焔の如く
自分たちは化け物だ。人間ではないのかもしれない。
そう思いながら、情報部の木麻凛はソレの喉に歯を立てた。ぶつりと、ソレの皮が裂けて、血が流れてくる。彼女は顔を上げて苦痛に喘いだ。木麻もまた、己の足に食いつかれている。
「離せっ、鳥が!」
木麻は、自分の足にしがみついているソレの鼻を何度も殴りつけた。ソレは低く呻いて、たまらず彼女から離れる。その隙を衝き、別の個体をタラリアで踏みつけて中空へと上る。だが、別のハーピーが挙ってやってきた。木麻は周りを見渡す。助けは来ない。仲間はいない。自分だけでどうにかするしかないらしかった。不思議と絶望感は生まれてこない。何せ、とうにそれは生まれ出て、逃れられないところまできているのだ。苛まれ続けて、慣らされている。
「生きて帰るのよ、私は!」
足を掴まれた。振り解こうとしたが、何匹ものハーピーが相手では分が悪い。木麻はソレに集られて、声すら出せなくなった。
一たちがいなくなり、春風ら負傷者が戦闘に参加した。エレンのクル・ヌ・ギアはもう発動出来ない。二ノ美屋たちは不利な状況に追い遣られていた。ハーピーたちがそのことに気づいたのである。
ケライノーは、オンリーワン側にはこれ以上ないと悟った。援軍も、打つ手もない。彼らは、後は勢い任せに戦うだけである。まともにぶつかれば自分たちが負けることは有り得ない。冥界の女主人はどうすることも出来ないはずだ。彼女の隣にいた大狼の化け物もどこかへ消えている。
「間抜けがいんぞ! さらえ、さらえ!」
号令一下、ハーピーたちが突出していた戦闘部の女に集った。彼女を助けられる者はいない。
倒れ、伏した者は、ソレによって生きながらにして食まれていく。仲間が食われる様を横目で見ながら、次は自分の番かと震えながら抗うのだ。
「私ごとっ、ころしてぇ!」
二ノ美屋と堀が女の声に反応する。彼は、店前で待機する医療部の乗った車の護衛をしていた。車内には炉辺がいる。堀は叫んだ。畜生、と。彼は、近くの地面に突き刺しておいた槍を左手で掴み、獲物を掴んで中空へ上ろうとするソレに向けて投擲した。宙を疾駆する凶器はハーピーの翼に食い込み、後方にいたソレを巻き込んでいく。だが、それだけでは足らなさそうになかった。
悲鳴が彼方此方から聞こえてくる。堀は周囲を見回す。多くの者が空に連れ去られていた。全員を助け出すことなど不可能に思えた。槍を手当たり次第に投げつけても、ハーピーたちの数は目に見えて減らない。次から次へと、空から舞いおりてくるのだ。
「店長っ! このままでは、我々は!」
二ノ美屋は空のマガジンを蹴飛ばし、新たな標的を片目で見定めている。気だるげな仕草でトリッガーを引くと、一発の銃弾で三体のソレを落とした。ハーピーに捕まっていた女が落下しそうになるも、情報部が彼女を助け出す。
「分かっている。やり方を変えるぞ」
「指示をください。私なら、何でもやってみせます」
堀が言い切った。二ノ美屋は彼の言を鼻で笑う。実際、堀ならば大抵のことをやってのけるだろうと信じていた。
「なら、技術部に出し惜しみはナシだと伝えろ。それから、お前は前に出て、囮にでもなっててくれ」
「医療部の車は誰が守るんですか」
「安心しろ。炉辺は私が守ってやる」
行け。堀に対して短く告げると、二ノ美屋は情報部に指示を下した。
二ノ美屋は別のソレを撃ち落とす。正確な狙いであった。飛来した弾丸はハーピーの急所を確実に貫いている。
「……ケルトの英雄の代わりになれればいいな」
シニカルな笑みを浮かべると、二ノ美屋は落ちていた拳銃を足で拾い上げて、二挺を構えた。
一発。ソレの翼を砕く。
二発。ソレの喉を食い破る。
三発。ソレの柔らかい部位を抜けた弾丸が、後方にいたモノを薙ぎ倒す。
「間違いない」
ケライノーは断じた。あの女には、二ノ美屋という人間には見えている。どこを狙えばいいのか。いつ撃てばいいのか。何もかもを把握している。彼女には三百六十度、死角がない。まるで百々目鬼だ。まるでアルゴスだ。二ノ美屋愛は、人ではない!
「あいつをやれば! もっと楽が出来るってことかァ!?」
ケライノーが叫ぶ。彼女の命に従い、木端のハーピーたちが二ノ美屋のもとへと殺到した。彼女を守ろうとして、戦闘部の男が身を投げ出す。彼は全身を強かに打ち据えられた後、地面に倒れ込んだ。
二ノ美屋は動じない。彼女は自分を庇おうとした者を見ないまま、風のような速度で飛ぶ有翼の怪物の額に銃口を突きつけた。自分の身に何が起こったのか分からず、ソレは脳漿を周囲にぶちまける。
「姉ちゃん、私が行く! あのアマ、ぜってえぶち殺す!」
四姉妹の末女ポダルゲが、同胞についてくるように呼びかけた。だが、数はそう集まらない。前面にいる堀に多くのハーピーが群がっている為だ。彼は四方どころか全方位を囲まれているが、数を苦にしていない。槍を振り回して、薙いで、突いて、掠り傷すら負っていなかった。
ポダルゲは奇声を上げながら、供を連れて急降下を開始する。上方から二ノ美屋をねめつけて、足を突き出した。……彼女の名、ポダルゲには、足の速いものという意が込められている。元は旋風や竜巻を司るともされたモノだ。タラリアを履いた情報部でも相手にならなかった。こと、速度だけで勝負するなら話にならない。
「二ノ美屋さん、向かっています!」
注意を喚起する声が届くよりも先に、ポダルゲの爪牙が二ノ美屋に届こうとしていた。
「死ねやっ、猿ヤローが!」
ポダルゲの顔が狂喜で歪む。彼女の足が地面と衝突して折れ曲がる。尖った爪が剥がれて舞った。ポダルゲは顔面を歪めたまま、事態の把握に努めようとする。一発の銃声が思考を断ち切った。高く乾いた音が鳴り、彼女の供をしていたハーピーが墜落する。
強烈な激痛がポダルゲの脇腹を襲った。撃たれた傷口に手を遣る暇はない。四肢に弾丸を叩き込まれたからだ。
ポダルゲは仰向けに倒れ込む。彼女の顔を、二ノ美屋が覗き込んだ。
「まず一人。貴様ら『四人』が群れを動かしているのは分かった」
「な、あ……!? ああああああああああぎいいいいいぃきき!」
聞きたいことはない。二ノ美屋はポダルゲの額に銃弾を撃ち込む。骸となったそれを蹴り転がすと、彼女は頬についた返り血を袖で拭った。空を見上げると、妹を喪った姉が三人、はっきりとした敵意をもって睨みつけている。
「ようやく、そういう目で見てくれたか」
撒き散らされた鮮血が地面に降り注いだ。赤い雨の中を、ハーピー共が低い高度で飛び回る。近距離だ。二ノ美屋は拳銃ではなく、空手での戦闘行動を選択する。
ハーピーが二ノ美屋の背後に回った。彼女は大儀そうに身体を捩り、後ろ回し蹴りを繰り出す。硬い靴底がソレの顔面にめり込んだ。次いで、二ノ美屋は接近していたソレの腕を掴み、関節を極める。骨の折れる音を聞き、彼女はくつくつと笑った。
「キャアアアアアアコメエエエエエエエ!」
左右からハーピーが迫る。二ノ美屋は得物を抜き、銃口のあたりを握って持った。接近するソレの顎を銃床で叩きつける。骨の砕ける鈍い音が響く。伝わった感触は彼女を身震いさせた。
身体を反転させる。ソレと目が合う。二ノ美屋はもう片方のソレの顎を砕き、拳銃に新たなマガジンを装填した。上方から飛来するハーピーの眼球を撃ち貫く。マズルフラッシュが三度起こると、彼女に向かっていたソレが全て墜落し、絶命した。
「死体を使え! 放ってやれば食いつくぞ!」
二ノ美屋はハーピーの翼を捥いで中空に放り投げる。彼女に倣い、力のある者がソレの死体を掴んで、出来る限り遠くへ飛ばした。動くものに反応したのか、あるいは死臭に引き寄せられたのか、ハーピーは同胞の骸へと向かい始める。
「薄くなったところを食い破れ!」
「遅いのよ!」
一塊になっていたハーピーたちが散らばった。ソレの群れの中から、情報部の木麻が飛び出してくる。彼女は太ももを食われていたが、痛みよりも怒りが勝っているらしい。自分から離れようとするモノを後ろから追いかけて蹴りつける。彼女に遅れるなと他の情報部も比較的手薄な場所を狙って攻勢に転じた。
「動ける者は中央に!」
「集まって、どうするんですか!?」
「目に物見せる!」
二ノ美屋は屋根の上を見遣る。エレンが彼女の視線を受けて、小さく頷いた。
エレンは意識を集中させる。クル・ヌ・ギアは発動出来ないが、土塊の足場程度なら生成可能であった。先に現れていた砂が一所に集まり、土に変じて姿を変える。階段状になったそれは、数メートルの高さがあった。
「おおおお!? んだよ、これっ」
「楼閣だっ」
腕自慢の戦闘部が先んじて階段を駆け上がる。踊場のような場に、三名の戦闘部が辿り着く。彼らは飛び道具ではなく、自らの慣れ親しんだ得物で戦えることを喜んだ。
階段の先の踊り場で、戦闘部たちが吼え声を迸らせる。近寄ってくるハーピーを滅多切りにして、滅多打ちにして愉しんだ。
戦線を伸ばす必要はなくなった。また、それを維持することも難しくなっている。二ノ美屋は残った者たちを中央に聳えた土塊の階段へと集め始めた。
「手が空いた者は、負傷者を……」
言いかけたところで二ノ美屋は気づく。この場で、怪我をしていない者が殆どいないことを。彼女は息を呑み、済まなさそうに周囲を見回した。
「何か言ったかよ、二ノ美屋」
「指示くれるんなら早くして!」
調子に乗るなよ死に急ぎども。内心で毒づくと、二ノ美屋はトリッガーを引いた。弾に当たったソレがばらばらと落下して、彼女は死ねと命じた。
道化が跳ねる。闇の中、短く、低く跳躍して、携えた得物を振るう。彼が手にしているのは何者かの腸であった。
ヒルデは、鞭のように振るわれる腸を大鎌で防ぐ。甲高い音が鳴り、火花が散った。驚きはしない。その腸は鉄のように固い。彼女は武器だけではなく、彼の正体についても気づいている。
しかし問いはしない。もはや語りかけることもない。訊いても無駄だからだ。常軌を逸した悪神は、とうに正気を失っている。ヒルデは鎌で薙ぐが、道化は鞭で受けることすらしなかった。ただ、避け、跳ね、聞き苦しい声を上げるだけだ。
追いかけても距離は縮まらない。逃げれば逃げられ、距離を開ければ詰められる。意味はないのだ。道化は楽しんでいるに過ぎない。時折、腸の鞭を振ってヒルデをけん制して、彼女の焦るさまを見て笑う。見なくても笑う。
「…………これは、あなたが起こしたのですか」
「これ? これって、どれ? まさか、この黄昏時のことを言っているんじゃあないだろうね!」
閉ざす者。
終える者。
霜の巨人の血を引きながら、主神の義兄弟でもある神。
誰よりも美しく、誰よりも狡猾で、誰よりも移り気。息を吐くように嘘を吐く、北欧神話稀代のトリックスターだ。彼の名はロキ。ラグナロクの発端とも言える、光の神殺しを起こした神である。
ロキはラグナロクの際、巨大な岩に息子の腸で縛られて、蛇の毒が滴る場所に閉じ込められていたが、戒めから脱すると、巨人族を率いて出陣した。彼が、自分を縛っていた息子の腸を持っていることから、ロキがラグナロクに参戦していることは自明の理である。彼と相対するブリュンヒルトもそう考えていただろう。
だが、ロキは違う。確かに、ラグナロクについて『円卓』に吹き込んだのは彼だ。どのようなものなのかを教えたのも彼だ。しかしロキは、今起こっている『これ』をラグナロクとは認めていない。
駒台という街に、フィンブルの冬はあったろう。
自分がいて、魔狼がいて、絶望の船も浮かび上がった。虹の橋も空にある。だが、太陽と月を狼たちが喰らったか? 角笛は鳴ったか? グニパヘリルの番犬は? 死者の国の娘は逝って、もう一人の息子は海の底から出て来やしない。船の舵は誰が取っている。ムスペルヘイムの子らは未だに姿を見せていない。
ロキは思う。これでは駄目だ。足りない。まだ足りない。絶望とは程遠くて生温い。敵がいない。味方がいない。舞台は整っておらず、役者は遅れているどころか到着する見込みすらない。喜劇か悲劇か悲喜劇か。不条理か。グラン・ギニョールか。なるほど確かにグラン・ギニョール。これは、こけおどしめいた茶番劇だ。そも、舞台が違う。役者が違う。これはラグナロクではない。半端ではなく、偽物なのだ。言うなればこれは素人の劇である。
「あはっ、あはははははははははははははははははははははははははははははは! 怒っているんだ!」
息子……ナリの腸は鉄と硬度が変わらない。ロキにとっては特別な物でもない。臓物でもってヒルデを打ち据えてやると、彼女はそれでも戦意を漲らせたままであった。彼はヒルデの目が気に食わない。何故、よりによって、北欧の戦乙女がやる気なのだ。
「出来損ないっ、出来損ないだ! だから嫌なんだ。これは決して我々の望んだものじゃあない。だってそうじゃあないか。おれの敵は? ぼくの友は? 私の子は? なあ、みんな、どこへ行っちゃったんだよ?」
自分たちは、北欧の神々は舐められているのだ。こんなもので我々が黄昏るはずはないのだと、ロキは信じている。誰かが死ぬのは誰かの勝手だ。殺すのも殺されるのも好きにすればいい。だが、自分を巻き込むのならそうはさせるか。気に入らなくて気に食わない。ふざけた茶番劇に腹が立ち、そいつに乗っかる戦乙女たちにも腹が立つ。
「誇りは! 誇りはっ! 誇りはァァァ!?」
ヒルデは頭を下げて腸が過ぎ去るのを見届けた。その視線に、ロキは更に苛立つ。
「…………いらない」
「怒っているんだぞ! ぼくが!」
怒っているのはこちらも同じだ。ヒルデは歯噛みして、ナリの腸を鎌で弾いた。
……要らない。誇りは必要ない。当事者でもあったロキとは違い、ヒルデはラグナロクについて強い思いを抱いていない。この街を害すると言うのなら、どうにかしたい。それだけなのだ。
目の前の小男が悪神ロキならば、彼はどうして動かない。矜持を口にしたうえで、行っているのは何事だ。ただ、我儘を喚いて、癇癪を起こしているに過ぎない。
「どうして、ここにいるのっ!」
戦う相手を間違えている。『円卓』に、『王』に挑まないで何が誇りか。
ヒルデにはある。胸に携えたものがある。誇りであり、誓いだ。一一に類するものを守ると約束した。だから彼女は許さない。邪魔立てするなら、たとえ相手が神であろうと拘らない。何せ、ヒルデはとうに主神を裏切っているのだ。今更である。
ロキが感情に飽かせたまま振るった得物は、南駒台店の外壁を叩き、砕いた。散った破片が後ろで音を立てている。ヒルデは前進し、彼の首を狩ろうとして鎌を横に薙ぐ。切っ先は何も捉えられない。まるで手応えがないのだ。
そうか、と。ヒルデは察する。ロキには戦う気がない。ただ、愚痴って、くだを巻きたいだけなのだ。自分たちは彼に付き合わされている。遊ばされている。
時間がない。一分どころか、一秒すら無駄には出来ない。こうしている間にも、一や近畿支部の皆が戦い、命を落としている。相手は自分よりも格が上。端から手加減は出来ないのだ。
「…………守る」
――――この身は鎧。この身は盾。
ヒルデはロキをねめつける。瞬間、彼女の足元から光が迸った。赤、青、緑。三色が混じり合い、多様な色に変化していく。その光は、虹によく似ていた。が、虹とは確かに違う。極光であった。
足を踏み出す。爆発的な加速と共に大鎌が振り下ろされる。ロキはその場から飛び退いた。笑ってはいたが余裕はない。
ヒルデの身体は殆ど宙に浮いていた。彼女の周囲にはカーテン状になった多色の輝きが纏わりついている。ロキは距離を取り、腸の鞭で牽制するも、全て潜られ躱されていた。
「皆を、守る……!」
「戦乙女の仕事はそれじゃない! 魂を漁っていればいいんだ!」
「人を動物みたいに!」
北欧神話では、オーロラはワルキューレの甲冑の輝きだとされる。死者と生者の世界を行き来し、夜空を往く彼女らの姿は神秘的なものだったろう。
大鎌がロキの胴を薙ぐ。手応えはあった。だが、ヒルデはよからぬ雰囲気を察知し、彼から大きく距離を取る。ロキは腹を手で押さえていたが、痛がっている風な素振りは見せない。小刻みに震えているのは、
「ふ、はっ! あはっ! アハハハハハアハハアハハハハハハハハハハハ! おれをっ、ぼくをっ! よくもやったな、使い走りの分際でさ! おまえ、まだわたしのことを舐めているのか!」
笑っているからではない。ヒルデはようやくにして気づく。彼は、最初から怒っていたのだ。煮えくり返った腸を抱えたまま、先からずっと声を荒らげていたのだ。
ロキの傷口からは血でなく、火が漏れ出ている。極光の膜越しに、ヒルデは見た。悪神の影が膨れ上がっているところを。
ロキという神は、何者か。
ロキは神々の敵であり、味方でもあった。巨人の血を引きながら、神の一族として列座した。トリックスターである彼は様々な神性を持っている。
終わり。誘惑。大気。
名には諸説由来があるが、その全てが当てはまる。
「全くもって度し難い。ブリュンヒルト。それとも君が死者になって、運ばれるのか」
もう一つ、ロキには神性があった。
それは炎である。火と煙の化身としての側面すらも併せ持っていた。
「…………う、あ、ああっ」
ロキの傷口から、炎が溢れて噴き上がる。ヒルデの周囲に極光があるように、彼の周囲には灼熱があった。彼女はロキの炎と熱風をまともに受けて、後方へと吹き飛んだ。
ヒルデは壁に叩き付けられただけでなく、炎に炙られ、剥き出しの肌は痛々しく焼けている。彼女は新鮮な空気を欲したが、ロキが許さない。彼が動けば炎が蠢く。ヒルデは咳き込みながらも、反撃の隙を窺った。
四階建てのビルが融解していく。その様を見遣り、ジェーンは敵の姿を認めた。
飛翔していたドラゴンが、地響きと共に眼前に着地する。衝撃波と振動がジェーンの矮躯を襲うも、彼女は両足を狼のそれに変化させていた。爪を地面に食い込ませて必死に耐えている。両腕で顔をカバーしながら、ジェーンは見た。竜の咢が開いているのを。
ドラゴンの口腔内では炎が躍っている。意志を持っているかのように、跳ねて、今にも飛び出さんとしている。
ジェーンは自らの武器を確認した。リボルバー。ブル・ホイップ。狼の爪牙。なんて頼りないのだと、彼女は自嘲気味に笑む。
距離を開ければ炎は避けられるだろう。だが、それではこちらの攻撃も届かない。たとえ竜の息に焼かれようとも、ソレを先に進ませる訳にはいかない。覚悟ならとうに決めている。
「っ、アァ!」
右方へ。ジェーンは炎が飛ぶよりも早く駆け出した。吐き出されたブレスを背中越しに受けて、彼女は尚も前へ行く。
ドラゴンは小さな標的を見ていた。前脚で、崩れた建物ごとジェーンを薙ぎ払う。
四方八方へ飛散する破片の中、ジェーンが姿を見せた。彼女は、舞い上がる破片を足場にして、短い跳躍を繰り返しながら接近を試みている。発砲音は一度。されど放たれた弾丸の数は四。高速で連射された鉛玉は、しかしドラゴンには届かない。眼球を狙った銃撃はソレの周囲の熱で融けていた。
ジェーンにとって脅威なのはドラゴンの巨体だけではない。ソレが炎を吐き出す度、熱が襲う。それは彼女に害を為し、ドラゴンの盾にもなっている。直に触れれば融解はおろか、蒸発するだろう。
頭は狙えない。ジェーンは着地してドラゴンの後ろへと回り込む。ソレは方向転換するが、その動作は鈍く、彼女よりも遅い。
「Woop!」
恐ろしいことに、ドラゴンの後ろは『さほど熱くない』。果たしてソレの放つ熱量が如何ほどのものか。想像を断ち切る。今は考えても無駄でしかない。ジェーンはソレの脚に飛び移り、尾を切り裂こうとして腕を振り下ろす。獣の爪が鱗と激突。彼女は顔をしかめた。硬いのだ。弾かれたばかりか、爪が剥がれている。ジェーンは、ドラゴンの腰に当たる部位に立ち、辺りを見回した。ドラゴンが通ってきたであろう場所は全て薙ぎ倒されて壊されている。何があろうと関係ない。焼かれ、叩かれ、潰されるだけだ。
ジェーンは空を仰ぐ。月は見えない。これでは満足に戦えない。狼の血は、未だその真価を発揮していないのだ。
「こんのォ!」
叩く。叩く。叩く。だが、鱗は一向に貫けない。ジェーンの腕ばかりが痛み、骨が軋む。殴っても、蹴っても、噛みついても無駄だった。攻撃を繰り出した部位に、倍以上のダメージが返ってくる。歯が立たない。牙が通らない。ドラゴンはジェーン=ゴーウェストという存在を歯牙にもかけない。
ドラゴンはジェーンを体に乗せたまま、ゆっくりと動き始める。小回りが利き、うろちょろと立ち回る彼女と戦う気を失ったのだ。
「ふざけんな! 待って、待ちなさいよ!」
ジェーンがリボルバーを抜き、発砲する。弾丸は鱗に弾き返されて、彼女の髪を掠めて跳ねた。
ソレは新たな獲物を探すことにしたらしい。腹が減っている訳ではないだろうが、破壊衝動を抑えられる訳ではなく、そのつもりもないのだろう。
殺した。
人を殺した。
それ以上にソレを殺した。
後悔はしていない。後悔をさせない。
屠った命は無駄ではない。人も魔も獣も等しく、この身体に、血となり流れ、肉となりて高めてくれている。
一つ殺せば一つ高みへ。
二つ殺せば二つ高みへ。
殺せば強くなる。命を喰らえば強くなる。
そうやって生きてきた。そう信じて鍛えてきた。嘘ではない。嘘にはならない。
「ドラゴンか。でかいな」
目の前には赫々とした暴力が屹立していた。四足の巨竜が翼を広げて、咆哮を上げている。
男は――――オンリーワン近畿支部戦闘部、槌屋は、構えた。戦う意思を見せたのだ。彼は気負っていない。捨て鉢になってもいない。槌屋はシンプルだ。今も、自分が負傷していることなど勘定に入っていないのである。ただ、眼前の敵を殺せばどれだけ強くなれるかを考えていた。単純過ぎる思考だが、それは求道にも近しい。尤も、彼が信仰しているのは神でなく力なのだが。
槌屋は腰を低く落とす。ドラゴンは前脚を振るった。撫でるようなその一撃は、触れたものを容易く砕いてしまうだろう。が、彼はそうはならなかった。決して砕けない。どころか、ソレの脚を受け止めて、弾いて返す。
「食いでがありそうだ」
「人間じゃあ、ナイ!?」
視線を上に遣れば、何故だか、ジェーンがドラゴンに乗っているのが見えた。槌屋は好戦的な笑みを浮かべて自らの行いに感謝する。こんなにも早くリターンマッチの機会が訪れるとは思ってもみなかった。
ジェーンはドラゴンの頭部に乗っており、そこから、眼下の光景を見ていた。信じられなかった。
鈍い音。風を切る音。それに混じって低く笑う声。……槌屋は、ドラゴンと殴り合っている。彼は、ソレの前脚を受け止め、防ぎ、自らも打って出る。
信じられなかった。ジェーンは二体の化け物を見下ろし、口元を手で押さえる。槌屋は自分たちと戦い、傷を負っている。万全ではないのだ。だと言うのに、彼の戦意は旺盛だ。
槌屋の拳もドラゴンの脚も埒外の領域だ。並の人間では測れない力を持っている。ぶつかり合った一撃同士は、さながら大砲だ。至近距離での打ち合いは互角なのかもしれない。脚一本と言えど、槌屋の剛力はドラゴンのそれに迫っている。
だが、と、ジェーンは考える。ドラゴンには単純な力だけではない。まだ――――。
「ッッ、ツチヤ! 火が!」
足元から熱が伝わる。ドラゴンがブレスの準備を始めたのだ。ジェーンはドラゴンの頭部から逃れて、ソレの足元まで逃げる。彼女は槌屋を見遣った。彼とて、真っ向から立ち向かうほど愚かではないはずだ。
そしてジェーンの予想どおり、槌屋は両足でしっかと地面を踏みしめて、ドラゴンと向かい合ったままである。ソレは咢を開き、首を動かし頭を揺らす。次の瞬間にはもう、業炎が放出されていた。
槌屋は、ドラゴンが炎を放つ前に、両足で地面を強く踏みつける。ソレの地響きには劣るだろうが、大地は確かに震動した。彼の足元では大気が揺れ、震え、風が舞い上がる。作り出された風圧と共に、剥き出しになった土塊や瓦礫が宙に浮く。
「呉ッ!」
紅蓮の光が浮き上がった土塊や建物の破片を呑み込んだ。無論、それだけでは止まらない。次いで、竜の息は槌屋の作った風圧をも巻き込み始める。炎の侵攻は僅かに遅れたが、それだけだ。玉響にも近い刹那の間隙。彼はもう一度、地面を足で叩いた。先よりも烈しい震脚によって、新たな風が吹き荒れる。
ジェーンの視界から槌屋が消えた。炎が何もかもを飲み込んだように見えたのだ。ドラゴンブレスは長くは続かない。それでも、触れたものを融かし尽くしてしまうだろう。だから、ドラゴンの炎が消えた時、彼の五体が先と変わらぬ姿で残っていたのは、神の御業なのかもしれなかった。
「続けよう」
と、槌屋は言った。ジェーンは神を信じていなかったが、槌屋は神を頭から信じていないのではない。それよりも強く、重いものを信じているだけなのだ。