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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
カトブレパス
55/328

黄衣図書館

 眠りから覚めた一は頭を抱えた。現在、時刻は九時を回っている。

「……んー? 一、どしたの?」

 こたつから這い出てきた糸原が、一の深刻そうな顔を見て笑った。

「ひゃひゃひゃ、何よその顔? 一発で目ぇ覚めちゃったじゃない」

「遅刻だ……。どうしよう、今まで遅刻なんてした事なかったのに……」

 今日の一は午前からシフトに入っている。午前から。オンリーワンでは、午前からと言うのは九時からを指す。

 つまり。

「あー、どんなに急いでも間に合わないわねー。こういう時はさ、二度寝すんのが良いと思うんだけど、あんたはどう思う?」

 糸原の問いに答えず、一は布団から跳ね起き洗面台へ向かった。歯を磨き、顔を洗い、ジャージを脱ぎ捨て外出着に着替えると、急いで玄関に向かい靴を履く。

「何よー? バイトなんてジャージで良いじゃん。着替えた分時間勿体無くない?」

「終わった後、タルタロスに寄るんです」

「はあ? 相変わらずあんたって時間を無駄にする天才よね」

「そうです。だから俺は糸原さんとも喋っていられる訳です」

「……どーいう意味よ?」

「糸原さん、今日は午後からでしたっけ? 鍵閉めといて下さいね、店まで取りに行きますからっ」

「だー、話聞きなさいよー!」

 無視して、一は扉を開けた。外はこれでもかと言うぐらいに眩しかった。



 一が店に着くと、半泣きの立花がカウンターで恨めしげに佇んでいた。

「ごめん! すぐに行くから!」

「は、はじめ君!」

 一の声に、立花は瞳を輝かせる。期待に応えるべく、一はバックルームへ慌しく入っていった。

「……やあ、おはよう、一君」

 そこには一にとって面倒な女がいた。

「う。遅れてすみません」

「いや? 気にするなよ、一。初めての遅刻だしな、何も言わんさ」

 ニヤニヤと、口元を歪めながら店長は言う。

「あ、ありがとうございます」

 引き攣った笑顔を作り、一は店長に返した。

「おいおい、気にするなって言ってるだろ? たかが遅刻だ。気にするなよ」

「……もういっその事怒ってくれた方が楽なんですけど」

「だからだ。良いか、一。五分と言えど遅刻は許さん。コンビニだからと言って舐められてる感じがして気に食わん。そして何よりも許せんのが店に連絡をしなかった事だ。分かるか? 前もって遅刻をすると言ってさえくれれば、私だって何とかしてやれるんだ。代わりを立てることも出来たし、場合によれば、いや、万が一。億が一として私が代わりに出ることも可能なんだ。死ぬほど嫌だがな。良いか、一。ああ、嫌とは言わせんが、罰として、私は今日お前を徹底的に弄りぬくぞ」

「早い話が、自分が店に立つのが嫌なんですね」

「茶化すな。お前は何を誤解してるのか知らんがな、私はお前の雇い主だ。お前は私に雇われている。つまり、私は責任もってお前を守らなければならん。大事な戦力だからな。連絡無しで無断欠勤でもされてみろ、心配だろうが」

 店長は煙草に火を点けながら一を睨む。

「……その、すいませんでした……」

 素直に頭を下げた一を、店長は真剣な瞳で見つめた。

「分かれば良い。行って良いぞ」

「はい、気をつけます」

「ん。しっかり働けよ」

 気落ちしたまま、一はバックルームを出て行く。

 店長はその姿を見送り、頭を掻いた。

「言い過ぎたか……」



 強すぎる薬は毒になる。



「ど、どうしたのはじめ君? もしかして、店長に怒られちゃった?」

 心配そうに覗き込む無垢な瞳。

「うん。普通に怒られた。逆にああ言うのが効くわ」

「……だ、大丈夫?」

 何とか。短く答え一はカウンターに立てかけてあったモップを手に取る。

「今日は俺が掃除するよ」

「えぇ? 良いってば、ボク気にしてないよ?」

「駄目。ちょっと反省する」

「じゃ、じゃあボクどうしたら良いの? はじめ君が掃除してる間、ボクがレジするの?」

「……フォローはするよ。あ、お箸足りなくなりそうだったから補充しといてね」

「う、うん。分かった、頑張る」

 力強く立花は拳を握った。

 夕方と違い、この時間帯に客は少ない。一は大した心配もせずにゆっくりとモップをかけていく。小汚い床を綺麗にしていけば、心が洗われる様な気がした。全く持って何も伴わない見えていない盲目的な考え。だが一はそれに縋る。自身の内側に溜まった物をぶちまける様に、無茶苦茶に床を擦りあげる。

「……ジェーンちゃんと似てるね」

「え?」

 いつの間にか近くにいた立花に驚きながら、一が掃除の手を止めた。

「ジェーンちゃんも掃除の時は、ちょっと怖いんだ……」

 俯く立花。

「あ、と。俺、怖かった?」

「す、少しだけだよ?」

「……ごめん。気をつけるよ」

「そ、そんなつもりなかったんだけど……」

 俯く二人。

「あ」

 その時、店のドアが開く。

 眩しいばかりの白いセーラー服が一の目に入った。駒台では珍しい、と言うより全く見ない制服。同時に、少女の背負っている大きなリュックサックに目が行く。小柄な少女には不釣合いで、背負っていると言うよりも、背負わされている。そう言った方がピッタリと当てはまる気がした。

「……サボりかな?」

「不良? どうしよう、ボクどう接していいのか分からないよ?」

「立花さん、今日学校は?」

「ボ、ボクは来週から始まるのっ」

 そう言えばそうだったか。一は何気なく、立花から視線をセーラー服の少女へ移した。ハンチング帽に、知的な眼鏡。少女の全体像を眺めていた一はぎょっとする。彼女のセーラー服に細い鎖が巻かれていたからだ。

「最近の子は変わってんだね……」

「ボ、ボクもはじめて見た……」

 二人は「いらっしゃいませ」と言うのも忘れてこそこそと喋る。

 セーラー服の少女は、キョロキョロと忙しなく視線を動かしていた。挙動も、何処となく不審だった。何かを警戒しているような、そんな印象を一は受ける。

 そこで一はハッとした。

「……立花さん、あの子マークしといて」

「え? どうして?」

「人を疑うのは良くないと思うけど、あの子、万引きをするかもしれない」

「ええっ!?」

 立花の大きな声で、少女が一たちを見た。目が合った一はぎこちなく会釈。立花の方に向き直り、さっきよりも小声で話しかける。

「……刺激しちゃまずい。あんなの巻いてる子だし。とにかく、注意深く見てて」

 そう言うと一は何事もなかったかのように掃除に戻った。

「が、頑張る……」

 立花は少女の反対側の棚に回り、ジロジロと少女を観察する。

「…………」

 完全にバレバレだった。



 立花が奇行を続けて数十分。その間に来た客は一が掃除の手を止めて対処し、その間少女は何も買わないで店内をうろついていた。

「立花さん」

「あ、な、何?」

 呼ばれた立花は子犬よろしく一の元へ駆けて行く。

「もうマークするのは止めようか。あの子はさり気なく俺が見とくよ」

「し、失敗しちゃった?」

「……いや、してないよ」

「そっか。分かった、じゃあ何をしておけば良いかな?」

「うーん。そろそろ納品業者も来るし、あ、そうだ。おでんの具足しといてくれる?」

「分かった!」

 立花はカウンターに走りより、おでんの鍋の蓋を開けて中を覗き込んだ。

「はじめ君、何を足せばいいかな?」

「え? あ、ちょっと待って」

 一は外側の窓を拭いていた手を止め、カウンターへ近付く。

「……んー、大根と玉子足しとこうか。この辺は売れ筋だから、迷ったら足しておいて問題ないよ」

「そ、そっか。分かった、ありがと、はじめ君」

 そう言うと、立花はバックルームへ駆けて行った。

 一はその間、レジに立つ。所在無さげに立っていると、セーラー服の少女がつかつかと一の方へ向かってきた。一は思わず身構える。

「あの、店長っていますか?」

「……はい。いますけど、えっと、君は?」

 少女の口から出た意外な言葉に、一は拍子抜けした。

「あ、ごめんなさい。あたし、ナコトって言います。あの、ここって勤務外の人がいるお店ですよね?」

「そう、ですけど」

「良かった。あの、実は店長さんにお話があって……」

 ナコトと名乗った少女は、鎖を弄りながら恥ずかしそうに俯く。

「……ちょっと待っててくれるかな」

「はい。ごめんなさい、いきなりで」

「いや、それは良いんだけど……」

 一には少女の鎖が気になって仕方なかった。

「はじめ君! 大根って何パック要るかな!? って、ああ! ま、万引き犯!」

 バックルームから出てきた立花が叫ぶ。

「……万引き犯?」

 ナコトが、何ですかそれはと呟いた。少しばかりの敵意が剥き出しになっている。

「あ、た、立花さん?」

「は、はじめ君から離れてよっ」

 大根の入ったパックを抱えながら、立花が涙目で駆け寄ってくる。

「あの、誰が万引き犯なんですか?」

「き、君だよ! 盗人たけだけだけしいよ!」

「立花さん、一個多いから」

「え? 持ってき過ぎちゃったかな?」

「そっちじゃなくて」

 あの、と。ナコトが手を上げる。

「誰が万引き犯、なんですか?」

 意外としつこかった。



 バックルームには煙草の煙が充満している。煙を鬱陶しげに払いながら、セーラー服の少女――ナコト――はリュックサックを下ろした。

「あなたが、店長さん?」

「ん? おい、一。部外者をバックに入れるな」

「いや、実は店長にお話があるとかで」

 店長は不思議そうに少女を眺める。

「見ない顔だな」

「あ、ご、ごめんなさい。はじめまして、黄衣(きごろも)ナコトと申します」

「ん。はじめまして、私が店長だ」

 その一言に店長の人となりが集約されていた。

「……それじゃ、後はどうぞごゆっくり」

「あ、待って下さい」

 一の袖が掴まれる。

「え、な、何? なんなの?」

「あの、この人と二人きりにしないで貰えますか? 凄くやり辛そうな人です」

 ナコトはきっぱりと言い切った。

「……失礼な奴だな」

「確かに失礼だけど、人を見る目はありますよ」

「遅刻したくせに生意気言うんじゃない。とにかく、お前は仕事に戻れ」

 追い払うような手振りを示し、店長は紫煙を吐き出す。

「あの、言う事聞いて貰えませんか?」

「んー、俺バイトだから。この人の言う事には逆らえないんだよね」

 それに面倒くさそうだし。とは流石に言い留めた。

「……そうですか」

 ナコトは悲しそうに俯き、鎖に手を掛ける。一はその挙動に気づかず、バックルームを出ようとした。出ようとして、足を踏み出し、何かに足を取られ、情けなくすっ転ぶ。

「おい、一」

「だああ、笑わないでくださいよ!」

「そうじゃない。足を見ろ」

 言われた通り一が自分の足を見た。

「はあ?」

 そこには、鎖が巻かれていた。幾重にも細い鎖が一の足を絡め取っている。これでは転ぶのも無理はない。

「すみません」

 ナコトが突然頭を下げる。

「どうしても、この人と二人きりになりたくないもので」

「……実は謝る気とか無いよね、君?」

「……すみません」

「仕方ない。手早く用事を済ませてもらうか。で、黄衣? 君は一体何しに来た? そして、君は何者だ?」

 店長が煙草の先をナコトに向ける。

「ここには、頼みに来たんです」

「何をだ? 焦らすんじゃない、手早くと言ったろう」

「……う、あの、ソレを倒して貰おうと思って」

 鎖を弄りながら、ナコトはまた俯いた。

「ソレを倒す? わざわざ、ここにか? 君に言われなくてもやっている。そんな事を言いに来たのか?」

「か、仇をっ、仇を取って下さいっ」

 聞き慣れない言葉に、一と店長が固まる。沈黙と時間だけが、静かにバックルームに流れていった。何だか、とても気まずい。

「……仇って? どういう事? ソレに何かされたの?」

 一が何とか聞き出すと、ナコトは顔を手のひらで覆う。すんすんと、ナコトは鼻を啜って泣き出してしまった。店長は面倒くさそうに頭を掻き、短くなった煙草を空き缶に捨てる。

「おい、理由を言わなきゃ分からんぞ。君はめそめそと泣く為にここまで来たのか?」

「ちっ、違う。違いますっ」

「なら喋れ。私も暇じゃないんだ」

 嘘付け。一は内心で突っ込んでおいた。

「あ、あたしっ『図書館』でっ、ソ、ソレに仲間を殺されて、それでっ」

 ナコトは詰まりながらも、一生懸命に説明を始める。店長は何も言わず、ナコトの説明に耳を傾けた。

「く、悔しくてっ、けど、あたしだけじゃ、仇を討つの、ムリ、だ、だからっ」

 そこまで言うと、ナコトはまた泣き始める。それ以上の情報は得られそうも無かったので、一はナコトを一先ず放っておいて疑問を口にした。

「店長、図書館に出るソレってなんですかね?」

「……一、お前は面倒事を引きずり込んでくるよな」

「俺じゃないですよ。この子が来たんです」

 暢気な一を憎憎しげに睨みながら、店長は深く息を吐く。

「一、コイツは多分な、フリーランスだ」

「へっ? こ、こんな子が?」

「こんな子とは誰の事ですか?」

 ケロッとした顔でナコトは一を見つめた。

「いや、君だよ。君、高校生でしょ? 高校生がフリーランスやってんの?」

「あなただって高校生でしょう」

「な! お、俺は大学生だよ!」

「すみません。背が――」

「――低いってか! うるせぇよ!」

「一、煩いぞ。それで黄衣。君はフリーランスだな?」

 答えを口にするのを躊躇うように、ナコトは俯く。

「隠しても意味は無いぞ。ああ、安心しろ。私は別にフリーランスを毛嫌いしている訳じゃない」

「……そ、です。あたしはフリーランスです」

「マジかよ……」

 一は何となくナコトから視線を逸らした。

「ふん、『図書館』と言えば、そういや二人組だったな。なるほど、相方がやられた訳か」

 ナコトは唇を噛み締める。

「フリーランスが勤務外に敵討ちの手助けを頼む、か。情けないなあ、君は」

 ナコトは答えない。

「何故、その場でソレと戦わなかった? ここまで来たという事は、一度はソレから逃げたと言う事だろう? 相棒を見殺しにして。自分だけが生き延びて。大した生き狂いだな、流石はフリーランスと言ったところか」

 ナコトは答えない。

「店長、ちょっと言い過ぎじゃないですか?」

「言い足りん。私は他力本願な奴が嫌いなんだ」

「同属嫌悪って知ってます?」

「ああ、知ってる知ってる。ほら、どうした黄衣? 何か言ったらどうなんだ」

 ナコトは、唇を強く噛み締める。硬い歯が薄い皮を食い破り、唇からは血が滲み出た。溢れる血液を舐め取り、彼女は立ち上がる。

「助けて、下さい……!」

 ナコトは店長に向かって、勢いよく頭を下げた。

 店長は冷ややかにナコトをねめつけ、

「土下座だ。頭が高いとは思わんか、黄衣?」

 言い放つ。

 やり過ぎだ。一の頭に血が上る。

「っ! 店長! これ以上は俺も黙ってませんよ……」

「お前は年上が好みなんじゃなかったか?」

「……あなたは好みじゃない!」

「ちっ、怒るなよ。冗談だ。黄衣、顔を上げろ」

 だが、ナコトは頭を下げたまま。

「……お前の相方をやったのはカトブレパスか?」

 何度も、力強くナコトは頷いた。

「悔しいか? 仇を取りたいか? ソレを殺したいか?」

 何度も何度も、ナコトは頷く。

「フリーランスを辞める覚悟はあるか?」

「やめます……っ!」

 声は震えていた。それでも、それでもナコトの声には意思がしっかり刻まれていた。

 店長は薄笑いを浮かべる。

「良いだろう。『図書館』の仇討ち、手伝ってやろうじゃないか」

「あっ、ありがと、う、ございます……!」

 顔を伏せたまま、ナコトは言葉を紡ぐ。

 何故だか、一には店長が良い人に見えた。

「店長、流石に鬼じゃなかったんですね」

「お前の給料払いたくない」

「うぉーい! 鬼か!」

「口も利きたくない」



 書類の山を感慨深げに眺め、堀は眼鏡の位置を直す。

「……まさか、これが終わるとは思ってもいませんでしたよ」

「ふん、私が手伝ったんだ。当然の結果だろう」 

「そうねー、麗ちゃんのお陰ね」

 誇らしげに立つ春風を、炉辺は目を細めて称えた。

「そして、まさか春風さんに手伝ってもらえるとは思いませんでした」

「……交換条件が魅力的だったからな」

 交換条件。堀にとっては初耳だった。

「なんですか、それは?」

「一一の情報だ。炉辺乙女が教えてくれるのだろう?」

「ええ、勿論」

「そんな、炉辺さん安請け合いを……」

「えっとね、はじめちゃんはー入院してるときに教えてもらったんだけど、ちゃん付けされると怒るのよ」

 ニコニコと、微笑みながら炉辺は言う。

「……炉辺乙女、私をからかっているのか?」

「え、どうして? からかってないわよ?」

「春風さん、炉辺さんはこういう人なんです」

 堀はこの上なく春風に同情した。

「くっ、騙された……」

「えー? 騙してないじゃないっ、ちゃんとはじめちゃんの事教えたのに」

「あー、皆さん、ありがとうございました。さて、そろそろ私は上司へ報告しに行きましょうかね」

 居た堪れなくなった堀は、逃げるようにその場を去った。



「……黄衣さん、何か食べたいものある?」

「おでんが食べたいです」

「う、元気になったみたいだね。リクエストとかある?」

「この店の売れ筋を」

「……かしこまりました」

 泣き止んだナコトは「お腹が空きました」と、何故か一に言った。店長は最初から聞く耳を持たず、一はしつこく食い下がるナコトに負けて、自腹を切る破目になっていた。納得いかなかったが、さっきまで泣いていたナコトを見て、かわいそうだなと思ってしまっていた。だから、仕方ないかとも思ってしまう。

 完全に手の平の上でローリングストーンだった。溜め息を吐き、一は一時間振りに店内に戻る。

「は、はじめ君……」

 立花は泣いていた。

「……あの、これは、その」

「ボ、ボク……。ボクね……?」

 一は潤んだ瞳に見つめられる。

「本当にごめん……」

「い、良いんだ! はじめ君は戻ってきてくれたから」

 どこまでも健気だった。

「ごめんな、立花さん。そんで悪いんだけど、おでんの容器取ってくれる?」

「うんっ、はい、どうぞ」

「ありがと。あ、そうだ。立花さんっておでんで何が好き?」

「え、えっと、えっとえっとね。馬すじでしょ、それと小桜っ」

 立花は二本、嬉しそうに指を立てた。

「……小桜って?」

「し、知らないの? 桜の花びらに似てるんだよ?」

「そっか」

 一は流す。

「うーん。馬すじは無いけど、牛すじを入れておこうかな」

 適当に具を容器に入れて、一はプラスチックの蓋で閉じた。

「参考になったよ、ありがとね」

「? え、どこ行くの?」

「さっきの子がおでん食べたいって言うからさ」

「ボ、ボクのじゃないの!?」

「え、違うけど……」

「ひ、酷いや! はじめ君の馬鹿! あの子結局万引き犯じゃないかっ!」

「……金払ってくれそうにないし、そう言われればそうなるよね」

 一は芥子を適当に引っつかみ、カウンターへ身を乗り出して箸を一つ手に取る。

「もうボク働きたくないよっ、きんろー意欲が無くなったもん」

 ぷいっと立花はそっぽを向いた。

「またジェーンに吹き込まれたな……。分かった、仕事終わったらご飯食べさせてあげるから」

「ボ、ボクを食べ物で釣ろうとしても、そ、そうは行かないよっ」

「立花さん、家でご飯どうしてる?」

「……い、いんすたんと」

「お米とか、ちゃんと食べてる?」

「た、食べてないけど、か、関係無いじゃないかっ」

「今日は俺学校無いし、ちょっと遠くまで外食しに行こうと思ってるんだ。糸原さんいないから、和食の美味しいお店までね」

 もはや意地悪でしかない。

「まあ、別に良いや。制服連れた子と一緒にいたら職務質問喰らいそうだし。一人で行くよ」

「き、着替えるっ! ご、ご飯食べたい」

「素直でよろしい。ってわけで、ごめんね。これ渡したらすぐに戻ってくるから」

 おでんの容器を大事に持って、一は立花に背を向ける。

「は、早く帰ってきてねー」

「はいはい」

 正直な話。一にとって、この世で一番立花が可愛かった。



 ナコトはバックルームで優雅に女性誌を読んでいた。

「遅かったですね」

「あのさー君さ、さっきまで泣いてたよね」

「あたしって泣いたらお腹空くんですよね」

 一からおでんの容器を奪い、ナコトは蓋を開ける。

「……確かに、売れ筋ばかりです」

「ご注文どおりでしょ」

「ですがありきたりで、つまらないですね」

「店長! やっぱ敵討ち止めませんか!?」

 返事は無い。店長は疲れて寝ていた。

「箸と芥子を」

「畜生、納得いかねえ。せめて金払ってくんないかな」

「狭量な殿方は嫌われてしまいますよ。主にあたしに」

 大根を頬張りながらナコトは言い放つ。

「敬語に誤魔化されていたけど、段々化けの皮が剥がれてきたって感じだな」

「あたしは化けてなどいませんでした。あなたの理想の女性像を押し付けるのは遠慮して貰えませんか」

「てめぇ、変な鎖巻いてるくせに」

「……鎖は関係無いでしょう。あなたは馬鹿ですか?」

 騙された。一は今更ながら、猛烈にそう思った。

「さっきまでのは嘘泣きだった訳かよ」

「あたしは、そこまで器用ではありません」

 玉子を箸で割りながらナコトは淡々と言う。

「あの涙は紛れも無く本物です。確かめてみますか?」

「……どうやってだよ?」

 ナコトは黙って床を指差した。

「あたしの涙の痕がまだ染み付いている筈です。どうぞ、舐めてみて下さい」

「なあ、ぶん殴っても良いよな?」

「どうぞご自由に。あなたがオキナの仇を取ってくれると言うなら、ですけど」

「随分と、仲間の事を軽く言うんだな」

「あなたにはあたしたちの事は分かりません。ですよね? だから、そんな口を利かないでください」

 カップに口を付け、ナコトはだしを飲み干す。

「……足りないですね。お代わりを頂けますか?」

「芥子でも食ってろ!」

 ――騙された!

 一はもうナコトに関わらない事を決めた。

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