地獄から飛ぶモノは
生と死。
天と地。
光と闇。
愛と憎。
白と黒。
女と女。
敵と敵。
何の事は無い。彼女は自由で、彼女は不自由だった。それだけの事だった。彼女は彼女を羨み、彼女は彼女に嫉妬し、彼女は彼女を殺したい。それだけの事だった。
「はじめ君ってそういう本読むの?」
一が並べた女性誌を、立花は興味深そうに手に取った。表紙を飾る、煌びやかな女性が眩しく見える。こっそりと、一には気付かれないように溜め息を漏らした。
「俺じゃないよ。お使いお使い」
「え、あ、い、糸原さん? そ、そうだよね! はじめ君が見るわけないよね」
「糸原さんじゃなくて、タルタロスの人だよ」
一は財布から紙幣を取り出す。
立花はぎこちない手つきで、商品のバーコードを読み取っていく。
「タルタロスって、あの?」
「そ。あのタルタロス」
「……コンビニって大変なんだね」
「いや、多分ウチだけだよ」
袋に詰められた女性誌を受け取り、一が肩を落とした。
「それじゃ行ってくるよ。もうすぐしたらジェーンも来るし、心配要らないからね」
「う、うん」
一は財布をジーンズのポケットにしまい込み、出口へと向かう。
その後ろを、カウンターから出てきた立花が付いてくる。
背後に異様な存在感を感じつつも、一が扉を開けた。暖房の入った店内と違い、透き通った冬の空気が一の鼻腔をくすぐる。
「うわっ、寒いねー」
「そうだね。何で立花さん付いて来るの?」
「えっ、ボクも行っちゃ駄目なの?」
「……ダメダヨ」
「ええっ!?」
立花が心底驚いた風な声を上げた。
「店に誰もいなくなっちゃうでしょ。って言うか、仕事中だから立花さんは店から出られません」
「ボ、ボク一人でなんて無理だよ。お客さんが来たらどうすれば良いのか分からないのに……」
悲しそうに俯く立花。
「挨拶して、レジ打って終わりだよ」
「で、でもさあ……」
庇護欲をそそる声だった。
「……ええい、でもじゃない。とにかくやるの」
「は、はじめ君は意地悪だよ」
「えー、超心外ー。じゃあ頑張ってね、お疲れ様ー」
引っ張られていた袖口を乱暴に振り解き、一は立花へ背を向ける。
「うわああ! はじめ君? はじめくぅーん!?」
タルタロスはオンリーワン近畿支部の近くに位置する。
タルタロスはオンリーワンと提携らしき物を結んでいる。
タルタロスはソレに関係した犯罪者が収容されている場所。
タルタロスは、怖い。
一はタルタロスについて、漠然とした事しか認識できていなかった。それでも、異常めいた場所だとはハッキリと分かる。分かっていながらも、そこに足を運んでしまう。運ばざるを得ない状況を作ってしまう。
店を出て十数分歩いた一の目に、真っ白に塗装された殺風景な建物が見えてきた。高い壁。鉄条網。大きな門。
拒んでいるようだった。外から人がやって来るのを、中から人が出るのを拒んでいるように見えた。
「おはようございます」
「……おはようございます」
タルタロスに着いた一は、正門で警備している人物に声を掛ける。
一は持っていた袋を見せるようにして、
「オンリーワンから来ました」
気さくに、そう言った。
「ええ、伺ってます。もう四回目になりますか、一さん?」
「そう、なりますね。大分慣れてきましたよ」
それは良かった、と。警備員が笑う。
「通っても?」
「はい、どうぞ。ああ、ですが今日は行きも一人でお願いできますか?」
「……構いませんが、何かあったんですか?」
一が不審げに尋ねた。
一がタルタロスの、目的の部屋まで行くときに際し、警備員が一を先導するように付いてくるのが常だった。何故か帰り道は一、一人きりなのだが。
一の質問に、警備員が答えづらそうに被っていた帽子の位置を直す。
「実は、警戒レベルが上がってまして……」
「警戒? まさかソレが?」
「……そんな所です。ですが、あくまで警戒ですから。過度の心配は要りません」
「はあ……」
警備員は一の緊張を解す為に言ったのだろうが、そうまで「心配ない」と言われると、天邪鬼の気質がある一は、逆に警戒せざるを得なかった。
正門をくぐり、本館から離れた棟へ。その棟の一角に、隔離されているように存在する地下へ続く階段。
一はその階段の一歩目を踏んだ。長い長い階段。照明は薄く、先が見えない。今日は付き添いの警備員もいない。その事実が一の不安感を急速に駆り立てる。終わらない、何段下っても終わらない階段。
「こんなに、長かったっけ?」
迫り来る恐怖を紛らわす為に、一が独り言を呟く。その声は狭い階段中に反響し、自分の口から出た声とは思えないほど不気味に変質した。怖気が走り、鳥肌が立つ。走ってやろうか、歌ってやろうか。歌いながら走ってやろうか。そんな考えが一の思考回路を支配する。暗く淀んだ、湿った空気が一の圧し掛かっていく。押し潰されそうな、濃厚な空気。息を吸い込むと、吐きそうなほど汚く、埃っぽかった。胃の中の物を吐き散らしてしまいそうになるのを我慢して、一は喉元まで来ていた不快なそれを強く飲み込み、押し戻す。
「はっ、はあっ……」
壁に手を付いて、小休止。一は前を見ると、違和感を覚えた。薄暗がりの中、既に方向感覚が狂い始めていた。空気が、新鮮な空気が欲しかったが、ここにいては望むべくも無い。
とにかく、下りなくては。
口元を押さえながら、強迫観念に押されながら、一は階段を駆け下りる。
「あ……」
か細い、今にも消えそうな光。階段に終わりが近づく。階下の廊下から漏れる、仄暗い照明。
薄暗い廊下を進むと、突き当たりに赤錆のこびり付いた扉が見える。一がその扉に手をかけようとした瞬間、軋みを立てて、扉が開く。独りでに開いた扉を見たのは、これで四回目だったが、一は何の疑問も抱かなかった。
「……良いですか?」
「ふふ、その為に開けたのよ? 入って頂戴」
部屋の中から、脆い声が聞こえてくる。ガラス細工のような、儚げな声。
一はその声に促され、殺風景な部屋に入った。
「相変わらず、寂しい部屋ですね」
「そうかしら?」
「そうですよ」
部屋には窓が一つ。見える景色はつまらない物だった。荒れ果てた光景だけが延々と広がっている。一は目を逸らした。簡素な机と椅子。椅子には、室内だと言うのに黒いローブを羽織り、フードを被った女性が一人。
それ以外には何も無かった。
「もう四回目ですけど、何も変わらないんですね。この部屋は」
「……ハジメは変わったみたいね」
鮮やかな紅色。フードを被った女性が静かに声を発した。感情は読み取れなかったが、一にはその声が、どこか寂しいものに感じる。
「俺がですか?」
「女神の力を手に入れたのね」
ぎくり、と。一の体が強張った。
「知ってましたか」
「ええ。忘れたの? ここはそういうモノを管理しているのよ」
「……そうでしたね」
一が女性の反対側の椅子に座り、持っていた袋から雑誌を取り出す。
「今日は本を持ってきました。これならそこそこ時間は潰せますよ」
「あら、気が利くのねハジメ」
「……そりゃどうも」
皮肉っぽく女性が笑った。
「ふぅん、私とは縁遠い人たちばかりね」
女性誌の表紙を眺めながら女性は呟く。
「縁遠い?」
「私とは全く違う、華があるわね。憎らしいわ」
「あなたも充分綺麗だと思いますけど」
「あら、私の顔を見たこと無いのに?」
白く、細長い指を口元に当てて女性が上品に笑う。どこか自嘲めいた微笑み。
「じゃあ見せてくださいよ。そもそも、俺はまだあなたの名前を知らないんですけど」
「名前なら好きに付けてくれって言ったじゃない。良いのよ、ハジメが付ける名前なら何でも」
「……繰り返した問答ですけど、ペットじゃないんですから、駄目ですそんなの」
「ふふ、意地っ張り」
女性は怪しく口元を歪めた。
「……ところで、何かこっちで変わったことはありましたか?」
「ここで? そうね、特に無いわ」
「警備員の方が言っていたんですけど、警戒レベルが上がったとか、何とか」
「そう言えば、そんな事あったかしら」
「あなた、ここの人間なんですから……」
それぐらいは把握して置いて下さいよ、と、一が嘆くように言う。
「ずっとこんな所にいるのだから、仕方ないじゃない」
「外に出れば良いじゃないですか?」
「外へ?」
女性にとって予期していなかった言葉だった。思わず、女性がフードに隠された顔を上げる。
「閉じ込められてるわけじゃないんでしょうに。勿体無いですよ、今日は天気も良いのに」
「……そうね。そうしたいわ」
含みのある言い方に、何かを感じ取った一はそれ以上この話題に対して、何も言わなかった。
「ああ、そう言えば思い出したわ」
「何をです?」
女性が人差し指を一の前に立てた。
「脱走したモノがいたのよ」
「脱走? ここから、ですか?」
「そう」
普通に言ってみせたが、一には信じられなかった。信じられない存在が、今一の部屋で寛いでいるであろう事を差し引いても、鵜呑みには出来ない話。
「そんな人がいたんですか?」
「正確には人じゃないの。ソレよ」
「……ソレ?」
「そう」
ソレがここにいた? 一は言い知れぬ感情に押し潰されそうになる。
「え? えっと、タルタロスにいるのはソレ絡みの犯罪者だけなんじゃ?」
「あら、そんな事誰がハジメに吹き込んだのかしら。……目の前に居たら八つ裂きにしてやりたいわね。むしろここで管理しているのはソレの方が多いのよ」
「う、ええっ。本当ですか?」
八つ裂きには触れないのが、一という男だった。
「……俺、そろそろお暇させて――」
立ち上がった一は扉に手を掛け、ゆっくりと開く。
「――まだ早いじゃない」
一の意思に反して、ゆっくりと扉が閉まっていく。力を込めても、押しても引いても、もう扉は開く素振りすら見せなかった。
「……あの」
「どうしたの、お座りなさい」
「……はい」
儚げな声。ガラス細工のような、触れたら砕けそうな声。それでも、強固な意志がその声には隠されていた。
「前にあなたが来てから、随分と間が空いたわね。忙しかったのかしら?」
「ええ。忙しかったです。勤務外になっちゃったんで」
「ふふ。なら、聞かせて頂戴?」
ミステリアスな女性の雰囲気に、一は抵抗できない。軽い眩暈を覚えるぐらいの、閉ざされた濃密な世界。いつしか、一はその世界に沈んでいった。
――ああ、やっと出られた。
空を泳ぎながら、ソレは思う。
高い高い空の上、雲のずっとずっと上。気持ち良さそうに羽根を羽ばたかせ、ソレはまた高度を上げた。太陽が近付く。陽光に照らされるソレの姿。獅子の頭を持った、鷲の様な姿だった。人間より一回りも大きい出来損ないの鳥。
――それにしても、汚い空だ。
ソレは思い、憤った。そしてソレは吠えた。その咆哮に共鳴して、雲が蠢き、風が鳴く。空は歪み、徐々に暗くなる。風は鋭さと勢いを増し、荒れ狂った。
嵐。嵐を引き連れ、ソレは飛ぶ。空を行く。目的があったが、まずは飛ぶ。ソレは飛びたかった。空を飛びたかった。何も考えず、何にも縛られず、囚われず。ただ、上を目指したかった。
一はいい加減この部屋を出たかった。タルタロスの一室にある、この部屋。
「……どうしたの?」
「いえ、別に」
妖艶さを湛えた、フードを目深に被った女性の部屋から出たかった。一刻も早く、出来れば一秒でも、一瞬たりとも早く出たかった。
「ふふ、退屈そうね」
女性は口元を愉しそうに歪めながら、女性誌に目を落とす。
一は、退屈だった。もう気を遣うなんて精神力は残されていなかった。
「そうですねえ……」
だから気だるげに、ストレートに返す。
「素直ね。正直な人は好きよ」
「そうですか……」
一は窓の外に目を遣った。土と岩。砂と石。黒い雲だけがひたすらに広がっている。無限とも言える、だだっ広い荒野。
「逃げたソレってどんな奴なんですか?」
やはり何度見ても気分の良い景色ではなかった。一はその景色から逃げるように目を逸らし、女性に声を掛ける。
「そうね、私も一度しか見たことが無いから詳しくは言えないのだけど」
「構いませんよ」
「欲深い性格だと思ったわ」
「はあ……」
一はソレの容貌を聞いたつもりだったのだが、女は平然とソレの性格、内面を口にする。それがどれだけ不可思議で不可解で、気持ちの悪い発言だったのか、女は気付いていなかった。
「姿は?」
「覚えてないわ。性格だけが目に付いちゃってね」
「……そ、ですか」
「それより、もう話は無いのかしら?」
女性は口元に手を当て、上品に微笑む。
「期待に応えられないようで残念ですけど。最近の出来事は殆ど喋らせてもらいましたよ」
「あら、本当に残念ね」
「それじゃあ、今度こそ帰りますよ。頼りない新人が泣いてるかも知れないので」
「ふふ、大変ね」
一が席を立つと、錆びた扉が自動的に開いた。
「ところで、あなたはずっとここにいてて大丈夫なんですか? ソレが逃げたんなら、結構な騒ぎになるとも思うんですけど」
「言っている意味が良く分からないけれど、心配は要らないわ。それに、ハジメたちが何とかするんでしょう?」
「……仰るとおりで」
女性は、膝の上に乗せていた雑誌を机に置き、
「ハジメ。逃げ出したソレを何とかしたら、またいらっしゃい」
艶やかさを含んだ声で、そう言った。
一は唾を飲み込みそうになるのを堪える。
「あ、はい。けど、別にソレは関係なく、また来ると思いますけどね。次は何が欲しいですか?」
「あなたは何が欲しい?」
甘く、囁かれた。声は耳から入り、内耳を蕩けさせ、脳に狂おしい音波を届けさせる。全身の骨という骨が引き抜かれ、体中の臓腑という臓腑がぐちゃぐちゃになって、何もかも全てを投げ出して、その場に倒れこみたくなる衝動が一を襲う。
「俺は、何も……」
粗方破壊し尽くされた理性。鎌首をもたげる様に現れる本能。
「そう? 素直じゃない人は、嫌いなのだけれど」
一が生唾を飲み込んだ。やけに静かな室内に、その音が無駄に響く。
「失礼します」
「ふふ、またね」
一握りの、欠片も残っていなかった理性を総動員して、一は部屋を出た。逃げた。扉はゆっくりと閉まっていく。振り返らなかった。心臓は馬鹿みたいに高鳴り、体は空気を欲している。虚ろな瞳で、帰るための階段を捉えた。おぼつかない足取りで、廊下を進む。
一は階段に足をかけたとき、行きよりも、外の世界までの道が遠く、長く感じられた。もう、戻れないのではないかと、愚かな考えに身を委ねた。
「はじめ君!」
一が店に入った瞬間、立花が嬉しそうに近寄ってきた。
立花はオンリーワンの制服ではなく、セーラー服。
「……あれ、立花さん仕事終わったんじゃないの?」
「うん、終わったよ。はじめ君を待ってたの」
一はちょっとにやけそうだった。
「店長がボクら二人に言いたい事があるんだってさ」
「ああ。ああ、なるほど」
自分の気持ちが急速に沈んでいくのが、一には分かる。
「はじめ君? どうしたの、疲れた?」
「いや、店長は奥?」
うん、と短く立花が頷いた。
「それじゃ、行こうか」
バックルームにはジェーンと神野が居た。
「お兄ちゃん!」
ジェーンは一の姿を見るなり、一に飛びついてくる。片手でジェーンの頭を掴んで、一は溜め息を漏らした。
「うざいよ」
「うー、ハートブレイク……」
「うるさい。店長に呼ばれてるから、後でな」
一はジェーンの髪の毛を多少乱暴に撫でてやって、神野に目を向けた。
「おはよう、神野君」
「おはようございます!」
神野はツンツン頭を一に向けて深くお辞儀と、気持ちの良い爽やかな挨拶をする。
「店長ー、店長ー、はじめ君来たよー」
「オルァ、私には敬語を使えと言っただろう」
立花に急かされた店長が、煙草の煙を纏わせながらやって来た。
「やっと来たか一、時間は大切に使えといつも言っているだろう」
「初耳です」
「タルタロスからソレが逃げたのは、全員聞いているな?」
一以外の全員が頷く。
「初耳でした」
「ソレは逃げ出すときに、タルタロスの連中にとって重要なものを盗んで行ったらしい」
「………………」
「これがどういう事か分かる奴は手を挙げろ」
店長がバックルームの全員を順番に見回した。
「Hi」
「ん、ゴーウェスト」
律儀に手を上げたジェーンを、嬉しそうに店長が指差す。
「今回のソレは、知能を持っていると言えそうネ」
「正解だ。ただ逃げるだけじゃなく、物を盗んでいくんだからな。良し、他には?」
立花と神野は訳が分からず沈黙を守っていた。
「なんだ、誰も分からないのか? じゃあ一、答えろ」
「初耳です」
「それはもう良い。答えられないと時給を糸原より上げるぞ」
「やめて! そんな事されたら妬まれて殺されちゃいますよ!」
「正解だ。ただ殺されるだけじゃなく、お前の大切な何かを持っていかれるんだろうな」
立花と神野とジェーンは沈黙を守る。白い目に突き刺されながら、一は考えてみた。ニヤニヤと笑う店長の顔が目に付いて、長くは考えるのに集中できなかったが、
「タルタロスに恩が売れます」
一はハッキリと、そう断言する。
「正解だ」
店長が笑う。酷く耳障りだと、一は思った。
「と言うわけで、今回の目的はソレよりも、むしろソレの盗み出したものに重点を置くぞ」
「あの、一つ良いですか?」
神野が右手を上げる。
「神野、もう問題は終わったぞ」
「違います! そうじゃなくて、俺は何が盗まれたのかが気になってるんですけど」
「そう、確かにネ。ソレは確か、鳥類だったカシラ、ボス?」
「そうだ。だから、盗まれたものはそれ程大きくはないだろうな」
店長が煙草を吸いながら、尊大に答えた。
「けど、まだ盗んだものを持っているとは限らないよね」
「ああ、そう言えばそうだよな。時間も経ってるし、どこかに隠したかもしれないですね」
立花の意見に賛同するように、一が頷く。
「その通りだ。だが、我々は基本的にソレを叩く事しか出来ん。どうせ盗まれた何かは、今頃情報部が探してるだろ。しかしだ。その上で、お前らとソレが戦闘に入ったとき、ソレが盗んだであろう物を持っていた場合は、何とかして取り返せ」
「……店長」
「なんだ、一」
「面倒なんですけど」
「良し。今回はジェーンと立花が行け」
「シフト滅茶苦茶じゃないですか!」
一が思わず叫んだ。
店長が耳を塞ぎながら、一を睨む。
「どうせお前の業務はもう終わってるんだから、良いだろ」
「立花さんも終わってるじゃないですか」
「うん。夕方からはゴーウェストと神野がシフトに入っている」
「分かってんなら、何でシフト弄るんですか? せっかく俺が苦労して組み直したって言うのに!」
「は、はじめ君。ボクなら平気だよ?」
立花は健気だった。
「駄目だ。嫌な物は嫌だって言わなきゃ、バイトなんてやってられないんだよ。特にコンビニ、しかもウチに限って言えばアホみたいなシフト組まされちゃうし、仕事量も半端じゃないんだよ? 店長の言う事に頷いちゃいけないんだ。断固として立ち向かわないと駄目だ!」
「一、お前クビな」
「どうして!?」
「うっさいから」
適当な物言いだった。
「あっそうですか。じゃあ良いです、俺はもう黙っておきますから」
拗ねたような口振りで、一はパイプ椅子を引っ張り出し、そっぽを向いて座り込む。
「良し。ゴーウェストと立花は勤務外業務に移れ。急げよ」
「オッケー、ノープロブレムね。行くわヨ、タチバナ!」
「う、うん! あ、ねえ皆一緒に行くってのはどうかな?」
「急げ!」
「ご、ごごごめんなさい!」
ジェーン、立花。勤務外の二人がロッカールームに駆けて行く。
「……神野、一般で頼む。一に仕事を教えてもらっておいてくれ」
「はい……!」
やる気の感じられる、若い返事。
「俺今クビって言われたんですけどー?」
「大丈夫だ。金はやらんから」
「うーわマジっすか死ねば良いのに……。まあ、どうでも良いですけどね。それじゃ、行こうか神野君」
パイプ椅子から立ち上がり、一が体を伸ばす。
「よろしく頼むぞ」
店長はもう一仕事終えたとばかりに、バックルームの椅子に座り込んだ。煙草を美味そうに吸い、体を仰け反らせて椅子に全体重を預けている。
一は面倒そうに溜め息を吐いた。
ジェーンと立花が勤務外として出て行ってすぐ、神野は沈痛な面持ちで一に、
「立花たちが危険な目に遭ってるのに、俺たちは中で仕事やってて良いんですか?」
どこかで聞いた事のある台詞を零した。その言葉に、一は、一の体に刻まれても無い古傷が痛んだ気がした。フラッシュバック。今もまだ、一の記憶の奥底に焼きついている、綺麗な炎。頭の中の炎が揺らぐ度、じわじわと、体を蝕まれていく感覚に一は身を任せていた。
「……神野君は戦いたいの?」
それは。
「え?」
「ソレを、殺したいの?」
誰に対しての質問だったのか。
「……ソレと戦うのは、怖いですよ。けど、俺以外の誰かが傷つくのは見たくないんです」
「そっか。なら、いつかはまた、神野君も戦う事になると思うよ」
一自身にも、分からなかった。
「そう、ですか……」
「だから、今は信じて待ってれば良いんじゃないかな。大丈夫、あの二人は俺らより強いと思うよ」
「……そう、ですか」
「うん、そうだよ」
その日は風が強かった。