怒り姫
燃え盛る炎に囲まれ、彼女は眠っていた。
「つまり、失敗してしまった訳ですね」
「う、面目ない。でも交渉が決裂した訳じゃない」
一は駒台山入り口付近の平石に座って、煙草を吹かしている。その向かいにはガーゴイル。
「協力者の方にも、申し訳ないと見ます」
「……そのお詫びとか言われて、今の今まで引っ張りまわされたよ」
「ははあ、デートですね」
「好きに言ってくれ」
一が館に(不法)侵入してから、数時間が経過していた。
館で眠っていた女性。
不法侵入、器物破損。いずれも罪に問われることは無く、一と早田は館を出た。早田は無駄足だと一を非難して(館に人がいた事は無視し続けていた)、お詫びのデートだと称し、一を引きつれて駒台の街を数時間歩き続けた。
「足がパンパンだぜ」
脹脛を摩りながら、一が情けない声を出す。
「……お気の毒です。そして申し訳ないんですが一さん、あの館はもう駄目なんでしょうか?」
ガーゴイルは館を恨めしそうに見つめた。
「分からない。そもそも交渉にすら持ち込めなかった。連れてく奴をミスったぜ」
「では、余地は残されているのですか?」
「うん。とりあえず、今からもう一度行ってみようと思う。ちゃんと謝ってもいないし」
そう言うと、一は傍に置いてあった大きな紙袋を手に取り立ち上がる。
「お詫びの品も持ってきたし、今度は邪魔も入らねぇ」
「ふうむ、期待しても宜しいのですか?」
「するのは勝手だよ。問題は俺がそれに応えられるかどうかだね」
自嘲気味に言い捨て、一が歩き出す。
「わたしはどうしましょうか?」
「そこで待っててくれ」
館の中は先刻一たちが入ったときと同様、かび臭さが立ち込めていた。一は手で口元を押さえ、ゆっくりと廊下を歩く。階段を探しながら、周囲に目を配った。日も落ち始め、館内はオレンジに照らされている。一種幻想的な光景だった。
一は頭を振って、階段に足を向ける。一段、二段、階段を上るにつれかび臭さは増していく。階段を上りきると、左側の廊下を進み、行き止まりに突き当たった。他の部屋の扉より、幾分か大きい扉。ノックをして、ノブを回す。容易く扉は開いた。瞬間、バラの香りが一の鼻腔をくすぐる。館内のかび臭さが一掃されていく。
一の頭が、白くなった。ぼんやりと、視線が虚ろをさ迷う。室内の闇と、窓からの光が交差し、混じっていく。
一は気を取り直し、咳払いをした。
「あの、一です。先ほどはすみませんでした……」
天蓋ベッドで眠る女性から返事は無い。
「……お休みのところ、申し訳ないんですが」
乗りかかった船だ。帰ろうかと一は思ったが、ここまで来ればもうなる様になると踏んだ。
「…………んー?」
瞼を擦りながら、女性がゆっくりと体を起こす。
「入っても宜しいですか?」
「……あー、君かあ。うん、いいよー……」
「失礼します」
目が慣れない。暗い中、一は周囲に気を配りながらベッドに近づく。
「あの、これ……」
「…………それはぁ?」
一の差し出した紙袋を女性が認めた。
「つまらない物ですが、お詫びの品です」
「……お詫び?」
「ええ、勝手に部屋に入って、お休みのところを起こしてしまって、その、だから」
そこまで言うと、一は急に恥ずかしくなる。自分は本当にとんでもない事をしてしまったと、罪の意識が芽生え始める。
「…………んー? 私は気にしてないよう」
「そ、そうなんですか? じゃ、じゃあお近づきの印という事で。とにかく受け取ってもらえますか?」
そうでないと、女性に対して本当に申し訳なかった。
「……ん、そういう事なら」
「助かります」
女性は紙袋を受け取ると、大事そうに紙袋を抱える。
「それで、重ね重ね申し訳ないんですが、お願いがありまして」
一は女性と目を合わせられず、視線を泳がせた。
「…………お願い?」
「ええ。俺の友人が、その、あなたの家の屋根を借りたいと」
女性はきょとんと小首を傾げる。
そりゃそうだよな、と一は自身の発言を恥じた。
「……屋根?」
「意味が分からないとは思うんですけど。あ、いえ、決して面倒な事にはならないと思います。絶対にご迷惑はお掛けしません」
絶大な迷惑を掛けた後の発言だったが。
「…………んー」
女性は瞼を閉じる。
「やっぱり、駄目ですよね」
一はとにかくここから出たくてしょうがなかった。
そんな一の気を知ってか知らずか、女性は愚図愚図として答えを出さない。
「…………良いよー、使って」
「え? い、良いんですか? その、ここまで迷惑を掛けちゃって」
女性はふるふると首を横に振る。
「……迷惑とは思ってないから」
「あ、ありがとうございます」
「…………あ、私もお願いがあるの」
ふと、女性が部屋の壁を見た。
「俺に出来る事なら、何でも」
「……カーテンを開けて欲しいの」
「カーテン?」
一も女性の視線の先を見る。目を凝らすと、布のような物が揺れているのが分かった。
「お安い御用です」
一は足元に気をつけながら壁際まで歩く。指で手触りを確かめてみると、それは確かにカーテンだった。何故か、少し躊躇ってからゆっくりと、カーテンを引いていく。少しずつ、窓からの光がもれ出て一の体と暗い部屋を眩く照らした。
「……う」
一の目が眩む。急激な明暗。視界が真っ白に塗り変わっていく。
「…………ありがとう」
「いえ、これぐらい」
完全に開ききらない瞼をほったらかしに、一は女性へと振り向いた。
茶色掛かった、仄かに赤い髪。寝癖の付いたセミロング。今までは、薄暗がりの中ハッキリしなかった女性の容貌。光を得た事によって鮮やかに、女性の姿態が一の網膜に焼きついた。
女性は一に笑いかける。
「…………眩しいね」
「……ええ、そうですね」
一の心臓が不意に高鳴った。
その日、糸原四乃はスーパーへと買い物に行く途中だった。黒いスーツに身を包み、駒台の街を鼻歌交じりで闊歩する。背が高く、流れるような黒髪。糸原のスタイルに異性は皆振り向いた。その中には声を掛けてくる者もいたが、
「ねえねえ、君さあ、今一人?」
「ん? 見りゃ分かるでしょ」
「じゃあ俺と遊びに行かない?」
「遊びぃ?」
「そ。今からさ、皆でカラオケ行くんだけどー、可愛い子が足りないんだよねぇ」
「へえ、って事は私が可愛いってこと?」
「そ、そう! その通りさ。どうかな? 君みたいな子がいれば絶対盛り上がるし!」
「……ふーん。ねえ、アンタ今いくつ?」
「へっ? じゅ、十九だけど」
「あらら、残念ね。お姉さんより年上になれたらまたおいで。二秒ぐらい考えてあげる」
「なっ、そんな事言わないでさあ、なあ良いだろ? イイ思いさせてやれるって、な?」
「気安く触ってんじゃないわよ」
「――っ! いてぇ! てめぇよくも俺の顔に!」
「……ガキに興味ないって言ってんのよ!」
「――ちょっ、まっ! あ――――!」
糸原のお眼鏡に適う男はいなかった。それでも、声を掛けられる事に悪い気はしなかったので、糸原は上機嫌になっている。知らず知らずのうちに、にやけているぐらいに。自然と足取りも軽くなり、糸原は浮かれていた。
「風船欲しい?」
背後の気配に、気づかないほどに。
「……っ!」
糸原はその声に、弾かれるようにして振り向いた。
「そーんなに怖がらなくたっていーじゃない」
「アンタ、何?」
「えー? 見て分からないかなー?」
糸原の後ろに立った人物は、色とりどりの風船を両手に持って、愉しげに口元を歪めていた。その人物の顔は真っ白に、目元や頬は真赤に塗られている。紫の口紅が、やけに糸原の目を引いた。魔法使いの被るような、珍妙な帽子を頭に載せてそいつは笑う。赤、緑、青。三色のまだら模様の服装を着込み、只管楽しげに笑う。
糸原も、その正体は一目見ただけで分かった。
「……ピエロ」
「せいかーい! ほらお姉ちゃん、風船あげるよ」
陽気な声を上げ、ピエロはその場で軽快なステップを踏む。
「要らないわよ!」
派手な化粧に派手な衣装。糸原も何度か、どこかで見たことがある。サーカスか、遊園地の出し物か何か。記憶は定かではないが、見たことは確実にある。人々を愉快にさせる道化師。
「これ、なんかのイベント?」
「そう! イベントお祭りパーティーさ! 楽しくて楽しくてしょうがないんだ!」
何故、ここにピエロがいるのか。
「アンタが楽しんでどうすんのよ」
「ははっ、だって仕方ないだろ! 遂に僕らの番が来た! 楽しくて可笑しくて滑稽さ! 滑稽なのさ!」
「……何よこれ」
糸原は周りを見た。さっきまでは糸原以外にも通行人がいたのに、何故か今は誰もいない。自分だけがこの道に取り残されたかのような疎外感を糸原は覚える。この道に、自分だけ。自分と、ピエロ、だけ。
「あははははははははは!」
ぞくり、と、鳥肌が立ち、背中が粟立った。酷く、糸原の癇に障る笑い声だった。男なのか女なのかハッキリしない中途半端に高い声。
「……とりあえず、私に付いて来ないでよ」
糸原はピエロに背を向ける。
「あはははは、ねえ? いっちゃうのー、お姉ちゃん?」
問いには答えず、糸原は歩調を速めた。
「仕方ないなー、つまんないなー」
大方近くのデパートの宣伝だろう、そう思い糸原は己を納得させる。そうでもしないと、気持ちが悪くて仕方が無かった。
「じゃあね、勤務外」
陽気さなんて、一欠けらも残っていない。底が見えないほどの冷たい声だった。
糸原は内ポケットに手を伸ばし、レージングの感触を確かめる。振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。
「…………名前?」
赤毛が揺れる。
「はい。うっかりしていてまだ聞いてませんでしたから」
「……ん」
ベッドの上の女性は瞬きを繰り返す。
「…………ヒルデ」
「ヒルデさん? えっと、出身は日本じゃないんですか?」
こくり、とヒルデは頷いた。
「……多分、違うと思う」
「自分の事じゃないですか。でも、日本人では無さそうですね」
蒼い瞳。白い肌。
「…………そうかなー」
「日本語、お上手なんですね」
「…………そうかな、えへへ」
ヒルデは嬉しそうに目を細める。
「ヒルデさんはいつからここにお住まいで?」
「……んー? 分かんない」
「は? 分からない、ですか?」
「…………ずーっと寝てたから」
「はあ、そうですか。って言うか、この家、電気とかガス通ってます?」
一はかねてからの疑問を口にした。ヒルデの部屋はそうでもないが、館内にはかび臭さが充満している。電気は通っていない事も、一には分かっていた。電気が無い。ならばガスも水道も通っていないだろうとも予測は立つ。ならば、どのように生活をしているのだろうかと、気になって仕方が無かった。
「…………んー?」
「誰かと一緒に住んでいないんですか?」
ヒルデはゆるゆると首を横に振る。
「掃除とか、洗濯とか、してます?」
「…………寝てたから」
「驚いていいですか?」
「良いよー、ふああ」
ヒルデは控えめにあくびをした。
「……うーん」
明らかに一より年上なのだろうが、ヒルデは一の保護欲というものをくすぐっている。
放っておけない。一は溜め息を吐いた。
「それじゃ、俺の友達が屋根を借りる。その代わりと言ってはなんですけど、俺が家事をしましょう」
「…………えー、そんなの悪いよう」
「なら、ヒルデさんがちゃんとやるって言いますか?」
ゆっくりと、ヒルデは首を振る。横に。否定の意思。
「俺が好きでやるんだから、それぐらいは構わないでしょう?」
「…………んー」
それぐらいやらないと、許してはもらえない。本当ならば裁判沙汰になってもおかしくはない。むしろそれが普通だった。犯罪者にならなくて済むのなら、家事なんて安いものだと一は思う。
「……本当に良いの?」
「勿論です」
力強く一は頷いた。
「…………それじゃあ、お願い」
「喜んで。でも、本格的な掃除は明日からで良いですか? そろそろ日も暮れますし」
「……ん」
少し残念そうにヒルデは俯く。
「差し当たり、今日の所は晩御飯を用意すると言う事で」
「ん」
嬉しそうに、ヒルデは何度も頷いた。
「じゃあ俺は買出しに行ってきます。大丈夫だとは思いますけど、出歩かないでくださいね」
「…………分かった」
それでは、と。一が扉に手を掛ける。
「あ」
「? なんですか?」
「…………暗くなったら、ここには来ないで」
「分かりました、そうします」
確かに、知り合って間もない、一人暮らしの女性の家に夜遅くまで長居するのは失礼だと、一は納得する。そして恥じた。当然の気遣いにも気づかない自分に。
「……危ないから」
「あ、え? ご、ごめんなさい。そうですよね、い、一応俺も男ですもんね」
「…………違うの」
否定された。一は少しショックを受ける。
「…………君が、危ないの」
ヒルデは真剣な眼差しを一に向けた。
スーツ姿のスタイリッシュな女性。夕暮れ時のスーパーには、いささか似合わないように思われる。周囲の視線を集める鼻歌交じりの長身。長い黒髪を揺らしながら、糸原四乃は今晩の献立を考えていた。
「お。魚が安い」
陳列棚から適当に、パックの切り身をかごに放り込み、糸原はスーパー内を右往左往する。この間は一にシチューを作らせ、その前は肉じゃがを作ってもらった。今日は味噌汁が飲みたい。ならば和食で攻めよう。和と言えば、米に味噌に魚だろうと、短絡的な思考で糸原は食材をかごに詰めていく。必要以上の商品を詰め込んだかごを糸原は満足げに眺めた。
「……良し」
「あれ、糸原さんも買い物ですか?」
不意に声を掛けられ、糸原は無防備に振り向く。
「ありゃ、一じゃん。何してんの?」
「買い物に決まってるでしょう」
「んふふー、そうだよねー」
「何でにやけてるんですか?」
一は糸原から不穏な空気を感じ取った。
「今日さー、私深夜なのよ」
「知ってます」
「そいでさー、あんたは今日休みじゃん」
「ええ、まあ」
「だからさー、晩御飯一緒に食べられるよね」
「……ああ、確かに」
「その反応、無いわね。有り得ないわ。私みたいな美人のお姉さんとご飯を一緒に食べられるのよ? 何でそんなに淡白なワケ?」
糸原はジト目で一を見る。
一はそんな視線を気にせず、調味料のコーナーへ足を向けた。
糸原もその後ろをぴったりと付いて行く。
「だってご飯作るのいつも俺じゃないですか。単純に一人分手間が掛かるのが嫌なんですよね」
遠まわしの皮肉。だが糸原は一のかごの中身を見て、頬を綻ばせる。
「もー、そんな事言っちゃってさあ、可愛いんだからあんたはー」
「近いですってば」
「結局は二人分の材料買ってんじゃない。お姉さんを喜ばせる技術はホント天下一品よねー。よっ、年上キラー、お姉さん殺しっ」
「……は?」
「ちょっと。ネタ上がってんだからそんなリアクションは逆に寒いだけよ?」
「だから、何がです?」
「皆まで言わせる気? エロいわねあんた。だーかーらー、私の分の材料まで買って、しらばっくれてんのがつまんないって言ってんのよ。照れてんの? もー、素直じゃないなー。別に無理しなくていーのに。お姉ちゃんと一緒にご飯食べたいんだよねー? 私に美味しいもの作って食べさせたいんだよねー?」
一はそこで理解した。どうして人間と言う生き物はここまで見事に面白く勘違いできるんだろう。面白すぎてもはや笑えない。どうしようかと頭を捻る。完全に糸原は自分の分までご飯を作ってくれると勘違いをしている。そして真実を話せば、確実に糸原の機嫌を損ねてしまう。
「……五体満足では出られない」
「ん? なんか言った?」
一は最悪のケースを想定する。糸原は衆人環視の中でも容赦なく自分に肉体的な制裁を求めるだろうとは、容易に推測が付いた。ちらり、と、糸原の持っているかごを盗み見る。鳥肌が立った。紛れも無く、糸原のかごには高級食材しか入っていない。やはり糸原に家計の半分を担わせたのは間違いだったと、一は過去の自分を恨んだ。
最悪のケースは更に最悪へ。つまり、糸原の要求は高いのだ。高級食材を使え、ご飯を作れ、一緒に食べろ。どれも、今日の一には守れそうに無い。
「糸原さん。明日にしませんか?」
「何を?」
「ですから、その、晩御飯を」
「じゃあ今晩はどうすんのよ?」
「その、俺はちょっと」
「ちょっと何よ?」
既に糸原の機嫌は悪くなっていた。一が本題を切り出す前に険悪な雰囲気が漂い始める。
「じ、実は――」
「――誰か他の奴と食べるんじゃないでしょうね」
糸原の瞳が冷たくなるのが、一には分かった。もう、目を合わせられない。それでも、逃げちゃ駄目だと歯を食い縛り、糸原の視線を真っ直ぐ受け止める。
「チガイマスヨ」
「めちゃめちゃ目ぇ泳いでるわよ」
おまけに声が裏返っていた。
「あっそ、ふーん。そっかー、別の女とディナーしちゃうんだー」
「じょ、女性だなんて俺は一言も!」
「つまり誰かとはご飯一緒に食べるのね」
グサリと言葉が突き刺さる。
「へえ、私を差し置いてそんな事しちゃうんだー」
「そ、それの何が悪いって言うんですか」
糸原の嫌らしいやり口に苛立ち、一は開き直った。
「べっつにー、良いじゃん? あんたのやりたい様にやれば」
「……仰るとおりで。そうですよ、俺と糸原さんはただの同居人なんですから」
「はっ、そうよね。彼氏彼女の関係でも何でもないんだかんね」
「ええ、お互い必要以上の干渉は要らないでしょう」
「……生意気」
「……年増」
「クソチビ」
「詐欺師」
「へたれっ」
「ドケチっ」
糸原が持っていたかごを乱暴に床へ放した。
「馬鹿!」
「な……、そんな証拠も無い事を」
「性悪!」
「それはあんただ! 大体、勝手に勘違いする糸原さんが悪いんです」
「ふん、もう良い。知らない、あんたなんてもう知らないかんね。見捨ててやる」
「見捨てるのはむしろ俺の方でしょうが。あんまりわがまま言ってると、閉め出しますよ」
「勝手にすればー? 私はその辺の男と行きずりの関係持っちゃうもんねー」
「そんな事人前で言わないで下さいよ!」
「あによー、嫉妬してんの?」
「恥ずかしいんです!」
ぎろり、と、糸原が一を睨む。
「な、なんですか? また暴力に訴える気ですか? やれるもんならやってみたらどうです? ここは俺んちじゃないんです、すぐに警備員が来て取り押さえられますよ」
「家出する」
「はあ?」
「もうあんたなんかに頼らないから」
「……探しませんよ」
「ふん、あんたなんて私がいなくなって死ぬほど寂しがってから死ぬほど泣いて、死ぬほど後悔してから死ねば良いのよ」
言い捨てると、糸原は足早に一の前から立ち去っていく。
呆然としながら、一はその後姿を見つめた。
「って財布は置いてけよ!」
一は糸原の置いていったかごの商品を全て戻し、レジで自分の商品の精算を済ませスーパーを出た。既に陽は落ち、辺りは暗くなり始めている。街灯もちらほらとつき始めていた。洋館までの道のりを思い出しながら足を速める。買い物袋を片手に、一は煙草に火を点けた。
「……むかつく」
糸原。あの態度。天上天下傲岸不遜傍若無人な振る舞いの数々。そもそも、何故未だに居座っているのかあの女。
――何が家出だ、勝手にしろ!
短くなった煙草を捨て、唾を吐く。
ガーゴイルの姿が見えなかったことを、一は不思議に思うべきだった。
暗くなってからここに来るなと言われたのを、一は覚えておくべきだった。
美人に関わって良い例が無かったことを、一は心得ておくべきだった。
「ねえ、こいつどうする?」
「そうねえ、あんまり格好良く無いしぃ」
「やっちゃおっか」
冬だというのに、やけに露出度の高い格好をした三人組の若い女。派手な化粧に姦しい口調。一はその三人組を遠い目で見ながら心底後悔した。
「でもさー、こいつ見たことあんだけど勤務外じゃないの?」
「えー? マジ?」
「きゃはははは!」
何が可笑しい。笑いたければ笑え。一は息をするのも面倒になってきた。
山に入った一は黙々と洋館までの道を進んでいた。数分ばかり歩くと、木々の間から洋館の外観が見えてくる。街灯も無い、暗い山道。茂みから得体の知れないものが現れても不思議ではない。そんな気分に誘われつつ、しかし一は安堵する。もう少し。山の中腹の、開けた広場のような一角。そこに洋館はある。
「……疲れた」
そこにそいつらは居た。館の前に座り込み、冬だというのに無駄に露出度の高い服装で、甲高く姦しく、やけに煩い三人の若い女。全員茶髪で、耳にピアスを幾つも空けていた。
――まずい。
一は一旦退散しようと背を向ける。
「あれー? そこにいんの誰よ?」
「えー、うっそ、きもーい」
「覗かれてたわけー?」
一は駆けた。
一は逃げた。この世で一番厄介な種族から。草を掻き分け、無理矢理に山を下っていく。
「待ちなって!」
「え……?」
一の袖が引っ張られた。強い力で引き摺られ、バランスを崩す。走っていたので急には止まれず、整備されていない下り坂を転がって、体中に擦り傷を作りながら、それでようやく一は止まった。
「きゃはは、だっさー!」
「なにー? もう終わったの?」
倒れている一の襟元を女の一人が掴み、無理矢理に一を立たせ、木の幹に叩きつける。
「ちょっとー、お兄さん私らの事ずっと見てたわけー?」
「マジきもいんですけどー?」
「あはは、死ねば良いのに」
一から、彼女たちまでかなりの距離があった。充分に逃げ切れる距離だと、予想していた。なのに、何だこれは? 一は頭を働かせる。
「答えなって!」
ゴツン、と、一は頭を幹に押し付けられる。早すぎる。そして女とは思えないほどの強い力。全く抵抗できない。
「う、す、すいませんでした」
「んな事聞いてないんですけどー?」
「何こいつ、舐めてんの?」
「しめちゃえしめちゃえ」
あっという間に一は三人の女に囲まれた。
非常に、情けなく。