Shout it loud
欲しいものがあった。
手に入らないと知っていた。
金で買えないものはないが、何が欲しいのか分からないのだから手に入れようがない。どんな店に赴けばいいのかすら想像がつかない。
本当に欲しいものが分からないまま、金を欲した。代替品では意味がないと知りながら、ひたすらに集めようとした。誰よりも餓えていた。誰よりも乾いていた。心の空隙を埋められないままに生きていくのが苦しかった。
瓦礫を越えて物陰に身を隠す。頭上を鉛が掠めた。疾走する弾丸は怖くない。身体には常時糸を纏わせて、周囲には糸を布いている。防御は十全だ。直撃させられることはない。
しかし、頬に、脇に、肩に、腹に、足に。『天気屋』の銃弾は糸原の身体をしつこく付け狙う。致命傷にはならないが、少しずつ身を削っていた。傷を負い、痛みを感じてしまえば肉体は硬直する。
竦むな足と自らを鼓舞し、糸原は駆けた。銃弾は斜め上から迫り、彼女の脇腹の肉を僅かに抉って通り過ぎていく。
糸原は先にあるビルを見た。屋上で何かが光っている。フェイクかもしれない。裏をかかれるかもしれない。
彼女は速度を落とすことなく、件のビルを目指した。
「決めてんのよ、まっすぐやるって!」
背後から風を切る音。弾丸は糸に衝突して軌道が逸れる。糸原の腿を掠めて地面へ落ちた。呻き声は隠さない。精いっぱい声を荒らげて苦痛を逃がす。
「出てこい亀野郎!」
糸原はビルには入らなかった。正面の入り口前で立ち止まると、五指、十指を操ってグレイプニルを建物の外壁に巻きつける。
「こん、の、お、おぉぉぉぉぉ……!」
糸原はビルを千切ろうとしていた。考えなしの行動であったが、彼女は時間を惜しんでいる。自分にならば可能だとも狂的に信じている。その思いに答えるのはグレイプニルだ。以前に使っていたレージング、技術部の作製したドローミとは根本的に質が違う。廃墟とはいえ、女一人の力によって四階建ての建物が軋みを上げる。
指が引き千切られそうだった。オープンフィンガーグローブから出た指が赤みを帯びている。ぎちぎちと、彼女の骨すら軋み始める。全身を使い、引き裂くことだけを考える。
糸原は獣のように吼えた。彼女にかかっていた圧が失せた。
倒壊するビルを見遣り、長雨は口の端をつり上げた。
「……でかくなったなあ、四乃」
壁が、柱が、階段が、床が……。
建物は脆かった。一つどころにひびが入ると、堰を切ったように壊れ始める。何もかもが切られ断たれて、斜めになってずれていく。
糸原は肩で息をし、その場から離れようとした。空振りかとも思ったが、崩れる瓦礫から逃れようとして、遂に標的が姿を見せた。お互いがそこにいるとは思っていなかったのだろう。
糸原は舌打ちする。現れたのは長雨ではなかった。彼の新しいパートナーらしき、若い女だ。女は長い黒髪を後ろでまとめ、迷彩柄のキャップを目深に被っている。手足はすらりと長く、ライフル銃を抱えていた。……ああ、と、糸原は息を吐く。
似ている。
この女は自分と似ている。その理由に思い至った時、糸原は自分の中の全てが沸騰したのを感じた。長雨という男の妄執に憤りを覚えた。
「しつっこいのよ、あんたは」
新たな『天気屋』の片割れは、糸原を見遣ってコートの前を開ける。彼女は瞠目した。女は体中に手りゅう弾などの爆発物をつり下げていた。
「ちょ、ちょっとあんたさ、そこまですんの……?」
女は口を開かなかった。返答の代わりに、火が点いた。
冷えた目をしている。いつかどこかで見たことのある目だ。糸原は、それが昔の自分と重なっていたことに気づく。こんなことをする女は馬鹿で、させる男も馬鹿で、昔の自分も本当に馬鹿だったのだと……駄目だ。思考を断ち切り、糸原は後方へと飛びずさりする。これだけでは足りないと、彼女はついに背を向けて走り出した。
「――――」
一瞬間の後、腹に重低音が届く。糸原は何事かを叫んだが、より強い音にかき消された。炸裂音が耳を叩き、炎が目を焼いた。背には熱が伝わる。周囲に仕掛けていた糸を巻き戻すに手一杯で、爆風の衝撃をもろに喰らった。吹き飛びながら両腕で顔を庇う。破片と一緒に何かが落ちている。自爆した女の一部が飛び散っていた。女の血液は蒸発し、肉の焼け焦げる臭いが鼻腔を突き刺す。
「いっ、いた、たっ」
地面に倒れ伏すも、手りゅう弾や建物の小さな破片が糸原の背に降り注いだ。鼓膜が網膜が脳内が揺さぶられている。混濁した意識の中、彼女は長雨の顔を認めた。
「……この、クソヤロウ」
長雨の輪郭は判然としない。常のように無表情で、見定めるような視線を送っている。彼は糸原を見下ろしているようだった。
「世界が終わるかもしれないって時に、あんたなんかと一緒にいてたまるもんか。私にはもう、帰る場所があんのよ」
今すぐに立ち上がることは出来そうになかった。ぼうとしたまま、糸原は続ける。
「自惚れてんじゃあないわよ。岡惚れしてんじゃあないっつーの。やるもんか。何も。あの時に小銭で決めたことでしょうが。新しい女見せびらかすような、女々しい真似すんな、長雨っ」
長雨は答えない。糸原は彼の様子がおかしいことに気づいた。
「あんた、もしかして」
くしゃりと。ぶしゃりと。
安い果物が潰れるかのような気軽さで、長雨の顔が弾け飛んだ。彼というものを構成していた一切合財が押し潰されてはみ出ている。見知ったものがそうなるのは、幾らか効いた。糸原は吐き気を催したが、堪える。
糸原の目の焦点が合った。長雨は既に上半身だけの有様だった。彼が自分の傍に立った時点で、そうなっていたのだ。
「ああ、へえ、そうなんだ」
頬にこびりついた長雨の血を指で拭き、糸原は立ち上がる。
長雨の上半身が投げ捨てられた。彼を殺したのは、見た目だけなら年端もいかぬ少年である。彼は襤褸切れだけを着た、みすぼらしい風体をしている。糸原は唾を吐き捨てた。気に入らなかったのだ。
「し、の」
少年は、フェンリルは口を開いた。
「私を追っかけてきたの? 大した忠犬ぶりじゃない」
「お、あ、こ、これなら、よかったと、思った」
これ。フェンリルは長雨の骸を指で示す。
「わ、わたし、おなかが空いたの。だから」
糸原は目を瞑った。後悔するとフェンリルは言っていた。なるほどと、彼女は得心する。これは自分の蒔いた種が芽吹いただけのことなのだ。自業自得というよりも当然の帰結なのだ。腹が減れば肉を食う。フェンリルは最初からそう言っており、実際、そうしてきた。しかも、今の今まで自制が利いていたのだ。むしろ褒めてやるべきなのかもしれない。
「私の敵だと思ったから、やったのね。殺して、食ったのね」
フェンリルは小さく頷き、訝しげに糸原を見上げた。
「そっか。ありがとう」
言いつつ、糸原はグレイプニルを布き始める。目を凝らさねば見えぬ銀色の線を、フェンリルは確かに視認した。彼は獣だ。獣は敵意に敏感だ。
「でも、それとこれとは話が別なんだな、これが。前に私が言ったと思うけど」
「……あ、ど、どう、して」
フェンリルは糸原から距離を取ろうとする。
「身内に手ぇ出すなって。でも、私はやるわ。そこで転がってる男はね、私が今日、絶対にこの手でぶちのめしてやるって決めてたのよ。そうじゃないと、申し訳がないから。今やっとかないと私はあいつと一緒にいられない。だから、他のやつにやられるくらいなら自分でやる。私は自分の知り合いを他人に殺されんのも腹が立つのよ」
「言ってることが、おかしいっ。わ、わたしには、そうするなって、わがまま! わがままだ!」
「躾けてやるから、腹いせに付き合いなさいよ!」
グレイプニルが宙を切り裂きながら突き進む。フェンリルにとって、この糸は鎖で、檻だ。自らを縛りつけられる唯一の品だ。
「か、勝手だ! わたしは、何も……!」
フェンリルを放っておいた自分が悪いのだ。糸原は自らを戒める。その上で、彼を殺すことはないとも思っていた。客観的に捉えたならば、フェンリルは糸原の敵をきちんと自らで考えて判断して殺したに過ぎない。彼女を手助けしただけなのだ。しかし糸原は許せない。少なくとも、今だけは許したくなかった。振り上げた腕の行き所を失ったこともそうだが、二度目があってはならないのだ。
彼は何も知らない。何も分からないけだものだ。知る機会を与えられなかったとも言える。そして此処は地の底ではない。彼とした約束は、未だ彼女の中で機能している。それを果たす為、飼い慣らしてやる必要があった。
「悪いわね、フェンリル。あんたを止めるって言ってたけどさあ!」
「う、ううううううう!」
糸を躱しながら、フェンリルは糸原をねめつける。
「ほったらかしにしてた! 飼い主失格じゃない、これじゃあ!」
「あ、だ、だれが、わたしをっ」
「この糸原四乃に決まってるじゃない!」
「あああああああああああああああっ」
フェンリルの足にグレイプニルが絡みついた。彼は激高し、同時に狼狽する。折角解き放たれたのだから、もう二度と繋がれたくなかった。フェンリルは右腕を狼の頭に変化させて、糸を食い千切ろうとする。
糸原は得物を手元に戻した。狼の頭部と化した、フェンリルの右腕が膨れ上がっていく。
「げ」フェンリルは巨大な狼と化して、吼え声を轟かせた。
ここに槌屋という男がいる。人であることを誇示し、人を外れることを固辞し、人という器のまま練り上げ続けるのを信奉する男だ。
彼の屈強さ、頑強さは出鱈目に近い。研鑽を欠かさず、試行の果てに辿り着いた領域だ。槌屋という個人の信念に依って支えられた一個の力である。
槌屋は今もドラゴンと打ち合いながら五体満足でいる。が、彼は知らない。強さとは一つの想いに支えられるだけではない。無論、槌屋とて、高が巨大な蜥蜴だと下に見ていた訳ではない。認識が甘かっただけだ。
「冴ォ……っ!?」
槌屋はドラゴンと打ち合い続けていた。ソレは片足だけで嬲っていたに過ぎないのに。こと、ドラゴンが攻撃に意識を傾ければ、均衡は容易く崩れる。彼はソレの両脚に挟まれて意識を刈り取られた。地面に倒れず、屹立したままだったのは矜持か。
虫を潰すような――――事実、ドラゴンから見ればそうなのだろう――――気軽さで、槌屋の身体が払われた。彼は十数メートル先の溶け掛けたビルの壁面に叩きつけられる。ついでだと言わんばかりに、ソレは口内で生成した炎を球体にまとめて、槌屋へと吐き出した。回避する時間はなかった。彼諸共、ビルが業炎に呑み込まれる。
竜とは、つまるところこのようなものなのだ。
幻想の頂点。御伽の存在。化物の極致。
それを思い描く者たちがドラゴンという種を最強足らしめる。即ち、信奉である。こうでなくてはならない。強くなければ竜ではない。人類に対する困難な試練として聳え立たなければならない。
槌屋が個によって立つ強さなら、竜は全で、群だ。海内、宇内を問わず、悠遠から人の願いの集合体として在り続ける。
鱗は赤銅。爪牙は刃金すら意に介さない。天を衝く吼え声。有象無象を焼き尽くす炎。存在自体が周囲を脅かす。
人類の理想とも言うべきモノの前に立つのはジェーン=ゴーウェストだ。彼女は槌屋の有様を見届けていた。人外一歩手前の彼でさえ、竜には届かなかった。
けれども。ジェーンはそう思う。人でもあり、獣でもある自分ならどうだと、ソレをねめつける。
「こっちを見やしナイ」
ジェーンは目に入りそうになった汗を指で弾いた。
月も、大好きな星も見えない。未だ分厚い雲は街から離れようとしていなかった。狼としての真価は発揮出来ないだろう。しかし退くつもりは最初からない。ただ、前へ。ただ、先へ。破滅へ向かうのだ。
誰も気にも留めず、知る由すらなかったが、北駒台店のフロアで息を吹き返したのは『神社』の山田栞だけではなかった。彼女と同じく、王に切り刻まれたものがもう一人。否、一匹。歌う犬ことコヨーテだ。
コヨーテは店を抜け出し駆けていた。走る度に骨が軋み、傷口からは止めどなく血が流れ出す。タイムリミットが近づいていた。大人しく眠っていれば治療が叶ったかもしれない。生き永らえたかもしれない。彼とて愚かではないのだ。獣だが、自身の状態を顧みることが出来ないほど無能ではない。が、ここで走らず、ジェーンのもとへ駆けつけられない方が愚かであり無能だと考えていた。
北駒台店に背を向けてから十数分、コヨーテは休むことなく足を動かし続けた。途中、ソレに道を阻まれることもあったが、今の彼を止められるものはいなかった。
ごうという音が鳴り、空間が熱を帯び始めた。炎の吐息が炸裂する。ジェーンはソレの正面から逃れようとして背を向けた。瞬間、ドラゴンは口内に火焔を押し留めたままで前脚を振るう。彼女にとって予想外の攻撃だったのだろう。横っ飛びで躱すのに精いっぱいで体勢を崩す。そして躊躇なく炎が放たれる。溜めに溜められていたソレの炎は空気を焼きながらジェーンへと迫った。
体勢を崩したままでジェーンは地面を強く蹴り出す。距離を離そうとして跳躍したのだが間違いだと気づくのにさして時間はかからなかった。逃げ場がないのだ。跳び、中空にいる時点で次の手がない。火焔は彼女を瞬く間に呑み込んでいく。呪詛の声すらも焼けてしまうだろう。
だが、ジェーンを援けるものがいた。凡百の獣を退ける魔の声が轟いたのだ。間一髪、コヨーテが間に合った。彼の声は涙の国の君主、モロクの炎ですら雲散させる。ドラゴンの炎とて例外ではない。ドラゴンはコヨーテの声の影響を受けないが、ソレが吐き出したものは声を受けて割れていく。炎のただ中にいたジェーンは機を逃さず、灼熱から抜け出した。
歌う犬は遠吠えを上げ続ける。ジェーンはその姿を以前にも目にしたことがあったが、彼が何かを訴えているのだと改めて分かった。啼いて、哭いて、きっと赦しを請うているのだ。哀訴が必ず実を結ぶとは限らない。しかし彼女は許そうと思った。世界中の人間も、そうでないものも、コヨーテの所業を、存在を許容しなかったとしても、自分だけは認めてやろうと思った。
「もう、いいんだよ」
コヨーテが叫ぶ度、ドラゴンの動きが僅かに鈍る。……万全の彼なら、竜という種族でさえ怯え、竦ませられたかもしれない。しかし今のコヨーテは死にかけだ。大した効果は見込めないが、生命力を削り、重ね掛けすることでドラゴンを足止めさせている。
ただ、コヨーテの狙いはドラゴンと戦うことではなかった。彼は最後の最後で我を出した。自分がもう口を利けなくなってしまうから、その前に――――。
「もういいんだよ! アタシはあなたの味方になってあげるから!」
世界中の何もかもから石を投げられたって構わなかった。ただ、一人にだけ思いが届けばよかった。
ジェーンの声を聞き、コヨーテは満ち足りた。彼女を『円卓』に売り、日和見主義を貫いてきた罪は浄化されるのだろうか。いや、されなくてもいいとさえ思った。
罪は罪だ。己の肉体が朽ち果てても、魂が擦り減り切ってなくなるまで懺悔し続ける。
「オ、オオオオオオオオオオォオオオオオッッ!」
獣は吼える。歓喜の声だ。
コヨーテの声に圧されたのか、炎を吐き出さんとしていたドラゴンがたたらを踏む。ソレは生成した火焔を放出することが出来ないで、噛み砕き、飲み干してしまった。ドラゴンは頑強な鱗を持つが、体内は外に及ばない。自らの炎がドラゴンの臓腑を焼いていく。
苦しみ喘ぐドラゴンはどうでもよかった。コヨーテは最後にジェーンを見遣り、満足したように目を瞑る。歌う犬はもううたわない。だが、彼の歌は、声は、まだこの街の夜にこびりついているのだ。
「……っ!」
テュールは戸惑いを見せた。刹那の間隙が命取りとなる状況下で彼が気を逸らした。フェイントだろうか。考えている時間も確かめる術もない。しかし立花は一歩前へと踏み込んだ。彼ならば攻撃を誘うにしても上手く隙を見せるだろうと判断した。
剣を鞘に納めたまま、テュールもまた立花に反応する。その速度は間違いなく一流のもので、凡常の剣士が相手ならば後手から先手を抜き去り、問題なく斬り斃していただろう。
立花は袈裟懸け。テュールは彼女の刀目がけて切り上げる。どちらの狙いも寸分違わず。目標までまっしぐらに突き進む。
一瞬を引き延ばしたかのような体感時間の中、立花は忸怩たる思いを抱えた。やはりテュールの剣力は並ではない。先に抜いて振り下ろしたというのに追い抜かれそうになるなど、今までにない経験であった。
おお、という威勢のいい声と同時、刀と剣が衝突する。テュールは片腕で立花を押していた。彼女は歯を食い縛り、目を見開いて力を込める。
鈍い音がした。半歩踏み込んだテュールが立花の腹を蹴り、その反動で離脱した。開いた距離を認めると、彼は息を吐いて得物を彼女に擬する。
「まずは一合。次はどうするっ」
鈍痛に苛まれたまま、立花はテュールの突きを捌いた。滑るような、踊るような足捌き。狭い足場でテュールは身を翻す。追いすがろうとした彼女の首を剣が薙ぐ。寸前、立花は身を低くして躱した。
かちりと、テュールは手首を返す。薙ぎのあと、鋭い切り下しが立花のそっ首に叩き込まれようとしていた。
立花は柄尻で剣を受け止める。だが長くは続けられない。跳ね上げ、テュールの得物を手元に戻させた。
「然らば!」
納刀。跳躍。
立花は中空に跳んだテュールに対して刀を薙ごうとする。が、見えない。彼が捻りを加えて体を捻じっているせいだ。手元が、剣の出所が見えない。抜くのか抜かないのか抜いたとしてどのように――――。
「かあっ!」
迷いが立花を硬直させた。テュールは着地際に剣を抜き、腕の振りを使って得物を叩きつける。勢いのついた一撃を、彼女はただ防ぐことしか出来なかった。のみならず、テュールは俄然攻め立てる。防戦一方の立花だったが、
「調子に乗るなっ」
彼の剣が大きな弧を描いた。
立花は機を得たとばかりに深く踏み込む。刀を寝かせて、テュールの心臓を突こうとした。彼は歪な体勢ながら、足で彼女の手元を蹴り上げる。立花も堪えたが、切っ先は僅かにぶれた。
弧を描いた剣も、一直線に向かった刀も空を切るに留まる。互いが位置を入れ替える形で、再び距離を取った。
『円卓』の席に座る前から、テュールは修羅場鉄火場であろうと、片腕だけで潜り抜けてきた。彼の剣術もそうだが、体術も冗談じみている。対峙している立花は知る由もないが、テュールの身体能力は特別優れている訳ではない。膂力だけなら槌屋に、速度だけならジェーンに軍配が上がる。テュールは何人、何十、何百、それ以上の人間を斬り、人以外のものも斬ってきた。経験なのだ。力の使い方を知っている。受け、捌き、流し、防ぐことを体で覚えている。
何より、テュールは『立花』を知っている。彼女らの技も腕も体で覚えているのだ。
「さっき、よそ見してたよね」
「ああ、それは……いや、言い訳はすまい」
「『立花』があなたに恋い焦がれたように、あなたにもその相手がいるんだね」
テュールは面映ゆそうに頷いた。
「拙者の片腕を奪ったものがこの街に」
「恨み言を言いたい気分だよ。あなたが腕を奪われていなかったら」
よせ。やめろ。
テュールは思わず、出かかった言葉を飲み込んだ。
『感謝してるよ。片腕でそれなら……』
「もっと楽に勝てたのに」
「……く、は」
自然、笑みが零れる。テュールは剣を鞘に戻し、片手を上げた。
「すまん、待って欲しいでござる。は、は」
「何か、ツボにでも入ったの? ボク、冗談を言ったつもりはないんだけど」
「いや。いやいや、そうじゃあないでござる」
立花は小首を傾げている。テュールはくつくつと声を漏らした。
「何故、そう思ったのか。出来れば聞かせて欲しいでござるなあ」
答えを聞くまでもない。立花も知っている。何かを得るには何かを捨て去るしかないのだと。たとえば、目を失えば他の感覚が研ぎ澄まされるように。腕一本を引き替えに、テュールの戦闘能力は高まった。
張りぼての軍神として胡坐をかいているだけでは足りなかった。腕を食われて失ったあと、ないものを補う為に工夫した。力任せではいけないと、剣術を極めようと努力した。
テュールはまだ、とある獣に食われかけた時のことを覚えている。間近に迫った狼の口は、具現化された死そのものであった。神と言えどもいずれ朽ちる。己の死を自覚したことで、剣は一層鋭さを増したと信じている。
「五体満足であったなら、拙者は力を求めなかったろう。腕を失ったが、代わりに多くの物を得られたでござる。『立花』よ。失いたくないと申したな。生半な覚悟で拙者に勝てると思っているのか、で、ござる」
「違うよ。失う方がずっと簡単なんだ。ボクはもう失くさない。自分も、大切な人も。失わないように戦う方が難しいって思ってる。だから、負ける気がしなくなった」
「どの口で」
「わんわんって鳴いたげようか?」
立花は刀を正眼に構える。テュールは剣を鞘に納めて応えた。
「……あ、忘れてた。一つだけ言わせてもらってもいい?」
「其方が隙を作らねば斬りかからないでござるよ」
「うん。じゃあ、あのさ。『立花』を襲ったことについては、もういいんだ。どうせここで逃がすつもりはないんだし。それに、あなたがいなければボクはこの街に来られなかった。みんなと会えなかった。だから、いいんだ」
要領を得ない話し方に、テュールは眉根を寄せる。
「ボクはただあなたを斬るよ。改めて思った。言いたかったのはそれだけ」
「充分。それさえ聞ければ充分でござる」
テュールは心が躍るのを感じた。この街が終わるまで、夜が明けるまで、得物で語らい合えたらどんなに素晴らしいことかと夢想する。よもや、イヌと蔑んでいた立花真こそが好敵手なりえるとは、想像の埒外であった。