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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
アーサー・ペンドラゴン
311/328

You can`t stop the beat

 コヨーテが死んだ。槌屋が死んだ。

 ジェーンはたった一人でドラゴンと戦うことを決めていた。

「よし、よし、よしっ! Game on! ブッコロス!」

 決めていたのだからしようがない。自らを奮い立たせるような言葉を口にして、ジェーンはソレへ向かう。

 彼女と相対するのは山のような体躯のドラゴンだ。ジェーンのことを敵だと認識しているのかどうか、定かではない。ドラゴンは身じろぎすらしないが、感情の宿らない眼は確かにジェーンの姿を捉えていた。

 一息で距離を詰める。ジェーンはドラゴンの目を確認した。

 ドラゴンが緩やかな動作で前脚を持ち上げる。ソレの爪に刺さっていた瓦礫が落下し、地面とぶつかって灰色の破片が散らばった。

 自分を踏み潰すつもりなのだろう。そう判断し、ジェーンは感謝した。炎の息を吐かれてはひとたまりもないが、踏みつけてくるだけならばさしたる問題はない、と。

 状況は良くなっていない。しかし悪化もしていない。肉体に何ら影響がないのなら、ジェーンは風のようにすばしこい。障害物だらけの空間をするすると、滑るようにして進む。

 ドラゴンは地面を強く叩いたが、彼女を捉えることが出来なかった。

 ソレの視界からジェーンが消えてなくなる。それと同時に発砲音。発射された弾丸は、地面に突き立てられていたソレの爪の一部を削り取った。

 それがどうしたとばかりにドラゴンが喉を鳴らす。ジェーンは自分の身を隠せるような大きさの瓦礫を探し、その陰に身を潜めた。

 瞬間、ジェーンの潜んでいた瓦礫が轟音と共に粉々に砕け散る。ドラゴンが前脚で払った衝撃によるものだった。彼女はその攻撃を予想していたのか、姿勢を低くして飛ばされるのを堪えた。

 ジェーンは、噴き上がる土煙の向こうにドラゴンの影を見る。彼女は口内に入った砂を吐き出してリボルバーを抜いた。トリッガーに指をかけようとしたところで、リロードを済ませていなかったのに気づき、自分が浮足立っていることを恥じる。手癖にしていたはずの行動ですらままならない。相手は『ただデカイだけのトカゲ野郎』だ。そう思い込んでいても、体の大きさは変わらない。ドラゴンがドラゴンであることは変わらず、その存在感は揺るがない。

 ジェーンは、ドラゴンをじっと見る。周囲には濛々とした煙が立ち込めているが、彼女にとって狙いを妨げるほどではなかった。トリッガーを引く。音は跳ね返ってこない。鉛の弾はドラゴンの鱗にめり込むことすら叶わなかったのだろう。

 この位置では分が悪い。ジェーンは、今は煙の中に身を隠し、隙を窺おうとして移動を始めた。

 だが、ドラゴンの唸り声がジェーンの身を竦ませる。それだけでなく、ソレは吼え声を放った。風圧で煙が晴れて彼女の姿が露わになる。

 獲物の姿を見つけたドラゴンは頭部を突き出すようにして前進した。障害物を身体で除けながら、ドラゴンの爪はアスファルトを剥がして地面を抉る。しかし、ジェーンの姿はまたもや消えていた。

 中空に翻る影を、ドラゴンはとうとう認められなかった。弾丸を脳天に浴びた時、初めて彼女が跳躍していたのだと思い知る。痛みはないが怒りは覚えたのだろう、ソレは尻尾で後背の地面を叩いた。

 ジェーンはドラゴンの頭部に着地し、そのまま尾の辺りを目指して駆けた。ソレは首を巡らせて彼女の姿を捉えると、大口を開けた。

 背中越しに熱を感じたジェーンはドラゴンの背から飛び降りる。着地し、転がるようにしてソレから距離を取ろうとした。

 空気、周囲一帯が灼けるようなイメージを覚える。自分の体が骨まで燃え尽きる想像を振り切って足を動かした。

 ばちりばちりと弾ける音と、ごうという音が聞こえて、炎がジェーンの背中を僅かに焦がす。だが、それだけで済んだ。彼女はそのまま走り続けて距離を稼ぐ。

 荒くなる呼吸。煙を吸い込み喉が灼けた。涙目のジェーンは背後を見遣る。ドラゴンの姿が先よりも大きなものに感じられた。

「……あれっ、ツンデない?」

 ジェーンの足元が揺れる。駒台の街が震える。ドラゴンが立ち上がり、大口を開いていた。口腔内の赤光が飛び散り、彼女の思考を暫し遮る。

 ドラゴンはジェーンの姿を正面に捉えていた。

 彼女の左右には倒壊した建物。竜の息は発射寸前であり、迷う時間はなかった。どこに逃げるか。どうするか。ジェーンは、まず吼えた。

 危機を目前にして吼え声を放つ。愚行である。ジェーンは、動くべきであり、可能ならばもっと早くに逃げるべきであった。伝染病のように早く拡散する炎からは背を向けるしかなく、抗う術などどこにもない。

 常人ならば。

 ジェーン=ゴーウェストがただの人ならば、そも、この場にはいなかっただろう。竜も炎も彼女の生き方を変えるほどの脅威ではなく、己が手で自らの退路を断っているのは彼女だけではなかったのだ。

 ドラゴンの口から放出された極大の火炎はジェーンを目指して真っ直ぐに進む。彼女のスピードを以てすれば火炎の直撃を避けることは可能だろうが、熱と風を喰らうのは火を見るよりも明らかだった。完全には攻撃を避けられない。


『おうおう、その意気だぜ嬢ちゃん。ミーたちは吠えてこそなんだ』


 雄々しい叫びは炎の前にあまりにも無力。しかし、この瞬間だけは意味が違う。ジェーンの声は、この場に遺っていたコヨーテの魔力を通った。

 歌う犬の魔力を介したジェーンの声は、ほんの僅かではあったが、ドラゴンの炎を押し留めた。その隙に彼女は右方へと走りだす。既に両脚は獣のそれに成り代わり、弾丸のような速度を生み出した。

 ジェーンが地面を蹴りつけた際の破片が宙に舞う。コヨーテの魔力によって押し留められていた炎が、それを焼き尽くす。しかしジェーンの姿は其処になかった。

「おっ、オオオ……! オアアああぁぁああアアアアッ!」

 地を蹴ったジェーンの身体は空気の壁を断ち割り、崩れかけた建物の外壁を踏み台にして更に加速する。その衝撃で建物は完全な崩壊を始めた。

 標的を見失っていたドラゴンも咆哮する。自身の周りを飛ぶジェーンを狙って二度三度と火炎を放つが、そのどれもが空を焼くだけに終わった。

 ジェーンは新たな足場を求めて、上下左右の区別なく、空間を疾走する。既に彼女は重力から解き放たれようとしていた。壁に足を着けてそのまま駆ける。背の高い建物からドラゴンの姿を認めて、超高度から攻撃を仕掛ける腹積もりであった。

 が、ドラゴンは火焔による攻撃を諦めた。前脚で地面を砕き、浮いた破片を弾く。あるいは尾を振り回して死角から来るであろうジェーンを威嚇した。当たれば死に直結する竜の怒りを、彼女は全て掻い潜る。

 飛来する物を全て躱した後、ジェーンは一分間ぶりに地に足を着けた。息を吐く暇はない。ドラゴンは彼女を薙ごうとして前脚を突き出す。ジェーンはその下へと潜り込んだ。肌がちりりと焼ける感覚を受けながら、彼女はドラゴンの腹を認める。

「ここならっ」

 腹ならば見える部分よりは柔らかだろうと踏んだ。充分過ぎるほどの速度が乗った一撃を浴びせるも、ジェーンの爪は通らない。長居は無用と、彼女はドラゴンの腹を蹴りつけてその場から離れた。



「ね、強いね」

「……俺が?」

 そうだよと答える声があった。

 男は――――槌屋は目を開けた。ジェーンは彼が死んだものだと思っていたが、まだ息があった。とはいえ、槌屋は五体満足ではない。

 ドラゴンの一撃をまともに喰らい、追撃で炎を浴びた。全身は焼け爛れ、右半身は殆ど使い物にならない状態である。生きているのがやっとで、奇跡であった。

「でも、ここから先は危ないから。早く病院? 行った方がいいよ」

 生き長らえたいなら少女の声に従うのが当然である。だが、向こうには未だドラゴンがおり、それと戦うジェーンの姿もあった。

「俺は、強く、ない」

 竜殺しの称号が欲しいわけではない。槌屋は己の強さを実感したいだけだ。そして。その為に打ってつけの獲物がいる。

「じゃあ、やるの?」

「血肉が訴えている」

 槌屋は瓦礫に身を預けながら立ち上がった。



 ドラゴンの炎を躱し続けている内、ジェーンは、放出の間隔が長くなっていることに気づいた。

 怪物の頂点に立つ存在だとしても、この世に存在しているのだから夢幻ではない。体内で生成されるものには限りがある。

 ジェーンは乾いた唇を舌で舐めた。やるなら、中だ。そう思った。

 ドラゴンの鱗には太刀打ち出来ない。炎を発射するのにも時間差は生まれる。ソレの中から攻撃を仕掛けると、ジェーンはそう決めた。手持ちの札ではどうにもならない。活路は前方に、やつの腹の中にある。

 早く。速く。迅く。

 風よりも炎よりも何よりも速く駆け抜ける。

 ドラゴンが大口を開けた。ジェーンは深呼吸して、ソレをきっと見据えた。まずは初弾を躱す。それだけを頭に叩き込む。

 火竜の口腔内で灼熱が圧縮され始めた。ジェーンは更に速度を上げる。発射された火球を潜り、ソレの口内へ飛び込むつもりだった。

 だが、ドラゴンは炎を放射しない。口の中に溜めたまま、巨体を振るわせ翼をはためかせてゆっくりと飛翔を始めた。羽ばたき一つで衝撃と強風が生まれ、瓦礫を吹き飛ばす。

 ジェーンは苦し紛れに発砲するが、ドラゴンの飛翔を妨げることは叶わなかった。ソレはそのまま高度を上げ、彼女の真上を陣取る。

 空から降る劫火からは逃れられない。素早いだけではどうにもならず、人の規を超えない限りはどうにもならない。ジェーンは、相手がドラゴンであることを遅まきながら実感した。



 溶ける弾丸。焦げる全身。目に見える空気ごと、自分を取り巻く空間ごと熱に飲まれて焼かれる感覚。

 ジェーンはあるものを見た。それは走馬燈ではない。白い鳩である。数羽の鳩が、ドラゴンとジェーンの間を飛び交っていた。

「動かないでね」

 烈しい痛みが消えて温かな風が身を包む。ジェーンは閉じていた目を開き、自分の傍に立つ者を認めた。

 白いワンピース、青いスカート。淡いオレンジ色のマフラーに刻まれた『paix du monde』。青く、丸い目がジェーンを見つめている。靡く黒髪を片手で押さえた少女。彼女のもう片方の手には旗が握られていた。

 大柄な少女の姿を、顔を、声を、ジェーンは覚えていた。忘れられるはずはなかった。友人のことを、どうして忘れることが出来ようか。

「ジャネット!」

 名を呼ばれた少女は無邪気な笑みを浮かべる。

「じっとしてて。火あぶりは駄目だよ。ジェーンには絶対、似合わない」

 ジャネットの旗は天使の御旗だ。悪魔の炎では決して焼けない。彼女の周囲だけ、ドラゴンの炎は意志があるかのように独りでに避けていく。

「だって熱いもの。温かいのはいいけれど、熱いのは駄目だよね」

「どうしてっ、なんでいるの!」

 嬉し涙を流すジェーンはジャネットに抱き着き、至極もっともな疑問を口にした。彼女は、ワルキューレが死者の魂を開放したことを知らないのである。ただただ信じられないと言う思いでいっぱいだった。

「うーん」

 ジャネットはドラゴンの炎に怖じていなかった。ただ、ジェーンを安心させてやることだけを考えていた。

「最初はね、どこにいるのか分かんなかった。ジェーンよりもおっきな声で呼ぶ子がいたんだ。ほら、あの狼さん」

 乱れ舞う火炎の向こう、巨大なものが駒台の街に聳え立っていた。ドラゴンよりも大きな、白い毛並の狼である。ジェーンは絶句した。狼ではなく、ジャネットの相変わらずさ加減に。そして、彼女が本当にここにいるのだと実感した。

「……相変わらず、会話が成り立ちニクい!」

「もっとおっきい声で叫ばなきゃ」

 ドラゴンの炎は無限ではない。溜め込んでいたものを全て吐き出したのか、ソレは苦しそうな呻きを漏らした。

 やがて、夜気を含んだ風が立ち込めていた熱を押し流す。ジェーンは少しだけ冷えた頬を押さえた。今自分は戦っている。だと言うのに笑みが零れてしまってしようがなかった。

「本当は」

 ジャネットは得物の旗を軽く回して、徐々に降下してくるドラゴンに向けて構える。

「私、ジェーンと会いたくなかった。だって、会えばきっと嬉しくなるよ。それで、別れるのが辛くなる」

「ジャネット……」

「でも、ジェーンが死んじゃうのはもっと辛いから」

 中空にいたドラゴンが再び地面に足を着ける。腹にまで伝わる振動と低音に、ジャネットは思わず息を呑んだ。

 ジャネットはドラゴンの強大さを知っている。ジェーンと合流する前に、アレの炎も膂力も確認している。硬い鱗も、何もかもを。どうすればいいか。否。ジェーンがどうしたいのか、どうするつもりなのか、ジャネットには分かっている。

 だから、二人は顔を見合わせて頷いた。



「私たちが防ぐから」

 最初に動いたのはジャネットだ。彼女はドラゴンへと真っ直ぐに走り寄る。ジェーンは炎を警戒して彼女の後に続いた。

 その時、二人を導くかのように白い鳩が数羽、空を翔けた。ジェーンは、鳩が『広場』のメンバーだと気づく。

 ドラゴンは白い鳩を鬱陶しく思ったのか、左足で払い除けた。一撃を受けた鳩だが、落ちることはない。夜が明けるまで彼ら(エインヘリヤル)の魂は不滅に近しい。

 その間にジャネットがドラゴンの足元辺りまで到達していた。

「こっちに!」

 ドラゴンは右足を振り下ろしてジャネットとジェーンを叩きつける。しかし、指の間にいた二人は全くの無傷であった。ソレは頭を振り、口を開いた。

「火を……」

 ジャネットは旗を持つ手に力を込める。この至近距離ではドラゴンの炎を完全に防げるかどうか分からなかった。自分一人だけならどうにでもなるが、ジェーンを庇えるかどうかは、神のみぞ知ると言ったところであった。

 天使の声は聞こえない。ジャネットはジェーンの身体を引き寄せて、旗で自分たちの姿を隠そうとする。

「チャンスっ。行くからアタシは!」

「えー、と、今?」

「今しかない!」

「そんなことないよ! 焼け死んじゃうよ!」

 ジャネットはジェーンを見遣る。彼女の横顔には狂気が張りついていた。

「せめて、もっと後で……!」

 ドラゴンが口内に炎を溜めたまま二人に頭部を近づけてくる。ジャネットには火除けの加護が宿った旗があるが、それでも苦しい状況だった。


「先にやらせてもらうぞ」


 ジャネットもジェーンも我が目を疑った。

 ただの人間が、何の加護も受けていない者が、炎を吐き出さんとしているドラゴンの傍にいたからだ。

「ツチヤ? あれ? 生きてるの?」

 槌屋の四肢からは火傷によるものなのか、煙が上がっている。土と埃に塗れた横顔。残った片目は獣じみた輝きを宿していた。彼は確かに生きている。息をしている。しかし万全ではない。ジェーンからは見えなかったが、槌屋にはもう、目も、顔も、腕も、右側の部分がなかった。



 五体満足で戦うことは贅沢だ。化け物と戦い続ければ腕の一本や二本、失うこともあるだろう。

 槌屋はイメージし続けていた。

 今日、この時まで四肢どころかどの部位も欠損せずに済んだ。だが、右腕がない場合は? 左足が使えない時は? 指が一本なくなるだけで戦い方はがらりと変わる。想像だけでは補完出来ない状況を思えば、五体満足でいることが途轍もない足枷であるように感じられた。同時に、親からもらったものを自傷行為で失うことがどれだけ愚かしいことなのかも分かっていた。


 ――――俺は今、どうなっているのだろうな。


 槌屋は今日、生まれて初めて腕を失った。脚を奪われた。目をなくした。

 しかし彼はドラゴンの元まで歩いてきた。歩を進める度に肉は滴り落ちて血液は沸騰してなくなったが、ソレの姿をしっかと認めている。そして。

 残った左腕は、ドラゴンの顎を的確に捉えていた。

 槌屋の全身に電撃のような喜びが走った。これもまた生まれて初めての衝撃であった。勝てない相手に出会うことは稀だが、勝ちたいと思う相手に出会うことはそれ以上に稀である。ドラゴンは槌屋にとって勝ちたい相手であった。

 先まで強かに殴りつけられていた相手をぶちのめす。迸る絶頂感で狂い死にしそうだった。

 だが歓喜の声を発することは出来なかった。彼の喉も、彼自身も、既に焼けて影すら残らなかったからだ。



 顎を『殴られた』ドラゴンが空を見上げる。槌屋の放ったアッパーカットがそうさせた。ソレはたまらず、上空に向かって炎を吐き出した。

 放出された火炎は柱となり、空を目指してそそり立つ。分厚い雲は熱風によって巻かれて吹き飛ぶ。

「……っ!」

 ジェーンの視界いっぱいに白いものが映り込んだ。巨大な狼、その脚だ。

「ぼーっとしないで、ジェーン!」

 狼に意識を奪われた。我に返ったジェーンは、自分がジャネットに肩を掴まれて揺さぶられているのに気付く。

「飛び込むからっ、連れてくから!」

 ドラゴンの口に炎はない。しかし未だ熱は残っているはずだ。また、次弾を装填される可能性もある。そうなれば、たとえジャネットの旗があったとしても火口に飛び込むようなものだ。今しかなかった。

「……そうだ。今なんだ」

 竜の炎が雲を散らした。真白の狼が空を露わにした。


 月が、見えた。


 かつて大嫌いだったものを、こんなにも有り難い気持ちで見たことはなかった。ジェーンは吼え声を放ち、地を蹴った。

 ジャネットはドラゴンの脚を踏み台にしてソレの口を目指す。ジェーンは彼女の後を追い、じれったくなってジャネットの腕を掴んで引いた。人狼としての能力が最大限に発揮された今、ジェーンを縛るものも、止められるものもどこにもない。

「わあっ!? ひどい!」

 ジェーンは、ジャネットをドラゴンの口に放り込む。一瞬間だけ空を見遣り、自分も竜の口内に飛び込んだ。



 恋人。友人。家族。

 ジェーンを悩ませていたものは多々あった。

 兄が欲しい。恋人になって欲しいと願った人がいる。気の置けない友達も欲しかった。

 異国の地でただ一人、ジェーンは一だけを頼った。本当は、父に、母に、親に許して欲しかった。人狼としての姿を見られても構わない人がいて欲しかった。

 ……ジェーンは今日、竜を殺した。

 口の中から内側に突入し、内部を割いて竜を殺した。

 その時、ジェーンは柵を振り切れたような気がした。本当に大切な物はまだ失っていないとさえ思えた。ドラゴンは彼女にとって、何かしらの試練だったのかもしれない。



 ジェーンとジャネットはドラゴンの死骸に腰かけて、駒台の街を見下ろしていた。

「寝る?」

 気楽そうなジャネットの声を聞くと、ジェーンは自分の身体から力が抜けていくのを感じた。

「寝ナイ」

 顔にこびり付いた竜の肉片を指で弾く。二人は、血に塗れた互いの顔を認めて苦笑した。

 話したいことがあった。

 行きたい場所があった。

 やりたいことがあった。

 二人とも、それらが満足に叶わないことを知っている。

「夜が終わったら、私はいなくなっちゃうんだ」

「そうなんだ。そっか」

「だから、せめて」

 ジャネットはジェーンの身体を引き寄せて、彼女の目をじいっと見つめた。

「な、なに?」

「やっぱり、熱いのより温かい方がいいね」

 ぬいぐるみにするようにぎゅっと抱きしめられて、ジェーンは白目を剥きそうになった。ただ、ジャネットの言うように二人でこうしていると温かった。

 冬の冷たさも、戦いの寒さも、血腥さも、全て忘れてしまいそうになる。ジェーンはこの暖かさに包まれていたかった。あと数時間で終わる幸せを、このままずっと噛み締めていたかった。

「……行かなきゃ」

 ジェーンは、ジャネットをゆっくりと引き剥がす。名残惜しかったが、一人だけ休んではいられなかった。

 今、自分がこうしている間にも皆は戦っている。一もきっと、虹の先で気を吐いているに違いない。

「行けば辛い目に遭うのに?」

「行かないともっと辛いことになるかも。でしょ?」

 竜の上でジェーンは笑顔を浮かべた。血の香りを吹き飛ばすような爽やかな笑みであった。

「うん。やっぱりジェーンだ。そうでなきゃ」

 二人は手を繋いで立ち上がる。眼下には、ドラゴンの死体に群がるソレと、激しい戦いの音を聞きつけた異形がいた。この街を埋め尽くさんとするモノだ。ジェーンはぐっと息を呑む。異邦人とはいえ、この街で暮らすと、この街の為に戦おうと決めたのだ。

「夜は明けるよ。だから、ね?」

 ジャネットは微笑む。夜が明ければ何がどうなると言うのだろう。彼女はまた消える。今度こそ、会えなくなる。しかしジャネットは自分の身よりもジェーンのことを心配していた。

 そのことが分かっていたから、ジェーンはもう何も言わなかった。

「天使様の声は聞こえないけど、私にはジェーンがいるから。行こう」

「First sunriseはもうすぐだよ。キレイに見れるように、おそーじしなくっちゃ!」

 手ぐすね引いて待ち構えるソレへと、二人の少女が飛び込んだ。

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