ガーゴイルは話をする
笑い。
笑いとは、何だろう。
一般的には、陽性の感情(楽しいとか、面白いなど)に伴って、表情が特有のモノ。つまり笑顔、になったり、特有の声。つまり笑い声、を伴った現象の事を指すらしい。
笑い。
では、人間は笑うか?
笑う。間違いないだろう。人間ほど笑いを使い分け、自由に使える生物は存在しないだろうと、思われる。そもそも、笑う、という定義めいたものを作ったのは人間だからだ。笑う事を知らなければ、笑いを定義する事は難しい。無感情な人間や、無表情な人間も中にはいる。しかし、笑えない事はないだろう。笑わない人間は笑えないのではない。やはり、笑わないのだ。
中には、本当に笑えない人間もいるかもしれないが。
では、猫は笑うだろうか?
犬は笑うだろうか?
一度はそんな話を聞いたことがあるだろう。もしかしたら、見たことがあるかもしれない存在は、するのだろう。にっこりと笑う猫や犬。
では他の獣は?両生類は? 爬虫類は?鳥は? 魚は? 虫は?
では、ソレは?
ソレは、笑うのだろうか?
「おっしゃ、お前四つん這いになれ」
「はあ!?」
一が大きな声を上げた。
「ソレを相手するにしても、屋根まで上らねェと話になンねーからな」
「あの、意味が分からないんですが?」
「だから、私があいつとやり合うから、踏み台になれっつってンだ」
三森がソレを指差し、一を睨みつける。
「それとも何だ? お前があれと戦うってンのか? 良いぜ、やれるもんならやってみな。但し、私を踏み台に出来るもンならな」
「何で踏み台ありきの話になってんですか? ほら、あそこの木に登って、そっから飛び移れば良いじゃないですか」
一が背の高い木に視線を向けた。木は、洋館の屋根に届くほどの高さで、距離も離れていなかった。一般的な成人男子、成人女子の身体能力ならば、飛び移るのに苦労はしないだろう。 三森も、釣られてその木を見つめる。
やがて、
「あー、そう言う手もあったな」
つまらなさそうに言った。
「……俺を踏みたかっただけでしょ?」
「良し、じゃあ行くか。おい、四つん這いになれ」
「何で!?」
「楽しそうだね、混ぜてくれないかな?」
楽しげで、それでいて冷ややかな声。
その声のする方向に、一と三森が弾かれたように振り向く。
小柄な少年。
大柄な青年。
どちらも照りつける陽光を浴び、ブロンドの髪が輝いていた。
美少年。美青年。
「あなた達は……」
駒台デパートのエレベータ内で、先ほど二人が出会った二人。勤務外の二人が出会った、フリーランスの二人。
「あれ? なーんか、見たことある人たちだな?」
少年が首を捻る。
青年が溜め息を吐き、
「先刻、駒台デパートのエレベータで乗り合わせた人たちですよ」
呆れた風に呟いた。
「あー、そうだった、そうだった。で? 何でそんな人たちがここにいるのかな?」
「さあな、ただの散歩だよ」
へっ、と三森が笑う。
「……そうですか。では、今の内にお立ち去りください。ここは今から戦場になりますので。ただの人間である貴方方には、不釣合いな場所に成り、果てます」
「そうか、そうかそうか、そうかよ。流石はフリーランス、相変わらずムカつくぜ」
「あれ、フリーランスだなんて名乗ったっけ?」
「いえ、恐らくは、同業者でしょう。もしくは……」
少年と青年が、三森を値踏みするかのように観察する。
その視線に応じ、三森が口元で薄く笑った。
「もしくは? おうよ、天下の勤務外様だ」
「勤務外……!」
青年が只ならぬ口調で吐き捨てる。
「あンだ、どうしたよ? てめェらもあいつ狙ってきたンじゃねーのか? おら、動けよ。早くしないとあいつが逃げちまうぜ?」
言って、三森がソレを指差した。
ソレも、新たにこの場に現れた人物、フリーランスの二人に気が付いているはずだが、一瞥もくれない。只管に前を、真っ直ぐに見ている。
「そのつもりだったんだけどね、勤務外がいるんじゃ、話は違ってくるかな」
「ええ、全くですね。商売敵と仇を前にして、激情せずにはいられないですよ」
フリーランスの二人から、敵意が剥き出しになった。目に見えない何かが、一たちに降りかかる。
「ははっ、良いじゃん、良いじゃねェの! 良いぜ良いぜ、何もしねェ動かねェソレだけじゃ不完全燃焼になる所だったンだ! 勤務外が気に入らねェンだろ? かかって来いよ!」
三森が拳を突き出し、足を鳴らした。
「ちょ! ちょっと、俺はどうするんですか? 嫌ですよ人間同士で殺しあうなんて!」
気圧されていた一がやっと口を開く。
三森は一に目もくれず、「知らねェ」と一言で切り捨てた。
フリーランスの二人は、はなから一に興味が無かったようで、一の姿を視界の隅にも入れようとしない。一の存在を脳の片隅ででも認識していない。
「とにかく、あぶねェから下がってろ」
「三森さんは?」
ははっ、と三森が軽く笑う。
瞬間、この場にいた全員、三森の姿が消えたように感じられた。
「決まってンだろ!?」
フリーランスの青年の目の前に、三森の拳が現れる。早すぎる攻撃。だが、青年は体勢を崩しながらも攻撃を避けた。
「ヤるじゃねェの!」
続いて三森は、フリーランスの足を狙ったローキックを放つ。今度は避けられず、青年の表情が苦悶に歪んだ。
躊躇せず、顎にアッパー。容赦なく、腹にトーキック。肉を叩く、独特の鈍い音が三森の耳に心地よく響く。
それでも倒れない青年に三森は業を煮やし、後ろへフラフラとよろけている青年の長い髪を鷲掴んで、無理矢理地面へ叩き付けた。小さく呻き、青年が仰向けで、地面に釘付けになる。
「へえ、やるじゃないか」
「次はてめェの番だよ」
味方が窮地に立たされていると言うのに、少年は身動ぎ一つしなかった。パーカーのポケットに両手を突っ込み、三森の動きを素直に褒めるだけ。
三森が、少年へと奔り寄る。
伸ばす拳。
「けど、ディルの番は終わっちゃいないよ」
届かない拳。
少年は大きくバックステップ。三森から距離を取る。十メートルほど。
「な……?」
驚愕。
三森が固まった。
「……っ!」
それも一瞬間の事、背後からの攻撃に反応して、三森がその場から飛び退く。三森の立っていた空間を、ほんの僅かに遅れて、剣が切り裂いた。
「ほう、なかなか……」
青年が素直に感心する。
その手には一振りの剣。形状は、西洋の一般的なブロードソードとなんら代わりは無い。ただ、刀身が今まさに磨かれたかのような、輝きを放っているだけだ。
「……へえ、面の割に打たれ強いじゃねェか」
「貴方こそ。お顔の割に、良いものをお持ちで。全く、勤務外にしておくには惜しい逸材ですね」
「はっ、てめェこそ、こんな商売やるよりもっと違う仕事の方が似合ってるンじゃねーの?」
「それはこちらの……ああ、失礼。貴方には良くお似合い、かと」
シニカルに、ディル、と呼ばれた青年が笑う。
その頃、一は木に登っていた。
ビニール傘を小脇に抱え、ゆっくりと、誰にも気付かれないように。
そもそも、一の存在を気にする者など、この場には今のところいないのだが。
「どうすっかな……」
悩んでいても仕方ない、当初の予定通り、一は屋根に上ることにした。上っていくと、やがて太そうな枝に目を付ける。おっかなびっくり、木の幹を掻き抱いたまま片足を乗せ、もう片方を乗せた。足場に問題が無い事を確かめ、一が枝の上に立つ。
「……こわっ」
思わず下を見てしまう。地上までの高さは、ニ、三メートルといったところか。一の膝が震えた。屋根までの距離は、一メートルも無い。が、怖いものは何だって怖い。飛び移る勇気は、一には無かった。ここから落ちれば、即死ぬ事は無いだろうが、怪我ぐらいは確実にするだろう。自分が情けなく地面に落ちる様が、一には容易にイメージできた。
――避難してよっかなー。
「ん?」
ふと、誰かに、見られているような感覚を一が覚えた。きょろきょろと、辺りを見回し、一が気付いてしまう。
翼を持ったソレ。出来損ないの犬のような顔。鈍く輝く、重い体。グロテスクな容姿。
ああ、ソレが見ている。何も出来ない人間を、抵抗できない人間を。
「……!」
一は絶句した。
まさか、ソレに見られているだけで、声も出なくなるとは、一は思ってもいなかった。
「どうぞ、こちらへ」
感情のこもっていない声。
事務的なそれを聞いて、一が目を大きくさせる。
「え……?」
顔だけで、ソレが笑う。その表情から、一は何も読み取る事が出来なかった。動けない。分からない。どうして良いか、何をすれば良いのか、何も知らない。
「わたしは何もしませんよ」
「……お前、喋れるのか?」
屋根と、木の枝。
一メートル足らずの距離で一とソレが会話する。
「日本語で構いませんか?」
「あ、ああ、構わないよ」
「では、よろしく。わたしはガーゴイル。にんげんたちで言うならば、ソレ、と言ったところでしょうか」
ソレが喋っている。えらく流暢に。えらく軽妙に。
「……あ、俺は一一。よ、よろしく?」
「ふうむ、一が二つでにのまえさん、ですか。ははあ、なるほど、一はニの前の数字。面白い、珍しいと見える苗字ですね。長く生きていますが、一と仰る方に出会ったのは初めてですよ」
えらく絶妙に。
すっかりペースを狂わされ、握られた一は、自身をガーゴイルと名乗るソレと、少しの間話をする事になった。
三森とディルが向かい合う。
三森は、ディルの獲物、ブロードソードの間合いのギリギリ外を維持してステップを踏む。
ディルは自分からは動こうとせずに、間合いの中に入ってきた敵を打ち倒すスタイルらしい。
リーチの差で、三森は先に動けない。
戦法のせいで、ディルは先に動けない。
つまりは、膠着状態。
少年は、対峙する二人から離れた木にもたれ掛かり、あくびをしていた。
「ディルー、つまんないんだけどー?」
呼びかけも、呼び水にはならない。だが、隙を見つければ、たとえそれが一秒でも、一瞬でも、どちらかが勝負を決める。確実に。それまでは、膠着状態。
「ディールー?」
「黙ってて下さい」
青年が片手で髪をかき上げる。それも、三森が飛び込むまでの隙には至らない。
「……怖くて腰が抜けたか? ジッと黙って突っ立ってンじゃねェよ」
「それは貴方も同じことでは?」
静寂の後、睨み合う二人が同時に笑った。
「何だ、じゃあ人間に手を出した事は無いんだ」
「必要も無いですからねえ。わたしは、色んな世界を見られればそれで満足なんです」
「ふーん、ま、それを聞いて安心したよ。ところで駒台には、何を見に来たの?」
「特には決めてませんね。ただ、何かを見たいというよりは、何かに惹かれてきたのではないか、と、わたしは見ます」
木の枝から屋根の上に飛び移った一は、四方山話を咲かせていた。ソレ、であるはずのガーゴイルと。
「惹かれた? お前の仲間でもいるのかな、ここには」
「どうでしょう。ガーゴイルという意味なら、ここにはわたし以外いないと見ますね。ですが、ソレ、と括ってしまうならば、この街には仲間がいると見ます」
「ソレかあ、そういや、最近は結構な数のソレと会っちゃったんだよ俺」
「ほう、興味深いですねえ」
二人はお互いの顔を見ずに、街を見下ろしながら会話を続ける。
「釣瓶落としとか、鎌鼬って知ってる?」
「日本に古来から伝わる妖の類ですね」
「……古来って、本当に知ってんのな」
ええ、とガーゴイルが肯定。
「うーん、じゃアラクネって知ってるか?」
「アラクネ? いえ、知りませんね。見たことも有りません」
「あ、そうなんだ。じゃアテナって神様は?」
「見たことがあります。という事は……なるほど、では一さんの持っているそれは……」
ガーゴイルが、一の抱えているビニール傘に目を遣った。
「お前話が早いな」
「ははあ、わたしはアテナ、そしてアイギスに惹かれてこの街に来たわけですねえ」
「良く分からないけど、ソレがこの街に現れるのって、これのせいなの?」
一がビニール傘を掲げてみせる。
「見たところ、そんな感じでしょうか。大きな力、存在は同種のモノを引き寄せるのにも長けていると、わたしは見ますね」
「これが、ねぇ……ん? じゃあ駒台にソレが出てくるのは、俺の、こいつのせいなのか?」
「そうとは限らない、と、わたしは見ます。確かにアイギスに惹かれ、多くのソレがこの街にいるとわたしは見ます。ですが、一さんの責任とはまた別問題でしょう。例えば、一さんがここを離れたとします。ですが、駒台にソレが現れないだけで、一さんの移動した場所にまたソレは現れるのです。大局的に見れば、責任はアイギスにあると、わたしは見ます」
「うーん、微妙な話だ」
結局は俺のせいじゃないか、と一は傘を見つめた。
「……今更だけどさ、何で人間の言葉を話せるんだ?」
一が話題を変える。
突然の話題転換にも、ガーゴイルは困った様子を見せず、
「……わたしは長い間、多くの街を見てきました。教会の鐘の上から、時計台の上から、斜塔の上から、こうして民家の屋根の上から、様々な街を見てきました。活気で賑わう街を、風が優しく吹く町を、雪に閉ざされた町を、荒れ果てた町を、様々なにんげんを見てきました」
思い出に浸るように語った。
「街が好きなんだな。他の場所は見てこなかったの?」
「いえ、全く見なかった訳ではありません。ですが、わたしは特別街が好きなのです。にんげんたちが動き回り、歩き回り、一秒、一日、一年と、同じ時は決して訪れない。見ていて飽きないのです。同じ所に何年も居続けた事もありました」
「……何年」
一が訝しげな視線をガーゴイルに向けるが、視線を向けられた当の本人は気にしない。
「にんげんたちを毎日見ていると、自然、膨大な量の情報も吸収する事が出来ました。様々な町の文化、特色、そしてその中には言葉も含まれました。わたしは見ることで、言葉を話せるようになったのです」
「百聞は一見にしかず、か」
「それはどういう意味の言葉なのですか?」
「ああ、えーと。まあ早い話が、百回聞くより、一回見たほうが良いって事だよ」
「ははあ、わたしにはぴったりな言葉と見ますね」
ガーゴイルが楽しげに言った。
その様子を見て、一も少し楽しくなる。
「……あ」
「どうしました?」
「……いや、何か、久しぶりに普通の話をした、っつーか。話せる相手に会えたっていうか……」
「ほほう、光栄ですね。にんげんの言葉を覚えた甲斐があると見ます。実はわたしも、覚えた言葉や事柄が合っているか試したかったんですよ。一さんと出会えて良かったと見ますね」
「…………」
一は何だか、切なくなった。オンリーワンでバイトを始めてから、普通の会話を、普通に話が通じる者とようやく出会えた。嬉しさの反面、やはり空しさも覚える。相手がソレと言う事に。
「あの人たちは何なんだろうな」
一が眼下の三森たちを見ながら、寂しげに呟いた。
「勤務外とフリーランスですね。困りました。このままではわたしは、どちらかに殺されてしまうかもしれません」
「随分、他人事っぽく言うね」
「そう聞こえますか? ううむ。わたしは、今まで多くの出来事や風景を見てきました。しかし、見てきただけなのです。楽しそうな事も見ているだけ、悲しい事も見ているだけでした。ずっと、一人で見ていただけなのです。巻き込まれず、参加できず。傍観者、第三者として、わたしは完成しているのかもしれませんね」
ガーゴイルはそう言って、やはり他人事みたく自嘲気味に笑う。
「つまらなくない?」
「さあ、どうなんでしょうか」
「……まあ、俺の事じゃないから、深くは言わないけどさ」
「助かりますね。見るのは好きですが、見られることには慣れていないもので――おや? 新しいにんげんが」
ガーゴイルが山の広場に目を向けた。
一もそちらに目を遣る。と、一が頭を抱えた。
「あー、何だこのタイミングは……」
二つに括ったブロンドを揺らし、カウボーイさながらの格好で、背の高い木々の間を、背の低い少女が抜け、舌足らずの、少女特有の甲高い声で、
「やっと見つけたワ! アタシってばクールじゃない!」
オンリーワン北駒台店SV、一の妹(のような存在)、ジェーン・ゴーウェストが軽やかに現れた。
三森が、ディルが、少年が固まる。一が、ガーゴイルが固まる。
場が、固まる。
「HEY、どしたの?」
空気を気にせず、ジェーンが首を傾げた。
全員隙だらけ。隙がありすぎて誰も動けない。
「ン? モンキーガール、その人誰? 知り合いかしら?」
悠々と、ジェーンが歩みを進める。
「……おいチビ、モンキーってのは私の事か?」
「イエース、ザッツライト。で? 彼は誰? YOUとステディなカンケイなの?」
「面白い女性だ。面白すぎて笑えませんよ、激情しそうだ」
「……君も勤務外なの?」
少年が、あくび交じりで問いかけた。
ジェーンが、少年とディルを見比べ、考える素振りを見せる。
「鈍いチビだな」
「アー、OK、OK。そういう事、良いワ。七面鳥な事になってるワケね」
「七面倒だろ……」
「一さん?」
屋根の上からの突っ込みは聞こえない。
「理解したわ。で、お兄ちゃんはどこ?」
「あいつならその辺で膝抱えて震えてるぜ」
「シャラップ、サル女! そしてフリーランス、ここはオンリーワンのエリアよ、知らなかったのなら許してアゲル。But、知ってて、ここにいるなら――」
ジェーンが少年とディルに、それぞれ視線を遣った。
「心配しないでよ、おチビちゃん」
「ええ、問題ありません。勤務外が一人増えただけの事です」
「……クールね。お兄ちゃんもどこかで見ていることだし、アタシのエキセントリックなパフォーマンス、魅せてあげるワ! お兄ちゃん、アタシをしっかり見ててネ!」
一は頭を抱え、両手で目を覆い隠した。
「おっと、一さん。傘が落ちますよ」
「あー、助けてくれー」
身内の恥は、自身の恥より恥なのだ。