眠り姫
「先輩、私なら覚悟は出来ているぞ」
「俺には出来てねぇ。って言うか、何にもしねぇよ。付いて来いって言っただけじゃねぇか」
「皆まで言うな、先輩。ふふ、先輩の言うことには逆らわない。先輩の行くところならどこまでも。そんな私を知っての先輩の誘いだ。覚悟しないわけにはいかんだろう?」
「知らねぇよ! しかも結構逆らうしお前!」
「奴隷にも発言権ぐらいはあって然るべきものだとは思わないか?」
「ね、奴隷って誰が誰の? お前さっきから頭おかしいぞ」
「先輩といるときの私は、やはり律しようとしてもおかしくなる。駄目だ、自分でも分かってはいるのだが、この胸の膨らみは抑えられない」
「お前胸無いじゃん」
「心配は無用だ。私は先輩の好みに合わせて変身する事が出来る」
「じゃ早田お前生まれ変わってみ? おにぎりとかに」
「そして先輩が私を食べる、か。良いだろう、愛する人の血肉となるのもまた至上の喜びだ」
「いや、駅前の鳩にでも食わすわ」
「ふふ、先輩は照れ屋だな」
「……さり気なく腕を組もうとするな」
一は心底後悔した。
いつも通りの、一の朝だった。深夜勤務を終えて、家に帰り、午後からは大学の授業に参加する。何故か、ジェーンの様子がおかしかったのは一には気がかりだったが、それも込みで、一にはいつも通りの朝だった。
朝が終われば昼が来る。一は糸原に留守を頼み、部屋から出た。そこまでが、いつも通りの一の朝だった。
「突然の来訪、大変申し訳ない。一さん、今はお時間大丈夫ですか?」
アパートを出た一を馬鹿丁寧な言葉遣いが出迎えた。
「え……何で?」
一は間抜けな声を出す。
醜悪な、悪魔のような姿。翼を持ち、自分の意思で自在に飛び回る異形のソレ。
「……ガ、ガーゴイル?」
「ええ、その通りです。一さんの記憶力は良いと見ました。ところで、今からお出かけですか?」
ガーゴイルが、そこにいた。久しぶりに会った友人と接するような気さくさで。
「お出かけっつーか、まあ、大学へ」
「ははあ、一さんは学生さんだった訳ですか。なるほど、では仕方ありません」
残念そうに言うと、ガーゴイルは翼を広げる。
「あ、ちょっと待てよ。良いよ、何か用事があったんだろ?」
「ですが、一さんは学校へ行くのでは?」
「話聞いてからでも遅くないよ。どうせ、今からじゃ午後の講義しか受けられないし」
「一さんは気遣いが出来ると見ます。あり難い。それでは、どこか落ち着ける場所で話をしましょうか」
「……うん」
お前がそれを言うか。一は心中で突っ込みを入れた。
「……俺の部屋には糸原さんいるしな……」
「では、先日の山の入り口付近ではどうでしょう? あそこなら人も滅多に来ませんし、都合が良いと見ますが」
「そうだな。分かった、じゃあ先に行って待っててくれ。なるべく急ぐから」
「いえ、そこまで急ぎの用事では無いので、一さんが焦る事は無いと見ます」
「そ、そうか?」
「ですが、せっかくの会話する機会です。時間はあった方が良いでしょう、とわたしは見ます」
「分かった。ま、なるべく早く行くよ」
「お待ちしています」
それだけ言うと、ガーゴイルは翼を広げて、駒台山の方へ飛んでいく。
「……寝起きにはきつい顔だったな」
しかし、会話している分には問題ない。何と言っても、ガーゴイルには知性がある。会話が出来る。まともな、世間話が出来る。ソレとの会話。複雑な気分になりながらも、一は少し嬉しかった。そしてやはり、近しい人間とそんな会話が出来ない事に気づき、悲しくもなった。
一は大学の講義はスッパリと切り捨て、大学前の入り口に着くと、少しだけ講義棟を眺めてから、煙草に火を点け、山へと歩き出した。眼下の風景を眺めながら、コートのボタンを全て閉める。やはり、山の上へ上へ行くほど、寒さが身に染みてきた。
「お待ちしていました」
「お、わざわざわりぃな。遅かった?」
「いえ、それほどでも無いと、わたしは見ます」
まるで山の管理者のように振る舞い、ガーゴイルは坂の上から現れる。
「それじゃ、とりあえず歩きながら話そうか」
「そうですね。ところで一さん、先日の嵐は酷かったですね」
「ああ、あの嵐。ソレのせいだったんだよありゃ。お陰で俺は夜勤に入れられちまった」
「それは災難ですね。しかし、そうですか、やはりソレの起こした嵐だったのですか」
ガーゴイルは考え込む素振りを見せた。
「何か、気付いてたのか?」
「少し、あの日の風雨に違和感を見ました。どうも、駒台に居座っているシルフさんの風とは違うものだな、と。わたしはそう見ていました」
「へえ、何でも分かるんだな」
「それほどでもありません。ああ、山に着きましたね。どうです一さん、ここに掛けては?」
ガーゴイルは割と綺麗な、平たい、座りやすそうな石を指す。
「ん。じゃあ座らせてもらうわ」
別にガーゴイルの所有する物でもないのだが、一はつい素直にお礼を言ってしまった。座り込み、コートのポケットから煙草を取り出す。
「あ。煙草吸って、良い?」
「構いません。わたしは嫌煙家でも愛煙家でもありませんし」
「そっか。……何か違う気がするけど」
最後の方は小声で言いながら、一はライターで煙草に火を点けた。
「ふぅ。お前、今まではどうしてたんだ?」
「日本の北の方まで行っていました。アイヌと仰る方々の集落にお邪魔してましたね」
「そらまた。随分遠くの話に聞こえるよ」
「同じ日本ならば、一さんも今度来て見ませんか?」
「俺寒いところは苦手なんだよ。そこには、こたつとアイスはあんのか?」
「ああ、失礼。そこまでは見ていませんでした。ですが、アイスならばそこらにあるのでは無いでしょうか?」
「……そりゃ、あるよね」
一は煙を吐き出し、短くなった煙草を地面に押し付ける。
「一さんは、何か変わったことはありましたか?」
「……お前にはどう見える?」
「言い難いですが……。特に何も、変わったところは見られませんね」
「じゃあ、そうなんだろうなあ」
「変わらないと言うのは、悪い話ではないとわたしは見ますが」
ガーゴイルは取り繕うように言った。その仕草がどうにも人間らしく思えたので、一は苦笑する。
「確かにその通りだと俺も思うよ。けど、やっぱ少しぐらいは変わったって言って欲しかったな」
「一さん、少しぐらいは変わりましたよ」
「額面どおりに受け取って、律儀に返すんじゃねぇよ!」
「ああ、やはり怒らせてしまいましたか。すいません、まだその辺りの、機微というものがいまいち見えないものでして」
「あー、そっか。いや、けど大分進歩というか、馬鹿な人間よか話し甲斐があるけどな」
「ふうむ、そうですか? では、わたしは額面どおりに受け取って喜ぶとしましょう」
一はやはり苦笑した。分かってやってんじゃないだろうな。一はガーゴイルも変わっていなくて、少し安心する。そして、何故この時期にガーゴイルがやって来たのか。
「でさ、こう言うのもなんだけど、用ってのは何だったんだ?」
疑問を口にする。
「……会話に興じていて、すっかり忘れていました」
「おいおい」
「実は、この先の洋館に人が住み着いたらしいのです」
「洋館?」
一は思い出す。この先を進んだところの、中腹にある寂れた館。以前、一がフリーランス二人組と出会い、他でもないガーゴイルと出会った場所。その時、ガーゴイルはその洋館の、屋根の上から街を見下ろしていた。
「……つーか、そうだよな、普通、家があったら住む人がいるよな」
「いえ、そうではないのです。わたしがあそこにいた頃、誰も住んではいませんでした」
「え? じゃあ、人が住みだしたのはつい最近の事じゃないか?」
なんとも、絶妙なタイミングだった。
「わたしもそう見ます。駒台に戻り、やはり洋館の屋根に立ち寄ったのですが、どうにも、人の雰囲気がありまして。視線を感じたので、逃げる様にそこを立ち去ったのですが」
「ああ、見られるのには慣れてないんだな」
「恥ずかしながら」
「ふうん。あんなトコロに、人が、ねえ」
一は腕を組み、洋館の方角を見上げる。
「わたしとしては、あそこが気に入っているので、何とかならないものかと見まして。こんな事を頼めるのは、駒台では一さんしかいないんですよ」
「……んー、そう言われちゃ、俺としては何とかしてあげたいんだけど、洋館の所有者だろ? 上手い事交渉出来れば良いけど、難しい話だよなぁ」
「やはり、難しいですか」
「けど、他ならないガーゴイルの頼みだ。何とかしてみよう」
「感謝の極みです」
ガーゴイルは、心のこもっているのかいないのか、無機質な声でそう言った。
「情報が欲しいな。どんな人が住んでるのか分かるか? 家族なのか独り身なのか。男か女か、年寄りか、若い人なのか。それだけでも対処のしようがあるんだけどさ」
「ふうむ。わたしの見たところ、女性が独りで住んでいたように見えましたが」
「……若い?」
「少なくとも、わたしにはそう見えました」
「なら間違いないな。しっかし、若い女の一人暮らしか」
一は石から立ち上がり、砂埃を払う。
「一さんとわたしでは、女性の警戒心を煽って交渉まで持ち込めないと見ます」
「……言うなよ」
分かってんだから、と、一は加えた。
「俺が一人で行ってもナンパか何かに思われちゃうかもしんないしな」
「でしたら、誰か女性を連れてくれば宜しいのでは?」
「なん……だと?」
一は考える。知っている女性。尚且つ、こんな山まで付いてきてくれそうな女性。
まず三森は除外した。殺されそうだ。同じような理由で、店長も無理そうだ。では、糸原はどうだろう。何だかんだ言って、付いては来てくれそうだが。余計な厄介事まで持ち込んできそうだ。一は却下する。次にジェーン。多分に、自分が『兄』である事を考えても、ジェーンは付いて来てくれるだろうと、一は思った。少し、自惚れてみる。しかし、なるべくなら『妹』に頼りたくないと言うのが一の考えだった。パス。立花。
「高校生か……」
「? いえ、家人は学生では無いようですが」
と言うか、一が何も言わなくても、勝手に付いて来そうな気がする。そして非常に面倒だった。
「俺って、交友関係狭いのかな」
「それは、わたしには何とも言えないと見ますが」
「んー。ここまで付いてきてくれて、話をややこしくしないでくれて、誘っても別に良い奴」
「……遊びの関係ですね」
「違う。違うぞそれは」
一は首を振って、ガーゴイルの間違いを正す。
「あ。いや、いた。いたぞ、そいつでいこう」
「ははあ、誰かいたんですね。さすが一さん」
「良し。話は俺が付けるから、ガーゴイルはその辺にいてくれ」
「協力者の方に挨拶はしないで宜しいのですか?」
「ぅ。うん。そこはそれ、気にしないでくれ」
「分かりました」
一はガーゴイルにひとまずの別れを告げ、大学へ向かった。講義の為ではない。
一はゼミ室まで行き、図書館をうろつき、グラウンドを端から端まで眺め、広場の真ん中のベンチで豪快にいびきをかいていた早田早紀を発見した。
「お、いたいた。おい、早田」
一は早田に近付き、眠っているのにもお構いなしで声を掛ける。
「ん、んん?」
「起きろよ」
「んー? 二の腕? 逞しいな……」
「あー、そうだね逞しいね。ちょっと、おい、頼みがあんだけど」
「……え? 食べても良いのか?」
早田の口から涎が零れた。
「だ、駄目駄目! 食べちゃ駄目だろ! 涎垂らすな、みっともねぇぞ!」
「んー……」
ゆっくりと瞼を開け、早田の無垢な瞳が一を捉える。一と視線を交錯させると、早田は何故か頬を朱に染め、
「せ、先輩っ? 酷い、酷いではないか」
乙女のように恥らった。
「酷いのはお前の夢の内容だよ」
ポケットティッシュを差し出し、一は早田に無理矢理握らせる。
「先輩、これで何を? まさか……」
「うん、そのまさかだよ。早く涎拭けって」
「あ、ああ。何だ、すまない。てっきり私は先輩が不埒な事を……」
「謝ってるつもりかてめぇ。それより、目は覚めたか?」
「ああ。先輩の気配を感じた瞬間に覚醒していたぞ」
嘘付け、言いながら一は笑った。
「早田、頼みがあるんだけどさ」
「引き受けた。私は何をすれば良いのだ?」
「……少しは考えても良いんだけど。って言うか考える材料すら与えてないんだけど」
「ふふ、先輩の頼みを断る物か。さあ、先輩! 好きなように私を弄んでくれ!」
「ンな事頼んでないし頼むつもりもこの先ねぇよ!」
胸を張る早田に、一は頭を抱える。
「? では私はどうすれば良いのだ?」
「あそこの山の、洋館まで付いてきてくれれば良いんだよ」
「……そうか、人目につかないそこで行為に至る訳だな」
「至らないよ。断じて至らないから。付いてきてくれれば良いの」
「分かった。先輩が言う事に間違いは無いからな。ふふ、デートか」
「えっ? 俺そんな事言ったっけ?」
「しかし、デートなんて私はした事が無いな。どうすれば良いのだ?」
早田はベンチに座って首を傾げた。
「……良いよ良いよ、そんなの考えなくて」
「そうか、ではお言葉に甘えて先輩のリードに従うとしよう。服従の証として、私は何をすれば良い?」
「そういうのも考えなくて良いから」
「先輩、気にせずにデートの間は私の事を『雌豚』と呼んでくれ」
「デートじゃないじゃんそれ! 何でそんな事言うのお前!? あ! いや、勘違いすんなよ、そもそもデートじゃないからな」
「そうか。私は勘違いしていたのか……。なんて恥さらしなんだ……」
しょんぼりと、早田は頭をうな垂れる。
そもそも、人の集まる広場のベンチで、涎垂らして豪快にいびきまでかいている時点で、恥も見栄も外聞も無かった。一はそんな事はおくびにも出さず、面倒くさそうに溜め息を吐いた。
「死のう」
ぽつり、と早田がそんな言葉を唐突に言う。
「えっ? いや、そこまで言わなくて良いから」
「いや、私は死ぬ。先輩に多大な迷惑を被らせたのだ。おめおめと生き恥を晒すわけにはいかない。デートだなんて、一介の女学生のような、浮かれた考えを口にした私は早田家の恥曝し、愚か者だ。死して屍疲労骨折。デートだなんて、私は、ああ、私は。私は死ぬ。先輩、介錯を頼む。今から私は首を括って死のうと思う」
「……分かったよ、デートで良いよ。デートだよ、はいはい。これで良いか?」
「先輩の滑舌が悪くて聞こえなかった」
「せめて自分の耳が悪いって言えよ! 分かったよ! ごめん! 早田、デートに行かないか!? な? 俺が悪かったよ、頼むから付いてきてくれよ、この通り」
頭を下げ、一は心で泣いた。何でこんな事を言わされているんだろうか、と。
「こういうのも、たまには悪くないな」
「おい! その笑い方は止めろ! 後輩が尊敬してる先輩に向ける笑顔じゃねぇよそんなの!」
「あ、ああ。すまない、そんなつもりは無かったのだが――ふふ」
「もう! 最後まで隠し切れよ、お馬鹿!」
「ところで先輩、お昼はどうするんだ?」
「昼? 昼ならもう食べてきたぞ」
「そうか……、ちなみに私は先輩との昼食を楽しみにしてて何も食べていないぞ」
「お前午前の授業からここで寝てたろ? なあ寝てたろ? そりゃ飯食ってる暇なんかねぇよな、しょうがねぇよな? 良し、行くぞ」
一は話を打ち切り、早田に背中を向ける。
「そこで先輩が『お腹が減ったのなら僕の○○○を食べなよ!』なんて、なんて言ってくれたら好感度アップだったぞ。むしろ感度が高まる」
「……○○○には何が入るんだ? 顔だよな? いや、顔でもやばいけどそうだよな?」
「僕の♪♪♪を食べなよ!」
「そこを鼻歌で誤魔化しちゃ駄目だろ!」
「むしろもう僕が君を食べて良いかい?」
「ああ、構わないよ」
「じゃあ、服を脱いで……」
「せ、先輩? 少しだけ待ってくれないか? ここは人目につきすぎる、もっと人の少ない、今の時間なら、第二講義棟の裏で……」
「もう駄目だ、お前が悪いんだ。我慢できない」
「ふふ、先輩の言うことを無碍にする訳にはいかないな。だが一つだけ頼みがある」
「ああ、早田の言うことなら何でも聞くよ」
「私の事を激しく罵倒してくれ」
途中から一人で喋る早田を、一は奇怪な生物を見るような目つきで眺める。やはり、ガーゴイルと話している方が人間らしい会話だったかな、と。一はそう遠い目をしながら思った。
一は心底後悔していた。
昼食を食べ損ねた早田を食堂へ連れて行き、奢らされ、坂道を早足で上り、山の入り口に着き、腕を組もうとする早田を押しのけ、洋館までの道を歩く。
ガーゴイルは一らの前に姿を現さない。
「先輩、二人きりだな」
「そうだな。ミスったよ」
「こんな人気の無い山の中に二人きり、ふふ」
「人選ミスったよ、楯列でも連れてくれば良かった」
「先輩、私と一緒にいる間くらい、あの害――他の女の名前を出さなくても良いだろう。先輩は私に対するデリカシーに欠けている。もっと私を大切にしてくれても構わないのではないか? 釣った魚には餌をあげないのが先輩のポリシーだとしてもだ」
「早田。楯列は害虫でもなければ女でもない。デリカシーが欠けているのはお前だし、俺はお前を釣った覚えは無いぞ」
「違う、それは違うぞ先輩」
「……何が違うんだよ」
「害虫じゃない。害毒だ、先輩。それこそ、奴の事を害虫と称しては、害虫に失礼だと思わないか?」
「おい! 俺の尻を触ろうとするな!」
ガーゴイルは、一たちの前に姿を現さない。
「はっ、すまない。無意識の内に手が伸びていたらしい」
「あっそ。裁判でもそんな事が言えれば良いな」
「ところで先輩、ずっと聞くのを躊躇っていたんだが、駒台山までどんな用向きがあるのだ?」
「山って言うか、洋館に用があるんだよ。言わなかったっけ?」
「聞いた。この私が先輩の言葉一言一句聞き逃すはずがないだろう。私はその洋館まで、先輩が、何故、出向かなければいけないのかを聞いている」
「……んー」
一は差しさわりの無いように、具体的に言えばソレが絡んでいる事を伏せて、かいつまんで早田に説明する。早田はその説明を、時折相槌を混ぜながら素直に聞いた。
「成る程、合点がいった。先輩は寛大な方だ。悪逆非道が蔓延り、天魔外道が跳梁し、狂気が蠢く世知辛い今の世の中で人助けだったとは、いやはや、この早田早紀、改めて先輩に恐れ入る。さすがは私の認めた方だ。これからは先輩などと、気安く呼ぶことは出来ないな」
「いや別に先輩で――」
「これからは、はじめちゃんと呼ばせてもらおう」
「――良いっつってんだろ! 親にすらちゃん付けされるのを嫌がってたんだぞ俺は!」
「ならば呼び捨てで構わないか?」
「お前俺に敬意払う気ないだろ! 実はもう先輩とすら思ってないだろ!」
「……やはり先輩に隠し事は出来ないな。実は……」
「あー! 嘘! やっぱり聞きたくない! なんだかイヤだ凄く寂しくなる予感がする!」
「ふふ、冗談に決まっているではないか。先輩は私にとっていつまでも先輩なのだ。天地がひっくり返ろうが、死んだ者が蘇ろうが、どんな事が起ころうが、先輩は先輩だ。それだけは変わらないぞ」
「……そうですか」
一は照れたようにそっぽを向く。
早田は悪戯っぽく笑うと、ごく自然に、一の腕に自分の腕を絡みつかせた。
一はその腕をゆっくりと外していく。
「先輩、何故だ!?」
「いや、鬱陶しかったからなんですけど」
「はじめちゃん、酷い!」
「てめぇ……だったら俺もお前の呼び方を変えなければいけないようだな」
「? 私は構わない。それこそ、先輩との仲が縮まったようで非常に愉快だ。心が躍るぞ」
「こんにちは、こんな所で奇遇ですね、早田さん」
「距離感を感じるぞ、先輩」
「あ、じゃあ僕はもう行きますね。早田さん、部活頑張って下さいね」
「何の変哲も無い言葉なのに、胸が引き裂かれそうだ!」
「って接して良い?」
早田は無言で、ふるふると首を横に振った。
「じゃあ、もうはじめちゃんって呼ぶなよ」
「分かった。時と場合を考えよう」
「ケースバイケースじゃないの! 一生呼ぶなって言ってんだ!」
「では私と先輩が結婚したらどうする? 私はなんと呼べば良いんだ? 『先輩』では先輩の気持ちが萎えてしまうかも知れないんだぞ」
「疑問系でさも二人の問題みたく言ってんじゃねぇよ。前提がまずおかしいよ。頭おかしいよ」
「結婚はしないのか?」
「え? あ、ああ普通の返しだな。うん、しないよ」
「そうか、まあ先輩はそう思っていてくれて構わないが」
「……『が』ってなんだよ?」
「気にしないでくれて構わない、が」
「強調してんじゃねぇかよ!」
「そんな事はない。が」
「ルビに点が付いてそうなぐらい強調してる!?」
「む。あれが件の洋館ではないのか?」
早田が指差す先、確かに洋館が見えた。少し開けた、山の中腹。二人はそこに足を踏み入れる。
「中々趣のある館だな。街のラブホテルとは天と地ほどの差がある」
「そうですね。それじゃ俺はそこの人と話があるから、横で黙って突っ立っていてくれ」
「了解した」
一は館のドアに近づいていき、チャイムが無いか確認した。
「……無いな」
「先輩は失礼だな」
「胸押さえながら何言っちゃってんのお前?」
とりあえず、一はノックを一回。二回、三回。強めに一回。二回、三回。
「出ないな」
「すまない」
「胸押さえながら何言っちゃってんのお前?」
「それより、さっきから先輩は何をやっているのだ?」
「見りゃわかんだろが。ノックだよ、ノック。館の人と話があんの」
「ふむ。そうか」
早田は一から一歩距離を取る。
「……何で離れるの?」
「ウチの祖母が言っていた、怪しい人には近づくな、と」
「変質者? どこにいるんだ、そんな奴」
一は辺りを注意深く見回した。
早田が、もう一歩距離を取っている。
「おい。まさか俺が変質者って事か?」
「遺憾ながら」
「ふざけてんじゃねぇよ、それよかチャイムが無いか探してくれよ。埒が明かねぇ」
「ふざけているのは先輩ではないか。初体験はムードが大事だと聞くぞ、なのに先輩と来たら意味の分からない行動を取る始末だ。緊張しているのか?」
「……?」
フラッシュ音。
「許可無く写メ撮るなよ!」
「すまない。先輩のきょとんとした顔が壺に嵌ってしまった」
「良いから説明してくれよ。何で俺が変質者なんだ?」
「先輩は誰もいない家のドアをノックするのか?」
「は?」
「無人の建物のチャイムを探し、誰もいないのに誰かいるかのごとく振る舞うのか?」
「何言ってんだ? だって、ここには人が住んでるんだぞ」
「……住んでいない。ここには誰も住んでいないだろうに。人の生きている気配がしないぞ。洗濯物も干されていない、館の外壁を見てみろ先輩、築数十年では利かないぞ、この廃墟。家は人が住まなくなると朽ちるのが早くなる。まさにそれを体現をしているではないか、ここは」
早田は神妙な面持ちで館を指差した。
「いや、だって俺は――」
「――誰か住んでいると聞かされたのか? では、誰に?」
「誰って……」
ガーゴイル。
知性があり、どこまでも自由な旅人。醜悪な、悪魔の姿をした客観的な第三者。一の話し相手。
「先輩、答えてくれ。誰に聞いたのだ?」
「……それは……」
――ソレ。
ソレに聞いた。ソレに聞いた。ソレが言った。ここに、誰か、住んでいると。
「早田、正直に答えろよ? ここに誰も住んでないって、マジか?」
「部活でもここの館は話題に上ったことがある。大学の近くの、曰く付きのスポットだからな。三回生が見物に来た事があるらしい。そして、中にも入ったらしい。誰も住んでいないと、私はそう聞いている。そして今初めて館を見たが、断定できる。ここに人はいない。先輩もそうは思わないのか?」
早田の真剣な眼差しを見ずとも、一には分かっていた。
「……だよな。じゃあ、何で……」
ガーゴイルが嘘を吐いた。
「ありえねぇ……」
少なくとも一には、その可能性は考えられなかった。嘘を吐く理由も、吐かれる理由も存在しないように思える。
「先輩が意味の無い嘘をつくとは思えない。先輩が何者かに騙されているとも思えない。先輩は馬鹿ではない。それでは、実際に建物の中に入って確かめてみようではないか」
「え?」
フラッシュ音。
「だから写メ撮んなよ!」
「先輩の不思議そうにしている仕草がたまらなかった」
「機械音痴の癖に。そういう機能だけピンポイントに使いこなしやがって……」
「良し。ではドアを開けるぞ」
「いや、鍵閉まって――」
どごっ、と。何かがめり込む鈍い音。一はその音に思わず耳を塞いだ。静かな森の中で、その音だけが響き、やけにうるさく聞こえる。
「な、おい……」
「どうした、行かないのか?」
ドアのノブが完膚なきまでに破壊されていた。
「やべえ、怒られるぞ馬鹿!」
一は青ざめながら早田を怒鳴りつける。
「む。少し乱暴すぎたか」
「せめてそこのガラスを小さく割ってさ、鍵を開ければ被害は少なくて済んだんだよ」
あくまで。
「む。その手があったか」
早田は石を掴み、歩いていく。そして立ち止まり、徐に腕を振り上げ、下ろした。耳を劈く破壊音。ガラスとガラスのぶつかり合う気味の悪い音。
一の血の気が引いていく。
「馬鹿っ!」
「この手段は先輩が考えたのだぞ?」
周囲に舞い散るガラス片を物ともせず、早田は言い放った。
「ドア壊したんだからガラス割る必要はねぇだろうが!」
「む。失敗失敗。では先輩、次はどこを壊す?」
「目覚めてんじゃねぇよ! もういい、犯人はお前だ、俺は知らない、中に入るぞ」
「待ってくれ主犯」
「さり気なく俺を引き入れるな主犯」
一はもうどうでも良くなり、館に入る。入った瞬間、独特のかび臭さと空気が一の鼻をついた。思い切りその空気を吸い込んでしまい、激しく咳き込み、早田に背中を摩られる。一旦外に出て深呼吸し、もう一度館へ入る。一歩進むごとに床は軋んだ音を立て、埃が舞い上がった。
「かび臭いな。こりゃ、本当に誰もいないのか」
「うん、電気も通って無さそうだ。物音もしないぞ」
「しかし、中は割と豪華だな」
館の廊下には騎士や悪魔を象った像が立ち並び、壁には抽象画が掛けられていた。尤も、一にはその価値が分からない。
「誰かいませんかー?」
「先輩、侵入した後では無駄だぞ」
「ポーズだよ、ポーズ」
館内の光源は、窓から差し込む日の光だけ。薄暗く、淀んだ空気を一たちは掻き分け進む。
「汚れが溜まっていて気づかなかったが、レッドカーペットだなこれは」
早田が足元に視線を落とし、感慨深げに言う。
「その様子だと、中に入ったって言う先輩から話は聞いていなかったのか?」
「ああ、三回生の人か。そうだな、口が利ける状態ではなかったからな」
「……冗談はやめろよ」
「すまない、先輩の怯える顔を見てみたかった。その人はチームの要として今も活躍している。私の後を継いでもおかしくない逸材だ」
「突っ込みどころ満載だー」
「む。階段があるぞ先輩」
「よし、暗くて怖いから先に行け後輩」
「嫌だ。リードしてくれ、先輩」
「今更!? お前完全に俺の手綱振り解いて行動してたじゃん!」
「私も怖い」
「ニヤニヤしながら言っても説得力ないからな。ほら、後で『良くやった』って言ってやるから」
「それだけじゃ足りないな、先輩。私も安く見られたものだ。『良くやった雌豚』ぐらい言って貰わなければ納得出来ない」
「さっさと行けよ雌豚」
「ふふ、その意気だ」
「帰りてぇ……」
階段を上りきると、館内のかび臭さは一層の強さを増した。薄暗い廊下は、来訪者を拒んでいるように見える。
「先輩、二手に分かれて探索してみないか?」
「……唐突だな。まあ、別に良いけど」
一の気は進まなかった。一人になる事が怖かったのだ。薄暗い洋館を一人で歩く事が、ではない。もっと別の何かを感じていた。しかし後輩の手前、一は頷かざるを得なかった。
「では右と左、先輩はどちらに行きたい?」
「どっちでも良いよ」
「先輩は何利きだ?」
「右」
「では私は左を行こう」
「分かった。早田、やばくなったら大声出せよ。飛んでくから」
「先輩、先輩の厚意は有り難いのだが、人間は悲しいかな、飛行することの出来ない生物なのだ」
「言葉のあやだ」
一は面倒くさそうに手を振った。あっちいけのジェスチャー。
そして一は足を踏み出す。左へ。
早田は不思議そうに一を見た。
「あれ?」
「……先輩は左右の区別が付くと思っていたのだが」
「いや、付くよ。っかしいな」
一にも訳が分からない。とにかく、もう一度足を踏み出した。
「また左だぞ。先輩、右は箸を持つ方の手だ」
「お母さんみたいに優しく諭すな。勝手に足が動くんだから仕方ないだろ」
「では仕方ない。私が右へ行こう」
「……ん、頼む」
「先輩、危ないと思ったら大声を出すんだ。そうすれば直ぐに飛んでいく」
「へっ、人間は飛べないんだろ」
「人間ならば、な」
「意味深!?」
颯爽と歩く早田を少しだけ見送り、一は左へと進む。廊下を少し歩くと扉があった。ノブを回すも、ビクともしない。
「……外れ、と」
更に進む。扉を発見。ノブを回す。開かない。
「また外れ」
進み、扉を見つけ、ノブを回す。その作業を二回繰り返し、一は突き当たりにある、少し大きな扉を見つけた。ここで行き止まり。この扉で、終わり。
「……よっしゃ」
ノブに手を掛ける。ぎいい、と、軋んだ音を立て、少しずつ扉が開いた。廊下の窓、陽光が部屋の輪郭を露にしていく。
一は息を呑んだ。部屋の中に窓は無いようで、真っ暗だった。早田を呼ぼうかとも一は考えたが、声を出すのが億劫でそのまま一人で部屋に入っていく。窓の光で僅かに照らされた部屋。部屋の中、照らし出されたのは天蓋の付いたベッドだった。
それ以外、一の目には映らない。誇り一つ被っていないカーペットも、価値のある調度品だろうと、一の目にはベッドしか映らない。何でだろうと、疑問にも思わない。
ベッドで安らかな寝息を立てる、女にしか目がいかない。
整った顔立ち。シーツで大部分は隠されているが、その上からでも、女性の体は細く、多分に美しいものだと一には理解出来た。彼女は、眠っている彼女は高貴だった。声を出すのも、息をするのも、何をするのも憚られた。そんな風に一は感じる。かび臭い廊下と違い、部屋には別の香りが立ち込めていた。一もどこかで嗅いだことのある、誘われるような類のもの。
「バラ……?」
それだけで、一は気圧された。自分が部屋に入ってはいけないような、そんな気持ちに襲われる。
バラの香りの中、豪奢な天蓋ベッドで眠る女性。一の目が釘付けになった。
見てはいけない。そう思っても、どうしようも出来ない。頭は真っ白で、足元も覚束ない。手は何もない宙を掻き、息がし辛い。曖昧な状態のまま、一は部屋の中へもう一歩踏み出した。
一の手が何かにぶつかる。部屋の中の、甲冑に全身を包んだ騎士の像。年月が立ち、朽ちかけていたのだろうか。一の手が騎士の篭手を掠め、甲高い金属音を出しながらその篭手がカーペットの上に落ちる。柔らかい音がした。その音で、一は目が覚める。一の頭の中から白い靄が消えていく。ハッとして、ベッドへ目を遣った。
「………………」
衣擦れの音が部屋を支配する。女性が身動ぎするのが確認出来た。起こしてしまった。それどころか、不法侵入ではないのか。一はどこか場違いな、現実的な考えに思考回路を預けた。
「…………随分長い間、眠っていたようね。ふぁ……」
あくび交じりの寝ぼけた声。
「あ、そ、その」
「…………君、だれ?」
一は何とか言い訳を考える。だが、考えが纏まる前に女性が身を起こした。女性の瞼は完全に開ききっていない。少しだけ覗く瞳は、澄んだ青。
「……名前は?」
「っと、俺、の?」
ゆっくりと女性が首を振る。
「あ、に、一一、です。そ、それより、あのスミマセン! 勝手に家に入るつもりは、そのあるにはあったんですけど、やむを得ない事情と言いますか、如何ともし難い事態に巻き込まれてしまいまして、と、とにかく申し訳ありません!」
必死で謝罪する一をボケッとした様子で眺めながら、女性は「んん?」と小首を傾げた。ややあってから。
「…………名前、長いんだね。えっと? ニ、ニノマエハジメデスソ、ソレヨリ……」
「ああ! ち、違います! 俺の名前は一一です」
「……あーなんだあ、そっかあ、そうなんだあ」
「……お、怒ってないんですか? 勝手に家に上がりこまれて、寝てるの邪魔されて、しかも、その、もしかしたら入ってきたのは泥棒かもしれなかったんですよ」
一はまだ、ドアとガラスを破壊したことは伏せてみた。
「…………んー?」
女性の反応は鈍い。
「いや、だから」
「…………すぅ」
女性の首がガクンと垂れ下がる。
「う、うわっ! この人寝てる!」
「…………あー、ごめんね。起きたばかりで眠いの」
「は、はあ……」
「…………えーっと、怒ってないかって?」
「え、あ、はい。そうです」
女性は「んーん」と首を横に振る。酷くのんびりとした動作。
「…………今回は、君なんだね」
「えっと、何が、ですか?」
「……いーの」
一には女性の言っている事が何のことだか全くもって理解が出来なかったが、とりあえず怒られる事もなく、場合によれば、なあなあで逃げ切れると踏んで安堵した。そして女性が寝起きである以上、事態の発展は望めないとも踏んだ。
「あの、俺も用事があって来たんです。けど、今日のところは申し訳ないんですがお暇させていただきます」
女性は「ん」と短く答え、枕に頭をぽんと置いた。
一は女性に何か言おうとしたが、すぐに寝息が聞こえてきたので諦める。
「意味が分かんねえ……」
「全くだ」
ひっ、と一が短く悲鳴を上げた。
「先輩、どうしたのだ? イイ表情をしているぞ」
突然現れた早田は愉しそうに笑う。
「ど、どこから出てきたんだよ」
「向こうからだ」
「一番端じゃねぇか、本当に飛んできたのかよ」
「うん。先輩の危機を感じたからな」
「その割には、何もしてくれなかったじゃないか」
「? 先輩は横で突っ立っていろと、私にそう言わなかったか?」
「言った。でも機転を利かせて欲しかった」
「そうか。次回は努力する」
一は心底後悔した。
完全に趣味に走った。