バイトでフェンサー
たちばな、タチバナ、立花、太刀花、絶花、断花!
繰り返される呪詛。少女を襲う怨念。人々はこぞって怨嗟を紡ぐ。言葉を作れないソレは咆哮で少女を襲う。仲間を殺された怒り、同胞を陵辱された悲しみ、憎しみ恨み呪い何もかもを詰め込んで。
――少女は耳を塞いだ。
それでも声は聞こえてくる。声は止まない。声は終わらない。少女を責める声は続く。少女が死ぬまで永劫に続く。
――少女は目を瞑った。
それでも人々の顔は消えない。彼女の脳裏からは消えない。彼女の網膜には人々の顔が鮮明に焼き付いている。
悪夢だった。耳を塞いでも目を瞑っても止まらない悪夢。眠っていても起きていても終わらない悪夢。覚めない悪夢。少女は夢の中にいる。
一は立花と思われる人物へ近づく間に、どう会話を切り出すか考えていた。足を一歩踏み出せば、案を一つ生み出しそれを否定し却下する。どう言えば機嫌を損ねないで済むのか、何をすれば殺されないで済むのか。ちらりと、一は後方に目を遣った。姿こそ見えないが、春風はどこかで一の様子を窺っているのだろう。同時に、立花の様子も。じっとしていても仕方ない、意を決して一は前を向いた。
「…………!」
前を向いた自分の目に、矢が飛び込んできたのかと一は錯覚を覚える。目が、合った。立花と目が合った。ただそれだけで一の視界が歪む。
一の頭が真っ白になった。
品定めするような視線。やがて、その視線が一から外れる。
抜き身の刀の雰囲気を纏わせた女。
立花。
その立花が、静かにスカートを翻して歩く。歩みは速かった。しかし、無駄な足音は立てずに歩く。
濡烏。駒台では見ないセーラー服。艶やかな黒髪。ポニーテールを揺らして、立花が一の前に立つ。
その間、一は指一本動かす事すら出来なかった。
「あの」
静かで、落ち着いた声。少し擦れた、ハスキーボイス。一の耳から体へと、深深と染み渡っていく。
「……オンリーワンの人ですか?」
ハッとして、一が面を上げた。声の持ち主は、一よりも背の高い人物なので、自然、一が見上げる形になる。
「えっと、あ、はい。北駒から迎えに来ました」
「ああ、良かった」
そう言って、立花が目を細めた。
「……オンリーワンの一一です、その、よろしく」
一が自分より年下の高校生に敬語を使う。気圧されていた。初対面だから、そんな理由ではない。使わざるを得なかった。
「……色々と聞いているとは思いますが、ボクが立花の六代目、立花真です。今日から勤務外としてお世話になります」
立花がそう言って、一に頭を深く下げる。
「うわ、そんな……。頭なんて下げないでくださいよ」
一は妙にこそばゆくなった。後輩、年下の人間に頭を下げられる事も今までに経験してきたが、早田の様な一般人でなく、確実に自分よりも強い力を持っている人間に頭を下げられるなんて、一には中々に耐え難い事であった。
すっ、と立花の頭が上がる。
「そうですか。それでは、あなたも畏まる必要は無いと思うんですけれど」
「はい? いや、けど俺は勤務外ですけど、殆ど一般だし、立花さんは、その、全然俺何かとは比べようがないくらい強いって聞いてますし」
一は滅茶苦茶卑屈だった。
そんな一を立花が沈痛な面持ちで見つめる。
意外だった。一が話に聞いていたのと、自分で想像していた「立花」の印象とは全く違う。なぜ、君がそんな顔をするの? 一はそう尋ねたくなったが、それより先に立花が申し訳無さそうに口を開いた。
「立花が怖いですか?」
「……いや、そんな事はないです」
正直、一は核心を突かれた、意表を突かれたと思う。心臓の鼓動が早くなる。答えた声は、少し乾いていた。
「では、ボクに敬語を使うのはやめて下さい」
「ンな事言われても」
立花を何の気なしに一は見る。
「…………」
悲しそうな顔だった。
一はその顔を見て、溜め息を漏らしたくなる。溜め息を吐く代わりに頭を掻く。困ったときの一の癖になりつつあった。
「じゃあ」
「はい、何でしょうか?」
「立花さんも敬語はやめてくれない、かな? タメ口の方が俺も気が楽なんですけど」
「それは出来ません。年長者の方へは、相応の敬意を払って然るべきです。タメ口などと、そんな馬鹿な……」
厳しい表情で、立花は一を睨むように見つめる。
「なら、俺も敬語を使い続けますよ」
意地の悪い言い方だな、と一が自戒した。それでも、頭を下げられるのも、敬語を使われるのも、一にとっては気持ちの悪いものだった。少しぐらい嫌われたって構わない。自分が敬意を払われるなんて、耐え難いものだった。
「タメ口、ですか」
切れ長の瞳をさ迷わせ、困ったような表情を立花は浮かべる。
余程厳格な家庭で育ったのだろうか、九州最強退治屋立花。やはり、まともでない教育風景がそこにはあったのだろうか、などと一は勝手に想像を膨らませていく。
「無理なら別に良いんですけどね」
舐めきった敬語こそ使ってはいるが、この場は既に一が主導権を握っていた。最初に感じたプレッシャーは何だったのだろうか、戸惑いながらの、一の仮初に近い主導権ではあったのだが。
「いえ、無理と言うわけでは……。そもそもタメ口、と言うものをあまり使った事が無いんです」
「ふーん。友達とかにも、そんな感じだったんですか?」
その言葉、友達と言う言葉に立花の肩が小さく震えた。
「ボクには、友達がいませんでした。周りは親戚の人たちや、立花を護衛する外の人たちばかりで……」
「……えっと、まさか親にも?」
「ボクが言うのもおかしな話ですが、立花は厳格な家です。両親は勿論、立花に出入りするお客さんにも敬意を払うよう言われていました」
だから、と続けて、立花が泣きそうな顔になる。実際、何を思ったのか涙すら浮かべてもいた。
「……おいおい」
一は呆然となる。
「ボ、ボクには友達なんて作れなかったんです。だからタメ口なんて……!」
「ええっ、泣き過ぎだろ! 分かったよごめん俺が意地悪しすぎたって!」
立花は涙を堪えるが、それでも溢れ出る液体は止めようが無かった。コンクリートにぽたぽた、と歪な染みを作っていく。
「ごっ、ごめん、ごめんね……」
「いや、良いから。落ち着くまでそうしてなよ」
一はハンカチの一枚すら持っていない事を悔やんだ。
鼻を啜る音がやたら耳障りに聞こえる。一は頭を掻きながら、助けを求めるように周りを見た。
立花真、一一。
制服を着た女の子と、大学生の男。男の横で、女が泣いている。駅周辺を歩く人々は一たちから、今度は別の意味で距離を取りつつあった。
「あ」
一が思わず声を出す。
手招きをする細長い女が見えた。春風だった。焦った様子でもなかったが、早く来いと急かしている様子。
だが、一は立花を放っておくことが躊躇われた。春風から目線を外し、もう一度辺りをよく見る。木製のベンチ。都合の良いことに、今は誰もそこに座っていなかった。
「立花さん」
「ふ、あ、あっ、何ですか?」
一はベンチを指差し、
「あそこで座って待っててくれないかな? 温かい飲み物でも買ってくるよ」
自分でも笑ってしまいそうになるくらい、出来るだけ優しい声音を作った。
「急に呼ぶんじゃねえよ」
「一一、あれは本当に立花なのか? 威厳も覇気も感じられんぞ」
自販機へと向かう一に歩幅を合わせて、春風がゆっくりと歩く。
「自分で立花って言ってたし、間違いないだろ。何か、イメージと違うけど」
「あんな事で泣き出すとはな。とんだ立花だ」
「……聞こえてたの?」
「当然だ。私は情報部だぞ」
一の血の気が引いていく。
「あんなに離れてたのに……。本当厄介だなお前」
「ふん、その厄介者に貴様は助けられたのだぞ、一一」
「結果的にはだろうが」
「会話の雲行きが怪しくなっていたから、私がお前を呼んだんだ。結果『的』にではない。結果だ、ありがたく思え」
相変わらずの無感情な声で春風は謳った。
その発言に、一が目を丸くする。
「え、何だ。そうだったのか。まあ、助かったよ」
「それは良い。で、六代目はどうなんだ? 駒台をどうしたいんだ?」
「分からないっつーの。人畜無害な、唯の泣き虫っぽいよなあ、あの子」
自動販売機まで辿り着いた一は、ポケットから財布を探った。
「分からんぞ。演技かもしれん」
「演技できるタイプじゃ無さそうだけどな。そもそも、そんな理由ないだろ。立花だからって警戒しすぎじゃないのか?」
「一一、貴様は甘いな。情報部は立花のオンリーワン進出について一つの情報を握っているんだ。警戒に値すべき情報をな」
春風は誇るように胸を張る。
「なあ、高校生って無糖のコーヒー飲めんのかな?」
「……よりけりだろう。私は好きだがな。で、だ。立花を警戒すべき対象にたらしめる情報を我々は掴んだ」
「ココアで良いや」
一は数枚の小銭を自販機に投入する。ボタンを押すと、がたん、がたん、がたん、と間を空けて三回音が鳴った。取り出した三つの缶を地面に置いて、釣銭を財布に戻す。右手に二つ、左手に缶を一つ持ち、左手を春風に突き出した。
「……何のつもりだ?」
差し出された缶を、次に一を睨んで、春風が不機嫌そうに口を開く。
「心遣いだよ。寒い中、しっかり約束を守ってくれてるんだ。そんなお前に温かい飲み物を差し入れするぐらい当然の事じゃないか」
「私は無糖が好みだと言ったろう」
春風は缶を受け取り、タブを開け、嫌そうに匂いを嗅いだ。
「あれ、甘いもの全般が好きなんじゃなかったっけ?」
「甘いのは嫌いだ。記憶力に乏しいようだな、一一」
「いや、記憶力には自信があるぜ」
「……まあ良い。違う話だ。一一、知りたくないのか?」
春風はそう言ってから、ココアに口を付ける。鉄面皮のような、春風の無表情が崩れた。
「甘い……」
一は笑いを噛み殺すのに苦心する。
「ああ、情報ね。別に要らない、必要無さそうだからな」
「それは残念だ」
「お前、何でも良いから喋りたいだけだろ」
「かも知れん。さ、そろそろ戻ったらどうだ?」
春風が立花の座っているベンチを指差した。
「そうするよ。どうする、お前はもう帰るか? 用事があるって言ってなかったっけ?」
「言った。知っていて貴様は私を連れてこさせたんだぞ、構わん、最後まで見届けてやるさ」
「んな大層な……」
一がベンチに戻ると、既に立花は泣き止んでいた。
「落ち着いたみたいだね、はい」
「わあ、ココアだ」
お菓子を前にした子供のように目を輝かせながら、立花が缶を受け取る。さっきまでの、触れたら切れそうな雰囲気はもうどこにも無い。
立花がすっかり元気になったようで一は安堵した。何か気分転換になるような話題を一は探してみる。学校の事、友達の事、家族の事。一番手堅い話題が彼女にとって鬼門である事に、何となく気付き始めていたので、更に差しさわりのない、簡単な話題。
「駒台には電車で来たんだよね?」
「はい。電車って意外と時間が掛かるものですね、もっと早く着くと思ってました」
「九州からなら、まあ、掛かるよね。荷物とか持って無さそうだけど、こっちに来て家や学校はどうするつもり?」
一は立花のあまりに身軽すぎる格好を見ながら言った。
立花の荷物は、ベンチに携えた竹刀袋一つ。後は身一つと言った様子だった。
「勤務外専用のマンションが借りれると聞きましたので、とりあえずはそこに。荷物は実家から送られて来るそうです。学校は、北校へ行く手筈になっています」
「へえ、流石にしっかりしてるな」
一はなるほどと納得する。
「学校へは生まれて初めて行くので、楽しみなんです」
「……へえ」
一はスルーする事にした。
「あなたは学生さん、なんですか?」
「俺? うん、今大学生。それと、呼ぶときは名前か苗字で良いよ」
「あ、ああ、すみません。人と話すのに不慣れなもので」
「うーん、俺も敬語使うの止めたんだから、立花さんももっとこう、適当な感じに喋って欲しいんだけどなあ」
「す、すみません」
立花は謝りながら頭を下げる。
それをやめてくれ、と、一はそう思っているのだったが。
「敬語なんて使わなくて良かった人はいなかったの?」
「あ、え、と。あ、人では無いんですけど、すごく仲の良い子はいました。その子と同じ風に喋らせてくれるなら、敬語を使わなくても良いかもしれません」
「……ん?」
「チヨって飼ってた犬がいたんですけど、その子と遊ぶときは敬語なんて使いませんでした」
「あ、そう、なんだ……。まあ、任せるよ」
一が遠い目をして呟いた。
「あ、あの、それでボクはあなたの事をなんと呼べば良いんでしょうか?」
「何でも良いよ。にのまえ、でも、はじめ、でも。上でも下でも呼び捨てでも。堅苦しくなければ俺は気にしないよ」
「そ、それじゃ、よ、よろしくお願いします、ににょまえさん」
「……………………」
立花の頬が紅潮していく。顔全体に赤みを帯びた立花が、ベンチから立ち上がって「すいません」と頭を下げて連呼する。
「あ、別に良いよ。ほら俺の名前って珍しいしさ」
「にのみゃえさんは優しいですね」
「……そうかな」
「ご、ごごごごめんなさい! ボ、ボク、あんまり人の名前を呼んだ事なくて!」
誰が抜き身の刀で、誰と視線を合わせたら殺される。誰が誰に気圧されていたのか、もう誰にも分からない。
「にのまえ、って言いづらいよね。下の名前で良いよ」
「う、うん。じゃ、じゃあ、はじめ君で良いかな?」
窺うような立花の視線。それを受けて一は下の名前にナ行が入っていなくて良かった、と心底親に感謝した。
「良い感じじゃん。これから一緒に働く仲間なんだし、そんぐらいでなきゃな。よろしく、立花さん」
「う、うん!」
嬉しそうに、何度も立花が頷く。
何となく。本当に幻でしかなかったのだが、一には立花から犬の尻尾が見えた気がした。ぶんぶん、と。勢いよく振られる小動物の尻尾が。
立花がココアを飲み干したのを確認して、「それじゃあ」と、一がベンチから立ち上がる。
「そろそろ店まで行こうか。十一時から面接だけど、早いに越した事は無いからさ」
牛歩戦術を用いた一が、時間の大切さを口にした。
一の言葉に頷いた立花もベンチから立ち上がり、竹刀袋を手にする。
「コンビニまでは遠いのかな?」
「いや、十分も歩けば着くよ」
ベンチに座った数分間で、すっかりタメ口も板についたものだ。一は素直に感心する。そして嬉しくもあった。
「あ、ちょっと待ってて。缶を捨ててくるよ」
「え、そんな悪いよ。ボクが捨ててくる!」
「あー、良いって良いって。店長から、立花さんは丁重に扱えってお達しが出てるんだよ。気にしないで、ちょっとだけ待っててくれないかな?」
「う、うん。はじめ君がそんなに言うなら」
「ん、ありがと」
「?」
缶を受け取る一を、不思議そうな面持ちで立花が眺める。
気にせず、一はベンチから見えない位置にある自動販売機までゆっくりと歩いていく。丁度、立花の位置から一が見えなくなったところで、春風が物陰から現れた。
「立花の六代目か。まるで犬だな」
「……良い耳持ってんな」
「だが使い勝手は悪い。要らぬ事も入ってくるからな」
春風が自身の耳を指で示す。
「ふん、情報部の掴んだネタとは、いまいち違うようだ」
「へえ、この際だ。聞くから手短に話してくれよ」
「立花はお家復興の為にやってくる。そう我々は聞かされた」
「……もうちょい詳しく」
「手短にと言ったろう。仕方ない、話してやる」
春風は少しばかり表情を緩ませた。本当に喋るのが楽しいのだろう。
「没落した立花は、オンリーワンの勤務外となり、ソレを倒して名を上げることで財産と知名度を得ようとしている。これは少し頭を働かせれば誰にでも分かる話だ、そうだろう一一?」
そして春風は、話の途中で事あるごとに聞き手の意見を求めたがる。一が適当に頷いたのにも満足して、
「そして最大の目的が立花の婿探しだ。立花家は代々女が家督を握っていたらしい。女が実権も力も、何もかも思いのままに使っていたらしいな。だが、女も男がいなければ子を産めん」
春風は朗々と述べ上げる。
「最近はそういう事も無いけどな。人工授精ってあるじゃん。いやあ、このまま時代が進めば男ってこの世に必要なのかな、とか考えちゃうよな本当に」
本当に。
「……一一、貴様は私にとって不必要な存在だがな。立花は婿となる男には相当うるさいぞ。九州最強の退治屋の、表向きは長となる男を選ぶんだ。九州からはある程度離れている、事情に疎い近畿地方を狩場に決めたんだろうな」
「狩場って、単なる婿探しだろうが」
「果たしてそうかな」
「……情報部ならしっかり分かりやすく要点まとめて喋れよ」
「この話し方は情報部だからだ。ふん、そう簡単に機密を漏らすと思うのか、この私が」
「滅茶苦茶漏らしてんじゃん!」
春風がきょとんとした顔になる。
一は目の前の女が分からなくなってきた。
「……あの立花からは、何かを企んでいるような裏が見えないな」
「そりゃ、裏にしてるんなら俺らからは見えないだろ」
「一一、お前は表だがな、私は裏だ。裏が見えるんだ」
「そうかよ」
このままここにいれば、余計な話まで聞いてしまいそうだ。そう考えた一は、ゴミ箱に缶を投げ捨て、
「……もう帰るわ、色々とありがとな」
春風に背を向ける。
「そうか。少し話し足りないのだが、仕方ない」
「自販機にでも話しかけてろよ」
「……確かに。一一、貴様と話すよりは幾分かマシかも知れん」
「もう顔見せんじゃねえぞ」
「私の台詞だ」
一は数歩歩いて、ふと春風の方へ振り向いた。
当たり前のように、そこにはもう、誰もいなかった。
立花と合流した一は、来た道を十分も掛からずに、オンリーワン北駒台店へと戻ってきた。一が扉を開け、その後を不安げに立花が着いてくる形になる。フロアの壁に掛かった時計を見ると、まだ十一時前だった。
「ちょっとここで待ってようか」
「うん、分かったよ」
一は店長に、高校生が十時から面接に来ると聞かされている。アルバイトの面接中に、バックルームへ店員が入ってくると、面接者は緊張と言うか、ぎこちない感じになってしまうかもしれない。そう考えた一の、一なりの心遣いのつもりだった。
「はじめ君は、いつからここで働いてるの?」
「まだ一ヶ月ぐらいかな、俺も新人だよ」
「そうなんだ、じゃあボクと同じだね」
立花が嬉しそうに笑う。新人とは言っても、一にはコンビニ経験者の肩書きがあったのだが、一は黙っておく事にした。
無邪気に笑う立花を尻目に、一は何の気なしにデイリー商品の棚へと向かう。おにぎり、サンドイッチ。消費期限が短い類の商品なので、しっかりと陳列しなければ、廃棄が増える事になってしまうのだ。一応、今の時間は一の勤務時間だったので、商品の陳列に努める。案の定、早朝の三森は陳列を怠っていたようで、期日の古い物が棚の奥に眠っていた。渋い顔をしながら、それらを引っ張り出し、並び替えていく。
その様子をずっと見ていた立花が、
「これもお仕事の一つなの?」
気になって仕方が無いと言った風に、一へ話しかけた。
「一番簡単で、一番重要な仕事だよ。商品が汚く並んでたら、客の買う気も失せちゃうだろ? 日本人は綺麗なものが好きなんだよ。掃除は嫌いなくせにね」
「そうなんだ。ね、ね、ボクにも出来るかな?」
「大丈夫、俺にだって出来るんだから」
「そ、そんな事ないよ! はじめ君の手、凄く良いもの」
「手?」
一瞬、自分の何を立花が「良い」と言ったのか、一には分からなかった。だから、聞こえた言葉をそのまま聞き返す。
「うん、手。慣れてるって感じがして、良いと思ったんだ」
「……こんな事で俺の手が褒められるとは。俺なんかより、よっぽど凄い人はいるよ。マジシャンまがいのトランプ捌き出来る人とか、手から火が出る人とかね」
「え! そんな人いるの!? 良いなあ、見てみたいなあ。あ、あ、じゃなくてね、そういう人も凄いとは思うけど、はじめ君の手とはまた別と思うんだ。あなたの手は、何ていうか、ボクたちに近いっていうか、極めてる? は、言い過ぎかな、うん、熟練者の手というか、動きを見ていて、落ち着くっていうのかな……」
立花は言いたい事を頭の中で整理出来てないらしく、それでも身振り手振りを使って、誤魔化す様に話を続けた。
その話を聞いているうちに、一は何だか恥ずかしくなってくる。一は褒められる事に慣れていない。大体、今やった作業なんて、コンビニ店員ならば殆ど誰にだって出来る事だった。そんな当たり前な事を、立花は言葉足らずになりながらも、必死で褒めてくれる。「良い」と、言ってくれる。駅前で頭を下げられたときのような、むず痒い感覚が鮮明に蘇った。
「あ、いや、そんな事ないよ。立花さんだってすぐに慣れるさ」
「ボ、ボクにも? そうかなあ、あー、無理じゃないかな」
「簡単だよ。多分、一般の仕事は俺が教える事になるし、気楽に行こうよ」
「そうなの? そうなんだ、はじめ君が教えてくれるんだ。良かった、これで心配ないよ」
一は粗方商品を陳列しなおした棚を、少し距離を取って眺める。若干気になる箇所もあったが、気にし過ぎても仕方ない。ある程度満足した一はカウンターの中へ足を向けた。
やはり、その後ろを一の飼い犬よろしく立花が着いて来る。
「……ね、こういうのもボクたちがしなくちゃいけないの?」
立花が、ホットスナックと肉まんの什器を指差した。
「そうだよ。適当にレンジでチンしたり、そのままここに突っ込むだけで良いんだけどね」
一が什器を叩きながら苦笑する。
「そうなんだ? ボク、料理なんてした事ないから、ちょっと不安だよ」
「ふうん、けどさ、今日から一人暮らしじゃないの? ご飯とかは?」
立花の表情が、見る見るうちに悪くなっていく。非常に分かりやすい反応だった。
「あ、あああ、どうしよう……。お手伝いさんも荷物と一緒に届いてないかな……」
「……頑張りなよ」
「ね、ねえ、はじめ君? はじめ君って一人暮らし? もしかして料理とか出来る?」
「機会があれば教えてあげるよ」
「本当!? やった、ありがとう。はじめ君って良い人だなあ」
一は大人の対応で流したつもりだったのだが、こう、子供の対応で食いつかれてしまうと、自分がすっかり擦れてしまったのだなあ、と妙な感慨に耽ってしまう。
バックルームのドアが、静かに開かれた。現れたのは学ランを着た、背の高い少年。学ランの胸元に北校の校章が縫い付けられていたので、一には一目で彼が高校生だと分かった。その高校生は酷く憔悴しきった様子で、カウンターにいる一たちに気付かず溜め息を漏らす。
店長と一対一で面接だもんなあ。一は強くその少年に共感し、同情した。
「お疲れ様です」
一は、もしかしたら新しい同僚になるかもしれない、その少年に声を掛ける。
少年はハッと顔を上げ、背筋を張らせて姿勢を正した。
「お、お疲れ様です!」
高い背に、快活な高い声。少年は運動部にでも入っているのだろうか、挨拶の声はやけに気合の入ったものだった。
「……受かると良いね」
半分は嘘だった。
「ありがとうございます! 失礼します!」
爽やかに、礼儀正しく少年はもう一度、一に頭を下げ店を出て行く。
その姿が見えなくなるまで、一は背筋のしっかり伸びた少年を見送った。
「……今の子も、立花さんの仲間になるかもしれないね」
「う、うん。そうだね」
一は、何故か一の後ろに、隠れるようにして立つ立花へ声を掛ける。尤も、立花の方が一より身長が高いので、隠れるにしては意味の無い行為だったのだが。
立花は目を伏せたまま、心細げに、
「でも、何だか怖そうな人だったね」
そんな事を言った。
「そうかな? いまどきの高校生にしちゃ、珍しく良い子だったと思うけど」
「ボクもそう思うよ。けど、なんだか怖かった」
むしろ一は、ソレを退治する立花が人間を怖いと評する事に、恐怖を覚える。
「ん、まあ、気のせいじゃないかな。それより、次は立花さんの番だよ」
「う、うん。頑張る。で、でも、あのさはじめ君? 面接のとき、傍にいてくれない?」
立花と店長とを、一対一で面接なんてさせてしまったら、この泣き虫はどうなるのだろうか、と。一は考える。
「こういうのは最初が肝心なんだよ。さ、一人で頑張ろう。さっきの子も頑張ってたと思うよ」
「そんなあ……」
考えた結果、少しばかり楽しい事になりそうだ、と。一はそう判断した。
と言うか、一は自分が面接の場に居合わせたところで、立花に助け舟の一つも出せないだろうとも判断している。それならば、一緒に沈んでしまう頼りない泥舟を出すよりかは、立花が沈む光景を岸から眺めていた方が色々と楽しいし、何より立花の為になるだろう。
そこまで一が考えていたかどうかは知らないが、次に立花が一の元へと帰って来たときに、大量のティッシュペーパーが必要になった事だけは、それだけは確かであった。