一。
『彼に会いましたよ。……そう、一君。出雲店に遊びに来てくれたんですよ。約束は守りますからって。でも、皆捜してる。今までどこで何をしてたのかと聞くと、まあ、やはり答えてはくれませんでした。そうして、二日ほど出雲店に泊まってもらってから、行っちゃいましたね。駅まで送ると言ったんですが、自分なら大丈夫だと。実際、あっという間に姿が見えなくなりましたから。……ああ、アレが精霊の力だったんですか。なるほど』
オンリーワン出雲店店長、養老正秀は一度、間を作った。
『二ノ美屋さんのところにも間もなく見えるかと思いますよ。ただ、一つだけ気をつけてあげてください。前に会った時とは、彼、違っていました。穏やかなんですが、なんというか、野性味があると言いますか……あんなことがあった後ですから、とにかく、よろしくお願いします』
オンリーワン北駒台店のバックヤードで、二ノ美屋は紫煙を吐き出していた。
『絶対会った方がいいすよ』
今日の夕刻、とある少年に言われたことを思い出して、二ノ美屋は物思いにふける。……皆、喜んでいた。一の帰りを待っていたのだ。
今頃、一たちは何をしているのだろうか。そんなことを思って、二ノ美屋は――――。
「勝手に入ってきちゃいましたけど、いいですよね」
「構わんさ。今は、私とお前以外には誰もいない」
「ああ、そうですよね」
「そうだな。皆、お前の帰りを待ちわびていて、今頃は、お前の住んでいたアパートで肉でも焼いて、酒でも呑んで、昔話に花を咲かせて、お前を囲んでいるはずなんだ。だから私は、この店の留守を一人で預かっている。……皆が、どれだけこの日を待っていたか、分かるのか。お前に」
「そうなったんだから、しようがないじゃないですか」
「お前がそうさせたんだろう、一」
二ノ美屋は椅子に座ったまま、ぐるりとそれを動かした。彼女の視線の先にはスーツ姿の男がいた。
二ノ美屋は、その男を一と呼んだ。
今、ここにはいないはずの男を、そう呼んだ。
「ここに戻ったら、一番最初に会う人はあなただと決めてましたから」
そう言って、一はパイプ椅子を組み立てて、そこに座った。向かい合った二人はしばらくの間、口を利かなかった。
「……皆、元気ですか」
「シルフに聞けばいいだろう。わざわざ影武者させるくらいなんだからな」
一は目を見開く。
「気づかれないとでも思ったか。……まあ、気づいたのは私くらいだろうがな」
「やっぱ、目がいいんすね」
「違う。前に、ゴルゴンが現れた時に、シルフとガーゴイルが言っていたんだ。人間ではない自分たちは、オンリーワンの中には入らない。私はそれを線と呼んだがな。だから、人でないものはこの店に入らない。少なくとも、シルフはそう考えていたはずだ。精霊は、姿を自由に変えられるとも聞いていたしな」
「あいつ、店ん中に入らなかったんですか」
ああ、と、二ノ美屋は頷く。一はつまらなそうに彼女を見返した。
「それだけで気づいたんですか?」
「何となくだよ。何となく。……恐らく、他の連中もそのことに気がつくぞ。シルフが化けてるならいずれぼろが出る」
「別にいいですよ。目的を達するだけなら、ほんのちょっとだけでよかったんです。俺とあなたが、ほんの少しだけ二人きりになれたのなら、それだけで」
熱っぽい視線を受けて二ノ美屋は身震いする。
「そういや、『隕石の降る街』とか言い出してますね、ここ。俺たちがどんな思いであそこにいたのか分かってんのかよ、マジで」
「ほとんど、誰も知らないからな。お前がアレをどうにかしたなどと。私たちはお前がどうにかしたと信じていたが……というか、本当にどうにかしてくれたのか?」
「まあ、俺にも何が何だか、未だによく分かってないところはあります。ただ……」
一は自分の胸を見た。そこに何がいたのか、二ノ美屋にもよく分かっていた。
「もう、メドゥーサはいません。きっと、俺たちの代わりに全部、きっちり止めてくれたんだと思います。だからそれで、アテナからもらった力はきれいさっぱり、消えてなくなった」
「喜ぶべきことなんだろうな」
「たぶん、ですけど。でも、戦うことは止められなかった」
「……何?」
一は天井を見上げる。彼はそうしてから二ノ美屋を見据えた。
「虹を渡り切って、空の上で王様と戦って、それから、あの隕石が降ってきた。で、その後なんですけど、全く、何も覚えてなかったんです」
「お前、あれからどこにいたんだ?」
「気づいたら全然見覚えのないとこにいたんですよ。外国でした。結局、そこはよく分からないまま出て来たんで、今も、そこがどこなのか分かってないです」
二ノ美屋はあの日、空が燃えるのを見た。一はそこにいたと言う。すぐには信じられなかった。
「あ、疑ってますね。でも、一つだけ心当たりがあるんですよ」
「何だ?」
「あの場、俺たちのいたところに来られたのって、空を飛べる人だと思うんですよね」
「空を飛べたら人ではないような気もするがな」
一は二ノ美屋の茶々を聞き流して、目を瞑った。
「旅って人。情報部の偉い人、でしたよね」
「……ヘルメスか」
二ノ美屋が知る限り、旅はアテナの弟神であり、北を気にかけていた節がある。……旅が、アテナとペルセウスが気にかけていた一を救うことは、あり得ない話ではなさそうだった。
「やつはお前のことについて何も触れなかったが、今度菓子折りでも送っておくか。それより、その後、お前は一人で平気だったのか?」
「いや、案外すぐにシルフと合流したんですよ。そっから先は三人で」
「三人?」
「ああ、そうなんですよ。実は俺、腕一本ないんですよ。王様に斬られちゃって」
一はこともなげに言った。だが、彼の腕は確かに二本ある。義手にしては、あまりにも精巧な代物だった。
「今は、そういう風にしてます」
一は自分の右腕を二ノ美屋に対して突きつけた。彼女はそこから、熱のようなものを感じた。
「戦うことは止められなかった。俺にはまだ、やれることがありましたから」
二ノ美屋は、誰に言われるでもなく、火に飛び込む蟲のような愚かさで、一の腕に手を伸ばそうとする。
「この右腕は俺のじゃない。三森さんだ。あなたにはこの腕に触れる覚悟がありますか」
得心する。一は失った腕を精霊の力で補っているのだ。彼は既に風の精霊を従えているようなものだ。ならば……そこで、二ノ美屋は一瞬間、思考を止めた。
「……三森?」
「あの人は今、サラマンダーになってるんです。いや、サラマンダーが三森さんに……やっぱり、あまり気にしないでください」
「いや、ちょっと待て。どういうことだ。あいつは今、なんだ? 生きて、いるのか?」
「生きてるっていうと、どうなんだろうって感じはしますけど。でも、会えますよ。今は眠ってもらってますけどね」
「なぜだ」
二ノ美屋は、三森がどのような形であれ、どのようなものになったとして、彼女がいるのなら会いたいと思った。
「他の女の人と二人きりでいると、あの人は絶対に焼きもちを焼くからです。というか自分で言ってたんで」
「三森が、サラマンダーに。だから三人だと言ったのか」
新しい煙草に火を点けると、二ノ美屋は一の姿を改めて見た。やはり、今日の夕方にモニタに映っていた男とは差異がある。服装もそうだが、体つきががっしりとしていた。また、額には切り傷がある。恐らく、他の部位にもあるのだろう。彼が戦い続けてきた証左でもあった。
二ノ美屋には察しがついている。『火の雨』以降も一が戦いを止めなかったのは自分への憎しみを忘れない為だろう。ひと時でも体を、心を休めてしまえば、泥濘に沈むようにして、復讐心という炎は消える。彼女はそう考えていた。
「一。私は待っていたよ。お前が出雲からここに戻ってきて、私に言ったこと。私はちゃんと覚えている」
一は言った。
駒台を守ると。二ノ美屋を守ると。そうして、邪魔をするものがいなくなった時、二ノ美屋を殺すと。
だから二ノ美屋は、彼に殺される為に待っていた。ここで待ち続けていた。
「なあ、戻ってきたんだ。だったら……」
「店長」
一もまた、二ノ美屋に倣うかのように新しい煙草を取り出す。彼はライターを使わなかった。指の腹を擦り合わせて、小さな炎を灯す。そうやって一は煙草に火を点けた。
「俺も色んなとこ行って、色んなことを考えてました。で、一年間考えて、今日ここに戻ることが出来て、結論を出しました」
前置きは要らなかった。二ノ美屋は期待感でいっぱいになり、胸を躍らせる。
一は紫煙を吐き出し、下を向いた。
「一年ぶりくらいに駒台に戻って、俺だってシルフ任せにしないで皆のことをこっそり見ましたよ。そんで、今の皆には今の生活があって、その中心にいるのは、やっぱりあなたなのかもしれないって。そんな気がしたんです。一年も経てば、俺なんてほとんど赤の他人だ。俺には皆の今を壊すことなんか無理なんですよ。だから、俺はあなたを殺すのはやめた」
二ノ美屋は激昂しかけた。人のことをこれだけ待たせておいて、期待外れもいいところだと。
「皆の今、だと? 違うぞ一。お前のことを待っている者がいる。お前のことが、皆、必要なんだ」
「……だから、俺はあなたを殺しません。今の俺はもう空っぽなんかじゃない。『二ノ美屋愛に復讐すること』しかなかった、一年前の俺じゃない」
一は右腕をぽんと叩いて、二ノ美屋をねめつけた。
「今の俺と三森さんは一心同体、一緒なんです。ほとんど同じことを考えて、同じ風に思う。自惚れなんかじゃない。俺たちは今、そうなってるんです」
立ち上がった一は、二ノ美屋の肩に手を置いた。彼女はそれを受け入れた。
「三森さんに決めてもらいます」
「ふざけるなよ。最後の最後で他人の、女の判断に頼るのか」
「俺はあなたを殺さない。……たぶん、もう、ないんですよ」
二ノ美屋は目を見開いた。一は、ないと言った。それはきっと、自分に対する復讐心や、恨みの気持ちだ。彼女は、自分が遠いどこかに置き去られたかのような寂寥感を覚える。
「でも、俺が許しても三森さんが許してくれなきゃ、俺たちはもう、どうしようもないんだ。どこにいたって、どこにも行けない。何をしたって何も出来ないってことに気がついたんだ。店長、あなたは最後の最後に残ってた、俺たちの十二月三十一日なんですよ。あなたとケリをつけなきゃ、俺たちの時間は前に進まない」
三森が許さないのなら、二ノ美屋の体は一分と経たずに灰と化し、この世からなくなるだろう。
「分かった。一思いにやってくれ」
「あ。許すって言ってます」
「はあ?」
一は二ノ美屋から手を離して、右腕を優しい手つきで撫でた。
「だから許すって。三森さん。ああ、よかった。これでやっと、ひとまず終わったって感じが……店長?」
二ノ美屋は一の襟元を掴み、地面に押し倒した。
「ふざけるな。ふざけるなよ。そんな茶番をっ、私は一年以上も待ったのか!」
「俺に殺されたかったんですか。あなたは」
「そうだ。私は……」
「それとも、許されたかったんですか」
――――そんなものが君の望みだと言うのか。
二ノ美屋は口を利けなかった。一は彼女の様子を認めて、ふっと表情を緩める。
「店長。意地を張り続けてました、俺。許すも許さないもないんです。でも、あなたのことをそう思ってなきゃ、俺は何も出来なかった。だから、許してください。俺のことも、自分のことも」
「お前がそんなことを言うな!」
「それから、俺がここに戻ってきたのはもう一つ理由があるんです」
そう言って、一は小さく手を伸ばす。
「お年玉。生きて帰ったらくれるって言ったじゃないですか」
バックヤードが一瞬間、しんと静まり返った。やがて、二ノ美屋のすすり泣く声しか聞こえなくなった。
泣き止んだ二ノ美屋はバックヤードの壁に背を預けて座り込んでいた。彼女はずっと一を睨み続けていた。彼が何を言っても返事をよこさなかった。
一はバックヤードの中を見回して、覚えのないシフト表を見つけた。そうして、見覚えのある者の名前を愛おしげに撫でる。
「じゃあ、行きます」
「……行く?」
ええ、と、一は頷いた。
「やり残したことは、たぶん、もうないですから」
「学校は」
「退学します。いや、もうとっくに除籍処分されてるかもしれないですね」
「アパートはどうするんだ」
「……糸原さんたちが住んでますから」
「私以外には誰にも、何も言わずに行くのか」
「…………気まずいし、怖いんですよ。また、この街で暮らすのは」
二ノ美屋は息を吐いた。一の気持ちは分からないでもないが、納得は出来なかった。だが、彼を引き留める術も、言葉も、自分は持ち合わせていない。そう思って、何も言えずにいた。
「すみません」
「今日、新しいバイトが入ったんだ」
一がバックヤードから出ようとした瞬間、二ノ美屋は口を開いた。声を発した後、彼女は、自分が無意識の内に言ったのだと気づいた。
一はバックヤードの扉を開いたままでその場に立ち止まった。
「今はな、糸原がリーダーをしているんだ。でも、あいつは人に何かを教えるのが上手くないんだ。言い方もきついから」
「まあ、あの人ですからね」
「一。戻って、きてくれ」
言ってから、二ノ美屋は顔を上げられなかった。
きい、きい。扉の軋む音だけが聞こえてきて、彼女は死にそうだった。
「逃げないでくれ。やり残してることなんか、いくらでもあるはずだ。そんなの、お前が気持ち良くなりたいだけじゃないか」
「だって、俺は……」
「皆の中心にいるのは私だと言ったな。違うんだ。お前なんだよ、一」
扉はきいきいと軋んでいる。
一は動かない。だが、彼の心は、恐らく――――。
そうして、気が遠くなるほどの長い沈黙の後、二ノ美屋はうなだれた。
「……嫌ですよ、そんなの」
ぎいい、と、扉が閉まった。それは、何かを断ち切るかのような冷たい音だった。
「バイトリーダーとか、そういうのはごめんですからね。研修生からやるってんなら考えますよ」
二ノ美屋が顔を上げると、困ったように笑う一がそこにいた。
※
あなたの近くで。遠いどこかで。
朝も、昼も、夜も、今も、我々は戦い続けています。ソレと呼ばれる化け物と、容赦のない眠気と、理不尽な御客様とも。
品揃えは万全、戦闘の準備は万端。
津々浦々、どこにでもあるのだからと侮るなかれ。常に開き続けるお店のドアは我々の覚悟の現れです。
そう、我々は戦士です。24時間戦い続ける戦士なのです。
しかし戦士も休みが欲しい。もっと言えば交代要員が欲しいのです。というわけで、明るい職場! 優しい上司! みんな仲良し、あなたの街の愉快なコンビニで働いてみませんか?
※
(『24時間戦う人たち』終わり)




