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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
隠神刑部
46/328

四国最強

 九州からオンリーワン北駒台店へとやって来た、退治屋立花(たちばな)の六代目、立花真(たちばな まこと)。北校の高校生、ワックスで大胆に固めたツンツン頭の、背の高い少年。この二人の面接を行ったその日の内に、二人の採用は決まった。そもそも、立花は元からオンリーワン近畿支部の意向により、端から採用が決まっていたのだが。



「よろしくお願いします、神野剣(かんの けん)です!」

 神野、と名乗った少年が、一に頭を下げた。背筋の張った、威勢の良い挨拶。

 一はその声の大きさにたじろぎながらも、精一杯微笑んで返す。

「こちらこそ、よろしく。大変な時期だけど一緒に頑張ろうね」

「はい! お願いします!」

 声の大きさは難点だが、一はそれ以上に神野と言う少年に非常に好感を覚えた。若く、爽やかな風貌。分かりやすい、誠実な性格。自分には持っていないもの。もしかしたら、持っていたかもしれないもの。

 ……羨ましかった。憎らしかった。

「立花さんも、改めてよろしくね」

「う、うん。よろしくね!」

 一は次に、何故か自分の背後に立つ背の高い少女に話しかける。まるで神野から隠れるようにしている立花は、機嫌を窺うような視線を一に向けていた。

「それじゃ、時間もない事だし始めようか」

 一は二人を見回し、マニュアルを手に取る。バックルームで椅子にふんぞり返る店長を軽く睨みつけてから、店内へと足を向けた。その背中に続いて、立花と神野も店内に出て行く。



 フロアに立つ一が、まず時計に目を遣った。時刻は午後八時三十分過ぎ。

「……今日は時間が無いから、大したことはしないでおこうか」

「ボ、ボクなら大丈夫だよ? まだ学校始まってないし」

「学校は始まってるでしょ。じゃなくて――」

「高校生は十時までしか働けないんですよね?」

 一の代わりに優等生神野が答えてくれた。

「その通り。ま、高校生ってか十八歳未満は深夜働いちゃいけないんだよね」

「そ、そうなの? 二人とも良く知ってるね、凄いや」

 一と神野が顔を合わせ、お互い苦笑する。

 立花は何も分からず、羨望の眼差しを二人に向けたままだった。

「……一さん、俺たちは何をすればいいんですか?」

「そうだね、コンビニって簡単なようで割と仕事が多いんだよ。特にウチはね」

 一がバックルームを一瞥し、再び二人に向き直る。

「仕事をしない店長がいるから。ま、それは良いんだ、あの人は基本的に無視してて問題ないよ」

「あはは……」

 なんとも言えず、神野は愛想笑いを浮かべた。

「今日は店の雰囲気に慣れてもらおうかな、お客としてコンビニに来るのと、働きに来るのじゃ感じるものは違うと思うし。それと、お客さんへの挨拶にも慣れておこう、挨拶は大事だからね。とりあえず、いらっしゃいませとありがとうございました、この二つ言えたら問題ないよ。後は皆好き勝手にやってるからさ」

「む、難しいよ……」

「難しくないと思うけどな」

 立花の弱気な発言に、神野が頭を掻く。

「……んー」

 一には、二人の立ち位置が既に見えてきた気がした。

「お」

 入り口の扉、ガラス越しにスーツ姿の男が立つのが、一には見えた。

 ――都合が良い。

 男が扉に手を掛け、扉を開ける。フロアに男の革靴が乗った瞬間、「いらっしゃいませ」と、一の間延びした声が店内に朗々と響いた。

「い、いらっしゃいませ!」

「あ、う」

 遅れて神野が大声を出すが、立花は口ごもる。

 男が雑誌コーナーに行くのを確認し、一がカウンターに入った。手招きし、高校生二人を呼び寄せる。

 一はまず神野を見遣り、

「そう、そう。そんな感じで問題ないよ」

 出来るだけ優しく声を出す。

「はい!」

 良い返事が返ってくる事に、一は少し嬉しくなった。

「で、立花さん?」

「ご、ごごごめん! ごめんね、だってさ、いきなりだったから」

「ああ、別に怒ってるつもりは無いんだけど……。初めてだからね、失敗って言うか、まあ当然だよ。落ち着いて、ゆっくり声を出してごらん」

「う、うん」

「それじゃ、今みたいに今日は挨拶だけしようか」

 その言葉に神野が驚いた様子を見せる。

「それだけで良いんですか?」

「うん」

「で、でも」

 神野は食い下がる。

「神野君って、これが初めてのバイト?」

「は、はい、そうです」

 成る程と、一は得心した。何でも、誰でも始めてやる事には真剣になる。それが働く事であれば、神野の様な反応は珍しいものではない。お金を貰うのだ。労働の対価としての給料。挨拶をするだけで、貰える金に神野は言い知れぬ何かを感じているのだろう。

「それじゃあ固くなるのは仕方ないかな。けどさ、基礎って大事だろ?」

「え、ええ」

 神野は答えながら、自分が所属する部活を思い出す。剣道部。剣道。神野が幼い頃から取り組んできた、真剣になったもの。

「神野君はスポーツやってる?」

「……剣道を」

「剣道か。俺はやった事ないけど、剣道の基礎って何だと思う?」

 一の言葉を受け、神野は考える。色々と、思い浮かんでは来るが、

「素振り、だと思います」

 神野はそう答えた。

「じゃあ素振りもしないで、試合に勝てると思う?」

「絶対に思いません」

 練習もしない人間が、試合に勝つなんてありえない。許せない。存在してはいけない。神野は強い意志を込めて、言い放つ。

「コンビニのバイトも同じ、だとは言い切れないけど、そんなもんだよ。挨拶が素振りと考えてくれて良いんだ。だから、今日は君たちには素振りだけして貰うよ」

「……一さんって口が上手いですね」

「ありがとう。それじゃ仕事を始めようか」

「ね、ね、ボクは?」

 二人の会話を横で聞いていた立花が楽しそうに声を出した。ある種、期待感を込めたような、そんな声。

「え?」

「ボクには何か言ってくれないの?」

「……えっと」

 困ったような、実際困っているのだが、一がそんな声を出す。

「立花さん」

「うん!」

「……がんばれ」

「うん!」



 一は人に物を教えるのが好きではない。嫌いと言っても過言ではなかった。何にしろ、面倒なのだ。教える相手の覚えが悪かろうが良かろうが、結局は同じこと。面倒くさい。ただそれだけだった。



 一、立花、神野がフロアに出てから一時間が過ぎた。その間一は一人でレジをこなし、二人には新たにフェイスアップを教えて、店内中の掃除と点検を任せる。

「ふぁ……」

 暇だった。一人でレジを打つと言っても、元々この店に客は来ない。ピークを過ぎた店内には、一のあくびと、高校生二人の作業する音だけ。


 ――ジリリリリ!


 警告音。アラーム。危険を知らせる、音。静寂を守っていた店内が音を取り戻す。その音に一が一瞬で身を固くする。立花は声を上げて驚き、神野は何事かと立ち上がった。

「は、はじめ君!?」

 情けない声を立花が上げる。

「電話、ですよね?」

 神野は一の元に駆け寄ってきた。

「……電話なんだけど」

 一は躊躇う。言って良い物かと、この、電話の意味を。

 言いよどむ一を不審げに神野が見つめる。

「一さん?」

「はじめ君?」

 遅れて駆けつけた立花も不思議そうに小首を傾げた。フロアにいる三人のうち、一だけが今の状況を、これから起こるであろう、既に起こったであろう事象を予感している。確信している。神野は勿論、勤務外としてここにいる立花にも、一には言い出しにくかった。すぐそこに、ソレの影が迫っている事を。



「安心しろ、雑魚だ」

 店長が煙草を片手に、悠然と言い放った。

「雑魚?」

 聞き返す一に、

「ああ、唯の化け狸だよ」

 店長は余裕たっぷりに口を開く。

「化け狸って、一応ソレになるんですか?」

「なるんだろうな」

 ふう、と、店長が煙を吐き出しながら答えた。

 近くにいた神野が眉を顰める。煙草の煙に対してか、店長の態度に対してかは分からない。

「被害者は今のところ出ていないが、先に動くぞ。後手に回るのもつまらん」

「……誰が行くんですか?」

 一が恐る恐る店長に尋ねる。

 店長は唇を嫌らしく釣り上げ、三人をねめつけた。

「誰が行きたい?」

 ぞくり、と。悪寒が走る。何か良くないものが一の体を駆け抜けた。

 一の傍に立つ神野はと言うと、神野も同じような感覚を抱いたらしく、少し気分が悪そうな顔をしている。辛そうだった。

「店長」

「なんだ一? お前が行くのか?」

 少し不機嫌そうに店長が一を睨む。

「いや、って言うか、今更なんですけど。この話(・・・)、神野君に聞かせて良いんですか?」

「……?」

「一応、ソレの事何ですから、一般の神野君には……」

 一は自分がまだ、何も知らない、気楽な一般時代を思い出す。とは言っても、一ヶ月も経っていない、すぐ前の記憶。

「おいおい、誰が一般だって?」

「だから神野君がですよ。立花さんは勤務外ですけど」


 店長が、笑った。


「神野? 言ってやれ」

「え?」

 びくっ、と、神野が体を震わせる。

「言ってやれよ。『俺は勤務外です』ってな」

 冷酷だった。冷淡だった。残酷だった。

「……っ!?」

「言え、勤務外。でないと私は認めんぞ」

「お、俺は……」

 神野が俯く。店長の視線から逃れるように。

 見かねた一が助け舟を出そうと、一歩踏み出した。


「ボクが行きます」


 青みを帯びた艶やかな髪が揺れる。

 ――烏。烏が飛び降りたのかと、一は思った。

 立花が、それより先に一歩踏み出して、言った(・・・)

「……ほう、早速行くか?」

()きます」

 強い意思を秘めた切れ長の瞳。刀。刀だ。既に立花は刀になっていた。鞘の無い、抜き身の危うさ。

「なら神野。お前も行け、見るだけで良い」

「見るだけ、ですか?」

「ああ。見るだけでも充分に戦いだ。勤務外になりたいのなら、それぐらいは初めてでもこなしてみせろ――」

 店長が視線をずらす。

「――生きて帰って見せろ」

「……!」

「わ、分かりました!」

 神野が力強く頷いた。

「良いぞ、神野。実に良い。ソレは北校近くの墓地に出た。そういえば(・・・・・)前もそこにソレが出たな。恐らくは、そいつの遺した血にでも惹かれて来たんだろうが……」

「ソレは一体だけなんですか?」

「ああ、狸一匹。怖がる事も怯える事も、心配する事は何も無い。そうだろう?」

「……はい」

 二人が頷く。戦いに赴く、二人の高校生が力強く、自らの意思で頷く。自分の考えで、自分の力で、自分自身で。

「……俺も行きます」

「一、お前は待機だ。立花も神野もいる。お前が行く必要は無い」

「だけど!」

 一が語気を荒げた。神野が怪訝な反応を示し、立花は酷く驚く。叫びに近い声。言った一自身も驚いていた。

「ふ、二人は高校生じゃないですか、危なすぎますよ。せめて三森さんか、ジェーンを一緒に行かせた方が」

「ソレと戦う者の中には小学生もいる。七十過ぎた爺さんもいる。勿論高校生もな。しかも全員お前よりは使い物になるだろうな。下らん事言うなよ、一」

取り繕うように言った一の言葉を、店長がにやけ顔で反論する。

「……店長」

「何だ?」

 真剣な一に、店長が愉しそうに返す。

 険悪な雰囲気が立ち込めるのを神野は見逃さなかった。

「俺たちなら大丈夫ですから」

 そう言って、一と店長の間を通り抜け、バックルームへ向かう。立花は何も言わず、神野とは違い一の後ろを小走りで通り抜けた。

 ――情けねえ……。

 一は年下に気を使われた恥ずかしさで頭を掻き、冷静さを取り戻すべく大きく息を吸った。

「……本当に大丈夫なんでしょうね?」

 二人が店内から姿を消したのを見届けて、一が努めて平静な声を出す。

「今回のソレか?」

「そうです。二人とも、ソレと戦った事はあるんですか?」

「……お前は勤務外として、初めて店を出たときの事を覚えているか?」

「覚えてます。覚えてない方がおかしいでしょう」

 質問に質問で返されたが、店長の声が存外に優しいものに変わったので、一の声からも棘が抜けた。

「私はあの日、お前が死ぬと思った。糸原も死ぬと思った。場合によれば、堀も三森も、奴ら(・・)も死ぬと思った」

 奴ら、と言ったときの店長の顔は酷く不機嫌なものになる。

 一もなんとなく察しが付いた。だから、黙っておいた。

「全滅すると思った。一般の仕事はこなせるが、お前のソレに関する態度はクソみたいな素人同然だったからな。何も出来ないお前が出れば、糸原も三森もお前を庇ってしまうだろうと思った」

「……ですよね」

「相手が唯のソレなら良かった。だが、相手はギリシャの怪物だった。お前からすりゃ、初陣でそんなの(・・・・)が出てくるんだ、とんでもない話だな。それでもお前は生きて帰って来た」

 一は思い出す。思い出すと、随分と前の事だと思っていたのに、手が震えた。右手を咄嗟に隠し、一は店長の意見に同調した。

「だから、問題ない。神野も立花も問題ない。相手がアラクネ以上じゃなければ、生きて帰ってくるだろうさ」

「何だか、俺の運が悪いって話に聞こえてきましたよ」

「確かに悪そうだな」

「……ま、店長がそれだけ余裕なら大丈夫でしょうね。なんせ店長、蜘蛛の時なんて――」

 何か言おうとした一を遮るように、バックルームの扉が開く。竹刀袋を抱えた、少年と少女。

「準備は出来たらしいな」

 店長が二人の方に顔を向けた。

 一もつられて二人を見る。成る程、確かに問題は無い。一はそう思った。

 背の高い神野と立花。二人の持つ雰囲気は、唯の高校生には持てないものだった。剣を持つべき者の、剣を持って良いものの雰囲気。

「十時までに片付けろよ、高校生」

 軽口を叩く店長に対して、一はすぐ傍にまで近づく二人に、どう声を掛けて良い物か迷い、

「気をつけて」

 無難な対応を選ぶ。

「はい!」

 それでも神野は、その言葉に対し、一と店長に頭を下げ、竹刀袋をしっかりと掴んで店外へ出て行った。戦場へ行った。

「……俺が言うべきではないと思うけど、その、立花さんも気をつけて」

 鋭い刀。触れたら切れそうな、近づいたら斬られそうな。そんな、冷たい空気を漂わせている立花は一の言葉に、

「……うん!」

 嬉しそうに目を細めて、それら全部(・・・・・)を投げ捨てて、和やかな空気を身に纏った。

「頑張るよ! じゃあはじめ君、行ってくるね!」

 立花もそう言って、店の外へ飛び出した。狩場へと、飛び出した。



 時計の針が動く。時間が、進む。

「一、苛々するな。見ていて苛々してくる」

「苛々しないでくださいよ、店長。それと、煙草をフロアで吸うのやめてもらえませんか? 苛々します」

 店長は喉の奥で笑った。

 一はその笑い声に不快感を覚える。

「大丈夫だと言っただろ。立花がいるんだ、心配は要らないと思うがな。その辺のソレにはまず負けん」

「でも、神野君は」

「さっきから勘違いしてるみたいだがな、神野は今日が初陣じゃないぞ」

「え」

 間抜けな声だ、一は我ながらそう思った。咳払いをしてから、

「どういう事ですか?」

 誤魔化すように一は尋ねる。その事に気付いているのか、いないのか、店長が小さく笑った。

「赤いソレ。糸原から聞かされていないか?」

「……あ、聞きました。全身赤くて、それで――」

「――そいつを神野が仕留めた。レッドキャップと言ったらしいな、件のソレは。墓場で遭遇したときに持っていた竹刀でヤったらしいぞ。面接でも確認したし、情報部がその様子を目撃している。逸材だ。そう思わないか? あんな主人公気質は滅多にいないぞ。ソレと出会って、襲われて、巻き込まれるように戦って、殺して、勝って。素晴らしい、素晴らしいよなあ? 即決だったな、神野を採用したのは。いや、鍛え甲斐があって、それに応えるだけの伸びシロも確実に持っているぞ、あいつはな」

 何を言っているのか、一には分からなかった。



 一閃。

 それだけで、駒台に現れたソレは死んだ。腕を切られ、足を斬られ、首を刎ねられ。血を流し、涙を流し、魂を流し、死んだ。動かない。もう動かない。ただ、冷たいからだから血だけが、それだけが流れ続け、動き続ける。コンクリートへ執拗に染みを作りながら。まるで、ソレが自分の生きた証を刻み付けているようだった。

「神野君?」

 立花は平時と変わらない、あまりに普通すぎるトーンで神野に話しかける。

 神野は答えない。応えられない。目の前で繰り広げられた、一瞬の出来事が脳裏から焼き付いて離れない。短い映像が、頭の中をリピートで何度も流れ続ける。



 ソレはいた。確かに、狸の姿をしていた。ただの狸。ただ、今までに神野が見た事がないくらい大きかった。そして巨大な狸は四つんばいでなく、二本足で立っていた。

 神野は怯んだ。ここまでは急いで、走ってきたのに、もう足が動かない。自分の足の感覚ではなかった。震えていた。怯えていた。恐ろしかった。レッドキャップを殺しているとはいえ、やはりソレは怖かった。

 だが、動けない神野を尻目に、立花の対応は早かった。袋から日本刀(・・・)を取り出すと、柄を引っつかんで、素早く鞘からそれを抜く。街灯の明かりも無くなった闇の中、刀だけが異様な光をぎらつかせていた。

 その光に神野が目を奪われたとき、立花がソレの腕を一つ持っていっていた。

 獣の声が轟く。苦しそうな声だった。

 神野はその声にハッとして、しっかりと立花の動きを目で追った。刃の輝きを頼りに、立花とソレの動きを追っていく。

 見えた。そう神野が思ったときには、ソレはもう動いていなかった。達磨みたいに四肢を削ぎ落とされたソレは、苦しそうに息を吐いている。ぎらついた光。

「……っ!」

 煌く銀の光。血を吸った、魂を吸った凶器。立花の日本刀が空を裂いて奔った。断末魔。首を落とされたソレは血を盛大に吹き散らして、絶命する。

 立花が刀を抜き、ソレが死ぬまでに、一分も掛かっていなかった。



 神野は五歳の頃から、近くの道場に入って剣道を始めた。理由はもう覚えていない。昔見たテレビの影響だったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 理由はもう覚えていない。理由なんて関係なく、神野は竹刀を振り続けた。毎日、毎日、毎日。竹刀を触らない日はなかった。道場で、家で、学校で、時には外で振った。竹刀を振った。素振りをしているとき、雑念は消える。一回一回、徐々に意識が尖っていくのが神野には分かった。

 少しずつ上手くなっている気もした。

 持ち前の背丈と負けん気のお陰で、神野はめきめきと実力を伸ばして行った。神野が小学校高学年の頃には、同年代で神野に勝てるものはいなくなってしまった。中学生になって、剣道部に入った。当時一年生だった神野は、遊びじみた部の歓迎会で三年の主将と試合する事になる。

 遊びだった。その遊びで、神野は主将から一本を取った。主将の実力は決して低いものではなかった。それよりも、神野の実力が勝っていただけの話。

 神野は歓迎会の翌日、剣道部を辞めた。


 毎日毎日毎日毎日。

 竹刀を振り続けた。

 毎日毎日毎日毎日。

 素振りをし続けた。


 道場へ頻繁に顔を出し、知り合った大人に色々な所へ連れて行ってもらった。時には土下座して頼み込んだ事もあった。連れて行って欲しかった。自分よりも、剣道の強い者がいる所へ。一種、武者修行だった。北海道まで行った事もあった。大会の規模の大小問わず、神野は試合を見、試合にも出た。勝利すれば、勿論敗北もした。

 少しずつ、神野は強くなっていった。

 事実、強かった。通っていた道場にも、神野に敵う奴はいなくなった。


 ――俺は、強い。


 事実、神野は強かった。



 だから神野は今起こったことが信じられなかった。自身はあった。実力もあった。自分よりも強いものを見たことが無いわけではない。だが、それらは全て手の届く強さだ。いずれは越えられる、壁にもならない存在。


「神野君?」


 ならば、目の前のこれ(・・)はなんだ。神野は、立花を前にして我知らず息を呑む。

「……あ」

 綺麗だった。ひたすらに美しかった。人間業じゃなかった。届かない。触れない。強さが、分からない。実力のある、そこそこに強い(・・・・・・・)神野だからこそ分かる。今、自分はどこにいて、立花がどこにいるのかが理解できない。

 分からないと言う事が分かる。

「大丈夫?」

 立花が手を差し伸べた。

「?」

 神野は地面に座り込んでいた。自身も気付かぬうちに。

 差し出されたその手を、神野は手汗の滲んだ右手で掴んで立ち上がる。柔らかかった。まるで女の子の手みたいだ。そう思った。

「歩ける?」

「大丈夫。それより、いつまで握ってれば良いんだ?」

 神野が視線を落とす。

 つられるように立花も視線を下げ、

「う、うわわっ!」

 慌てて神野の手を離した。

「ご、ごめんねっ!」

「良いよ。それより帰ろうぜ、十時までに戻るって見栄切っちゃったしな」

「そ、そうだね」

 細切れになったソレを置いて、二人は並んで歩き出す。



 この日、駒台に現れたソレ。

 立花があっけなく倒したソレ。

 化け狸。名前を、隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)と言った。四国地方最高、最強の力を持つ化け狸。八百八匹の眷属を従えていた化け狸。

 それだけの話である。

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