それじゃあバイバイ
多くのものに武具を貸し与えた。戦意を鼓舞した。万難を排するための知恵を授けた。代わりに得たのは篤い信仰の心と感謝の言葉だ。何より得難かったのは、自分が力を貸したものが英雄として成長する瞬間であった。彼らを育み、助け、見送る。生涯純潔の誓いを立てた身では子は成せぬ。しかし彼らは我が子も同然だ。
見よ。
世界よ、見よ。これが私の可愛い子らだ。怪物どもよ跪け。遅鈍の輩よそこをどけ。
そうだ。それでいい。どけ。跪け。
そうして、誰もいなくなった。
敵も、可愛い英雄も、信仰者も、何もかも。
時を刻むのを止めるものはいない。黄昏は刻々と色を濃くしていく。自分を知るものがほとんどいなくなった世界で、女神は考えるのを止めた。女神であろうとすることも、もう。
高いところから落ちるのは慣れている。橋から落とされた一は身を捩り、体を反転させて必死で手を伸ばす。そうして、女神の名を呼んだ。
アテナもまた手を伸ばす。意味はない。無意味で無価値だ。手と手を取り合い握り合っても分かるのは互いの熱だけで、落下速度が緩まることもなければ奇跡が起きるわけでもない。それでも二人は手を繋いだ。
小さな体を抱きすくめるようにして一がアテナを力ずくで引き寄せる。彼は落ちながら、崩壊の進む竜宮城を見下ろした。
「ばかな子ね」
「お前が力を貸してくれりゃあ死なずに済む」
「だめよ」
「主義と主張もたまには変えてみるもんだぜ」
一はポケットから携帯電話を取り出した。通知が鳴りやまないそれを見やり、彼は手を上げた。同時、強い風が二人の間を通り抜ける。アテナは思わず悲鳴を発した。落ちていたはずの体がぐんぐんと引き上げられていく。強風の中、彼女は目を開いた。
「遅かったじゃねえか」
「既読スルーすんなよ、ばかニンゲン」
一とアテナは手足の長い女に抱えられていた。風を纏い、中空で立ち止まる彼女は不満そうに鼻を鳴らす。
「またやられてんのかよ。ホント、シルフさまがいなきゃ何にもできないんだからなお前は。だめニンゲン。ざこニンゲン。ざーこ、ばーか、クソザコ」
「あなたは……」
アテナの視線を受け、風の精霊であるシルフは眉根を寄せた。
「お前……もしかして、人じゃないな。どっかで見たことあるぞ」
「アテナだよ、こいつ」
「えっ、こいつ神さまなの!? こんなちっちゃかったっけ?」
こいつ呼ばわりされたアテナだが、怒る間もなくシルフに頬をつままれたり、指で顔を押されたりしてそれどころではなかった。
「で? 相手はどこだ?」
一は無言で上を指す。雲間から現れた天守は上昇を続けていた。深松はあそこにいるに違いない。
「あれ、どこまで行くんだよ」
「儀式はまだ続いてる。あの子、まだ呼ぶつもりよ」
「呼ぶって、神さまをかよ。けどもう魔力なんて残ってないだろ」
「自分の命を捧げるつもりなの」
舌打ちし、一は天守をねめつける。
「命がけかよ、しつっけえ」
「だからこそ私とあの子は出会ったの。どこまでも純粋で、強い思いに惹かれて。……止めるのね、あの子を。だったら早い方がいい」
「そりゃそうだけど」
「あの子が目指しているのは空じゃない。その先よ」
一とシルフは思わず天守を見上げた。そのはるか先にある、暗黒の海原をも。
「宇宙まで出る気かよ。いや、無理だろ。スペースシャトルに乗ってんじゃねえんだぞ」
「どうせ死ぬつもりだもの。後先なんて考えてない。ただ、あの子が死ねば魔導書はばら撒かれた魔力に反応する。さっきみたいなモノが呼ばれるとは限らないけど、呼ばれたものはこの地に大いなる災いをもたらすわ」
一の脳裏によぎったのは、アーサーとヴィヴィアンが召喚した巨大な隕石だ。
「あんなもん、もっかいやれって言われたって無理だからな」
「じゃあ行くしかないよな。しっかり掴まえられてろよ、ニンゲンとちっこい神さま!」
シルフの足元に集約していた風が爆発する。上昇の際、一が苦鳴を漏らした。シルフは、天守まで続く朱色の橋を足場にしながら跳躍を繰り返す。
「おせえぞシルフっ、スピード上げろ」
「二人乗りじゃスピード出ないんだよ! どっちか降りるか!?」
一は押し黙った。
少しずつではあるが天守との距離が縮まってくる。だが、深松もまた一らの姿を捉えていたのだろう。彼女が呼び出したであろう触手が空の中を伸びてくる。やがて十を超える触手が矢のようにシルフたちへと降り注ぐ。彼女は方向転換し、下方へと逃れる。再び上昇し、触手を撒くために橋を遮蔽物の代わりにしながら飛び続けた。伴って、一とアテナの顔色が青くなる。
「……どうにか、ならないの」
「こればっかりは……」
蚊の鳴くような声はシルフの巻き起こす風によって掻き消されてしまう。耐えられず、一は自分たちを橋へ下すように叫んだ。シルフは何本かの触手を引きつけた後、橋の真上で一たちから手を離した。彼はアテナを片手で抱えたまま手すりを掴もうとしたが上手くいかない。慌てて鞭状の炎を出し、欄干に括りつけてロープの代わりとした。ぶら下がった一は勢いをつけ、肝が冷える思いをしながらも橋の上に着地する。
「走るぞ」
アテナはため息をついた。朱色の橋は天守まで続いているが、斜度が緩やかで、長い。おまけに曲がりくねり、上へ下へとジェットコースターの線路のようでもある。
走り出した一は笑いそうになった。
「俺はもう、こんなんばっかだな。走らされてばっかりだ」
大半の触手はシルフがひきつけていたが、それでも一たちを狙うものもいた。彼は炎で迫る触手を焼くが、数が増えれば手が回らなくなる。焼け焦げた触手をはねのけるようにして、新たな触手が前方から襲いかかる。もはや左右には逃げられない。衝突までは間がなく、炎で焼くには距離も威力も足りない。一は放出していた炎を固めた。その炎はハルパーの形となり、彼の手の中に納まる。威勢のいい叫びと共に、一が炎のハルパーを前へ突き出す。目前の触手は真っ二つに分かたれた。そのまま、一は切りつけながら駆ける。
「だあっ、終わり!」
触手一本丸ごと真っ二つに切り裂くと、一は立ち止まって肩で息をする。アテナは彼が握ったままのハルパーをじっと見つめていた。
「……悪いものしか残せないって言ってたか。でもさ、いいもんだって残ってる。いや、いいものは残るんだ。そういう風にできてる」
「よりによって、この私を諭すつもり?」
「受け継ぐのは悪いことばっかりじゃないよ。誰かを守りたいって思いはお前からももらったんだ。今、この場にいたんなら、あの人だって……北さんだって同じようにしてる。そうだろ」
アテナは一を睨みつけた。
「ペルセウスを持ち出さないで」
「まあ、お前には効くだろ」
「……嫌な子。嫌な子に育ったのね、あなたは」
シルフの悲鳴が辺りに響いた。一らの真上にいた彼女は、触手に貫かれてぎゃあぎゃあと喚いていた。
「わーーっ!? シルフさまのお腹に穴空いちゃったじゃんか! だから嫌なんだよニンゲンに呼ばれるのはぁ!」
「シルフ、ごめーん」
「謝り方が風より軽いんだよな! 前もそうだった! あの時もそう! いつもいつもいつも風遣いが荒いんだよ!」
「元気ね」
「精霊だから死なないし、そうなってもほっときゃ元に戻るんだよ。それより走れ走れっ」
走りながら、一はシルフを見上げた。彼女の体は霧散しかかっている。風を集めれば元に戻るだろうが、しばらくは十全の状態ではなくなる。
「あの触手、腐っても魔術か。シルフに届きやがった」
「止まりなさいっ」
「うおっ!?」
触手が一たちのそばを通り過ぎていく。彼らを取り囲む触手の数が増え始めた。動きの鈍くなったシルフでは囮の役を務められなくなっていた。戻ろうにも道は触手で塞がれている。炎で焼き払おうにも間に合わない。一は片手でアテナの手を掴み、引き寄せた。
「よこせ」
「だからっ」
「力をよこせ」
一は至近距離でアテナを見据えた。この状況下であっても、彼の手指や声は震えていなかった。彼女はそっと、一の頬を撫でた。知らずのうち、微笑んでさえもいた。
「その物言い。あなたはもう勇者でも英雄でもないのね。もう、ただの一一よ。誰のものでもない、一人の人間になったのね」
「俺はまだ死にたくねえ。お前もそう思うんなら俺から離れるなよ。どうなんだ」
アテナは小さく頷いた。
彼の世界はもう割れない。
崩れも壊れも砕けもしない。
揺れもせず破れもせず裂けもせず千切れもしない。
刻まれた日々がぽっかりと空いた心の穴へと収まった時、真白の光輝が一を包んだ。
『会いたかった』
儚げな声は懐かしい。
『あるじ。私の主。ああ……会いたかった』
声は続ける。
『もう一度でいいから、一目見たかった』
一は頷いた。傍らには髪の長い女が。女は言った。いつかのように。
『呼んで。私の名前を』
光は竜宮城の天守にも届いていた。その光景を目の当たりにした深松は歯噛みする。
轢死寸前だった一とアテナだが、そうはならなかった。彼らと触手の間に、まるで見えない壁でもあるかのようだった。魔術で創り出された触手どもは突進を繰り返すが、一にはもう触れられない。近寄ることさえ困難だ。
「土壇場で裏切りやがって……!」
憤る深松だったが、そうではないと悟る。もとよりアテナは自分たちの味方ではなかった。この世界の仕組みとして力を放出していたに過ぎない。だからこそアテナは口を利かず、目を瞑っていたのだ。
実に馴染む。今の状態こそ正常なのだ。今までがおかしかった。そう思えるくらい、蛇姫の存在は一の心に安定をもたらしていた。
一は空間を固めて触手の接近を阻んでいた。追ってくる触手は焼き払い、切り払う。
「すげえ! 負ける気がしねえ!」
「調子に乗らないで。私の体を見れば分かると思うけど、力は元通り戻ってないの。メドゥーサがいつまで持つか……」
右から触手。メドゥーサがその動きを止め、一がハルパーで斬り落とす。
左からも触手。炎で怯ませ、メドゥーサが力を使う。固まったまま、触手は火に包まれた。
全能感と万能感が一の足取りを軽くする。天守までもう間もなくといったところで、空から一たちを追いかけていたシルフが声を荒らげた。
「何か来るぞっ、すっごい速いのが!」
すわ新たな敵かと身構える一だが、声が聞こえた。それは狼の遠吠えだ。
「……ああ。速いのが来たな」
橋の擬宝珠から擬宝珠へと、飛ぶようにしてひた走るものが見えた。目を凝らすまでもない。確認するまでもない。ジェーンだ。オンリーワンを辞めたはずの彼女だ。それでも、一はこうなるのだと信じていた。
ジェーンとの邂逅は一瞬だ。だが、二人の目が合った。たなびいたブロンドヘアが妙に眩しく映って、一はどこか、許されたような気分に陥る。
――――あの野郎。
ジェーンは舌打ちした。久しぶりに見た一は、また知らない女を連れていた。しかも自分より小さく、幼い少女をだ。この土壇場、この修羅場で。あいつはそういうやつなのだ。こちらがどんな思いをして、どんな風に覚悟を決めてここへ来たのかをまるで分かっていない。知ろうともしない。朴念仁で頭のねじが緩んでいてファッションセンスが悪くて無鉄砲で向こう見ずで破滅主義者。
いつも通りだ。
いつもと同じだ。
竜宮城だか何だか知らないが、出てきたソレを始末して家に帰る。デカブツは排除する。言いたいことを言って、やりたいことをやってやろう。何も変わらない。それでいい。ジェーンは納得し、敵を見上げた。天守にいるものの姿を認めた。同時、加速する。橋を蹴り上げて、風の精霊よりも速く。
「……?」
天守に手が届く。その時にジェーンは見た。見ず知らずの女だ。それはいい。男だろうが女だろうが人であろうがなかろうがどうでもいい。問題なのはそいつが大事そうに抱えている本だ。見覚えがある。否。もう理解していたはずだ。この状況を創り出せるものなど限られている。相手は十中八九、魔法使いに類するものだ。だが、それだけではない。それ以上の何かを目の前の女から感じていた。
ふっと女が笑んだ。視界の端に紙片が散るのが見えて、ジェーンの体が真横に吹き飛んだ。触手だ。横合いから衝突を喰らったのだ。
「シルフっ」
「分かってる!」
復活したシルフが、触手に突き飛ばされたジェーンの救出に向かった。一とアテナは橋を進もうとしたが、先まで自分たちに突っかかっていた触手の動きが変化しているのに気づく。触手どもは自分たちを無視して天守へ戻ろうとしていた。
「籠城戦やろうってか」
「違うわ」
触手は橋に向かって突進を繰り返していた。
「……なんだ?」
言ってから、一は察した。
「橋を壊すつもりか……!」
ふざけるなと一は憤る。橋を壊されては天守まで行くのが面倒になる。それどころか死んでしまう。ここで深松を逃がすつもりはない。絶対に止めてやる。彼は足を動かした。しかし伝わる振動は先よりも強く、大きい。触手の突進回数はとうに百を超えている。橋はもう限界に近かった。
「くそっ」
決壊はすぐだった。連結していた天守と橋。その先端がみしみしと音を立ててひしゃげた。アテナが声を荒らげる。一は、シルフがジェーンをキャッチするのを確認し、メドゥーサの名を叫んだ。
「お兄ちゃん!」
「シルフゥ! ジェーンを放せっ、あいつのが速い!」
「は? そんなわけ……」
ばらばらになって落下していくだけの橋の動きが緩み、やがて止まった。中空で制止するそれらを認めたジェーンは風の精霊の抱擁を振り切り、飛びだした。停止した橋は彼女の足場となる。
「……嘘だろ」
シルフは一を後ろから掴まえて、足場から足場へと跳躍を繰り返すジェーンを見つめ、溜め息をついた。
深松がまた触手を呼び出してけしかけるも、ジェーンの腕は狼のそれと化している。襲撃者は鋭い爪で切り裂かれ、ずたずたになって体液をまき散らしながら落ちていく。天守の上昇は止まらない。一たちも追いかけるようにして風を舞った。
激しい風が触手を散らす。一はアテナを抱えながら、自由になった手でソレを焼き払う。先を進むジェーンもまた天守への接近を試みていた。
「急ぎなさい! 魔導書が……!」
深松の姿はもう見えている。彼女の持つ魔導書が鈍い光を放っているのも分かっていた。
「ジェェェエエン! あいつは敵だ! 俺とお前のっ、俺とお前だけの!」
砕け散る橋の破片がなくなってもなお、一は何もない空間を固定させ、ジェーンの足場を創り出す。中空を駆け上るようにして深松に迫るが、あと少し届かない。
見上げる深松の顔が愉悦で歪んだ。次の瞬間、彼女は目を見開いていた。
一とジェーンをすり抜けるようにして空の中を進むものがあった。それは飛び交う触手すら追いつかないスピードで、天守にいる深松目がけて疾駆する。
「あっ、アァ……!?」
深松の動きが鈍った。一とジェーンは、魔導書に穴が空いているのを確かに見た。先まで輝いていた光はもう発せられていない。彼女の肩口から溢れる血によって濡れているだけだ。
「当たったかな」
細目になって空を見上げた店長は言った。
「ん」と店長は持っていたものをナナに返す。狙撃銃だ。名を『一心』。オンリーワン近畿支部技術部がこの世に産み落とした悪魔の申し子とも呼べる新たな浪漫である。
「お見事です、店長。ですが、戦闘の最中、部品が破損していたのにも関わらず使いこなせてしまうとは」
「スコープも観測手もなしにあんな遠くのもの撃とうと思う? 近づいて殴った方が早そう」
パァラはドン引きしていた。
紫煙を吹かしながら、店長はつまらなそうにしている。
「使い勝手はいまいちだ。本当なら頭を吹き飛ばしてやりたいところだったんだがな。まあ、それはあいつらに譲ってやる。これ以上ない適任者だからな」
言って、店長は階段を降り始めた。
心せよ。彼はそう言った。
魔の道に足を踏み入れてそれを覗き込むならば、魔に魅入られることもある。
心せよ。
深松は憶えている。肉体を弄られてもなお忠義の心は揺るがなかった。彼から与えられた魔道に通ずる知恵と一冊の魔導書は、彼女にとっての全てとなった。それが彼の、一時の気紛れであると知っていてもだ。
『ほう。ほっほう。神を喚ぶときたか。面白い。そんなもの、おりゃせんと言うに。……いや、神も悪魔も似たようなものか。であれば娘よ。極東の魔術師よ。わしはぬしの思いが成就されるのを祈っておるよ。その時はどうか、この世界を滅ぼしてやれ』
しかし忘れるな。彼はそう言った。
『その道は茨。他者を傷つけ血を啜るが常道よ。ぬしは必ず恨まれる。必ずやってくるぞ。万能の溶解液を準備しておかなければならぬ相手がな』
『いったい、何が、でしょうか』
『……もう二度と見えることはないだろうが、その時が来たなら――――いや、ならんか。わしらの思いが成就されれば、どちらもこの世にはおらんことになる。わしのことはいっそ忘れるといい』
『いえ。忘れません。きっと』
彼は去った。自分の前からも。この世からも。
忘れはしない。彼を――――円卓の六つ目の席に座るものを。
風が止んだ。
空を駆け回り、天守の壁をよじ登り、今、深松の眼前にいるのは彼女にとってのティンダロスの猟犬であった。それは笑んだ。
「Gotcha」
獣の腕が振り上げられた。深松は奥の手を出そうとするが、
「その手は知ってる」
凄まじい速度で腹を抉られて、そこに埋め込まれていたはずの第三の腕を周囲の肉ごと失った。噴き上がる鮮血に己の末期を覚悟する。それでもと、魔導書を抱いた手に力を籠める。脳裏によぎったのは、竜宮城での会話だった。
『私たちの誰かがお前の大切なものを奪ったんだろう』
千載一遇の好機だった。この時をずっと待っていた。
「そう……か。あの人は、お前が……」
もはや、かの神を呼び出すこと叶わず。ならば怨敵を屠ることのみに全てを注ぐ。深松は魔導書から触手を呼び出した。命を賭した最後の一撃。相手が埒外のけだものであろうが、この至近距離では逃げられないと踏んだのだ。
「諸共、死ね……」
「死なすかよ」
深松が最期に見たのは触手に貫かれるジェーンではなかった。石と化した触手。そして、天守に降り立った一の姿である。彼はジェーンの手を取り、
「青髭によろしくな」
それだけ言って、風と共に飛び降りた。
「く……そ……」
深松はうなだれて、壁に背中を預けた。座り込み、血みどろになった手を見やる。地獄で彼と会えるのなら、悪くはないか。炎に包まれながら、彼女はゆっくりと目を瞑った。
燃え盛る天守を見上げながら、一たちは降下する。シルフの風に抱かれながら、メドゥーサによって作り出された足場を踏みながら、二人を視線を交した。
「お兄ちゃん」
「どした」
「言いたいことがあるの」
「おう、どうしたんだ」
「……降りたら言う」
「別にいいけど……」
「うん。みんなの前で言う」
「そっか」
それから先、一は何も言えなくなった。やがて地上が見えてきて、彼はほっと胸をなでおろす思いだった。
おかえりと、皆が駆け寄ってくる。一は相好を崩した。ただいま。そう言おうとするより前にジェーンが口を開いた。
「ミツモリと別れなさい」
ぴたりと時間が停止した。一の小脇に抱えられていたアテナは時間とは時として止まるものなのかもしれないと思った。記念写真を撮ろうとしていた堀は、炉辺から借りていた三脚カメラの位置を無言で調整している。
ジェーンは真顔で一を見上げていた。彼は聞き間違いだと思いたかった。
「あのさ。ジェーンちゃん、今すごいこと言わなかった?」
「今の衝撃で目ぇ覚めたわ」
並べられたパイプ椅子をベッド代わりにしていた糸原が起き上がる。
「お兄ちゃん、ミツモリと別れなさい」
「あのなあ。俺が三森さんと離れるわけないだろ」
「もうガマンするのはイヤ。お兄ちゃんだってフツーの子と付き合う方がいいに決まってるよ」
聞き間違いではなかった。一はジェーンを諭そうとするが、彼の腕が独りでに燃え上がる。案の定というか、三森が現れて、がなり声を放った。
「お前だって普通の人間じゃねェだろ!」
「シャラップ!」
「なンだと! ……なんだよ」
約一年ぶりに見る三森の姿に立花は興奮した。
「わーっ、ふゆちゃんだふゆちゃんだ」
「だっ、くっつくンじゃねェよ! それよりこのチビ……なんてこと言いやがんだ! あっ、変なとこ触ンな」
「おお、久しぶりに三森を見たな」
感慨深そうに言う店長や、へらへらとジェーンを煽る糸原や、三森はどこを見ていいのか分からず視線をさまよわせていた。
「さ、皆さん、とりあえず一枚撮りましょうか。ほら、もっとくっついて笑ってください」
「笑えるか!」
「炉辺さんが皆さんの写真も欲しいと言ってますので」
堀は無理やりに全員を並べようとする。
「一仕事終えた記念ですよ。『円卓』の時はこういうのできなかったもので。いやあ、やっぱり皆さんお揃いだといいですね。八百坂くんがいないのがもったいないなあ。そうだ。戻ったら店の前でもう一枚いきましょう」
「アタシは認めてナイ! お兄ちゃんにフサワしいのはアタシなんだから」
「うるせェ燃やすぞ」
「まー、確かに私も認めてないかな。掠め取られちった気分なんだよなー。ねえ、一さ、私に乗り換えときなよ。なんだったらブチブチに引き裂いてやってもいいんだけど」
「何をですか」
「じゃあボクもボクもー」
「ちょっと先輩何言ってるんですか、こんな人先輩には相応しくないです」
「酷くない?」
「そもそもマスターにはナナがいるんですから、皆さまこの際ですからもう諦めて欲しいです。ナナの話、聞いてますか? 妹。ちょっと一途と一念を貸しなさい」
「何する気よ」
「どうせだからあたしも一さん争奪戦に参加しましょう。一さんはマゾの気がありますからあたしとは相性がいいと思うんですよね」
「思い込みだから。つーかお前いたの?」
「はーい、それじゃあ撮りますよー」
「だから!」
人間どもがぎゃあぎゃあとやっているのを、店長と戦乙女たちが面白そうに眺めていた。
「…………仲良しが一番」
「もっともだ。どうだシルト。店長を代わってもいいぞ」
シルトは鬱陶しそうに首を振った。
「あの連中をまとめるのなんて私には無理……」
「安心しろ。私にも無理だ」
陽は暮れかかる。一たちの後ろで竜宮城が本格的な崩壊を始めた。空からは天守の燃え残りや橋の破片が落ちてくる。『教団』の野望と深松の願望を蓄えていたものがこの世から消えてなくなりつつあった。アテナはその様子を見つめていたが、ふい、と、何か断ち切るようにしてカメラの方へと顔を向けた。
「人間って、本当に……というか、私をいつまで抱えているつもりなの!」
くだらないことばっかりで、つまらないことばっかりだ。
愚にもつかない無知で蒙昧な人間たちが支配する世界。神や悪魔にねだって頼って滅ぼそうとする輩がいるのにも頷ける。しかし、アテナはこの世界が滅んでもいいとは思わなかった。くだらなくて、つまらない。しかし女神である自分もまた、そんな世界で生きている。どうしようもない世界に生きているどうしようもない人間に支えられてだ。そして彼ら人間は、その世界を愛おしく思っている。
今日も、明日も、その先もずっと。これからも続いていく。
災いはまた人間に降りかかるだろう。そのたびに彼らは抗って、戦って、自らの手で未来を勝ち取るに違いない。願わくは、今度こそは、自分がその一助になれれば。ちゃっかりとピースサインを作った女神はそう思うのだった。
(『24時間戦う人たち 乙姫編』終わり)