How to go
カニが。カニが。
「来るんじゃねえぇえよ!」
巨大なカニが扉を抜け出てくる。一はソレを見上げた。カニは左右の大きさが違うハサミを開閉させている。挟まれては一たまりもないだろう。しかも敵の数が多い。数匹はハルパーで仕留めたが一々付き合っていては時間も体力も足りなくなる。
そう判断した一はソレを無視することにした。この場にいる敵の中で最も強大で驚異的なのはカニの化物だ。幸いにして動きは鈍い。彼はその横をすり抜けていこうとした。だが、先まで全開だった正門が少しずつ閉じているのが分かった。嘘だろと喚きながら急ぐも、ソレが前進を阻む。力ずくで退かすことも、跳んで避けることも叶わず、
「ああぁあああちくしょうっ」
門が閉じられた。竜宮城の意志だ。これ以上、誰も招かないと告げたのだ。
知るか。一は周囲に目を配る。門がだめでも外から回り込める。地面から伝う珊瑚を上って門を越えるのもいい。方法はある。しかし、ことこのような状況になれば、目の前の怪物どもが人界に降りることもまた許しがたかった。ならばやるだけだった。
タツノオトシゴのソレが槍を突き出す。緩慢な動きだ。一は攻撃を避け、反撃すべく足を踏み出す。足元が揺らいだ。地面から生えた海藻が蠢いて一の足に絡みついていた。邪魔だとばかりにハルパーで海藻を刈り取るも、床や壁に取りついた貝ですら意志を持っているかのように開閉している。ただの景色だと思っていたものも敵だった。前後左右、見える範囲にいるものは全て敵。話は分かりやすかった。手近にいるソレから一匹ずつ殺す。踏みつけて首を狩り、蹴りつけて首を刎ねる。巨大なカニが足を動かした。真下にいた半魚人が潰れて貝が砕ける。一はその場から飛びのく。カニの動きが止まった隙を狙い、ハルパーで切りつけた。弾かれるような手応えがあった。
「かってえ……!」
反動でたたらを踏む。勢いを使い、ぐるりと回りながらハルパーを振るう。半魚人の胴を凪いだ。返り血が顔半分を濡らす。一はそれを拭えないまま戦いを続けた。状況が変わったのはそのすぐ後だ。先まで一を狙っていたソレの一部が、彼を無視し始めた。その行先は階段で、街に降り立とうとしているらしかった。一は自分を無視するソレの背に追いすがるも、その全てを仕留めることはかなわない。さらに追いかけようとするが、また海藻に絡みつかれてしまう。逃れようとするが半魚人に圧し掛かられて上手く動けない。生臭さとぬめりで全身が総毛立つ。間近には異形の顔があった。感情の宿らない眼だ。何のために生きて、何のために人を襲うのかすら分かっていないのかもしれなかった。
風を切る音がして、一を見下ろしていたその顔が弾け飛んだ。肉片が滴り落ちて口の中に入り、一はむせながらそれを吐き出した。
「そのまま伏せて! 一さん!」
長い階段を、壁を蹴るようにして飛翔するのは姫だった。彼女が跳躍するや後方から発砲音が響き、一の傍にいたソレの頭部を破砕せしめた。狙撃だ。彼の周囲のソレが蹴散らされたところで姫が正門前の広場に辿り着き、四方八方に骨の弾丸を飛ばした。自らの一部に魔力を込めた攻撃は海産物のソレを退かせるに十分だった。生まれた空隙に滑り込んできたのは二人の女だ。パァラと、
「…………なんで」
「ハチキュウはいまいち合わんな」
突撃銃を担いだ店長である。一は目を瞬かせた。
「話はあとだ。パァラ」
「分かってるわよ」とパァラは背負っていたナップザックを下ろし、一を手招いた。
「神野と私でやっておくから行って来い」
何が何だか分からないまま店長に促され、一はパァラの傍にしゃがみ込む。彼女のナップザックから、人の腕のようなものが見えた。
「それは」
「服脱いで」
「なんで」
「つけるからよ。バカ、変な想像しないでよね」
恐ろしい。
怖ろしい。
震えそうだった。どこを見ても敵しかいない。異形どもが列を成し、群れとなって迫りくる。その歩みは遅くとも、確実に距離を詰めてくる。死を具現化したような存在だ。
「ふぅうううう……」
姫は息をつく。思えば、自分たちは恵まれていた。彼女がオンリーワンに入り、勤務外になってからは、店長は少数のソレに対して多数の人員をぶつけるというやり方を通していた。今はどうだ。数的優位に慣れつつあった姫は、少しばかり怖じていた。
恐怖をそのままにはしておけない。放っておけば心は塗り潰される。ひとたびそうなれば即座には立ち向かえなくなる。折れて潰れて力が入らなくなる。その前に、彼女は怒りを思い出す。仮初の激情が四肢に気力を漲らせた。……だが、ソレよりも怖いものがある。彼女の後ろにいる店長だ。
なぜ?
どうして?
店長は的確にソレを撃ち抜く。姫の死角にいるものから順繰りにだ。
姫はまだ視線が定まっていなかった。敵の数が多過ぎるのだ。どこを見ていいのか分からない。目まぐるしく戦況は変化する。姫は、自分がどこにいるのかも分からなくなり、自分の死角すら認識できていなかった。だというのに、店長のフォローは完璧に近かった。いったいこの女は、どこを見て、何を見て――――何が見えているというのだ。
「神野。好きなようにやれ」
「……はい」
思わず舌打ちしそうになって、姫は堪えた。店長が自分やパァラを竜宮城へ向かわせなかった理由が何となく分かった気がしたのだ。今はそれでも構わなかった。
竜宮城からは駒台の街が見下ろせる。兄が……神野剣が守ろうとしたものだ。それをぶち壊そうとするものを姫は許せない。兄だけではない。この街を守るためにいったいどれほどの血が流れたのか。一匹たりとも下に行かせるものか。生かしておくものか。怒りをぶつける。震えるな体。恐れるな心。姫は声を荒らげた。
自分の右腕に、何か妙なものが収まっている。一はそれを一瞥し、嘆息した。
「いい? 調整がちゃんとできていないけど、これ、性能だけはいいから。私たち自動人形のものと変わらないの」
「……おう」
「でも無茶はやめてよね。高いんだから、それ」
取りつけられた義手を軽く動かすと、思っていたよりかは滑らかな感触が返ってくる。ただ、三森に比べれば物足りない。それでもこの状況では得難いものだった。
ぐるぐると肩を回しながら、一はソレどもをねめつける。
「よっしゃ」
「あ、待って」
一の前に回ったパァラは、ハンカチで彼の顔についていた血を拭った。彼は抵抗しかけたが、パァラに力ずくで押さえつけられる。
「ん」とパァラは満足げに笑んだ。
「綺麗になった。いい? 見栄えは大事よ。完全に、完璧に、完膚なきまでに。仮とはいえ私たちのマスターなんだから、きっちりかっこよくしてなさい」
一は何も言わなかった。彼は敵を見やり、一歩前へと踏み出す。そうして、駆けた。派手なアロハシャツが翻った。彼の背中に華が咲いている。
まず一つ。一は姫に群がっていたソレを右腕で殴り飛ばした。反動はない。これならばいけるという確信を得られて、彼はさらに敵の中へと入りこむ。その姿を見て、姫とパァラはゾッとした。一は生身だ。彼女らも知っている。もう彼には盾がない。精霊たちも傍におらず、女神の加護もなく、蛇姫もとうに離れている。ただの人間だ。人間は死ぬのだ。切られれば死ぬ。突かれれば死ぬ。鈍重で、貧弱な肉体だ。だから姫もパァラも一と仕事をするのを嫌がった。一もそのことを知っているはずだ。しかし彼は前に出る。この場において誰よりも脆弱でありながら、その精神は強靭だ。……あるいは欠けて、壊れている。
だが、
「神野さん元気? ちゃんと守ってよ。俺を」
「うるさいです」
自分の傍で戦う一を、姫やパァラは邪魔だとは思えなかった。心強いとすら感じていた。何故なら彼が笑うからだ。数多の敵を前にして、包囲されて、血に塗れながらも笑うからだ。
銃声が断続して鳴った。店長は苛立たしげに言う。
「キリがない。パァラ、門を開けろ!」
「ハァ!?」
パァラは半魚人を殴り飛ばして、門を見上げた。巨人のようにそびえるそれをどうにかしろと言うのか。彼女は店長を睨もうとしたが駄目だった。それよりも速く怒鳴られたからだ。
「くっそう……!」
ソレをすり抜け、踏み潰し、パァラは正門に取りついた。四肢に力を籠め、門を押す。びくともしなかった。彼女の足元にひびが入り、みしみしと軋む。視線を感じて目線を下げれば、ぎょろりと、門には目玉がくっついていた。パァラはその目玉を殴るようにして門を叩く。ぐしゃりと肉の花が咲いた。
「フルパワァァァアアア!」
しかし門はびくともしなかった。
一方、一と姫は巨大なカニを相手にしていたが、散発的な攻撃は甲殻類特有の硬い外殻に阻まれていた。カニはハサミを振り下ろしたが、二人はそれを回避する。
「店長! カニはどうすりゃいいんすか!」
一は情けない声を発した。その声を聞き、店長は口元を歪める。
「変な声を出すな。手元が狂う」
カニの目玉が潰れていた。店長が撃った弾は先から狙いを外していない。姫はその事実を認めるや、カニの脚、その関節部分に紐を巻きつけた。自らの手指を変化させたものだ。そうして狙いをつけてから、紐を刃に変化させる。彼女はぎりぎりと歯を食い縛った。鈍い音と共に解体作業が始まった。カニの脚がばらばらと斬られて落ちていく。体勢を崩したソレが倒れて、傍にいたものを巻き込んだ。
ややあって、一たちはソレを一掃した。
「アァァァァアアァァ……」
力尽きたのか、それとも無駄だと悟ってやる気をなくしたのか、パァラは壁にべったりとほっぺたをくっつけるようにしていた。
「何やってるんですか。真面目に……あれ?」
正門が少しずつ開いていた。姫は怪訝そうにその様子を見ていたが、同時に、死んで転がっていたソレにも注目していた。一は、よくやったとパァラの肩をばんばんと叩いていたが、義手の力加減がまだ分からないようで彼女に『痛いのよ』と叱られていた。
店長は腕を組み、煙草を口に咥えた。
「勝手に開いたのか?」
「まあさっきも勝手に閉まりましたけどね」
「しかし、なぜだ? どうして今開いた?」
「気が変わったんじゃないんですか?」
「誰の」
「いや、そこまでは」
煙草に火を点けた店長はまずそうに紫煙を吐き出す。
「解せん。……一、中で何があった。糸原たちはどうした?」
一は店長らに竜宮城で起きたことを説明した。話を聞き終えた店長はそれだけかと訊いた。
「そうです」一は嘘をついた。アテナのことを言わなかったのだ。
「そうか」店長は一が嘘をついているのに気づいていた。彼女はそれ以上何も聞かなかった。
あの、と、姫が遠慮がちに口を開く。
「一つ、気づいたことがあります。ここのソレから微かですが魔力を感じました」
「魔力?」
「はい。その、酷く雑多というか、ぐちゃぐちゃになって判然とはしませんが」
「でも、それが何だって言うの? 私は何も感じないけど」
パァラは開いた門に背中を預けていた。
「馬鹿力のパァラさんでもびくともしなかったその門、私たちがソレを倒し尽した途端に開いたんです。だから、魔力がカギとなっているのではと」
一は頭をかいていた。姫の言ったことには同意できる。それに近しいことをエレンも口にしていたのだ。
「そうなると厄介なことになる。つまりアレだよな。『敵を倒さなきゃ先に進めない』ってことだ」
「この門が開いたのは、ここにいたソレを全て殺したからなのか?」
死ぬほど鬱陶しいとでも言いたげに、店長は竜宮城を胡乱な目で見上げる。
「もしくは、門が開くのに必要な魔力が溜まったかです。ソレの死骸から門の方へ、魔力が移動していた気配がありました」
店長は火のついた煙草を捨てて、靴の裏でそれを揉み消した。姫は『館』の魔女でもあった。姫は魔女見習いのようなものだが、彼女の師は一流も同然の魔女である。少なくとも自分よりは魔の道に明るいのだ。その言を信じるしかなかった。
「まあ、そうか。そもそも、こんなものは魔法とかじゃないとどうにもならないな」
「こんな面倒な仕掛けをするなんて、ここには相当強力な魔女でもいるんじゃないですか」
「あ」と一が間抜けな声を発した。
「……魔導書だ」
一は思い出す。竜宮城の聖堂にいた女、深松良子は悪趣味な本を抱えていた。
「魔導書? 本当ですか、一さん」
「たぶんだけど。それに……」
「それに?」
「何をしてきてもおかしくない連中だよ。こんなもん持ち出して喜んでるやつらなくらいだし」
姫は小さく頷いた。
「相手が何者なのか分かりませんが、魔道に精通しているものが相手なのは確かでしょう」
「人間が相手かあ。気が重いなあ。自動人形としては。それで? こっからどうするの?」
「そうだな」と店長が悩んだふりをする。彼女はトランシーバーを手の中で弄んでいた。
「無線も使い物にならん。門は開いたんだ。先へ進むしかないが、その前に確認したいこともある。そこでだ。パァラ。ちょっと行って来い」
パァラは瞬きを繰り返す。
「だから、下にだ。竜宮城の様子と敵について報告してくるんだ。相手はわざわざ名乗ったんだ。何か意味があるかもしれん。下でも何か分かったかもな」
「は、はあ? 行って来いって、この階段を下りてまた上って来いって言うの?」
「そう言っている」
「ふざけないでよ!」
「ロボット三原則知らねーのか」
一が言うと、パァラが怒って彼を掴まえようとする。
「お前ロボットだから疲れないだろ。俺たちが行くよりずっといいじゃんか」
「ロボットじゃなくてオートマータ! ああ、もう、いいわよ行って来ればいいんでしょ」
「おい」
店長はナップザックを持っていくように言った。パァラがその意味を理解できないでいると、彼女は装備の補充や、飲み水やたばこなどを持ってくるように付け足した。
「鬼! 悪魔!」
「パァラ。そりゃ鬼や悪魔に失礼だ」
「バーカ! 覚えてなさいよ!」
ナップザックを背負ったパァラが階段を駆け下りていく。その後ろ姿から目を切った店長が一を見る。
「さっきのはどういう意味だ」
「それより、店長が来るとは思ってなかったですよ。どういう風の吹き回しですかね」
「あ、私もびっくりしました。店長ったらすごい剣幕でしたもん」
へー、と、一は姫の言ったことを聞いて意外に思った。
「余計なことを詮索するな。お前はそれで助かったんだ。文句を言うな」
「いや文句じゃなくって疑問すよ。まさか店長、俺のことを心配して? そりゃねえか。優しさの欠片もない人だし」
「え? そうですか? 店長は優しいですよ。特に一さんには」
「え、そうかあ?」
一は、そっぽを向いて紫煙を吐いている店長を横目で見た。
店長たちが行ってからだいぶ時間が経った。無線は役に立ちそうにない。竜宮城で何がどうなっているのかさっぱり分からず、堀はテントの近くをうろうろと歩いていた。どうするべきか考えあぐねていたのである。そもそも彼は考えなしだ。鉄砲玉が如く飛び出して、敵を切り捨てるのには慣れているが、後ろでじっとして頭を使うのは苦手だった。こうなったら残ったヒルデとシルトを連れて、三人で悉くを殺してしまった方が早いのではないか。そこまで考えた時、一人の少女が姿を見せた。
「なるほど、あれが竜宮城ですか。ですが竜宮城にしては禍々しいですね」
「おや、あなたは」
「どうも」と頭を下げたのは、ピンクのTシャツにダメージデニムを履いた少女である。彼女は黒いキャップの位置を直しながら、ショルダーバッグを担ぎなおした。
堀は得心した。店長が言っていた専門家とは彼女のことなのだと。
少女の名は黄衣ナコト。かつてはフリーランス『図書館』だったが、今は図書館の司書をしているごく普通の少女だ。しかし彼女は魔の道に通じている。今の状況を解明するのに打ってつけの人材と言えた。
「そうか。あなたでしたか。いやあ、これは心強い」
「……というか、店長さんはどちらに? 人を呼びつけておいて出迎えもしないなんて腹立たしいですね」
「ええ、ですから」
「それから一さんはどこに? あたしとしてはあの人の顔を見ずに済むのは助かりますが、それでも一言言ってやらないと気が収まらないんですよね。……ところであの、どちらさまでしたっけ?」
堀は目を瞑った。感情を殺そうとしたのだ。
「まあ、何でもいいです。呼ばれたからにはきっちり説明して差し上げますよ」
ナコトは、椅子に座っているシルトを立ち退かせてそこに座った。
くそ。深松は内心で毒づいた。
既に聖堂には彼女と女神以外には誰もいない。みな、それぞれの持ち場についたはずだった。
「どういうことかしらね」
深松は小さな女神を見下ろす。『これ』は物を言わない。何も見ない。ただ聞くだけだ。願いを聞き、祈りに応える装置に近しいものだ。彼女を手に入れた時から始まったこの計画は上手くいっているはずだった。
……この街は特異だ。この街で起こったことを深松もある程度は知っている。オンリーワンがいることも、それ以外の厄介な連中がいることもだ。誰が死に、誰が殺されたかも。しかし目的を達するにはここしかない。この地に染みついた魔力を利用するほかなかった。
横槍を入れてくるであろうオンリーワンのものたちを集めたまではよかった。問題はその後だ。この場所――――海底都市を浮上させた時にある程度を葬るつもりだったのだ。しかし、そうはならなかった。物言わぬ女神の矜持かもしれなかった。腹立たしいが、彼女はここの要である。ご機嫌伺いを続けるしかない。
まだ。
まだだ。
まだ足りない。
海底都市を浮上させ、ここに眠っているであろうかの神を復活させるにはまだ力が足りていない。
「しっかり頼むわよ。乙姫さま?」
皮肉っぽく言うが、それにも女神は反応しなかった。