SAMURAI DRIVE
音が聞こえる。
どくんどくんと心臓が鼓動している。血が流れている。だからまだ自分は生きている。内からの音に急かされ、煽られ、身体を動かした。
前髪を掠めたテュールの剣は冷ややかな肌のようで、しかし彼の熱情が確かに込められている。立花は短く叫んで、テュールの得物を弾いて返した。
スパークした視界に命運は預けられない。立花は自分の勘に頼り、テュールの鋭い突きを、身を捩って躱す。彼女は苦戦を強いられていたが、臆病なりに彼の癖を少しずつ掴みつつあった。
立花は距離を取りたいと言う気持ちを必死になって押し殺す。半端に引けば、テュールは『見えない剣』を使ってくるだろうと考えていたからだ。
「あぁっ、がああうっ!」
怯え、竦む心に鞭を打って前に出る。立花はテュールが剣を振るよりも早く前に出ることが出来た。だが、彼は片腕のハンデを別の部位で埋める。繰り出す蹴りは素早く的確であり、立花の前進を何度も阻み続けていた。
テュールは剣技以外にも一級品の物を幾つも持っている。彼に比べれば自分の技は付け焼刃に過ぎないと、立花は歯噛みした。
だが、とも思い直す。自分は今、技を競っているのではない。どれだけモノを殺してきたのか比べているのでもない。自分たちは今、命を奪い合おうとしている。それだけだった。
息を細く、長く吐く。体の中にあったものを少しずつ押し流して排除する感覚。
――――殺すんだ。こいつを。
立花の目から光が消える。スイッチを切り替えられた機械のような有様だったが、テュールは一向に怯まなかった。
この瞬間、両者から雑念が消えた。
次の瞬間、地上から火柱が上がった。
上がった火柱は虹の橋を掠めもしなかったが、その熱、その風圧、その音は確かに立花たちにも届いていた。それでも尚二人の剣士は鈍らない。斬り、突き、払い。一分の隙も陰りも見当たらない。
掻き乱されることはない。対手のことしか目に入らず頭にない。互いが互いのことだけを強く認識して混ざり合う。融け合って一つになり、取り巻く空間さえも肉体の一部と化す。
そのような感覚も長くは続かなかった。テュールが立花の腕を蹴り上げ、彼女の得物を弾き飛ばしたのである。
立花に致命的な隙はなかった。ただ、定められた手順を踏んだかのようにそうなった。地力が違えばこうなることは明白であり、彼女は雷切が舞う様子を確かめもしなかった。
テュールは何も言わなかった。口の端を少しだけ歪めて笑ってみせただけだ。彼は、古い友への手向けのような一撃を見舞うべく、剣を振り被った。
立花真。『立花』の六代目。彼女の姿を両目で捉えてテュールは微笑む。
磨いて磨いて磨き続けた自分の剣技。披露するには勿体ない相手だとばかり思っていたが、黄昏時を共にするには悪くなかった。
テュールは立花をイヌではなく好敵手として胸に刻み、生涯忘れないつもりだった。
だが、
「……逸らした」
立花は信じられないとでも言いたげな顔で呟いた。
そして。テュールは信じられないと言う思いでそれを見ていた。既に彼の視界、思考から立花の姿はいなくなっている。彼女の存在が消えたのだ。
「お、お……」
剣を取り落しそうになるほどの衝撃を受け、テュールは忘我的な喜びに支配された。彼の視線の先には追い続けたかった相手がいる。追っても無駄だと一度は割り切り、それでも諦められなかった怨敵がいる。
その名はフェンリル。巨大な真白の狼。北欧神話においてテュールの腕を食い千切った、神喰いの化生である。
テュールは吼えた。しかしフェンリルは答えなかった。
そうして、フェンリルは雲を抜けて、虹の橋よりも高い場所へと跳ぶ。その巨体がテュールを認めることは一度もなかった。
音が聞こえる。
どくんどくんと。
音が。
音が聞こえる。
どるん。どるん。どるん。
音が。その音が。
上がった火柱。跳躍する白い大狼。二つの事象に目を奪われたのは一瞬の出来事だった。
「お嬢様っ」
椛が声を上げた。
神野は、自らの手に戻った得物をしかと握り締めた。思いは湧き上がる。気持ちは奮起される。
「お、あああああああっ!」
烏天狗が虹の橋と並ぶ。彼女は宙を蹴ってとんぼを切った。自然、神野の体も翻る。さかしまになった月をなぞるようにして、彼は得物を振った。
フツ、と。
その綺羅やかな音を誰もが聞いた。
顕現していたのは二メートル近い刀身。大きく、長く、分厚い直刀。それは生前、神野が一度も振れなかったものだった。
しかし今、神野の叫びと共に、布都御魂がテュールの腕を斬り落とした。
一振りすれば国を平和にする。
名に込められた思いを受け、神の剣が剣神とぶつかった。邂逅は短く、終わりは早く。
椛はテュールの背後に着地した。神野も虹の橋の上に立ち、くるくると舞うテュールの腕を認めた。次いで、恋い焦がれていた人を目に焼き付けるようにして見る。
やっと同じ場所に立てた。
そんな気がして、神野は思いが成就したことを悟った。
「立花、今だ!」
再会の喜びより先に、訪れた好機に感謝した。
立花は跳躍し、中空にあるテュールの腕を掴む。切り離されても彼の五指は己が得物を握り締めていた。彼女はそこから素早く剣を抜き、両腕をなくした神に対して振り下ろす。
テュールの肩口から侵入した刃は、驚くほどあっけない手応えでするりと食い込んでいった。斬るというより叩きつけるような勢いで、剣は臓腑をぶちぶちと捩じ切る。
「いあああっ!」
一閃。肩から腰へ。迷いのない真っ直ぐな太刀筋。立花は剣を手元に戻す。斜めに斬られたテュールは膝をつき、血を吐き出した。彼は傷口を見遣り、立花を認めた。
「……すまん、なあ」
テュールは吐血しながら謝罪の言葉を口にする。立花は何も答えなかった。
立花は噴出した血潮を全身で受けながら、テュールの最期を見届けた。力尽き、絶命した彼は虹の橋から落下する。彼女は持っていた剣をテュールに向けて放り投げた。
「返すよ」
投げられた剣は鞘に納まり、テュールの姿は小さくなって、見えなくなった。立花の胸中には仇を討てた、怨敵を殺せたといった昏い喜びはなく、ただ、小さな喜びだけがあった。
「……立花。平気、なのか?」
「あ」
立花は目を瞬かせる。すぐ近くに神野がいた。どうやら夢でも幻でもないらしく、彼女は安心したような笑みを浮かべた。
「からだ、繋がってる」
立花に下半身を指差されて、神野は何とも言えない表情になる。
「お前……まあ、そうだけどさ」
「ごめん。でもよかった。また会えて」
「俺も、本当に」
「ところで、後ろの人は?」
神野の背に隠れるようにしていた椛は肩を震わせて、身を縮こまらせた。
「あー、この人は、なんつーか。ええと、由布椛って言って」
「坊ちゃん。ぼ、ボクのことはいいですから」
「いや、でもさあ」
「いいんですって!」
二人のやり取りを聞きつつ、立花は袖で顔の血を拭い、虹の先に目を遣る。行かなくては。そう思って足を踏み出したが、上手く力が入らなかった。格上の相手を退けて緊張の糸が緩んだのか、ふっと意識が遠くなる。誰かが彼女の名を呼んだが、立花は虹の橋から滑り落ちた。
「立花! あっ、おい!?」
由布椛は自分が烏天狗であり、『立花』の影でいることなど頭から飛んでいた。彼女は虹の橋から飛び降り、立花を救わんとして後を追う。身を空に投げ出した途端、強い風に全身を叩かれ、椛は顔をしかめた。立花は意識を失っているらしく、呼びかけても応答はない。
虹の橋から地上まで間はない。椛が立花を捕まえられなければ、彼女は地面と激突し、死は免れないだろう。
「お嬢……さまあっ!」
椛は手を伸ばし、立花の服を掴んで自分のもとへ引き寄せる。しかし落下速度は緩まない。椛は天狗のように空を翔けることが出来るが、年月により薄まった天狗の血は、中空で留まることを許してはいない。
それでも、椛はようやくにして立花を自分の腕で抱きすくめた。墜落の覚悟を決めた時、横合いから何かにぶつかられた。
椛が不思議に思い、弾かれるようにして顔を上げると、そこには姫の顔があった。彼女の背にはコウモリのような羽が生えており、椛は更に驚くことになった。
「あんた、どうして……?」
問いかけを受け、姫は苦しそうな表情を浮かべる。
「こんなところで死なれたら困る人がいっぱいいるんですよ。それだけなんです」
「……ありがとう、お陰で死なずに済みましたよ」
姫が支えることによって落下速度は次第に緩まり、三人はランダのいる建物の屋上へ降り立つことが出来た。
椛と姫は立花をその場に寝かせて肩を揺さぶる。
「ちょっとちょっと、ガキども退きな」
ランダは二人を押し退けて立花の頬や首筋に手を当てた。
「うん。普通に寝てるだけだよ。そうだね、どこか温かいところに連れてってやるか」
「生きてるんですね」
「ああ」と、ランダは姫の問いに答えた。そうしてから、彼女は疑わしそうな目つきで姫を見る。
「どうして立花を助けたんだい」
姫はランダと椛を見た後、煩わしいと言った風に息を吐き出した。
「何かを嫌うのと同じように、誰かを助けるのに理由が要りますか」
「まあ、あんたがそれでいいって言うなら構わないけど」
「それでいいなんて一言も言っていません」
「難儀な年頃ですねえ」
茶化すように椛が言うと、ランダは三角帽を深く被り直す。
「うるさいね。いいから、上にいる坊やも連れてきてやりな」
「お師匠、どうしました?」
「んー? 別にどうもしやしないよ」
姫たちには言わなかったが、ランダはこの街に使い魔を放っていた。十匹程度の使い魔を常に飛び回らせており、ある程度の状況を把握している。
オンリーワン北駒台店に群がっていたハーピーはその殆どが息絶えていた。
偽物の黄昏時を嘆いていた悪神も、この街を我が物顔で闊歩していた巨大な竜も死んだ。虹の橋の根本、橋の上。そこにいたソレも地に還った。白狼は健在だが、オンリーワンの勤務外が抑えている。
唯一、ランダの使い魔でさえ辿り着けないどころか、覗き見すらままならない場所があった。それは虹の橋の先である。彼女には雲の向こうに何があるか全く分からない。
使い魔を飛ばせない理由は分かっていた。魔力によって弾かれているのだ。仕掛けた相手もおおよその見当がついている。元『館』の住人であり、『円卓の奇士』ヴィヴィアンに違いないだろう。死してなお、その魔力に、彼女に及ぶ者はいない。
「いったい、あそこには何があるんだろうね」
風に乗ったランダの呟きを聞く者はいない。