言う事聞かなきゃあいつが来るぞ
一一の住むアパート、中内荘。
尤も、中内荘、そう呼ぶ者など誰もいない。少なくとも、駒台には存在しない。寂れた外観、朽ち(かけ)た壁、二階へ上がるための階段は、上るたびにギシギシ、と不快かつ不安を駆り立てる音を奏でる。101号室から206号室の、計十二部屋。単純に計算すれば、十二人は住める。も、殆どの部屋は空き部屋であった。現在の入居者は、202号室の一、その真下、102号室の、北、と呼ばれる中年の男性、104号室の老人、206号室の若いカップルぐらいのものだ。ちなみに、あまりに人が入ってこないので、元々は大家の部屋だった105号室と、訳も無く、その隣の106号室は意味も無く大家の部屋となっている。二部屋あるからといって、部屋の広さが二倍になる訳ではない。ただ、二つ、というだけ。本当に意味が無かった。そして、駒台に住んでいて、このアパートを知っている人間はおろか、住んでいる人間ですら、中内荘の事を「ボロ小屋」「肥溜め」「木に穴を空けて住んだ方がマシ」などと言う。
中内荘には、特に決まった別称は無かったが、蔑称なら掃いて捨てるほど存在していた。
ギシギシ、と。
そんな中内荘に不快な音が聞こえる。まだ日も昇りきっていない、冷たい風が吹く早朝。
ギシギシ、と。
一段ずつ、一段ずつ、ゆっくりと踏みしめながら歩く姿。
「さっむー」
吐く息は白く形を残す。
足音の正体は、自らの両手を擦り合わせ、ささやかな暖を取ろうとしていた。やがて、それは二階のとある部屋の前で立ち止まり、ドアノブに手を掛け、躊躇いも無く勢い良く捻った。
が、回らない。
恐らく、と言うか確実に鍵が掛かっている。
「…………」
彼女は恨めしげに扉を睨み、部屋の窓に目を向けた。
彼女が立っている部屋の前、202号室には、明かりが灯っていなかった。人の気配はするが、動いている様子は無い。早朝なので、それは仕方の無い事でもあったが。
静かな時間が、しばしの間、そこに流れた。
長く、美しい黒髪をかき上げ、意味ありげにスーツ姿の彼女は笑う。
そして、
「にのまえー、鍵開けてー」
極上の猫撫で声で、女は言った。
ドアの向こうからの返事は、無い。
ドン、と女がドアを殴りつけた。
「開けろっつってんでしょ! 本当は起きてんの分かってんだからね!」
何度も、何度も、ドアを殴りつける。かちり、と扉を叩く音に紛れて、小さな音。
「遅い」
ドアを叩くのを止め、女が満足げに言った。
「……どちら様ですか……?」
202号室から出てきた家主、一は目を擦りながら現れる。眠たそうに、あくびを隠そうともせず、迷惑そうに、嫌そうな目をしたままで。
「あんたさ、自分の生涯のパートナーの顔も忘れたの?」
「……障害のパートナー? そんなの要らないです。帰ってください」
「つーか、あんた今日何の日か知っててそんな態度取ってる訳?」
うーん、と一が唸った。
「ああ、糸原さん。今日退院でしたっけ」
「……薄情な奴」
スーツ姿の女、糸原が拗ねたように頬を膨らませた。
「俺寝起きなんで、その顔やめて貰えます?」
「どういう意味よ?」
「まあ、迎えに行こうとは思ってましたよ」
「じゃあ何で来なかったのよ?」
一が部屋の中に視線を移す。
「今、何時か分かりますか?」
「私デジタル派なのよ」
「……六時です」
だから何、と、糸原が尋ねた。
「早すぎますよ、今日退院だって知ってても、まさかこんな早く帰ってくるとは思ってませんでしたから」
「そう? ああ、アレよ、病院って何かいるだけで病気になりそうで嫌いなのよ。もっと早く帰りたかったぐらいだわ。体も鈍ってるし。肩と腰と胸が重いわ、後で揉んで」
「肩なら叩きます。それと、糸原さんがいない間に、新しい人が来ましたよ」
「新しい人? このアパートに?」
糸原が怪訝そうな顔をした。
「いえ、バイトの方です。新しいSVが来たんですよ。アメリカから」
「アメリカ? すっげえ外人じゃん、ヒュー! どんな奴? カッコイイ?」
糸原の妙なテンションに困惑しながらも、一が答えを模索する。オンリーワン、北駒台店の新しいSV、ジェーン・ゴーウェストをどう説明するのか。ああ、と考え込んでいた一がそれに行き着いた。糸原へ向き直り、一がハッキリと、新しいSVとはどんな人間か口にする。
「俺の妹です」
「……あっそ。どうでも良いわ、じゃ布団退いてね、私寝るから」
「それなんですが」と、部屋に入ろうとする糸原を遮って、一がドアを後ろ手で閉めた。
「何よ、寒いんだからとっとと開けなさいよ」
「糸原さん。あなたがこの部屋に住んでから、どれくらい経ってると思いますか?」
突拍子の無い質問に、糸原が面倒くさそうに息を吐く。答える気も、そもそも考える気も、糸原には無かったのだが、一の顔が思っていたより真剣だったので、
「三日ぐらい」
とりあえず答えた。
「違います。もう一週間経ってます。そして、一週間経ってるのに、糸原さんは自分の家を見つけようとしないじゃないですか」
「はあ? 何言ってんの?」
「追い出しますよ」
「冗談冗談、ちゃんと探してるわよ。それに一ヶ月って事だから、後、三週間は住まわせてくれるんでしょ?」
糸原が軽く笑う。
その様子を見て、一が力なくため息を吐いた。
「実は、家ならもう当てがあるんです」
そして、糸原の目を見ないまま、一が口を開いた。
「……へー、あっそう、そんなに私に出て行って欲しいんだ。あーそりゃそうよねー」
「そんなつもりはないですよ。まあ、迷惑かって言われたら、百パーセント否定は出来ませんけど。それと、その当てを作ってくれたのは、実は三森さんなんですよ」
二度目の「実は」に糸原が目を丸くする。
「ヤンキーが?」
「そうです。勤務外専用のマンションに、こないだのソレの事件で空きが出たから、誘ってみろって」
「期限は決まってんの?」
「さあ、そこまでは知りません」
ふーん、と糸原が腕を組んで、考え込むそぶりを見せた。
「確か、あの高そうなマンションよね」
「高そう、じゃなくて、実際高いらしいですよ。けど、勤務外ならお金要らないって聞きました。おまけに、部屋も広いし、支部には近いし」
「げっ、って事はタルタロスにも近いじゃないの」
「……脱獄犯、ですか? けど、もう糸原さんには関係無いじゃないですか。向こうから撤回してくれた事ですし」
「そうだけど、嫌なもんは嫌なのよ」
冷たい風が、一たちを通り抜ける。
寒さに身を震わせて、糸原が一をジト目で見た。
「とにかく、もう良いでしょ? その話は保留ね」
「しょうがないですね」
言って、一が扉を開ける。一が玄関に足を踏み出した瞬間、気付く。
――糸原四乃。
タルタロスから逃げ出した、元指名手配犯。半ば、流されるままに流され、請われるままに請われ、糸原を同居人として部屋に置いている一だったが、気付いてしまう。犯罪者だから、行くところがないから、仕方なく一の部屋に。だが、既にそんな肩書きは糸原には、無い。
何も無い。
隠れる事も無く、怯える事も無く、どこへでもどこにでも好きなように好きに出来るのだ。もうこの街に住む必要も、この部屋にいる必要も、一と一緒にいる必要も、無い。
「何よ、どうしたの?」
それならば。
何故、この人は、ここにいるんだろう。何で、この人は、ここに帰って来たのだろう。と、一は思う。思いを巡らせ、走らせ、考える。
「いや、何でもないです」
言って、一が靴を脱いで先に部屋に入った。
糸原が慌しく靴を脱ぎ捨て、「ただいまー」と、景気良く声を放つ。
――どうして、俺はこの人と、一緒にいるんだろ。
考え込む一は、近づく影にも気付く事が出来ない。
「おりゃ」
「……ったあ!」
一が額を押さえ、しゃがみ込んだ。
「何でデコピンしてんの、この人……?」
「ほらほら、ただいまって私が言ってんだから、無視しないでちゃんと挨拶しなさいよー」
脱いだスーツをひらひらと弄びながら、糸原が笑う。雑誌の表紙の女性のように、上手な笑い。
「……」
納得いかない一だったが、額に走る痛みのお陰で、頭を支配していた靄が晴れた気分だった。
――まあ、良いか。
「それじゃ、お帰りなさい」
うん、と糸原が素直に笑う。
つられて、一も楽しい気分になれた。
「良く出来ました、そいじゃ朝ごはん食べに行こうか」
「眠いんじゃなかったんですか?」
「折角帰って来たんだし、病院食ばっかで飽きたし、何か食べたいよう」
「つっても、この時間じゃ大した店は開いてないですよ」
「……あんたの手料理が食べたい」
一が顔を引き攣らせた。
「何て不細工な顔してんのよ」
「俺の母親に聞いてください。て言うか、手料理って、俺のですか?」
うん、と糸原が短く頷く。
「……何で?」
「何でもよ、気分なのよ、私が食べたいって言ったら食べさせなさいよ。私が、魚が食べたいと言えば海まで行って、鳥が食べたいと言えば山まで行って、肉が食べたいと言えば牧場まで行くのが! あんたの! 仕事なの!」
「無茶苦茶な……」
「ほら、何か作ってよ。肉じゃがとかクリームシチューとかさ」
「嫌です! しかもお嫁さんに作ってもらいたい料理っぽいチョイスじゃないですか! そんなの俺が作って欲しいぐらいなのに! そもそも、俺が、何で料理しないと駄目なんですか!」
一が叫んだ。魂が篭もっていた。
「その通りヨ!」
それは突然で、唐突に、突拍子もない登場だった。けたたましく、赤く錆びた扉が開け放たれる。
盛大な声で正大にツインテールが現れた。小さな背丈に合っていないのか、袖を余らせている、金色の刺繍が縫い付けられた派手なコートを着込み、ベルボトムのジーンズの裾口を垂らして履いている少女。
ジェーン・ゴーウェストが現れた。
「誰……?」
「それはアタシのせりふヨ! このマオンナ!」
「ま、まおんな? 間女?」
糸原が目を白黒させたまま聞き返す。
その様子に少し満足したようで、ジェーンが意味ありげに微笑んだ。
「イエース。アタシの居ない間に、勝手にお兄ちゃんに近づいて……。お兄ちゃんに料理を作るのも! 作ってもらうのも!」
ジェーンは自分を指差し、
「このアタシだけなの!」
高々と宣言して、そのまま一の部屋に侵入する。
「このチビっ子何? 一体何事?」
「おい、靴脱いで入れジェーン。畳汚れるだろ」
「オゥ。ニホンはこれだから嫌なの。お兄ちゃんもこんな国飽きたでしょ? 早くステイツに帰らない?」
「帰りません。それより、こんな時間に来るなんて面倒くさいな」
「お兄ちゃんに会うのに、時間なんてカンケイあるの?」
「凄くあるよ。まあ、どうでも良いや、ところで、新しい部屋は慣れたか?」
「勤務外専用のマンションね、なかなかクールよ。アタシにフサワシイところだワ、エレガントで、セレブリティックで、ブリリアントで」
一はそのマンションに住んでいる三森を想像してみた。どうにも、ジェーンの言う形容詞とはかけ離れていて、少し笑ってしまう。
「コラ」
一の後頭部に、糸原の長い足が乗せられた。
「お姉さんを無視するとは何事か」
「頭蹴らないでくださいよ」
「じゃあどこなら蹴って欲しかったの? んん?」
「んん、じゃないですよ。どこも蹴られたくありません」
「はいはい、じゃあ質問には答えてよ。こいつ一体誰なの?」
糸原が親指でジェーンを指す。
指されたジェーンは不機嫌そうに糸原を睨み返した。
「ああ、さっき話した新しいSVですよ」
「はあ? 何で社員があんたの部屋まで来てるわけ?」
「だから、言ったじゃないですか」
「何を?」
一がジェーンに向き直る。
「お、お兄ちゃん、な、ななな何? 急に見つめないでヨ……」
何故かジェーンが頬を赤らめた。
「この頭ハッピーな奴が俺の妹、みたいなモンなんですよ」
糸原が固まる。え、あれ、マジ、とかうわ言の様に呟きながら、ジェーンと一を見比べながら、
「本当だったの?」
いまだに信じられない、といった風にようやく口を開いた。
「残念ながら」
「何で!? 何が残念なのお兄ちゃん!?」
「じゃあ朝ごはんは食べに行く事にしますか」
動揺している二人を横目に、顔を洗う。一は落ち着いた様子で、ハンガーに吊るされていた、くたびれ掛けたコートを羽織る。ゆっくりした動作で靴を履き、あくびを噛み殺した。
一が糸原とジェーンへ事情を説明するのに大して時間は掛からなかった。
ジェーンは、糸原に対して、あまり良い感情を持ってはいないようだったが、
『一? 何で私がこいつを好きにならなきゃいけない訳? 私面食いなのよ』
『アー……』
『本人目の前でそういう事言える人って、好みですよ俺』
一連のやり取りで、糸原への誤解はある程度解けたようで、少しは打ち解けたようだった。
一方の糸原は、ジェーンが一の身内だと知ると、ベタベタとジェーンにくっ付く様に甘えだし、「私こんな妹が欲しかったのよね」とかのたまっている始末だった。
「仲良き事は素晴らしきかな、ってマジで良い言葉ですよね」
「うん? うん、そうよね、あー、ほっぺたプニプニじゃん、マシュマロみたいね。若いって良いわー。ね、食べて良い? ほっぺた食べて良い?」
「カーニバル!? NO! NO! 触らないで! それ以上近づかないで!」
糸原はジェーンにしなだれかかり、もたれかかり、ジェーンの真っ白で柔らかな頬肉を人差し指で弄んでいた。
ジェーンは必死で糸原を引き剥がそうとするが、糸原は食らい付いて離れない。体格差か、それともそれ以外の何かか。
一はジェーンを助けようともせずに、触れようともせずに。係わり合いを避けるべく、二人から距離を開けて、オンリーワン北駒台店へと一人足を速めていた。背後から、ジェーンの舌足らずな、助けを求めているような、悲痛な声が聞こえていたが、一は、一足先に店内に入っていく。
「アアー! お兄ちゃん! お兄ちゃん! ヘルプ、ヘルプミー!」
「へっへっへ、超可愛いじゃんお嬢ちゃん。あー、一はこんな事させてくれなかったからなー、気持ち良いー。ね、ねね、髪の毛に顔埋めて良い? 良いよね? 良いよね」
もう、何も聞こえなかった。
一は店内を見渡す。相変わらず、客も店員も、誰もいなかった。いつもと変わらぬ光景に少し安心して、バックルームの扉に手を掛ける。
「おはようございます」
「ん、何だ、早朝から入ってくれるのか?」
相変わらず、椅子に座って煙草を吹かしている店長と、一がいつもの言葉を交わした。
「いや、糸原さんが朝ごはん食べたいらしいんで」
「ああ、今日が退院だったな。ん? もう帰ってきてたのかあいつ?」
「ええ、お腹減ったってうるさいんですよ。だから廃棄下さい」
店長が煙草を空き缶に押し付ける。
「買え」
「今月厳しいんですよ。同居人が増えちゃったんで。俺を助けると思って、お願いします」
「……なら、私に感謝するか?」
店長が一を見据えた。冷たいというよりは、感情が篭もっていない。そんな瞳で、店長は一から視線を反らさない。
「え、あ、まあ、そりゃ感謝しますよ。有り難いです」
射殺されるような店長の鋭い視線にうろたえつつも、一が答えた。
「それは困るな」
「はあ? どうしろって言うんですか、ホント」
「そうだな。一、お前が廃棄処理して来い」
「ああ、それぐらいなら別に」
「頼むぞ。誰もやってなかったんでな」
一が奇声を上げた。
一は適当なかごを持って、店内に出る。と、一の目の前で、長身の、黒いスーツを着た女が、ツインテールの少女を襲っていた。
「お兄ちゃん、助けて……」
髪の毛に顔を埋められている、か弱そうな少女が、涙を浮かべて、一に助けを求める。
一はデイリー商品の置かれている棚に向かった。
「あー、マジ気持ち良いー。良い匂いー。ね、ね、シャンプーってやっぱ良いの使ってるわけ? 髪サラッサラじゃないの、お姉さんにも分けて欲しいなー。あー、いっちゃいそうだわ」
襲っている女は、恍惚とした表情で、少女の腰に手を回した。
一はおにぎりやサンドイッチなど、商品のラベルを確認して、廃棄にすべき時間が書かれているものを、次々とかごの中へ放り込んでいく。
「うわ、三日前のが残ってる」
信じられない、と呟き、一が溜息を漏らした。一通り売り場の商品を確認すると、一はバックルームへ戻っていく。かごの中は商品で一杯になっていた。ずっしりとした重みが一の腕にのしかかる。
「店長、掃除もレジもしなくて良いですけど、廃棄だけはお願いしますよ」
「ん、そうだな」
生返事。
一は店長を横目に、机の上に中身の詰まったかごを置いた。パソコンの前に立ち、マウスを操作する。
「あー、やっぱ廃棄やばいっすよ、滅茶苦茶多いです」
「良いじゃないか、好きなの持ってけるだろ?」
「……店長って、店長ですよね?」
「何を言っているんだお前は」
「そっくりそのままお返ししたいですよ……」
廃棄登録も終わり、適当なパンなどを袋に詰めて、一は体を伸ばした。
「じゃ、俺帰りますね。今日の夕方からなんで」
「ああ、よろしく頼む」
「……確か、今朝は三森さんがシフトに入ってませんでした?」
「ああ、ちゃんといるぞ」
店長が仮眠室を指差す。
「ちゃんと、いますね」
さっきは気付かなかったが、確かに仮眠室からは、誰かの寝息が聞こえてくる。
「それじゃ、また後で。お疲れ様です」
「うん、お疲れ。あ、そう言えば、ソレが出たらしいから気を付けろよ」