黄衣図書館
眠りから覚めた一は頭を抱えた。現在、時刻は九時を回っている。
「……んー? 一、どしたの?」
こたつから這い出てきた糸原が、一の深刻そうな顔を見て笑った。
「ひゃひゃひゃ、何よその顔? 一発で目ぇ覚めちゃったじゃない」
「遅刻だ……。どうしよう、今まで遅刻なんてした事なかったのに……」
今日の一は午前からシフトに入っている。午前から。オンリーワンでは、午前からと言うのは九時からを指す。
つまり。
「あー、どんなに急いでも間に合わないわねー。こういう時はさ、二度寝すんのが良いと思うんだけど、あんたはどう思う?」
糸原の問いに答えず、一は布団から跳ね起き洗面台へ向かった。歯を磨き、顔を洗い、ジャージを脱ぎ捨て外出着に着替えると、急いで玄関に向かい靴を履く。
「何よー? バイトなんてジャージで良いじゃん。着替えた分時間勿体無くない?」
「終わった後、タルタロスに寄るんです」
「はあ? 相変わらずあんたって時間を無駄にする天才よね」
「そうです。だから俺は糸原さんとも喋っていられる訳です」
「……どーいう意味よ?」
「糸原さん、今日は午後からでしたっけ? 鍵閉めといて下さいね、店まで取りに行きますからっ」
「だー、話聞きなさいよー!」
無視して、一は扉を開けた。外はこれでもかと言うぐらいに眩しかった。
一が店に着くと、半泣きの立花がカウンターで恨めしげに佇んでいた。
「ごめん! すぐに行くから!」
「は、はじめ君!」
一の声に、立花は瞳を輝かせる。期待に応えるべく、一はバックルームへ慌しく入っていった。
「……やあ、おはよう、一君」
そこには一にとって面倒な女がいた。
「う。遅れてすみません」
「いや? 気にするなよ、一。初めての遅刻だしな、何も言わんさ」
ニヤニヤと、口元を歪めながら店長は言う。
「あ、ありがとうございます」
引き攣った笑顔を作り、一は店長に返した。
「おいおい、気にするなって言ってるだろ? たかが遅刻だ。気にするなよ」
「……もういっその事怒ってくれた方が楽なんですけど」
「だからだ。良いか、一。五分と言えど遅刻は許さん。コンビニだからと言って舐められてる感じがして気に食わん。そして何よりも許せんのが店に連絡をしなかった事だ。分かるか? 前もって遅刻をすると言ってさえくれれば、私だって何とかしてやれるんだ。代わりを立てることも出来たし、場合によれば、いや、万が一。億が一として私が代わりに出ることも可能なんだ。死ぬほど嫌だがな。良いか、一。ああ、嫌とは言わせんが、罰として、私は今日お前を徹底的に弄りぬくぞ」
「早い話が、自分が店に立つのが嫌なんですね」
「茶化すな。お前は何を誤解してるのか知らんがな、私はお前の雇い主だ。お前は私に雇われている。つまり、私は責任もってお前を守らなければならん。大事な戦力だからな。連絡無しで無断欠勤でもされてみろ、心配だろうが」
店長は煙草に火を点けながら一を睨む。
「……その、すいませんでした……」
素直に頭を下げた一を、店長は真剣な瞳で見つめた。
「分かれば良い。行って良いぞ」
「はい、気をつけます」
「ん。しっかり働けよ」
気落ちしたまま、一はバックルームを出て行く。
店長はその姿を見送り、頭を掻いた。
「言い過ぎたか……」
強すぎる薬は毒になる。
「ど、どうしたのはじめ君? もしかして、店長に怒られちゃった?」
心配そうに覗き込む無垢な瞳。
「うん。普通に怒られた。逆にああ言うのが効くわ」
「……だ、大丈夫?」
何とか。短く答え一はカウンターに立てかけてあったモップを手に取る。
「今日は俺が掃除するよ」
「えぇ? 良いってば、ボク気にしてないよ?」
「駄目。ちょっと反省する」
「じゃ、じゃあボクどうしたら良いの? はじめ君が掃除してる間、ボクがレジするの?」
「……フォローはするよ。あ、お箸足りなくなりそうだったから補充しといてね」
「う、うん。分かった、頑張る」
力強く立花は拳を握った。
夕方と違い、この時間帯に客は少ない。一は大した心配もせずにゆっくりとモップをかけていく。小汚い床を綺麗にしていけば、心が洗われる様な気がした。全く持って何も伴わない見えていない盲目的な考え。だが一はそれに縋る。自身の内側に溜まった物をぶちまける様に、無茶苦茶に床を擦りあげる。
「……ジェーンちゃんと似てるね」
「え?」
いつの間にか近くにいた立花に驚きながら、一が掃除の手を止めた。
「ジェーンちゃんも掃除の時は、ちょっと怖いんだ……」
俯く立花。
「あ、と。俺、怖かった?」
「す、少しだけだよ?」
「……ごめん。気をつけるよ」
「そ、そんなつもりなかったんだけど……」
俯く二人。
「あ」
その時、店のドアが開く。
眩しいばかりの白いセーラー服が一の目に入った。駒台では珍しい、と言うより全く見ない制服。同時に、少女の背負っている大きなリュックサックに目が行く。小柄な少女には不釣合いで、背負っていると言うよりも、背負わされている。そう言った方がピッタリと当てはまる気がした。
「……サボりかな?」
「不良? どうしよう、ボクどう接していいのか分からないよ?」
「立花さん、今日学校は?」
「ボ、ボクは来週から始まるのっ」
そう言えばそうだったか。一は何気なく、立花から視線をセーラー服の少女へ移した。ハンチング帽に、知的な眼鏡。少女の全体像を眺めていた一はぎょっとする。彼女のセーラー服に細い鎖が巻かれていたからだ。
「最近の子は変わってんだね……」
「ボ、ボクもはじめて見た……」
二人は「いらっしゃいませ」と言うのも忘れてこそこそと喋る。
セーラー服の少女は、キョロキョロと忙しなく視線を動かしていた。挙動も、何処となく不審だった。何かを警戒しているような、そんな印象を一は受ける。
そこで一はハッとした。
「……立花さん、あの子マークしといて」
「え? どうして?」
「人を疑うのは良くないと思うけど、あの子、万引きをするかもしれない」
「ええっ!?」
立花の大きな声で、少女が一たちを見た。目が合った一はぎこちなく会釈。立花の方に向き直り、さっきよりも小声で話しかける。
「……刺激しちゃまずい。あんなの巻いてる子だし。とにかく、注意深く見てて」
そう言うと一は何事もなかったかのように掃除に戻った。
「が、頑張る……」
立花は少女の反対側の棚に回り、ジロジロと少女を観察する。
「…………」
完全にバレバレだった。
立花が奇行を続けて数十分。その間に来た客は一が掃除の手を止めて対処し、その間少女は何も買わないで店内をうろついていた。
「立花さん」
「あ、な、何?」
呼ばれた立花は子犬よろしく一の元へ駆けて行く。
「もうマークするのは止めようか。あの子はさり気なく俺が見とくよ」
「し、失敗しちゃった?」
「……いや、してないよ」
「そっか。分かった、じゃあ何をしておけば良いかな?」
「うーん。そろそろ納品業者も来るし、あ、そうだ。おでんの具足しといてくれる?」
「分かった!」
立花はカウンターに走りより、おでんの鍋の蓋を開けて中を覗き込んだ。
「はじめ君、何を足せばいいかな?」
「え? あ、ちょっと待って」
一は外側の窓を拭いていた手を止め、カウンターへ近付く。
「……んー、大根と玉子足しとこうか。この辺は売れ筋だから、迷ったら足しておいて問題ないよ」
「そ、そっか。分かった、ありがと、はじめ君」
そう言うと、立花はバックルームへ駆けて行った。
一はその間、レジに立つ。所在無さげに立っていると、セーラー服の少女がつかつかと一の方へ向かってきた。一は思わず身構える。
「あの、店長っていますか?」
「……はい。いますけど、えっと、君は?」
少女の口から出た意外な言葉に、一は拍子抜けした。
「あ、ごめんなさい。あたし、ナコトって言います。あの、ここって勤務外の人がいるお店ですよね?」
「そう、ですけど」
「良かった。あの、実は店長さんにお話があって……」
ナコトと名乗った少女は、鎖を弄りながら恥ずかしそうに俯く。
「……ちょっと待っててくれるかな」
「はい。ごめんなさい、いきなりで」
「いや、それは良いんだけど……」
一には少女の鎖が気になって仕方なかった。
「はじめ君! 大根って何パック要るかな!? って、ああ! ま、万引き犯!」
バックルームから出てきた立花が叫ぶ。
「……万引き犯?」
ナコトが、何ですかそれはと呟いた。少しばかりの敵意が剥き出しになっている。
「あ、た、立花さん?」
「は、はじめ君から離れてよっ」
大根の入ったパックを抱えながら、立花が涙目で駆け寄ってくる。
「あの、誰が万引き犯なんですか?」
「き、君だよ! 盗人たけだけだけしいよ!」
「立花さん、一個多いから」
「え? 持ってき過ぎちゃったかな?」
「そっちじゃなくて」
あの、と。ナコトが手を上げる。
「誰が万引き犯、なんですか?」
意外としつこかった。
バックルームには煙草の煙が充満している。煙を鬱陶しげに払いながら、セーラー服の少女――ナコト――はリュックサックを下ろした。
「あなたが、店長さん?」
「ん? おい、一。部外者をバックに入れるな」
「いや、実は店長にお話があるとかで」
店長は不思議そうに少女を眺める。
「見ない顔だな」
「あ、ご、ごめんなさい。はじめまして、黄衣ナコトと申します」
「ん。はじめまして、私が店長だ」
その一言に店長の人となりが集約されていた。
「……それじゃ、後はどうぞごゆっくり」
「あ、待って下さい」
一の袖が掴まれる。
「え、な、何? なんなの?」
「あの、この人と二人きりにしないで貰えますか? 凄くやり辛そうな人です」
ナコトはきっぱりと言い切った。
「……失礼な奴だな」
「確かに失礼だけど、人を見る目はありますよ」
「遅刻したくせに生意気言うんじゃない。とにかく、お前は仕事に戻れ」
追い払うような手振りを示し、店長は紫煙を吐き出す。
「あの、言う事聞いて貰えませんか?」
「んー、俺バイトだから。この人の言う事には逆らえないんだよね」
それに面倒くさそうだし。とは流石に言い留めた。
「……そうですか」
ナコトは悲しそうに俯き、鎖に手を掛ける。一はその挙動に気づかず、バックルームを出ようとした。出ようとして、足を踏み出し、何かに足を取られ、情けなくすっ転ぶ。
「おい、一」
「だああ、笑わないでくださいよ!」
「そうじゃない。足を見ろ」
言われた通り一が自分の足を見た。
「はあ?」
そこには、鎖が巻かれていた。幾重にも細い鎖が一の足を絡め取っている。これでは転ぶのも無理はない。
「すみません」
ナコトが突然頭を下げる。
「どうしても、この人と二人きりになりたくないもので」
「……実は謝る気とか無いよね、君?」
「……すみません」
「仕方ない。手早く用事を済ませてもらうか。で、黄衣? 君は一体何しに来た? そして、君は何者だ?」
店長が煙草の先をナコトに向ける。
「ここには、頼みに来たんです」
「何をだ? 焦らすんじゃない、手早くと言ったろう」
「……う、あの、ソレを倒して貰おうと思って」
鎖を弄りながら、ナコトはまた俯いた。
「ソレを倒す? わざわざ、ここにか? 君に言われなくてもやっている。そんな事を言いに来たのか?」
「か、仇をっ、仇を取って下さいっ」
聞き慣れない言葉に、一と店長が固まる。沈黙と時間だけが、静かにバックルームに流れていった。何だか、とても気まずい。
「……仇って? どういう事? ソレに何かされたの?」
一が何とか聞き出すと、ナコトは顔を手のひらで覆う。すんすんと、ナコトは鼻を啜って泣き出してしまった。店長は面倒くさそうに頭を掻き、短くなった煙草を空き缶に捨てる。
「おい、理由を言わなきゃ分からんぞ。君はめそめそと泣く為にここまで来たのか?」
「ちっ、違う。違いますっ」
「なら喋れ。私も暇じゃないんだ」
嘘付け。一は内心で突っ込んでおいた。
「あ、あたしっ『図書館』でっ、ソ、ソレに仲間を殺されて、それでっ」
ナコトは詰まりながらも、一生懸命に説明を始める。店長は何も言わず、ナコトの説明に耳を傾けた。
「く、悔しくてっ、けど、あたしだけじゃ、仇を討つの、ムリ、だ、だからっ」
そこまで言うと、ナコトはまた泣き始める。それ以上の情報は得られそうも無かったので、一はナコトを一先ず放っておいて疑問を口にした。
「店長、図書館に出るソレってなんですかね?」
「……一、お前は面倒事を引きずり込んでくるよな」
「俺じゃないですよ。この子が来たんです」
暢気な一を憎憎しげに睨みながら、店長は深く息を吐く。
「一、コイツは多分な、フリーランスだ」
「へっ? こ、こんな子が?」
「こんな子とは誰の事ですか?」
ケロッとした顔でナコトは一を見つめた。
「いや、君だよ。君、高校生でしょ? 高校生がフリーランスやってんの?」
「あなただって高校生でしょう」
「な! お、俺は大学生だよ!」
「すみません。背が――」
「――低いってか! うるせぇよ!」
「一、煩いぞ。それで黄衣。君はフリーランスだな?」
答えを口にするのを躊躇うように、ナコトは俯く。
「隠しても意味は無いぞ。ああ、安心しろ。私は別にフリーランスを毛嫌いしている訳じゃない」
「……そ、です。あたしはフリーランスです」
「マジかよ……」
一は何となくナコトから視線を逸らした。
「ふん、『図書館』と言えば、そういや二人組だったな。なるほど、相方がやられた訳か」
ナコトは唇を噛み締める。
「フリーランスが勤務外に敵討ちの手助けを頼む、か。情けないなあ、君は」
ナコトは答えない。
「何故、その場でソレと戦わなかった? ここまで来たという事は、一度はソレから逃げたと言う事だろう? 相棒を見殺しにして。自分だけが生き延びて。大した生き狂いだな、流石はフリーランスと言ったところか」
ナコトは答えない。
「店長、ちょっと言い過ぎじゃないですか?」
「言い足りん。私は他力本願な奴が嫌いなんだ」
「同属嫌悪って知ってます?」
「ああ、知ってる知ってる。ほら、どうした黄衣? 何か言ったらどうなんだ」
ナコトは、唇を強く噛み締める。硬い歯が薄い皮を食い破り、唇からは血が滲み出た。溢れる血液を舐め取り、彼女は立ち上がる。
「助けて、下さい……!」
ナコトは店長に向かって、勢いよく頭を下げた。
店長は冷ややかにナコトをねめつけ、
「土下座だ。頭が高いとは思わんか、黄衣?」
言い放つ。
やり過ぎだ。一の頭に血が上る。
「っ! 店長! これ以上は俺も黙ってませんよ……」
「お前は年上が好みなんじゃなかったか?」
「……あなたは好みじゃない!」
「ちっ、怒るなよ。冗談だ。黄衣、顔を上げろ」
だが、ナコトは頭を下げたまま。
「……お前の相方をやったのはカトブレパスか?」
何度も、力強くナコトは頷いた。
「悔しいか? 仇を取りたいか? ソレを殺したいか?」
何度も何度も、ナコトは頷く。
「フリーランスを辞める覚悟はあるか?」
「やめます……っ!」
声は震えていた。それでも、それでもナコトの声には意思がしっかり刻まれていた。
店長は薄笑いを浮かべる。
「良いだろう。『図書館』の仇討ち、手伝ってやろうじゃないか」
「あっ、ありがと、う、ございます……!」
顔を伏せたまま、ナコトは言葉を紡ぐ。
何故だか、一には店長が良い人に見えた。
「店長、流石に鬼じゃなかったんですね」
「お前の給料払いたくない」
「うぉーい! 鬼か!」
「口も利きたくない」
書類の山を感慨深げに眺め、堀は眼鏡の位置を直す。
「……まさか、これが終わるとは思ってもいませんでしたよ」
「ふん、私が手伝ったんだ。当然の結果だろう」
「そうねー、麗ちゃんのお陰ね」
誇らしげに立つ春風を、炉辺は目を細めて称えた。
「そして、まさか春風さんに手伝ってもらえるとは思いませんでした」
「……交換条件が魅力的だったからな」
交換条件。堀にとっては初耳だった。
「なんですか、それは?」
「一一の情報だ。炉辺乙女が教えてくれるのだろう?」
「ええ、勿論」
「そんな、炉辺さん安請け合いを……」
「えっとね、はじめちゃんはー入院してるときに教えてもらったんだけど、ちゃん付けされると怒るのよ」
ニコニコと、微笑みながら炉辺は言う。
「……炉辺乙女、私をからかっているのか?」
「え、どうして? からかってないわよ?」
「春風さん、炉辺さんはこういう人なんです」
堀はこの上なく春風に同情した。
「くっ、騙された……」
「えー? 騙してないじゃないっ、ちゃんとはじめちゃんの事教えたのに」
「あー、皆さん、ありがとうございました。さて、そろそろ私は上司へ報告しに行きましょうかね」
居た堪れなくなった堀は、逃げるようにその場を去った。
「……黄衣さん、何か食べたいものある?」
「おでんが食べたいです」
「う、元気になったみたいだね。リクエストとかある?」
「この店の売れ筋を」
「……かしこまりました」
泣き止んだナコトは「お腹が空きました」と、何故か一に言った。店長は最初から聞く耳を持たず、一はしつこく食い下がるナコトに負けて、自腹を切る破目になっていた。納得いかなかったが、さっきまで泣いていたナコトを見て、かわいそうだなと思ってしまっていた。だから、仕方ないかとも思ってしまう。
完全に手の平の上でローリングストーンだった。溜め息を吐き、一は一時間振りに店内に戻る。
「は、はじめ君……」
立花は泣いていた。
「……あの、これは、その」
「ボ、ボク……。ボクね……?」
一は潤んだ瞳に見つめられる。
「本当にごめん……」
「い、良いんだ! はじめ君は戻ってきてくれたから」
どこまでも健気だった。
「ごめんな、立花さん。そんで悪いんだけど、おでんの容器取ってくれる?」
「うんっ、はい、どうぞ」
「ありがと。あ、そうだ。立花さんっておでんで何が好き?」
「え、えっと、えっとえっとね。馬すじでしょ、それと小桜っ」
立花は二本、嬉しそうに指を立てた。
「……小桜って?」
「し、知らないの? 桜の花びらに似てるんだよ?」
「そっか」
一は流す。
「うーん。馬すじは無いけど、牛すじを入れておこうかな」
適当に具を容器に入れて、一はプラスチックの蓋で閉じた。
「参考になったよ、ありがとね」
「? え、どこ行くの?」
「さっきの子がおでん食べたいって言うからさ」
「ボ、ボクのじゃないの!?」
「え、違うけど……」
「ひ、酷いや! はじめ君の馬鹿! あの子結局万引き犯じゃないかっ!」
「……金払ってくれそうにないし、そう言われればそうなるよね」
一は芥子を適当に引っつかみ、カウンターへ身を乗り出して箸を一つ手に取る。
「もうボク働きたくないよっ、きんろー意欲が無くなったもん」
ぷいっと立花はそっぽを向いた。
「またジェーンに吹き込まれたな……。分かった、仕事終わったらご飯食べさせてあげるから」
「ボ、ボクを食べ物で釣ろうとしても、そ、そうは行かないよっ」
「立花さん、家でご飯どうしてる?」
「……い、いんすたんと」
「お米とか、ちゃんと食べてる?」
「た、食べてないけど、か、関係無いじゃないかっ」
「今日は俺学校無いし、ちょっと遠くまで外食しに行こうと思ってるんだ。糸原さんいないから、和食の美味しいお店までね」
もはや意地悪でしかない。
「まあ、別に良いや。制服連れた子と一緒にいたら職務質問喰らいそうだし。一人で行くよ」
「き、着替えるっ! ご、ご飯食べたい」
「素直でよろしい。ってわけで、ごめんね。これ渡したらすぐに戻ってくるから」
おでんの容器を大事に持って、一は立花に背を向ける。
「は、早く帰ってきてねー」
「はいはい」
正直な話。一にとって、この世で一番立花が可愛かった。
ナコトはバックルームで優雅に女性誌を読んでいた。
「遅かったですね」
「あのさー君さ、さっきまで泣いてたよね」
「あたしって泣いたらお腹空くんですよね」
一からおでんの容器を奪い、ナコトは蓋を開ける。
「……確かに、売れ筋ばかりです」
「ご注文どおりでしょ」
「ですがありきたりで、つまらないですね」
「店長! やっぱ敵討ち止めませんか!?」
返事は無い。店長は疲れて寝ていた。
「箸と芥子を」
「畜生、納得いかねえ。せめて金払ってくんないかな」
「狭量な殿方は嫌われてしまいますよ。主にあたしに」
大根を頬張りながらナコトは言い放つ。
「敬語に誤魔化されていたけど、段々化けの皮が剥がれてきたって感じだな」
「あたしは化けてなどいませんでした。あなたの理想の女性像を押し付けるのは遠慮して貰えませんか」
「てめぇ、変な鎖巻いてるくせに」
「……鎖は関係無いでしょう。あなたは馬鹿ですか?」
騙された。一は今更ながら、猛烈にそう思った。
「さっきまでのは嘘泣きだった訳かよ」
「あたしは、そこまで器用ではありません」
玉子を箸で割りながらナコトは淡々と言う。
「あの涙は紛れも無く本物です。確かめてみますか?」
「……どうやってだよ?」
ナコトは黙って床を指差した。
「あたしの涙の痕がまだ染み付いている筈です。どうぞ、舐めてみて下さい」
「なあ、ぶん殴っても良いよな?」
「どうぞご自由に。あなたがオキナの仇を取ってくれると言うなら、ですけど」
「随分と、仲間の事を軽く言うんだな」
「あなたにはあたしたちの事は分かりません。ですよね? だから、そんな口を利かないでください」
カップに口を付け、ナコトはだしを飲み干す。
「……足りないですね。お代わりを頂けますか?」
「芥子でも食ってろ!」
――騙された!
一はもうナコトに関わらない事を決めた。