それが、愛でしょう
「私、全部肯定します。やることなすこと裏目に出て世界中の人を敵に回したって私だけは味方でいます。私になら何をしてもいいし、私以外の人に何をしてもいいです。道具でいいんです。好きに使ってくれて。あなたが命じたのなら、私、何でもします。何だって殺しますし、何人だって相手にします。でも、その代わりにずっと傍に置いて欲しい。わがままですか。ねえ、須部村さん」
赤光が視界を焼いた。
瞬きの後、鮮やかな夕陽が水面に映っているのが分かった。朱色の橋も、シルエットになった山の稜線も、その向こうに消えていく鳥たちも、燃えるような世界の中に息づいている。
「化け物の根城にしては、ずいぶんと洒落た場所じゃないか。なあ? ……おい、どうした」
「え」
「どうしたと聞いている」
一は耳に手を当てて、傍に立つ店長の顔をじっと見た。知らない女の声が聞こえていた。毒のように甘やかなそれは、聞いたものの心にべっとりと染みついて離れないだろう。事実、一はその声をしばらくの間振り切れなかった。
「いえ、少し、耳鳴りが」
「それだけならいいが、お前はよく嘘をつくからな」
「ついたって見破るくせに」
「かもな」
言って、店長は煙草を銜えた。
「店長」
「なんだ」
一は店長をねめつけた。
「なんで俺についてきたんですか」
「そのことか」
紫煙が二人の間に燻った。
「お前ひとりではどうにも心もとなくてな」
「襖、一つ残ってるじゃないですか」
「後で行けばいいだろう」
「だったら最初から全員で同じ襖に行けばよかった」
「……怒っているか」
「少しは」
一は髪の毛をかき回した。
「俺がぶっ殺されたら、三森さんに申し訳ないってやつですか」
「お前……本当、嫌なやつだな」
呆れたようにして店長が言った。
「腹は立つが、もっと腹が立つ相手がそこにいる」
「まあ、ですね」
二人は川のほとりに建つ木製の小屋に目をやった。のぼりが立っているそこは茶屋のようだった。赤い縁台の上ではスーツを着た男が寝転がり、煙草を喫している。彼は一たちが入ってきたことに気づいているだろうが、背を向けたままだった。二人はしようがなく縁台に近づく。
「ようこそ、秋の庭へ」
寝転がっていた男は大儀そうに起き上がり、無精髭の生えた顎を指で揉んだ。髪の毛もぼさっとしていて着ているものにも皺が目立ち、だらしない。一は、その男が傍にいた女から須部村と呼ばれていたことを思い出す。
「秋はいいよな、過ごしやすくて。暑くもなく、寒くもない。平らだ。俺はここが好きだ。ずっとここにいたいが、そういうわけにもいかない。……座れよ。そこに立ってられると、なんというか、邪魔だ」
一は店長を横目で見た。彼女は躊躇なく、須部村と向かい合うように別の縁台に腰かけた。
一は須部村を見下ろす。彼からはおよそ戦意らしきものが感じられない。武器も持たず何の目的もなく、ただここにいるだけだ。
「どうした、座れよ」
「ああ」と、促された一は店長の傍に腰を落ち着かせた。
須部村は髪の毛をかき、あくびを一つ。だらしない所作だが親しみやすさはあった。
「秋の庭とか言ったな」
「ん、ああ。中庭を見たろ? 他に三つ、出入りのできる襖があったはずだ。ありゃ四季の庭だ。全部が全部噛み合えば、そりゃあ素晴らしい観光地になったかもな。いつでも四季を楽しめる庭。その中の一つがここ、秋の庭ってわけだ。入るのは自由だが、一度入っちまえばそう簡単には出られねえ」
「お前を殺せば出られるのか」
「いや、そういうわけでもないが……まあ、そうだな。出られるとは思うぜ」
「要領を得んな」
「納得できなきゃ人は殺せないか?」
「ただの人ならな。お前らは違う。お前らはもはやソレだ。我々はオンリーワンだ。ならば躊躇う必要はないし、理由もいらん」
だろうな。言って、須部村は腕を組んだ。
「この城を退かしてあんたらがどっか行くってのは、そういうのは考えてないんだよな?」
一が問う。須部村は苦笑した。
「そりゃ無理な話だ。出すのはいいが、引っ込める方法はうちの大将だって知らないと思うぜ。それに目的はじき達成される。ここで退く意味はないな」
「目的ってのは何なんだよ。あんたら、何がやりたいんだ?」
「そりゃあ、かの神を呼び出すことだろうよ」
一も、店長も目を丸くさせた。須部村が『教団』の目的を話したことと、彼がどこか他人事のような口ぶりで言ったからだ。
「呼び出すことが目的なのか」
須部村は少しの間黙り込んだ。そうしてから、どこか苦しそうに口を開く。
「お前ら……というか、オンリーワンはいつまでこんなことを続けるつもりなんだ?」
一はその問いに答えられなかった。彼自身にも分からないことだった。
「知らんな。上の決めることだ。ソレがいなくなるまでか、あるいは嫌になって辞めてしまえばそれまでだが……さて、一度でもこんな仕事に手を染めたものが、そう易々と他のことができるものかよ」
「頭おかしいよ、あんたがたは。特に、あんた」
須部村は店長を強く見据えつけた。
「あんただ、二ノ美屋さんよ。世界初の勤務外。翼の生えた畜生をクソほど殺し回ったあんただ。いったい、何匹殺した? そのために何人犠牲にしてきた? これから何人、何匹殺すつもりだ?」
「知らんな」
紫煙を吐いた店長は、須部村から視線を外した。彼は眉根を寄せた。
「話と違うな。血も涙もない女と聞いていたが、なんだ? あんたちょっと、いい女に見えるな」
ふっと、一が鼻で笑った。
「口説かれてますよ。よかったじゃないですか、店長」
「黙れ」
「あー、悪いがそういうつもりじゃあなかった。もっといい女を知ってるしな」
「振られましたね」
「黙れ。第一、私は意気地なしが嫌いだ。タイプじゃない」
店長は口の端をつり上げた。
「私もお前のことを知っている。オンリーワン下柚木店店長、須部村。お前のことをな」
「そうかい」
「アルバイトの女と逃げた、惰弱な男だと聞いている。一目見てその通りだと分かった。そうか。仲間や部下を見捨てたやつがどこで何をしているのかと思えば、どこぞのフリーランスどもに匿われていたというわけか」
一は話を聞きながら、なるほどと得心した。『教団』がやけにオンリーワンについて詳しかったのは須部村がいたからなのだろう。
「逃げたんじゃねえ。選んだのさ。朝も昼も夜も。毎日、毎月、毎年……俺たちは24時間いつだって働いてきた。だがよ、いつまでだって戦いは終わらない。だったらこんなもの、全部まっさら真っ平らにするのが世のためだろうよ」
『ソレと相対するオンリーワンがシャッターを下ろすことはない。誰もが目覚める前に、誰もが眠っている内にも、我々は制服を着続けているんです』
働くことは戦うことだ。
そう言ったものを一は強く覚えている。生涯忘れることはない。そうも思っている。
だから、目の前の男はそれをやめたのだ。彼は戦うことをとうに諦めた人間なのだ。
「そのために神とやらを呼び出すのか」
「俺はあんたらだって救おうとしてるんだぜ。無意味で、無駄だ。勤務外なんざ死ぬために戦ってるようなもんじゃねえか。本当なら終わらないもんを終わらせてやろうとしてるんだ」
「救いだと? お前が決めるな」
一はもう話に加わることをやめた。珍しく店長が感情をあらわにしているのが分かったからだ。
「あまつさえ『選んだ』だと? だったらお前らがいなくなった後、下柚木店の連中がどうなったか教えてやろうか。は。全員死んだぞ。関東支部の助けが来る前に皆殺しにされた。お前がその場にいてどうなったかまでは誰にも分からん。だが、お前は間違いなく逃げたんだよ。挙句の果てにこんなところでくだらない連中の戯言に付き合っている始末だ。頭がおかしいのは貴様らだ。終わりが欲しいのなら首でもくくれ。死にたいのなら一人でひっそり死ね。他人を巻き込むな、意気地なしが」
「ふ。だったらあんたは」
銃声が二発轟いた。一は耳を塞いだが無意味だった。店長は拳銃をホルスターに戻し、須部村の死体を見下ろした。心臓に一発、脳天に一発。間違いなく死んでいる。
「店長」
「なんだ」
「言いたいこと言ってから撃ちましたね」
「少しスッとした。今の今まで隙を見せなかったからな」
一は死体となった男を確認した。
「ずっと寝転がってましたけど、この人」
「腐っても、かつては『処刑人』などと呼ばれていた男だ。実際顔を見たのは今日が初めてだったが、話だけなら聞いていた。関東でも五指に入る腕前だとかな」
「いや、まさかあの二ノ美屋からそのように言ってもらえるとは……お褒めに与り光栄だな」
二人は声のした方へ振り向く。そこには、夕暮れを背にした須部村の姿があった。死体はとうに消えていた。
「どういう芸当だ、そりゃ」
一は半ば呆れていた。
「いやいや、何……」
須部村は鋸に似た得物を手にしていた。刀身は長く、ぎざぎざとしている。
「あんたらのところにいた『火蜥蜴』には及ばないが、ここがどこだか忘れてないか? ここは秋の庭。かの神が眠る魔道のおひざ元だぜ。炎を出すなんざ無理だが」
須部村が増えた。一人、また一人と。
「ほらこのとおり、アフーム=ザーの力を借りて、炎ならぬ陽炎を生み出せるってわけよ」
鋸を持った須部村が五人、整列して、全員が同じタイミングで頭を掻いた。一は店長に視線を遣るも、彼女は諦めたように首を振る。
「夢幻の類ではない。どいつも本物だ」
「そうとも。全部俺だ。何せこっちの命を分け与えてるんだからよ」
一はハルペーを強く握った。須部村だけではない。ここが秋の庭ならば、中庭にあった四つの襖の奥、それぞれに敵がいる。姫もパァラも自分たちと同じように戦っているはずだ。
「あんたがべらべら話す訳が分かったよ。よっぽど自信があるらしい」
「いいや? どうせ世界は真っ平らに滅びちまうんだ。ここで俺が何を話し、あんたらが何を聞いたって何の意味もないだけって、そういう話さ」
「中ボスのくせに偉ぶりやがって」
一は店長の前に出て、ハルペーをくるくると弄んでから握り直した。
「さっさとみんなと合流しますよ。店長、きっちり援護してください」
「一……成長したな。涙で前が見えん。間違って撃ったらごめんな」
「ふざけんな!」
吹雪が、ばらばらになった骨を撫でる。魔法陣から呼び出されたものは悉く微塵になり、立っているのは海華だけとなっていた。彼女は薙刀を支えにして、動かなくなった姫を見下ろす。
随分と粘られたものだ。海華はそう思った。ここ、冬の庭にはイタカの眷属ウェンディゴの力が渦巻いている。足を踏み入れたものを少しずつ衰弱させる力だ。姫は魔女の見習いであったためか効きが悪かったが、彼女が魔力を使えば使うほど衰弱していくのを海華は理解していた。
海華は薙刀の切っ先を姫の首元に当てた。どうするべきか迷ったが、ここで放っておいても彼女の死は確実だ。それならば、一度庭を出て須部村と合流するのも悪くない。敵を一人取ったと報告し、褒められたいとも考えた。
「よし」と薙刀を手元に戻し、姫から背を向けたその時、足首から猛烈な怖気を感じた。
「しつこいんだけど」
姫は海華の足首を掴んでいた。逃がすまいと、行かせまいと。もはや骨の一体すら呼び出せない空っぽの気力。残っているのは旺盛な戦意だけだ。腹に蹴りを入れられても、罵声を浴びせられても彼女は手を放そうとしなかった。
かくなるうえはとばかりに、海華が薙刀を振るおうとした。ここで手を振り払っても、腕の一つでも切り落とさない限り、姫は諦めないと悟ったのだ。だが、その手が止まった。逡巡からではない。直感からだ。勤務外としての経験が彼女を生かした。背後からの攻撃を柄で受け止め、その場から跳ねるようにして退いた。体勢を立て直し、声を荒らげる。お前は誰だ、と。
「せん……ぱい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
姫は侵入者の存在を認めて涙を流した。
「めそめそ泣かないでよ、姫ちゃん。鬱陶しいから」
「だって、だって……」
「もういいから。大丈夫だから、今は大人しくしてて」
姫は鼻を啜った。そうして、安心したように微笑んでから目を瞑った。
吹雪が止み、侵入者こと、立花の姿があらわになった。彼女が刀を鞘から解き放つと、海華は顔を綻ばせた。
「クッソラッキーなんだけど……ツイてる。ねえ、そう思うでしょ? クソガキ」
「ああ、薙刀だったのか、面白そうだね」
「須部村さんに手ぇ上げた女はぁぁああ! 殺す! 私がっ、ぶった切って殺す!」
「ボク何かしたっけ……」
海華が猛攻を仕掛けるも、立花はそれらを全て避けてみせた。必要最小限の動きで凌いだ後、彼女は刀を海華に突きつけた。
「あれ、もう終わり?」
「こ……の! お前ぇええ!」
足を引っかけて海華を転ばせると、立花の顔から笑みが消えた。
「それじゃあまるで部活だね」
海華の顔が真っ赤に染まった。怒りで彼女の目が泳ぎ始める。しかし、やがて一点を見つめて視線が定まった。海華は得物を大上段に構えた。立花もまた、同じように構える。
「ボクを殺すって言ったけど、ボクらもそうしに来たんだ。この街で悪さするつもりなら許さないから」
「うるっせえし。悪さが何? 私らを引き裂こうとする方が悪でしょ。もう大人しく死ねよ」
「何言ってるか分かんないや。それとも、剣を交えれば分かり合えるのかな」
立花は笑んだ。冗談ではない。海華は歯噛みした。
「ちょっ、ああっ、もう!」
首を掴まれ、木の幹に押しつけられたパァラが喚いた。彼女は足掻くが、遮二無二繰り出した攻撃は全て防がれてしまう。なおも力ずくで叩きつけられ、桜の花が散った。
「どうなってんの、その馬鹿力」
ラーヤは答えない。じっとパァラを見るだけだ。
あまりにも手ごたえがない。同じ自動人形でもナナとは違う。あれはもっと情け容赦がなかった。こいつはどうだ。手足の一つでも捥いでやろうかと思うほど呆気ない。そう、ラーヤは考えた。
「…………そこ、まで」
先の考えを行動に移す前に、この春の庭に新たな客が訪れた。ラーヤは首をゆっくりと動かし、相手を確かめる。大鎌を担いだ女であった。見覚えはない。オンリーワン北駒台店からの援軍なのは間違いないだろう。
ラーヤはパァラから手を放し、新たな敵へ向き直った。その瞬間、鎌を持った女ことヒルデが地面に突っ伏した。顔から突っ込んで受け身もとれないまま、彼女は動かない。
罠か。しかしラーヤは忘れていた。相手が自動人形のパァラだから効かなかっただけで、春の庭には、眠りへ誘う旧支配者の一柱、ツァトゥグァの力があるということを。
「ちょっとー!? 来た早々で何やってんの!? 『春眠暁を覚えず』やってんじゃないって! 頑張れ! ファイト! 起きてえええええええ! おはよおおおおおお!」
パァラの反応から罠ではないことは分かった。それにしても効きが良過ぎる。既にヒルデは寝息を立てていた。先にとどめを刺しておくべきと考えたラーヤはナイフを放った。毒がたっぷりと塗られたそれは宙を滑るようにして、
「来たか」
ガトリングガンの掃射を受けて中空で砕けた。
春の庭にもう一人……否、一体の女が現れた。
「やかましいですよ、妹。主に仕える淑女がみっともない」
「姉さん……!」
「恥を知りなさい」
眼鏡の位置を指で押し上げたナナはラーヤではなく、パァラをねめつけた。
「後から出てきて……」
パァラは木の幹に背を預ける形で少しずつ立ち上がる。
「何を偉そうに」
「リミッターを解除なさい、愚妹」
パァラは目を丸くさせた。
「知ってたのね」
「出し惜しみしてどうにかなる相手でもないと見ました。……その体、そのお姿。あなた、ずいぶんと変わられましたね。いえ、それともとうに元の形など忘れてしまったのでしょうか」
「黙って。姉妹仲良く壊してあげる」
「誰と誰の仲が!」
パァラが地面をけっ飛ばした。ナナもその動きに呼応する。ラーヤは二人に向けてナイフを投擲した。パァラはナイフを殴って落とし、彼女に接近する。顔面を蹴り飛ばされて顔を地面で擦る羽目になった。
ナナは中空のナイフをキャッチし、そのままラーヤに斬りかかった。彼女もまた新たなナイフで迎え撃つ。火花が散り、その衝撃で互いの得物が折れた。ナナは間を置かず自前のブレードを振り下ろす。空振りし、無防備な体勢に打撃を叩き込まれたが微動だにしなかった。
――――恥ですって?
パァラは憤った。お前に……いったい誰に、自分の何が分かるというのだ。
彼女は以前の経験から相手が人間であった場合、まともに戦えないようにと制限をかけられていた。パァラ自身が望んだことでもあった。
もう二度と。
二度とは。
パァラは恐れていた。人と戦い、殺めてしまうことを。だが、そうも言っていられない。自分のわがままが通るような場面でもないのだ。竜宮城をどうにかせねば駒台は終わる。この国も、この世界も。自らをこの世に産み落とした父の思いも何もかも。
パスコードもダイヤルキーも必要ない。技術部はパァラの意志一つで力を切り替えさせる。彼らはその術を与えたのだ。彼らのその粋を彼女は知っている。これは信頼だ。
「相手があなたでよかった。オートマータと真っ向からやりあえるやつなんて、たぶん、もう、この先一生出会えない気がするもの」
だからパァラは、本気でやろうと決意した。
まず、一撃。大振りは空ぶったがそこは勘定に入れている。スイッチを切り替える意味合いで、ほとんどフルパワーで地面を殴った。地形が抉れるほどの衝撃が春の庭を襲った。
砂と土と花が舞い上がる。土塊の雨を浴びながら、パァラは小さなクレーターの中から敵を見上げた。
「姉さん」
「なんですか」
パァラの一撃に巻き込まれる寸前だったナナは新しい眼鏡を取り出して装着する。
「手出しするなら、ここでどっちが優秀なのか決めちゃってもいいんだけど?」
「いいでしょう。ですがエレガントに。マスターの名に恥じぬ戦いをお願いします」
「ふ」とパァラの顔が歪んだ。いつの間にかクレーターに飛び降り、彼女と相対する形となったラーヤは眉一つ動かさない。
「エレガントね……」
パァラとラーヤは一歩ずつ近づく。そうして至近距離で立ち止まり、殴り合った。相手の顔面をぶち壊す勢いでありながらお互いが全く譲らなかった。やがて両者が相手の首に手をかけ、超至近距離ノーガードで拳の応酬を始めた。
ナナはため息をついた。
パァラは怒っていた。
馬鹿と天才も、毒も薬も、人も人形も紙一重だ。それらを分かつのはほんの僅かなものでしかない。
金が欲しいとラーヤは言った。金が欲しいなら稼ぐ手段は他にあったはずだ。ラーヤの技術、調薬の力はずば抜けている。それを欲しがるものだって世の中には大勢いる。毒でなく薬であれば。しかし彼女はその技術を、人を傷つけるために培った。
「もう、遅いっ」
道はあった。人を救うだけの技術を持っているはずだった。だから、結末を選んだのは他ならぬラーヤ自身だ。
夏の庭は放置されていた。ここの番人である深松健太郎は携帯電話を耳に当てて座り込んでいる。
太陽。白い砂。青い海。そこに一人。
「あのさ姉ちゃん、誰も来ないんだけど。うん。誰も」
電話の相手は健太郎の姉、『教団』を仕切る深松良子だ。
「えっ、須部村さんの方に二人行った? なんで? ……いや『知るか』って怒らないでよ姉ちゃん。つーか、うん。俺だってやり合うの得意じゃないし、まあぼーっとしてた方がいいけど……姉ちゃん? 何? 化け物が来る?」
化け物。
健太郎は『教団』において戦闘要員ではない。姉が心配なのでついてきただけだ。オンリーワン北駒台店のことを良子から聞かされてはいるが、彼からすれば全員が化け物だ。しかしその中でも飛び切りのが来るとは思っていなかった。
「いやあ、いいですねえ、海」
夏の庭にやってきたのは、にこやかに微笑む男だ。興味深そうに周囲を見回して物見遊山と言った風情だが、健太郎は彼の正体を知っている。
「こいつか……姉ちゃん。愛してるぜ」
健太郎は飛びきりの化け物こと、堀をねめつけた。電話を切り、彼の足元を注視する。刹那、水柱が上がった。堀の体が水に包まれて身動きできなくなる。
「卑怯とか言うなよ。あんた、存在自体が卑怯なんだからさ」
水は細長く形を変え、堀の足や首に絡みつく。彼はそれを解こうとしたが不定のものが相手では分が悪いと悟ったのか、苦笑するだけだ。
健太郎は首にかけていたロケットペンダントを指でつまみ、蓋を開ける。そこには実姉である良子を盗み撮りしたであろう写真が収められていた。
「俺に力を……!」
夏の庭に力を与えているのは父なるダゴンと母なるハイドラである。水を司るそれらは魔法使いどころか魔力の素養を欠片も持ち合わせていない健太郎にも仮初の力を与えていた。
水が絡みつく。その妙な感覚を受け、堀は笑みを消した。
「やれやれ」
辛うじて動く指で眼鏡を弾いて飛ばした。砂浜に埋まりかけたそれが陽光を浴びた。
「父なるものよ! 母なるものよ! 姉なる姉ちゃん! 愛の力を俺に! 俺を愛して! 俺を見ててくれ! 俺がこいつをぶっ殺してやるから!」
海が蠢いた。大波がうねり、巨大な壁となり、動けない堀の姿を覆い隠した。
確か、愛とか言ったか。
随分と青臭いことを口にするものだ。ましてそんなものが力を与えてくれるなど――――悪くない。堀は素直にそう思った。波に巻かれ、息もできない状況で、彼が想起するのは一人の女だ。自らにとっての愛そのものだ。
愛は力を与えてくれる。それは嘘でもまやかしでもなく、悲しいかな厳然たるシステムだ。理屈があり、理論があり、その上で自分に力が与えられる。誓約という法によって、だ。厳守すれば神の祝福が得られる機会は、他ならぬ神によって幾度も与えられた。
『勝ってね、堀くん』
『負けちゃいやだよ、死ぬのもだめだよ』
『もう堀くんうるさいし、この際だからめちゃめちゃ強くなって、それで、みんなを守ってあげてね』
『はい、約束。指切りげんまんね。はい』
ギリシャ神話のヘスティアが、ケルトのク・ホリンに『勝て』と『負けるな』と言ったのだ。ならばそうなる。それが定めだ。
異変に気づいた健太郎は、逆巻く水柱をじっと見つめた。
気のせいではなかった。水が減っている。荒れ狂う波濤の中、浮かび上がる赤光を見た。
ひ。と、喉から絶叫が迸りかける。標的を包んでいた水は一瞬で蒸発し、眩い光が夏の庭を焼く。健太郎が目を開けた時、そこには膨張した浅黒い筋肉を隆起させ、髪の毛を逆立てた男がいた。目は赤く、優男風だった面影はどこにもない。全身から湯気を立たせ、肩で息をしている。ゆっくりと。まるで赤鬼だ。先まで着ていたスーツはぱんぱんになった手足のせいで破れているが、そのおかげでこの男が堀だということを健太郎は知る。
「う、おおっ」
動かせてはならない。ここで殺しておく必要がある。断じて姉のもとになど行かせない。健太郎は吼えた。海が蠕動し、八つの水柱が上がる。それらは触手のようにぐねぐねと動き、化け物じみた堀へと襲いかかった。
堀は八つの触手を一瞥する。殴打が八回、彼に注いだ。同時に触手が消えた。堀から発せられている熱で蒸発したのだ。海からは巨大な鮫や鯨の形をした海水が迫るも、全て触手と同じように消えた。
健太郎は震えていた。ただ、退くつもりなどなかった。戦闘経験のほとんどない彼でさえ理解したのだ。こいつからは逃げられないと。決めた覚悟が夏の庭に後押しされ、魔力をかき集める。
「喰らえバケモンが!」
夏の庭中の水を押し固められてできたのは龍であった。大口を開けたそれが、一歩ずつ近づいてくる堀へと飛来する。衝突の際に起こった飛沫で彼の姿が見えなくなった。
「死にやがれええええぇえええええぇぇぇぇぇ!」
竜の体が縮まっていく。健太郎はなおも叫んだが、堀は止まらなかった。赤い眼と、目が合った。戦意が萎え、気を失いかける。水の龍がこの世界からなくなった。辛うじて倒れるのは堪えたが、彼はもう健太郎の傍に立っていた。ただ、その姿は元に戻っていた。
「あの姿は、あまり気に入っていないんですよ。炉辺さんも『怖い』と嫌がりますし、昔を思い出してしまうものですから」
堀が槍を回転させ、その穂先を健太郎に擬した。
「つまるところ、この戦いはどちらの愛がより強く、勝っているか。今回は私に軍配が上がりましたが、あの姿を引き出せるのは並大抵の所業ではありませんから、どうか誇って欲しいですね」
「くっ」
健太郎は吹き出しかけた。ここに来て、この土壇場で良子の真意に気がついたのだ。誰よりも長く彼女の傍にいたはずだが、ついぞ良子は自分を見てくれなかった。その滑稽さをおかしく思った。
「……一応確認しておきますが」
堀はいつの間にか拾っていたであろう眼鏡をかけた。
「投降するつもりはありませんか」
「ない」
言い切って、健太郎は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「何も知らねえで、何も分かっちゃいねえままで、お前らはもうすぐ死ぬんだ。は、はは、は――――」
健太郎の首が飛んだ。とうに意識のない彼の目玉が覗いたのは夏の太陽と海だ。だが、その奥に潜むものは捉えられなかった。