影と蛇と風
一は目を瞑り、思い出す。
蛇に囲まれながら、アテナの言葉を思い出す。自分に力を授けた、女神の言葉を脳内から引き出す。
「アイギスを使うには、条件があるわ」
一つは、所持者が声を出せる状態である事。
一つは、視界が良好である事。
一つは、力を行使する相手の名前を知っている事。
「細かい条件は他にもあるんだけれど、時間が無いから、ね。それに、いずれわかるわ」
もっと、思い出す。記憶の奥底に辿り着こうと、もがく。
「けど、何よりも大切なのはね、貴方が穢れていないって事よ。分かる?」
一は心の中で頷く。
「そして、アイギスを他の誰にも触らせてはいけないわ」
アイギスを所持する条件。それは、穢れていない事。穢れない事。
心も、体も。
「穢れた者が触れれば、アイギスは機嫌を損ねるわ」
一の何気ない問いに、くすり、とアテナは笑う。
「どうなるのかって?」
どうなるのかって。
ああ、と一はそこで、眼を開けた。
――こうなるのか。
動けない。動けない。動けない。動かない。
一も、春風も、ジェーンも。唯一、この場で動けるのは『影』だけだが、その影も、異常な事態に恐れたのか動こうとしない。
「くそっ、一一!」
春風は、先ほどから只管に喚いている。蛇に巻き付かれた腕を必死に動かそうと、懸命に力を込めていた。
「……あんた」
そんな春風に、一が声を掛ける。
「っ! 貴様、何をした?」
「俺は何もしてない。何かしたのは、あんただよ」
「一一、貴様何を言っている?」
ふう、と一が息を吐いた。
「あんた、処女か?」
ゆっくりと、一が宣言する。
単純な驚きへと表情を変えた春風の、息を呑む音。
「貴様っ、こんな時に何をっ」
「こんな時だからだよ。良いから答えろよ。さもないと――」
一の肌に冷たい感触が走る。背中に、腕に、腰に、首に。巻き付かれる様な、否。一は今、確かに巻き付かれている。蛇に、蛇に、蛇に、そして蛇姫に。
「――俺の蛇姫に絞め殺されるぜ」
そう言って、一は薄く笑った。
瞬間、春風の腕が強く締まった。絞められた。春風の腕に絡まった蛇が、自分の体ごと引き千切ってしまいそうなほど、強く力を込める。
「あ、ああっ」
信じられない。そう言った風に、春風は右腕を見た。春風の目には、何も映らない。視界には、右腕しか入らない。蛇なんていない。
「答えろ、ハルカゼウララ」
「ふ、ふざけるなっ! 一一、貴様は下種だ!」
「ふざけてんのはあんただろうが。いらねぇ事ばっかりペラペラ喋りやがって。良いから聞けよ、そして答えてくれ。じゃないと、そろそろ俺の命にも関わるんだ」
一の首が、絞まる。絞められる。ゆっくりと、真綿で首を絞めるように。細く、白く、長く、冷たい指。まるで、それは蛇。
一の首の色が、徐々に赤く、そして青く、そして紫に染まっていく。
「……俺が、止めるから……。それには、状況確認が必要なんだ」
「何の確認だっ!」
「……このまま、全員死ぬつもりか?」
一と春風を襲う蛇。そして、今は沈黙を守っている影も、蛇が消えればジェーンを襲い、倒れた二人を襲う事は自明の理であった。
何かを諦めたかのように、春風が唇を強く噛んだ。血が、滲む。春風の口内を、赤い液体が。春風の舌を、鉄の味が支配していく。歯列を、赤く染め上げていく。
やがて、
「私は、処女じゃない」
凛とした声で、春風が告げた。
――やっぱりか。
アイギスは、穢れたモノに触れられると機嫌を損ねる、とアテナは言っていた。
一は確かに聞いていた。どうなるかとは、聞いていなかったが。そして今、ハッキリと理解する。
こうなるのか、と。
アイギス単体の力では、一が願った相手の何かを止める事は出来ない。あくまで、アイギスは魔を祓い、災厄を退け、物理攻撃から所持者を守ることしか出来ない。
しかし、盾としては、それで充分なのだ。充分すぎるほどに、充分すぎる。
アイギスの盾。ギリシャ最強の盾。魔を払い、災厄を退け、所持者の身を守る。
それだけでは足りない。それだけで、最強と呼べるのだろうか。
呼べなかった。少なくとも、神々は、女神は、そうは思わなかった。だからこその、メドゥーサ。見た物を石に変える力を持ち、毒蛇の髪を持つ女。怪物。彼女の首を英雄ペルセウスが切り落とし、アテナに献上し、アイギスに首をはめ込んだ。見た物を石に変える力を持つモノを、魔を払い、災厄を退け、所持者の身を守る盾にはめ込んだのだ。
アイギスは、新たな力を得た。
そして、名実ともに、アイギスは最強と呼ばれるようになった。メドゥーサを、神代の怪物を、稀代の毒蛇を、獅子身中の虫を。アイギスは蛇姫を内に飼ったまま、最強と言われた。
メドゥーサを飼っているから、最強と言われた。
唐突だが、首を切り落とされても意識を保てる生物などいるのだろうか。
この世に、そんな人外が存在するのだろうか。
「嫉妬させたんだよ、あんたは」
一は冷ややかな声で春風に告げた。
「……ぐっ、あっ、だ、誰を?」
「可哀想な独身女だよ。んじゃ、あんたの名前を教えてくれ。蛇を退かせるから」
「蛇、だと? 一一、気でも触れているんじゃないだろうな?」
「失礼な奴だな」
それより名前、と一が春風を急かす。
蛇の締め付けに堪えながら、春風が「ハルカゼウララ」と何とか一息で告げた。
「違う。それはもう知ってる。字は? ハルカゼウララってのは、どう書くんだ?」
「な、何を?」
「早くしろよ!」
一が声を荒げる。
「は、春の風だ。季節の春、春に吹く風。麗。麗かにの、うららか。春に吹く、麗かな風だ」
くっ、と喉の奥で一が笑った。余りにも、綺麗過ぎたから。
春風は、端から用意されていた答えを、謳うように、歌うように言った。
「勿体無い」
呟いて、一は背中に圧し掛かっている人物に意識を集中させる。
「春風麗ね、あっそ畜生、良い名前だな」
一の頭の中で、組み立てられていく文字。
春、風、麗。
ハルカゼウララ。
はるかぜうらら。
はるかぜ、うらら。
春風麗。
理解する。一は、彼女の名前を字と音で今、理解した。
その瞬間、
世界が壊れた気がした。
世界が揺れた気がした。
世界が割れた気がした。
世界の割れる音を聞いた。
世界の揺れる場面を見た。
世界の壊れる時を感じた。
思わず目を瞑り、一は小さく呻く。
目を閉じればそこは、白い世界だった。
白い世界の中、白い女が立っている。一はその女を見たことが無かったが、知っている。そんな気がした。
声を掛けるのも憚られるほど、女は世界と同化していた。
どうかしていた。一には女が世界そのものに見えた。
そして一は、また一つ理解した。
一は目を開ける。暗い世界だった。戻ってこれた、と。とりあえずはひとり安心する。
まず一の背中から重みが消えた。立ち退いた。丁度、成人している女一人分くらいの重量が、だ。すると、今度は春風の右腕から蛇が一斉に退いて行く。蛇たちは春風に巻きつくのをやめ、体に登るのを中断し、呪縛を解く。解いていく。
「はっ……!」
がくん、と、春風が右腕を下ろし、肩で息をしだした。右腕は、ボディスーツのせいで肌がどうなっているかは分からない。恐らくは、一の首と同じく紫に。下手をすれば、血液が凝固して、どす黒く変色しているかもしれない。
「はっ、はあ、はっ。……一一、貴様どういうつもりだ?」
アイギスを手放し、春風が一を睨んだ。
「意味が分からないんだけど」
ズボンに付着した土埃を払いながら、一が立ち上がる。いつの間にか、蛇の群れも、一の背後にいたモノも消えていた。
「……一一、なぜ私を助けた?」
「助けた?」
「今の行動を、それ以外にどう表現するのだ貴様は」
春風が恨めしげに一を睨む。
「俺はあんたをただで助けるつもりは無いよ」
一がしれっと、そんな事を言った。
「ふん。金か? 女か? 勤務外の地位向上でも要求するつもりか? 無駄だぞ、私はあくまで情報部。情報部でしか無いんだ」
「違うよ。いや、金は欲しいけど。ん、そうだな、俺が欲しいのは命だよ」
「な、ななな何だ、そういう事は先に言ってくれよ」
そう言うと、情報部の田村は、キーボードを軽快に叩き出した。
「じ、じじじ実はさ、僕の自作のデータベースには膨大で甚大で広大な量のソレに関するデータが詰まっているのさ。でも、人間の頭の中には詰め込みきれないからね、仕方ないけど不本意ながらこうしてパソコンの中に入れてるってわけさ。で、何が聞きたいんだったっけ? えーと……?」
三森が田村の座っている椅子を蹴飛ばす。
田村は短く悲鳴を上げた。
「影に触られた人間が、どれくらいで死ぬかって聞いてんだよ」
「あ、あああ、ああ。そうだったね、えーと、影、幻、悪鬼に幽鬼。影、影影影」
ぶつぶつと呟きながら、田村がモニターと睨めっこする。
「……ねえ、こいつ大丈夫なの?」
「知るか。私に聞くンじゃねぇ」
やがて、「お」と、田村が声を上げた。モニターに直接触れないように気をつけながら、田村がそこを指差す。
「ほら、見てみなよ。ここだよ、ここほらほら見えるかい?」
「見えねーから退けっ」
「うわっ、くそうっだから勤務外は嫌いなんだ! 口より先に手を出す! 下等劣等極まりないよ!」
「どれどれ……」
床に這い蹲る田村を無視して、三森と糸原がモニターを覗き込んだ。
影(便宜上)は、弱者を好んで狙う。
特に、恐怖を感じている者をだ。精神的に弱い者と言い換えても差し支えは無い。
「ここは聞いたじゃん、スクロールしてよ」
「どうやるンだ?」
三森を馬鹿にするように、糸原が高く笑った。
「退いてなモンキー」
影は通常、獲物を一息に殺さない。
殺せない。影に攻撃能力は皆無だ。獲物を弱らせ、影に引きずり込む事は出来るが、その後は獲物の衰弱死を待つ事しか影には出来ない。
「……おい」
びくり、と田村が身を強張らせる。
影は、獲物を誰の手にも届かないところに隠して、ゆっくりと獲物が死に至るまで待ち続ける。稀に、死体の形が残ったまま発見される事があり、検死解剖の結果、死後二週間以上は経っている事が分かった。つまり、影に連れ去られても、そこからは被害者自身の体力持久力に因るところが大きい。
「ふうん。じゃあまだあのガキどっかで生きてんのね」
「……おい、まだ下に何か書いてあンぞ」
影は恐怖を糧にして生まれ、恐怖を糧にして生きるソレである。だが影は、実際には恐怖に弱いと言う報告もある。己よりも、より恐ろしいものに出会えば、その存在を自ら逃げるようにして掻き消すのだ。
「田村ぁ!」
「忘れてたんです! ぼ、ぼぼぼ僕だって人間なんです! 人間は覚えては忘れて、そうやって成長する生き物なんです! すいません!」
「これ、伝えなくて良いの?」
「メールじゃ間に合わないかもしンねえ。けどよ、あのチビ電話に出やがらないンだよな」
三森が、携帯電話を握った手に力を込めた。
影は、もうどこにもいない。少なくとも、既に一たちの周囲にはいない様子だった。
「……命、だと」
春風が訝しげに一を見る。
「ああ、助けてやったんだ。それぐらい聞いてくれても良いだろ?」
「私の命か?」
「シルフのだ。メドゥーサにビビって逃げたか知らないけど、影はもうここにはいない。つまり、唯一の手掛かりが無くなっちまったわけだ」
一がジェーンの頬を張りながら言った。
ジェーンは、時折うわ言を放つが、覚醒する様子ではない。
一は、遠慮がちにジェーンの心臓に耳を当て、安堵する。普通に、心臓は動いているようだった。本当に気絶させられただけらしい。
「それで、私にどうしろと?」
ジェーンから離れると、一は嫌そうに春風を見つめた。
「情報部だろ、あんた。足でも頭でもどこでも使えよ。使って探してくれ」
「……馬鹿な。無茶苦茶だ、探せ? そんな事が可能ならば、一人目の時点でやっている」
「嘘だ。やってないだろ。あんた、他人なんてどうでも良いんだ」
春風と視線を合わせないまま、一は冷淡に言い放つ。
「そんな事は無い」
「言い切りやがって……。じゃあ聞くけどさ、あんたシルフ君が連れ去られた時、何処に居たんだ?」
春風は口ごもった。少し悲しそうに、俯く。一に対しては、初めて見せる表情だった。
「そこに居たんだろうが。なら、何で助けてくれなかったんだよ? あんた、強いんだろ。じゃあ、何で?」
何でだよ、と。
一は繰り返す。どうしようもない事を、もう、意味の無い事を。
「……私が情報部だからだ」
俯いたまま、春風は答えた。
「意味がわかんねえ。勤務外ってのはさ、ちょっとおかしいけど。それでも、あんたみたいにソレを見過ごしたりしないと思うよ。シルフ君を助けてくれたと思う。……少なくとも、俺の知ってる勤務外の人たちは、だけど」
「私は、勤務外とは違う」
やはり春風は、俯いたまま答える。
「オンリーワンの情報部。何だよ、ソレと戦う正義の味方じゃねーのかよ?」
「簡単に言うな、一一。我々は、漫画みたくシンプルには出来ていない」
「大人の事情って奴? まあ、そうだよな。そうなるよなあ、知るか」
一はジェーンを起こすのを諦め、アイギスを手にして立ち上がった。そして一歩、春風の方へ進む。
「探せよ情報部。何とかしろよ春風麗。お前のせいだろ怠慢女」
「きっ、貴様! 近寄るな!」
春風が左手を上げて、構えを取った。
「やめろ一一! それ以上近づくと、今度は本当に殺すぞっ」
「今度は? 本当に? 俺たちを殺す気が無かったってのか?」
「うるさいっ、足を動かすな!」
「じゃあ何か、あれか。俺たちの邪魔でもしに来たって言うのかよ。ふざけんなよ、時間が無いっつーのに。そんな事は、お前ら情報部の方が知ってたくせによ」
もう一歩、一が足を踏み出す。
「近付くなっ!」
春風の叫びは、もはや懇願に近かった。
何故、勤務外に怯えているのだろう。
何故、この男に怯んでいるのだろう。
私は、どうして一一なんかに、どうして、どうして。
春風は、また一歩後ずさった。明らかに、春風は一に恐怖を抱いていた。ただの、勤務外に。
「わ、私はただ三森冬が!」
「三森冬? 今は関係ねえだろあの人は」
「関係ある! 貴様らは、貴様ら北駒台の連中が私の家族を殺したんだ!」
もはや叫び声だった。
「今は関係ねえだろ。シルフ君を探せ」
「なっ……! 私の話を……!」
「聞いたよ。だから何だってんだ。早く仕事に戻れよ、情報部」
一はアイギスをバットに見立て、一回、二回軽くスイングした。
「聞いたならば理解もしろ! 私の家族を殺した勤務外にっ、私が協力するはず無いだろう!」
「……じゃあもう辞めれば? 三森さんが嫌いなら何とかすれば良いし、勤務外が嫌いなら勤務外がいないところまで、どっか遠くまで行っちゃえよ。俺もその方が助かるなあ、初対面の人間に殺すとか嫌いとか言われたくないし。そんな人間、出来れば近づきたくない」
一が頭を掻きながら、うんざりした様子で春風を見る。
その目に気圧されたのか、春風は固まってしまった。罵声を浴びせたかった、口汚く勤務外を罵りたかったのに、春風は喋れない。口が動かない。舌が回らない。頭が働かない。
「お、お前なんかに言われる筋合いは無い」
精一杯の虚勢。
空気を緩く切り裂く音。一がアイギスを軽く振った。
「そりゃそうだ。その台詞、あんたにそのまま返したくなるぐらいにな」
「……私はお前が嫌いだ」
「俺もあんたが嫌いだ」
「一一、お前の言う事を聞く理由が私には無い」
春風の声色は、先刻までの冷たいものに戻っていた。言葉を交わしているうちに落ち着いたのだろう。一を無感情に見つめる瞳からは、もう何も読み取れない。
「あるね。俺はどういう形であれ、あんたの命を助けてやったんだ。影から――」
そして、と続けて一はアイギスを掲げるように腕を上げた。
「――こいつからもな。理由が無いとは言わせない、命の恩人の言う事だ、一個ぐらい聞いてくれよ」
「とんだ戯言だ」
「筋も通ってないしな」
「……自分で言うか、一一」
「なら交渉しよう。俺たちは幸運にも不幸にも、まだ人間なんだから。言葉は通じる、だろ?」
一はポケットから煙草を取り出した。
「交渉? 笑わせるな、私とお前とで何をどう話をするんだ?」
「簡単にいこうぜ、時間は無いんだ。俺はあんたを許す。だから、あんたはシルフ君を探して見つけ出す」
「私にメリットが無いな。それに、一口に探すと言っても、私に何処を探させるつもりだ。当てはあるのか?」
ふう、と一が煙を吐く。
「無い。ここら一帯を走れ、駒台を探せ、日本を回れ、世界を飛べ、何なら地球を出てっても良いよ。とにかく血眼になって探せ」
「貴様、何様のつもりだ……? 私がそこまでする理由は無い」
「有る。俺は、初対面でいきなり襲い掛かってきた人間を許すって言ってんだぞ。人間一人が人間一人を許すって言ってんだ。破格じゃねえか、それでもお釣りが来るぜ。何ならレシートもつけても良い」
春風が一を睨む。無感情ではなかった。瞳には、怒りが確かに込められていた。
「……本当に殺してやろうか、一一?」
声音は低い。
「出来るもんならな。悪いけど、俺にそういう脅しは通用しないぞ。こっちはあんた以上の勤務外に胸倉掴まれたり殴られたりしてきたんだ」
一は自慢げに、自慢にもならない事を言った。
「狂っているぞ勤務外」
「お互い様だぜ情報部」
一が鼻で笑い飛ばす。
「……お前のような死にたがりは初めてだ」
春風は呟く。
「あっそ。で、どうしてくれる?」
「お前は、何故ソレの為に動けるんだ? シルフはお前の何なんだ?」
「何でもないよ、ただのガキだよ」
「なら、どうして!?」
春風は語気を荒げた。
「……罪滅ぼしかもしんない」
「シルフへのか?」
「違う。あー……、それに、やっぱ罪滅ぼしでも無いな。とにかく俺はもう約束を破りたく無いんだ」
一の答えを訊いて春風は黙った。交渉に対する答えに窮しているわけではない。嫌がらせで黙っているわけでもない。ただ、一を上から下まで観察している。
ふう、と息を吐き、
「情報部は何でも屋では無いぞ」
言ってから春風は目を瞑った。
「……交渉は、決裂か?」
いや、と春風が頭を振る。
「条件付で成立させよう」
「条件?」一が不審げに聞き返した。
春風が口元だけで笑う。
「三森冬の情報を教えてくれれば、シルフを探そう。血眼に探そう」
「情報部のあんたに教えられる事なんて無いんじゃないか?」
「三森冬の情報を確かに私は知っている。少なくとも、一一。お前よりは知っている」
「……じゃあ、あの人の何を聞きたいんだ?」
「何でも良い。下らんことでも構わん。私たちは、そうしないと動けんからな」
あ、と一は気付く。
情報部の仕事。
情報部の性質。
情報部は、情報の収集、秘匿、公開のみに全てを費やすのだと。
ならば、それに伴わない行為はどうなのだろうか、と。
一は春風を盗み見た。別段、変わった様子も、何か企んでいる様子も見られなかった。表情も冷たいままだ。無表情で無感情。機械のような印象。
「……どうした? このまま決裂させても構わんのだぞ」
それでも。少し、ほんの少しだけ、一には春風が柔らかく見えた。
――交渉、ね。
一は心中で笑い、そして安堵もした。
胸を撫で下ろした。
――なんだ、そんな事か。
「分かった。じゃあ、三森さんの――」
一瞬、一は躊躇う。裏切りに当たるのではないか、と。自分は今、三森を売ろうとしているのでは、と。
「三森冬の?」
まあ良いか、とも一は思った。確かにくだらない事だ、つまらない些細で些末でどうしようもなく、小さな事だ、と。
駒台を小さく騒がせていた『影』の引き起こした事件は、終わった。
一先ずの終わりを告げた。犠牲者と被害者は、あっさりと発見された。駒台の山、木の葉の中に隠されるように。こんなケースは初めてだと、情報部は言っていた。
正体がハッキリしていないソレ。一の蛇に恐怖したのか、それとも何か別の理由で獲物を見逃したのか、それすらもハッキリしていないソレ。だから、オンリーワンの中には、再び姿を現すのだろう、と。そう考えるものもいる。
それでも、それでもだ。だとしても、終わったのだ。
『影』は、もう駒台にはいない。死者三名、行方不明者一名の被害を出した『影』は終わったのだ。
『影』が消えた翌朝。
オンリーワン北駒台店。
ソレと戦い死なせ殺される役目を持つ、勤務外を擁する店。
そこの仮眠室から、二つの寝息が聞こえる。静かな寝息は、粗末な作りのソファーで横になっている一一のものだった。
傍に立ち、幸せそうな表情を浮かべているのはジェーンゴーウェスト。
「……お兄ちゃん、ごめんネ。昨日は役に立てなくて」
一は答えない。眠っているのだから当然だ。
完璧な独り言だった。それでも、一に訴えかける真摯な態度。真摯な瞳。
「ホントは怖かったよネ? お兄ちゃんが震えてたの、アタシ知ってたよ」
静かな寝息。
「そんなにこの子を守りたかったのカナ……」
ジェーンが、視線を一から、一の隣で眠っている少年に移した。お菓子の詰まった袋を抱えた無垢な寝顔。幸せそうな、小さな顔。
つられて、ジェーンも小さく笑みを零した。
「じゃ、アタシは仕事に戻るから。グッナイ、お兄ちゃん」
言って、ジェーンが仮眠室の明かりを落とす。
「それから、アリガト」
静かな寝息が一つ。それは時計の針みたく規則的な寝息だった。
この事件から数日後、三森冬の部屋に大量のザッハトルテが届けられる事になる。
それはまた別の話、にもならない話。