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不完全燃焼



 一つ。教団に危害を加えぬこと。

 一つ。教団の計画に対して金銭や労働力によって協力し、いつ、いかなる命令にも応じるために用意すること。

 一つ。深き者との間に子を成すこと。

 これが在りし日のオーベッド・マーシュより今日こんにちの世まで受け継がれた三つの誓約である。ダゴン秘密教団日本支部の深松良子ふかまつ よしこはこの誓いを守り続けていた。父なるダゴン。母なるヒュドラ。そして古代都市に封じられたかの神に仕え続けた。信奉の果て、いつか必ずかの神を復活させるために、身を粉にして。

 深松は胸にかき抱いた書物に目を落とす。ルルイエ異本と呼ばれる魔導書である。

 彼女は、まさか自分の代で先祖代々の望みをかなえられるとは露ほども思っていなかったが、いざその時が来ると震えた。武者震いである。

「では」

 暗がりで声がする。

 その声に促され、深松は魔導書を開いた。歌うように、睦言を囁くように。熱を込めて言の葉を紡ぐ。

 遂に来た。この時が来たのだ。やっと始まる。否、終わるのだ。何もかもが。深松が唱えているのは魔法の言葉だ。術ではない。法である。この地に染みついた魔の力に呼応して大地が鳴動する。海の底に沈んでいたモノが地に浮上する。

 出でよルルイエ。

 来たれかの神。

 その暁には冒涜的に悉くを蹂躙せんことを。ただ願う。強く想う。

「おお……!」

 教団の信者たちが歓喜の声を発した。

「……おお?」

 良子は目を開けた。そうして彼女は、あれー、と、頓狂な声を放った。



 駆ける、駆ける。

 駒台の街を疾駆するのは一頭の馬だ。低く唸り、蹄でもってアスファルトを踏み拉く。地面どころか壁や空さえも自在に翔る。いまだ梅雨が明けていない、七月のじっとりとした空気を切り裂いたその馬は大きく、雄々しい。頭部からは二本の角が伸びていて、その先端には人のものであろう肉片がこびりついている。馬は何かを感じ取ったのか、辺りを見回しながら立ち止まった。鬣は黒く、風を受けてたなびいている。瞳は黄色く濁っており、焦点が合っていない。およそこの世のものとは思えぬ佇まいであった。

 それもそうだ。この馬は化生である。この世界においてソレと呼ばれ、人に害をなす存在だ。事実この馬は既に二人の命を奪っている。尊い人の命をだ。その放縦、その悪辣、見過ごすものばかりではない。

 ソレに抗するのは、全国に幅広く展開するコンビニエンスストアフランチャイザーのオンリーワンだ。つまるところ……そう、戦うのはコンビニの店員である。常ならレジを打ち、嫌な客に舌打ちするアルバイターだ。冷房の効いたフロアを飛び出し、勤務外業務に従事する彼らこそが人類の最前線であり、最後の砦である。

「見つけました。確かに、馬の姿をしています」

「角が二本……データベースと照合した。バイコーンってソレね」

「おっ、マジだ。よっしゃ、そんじゃあ行ってこいパァラ」

「……構わないけど指図はしないでよ」

「なんで」

「だってあんたが一番下っ端じゃない」

「ブランクこそあったけど、俺があの店じゃ一番と言っていいくらいの古株なんだぞ」

 物陰からバイコーンを覗いているのは三人の男女だった。正確に言えば、一人の自動人形オートマータと、一人の魔女見習いと、一人の男である。

「古いから偉いのかしら?」

「先輩だぞ。少しは敬えよ」

「嫌。そんな悪趣味な服を着てる人を敬うのなんて」

「夏だぞ!? アロハだろ!?」

 男は声を荒らげた。彼はオンリーワンの制服ではなく、アロハシャツを着ていた。暗がりに咲いたハイビスカスの自己主張は強く、バイコーンはその赤い色をじっと見つめていた。アロハに身を包んだ男の名は一一にのまえ はじめ。れっきとした勤務外店員である。

「あっ。ちょっと一さん静かに。ソレに気づかれました」

「えっ、あ、ごめん」

 ため息をつくのは魔女見習い兼勤務外店員こと神野姫かんの ひめという少女だ。彼女はしっかりとオンリーワンの制服を着ている。その傍で鼻を鳴らすのが自動人形のパァラだ。アロハシャツなのは一だけだった。

「あんたから行きなさいよ、一」

「マスターって呼べよ。ナナみたいに」

「嫌」

「俺は天津さんからお前のことも頼まれてんだけどなー。いいのかなー、そんなこと言って」

「それがどうしたってのよ! 親は関係ないでしょ、親は!」

「ちょっと……!」

 バイコーンが逃げた。一たちはあっと声を上げた。姫は苛立ちを隠せない様子で物陰から飛び出る。

「だからこの三人で行くのは嫌だって言ったんです!」

「えー、そんなこと言わないでよ神野さーん」

「そんななよっとした風にしないでください。……本当に『あの』一さんなんですか?」

 一はへらへらしながらバイコーンが逃げた方を見据えた。

「とにかく追おう。人のいない方には追い込めてんだし」

「言われなくても」

「一々指図しないでよ」

 姫の背中から蝙蝠の羽根のようなものが生えた。彼女は地面を蹴り、中空を飛翔する。その後を、地上から一とパァラが追いかける。自動人形のパァラは人家の塀や屋根を物ともしなかった。

「おぉい待ってってば! 俺は人間だぞ! 飛んだり跳ねたりできるかよ!」

「うっさい!」

 パァラは一を置き去りにするようにして速度を上げた。彼の方からはとうとう姫とパァラの姿が見えなくなっていた。だが、音は聞こえた。先行した姫がバイコーンを捕捉したに違いなかった。

 一がいくつかの角を曲がると戦いはもう始まっていた。開けた空き地だ。この駒台という街にはこういった場所が多い。一年も前、『円卓』と呼ばれたソレの集団が街を襲い、人が減った。駒台はいまだ復興の途上にある。勤務外にとっては一般人を巻き込むこともなく、戦いやすい環境ではあった。

「来ないで一さん!」

 姫は、体を別の何かに変化させられる魔女の技を使っている。先の羽根もそうであったし、今しがた腕から飛ばした、先の尖った何かもそうだ。

「ええ、でも」

「邪魔って言ってんの!」

 バイコーンの前脚から繰り出される踏みつけを、両の腕で防いでいるパァラも一を邪険にした。

「暴れんなっ」

 パァラはバイコーンの脚を弾き返し、力いっぱいソレの横合いから殴りつけた。巨体と言えどもオンリーワン近畿支部技術部の粋を集めたパァラのボディである。ヒヒイロカネもかくやの硬さだ。殴られれば一たまりもなくバランスを崩す。ソレは倒れかけたが、四肢を奮って耐えた。

 しかしそこまでであった。姫は手指を紐に変え、ソレの脚にぐるぐると巻きつけていたのだが、その紐を刃に変化させた。瞬間、血煙が上がり、足を失ったバイコーンは傷口から地面に倒れ伏した。それでもなおけだものの意地か、濁った眼に宿る戦意は旺盛である。

「ほら、あとはそっちの仕事」

「見せ場は残しておきましたから、一さん」

「……そりゃどうも」

 一は頭を掻きながら親指と人差し指の腹をこすり合わせた。すると、そこからちろちろと赤い火が覗く。やがて小さかった火はごうごうと風を飲み込み炎と化し、彼が、まだ動こうとするバイコーンを一瞥するや独りでに離れた。炎はバイコーンを容易く飲み込む。苦鳴が上がった。末期の嘶きだ。肉の焦げる音と臭いで三人は顔をしかめる。

「センサーに異常が出そう……」

「最近アレだな。こんなんばっかな気がするな、俺」

 一はたばこを探そうとしてズボンのポケットをまさぐる。姫は苦笑した。

「そのために一さんを呼んでますからね」

「ええー、そうなの?」

「楽でいいじゃないですか。『仕事はもっと適当に、肩の力を抜くように』って、教えてくれたのはどなたでしたっけ」

 今度は一が苦笑する番だった。



「というわけで、仕事、終わりました」

「うん、ご苦労でした」

 オンリーワン北駒台店に戻った一たちは、バイコーンを仕留めたことを店長に報告した。一は、椅子に座ってたばこを吹かす店長をじっと見つめていた。彼女はその視線を鬱陶しく感じたのか、ねめつけるようにして一を見返す。

「何だ。その目は」

「いや、相変わらずっつーか、なんつーか」

「何がだ」

 吐き捨てるように言うと、店長は一たちを追い払うように手を振った。姫とパァラはバックルームから出たが、店長が一を呼び止めた。彼は面倒くさそうに立ち止まる。

「一。お前……そのアロハ、何とかならないのか」

 自分の着ているものを認めると、一は相好を崩した。締まりのない笑みであった。

「いいでしょこれ」

「やめろ。アレスを思い出す」

「そうかなー? パァラにも趣味が悪いって……夏なのに」

 店長は短くなったたばこを灰皿に押し付ける。

「なーんか冷たくないすか、みんな。今日も『邪魔』だの『来ないで』だの」

「何だ。神野たちに言われたのか。それはな、気を遣われているんだよ」

「気を?」

「『円卓』を止めたのはお前ひとりの力ではないが、最後の最後、押し込んだのはお前だ。そもそも、神野もパァラもあの時は、最初こそ私たちの敵に回っていたんだ。そりゃあ気の一つや二つは遣うだろう」

「そういうもんですかね」

 たばこを探り当てると、一はそのうちの一本を口に咥えた。

「苦労した分、楽していいって言われてるんだよ。甘えておけばいい。違うか」

「……まあ、そういうことなら」

「ああ、それで思い出した」

「何をです」

 店長はくるりと椅子を回転させて一に向き直る。

「例の隕石。スルトとか言ったか。まあ、何も知らないものからすればただの石だが、そこに博物館が建つらしい」

「ああー、そういやなんか大掛かりな工事してましたね、あそこ。えっ、つーか、マジすか。博物館すか。何の?」

「隕石の」

「……隕石の博物館?」

 つまんなさそう。そう呟き、一は破顔した。

「俺の銅像とか建たないんすかね。金とかで作って欲しいな」

「そうなったら嬉しいか」

「いや、全然」

「なあ。お前、これから先どうするつもりだ」

「あー、そういう話は、そのー」

 一はたばこの火を消してバックルームから出ようとする。

「今逃げてもいいが、後で捕まえるぞ」

「じゃ、つかの間の自由を楽しみます」

「おい、待て。待てと……! ちっ、図太くなりやがって」

 店長は新しい煙草に火をつけた。バックヤードに難しい顔をした堀が入ってくるのとほとんど同じタイミングだった。彼は頭をくしゃくしゃにかき回して、眼鏡の位置を指で押し上げた。

「いやあ、一足遅かったですね。逃げられてしまいました」

 柔和そうな笑みを浮かべる堀だが、目の奥は笑っていなかった。彼には疲労の色が濃く滲んでおり、それを隠しきれていなかった。

「一を勧誘に来たのか。さっさとどうにかしてやれ。あいつ、大学を辞めたんだからな」

「そうしたいのは山々ですが……戦闘部うちも随分と人が減りましたからね。有望な人材は他の部署に取られる前に確保しとかないと、とは思うんですが」

「人が少ないだけお前が暴れられるじゃないか」

 店長が言うと、堀は目を細めた。

「こう言っては、その、あまりよくないとは思うんですが」

「物足りないか」

「お見通しですか」

「今までの相手が相手だったからな。炉辺が押さえていたとはいえ、お前も神さまがどうとか言ってた時代の英雄だ。気持ちは分からんでもない」

 ばつが悪そうになった堀だが、気を取り直したのか居住まいをただした。

「しかし、一くんは変わりましたね」

「適当になりやがった。前はもっと神経質な感じだったのに」

「色々と縛られていましたからね。自由になったんでしょう。何せ彼の傍には気紛れな精霊がいますから」

「怒りやすくて嫉妬深いやつもいる」

「というわけで、うちに誘うのはまだ様子を見てもいいかなと。……気が済むまで好きにすればいいんです」

 それが人生というものですから。堀はどうしてだか、嬉しそうにしていた。



 自宅に帰ると、一は荷物をその辺に放り投げて座り込んだ。暗がりの部屋で一の影が蠢いた。その影はするするとどこかへ行ってしまう。彼はそれを目で追うことさえしなかった。

 一が今住んでいるのは糸原たちのいる中内荘ではない。オンリーワンの関係者に宛がわれたマンションの一室である。がちゃがちゃという音の後、その部屋の扉が開いた。入ってきたのは先まで店にいたはずの店長だった。オンリーワンの制服ではなく、薄手のジャケットを羽織っていた。

「暗いな」

 彼女は明りを点けると、座り込んでいた一を見下ろして仕方なそうにため息を吐き出す。彼には右腕がなかった。失った腕の代わりをしていたモノがいなくなっていたのだ。

「腹は?」

「減ってます」

 店長は提げていた買い物袋をキッチンの傍に置いた。

「何でもいいよな」

 一は小さく頷く。店長は無言でキッチンに立ち、料理を始めた。出来上がったものを食べ終えてもなお二人は言葉を交わさなかった。

 片腕の一を見かねた店長が始めたことだった。彼女は、一が夏でも長袖を着ている理由に思い至っている。要するに彼は意地を張っているのだった。

「……店長」

「何だ」

「美味かったっす」

「そうか」と店長は紫煙を天井に向けて吐き出した。ややあって、彼女は姿勢を崩す。

「やっぱり三森は顔を出さんな」

 一はたばこに火を点けようとしたが、三森がいないので火を出せず、少し苦労していた。自分で適当なところに転がっていたライターを拾い、たばこを口に咥える。

「いいんすよ、店長。俺、メシくらい食えますから」

「やはり迷惑か」

「や、そういうわけじゃ。ジェーンにも糸原さんにも手ぇ借りたくなかったんすよ。本当は店長にだって。でも、なんつーか、なんか逆らえないっつーか……そっちこそ面倒じゃないすか。わざわざここまで来て色々やってくれんの」

「好きでやっていることでもある。気にするな。ああ、もう下げるぞ」

 店長は後片付けを始めた。その後ろ姿を一はぼんやりと見ていた。

「店長も気を遣ってくれてるんですよね」

「え、何か言ったか」

 水を止めると、店長は首を巡らせて一に視線を遣った。

「だから、店長も俺に気を遣ってくれてんのかなって」

「……隣に住んでる子供がな」

「え、なんすか」

「だから、隣の家の子供が目の前で転んだらどうする? 知らない仲じゃないんだ。『大丈夫か』って手を出して、立ち上がるのを手伝うだろう」

「俺は子供ですか」

 じっとりとした目つきで見られても店長は表情を崩さなかった。

「まあな。可愛げはないが」

「でも店長は隣のお姉さんって感じじゃあないっすよね。どっちかと言うと」

「おばさんか?」

 一は答えずにただ笑った。ひとしきり彼が笑った後、店長は尋ねた。

「三森は?」

 一は無言で天井を指差した。



 オンリーワン近畿支部情報部二課実働所属の春風麗は仕事を終えて自宅に帰ってきた。タフな仕事だったが彼女はおよそ感情の類を顔に出さない。出していたとしてそれを見抜けるものはほとんどいない。春風はバッグから鍵を取り出そうとしたが、扉を隔てた自分のプライベートなスペースから物音と女の笑声が聞こえてきて、ぴたりと動きを止める。しかし何事もなかったかのようにドアを開き、靴を脱いで廊下を進み、明りのついたリビングに足を踏み入れた。

 赤いジャージを着た金髪の女が、春風が録画していたバラエティ番組を見てけたけたと笑っていた。おまけにたばこまで吸っていた。彼女は軽く手を上げて春風を出迎える。

「おう、お帰り。飯なら作っといたぜ」

 低い卓の上には料理が並んでいたが、それが出来合いのものだと春風は知っていた。

「助かると言えばいいのか」

「ありがとうでいいンだよ」

「一一の傍にいなくてもいいのか」

 春風がスーツを脱ぎながら言うと、ジャージの女こと三森冬の顔から笑みが消し飛んだ。

「年がら年中四六時中いることもねぇだろ。どうせ嫌でも一緒にいるんだ。私らは」

「何かあったのか」

「『何も』」」

「そうか。冬、何か飲むか?」

「おーう」

 部屋着に着替えた春風は冷蔵庫から缶ビールを二本取り、一本を三森に渡した。二人は黙って酒精を口に運んだ。

「あァー、美味い」

「ふ。そうか、二ノ美屋店長が来ているんだな」

「あァー、なーンか急に美味くなくなっちまったなァー」

 三森は缶を持ったままごろりと寝転がった。

「嫉妬か」

「ちげーし」

「嫉妬だな」

「ちげーって!」

 体を起こして唸り声を上げる三森だが、春風は涼しい顔で受け流す。

「嫌なら嫌と言えばいい」

「言えねー」

 缶を弄ぶとちゃぷちゃぷという音がする。三森はそれをぼんやりとした目つきで見ていた。

「ずりーよ、あの人は。だって私よりあいつのこと昔っから知ってんだもん」

「なあ、冬。お前と一一は、その、なんだ? 男女の関係にあるんだよな」

「……なンでそんなん言わなきゃならねェんだよ」

 まさか。春風は呟き、持っていたものを落としそうになった。

「冗談だろう。その辺の高校生どころか中学生だってやることやってるっていうのに、お前らは」

 三森は否定も肯定もしない。

「三つ子の魂百までとは言ったものだ。お前、盗られるぞ」

「はあ? 何を? 誰に?」

「一一を誰かにだ」

「店長にかよ?」

「いや、そこまでは分からんが。とにかくその性格をどうにかしろ。中学生日記よりも見ていられん」

「中学生よりかは進んでますけど!」

「奥手め」

 春風は缶の中身を飲み干した。そうしてふて腐れている三森を一瞥する。恐らくだが、一は三森のことを好いてはいる。しかしそれが男女の愛情なのかどうか分からなくなっているのかもしれなかった。何せ三森はサラマンダーであり、一の武器でもある。二人は駒台に戻ってくるまでの間に方々で戦っていたらしいが、背中を預ける相棒や、冗談を言い合える戦友のような間柄に近い関係を構築していたのだろうとも推測する。

「お前……何笑ってンだ」

「ん」と春風は何となく自らの頬に手を当てた。そう言えばそうだ。自分は笑っていた。彼女は、他人の色恋ほど面白いものはないなと改めて思うのだった。



 夜も深まったころ、寝かかっていた一の頭が叩かれた。彼はハッとして顔を上げるも誰もいない。だが、暗がりで影が蠢いていた。やがて右腕が元の位置に収まると、一はそれを愛おしげに撫でるのだった。



 今日の糸原はご機嫌斜めだった。

 否。一は思い直す。糸原は今日もご機嫌斜めである。

「なんか、最近俺のこと無視してません?」

 糸原はレジ周りの消耗品をチェックしていた。彼女はレジに立つ一を見ようともしなかった。

「冷たくないすかー」

「一」

「あ、なんですか」

「そっちスプーンなくなりそうだから、補充しといて」

「はい」

 早朝シフトの三時間、結局仕事以外の会話はなかった。一は、店を出て足早に去ろうとする糸原に声をかけていた。彼女は二度呼びかけられても無視していたが、三度目になると鬱陶しそうに振り向く。

 糸原はスーツではなくデニムを履いており、それにビタミンカラーのトップスを合わせている。長い髪もこの時期だと暑いらしく、短くまとめていた。

「……何?」

 一は少し気圧されていた。

「や、俺、何かしたっけって。気に障るようなことしたんなら謝りたいなって」

「別に。特に何も」

「えー、それであんな感じの態度なんすか?」

「つーか私忙しいんだけど? あんたはいいわよね。ヒラだし。シフト考えなくていいし、同居人がどうとかで悩まなくていいし、へらへらーっとしてりゃあいいんだから」

 棘のある口調で責められて、一の心が痛んだ。

「もしかして八つ当たり……?」

「八つ当たり……ってわけでもないけど」

「じゃあやっぱり俺が何かしたんじゃ」

「心当たりあんの?」

 一には心当たりがあった。

「特には」

「なんでよ。あるでしょ普通」

「やっぱあるんじゃん。もう面倒くさいから言ってくださいよ。俺の何が気に入らないんすか」

「全部」

 一は目を丸くした。

「全部って言ってんでしょ。それ以上口開いたら許さないから」

「えー……」と一が困惑している間に、糸原はさっさと立ち去っていく。彼は少ししてから、かつて住んでいた中内荘へ向かうことにした。糸原をなだめるつもりではなかったが、彼女のキレっぷりが気にかかったのだ。

 道すがら、懐かしさを覚えながら歩いていると右腕が疼いた。サラマンダーとして彼の右腕となった三森が何かしらの抗議をしているのだ。一は無言で腕を撫でた。疼きは止まなかったが。

 中内荘は何も変わりなく、最後に見た時と同じように古く、朽ちかけていた。彼が訪れるのは一年ぶりになる。一が敷地内に足を踏み入れた時、ドアの開く音がした。二階の部屋だ。一は、糸原かもしれないと思って咄嗟に物陰に隠れた。だが、その足音は彼女のものにしては軽い。そう感じた一は物陰から顔を覗かせる。階段を下りてきたのは二人の子供だった。

「……あら? ハジメ?」

「どうも……」

 階段を下りてきた女児の方が年齢に似つかわしくない艶然とした笑みを浮かべた。彼女はエレン。かつてタルタロスと呼ばれた地下世界の大部分を戴いていた冥界の女主人である。今は違う。今は糸原の食客である。それは彼女の隣でぼうとした様子で突っ立っているフェンリルも同様だ。先刻、糸原が同居人が云々と言っていたのはこの二人のことであろうと一は悟った。

「ここまで来るなんて珍しいわね。シノならいないわよ。それとも他の誰かをお捜し?」

「いや、糸原さんに用があるっちゃあるんですけど」

 一がそう言うとフェンリルがふるふると首を振る。

「わたし、知ってる。しの……はじめのことを悪く言ってた。会わない方がいい」

「まあ、そうね」

 訳知り顔で頷くエレン。一は何故なのか尋ねた。

「ハジメも知ってるでしょうけど、あの子はもともとちゃらんぽらんだったのよ。でも、ハジメがいなくなってから真面目にというか、お店でリーダーをやらされたりして責任感が芽生えていたんでしょうね。とはいえ本人の性質上ストレスがたまってたまってしようがない」

「はあ」

「それから、ハジメが戻ってこなかったのがとどめに近かったんじゃないかしら」

 エレンとフェンリルは一を見た。その視線は抗議に近かった。

「どうして中内荘ここに戻らなかったの?」

「それは……」

 一は言い淀んだが、エレンは分かっているからと微笑んだ。

「甘えたくなかったのね。それにあなたの隣にはもう別の誰かがいるんだもの」

「まあ、そういうことです」

「それでも、シノはあなたに……そうね、頼って欲しかったのよ」

「糸原さんが? じゃあ、俺は何か、糸原さんに甘えなきゃいけなかったってことですか」

「そうもいかないのが人間なのよね」

 エレンは楽しそうだった。

「今までずっと一緒にいたからしようがないのよ。ハジメがいなくなって寂しいんじゃないのかしら」

「そんな子供みたいなことを」

「だってあの子、そういうことに憧れてるんじゃないの? だから私とフェンリルを引き取ったのよ。きっと」

「家族ってやつですか」

「そうね。あの子、ハジメを可愛い弟って思ってたのよ」

 それはどうだろうと内心思ったが、一は何も言わなかった。

「そういや、歌代たちは?」

「チアキはいないわよ。オーディションに受かったから忙しいみたい」

「デビューするかもって、言ってた。しおりとあいねもいない」

「あの二人も?」

「チアキに付いていったのよ」

 話題に上った山田栞とアイネはフリーランスだ。一は、何かあったのかもしれないと不安になる。

「ああ、そういうことじゃないの。チアキの歌の仕事の関係でね、東京の方に行くとかで二人もついていったのよ」

「旅行ってことですか」

「そ。二人とは最近会ったの?」

「あぁー、まあ、会いましたけど……」

 あまりいい思い出ではなかったので、一はそのことを口にするのは躊躇った。

「エレンさんたちはどこか行かないんですか?」

「今から買い物に行こうと思ってたのよ。シノがね。今日はパチンコに行くからって。かなりむしゃくしゃしていたみたいだから食事に期待できないと悟ったのよ。自分たちで何とかしないと。ネグレクトね」

「その背格好で言うと洒落にならないですよ」

「ああ、そうそう、私からもハジメに連絡を取ろうと思っていたの。気をつけた方がいいわって」

「何にですか」

「妙な感じがするのよ」

 何とも曖昧な話であり、今のエレンには全盛の力がない。地上に出てきてからは徐々に力を失いつつある。しかし駒台でも有数の実力者の言うことだ。一は素直に忠告を受け取った。

「魔法とか、そういうやつですかね」

「それが分からないのよね。印象としては、何か、混じったような……ごちゃごちゃにしたような……でたらめな感じ」

「駒台はでたらめなところですからね。色んな人が、人じゃないものもいますし」

 えへへとフェンリルが笑った。

「『円卓』みたいな、ヤバそうな感じですか?」

「どうかしら。とはいえ、人生だもの。何が起こるか分からないものよね」

 人の生を語ったエレンは、それじゃあと出かけていった。一は、以前自分が住んでいた部屋を見上げる。変わらないものもあれば変わるものもある。いなくなった人のことを懐かしみながら、彼も中内荘を後にした。

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