ココロが止まらない
『ああ、いたのか』
『影が薄いからさ、分かんねえんだよな』
『ソレと一緒に殺しちまったらごめんな?』
田中次史という男は気が小さかった。
気が小さくて他人が怖くて、誰かに脅かされることを避けていた。
だから殺した。殺される前に殺した。最初は正当防衛だったかもしれないが、田中はその時のことをよく覚えていない。そして。彼が『最低の棺』と、仲間殺しと呼ばれるのに時間はかからなかった。
虹の根元に背を預ける。温かくも冷たくもなく、柔らかくも硬くもなく、虹はただそこにある。田中は少しだけ顔を動かして、その先を見つめた。
この先に何があるのか知らないが、虹を渡り切った先で、一一という男が戦っているのは知っている。
「……ああ、いてえ」
田中は鼻を摩った。彼の全身は血に塗れていて、既に右腕は使い物にならない状態である。満身創痍といった出で立ちだが、田中はゆっくりと立ち上がってソレの群れを睥睨した。
「おー、いたんか」
「影が薄いから分かんねえんだよな」
「巻き込まれないようにしとけよ田中ぁ」
幻聴だと断じて、田中は答えることも、声のした方に振り向くこともしなかった。
ただ、背中を預けられる何かが出来た。そう認識している。
「死人が生き返るなんて、無茶苦茶ですね」
田中は口の端を歪めて笑った。飛び掛かってくるソレに胴を食われながらも、残った腕で頭蓋を切り裂き、断ち割る。
「おっ、腕を上げたか?」
うるせえと内心で毒づきながら、田中は、今度は大きな声で笑った。
風が煩い。耳元で、頭の中でびゅうびゅうと吹き続けている。しかしその音を発しているのが自分であることに即座に気づき、黄衣ナコトは意識を取り戻した。
抱えた魔導書『黄衣の王』は輝きを放っている。足場にしている有翼獣のバイアクヘーはきゅうきゅうと鳴いている。
遠心の作用を以て威力が充分に蓄えられた鎖分銅を投げれば、中空から接近を試みていたソレの頭が砕ける。ナコトの残った片目に血が滴った。視界を塞がれたのは一秒にも満たない間だが、鳥の怪物が間近に迫っていた。
いあいあと呪文を紡ぐ。
身体の中から、喉から迸った感情が形になって風になる。
はすたあと呪文を唱える。
もはやそれは咆哮に等しく本来なら意味を持たず何も成さない。しかし魔導書は主に応えた。巻き起こった風はナコトを撫でてセーラー服に纏わる。
ナコトはバイアクヘーの背を強く踏みつけた。主の意志を理解したソレは、敵の群れへと急降下して突っ込んだ。彼女らに触れるより先、纏った風がソレを切り刻む。その様はまるで意志を持つ疾風であった。
ナコトの視界が、風で、切り刻んだソレの肉で、疾走する音で染まる。己の身すら苛むような烈風の中で彼女は吼え声を放った。
風が吹き抜けた後は肉塊しか残らない。バイアクヘーはナグルファルへと突進を仕掛け、ナコトはソレから甲板へと飛び降りる。見回せばここにもソレがいた。
「いあい……っ、が、ハッ」
ナコトは自分に巻きついたものを確認する。ナグルファルの船体から生えた植物の蔦が彼女の喉を締め上げていた。
触手を引き千切ろうとして腕に力を込めるも、魔術を取り上げられたナコトは年相応の膂力しか持たない。ぎちぎちと絡みつく触手が彼女の意識を少しずつ削り取り、奪っていく。
薄れる意識となけなしの闘志を奮い立たせて、ナコトは触手を口元に引き寄せて噛みついた。それでも触手はびくともしない。
バイアクヘーは甲板のナコトを助けに行こうとするも、他のソレによって前進を阻まれている。彼女はソレに食らいついたままで何事かを喚いた。
その瞬間、二つの光がナコトに絡みついていた触手を粉砕する。彼女が双子の風、ロイガーとツァールを呼び出したのだ。
束縛から解放されたナコトは片膝をついて咳き込む。近寄ってくるソレはロイガーとツァールによって排除された。
潰れかけた喉で叫ぶ。掠れた声で唱える。ナコトは一人、獅子奮迅の働きを見せるも、圧倒的に火力が足りていなかった。彼女自身がそのことをよく分かっていた。それでもナコトは声を荒らげ続ける。
いあいあ、と。
はすたあ、と。
ナコトに呼応するかのように、もう一つ、声が重なる。
いあいあ、と。
いたか、と。
絶対零度と化した紙片がソレにぶつかり砕けて舞う。周囲の空気を凍てつかせているのは紛れもなく魔術であった。
「何やってんだナコト、呪文を唱えるのに馬鹿正直に声を出すことはないんだぞ。お前、知らなかったのか?」
「あ……だって」
ナコトの傍に立つのは、彼女と同じくらいの年ごろの少年である。エプロン姿の彼は古びた本を片手で持ち、そのページをためらいもなく破った。
「だって、オキナだって……!」
「本、見つけたんだな」
風に乗りて歩むもの。大いなる白き沈黙の神。歩む死。
ハスターの力を借り、ナコト写本を携える若きフリーランス、『図書館』の黄衣オキナは寂しそうに笑った。
「一緒に行くぞ。俺の全部をお前にやるから。全部教えてやるから。だから、一晩限りだけど、もう一度『図書館』を開いてやろう」
「こんなこと、起こっていいのかな。あたし、よく分かんなくて」
「何言ってんだよ。皆言ってる。俺と一緒に戻ってきた連中は皆言ってるんだ。クライマックスなんだぜナコト。物語なんてのは都合が良過ぎるくらいでちょうどいいんだ! 皆が不幸になるより、皆が幸せになった方がいいに決まってる!」
オキナは新たに本のページを破り、それをばら撒いた。
「幸せ」
「そう、幸せに!」
オキナは死んだ。夢から覚めれば、朝が来れば、彼はきっといなくなる。はっきりとした幸福の形は想像出来ないが、それでも、目に涙を湛えていたナコトは、力いっぱい頷いた。
ナグルファルの甲板から、風と氷が竜巻のように迸って立ち上る。巻き上がるのは数多のソレだ。クトゥルフの神々の力をもろに受けて、全身を痛めつけられながら駒台のあちこちへと吹き飛んでいく。
その光景を見ながら、アイネはふっと息を吐いた。
「妬ましい。羨ましいっ」
アイネの得物がソレの目玉を貫いて刳り貫く。彼女は独りきりで戦うことに対して不満を漏らしたが、その動きが鈍ることはなかった。
頭と体を切り離す。分離した脳は生存への可能性を見つけ出して最善手を選び続ける。死ぬか生きるか、五十パーセントを引き続けて生き残り続ける。敵に四方を囲まれても動き回って敵を貫く。レイピアの刀身は欠けてぼろぼろだ。アイネは気を吐き、短くなった得物を叩きつけるようにしてソレの脳漿をぶちまけさせる。
独りきりだ。
ずっと前から、この先も、自分は独りだけで戦い続ける。
そう思いながら、アイネは剣を振った。
だが、彼女は気づいていなかった。後背に灯った温かな光を。その光が迫っていたソレを突き飛ばしたことを。
アイネが異変に気付いたのは、小型のソレの死骸が足元に転がった時であった。自分がやったものではない。ならば。思考を巡らせて視線をちらと傾けた時、彼女はその存在に気が付いた。
おぼろげな輪郭が一、二、三。アイネを守るかのようにソレに立ち塞がっている。人型をした淡い光がアイネの死角の敵を屠った。
「何がっ」
血風の中、アイネは躍る。蒼穹の衣装が翻る。彼女は目を見開いた。
「お父様っ!?」
アイネは呼びかけたが、光は答えなかった。
魂とは。心とは。
人間より人間らしく。そうあれと願われて創られた。しかしこの身が自動人形であることに変わりはない。魂も、心も、あるかどうかが分からない。
それでも。今日、ナナは一つの答えを得た。
ナナは先刻、確かに見たのだ。オンリーワン近畿支部の技術部が創ったタロスが、かつて自分で打ち壊したモノが、ナグルファルに向かって走っていくところを。彼の姿はすぐに掻き消えてしまったが、その姿を見間違えるはずはない。
周囲には光がある。亡くなったはずの者が、生者と共に戦っている。
「あったのですね」
ナナはスカートの中に手を突っ込んだ。技術部の浪漫が、自分の想いがこもった武器『一途』を組み立てる為に。
「私たちにも心はあったのですね」
嬉しかった。『心』が騒いだ。
光の中、戦士たちの魂と共に戦えることが嬉しかった。自分も仲間だと認められたようで、同じ人間なのだと認められたようで。
甲板には嵐。その近くでは血風。それぞれで起こる戦いの余波を受けながら、ナナは一途を組み立てた。
唯一無二の得物を構え、彼女の見据える先は絶望の船。たった一つの想いを抱えてナナは地面を強く蹴り出す。
トリッガーを引くまでは十数秒。その間、群がる敵は鋼鉄の身体で強引に蹴散らした。ナナが一歩進むたびに獣の肉が破裂して血の雨が降る。その中を彼女は最速で駆けた。
胸に宿った燃える思い。主の前進を妨げる者がいるならば、全身全霊を以て排除する。それだけを思ってナナは吼えた。
引き金をガチリと押し込むと、ナナの視界が激しく揺れた。
炸裂する火薬。飛び出すのは杭。ナグルファルの船体に大穴が開くのは、もう間もなくのことであった。
オーロラが駒台の空を賑やかしていた。極光の輝きはすぐに夜空から失われてしまったが、見た者の感情を少なからず揺さぶった。
「見えましたっ。アレですヒルデさん、私たちが一番乗りです!」
二人の戦乙女が中空で立ち止まる。眼下には巨大な帆船とソレの大群。それらに立ち向かう者たちの姿もあった。
興奮するシルトとは違い、ヒルデは幾分か冷静である。彼女は虹の橋を見遣った後、その根元を守護している人間を見遣り、薄く笑んだ。
これだから人間というのは素晴らしいのだと、改めて認識する。
「……みんなのやりたいことは、分かった」
虹の先に彼がいる。空の中に一がいる。ヒルデは、橋を守護する者たちの援護こそが、自分たちに新たに課せられた任だと悟る。
「あっ、北の自動人形が突っ込みましたけど、どうします?」
ロキを仕留めた後、エインヘリヤルたちは散らばって動き始めた。駒台に蔓延るソレを駆除する為にだ。だが、一塊になって動く集団もあった。それが今、ナグルファルへとまっすぐに向かっている。
ヒルデもまた、ロキとの戦いで負った傷が癒えていなかったが、戦意は未だ旺盛だ。
「潜り込んで中から壊す。遅れないでね、シルト」
「もちろんっす!」
エインヘリヤルは死した戦士だ。死んだ戦士の魂だ。
フレイヤが自らの館に溜め込んだ彼らの魂。それをワルキューレが自らの血と魂で開いた。
魂は光と化して駒台という地に顕現した。溢れた光は人の姿に変わり、化け物どもと血で血を洗う状況に飛び込んだ。
エインヘリヤルを呼び寄せるのは奇跡に近しい行為だろうが、何も無条件で彼らに力を乞えるわけではない。
何故なら、ワルキューレだけでは魂を集められないからだ。彼女らを従わせる美の女神フレイヤだけが死した戦士を館へと招待出来る。ヒルデたちは館の扉を開くことは可能だが、それだけだ。
したがって、今宵、エインヘリヤルとして蘇ったのはフレイヤがアレスとの戦いで死亡する前に逝った者たちだけだ。また、駒台で死んだ者にしか招待券は送られない。
強い戦士の魂に引っ張られるものもある。個では自らを形成出来ないほどに弱く、小さな魂たちだ。そのような魂は近くにいる者の思念によって形成される。先にアイネが聞いた声は、彼女の記憶に残る父親のものだが、その魂は本物ではない。ただ、『彼ら』がアイネを救おうとしているのは本当であった。
ナグルファルが揺れた。その巨体を脅かしたのは一人の自動人形である。
ナナの『一途』が船体を破った。空いた穴から内部へと、空中から舞い降りたワルキューレ、地上から押し寄せたエインヘリヤルが突入する。その際、虹の根元にいた大半のソレが彼らに蹂躙された。
そして今、光の海嘯が絶望の船を呑み込もうとしていた。
倒壊するビルを目の端で捉えながら、接近する白い狼をしかと見据える。
大狼フェンリルの体躯は、四階建ての建物に匹敵していた。彼は少しずつ、膨らむように大きくなっていたのである。
フェンリルは狂ったように頭を振った。口から零れた涎は地面を叩き、触れたものを緩やかに溶かす。
彼我の距離は皆無に等しい。糸原は腕を引いた。フェンリルの足元に仕掛けたグレイプニルを蠢かせたのである。
銀の糸はフェンリルの脚に絡みついたが、彼の前進を阻むには至らず、怒りを買うだけであった。
フェンリルが僅かに足を動かすと、糸原の身体が宙に浮いて引きずられる。悲鳴を噛み殺した彼女は前を向いた。
前方には崩れかけたビル。絡みつかせた糸を解くことは考えなかった。糸原は自分から飛び込むような形で足を出し、鉄骨を蹴る。
「ア、アアアア――――!」
糸原を叩き潰そうとしたのか、フェンリルは吼え声を放って足を大きく振った。彼女の体が左右に揺れてフェンリルから離れていく。
「忍者じゃないっつーの!」
悪態をつきながら、衝突寸前だったビルの壁面に足を着けて駆け上る。数秒かからず屋上に到達した糸原はフェンリルの上を取った。高所から引っ張ってやったが力の差は歴然である。彼女は再び中空へと引きずり込まれた。
振り回されながらも、糸原は両腕で糸を操り、フェンリルの背へと着地する。
瞬間、糸原の身を浮遊感が包んだ。フェンリルが宙がえりを行ったのである。
「……うわっ」
糸原の視界が曇天でいっぱいになった。意識を失いかけたが、彼女はすぐに立ち直る。フェンリルの胴体にグレイプニルを幾重にも巻きつけて握り締めた。
着地し、四肢を突っ張らせた後、フェンリルは低く、短く跳ぶ。糸原は振り落されまいと歯を食い縛って彼にしがみついた。……ただ、フェンリルの姿が蚤を落とそうとしている風に見えて、彼女はふっと笑みを漏らす。
その笑い声を聞いて憤ったのか、フェンリルが首を巡らせて大きく口を開いた。血の香が混じった臭気を浴び、
「くっさ……!? 何食えばこんなっ」
糸原は顔をしかめる。
また、フェンリルの飛び散った涎が彼女の肩にかかった。肉が焦げる臭いに気づき、糸原は左手の小指を動かす。涎が付着した部位を自らで切り取ったのだ。服だけでなく皮肉も剥がれたが、痛みよりも鼻孔にこびりついた悪臭に対して激昂する。
「食ってやろうか犬っころ!」
フェンリルの四肢が、胴が、再び肥大化した。
「あれっ? え? ちょっ、待て待ておすわり、ハウスっ!」
地上が遠くなる。目線が高くなる。糸原はフェンリルの背の上で慌てたが、既に彼の体高は周辺のビルを超えていた。ここから落ちれば死を免れても戦闘の続行は困難になるだろう。糸を伸ばそうとしても引っかけるものが見当たらない。
糸原が何も出来ないでいる内に、フェンリルの身体は大きくなり続けている。
「でもっ」
否、糸を引っ掛ける場所はあった。フェンリルの脚だ。糸原はそこから地上へ降りることを選択しかけた。
が、彼女は駒台の街を見下ろして、仲間の存在を想った。
他の誰かは戦っている。知っている者も、知らない者も。自分が地上に降りて、それでどうなるものかと思案する。結論を出すのに時間はかからなかった。
糸原は、フェンリルの胴体に巻き付けていた糸を回収し、彼の頭部へ向かう。足場は悪いが難なく辿り着き、そこからフェンリルを見下ろした。
フェンリルは低く唸り、頭を振る。糸原は彼の耳を掴んで体勢を保った。
だが、フェンリルはぴたりと動きを止めて視線を下に向ける。すわ何事かと、糸原も彼に倣って顔を動かした。
フェンリルの足元に光がある。波のように風のように。群れていた光はやがて分裂して火玉のように姿を変えた。それはエインヘリヤルの魂であった。
エインヘリヤルは糸原にとって、駒台にとっての味方である。彼らは人類に害する存在を滅ぼそうとしていた。
「あんたら……!」
それが、糸原にとっては許し難かった。
死者が生者の世界に現れるだけならまだしも、横槍を入れてくることが耐え難かった。
「死んでんだからさあ! 足引っ張ってしがみついてくるなんて女々しいのよ!」
糸原の叫びにフェンリルが応えた。彼も思うところはあるのだろう。エインヘリヤルを振り払うかのように、今までよりも高く跳んだ。
フェンリルの四肢に纏わりついていたエインヘリヤルが次々と振り落される。
「そうっ、よそ行きなさい! 私は死人の力を借りるつもりなんかないんだから!」
一人と一匹が夜空を飛翔していた。ビルより高く、雲より高い場所を目指して。
糸原は決意している。たとえ今日、この場で世界の終わりを迎えることになったとしても後悔はない。最後の最後まで破滅を呼ぶ大狼に付き合ってやろう。願わくは、誰も食われないように押し留めてやろう、と。
風が身を突き刺す。体が凍える。空へ近づく度に糸原の体力が奪われる。それでも彼女はグレイプニルを手放さず、フェンリルを捕縛し続けていた。
グレイプニルはフェンリルの行動全てを束縛することは不可能だが、彼の動きを鈍らせている。フェンリルにとって、グレイプニルを身体に括りつけられて縛りつけられているかどうかは関係ない。その存在こそが檻であり楔なのだ。
ただ、その事実もまた糸原にとっては関係のないことであった。たとえ徒手空拳であったとしても、彼女はフェンリルから逃げなかっただろう。
糸原は知っていた。自分に伸し掛かる重さを。背負わねばならないものを。
歯を食い縛る彼女は見た。
灯りを。
一瞬間、希望めいた何かが脳内を過ぎり、糸原は自嘲気味に笑む。
火焔が地上から昇ってきていた。それは糸原たちの進路上にあった雲を散らして、只中へと突入する。
フェンリルの上昇は未だ止まらない。彼は炎を追いかけるようにして雲間へ突っ込んだ。
その際、糸原は光の波に押し込まれつつある船を見た。自分と同じ高さに、虹の橋があることに気づいた。