブレパスがそんな彼の魔術を掻き消したと、黄衣さんはそう仰るんですね」
「……そうです」
「カトブレパスにそのような力はありません。あなたの相棒が魔術を失敗した可能性は考えられませんか?」
「有り得ません。でも、だけど、あの時のオキナ、むきになってたかもしれないです」
魔術には集中力が不可欠である。魔導書との対話に失敗すれば、魔術は魔術師に跳ね返る場合もある。そう言った事情にも精通していた堀は成る程と、頷く。
「分かりました。そして魔術を行使した彼は、眼を見て死んでしまった、と」
難しい顔をして、堀は片手で顎をなぞった。
「黄衣さん、そこに、誰か居ませんでしたか?」
「居なかったと、思います。……あの、どうしてそんな事を聞くんですか?」
「いやあ、念の為ですよ。それでは次に我々の戦力についておさらいしましょうか。皆さん、この面子で臨むのは初めてでしょう? お互いの事もより良く知っておきましょうか」
コロリと声音を変え、堀が陽気そうに言う。
堀以外の一たち三人は、すっかり彼のペースに呑まれていた。
「それではまず神野君、君に出来ることを教えてください」
「出来ることって言っても、俺にはこれしか……」
そう言って、神野は竹刀袋を掲げる。
「成る程、充分です。確か神野君は剣道をやっていると聞いていますが?」
「はい。剣道には自信があります」
堀は知っていた。レッドキャップを殺した神野の経歴を。
「……頼もしい限りです。ですが、今回は店長から黄衣さんを中心に使っていけと言われてるんですよ。という訳で、神野君には後衛をお願いします。なあに気張ることはありません、基本的に見ていれば終わりですから」
神野は少しだけ安心する。そして、心の奥深くでどこか焦りを覚えた。
「では黄衣さん、あなたは?」
「魔術が使えるんだよな」
一がナコトより先に、ほんの少し誇らしげに口にする。
「……は、はい。魔術と、それと、鎖、です」
その続きをナコトは恐る恐る喋った。
「鎖、ですか。糸原さんのアレと同じくらいなんでしょうかね……」
「糸原って人がどれ程の腕前かは知りません。けど、あたしもその人に負けるつもりは無いです」
「成る程、自信有り、と。良いでしょう、では最後に一君。君の能力は?」
そう改めて聞かれると、非常に恥ずかしい。一は頭を掻き、なるべく誰とも視線を合わさないようにしてから口を開く。
「アイギス。多分、相手を止める力です」
そう言うと、一は窓の向こうに意識をやった。外はもう暗い。
「あなた」
ナコトが席から立ち上がる。座席の肘掛に手を置き、バランスの悪い走行中の車の中で、それでも一に向かって立ち上がる。
「今からソレと戦うんですよ? 冗談はやめて下さい。今回あたしがメインで戦うからって、フリーランスと一緒に戦うのが気に食わないからって……あなたは本当に最低ですね。あたし、少しだけあなたの事が嫌いじゃなくなったのに、本当に酷い。手なずけていた犬に手を噛まれた気分です」
「……色々と言いたい事はあるけどさ、とりあえず座りなよ」
不承不承と言った風に、ナコトは乱暴に座席に着いた。
「黄衣さん、一君の持っているアイギス。その力は本物ですよ、私もこの目で発現した所を見たことがあります」
「何かの間違いです。あなたのような、ちょっと変わってるだけの人があんな力を持っているなんて、信じられません」
堀のフォローにも頷かず、ナコトは疑惑の目を一に向ける。
「そう言われてもなあ。まあ、これが凄いモノってのは分かるよ。けどそこまで言うかあ?」
一は何となくアイギスを眺めた。どこからどう見ても、ただのビニール傘だ。
「本当にアイギスの価値を理解しているんですか? ギリシャ最高の女神、アテナの所持するギリシャ最高の盾なんですよ? どうしてその傘がアイギスなのか、どうしてあなたが持っているのか、全く以って不愉快です。理解に苦しみます」
「……あの、一さんってそんな凄いの持ってたんですか?」
神野が尊敬の眼差しを一に向ける。
「どうなんだろ、貰い物だしなあ」
「誰に貰ったんですか?」
「アテナ」
ナコトの顔面が蒼白になった。
「し、信じられない……。何故女神があなたなんかに……」
「さっきからうるせぇな、俺だって知るかよ。とにかく、これは紛れも無い本物だ」
「黄衣さんはアイギスについて知っているようですね。良いでしょう、では自己紹介も済んだところで、僭越ながら私が君たちに作戦を授けましょうか」
堀は楽しそうに笑う。その笑顔を見て、一はアラクネ戦の時にもこんなやり取りがあったのを思い出した。
「まず、神野君は後衛で待機。私は車の近くに待機していますので、何かあったら神野君が私に伝えに来て下さい。そうですね、中継役と言ったところでしょうか」
「分かりました。あの、堀さんは、来てくれないんですか?」
「すみません。規則なものでして」
「……そう、ですか」
また、規則。
「いやあ、私なんていなくても大丈夫ですよ。そうですねえ、前衛は勿論黄衣さんにお願いしましょうか。一君にはアイギスで一応のフォローをお願いします。まあ、正直に言えば作戦なんて呼べるものではありません。いつもの北駒台店らしく、力技で行きましょう」
「元も子もないですね……」
一の呆れるような視線をやんわりと受け流し、堀は微笑した。
「そろそろ、目的地ですね。皆さん、お願いしますよ」
堀が道路の脇に車を止めると、神野とナコトが車を降りる。一もシートベルトを外し、ドアに手を伸ばした。
「ああ、一君。一応この付近の住民の避難は完了していますので」
「……オッケイです」
「それと、今から話す事は私の杞憂であると祈るのですが、注意事項を」
「はい?」
「もし、もしカトブレパス以外に誰か居たら、すぐに引き返して下さいね」
堀は何時に無く真剣な表情だった。
「……誰かって、その、俺たちの他に、全然別の人間が居るって事ですか?」
「あくまで可能性です。今回の事件、非常に不可解な点がある事には、気づいてますよね?」
「まあ、少しぐらいは……」
「安心して下さい。可能性です。一パーセントにも至らない、極々些細な私の妄想ですよ」
「はあ……。とにかく分かりました。当たり前ですけど、気をつけてみます」
「ありがとうございます。それでは、お気をつけて」
一は分からないながらに堀の言葉を咀嚼しながら、車のドアを開ける。
「遅いです。シートベルトを外すのにどれだけ時間をかけているんですかあなたは。これだから童貞は嫌なんです」
「お前終わったらぶん殴ってやる」
「緊張感無いなあ……」
一たちが注意深く藪を抜けると、幾分か開けた場所に出た。地面には草が好き放題に生えて荒れている。
まず、一は件の泉を見た。大きくは無い。申し訳程度の規模。
「池って感じだよな……」
こんこんと岩場から水が湧き出ているのが確認できた。泉は月を映し、揺ら揺らとその姿を変えている。静かだった。今から、ここで戦闘をするのかと、一は息を呑む。幻想的で、どこか異様な気配。
「一さんっ」
神野の焦った声。彼が指差す先、気配の源はいた。ただ、そこにいた。
「……あいつです」
ナコトが敵意を込めて声を振り絞る。既に鎖を構え、臨戦状態。
一も見た。
牛の体。豚の頭。空っぽの腸のような細い首。いつ、折れてしまってもおかしくはない。
そんな不安定な首に任せたまま、ソレは俯いていた。一たちが来たことに気づいているのか、いないのか。カトブレパスと呼ばれるソレは、決して動こうとはしなかった。
「良し、神野君は下がって。黄衣、話は聞いていたけど、とりあえず魔術を頼む。相手の出方が見たい」
一が指示を出す。ナコトは鎖に手を掛けたまま、
「魔術は必要ないでしょう。相手は動かないんです。あたしが一発で仕留めて見せますから、必要以上に怯えないで下さい。出方を伺うなんてそんな事無用です」
一を非難するようにそう言った。
強い意志に圧され、一は仕方なく頷く。
「分かった。俺がフォローするから、遠慮なく行けよ」
「あなたに期待はしていません」
ナコトは一歩踏み出し、鎖の先端を振り回し始めた。鎖は唸りを上げ旋回する。
一はアイギスを広げ、しゃがみながら距離を取った。
ソレはまだ、動かない。
鎖はやがて風になる。力を伴った、荒れ狂う風。触れたもの全て傷つける暴力の象徴。ナコトはそれをカトブレパス目掛け飛ばした。当たれば、それで終わり。ソレは、終わり。
――ねえ、死体はどうしたの?
誰かの声を、一は聞いた。