マイアシモト
階段を上り始めてから、一は違和感を覚えていた。何かがずれている。そう思いながら、自分たちではどうにもならないとも気づいていた。
竜宮城と地上とを結ぶ階段は抜けるように白い。手で触れてみると妙な感触が返ってくる。気になるのは段も、壁も、湿り気を帯びていることだった。階段を上るたび、息苦しさが募るような感覚。空気が薄くなっているのかもしれないが、一は、水の中へ没していくようなイメージを拭えなかった。
「ナナ。ソレは?」
「見えませんし、いません。少なくともセンサーには反応していません」
「なんか、妙ね。何も起こらないなんてありえなくない?」
糸原は睨むようにして城を見上げた。彼女らの前方には情報部の春風がいる。彼女は段を歩いて登らず、飛ぶようにして先行していた。その春風も何の反応も見せなかった。
「しのちゃん。竜宮城ってみんなが言ってたけどさ、なんか、そういう感じじゃないよね。ほら、カメとかいないし」
「いないわね」
「乙姫さまとかいるのかな」
「いないんじゃない?」
「ハジメくんはどう思う?」
話を振られた一はへらりと笑う。
「俺ら浦島太郎じゃないし、歓迎されてないんじゃない?」
「されてないんだ……」
「そもそも、ここが竜宮城かどうかも怪しいとこっすよねー。ねー、糸原さん」
「うるさいバーカ」
糸原は一を見ないまま、吐き捨てるようにして言った。
「……バカって。まあいいや。ナナ、ここって、何なんだ?」
「この階段やあの建造物が物質として存在しているのは確かです。夢幻の類ではありません。……マスター」
「どした?」
「もしや、これは魔術や魔法の類なのでは?」
一は手すりを掴んで立ち止まった。振り返れば、先までいた地上が遠く見えて、自分たちが高所にいるのだと思い知る。
「そんな気がする」
むしろ一にはそうとしか思えなかった。この建造物は昨日今日でどうにかなるような代物ではない。それを成すなら、それこそ魔法に頼るしかない。
「何それ。じゃあ、誰かが魔法使って竜宮城呼び出したっての?」
「呼ぶ……あー、そうかもしれませんね。ほら、ここにあった隕石っつーか、スルトを呼んだのだってヴィヴィアンの魔力だったわけですし」
「クッソ便利ね。隕石だのお城だの、呼べば何でも来るなんて」
「ピザ屋さんみたいだね」
「最近食ってねえー。ピザ食いたい」
「あ、それじゃあさ、終わったらみんなで食べようよ。パーティしたいなー、パーティ」
「立花さんはすっかりパリピになっちゃったなあ」
「パリピって何……?」
「データベースによれば、パーティピーポーを略した言葉のようですね。盛り上がって遊ぶ人のことを指すようです」
「もうそれも古くない?」
「じゃ、今はなんて言うんですかね」
「知らねーよ話しかけてくんなよ、一のくせに」
「ひっでえ」
「それよりさー」と糸原が前方を指差す。
「春風のやつ、なんかずっとこっち見てない?」
一の右腕が熱を持ち始めた。彼はそこをなだめるようにして摩る。
「話に混ざりたいんでしょ。あいつ、お喋りだから」
「仕事しろー!」
糸原に煽られると、春風は寂しそうに背を向けた。
階段を登りきると広々とした空間があり、その先には巨大な門があった。今は開かれている。その様子を認めて立花が嬉しそうにしていた。
「招かれてる!」
「出迎えは?」
ナナは周囲を見回すも、緩々と首を振った。
「反応、ありません」
白い壁。赤い柱。明朝の様式を思わせる建築物に圧倒されながらも、四人は歩を進める。門をくぐると中庭らしき場所に出た。白砂利が敷き詰められたそこは、お宮のような神聖な雰囲気を醸し出していた。
「和風だなーって思ってたけど、なんか、中華っぽいのね」
「え、しのちゃん、ピザじゃなくって中華がいいの?」
「そうじゃなくって、ここの雰囲気」
「我々の知る竜宮は、中国やインドの影響を受けて日本で広まったもののはずですから。恐らくですが、ここも中国の蓬莱がもとになっているのではないかと」
立花は小首を傾げた。
「はるか昔の中国では、仙人が海中に住んでいたと言われていたのです。その場所を蓬莱と」
「へえー、じゃあ中華だね」
「本当に分かってますか?」
「それより春風がいねえな」
「あそこにいるじゃん」
先行していた春風は建物の屋根の上に立っていた。
「……大丈夫そうだな」
一行は中庭を抜け、中心部に当たる建物の前に辿り着いた。
「さながら、ここが正殿というわけですね」
「しっかし、もぬけの殻とはこのことね。空き巣がいたら泣いて喜ぶでしょうに」
正殿も木造だ。だが、先の階段と同じようにしっとりと濡れている。一は段を上がり、襖を開く。妙な感覚を覚えながらも先んじて建物の内部へと足を踏み入れた。その瞬間、真下から風で煽られた。
「……どうなってんだ、ここ?」
建物の内部は吹き抜けだった。だが、帳尻が合わない。建物の中は、外から見るよりもずっと広大で、底が見えなかった。黒々としていて、まるで巨大な獣が大口を開き、獲物が飛び込むのを待っているかのようだった。
ぽっかりと空いた巨大な空間。一は上下左右を気忙しげに見回した。赤い手すりのついた橋が縦横無尽に架かっている。この橋を進んでいくほかなさそうだった。彼のあとから入ってきた糸原たちも目を見開いた。
「ひっろ……何これ?」
「センサーに乱れが発生しています。建物の内部と外部とで……まるで、世界が変化したかのような」
「なんか、前にもこういうのあったかも」
立花は提げていた竹刀袋から鞘に納まった刀を取り出す。
「ナコトちゃんと一緒にヴィヴィアンって魔女とやり合った時、扉の先が砂漠みたいになってたんだ。その時と似てる? みたいな?」
「魔法の類だったか……」
一は頭に手を遣った。
「それで、どっちに行くの?」
「上だな」と一は斜め上の橋を指差す。その橋の欄干に春風が立っているのが見えた。
「どうやって上に行きゃあいいのよ」
全員がぼやきながら斜めになった橋を渡り、渡り切ってまた別の橋を渡り……少しずつ上を目指していく。上っても上っても、渡っても渡っても、どこにも辿り着かないような感覚をみなが覚え始めた時、それは突如として現れた。
教会か、聖堂めいた場所であった。巨大なステンドグラスからの光が一たちに降り注いでいる。長椅子が並んでいて、その中央が通路となっていた。
「また移動させられたのか?」
一は長椅子の背もたれに手を置いて辺りに目を配った。
「ようこそ、オンリーワンの人たち、で、合ってるわよね」
全員が声の聞こえた方へ顔を向けた。立花は弾かれるようにして鯉口を切っていたほどだ。今の今まで気配を隠していたその人物は、ステンドグラスの下にある、女神像の傍に立っていた。
「あれ? オンリーワンの人たちよね? ねえ、合ってる?」
「……何、あんた」
糸原が問いかけると、女は安堵の表情を浮かべた。年のころは二十代の前半といったところか。女の、腰まで伸びた長い黒髪は細かく波打っていて、彼女は分厚い縁の眼鏡をかけている。化粧っけはなく、服装も地味で清貧な印象を受ける。女は一冊の本を胸の前にかき抱いていた。
「どうも、私はダゴン秘密教団の深松良子。あなたたちが初めてのお客様よ。いらっしゃいませー」
「どうやら、人間のようです」
「間違いないな?」
「はい、マスター」
「ちょっとー? 挨拶してるんだけど? まあいいけど、どうせ死ぬんだし」
物騒なことを言った深松という女は、口元に三日月のような笑みを作った。
「それで? あなたたちで全員? ちゃんと揃ってる?」
一たちは警戒したままで口を利かなかった。深松は地団太を踏んだ。
「耳ついてんの?」
「いんや、全員ってこたあないでしょ。上がまともなら何人かは残してると思うよー?」
立花は右方向に視線を遣った。長椅子に誰かが座っていたのだ。そこには二人いた。一人は、よれよれのスーツを着た三十代の男である。手入れされていない白髪交じりの髪の毛で、顎と口の周りには髭が伸びている。咥えたばこの男はだらしない笑みを浮かべた。
「もっとも、コンビニってなあどこも人手不足だからな。もしかすっとこいつらで全員かもな」
「そうですう、須部村さんの言う通りですう」
男の右腕に、若い女がべったりとくっついて絡みついていた。
「そ。それじゃあ始めましょうか。みんなもいーい?」
深松は女神像に手を当てた。ぱきりと、氷の割れるような音がして、像がこの空間から掻き消えた。代わりに現れたのは童女だった。彼女の姿を認めた一は凍りついた。深松は童女の胸に手を当てて、耳元で何かを告げる。
「海底都市、浮上」
天井が。壁が。床が。竜宮城が震えて揺れた。
「それじゃあ、さようなら」
植物のツタのようなものがそこかしこから飛び出てきた。太く、分厚く、滑りを帯びたものだ。
固まっていた一たちが四方に散る。深松の高笑いが聖堂に響き渡った。だが、彼女の笑声はすぐにかき消えた。
「姉ちゃんバカ!」
若い男が深松に飛びかかった。二人してその場に倒れ込むと、そのすぐ上を多数の銃弾が襲った。ナナが弾丸をばらまいていた。
「冗談だろっ」
須部村という男が椅子から立ち上がった。
ひときわ太いツタが一たちの足元を襲撃する。全員が、床に空いた穴の中に落ちるかどうかという瀬戸際で、立花は椅子に座っていた男女に切りかかっていた。彼女は身を守るよりも先に敵を排除することを選んだのだ。その立花の斬撃を、男の腕に絡みついていた女が受け止める。金属音が鳴り、立花は女の得物を確認できないまま、誰より先に大穴の中に落ちた。
立花の次にナナが落ちた。彼女は一の姿を捜したが、混乱の中では彼の援護に回れなかった。
「何してんのよっ、バカ!」
糸原は声を荒らげた。一は深松目がけて駆けていたのだ。彼は手を伸ばしたが、目の前のツタに邪魔されて、
「姉ちゃんに近づくんじゃねえよ!」
深松の傍にいた男に殴りつけられる。それでもなお、一は止まらなかった。
「そいつじゃねえよ……!」
「このっ」
一の真下に穴が開いていた。彼は何か掴めるものを探したが間に合わない。落ちながら、目の端で、聖堂の天井付近を跳び回る春風を捉えた。
罠だった。相手はオンリーワンのことを、自分たちのことを知っていて、警戒していたのだ。完全にしてやられた。分断された。だが、このまま一人ずつやれると思うな。一は右腕に呼びかけた。
「俺のことはいいから!」
一の右腕が炎と化して、彼から離れた。一は、その炎が春風と合流したのを確認すると、不敵な笑みを浮かべて暗がりに消えた。
やがて全員が穴の中に飲み込まれるも、
「追うな!」
立花を退け、追撃を試みようとしていた女の動きが須部村という男の声で止まった。彼は、穴の傍に糸が張り巡らされていたことに気づいていた。
「追ってたら刻まれてたぞ」
若い女は舌打ちし、黒々と空いた穴をねめつけた。
「ああ、もう、何なのあいつら……」
ようやく起き上がった深松は、聖堂から逃げようとする春風を見つけた。
「あいつ……! ラーヤ、追って!」
その声に応じて、聖堂の隅で影が動いた。
一たちは、先まで必死に上ってきた吹き抜け部分に突き落とされていた。だが、先刻とは内部の様子が違っていた。赤い欄干の橋はグロテスクな触手と入れ替わっていて、生物的な空間に変異していた。落下した三人は腐っても勤務外と言うべきか、それぞれの得物を駆使して、一番底の大穴に飲み込まれるのだけは回避していた。
糸原は糸で触手に絡まり、立花は刀の切っ先を壁に突き刺し、ナナは力ずくで着地した。だが、一だけはどうにもならなかった。
「マスタァ!」
ナナが手を伸ばしたが、一の落下は止まらない。彼も必死に手を伸ばし、何か掴もうとするのだが、片腕ではまともに力を籠められない。その様子を見下ろしていた立花が刀から手を放そうとしていたが、その上にいた糸原が怒鳴って止めた。
糸原は「でも」と立花が言いかけるのを遮り、動くなと指示した。
「あいつなら死んでも死なないから」
グレイプニルを巻き取るようにしながら、糸原は触手の上に降り立って、叫んだ。
「にのまえぇぇぇええ! 一人でどうにかしなさいよ!」
一は半ば諦めながら手を振って、真下にある大穴を認めた。気を失いそうだった。そうして彼は三人の前から姿を消した。ナナはずっと一を呼んでいたが、返事は戻ってこなかった。
しばらくして、三人は一本の触手の上で合流する。ナナは何か言いかけるが、糸原の鬼神じみた形相を認めて口をつぐんだ。
「しのちゃん。どうするの」
「……ぶち殺す」
糸原は、深松たちがいるであろう場所を見上げた。
「一が死んでたら、あいつら全員一人ずつ、足の先から頭のてっぺんまで切り刻んで犬に食わせてやる」
「分かった」
立花は刀を鞘に納めて大きく頷いた。
絢爛豪華だった竜宮城が変質した。真白だった階段はどす黒く染まり、そこかしこから獣の鳴き声が轟いていた。
その様子を外から見ていた店長は、トランシーバーを握り締めていた。春風からの定時報告が途絶えていたのだ。
「どうされますか、二ノ美屋店長」
店長は握っていたトランシーバーをテーブルの上に置き、煙草を口に咥えた。火はつけられなかった。
竜宮城の中で何か起こったのは間違いなかった。報告が途絶えたのは、『館』と呼ばれる集団が学校を占拠した時のように空間を断絶されたか、あるいは春風が死んだか、それとも無線を落としてしまったか。何にせよ非戦闘員の彼女にまで戦いの累が及んだのなら事態は最悪なものになっているだろう。
「そうだな……」
店長は、残っているメンバーを一瞥した。彼女は息をつき、近くにいた技術部を呼び寄せると、二言三言言葉を交わした。その様子を見ていた堀は訝しげにしていた。
「私が行きましょうか」
「いや、いい」
「ですが、あの四人に何かあったのなら……」
「ああ、そうだな」
店長は何故か身支度を整えつつあった。鞄を背負い、ポーチをつけ、技術部から何丁かの銃を受け取る。
「神野、パァラ」と、店長は堀を無視したまま二人を呼びつける。そうして竜宮城を見上げた。
「パァラ。一の義手を持ってこい」
「いいけど。ええと」
パァラは何か言い淀んでいた。姫も不思議そうにして店長を見ている。
「なんだ」
「いえ、その……行くんですか? 一緒に?」
そうだと店長が言うと、堀が情けない声を発した。
「なぜ私じゃないんですか。いえ、というか、この後はどうするんですか。私はどうすればいいんですか!」
「後は任せる。安心しろ。専門家を呼んであるからな」
「専門家……? ああっ、ちょっと!?」
店長は弾を込めながら、速足で竜宮城に向かった。その後を姫とパァラが追いかける。
「え、えっ、店長が行くんですか」
「後はどうするのよ? あのポンコツたちだけ残してもどうしようもないでしょう?」
「あいつは私の代わりだ」
店長は階段に足をつける直前、自分たちをおろおろと見ているシルトをねめつけて、自分が先まで座っていた椅子を指差した。
大穴に飲み込まれた一は、竜宮城の正門前で座り込んでいた。気づいたらここにいたのだ。どうなっているんだと周囲を見回すも、何も分からなかった。穴の先がここに繋がっていたのだろうが、どうにも辻褄が合わないことばかりだ。時間も空間も歪である。ただ、自分が生きているという事実だけは認識できた。右腕は空っぽで、だからこそまだ死んでいない。彼は、ベルトに差していた得物を引き抜いた。かつて北という男が使っていて、情報部の旅からもたらされたハルパーという武器である。こんなものは使うどころか触れるのも久しぶりだった。
一は立ち上がる。戻るか。進むか。階段を下れば援軍は呼べるかもしれないが、それよりも彼には気になっていることがあった。深松と名乗った女の傍にいた童女だ。一の予感が、本能が、運命が。何もかもが間違っていないのなら、あれは――――そこまで思い至った時、巨大な門の向こうから数多の異形が歩いてくるのが見えた。
人の姿をした黒い塊。
十本足の化物。八本足の化物。
二本足で歩くタツノオトシゴのような化物。
特に数が多かったのは半魚人のようなソレだ。彼らはみな三叉の槍を手にしていた。
「……まあ、何もないってこたあないだろうけど」
一はハルパーを握る。よく見ると、やってきたソレは海産物ばかりだった。竜宮城というのもあながち間違いではないのかもしれない。そんなことを考えながら、彼はソレをねめつける。盾がなかろうが、炎も風もなかろうが、片腕だろうが関係はなかった。切り捨てて先へ進むだけだ。
最初に襲いかかってきたのはタツノオトシゴのソレだ。人間の兵士のように武装して槍を突き出してくる。一はハルパーで相手の得物を弾き、ソレの腹をけっ飛ばした。踊るように身を翻し、別の異形の首を跳ねる。その行方を追うことはしなかった。戦いに集中する。しかしどうしても童女の存在が頭の片隅で邪魔をする。
一は歯を食いしばりながらハルパーを振るった。……姿形こそ違えど、彼には分った。彼だからこそで、彼にしか判断できないことでもあった。何故なら、あの童女は一に盾を授けた女神、アテナだったからだ。
なぜ。どうして。
一度はこの地で死んだはずの彼女がよく分からない連中と一緒にいたのがおかしくて、不思議で、腹が立ってしようがなかった。
もう一度会わなくてはならない。女神の真意を確かめるには、眼前に立ちふさがる悉くを撃滅する必要がある。
だが、門の向こうから新たなソレがその姿の一端を覗かせた。巨大なカニが横歩きで門を抜けようとしているのが見えて、一は目を見開いた。