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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
レッドキャップ
42/328

campus life,break time

 一一(にのまえ はじめ)は紛れも無く、正真正銘の大学生である。駒台大学に通う、ごく普通のありふれた大学生。ただ、卒業までに単位が足りないかもしれないだけの大学生。



「一、今日休みー?」

 糸原がこたつの中で足を伸ばす。手にはみかんと女性誌。

「バイトは無いですけど、学校に行きます」

 朝食代わりの菓子パンを頬張りながら、一がテレビに視線を向けた。天気図と、天気予報士が映っている。どうやら、今日は夜から駒台一帯に雨が降るらしい。

「えー? 何その設定、あんた大学生だったっけ?」

「……これでも三年目です」

「ふうん、三回生かあ。就職活動はどうなの?」

「その心配はいりません」

 一が立ち上がり、洗面台で頭髪を整える。

「へー、自信あんじゃん。それかもう決まったの? じゃあ将来安泰だね。ちゃんと私を養ってよん。どこ? どこに受かったの? 近く? 近くの会社? 良いトコなの、それともブラックって感じ?」

「その心配はいりません。一回生一年、二回生二年目。つまり俺は、今二回生です」

 だから心配はいりません、と一が真顔で言う。

「くそ学生ね」

「苦学生でも無いですし。そはいりません」

「そんじゃ頑張って勉強してきなさい。お姉さんはコンビニ昼からだかんね」

 言って、糸原は寝そべった。

 玄関に向かい、一は靴を履き、違和感に気付く。

「あれ。じゃあ糸原さん、何で起きてたんですか? 寝てれば良かったのに」

「ん。んー、生活リズムがあんたと似てきたのかしら」

 そうでしたか、と一は扉を開けた。

「それじゃ、留守番と戸締りお願いしますね」

 糸原は答えず、片手を上げて肯定の意を示す。一はそれに満足して、鍵は掛けずに扉を閉めた。



 駒台大学は、駒台山のすぐ近く。通称、駒坂を登っていった中腹に位置している。生徒数は一学年約千人。大学は一回から四回まであるので、大雑把に言えば四千人近くは駒台大学に在籍している事になる。車で通学するもの以外、つまり生徒の半分以上がこの長い駒坂を上ってきているのだ。特に目立った物も無い。ありふれた、どこにでもある大学。掃いて捨てられるぐらいの大学。



「寒い……」

 一は駒坂を上りながら呟く。坂を上れば上るほど、遮蔽物の無い道に寒風が容赦なく吹きすさぶ。見上げれば、同じように体を震わせながら上る学生。白い息を吐きながら、一はマフラーを買おうかな、なんて考えに耽った。大学生になってから買ったコート。一がちらりと視線をやると、袖の所が解れかかっているのが確認できる。白い息とともに、溜め息。

「苦学生、かな」

 肩に掛けた鞄の紐も頼りなく感じられた。今すぐにでも千切れてしまいそうなほど、細い紐。鞄を担ぎなおすと、一の肩に、中身の教科書やノートの重みがそのまま伝わる。


「先輩!」


 声より先に足音が聞こえた。軽快な足音だった。

 一は振り返って、苦笑する。

 小柄な女の子が走ってくるのが見えた。一は立ち止まり、坂道を物ともしない勢いで駆けてくる少女に微笑む。

 少女も一の笑顔を認め、微笑んだ。向日葵のような、太陽のような、自然な笑顔が輝く。

「先輩、お早う!」

「朝からうるさいよ」

 少女は一の隣に立つと、歯を覗かせてまた笑った。少女の肌は日に焼けている、健康的な黒さ。そのお陰で白い歯が余計に映えて見える。

「そんな事を言うな、先輩。せっかく可愛い後輩が挨拶しているのだぞ」

 一と少女の二人が並んで歩き出す。男性にしては小柄な体躯の一よりも、小さな体の色黒な少女。

 その少女の格好。少し茶色掛かったショートヘア。青いナイロンのパーカーの下に、白いインナーが覗いている。ショートパンツに、白いスニーカー。肩にはエナメルのバッグを掛けていた。活動的な、スポーティな装いであった。

「そうだね、可愛いよ早田(はやた)

「そうか、先輩にそう言われると照れるな」

 早田、と呼ばれた少女は顔を少し赤くしていた。本当に照れていた。

「……ええい、真っ直ぐな奴だな」

 一がそっぽを向く。言った一の方が恥ずかしかった。

「ところで先輩、今日は朝早いのだな」

 早田が一を見つめながら、無垢な瞳で問う。

「っていうか、学校来るの久しぶりかもしんない」

「先輩。先輩の事を来年は先輩と呼べなくなるかもしれないな」

「かもしんない。うわ、って事はお前と同学年になるのか……」

 憂鬱な表情を隠すことなく、一はぼやいた。

「私は構わないぞ。そうなったら語学の授業を一緒に受けようじゃないか」

「ヤだよ。俺英語しか分からないんだから。フランス語なんて良く取ったなお前」

「いや、部活に集中していたら、申し込みの締め切りを忘れていたのだ。残っていたのが仏語だった」

「ああ、フットサルか。良いねえ、一回生の分際で、弱小だったフットサル部を救ったエースになれるだなんてさあ。あーあ、俺も部活に入ってれば良かった」

「む? 今からでも遅くはないぞ。フットサル部はどうだ、部員一同歓迎するぞ」

 早田が何故か一に手を差し出した。握手を求めているようにも見える。

「……フットサルって女子しかいないじゃん」

「マネージャーとしての活躍を期待している」

 爽やかな、体育会系の笑顔を早田は一に向けた。

「それもアリかな」

「……やっぱり駄目だ」

 早田が手を引っ込める。

「何でだよ、良いじゃん。俺だって女子にベンチで囲まれて、練習終わって汗かいてる女の子にスポーツドリンクとかタオルを渡したいんだよ。ん、あ、良いなこれ。おい、俺入部するわ」

「それが気に食わない。先輩のそういうところを、私は見たくないのだ」

「何だよ、ぬか喜びさせんなよぅ。じゃあ文系のクラブに行くかな。楯列(たてなみ)ん所にするわ。楽そうだし」

「だ、駄目だ! もっと駄目だ、奴には近づくな!」

 酷く慌てた様子で、早田が縋るような視線を一に向けた。

「……奴って。一応、先輩だろ。何で楯列には先輩って付けないんだよ」

「私が先輩と呼ぶのは、先輩だけで良い」

 そう言って、早田はまたしても一に笑顔を向ける。

「う、畜生上目遣いをやめろ。それよか、ゼミで課題とか出てたか?」

 早田の笑顔から逃げるように、一が質問を変えた。

 一の意図には気付かず、早田は「ちょっと待って欲しい」と、鞄から携帯電話を取り出す。携帯の蓋を開け、たどたどしい手つきで早田は画面とにらめっこを始めた。

「……九十九(つくも)先生の事だから、多分無いとは思うけどな。っていうかこれからも出ない気がする。あの人授業中茶ぁしか飲んで無いじゃん」

「私はまだ一年も付き合いがないが、とみにそう思う」

「ん。じゃあ別に調べなくて良いよ」

「駄目だ。先輩に不確かな事は言えない。もう少しでメモ帳まで辿り着けるのだ」

 あっそ、と一はポケットに手を伸ばす。がしり、と。骨が軋むぐらいの勢いで、その手首を掴まれた。

「煙草も駄目だ。仮にも私はスポーツマンなのだ。でなくても、煙草と言うのは人体にとって百害あって一利なしの麻薬ではないか。先輩だけが煙に巻かれて体を蝕まれるのは構わないが、副流煙を垂れ流されては困る」

 スポーツ『マン』と言うところに一は突っ込もうとしたが、予想外に強い力で早田が握ってくるので、

「……痛いから離して」

 と、涙を浮かべながら早田から視線を反らした。

「む。煙草は止めると誓うか?」

「誓う誓う。癌で死んだじいちゃんに誓って煙草は止めるよ」

 ならば良い。満足げに呟いて、早田は一から手を離す。同じようなやり取りが、二ヶ月前にもあった事を一は思い出し、我知らず笑う。

「何がおかしいんだ、先輩? 奴が坂から転がっていくのでも見えたのか?」

「去年それは見たけど、案外面白くなかったよ。それより俺、笑ってたか?」

 一が自分の頬を触った。ああ、と。静かに納得する。

 顔が、歪んでいたから。

「ああ、笑っていたぞ。ラッキーだった」

「俺って笑うのが珍しいタイプだったっけ?」

「いや、先輩は無関心やクールを装ってはいるが隠しきれないタイプだ。表情のバリエーションには枚挙に暇が無いくらいだぞ」

「お前は何なんだ」

「私は先輩の可愛い後輩だ。うむ。さっきのような種類の笑顔は初見だった。私としたことが、心を奪われて写真を撮るのを忘れていたぞ」

 この野郎。一は内心毒づく。

「早田」

「どうした先輩? 手首が痛むのか? なら部室へ寄ってくれ、湿布があった筈だ。応急処置にはなるだろう」

「可愛いぞ、早紀(さき)



 駒台大学には、学生が講義を受ける為の教室が並ぶ、講義棟と呼ばれる建物が六つ。教員の私室兼研究室になるべき部屋がいくつも並ぶ、研究棟と呼ばれる建物が三つ存在する。そのうちの、研究棟一、九十九ゼミの教室。ドアを開けたすぐそこに、靴箱がある教室だった。つまり、この教室に入るためには靴を脱がなければならないと言う事である。

 理由は明確。九十九ゼミの床には、青々とした畳が敷かれているからである。十畳あるかないか、ぐらいの部屋。よもや、畳に土足で上がりこむ不心得者は日本人には居まい。と、信じたい。とは一の弁。

 畳の上には、ちゃぶ台が一つ置かれている。それ以外には、殆ど何も無かった。精精が、お茶の準備に必要な道具と、九十九教員の私物ぐらいだろうか。

 九十九ゼミに在籍する一たちは、そこにいた。一は何故か、お腹を抱えて畳に座し、ちゃぶ台に顔を埋めている。早田は一の横に陣取り、一を挟むように私物を置いていた。

「先輩、まだ痛むのか? 腹筋をもっと鍛えるべきだぞ」

「うっさい機械音痴のくせに。早田なんか嫌いだ、ちょっとからかったぐらいですぐ殴るし。今日はお前を昼ごはんに誘わない。楯列と二人で食う」

 その言葉に弾かれるように、早田は立ち上がる。

「駄目だ! そんな事になれば私は死んでしまう!」

「偉そうに言うな。俺が卒業したらどうすんだよ?」

「先輩が後一回留年すれば問題ない。一緒に卒業しよう」

 にこやかに早田が言った。そして一に向かって手を差し出す。 

「何だよこの手は?」

「手?」

 これだよ、と。言いながら一が早田の手を無遠慮に握った。瞬間、一の体が宙に浮く。浮いた体が、重力引力様々な物理法則に従って、

「いてえっ!」

 落ちる。

 鈍い音を立て、一が畳の上に突っ伏した。顔だけを何とか上げて、一はそんなこと(・・・・・)をした早田に怒鳴る。

「何するんだ馬鹿!」

 だが早田は毅然とした態度。

「いくら先輩と言えども、易々と私に触らないで貰いたい。確かに私は先輩に好意を抱いてはいるが、それとこれとはまた別の話だ。そうは思わないか先輩?」

「っていうか、お前が手を出してきたんじゃねえかよ」

「……そうだったか?」

 やがて、ああ、と早田が頷く。

「すまない。どうやら握手を求めるのが癖になっていたらしい。無意識の内に手を差し出していたようだ」

「先生早く来てくれ! 無意識の内に殺されちゃう!」


「待たせたね、みんな」


 一の呼び声に答えるかのように、扉が開かれた。

 女性か、と思わせるような。畳の敷かれた、和室に似合わない人物が九十九ゼミに現れた。

姿を現したのは、青年。まず、目が行くのが髪の色。輝かしいばかりの金色。そして、透き通るような白い肌。だが、彼の肌を見る者に不健康なイメージは抱かせない。瞳はダークブラウン。日本人に多く見られるブラウンに属する目の色。

「あれ、先生はまだ来ていないのかい?」

 流暢な日本語。彼は紛れも無く日本人だった。それにしては、日本人離れした、整った顔立ちだった。目、鼻、口。顔に付いている全てのパーツが美しかった(・・・・・)。顔だけではない。彼の肉体全てが、どこにどう付ければ美しく見えるのか、そう計算されているかのように、彼は完璧に美形であった。彼を初めて目にする人に、彼が雑誌のモデルか、海外の俳優と言っても、信じない者はいないだろうと、そう思わせるであろう黄金比のスタイル。

「やあ、良い朝だね」

 綺麗な声だった。高すぎず低すぎず、中性的な容姿と声。

「ああ、お早う楯列」

 一は臆することなく、挨拶を交わす。

「うん」

 楯列と呼ばれた青年は、屈託の無い笑みを浮かべて、一の隣に座った。

 早田の私物を蹴っ飛ばして。


 ぎりり、と早田が歯軋り。


「おい楯列。私の鞄を蹴るな、何度も言っているだろう。そこは私の場所だぞ」

 早田が憎憎しげに楯列を見据える。先ほどまで一に向けていた、太陽のような笑顔は無かった。

「ん? そこと言うのは一君の隣かい? ははは、一年遅かったね。ここは僕の指定席と決まっているんだよ」

 楯列は優雅に笑い、さり気なく一の肩に手を回す。

「や、やめろ! 先輩に気安く触るな!」

「何怒ってんだよ?」

 一が呆れた風に早田を見た。

「せ、先輩は騙されているんだ。そいつは先輩を狙っているのだぞ、危険だ。離れた方が良い」

知ってるよ(・・・・・)

「知っていながらそんな奴を傍に置いていると言うのか!」

「はははは、僕と一君の関係に周回遅れ(・・・・)が口を出さないで貰いたい。君は指を銜えて見ていたまえ。僕が一君の――」

 最後の辺りは囁く様に言って、楯列が指を伸ばした。

「下半身には触るんじゃねえよ!」

 楯列の伸ばした人差し指は、一に届く前に掴まれる。

「なっ、一君が僕を拒むなんて……」

 驚愕の表情を顔に貼り付け、楯列がよろめいた。

「ふっ、先輩に相応しいのは私だ。そこを退け楯列」

「一君、今日のお昼はどこで食べるんだい?」

「寒いしここで食おうぜ」

「良いだろう、立て楯列! 私が直々に制裁を加えてやる」

「ははは、僕は暴力に訴えかける野蛮な嗜みはしない主義なんだ。座りたまえ早田君、文化人らしく話し合おうじゃないか」

「誰が文化人かっ、先輩も何とか言ってくれ!」

 早田が焦れて立ち上がる。拳を握って楯列に掴みかかろうとした瞬間だった。


「授業を始める」


 静かだが、よく通るしゃがれた声。一たちの対面、甚平を着流す禿頭の老人が座った。既に五十か、六十は重ねている齢。雰囲気は厳かで、彼が場にいるだけで緊張がそこに張り詰める。

 楯列と一は佇まいを正し、その老人と向き合った。

 先ほどまでは、この部屋にいなかった登場人物。扉を開ける音も、気配もさせずに入ってきた人物。だが、一たちは別段驚いた様子も戸惑った素振りも見せない。一たちの属する九十九ゼミ、その長、九十九敬太郎(つくも けいたろう)。このような立ち居振る舞いが彼の常だった。

「早田、座れ」

 老人の瞳が早田を捉える。捕らえる。

 無言で早田が畳に座った。

「九十九先生、おはようございます」

 一の挨拶に、九十九と呼ばれた老人が無言で頷く。

「一、久しいな。一ヶ月ぶりか?」

 そして、しゃがれた声で一に尋ねた。

 九十九の雰囲気に、一は少し気圧されたが、「そうですね」と小さな声で返す。

「これ以上欠席すると単位を落とすぞ。気をつけなさい」

 一は短く返事をし、九十九の次の言葉を待つ。

 九十九はおもむろに、ちゃぶ台に置いておった湯飲みを手に取った。

「それでは、授業を始める」



 駒台大学では、一回生からゼミに属さねばならない仕組み、決まりがあった。必修である。これの単位を落とすと即座に留年してしまうので、どんな生徒でもある程度はゼミに顔を出すのが普通であった。

 勿論、一も例外ではない。そして一が属するのは九十九ゼミ。大学の教員である、九十九敬太郎が率いる、少数精鋭をモットーとする演習クラスだった。

 少数精鋭。その理由は、九十九が何よりも、誰よりも「静」を好むためである。生徒数が多ければ多いほど、自然「動」が生まれる。そのため九十九は、各学年から一人ずつ――あるいは一人の生徒も取らない学年すら存在する――吟味に吟味を重ね、面接をして選びに選び抜いた生徒を自身のゼミに招く。そんなスタイルを貫いていた。

 所属する生徒は、一回生から早田早紀(はやた さき)。二回生から一一(にのまえ はじめ)。三回生から楯列衛(たてなみ まもる)。四回生に該当者なし。教員一名。生徒三名。合計四名からなるゼミ。授業内容は至ってシンプルなもので、授業の最初に九十九がテーマを提示し、それに関して生徒が自分の考えを原稿用紙に感想文、もしくはレポートの形をとって書く。それだけだった。用紙の枚数も、文字数も指定は無い。どんなテーマであれ、たった一言「あ」と書くだけでも九十九は満足してレポートを受け取る。テーマも多種多様だった。捕鯨問題、経済問題と言った核心の掴みづらい難解なものから、パンダと言った簡単なのか何なのか分からないような物まで、九十九はテーマにするのだった。

 授業が始まって三十分。九十九ゼミには、紙と、筆記具がこすれ合う音。時折九十九がお茶を啜る音しか聞こえてこなかった。

 今回九十九が出したテーマは、「学食の値段」について。一たちは慣れているのか、筆を止めることなく書き続ける。授業が終わる、九十分が経つのもあっという間だった。



「一君一君、ほら口開けてあーん」

「早田、午後からは授業あんの?」

「いや、今日は昼までだ。部活に行こうと思う」

 九十九ゼミ生には、教室の鍵が貸与される。空いた時間、一たちのように食事や、自習活動の為に教室はゼミ生の為に開放されていた。

「しかし、九十九先生のゼミで良かった。冬は学食も混む。こうしてのんびりと先輩と二人きりで食事出来る特典があったとはな。厳しい倍率を勝ち抜いた甲斐もあると言う物だ」

「早田君。君の視力は悪かったのかい?」

「え、早田って目ぇ悪かったっけ」

「私の視力は七だ。私の視力が悪いと言うならば、地球上に住む殆どの生物の視力が悪い事になるな」

 早田は淡々と言って、アルミホイルに包まれたおにぎりに手を伸ばした。

「嘘付け。七ってマサイ族より上じゃねえか。あいつらでも七はねえだろ」

 一は菓子パンの袋を開けながら、早田を馬鹿にしたように笑う。

「皮肉も通じないとはね。体育会系は苦手だよ。ところで一君。一君の時の倍率はどれくらいだったんだい? ああ、ちなみに僕のときは、倍率六十倍だったよ」

 楯列が弁当箱のおかずを突きながら一に顔を向けた。

「俺? 俺は分かんないな。倍率とか関係なしに何か一発で通ったけど」

「流石先輩だ」と、早田が自分の祝い事のように、嬉しそうに目を細めて呟く。

「へえ、僕が見込んだ男なだけはあるね。あの九十九先生に、そんな簡単に選ばれるだなんて」

 楯列も嬉しそうに笑みを零し、一に箸を向けた。一はその箸に刺さった春巻きを口にし、咀嚼。

「私と君で、合わせば百だ。とか言われて受かった」

 嚥下して、一は事も無げにそんな事を口にする。

「うむ。流石先輩だ。名前の時点で常人をも越えていたわけだな」

「一と九十九で百。ははは、先生にはユーモアもちゃんと備わっていたようだね」

「別にこのゼミじゃなくても良かったんだけどな俺は。もっと人の多い所とか、女の子の多い所が良かったなーとか最近思ってきた」

 一は菓子パンの袋をくしゃくしゃにして、鞄に詰めた。九十九ゼミの教室にはゴミ箱が存在しない。

「ん。どうしたんだ?」

 問われた早田と楯列は、少し顔色が悪かった。

「そんな、先輩が他のゼミに行くだなんて。だ、駄目だ! 先輩が他の女の毒牙に掛かってしまう!」

「あああああ、一君が僕に飽きたんだー!」

「冗談だよ、うるさいな」

 半分は、とは言わずに、一はその言葉を噛み殺す事にする。



 一はその後、早田、楯列とは別れ、大教室で三時限、四時限を受けて家路に着いた。大学での、いつも通りの一の行動。いつも通りの、何事も起きない、何も変わらない、普通の生活。家を出て。坂道を上って。友人と話して。講義を受けて。煙草を吸って。坂道を下って。家に入る。

 いつも通りの。

 一はオンリーワンでアルバイトしてからでも、勤務外になってからでも、ここだけは、大学での自分だけは変わらないと。大学では平和に過ごせると、そう信じていた。何の確証も無く、子供みたいに信じきっていた。

 ソレは、いつ、どこで、現れるかもしれないのに。ソレは、いつでも、どこでも、現れるのに。

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[良い点] ここま楽しく読ませてもらってます、気になる点があったので質問させて貰います [気になる点] 6話と42話とで主人公の言ってる事が違ってるように思えたので... 「一、ここに来てからどれ位…
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