ぶっ生き返す!!
諦めが心を溶かす。烈しい苦しみはない。甘く、優しく、真綿を締め上げるように。血を流す度に絶望が入り込む。身を切られる度に希望が抜け出ていく。
だが、一人たりとも背を向けない。戦う場所は違えど、皆、同じ思いを抱えていた。
命を捨てると決めたのだ。中身が空っぽになっても戦い続ける。
背に、隣に仲間がいる。希うのは意味でも意義でもない。最期まで得物を握っていられるかどうか。死に際に嫌だと喚きたくないだけだ。
皆、覚悟している。
この街は終わる。自分たちは終わるのだ。死ぬ為に剣を振るい、殺す為に銃を撃つ。
否。
させない。
自分たちが彼らを守る。
戦乙女は傷を押して立ち上がった。
鉄の腸で嬲られようが、邪心の炎に炙られようが、ヒルデは決して折れなかった。
南駒台店前での戦いは続いている。負傷したヒルデはロキに甚振られているが、何度でも起き上った。彼女の胸には怨念にも近いものが渦巻いている。
ロキは、ゾンビのように立ち上がるヒルデを、自らの得物で打ち据えた。三度目の打擲の際、彼女は鎌の切っ先を僅かに持ち上げる。甲高い音がして、鞭が跳ねた。
好機だと判断したヒルデが距離を詰めようとする。だが、膝から落ちてしまった。体力の限界だったのだろう。彼女は自分でも信じられないほどに消耗している。
ロキはもう笑わなかった。冷たい目でヒルデを見据えたまま、彼女を打つ。
彼にとってヒルデの行動は不可解であった。彼女は逃げない。自分と戦うと言う目的があるのだろうが、何の為に、無防備に自らを晒し続けるのかが分からない。
「君。お前。ブリュンヒルト。勝てると思っているのかい。助かると思っているのかい」
「……よ、夜は」
勝算があるわけではない。この世に絶対というものはないのだから。ヒルデはただ応えてやりたいのだ。人の身で、己の力のみで黄昏時に挑む者たちを助けてやりたい。駒台に朝を迎えさせてやりたい。
「夜は、終わるから」
「夜? いいや、違う。夜なんか来ちゃいない。だってそうだろう。出来損ないの戦乙女。今は出来損ないの黄昏時だ! 夜なんか、夜なんか!」
ヒルデは、ロキが既に壊れているのを知っていた。だから彼女は、自分の決意を、思いを発露しただけである。分かってくれとは決して言わない。
指先の感覚を確かめ、大鎌の柄をしっかりと握り締める。長い息を吐き出して、身体中から力をかき集める。まだ動ける、まだ戦える。
「君たちには何も来やしないのさ!」
迫る鞭を弾き返した。ヒルデはそれだけで体勢を崩しかける。先まで纏っていた極光は消えていた。彼女の足が悲鳴を上げる。地面を強く蹴り出す度、脳天まで苦痛が伝わった。
刃は空ぶる。ヒルデが転ぶ。倒れた彼女をロキが叩く。鞭で背を嬲られながらも、ヒルデは喘ぎ声一つ漏らさなかった。すぐさま起き上がり、邪神に迫る。無策無謀でひたすらに突き進む。少なくとも、ロキにはそう見えていただろう。
「好き放題してくれんなよ!」
南駒台店からシルトが飛び出す。槍を突きだした彼女は、ロキの顔面を狙っていた。彼は鞭を巧みに操り、シルトの後頭部を打ちつける。
止まらなかった。
敬愛するヒルデを傷つけられた怒りがシルトの苦痛を上書きし続ける。槍はロキの頬を掠めた。彼が間一髪で身を捩ったのだ。瞬間、傷口からは鮮血の代わりに炎が噴き出す。どす黒い火焔がシルトの身を包もうとした。
「シルト……っ、鍵は!」
極光が炎を掻き消す。盾を割り裂くシルトシュパルテリンがロキから離れた。彼女はヒルデの傍に駆け寄り、口を開きかける。
「……シルト?」
「ヒルデさん。私は止められなかった。だから、ヒルデさんも止めないで上げてください」
ヒルデは何かを察したのか、目を見開いた。彼女の沈痛な面持ちを見ていられなくなったのか、シルトはロキに向き直る。
「あと少しだけ時間を作ります。何がどうなったって、必ず」
「君はっ、お前は! お前の名前は知らないぞ!」
「だーれが言うか! つーか私、あんたのこと知らないし!」
仮初の黄昏。
偽物の黄昏。
戦乙女は知っている。分かっている。だが、巻き込まれた者たちには真贋の区別はつかず、どうでもいいものだ。
だからと願う。
この想いだけは、自分たちだけは本物なのだと、そう信じたかった。
「はっ、ぁ……」
南駒台店に一人だけ居残ったルルは、自らの手首をかき切っている。それだけではなく、既に彼女の体は持たないところまできていた。もはや助からないだろう。諦観からの自殺ではない。彼女は最期に、扉を開く為の鍵、呼び水となることを選んだのだ。
ラグナロクが起こることを知っていた北欧の主神は、戦士を集めて戦いに備えた。彼らを自らの館に招いて、朝から夕方まで殺し合わせて訓練させた。訓練が終わると、戦士は皆生き返り、夜には宴を開いて英気を養う。朝を迎えると、また殺し合うのだ。
戦士たちの名はエインヘリヤル。彼らの正体は戦死した勇者の魂である。
主神はワルキューレに命じて、戦死者の魂を集めた。選りすぐった者を館に招待し、戦士たちはそれを最高の栄誉だと信じ疑わなかった。
……今、ヒルデたちは戦死者を、勇者の魂を呼び戻そうとしている。だが、ここに主神はいない。ヴァルハラへの鍵もなく、そも、この地にその館は存在しないのだ。
しかし彼女たちは知っている。戦死者を主神と分かち合う者の存在を。
その名はフレイヤ。現世ではオンリーワン南駒台店の長を務め、また、戦乙女たちを束ねる女神でもあった。彼女も戦死者の魂を自らの館に招く。そして、その館がここだ。
フレイヤはこの地を館と定めた。あるいは、この街そのものが戦死者を選び取る広間なのだろう。
この街には多くの死人が出た。血は地に流れてこびり付き、無念を抱えた者たちが肉体を失っても尚、魂だけで声を上げ続けている。
偽物とはいえ、今はラグナロク。なれば戦乙女たちは長に代わって館を開く。起死回生、逆転の一手になると信じて。
後悔はあった。
死に対するものではない。死んだ者を使うことに対してだ。北欧の荒くれどもならともかく、善良なる者が新たな戦いを望んでいるとは思えない。戦い、死んでいった者を再び目覚めさせて、また戦わせる。果てにあるのは次の死だ。生き返ることはない。
ルルはそのことを悔やんでいた。そして、自分たちにしてやれるのはそれだけなのだとも理解している。この世は生者が創っていく。その為に、死者の力を借りるのだ。
だから、フレイヤの館を開放すると言うことは、死者の蘇生を行うというわけではない。死は死だ。死人はいつまで経っても死人のままだ。戦乙女たちは魂に呼びかける。少しでもこの街を思っているのなら、この街の、あるいはそれ以外の何かの、誰かの為に自らの死を冒涜されても構わないと思っているのなら、応えて欲しい、と。
助けて欲しいと。
無念を晴らせと。
一瞬間の後、ルルは微笑んだ。
戦乙女の祈りに応え、駒台に染みつき、こびりついた数多、幾多の魂が声を上げる。
ルルは確かに勇者の声を聞き届けた。
ならば開け扉。
ならば集え戦士。
ルルは薄れゆく意識の中、自分の身体を傷つける。戦乙女から流れ出た血こそが、もう一つの鍵であった。滴るそれが、金屋のデスクから見つけた、ブリーシングと呼ばれる首飾りの欠片に落ちる。
生き血を受けた欠片が輝いた。ルルは身震いする。はち切れんばかりの戦意が別の空間から伝わってくるようだった。
現れたのは光であった。
爆発した光輝が南駒台店から溢れている。不明瞭だったそれは幾つかに分かれて、人の形の輪郭を取った。戦乙女の発する極光にも似たそれは時間の経過と共に大きく広がってゆく。目を灼くような類のものではない。心ごと温かく包み込むようなものだ。
「ヒルデさんっ」
シルトの声に反応したヒルデが、ロキの鞭を弾き返す。
「……そうか」
ロキは笑った。諦めたかのように。全てを察したかのように。
力を使い切り、意識を失いかけたヒルデの身体を何者かが支えた。彼女は支えてくれた人の顔を認めて安心しきった表情を浮かべる。
「…………ごめんね」
謝って、ヒルデは涙を流した。不完全な形で呼び戻してごめんなさい。あなたたちの死を弄ぶような真似をしてごめんなさい、と。
ヒルデを支えている者は儚げな笑みを浮かべて答えた。
「いいんです。どんな形であったとしても、あなたたちともう一度出会えたから。随分と長いこと待たせてしまいましたね、ヒルデさん」
幼子のように泣くヒルデの髪を、シューの手が優しく梳く。……バーサーカーと相討ちになり、駒台山で散ったはずのシュペールシュロイデリンは確かにそこにいた。腹に穴が空き、傷だらけだった体ではない。戦う為に万全な状態で彼女は顕現したのだ。
「バーカ。ヒルデさんを泣かすなよ」
「シルト、あんたも泣いていいんだよ?」
シューはシルトを手招きして、親し気な笑みを見せる。
「よくやったよ。今まで、ヒルデさんを守ってくれて」
「う、しゅ、シュー……あ、あたし……」
「だいたい、状況は飲み込めてる。呼ばれた時点で分かるんだ。倒すべきやつらってのが、さ」
シューがロキを――――駒台の地を、此処に住む者を脅かす存在をねめつけた。
ルルの魂が扉を開き、フレイヤの館が駒台の地に勇者の魂を蘇らせたのだ。
「後は任せて」
「ううん、違う。一緒にやってやろうよ、シュー」
「ああ、そうだね」
分裂した光は列になる。それらを束ねるかのように、シューが一歩前に出て、ロキをねめつけた。
「勇者諸君、此処には主神も女神もいないぞ。いるのは泣き虫の戦乙女だけだ。各々、目的はあるだろうがまず一つ、まず一人。眼前の怨敵の魂を砕き、それを以て凱歌とするよ。分かったなら声を出せ、我らの帰還をこの地に知らしめろ! 我らの帰還を願った者の涙を止めろ!」
応という声と共に、エインヘリヤルが眼前の敵に殺到する。その数は時間の経過と共に増加していた。十、百、千にも上る魂が怒涛となって邪神に襲い掛かる。
先陣を切るのは大剣を携えた偉丈夫、竜殺しのジークフリートであった。彼はもう自身を見失ってはいない。ただ斬るのみ。ただ滅すのみ。全身全霊をかけて愛した者を守ることだけを胸に抱いている。
ジークフリートの大剣がロキの脳天目がけて振り下ろされた。邪神は鉄の鞭で剣の軌道を逸らして辛くも逃れる。しかし二の手、三の手が間断なくやってくる。
竜殺しの英雄に続くのは、槍、斧、棍……多種多様な武器と人物だ。ロキも焔を発して反撃に転じるが、エインヘリヤルの身体は滅びない。彼らをもう一度仕留めるには心を砕き、魂を屈服させる必要がある。制限時間が切れるまで、エインヘリヤルは戦士としての任を全うし続ける。
この日、この場に限っては邪神と言えどもどうすることも出来なかった。彼には肉があり、器がある。だからこそ逆らえない。
「夜はっ……黄昏は……ァァ!」
ロキの身体が光の奔流に飲まれ、押し込まれる。溢れる光輝は彼の身体を完全に覆い隠した。ややあってから、エインヘリヤルの光が散らばり、拡がっていく。それがこの場から掻き消えた時、ロキの姿はもうどこにも存在していなかった。
光だ。
暗がりを切り裂き、遍く万物に温かさを届けるものだ。あまりにも眩く、あまりにも尊い。そして。あまりにも厳しい。光は全てに降り注ぐからこそ温かく、優しいのだ。一個のものに注がれれば灼熱に隣すると同義である。
「粘るか。それもまた人間だ」
アーサー・ペンドラゴンのエクスカリバーから発せられた光が一を押し潰して焼き尽くそうとしている。
一はアイギスを使い、ステンノの膂力を駆使して必死に耐えていた。しかし腕力ではどうにもならなかった。相対する者はある種肉体を超越している。一がどれだけ四肢に力を籠め、歯を食い縛っても圧は弱まらなかった。
諦めるつもりはなかった。しかし利口ぶった頭と預言者ぶった思考は数分先の未来を予測している。目の前に死が迫っていた。ただ、常から覚悟はしていた。この期に及んで泣き喚く気は起こらない。心が凪いでいる。静かだとすら思えた。
「と、まれ……」
「無駄だ。君たちでは私を……む?」
一は自分と蛇姫の力をよく理解している。アーサーがメドゥーサの誘惑に乗らないことを知っている。彼個人を止めることはもはや叶うまい。だが、彼女の力を指の一本にのみ集中すれば。無論、指一本分だけではどうにもならない。柄を握りづらくなる程度で趨勢に影響はない。これは一の意地だ。
「お、おオオおおオオおおオオッッ!」
獣のような吼え声を迸らせると、一は斜め方向に逃れようとした。アーサーは先よりも、ほんの少しだけ力を入れるだけでいい。それだけで一の身体は真っ二つになっていただろう。
風が、吹かなければ。
否。ここは空の中だ。風なら先から吹いていた。
「ニンゲンっ」と、童の声がする。アーサーは訝しみ、一は口の端をつり上げた。
「精霊」
アーサーは短く呟く。彼の口中から漏れた言葉を聞き逃さなかった精霊、シルフは一の身体を抱きすくめて自慢げに笑った。
シルフは風を集めてアーサーにぶつける。さしもの彼も鼻白んだ。彼女はその隙を逃さず、後方へ引こうとする。が、一がそれを拒んだ。
「おいっ、分かってんのかよ!?」
このまま戦っても殺されるだけだ。シルフはそう言っている。
同時に、このまま退いてもしようがないとも一は分かっていた。
「あいつだってビビってんだ! 殴られりゃあ痛いし、押せば倒れる! 死なねえもんなんかあるかよ!」
「だけどっ、だけどさっ。もうオマエには武器も味方もないんだぞ!」
「武器ならある! 味方ならまだお前がいるじゃねえかよ! 俺とお前が揃ってんだ! だったらやるしかねえだろう!」
シルフは思い出していた。
初めて一に力を貸そうとした時、彼は喚いて、ソレと戦うことを強く拒んでいた。お前は逃げているんだ。シルフは一にそう言った。
「……分かった。やろうぜ、ニノマエハジメ」
シルフは初めて一の名を呼んだ。彼と共に潜り抜けてきた戦いを想起した。二人でなら高く飛べる。どんな場所へも行ける。そう信じたかった。
一が足を踏み出す。シルフは彼の前進を風の力で助けた。アーサーの予想以上の速度で接近した一はアイギスを振り下ろす。小気味よい音が響き、シルフは笑んだ。
「向かってくるかっ」
「てめえの吠え面見ねえことにはな!」
鍔迫り合いは長く続かない。
「そう面白いものではないぞ、私の吠え面など!」
アーサーの得物。その輝きが増す。一は真っ向から受け止めようとした。シルフは直感する。アレは人が受けてはならないものだと。
――――でも。駄目だよ。
シルフはくるりと反転する。一は目を白黒させて、振り下ろそうとしたアイギスを手放しそうになった。
「この……!」
一の意志を無視したシルフは後退を試みていた。だが、アーサーから稼いだ距離は僅かである。彼女は斬られた。風の精霊とて人の身体を保っている。胴を寸断されれば上下に分かれるのは摂理であった。ましてやそれが『円卓』の『王』が振るう唯一無二の剣なれば避けられぬことだ。
「……そんな顔すんなよ。また会えるからさ」
一はシルフを振り解き反転する。彼は、真っ二つになった彼女を認めていた。
シルフは目を瞑る。本当なら、退けと言いたかった。死ぬなと伝えたかった。だが、すんでのところで自分の望みを押し留めた。何故なら彼女は風である。力を貸してやりたいと、そう思った者の羽根になるようなことはあっても、重しになってはならない。
どうか。死なないで。
「あと、頼んだぜ」
溢れる思いを胸に秘めたまま、シルフは不敵な笑みを浮かべた。
半端な真似だ。
一と精霊が最後まで協力していれば、もっとましな戦いになっていたかもしれない。そう思いながらも、アーサーは決してシルフの行為を蔑まなかった。敬意すら覚えていた。
一一という人間を駒台の地に遣ったのは自分たちだ。だが、彼がどのような暮らしをしていたのかはまるで分からない。
「君は、なんと」
気まぐれな風の精霊が自らの命を賭してまで守ろうとした存在が、声を荒らげながら前へと突き進む。アーサーに向かって吼え声を放っている。一はきっとシルフの死を悼んでいるだろう。悲しんでいるのだろう。しかし決して足を止めない。アーサーは愕然とした。一は彼女の死すらを利用して、自分に一矢を――――。
「気でも触れている!」
もはや一は死人だ。屍人も同然だ。相討ちを狙っているのではない。命を捨てようとしているわけでもない。彼はこの場に立つ前から死んでいる。
ならば。
だから。
ここで殺す。もとより死者が生者と同様に動いているのがおかしいのだ。アーサーは得物を振り上げた。神速に近しい黄金色の軌跡が一を捉える。逃れえる術はない。
だが。時に神は人の理解の範疇を超えた賽の目を出す。アーサーはあくまで人だ。神ではない。彼にさえ想像のつかない事柄も、時には。
一は身を捩っていた。半身になって致命傷を躱していた。アーサーの攻撃を予測していた訳ではない。アーサーと比べれば、彼には絶対的に、戦いというものに関する経験がないからだ。分かっていなかった。一にはただ見えていた。限界まで研ぎ澄まされた神経。かつてないほどに高まった身体能力。そして。先からメドゥーサによって動きを封じていたアーサー王の親指一本。この三つの要素が一の命を救った。腕一本と言う代償だけで済ませた。
宙を舞う一の右腕。上がる血飛沫。歴戦の戦士たるアーサー・ペンドラゴンも、ここまで感情をあらわにする死人と対峙したことはない。玉響なれど視界を、意識を奪われた。
――――苦痛ですらも、この男を止められないか。
否と断じる/一の拳が迫る。
後退。あるいは防御/一の傷口を見て戸惑う。血が止まっている。
選択と困惑。アーサーは目を見開く/一の右腕の傷口から、煙が上がっている。
鈍い音が鳴る。一の左拳がアーサーの鼻梁へと突き刺さった。そのまま、一は倒れ込む形でアーサーを押し倒す。
「獣め」
この位置では剣が使えない。アーサーは一のパンチを浴びながら、己もまた下から殴り返した。彼の体勢が崩れたので、アーサーは身体を起き上がらせる。瞬間、一はぱっくりと口を開けてアーサーの首筋目がけて噛みつこうとした。これは堪らないと、アーサーは彼の頬を殴り抜く。
「獣めっ」
一は倒れなかった。己と、アーサーの鮮血によって染まった顔を向き直らせる。髪を振り乱して目が隠れていたが、そこから覗く異様な輝きだけは明らかになったままであった。
獣めと、アーサーは三度毒づく。一はシニカルな笑みを浮かべて、ぐっと顔を近づけた。互いの息がかかる距離で、一は声を絞るようにして言った。
「そうだ。俺はお前らの飼い犬だ。だから噛み殺されろ。なあっ」
アーサーは再度一を殴りつけた。身体を無理矢理に起して、転がった彼を追いかけて蹴りを放った。自分が肩で息をしていることに気づいたアーサーは、眉まで滴り落ちていた汗を指で拭い、深く息を吸い込む。
獣は低く笑っていた。自分の本当の右腕と、右腕と言うべき存在を犠牲にして手に入れたのは数発の打撃。そして僅かな自己満足。だと言うのに、彼はずっと笑っている。アーサーには一の思惑が理解出来なかった。同時に、分かっては終わりだと悟っていた。