愛のメディスン
立花の娘は呪われる。名に縛られ、囚われ、一生を飼い殺しにされる。
そのことを知った幼い頃の由布椛は、ただ、可哀想だと思った。思ったことをそのまま言うと、家の者は『罰当たりめ』と怒ったので、子供ながらに、禁忌に触れたのだと悟った。
『今日から、お前はあの子の陰になるんだよ』
由布家は、烏天狗の血を引いた一族である。
烏天狗とは、神通力に秀でて、空中を自在に飛翔出来る能力を持ったソレだ。烏のような嘴をした顔に、身体は羽毛で覆われている。剣術にも長けており、並の人間では相手にならないだろう。とはいえ、烏天狗の血は代を経るごとに薄れていった。由布家最年少の椛は、見た目だけならもはや普通の人間と変わらない。ただ、走ることと飛ぶことにかけては人の能力を超えて、一族の中でも、誰にも負けなかった。
一時は九州において猛威を振るっていた由布の烏天狗だったが、今よりも遠い昔、退治屋『立花』の鬼に負けた。由布は立花に屈したのである。その時から、烏天狗は立花に仕えるようになった。
由布椛は、立花真が生まれた時から、彼女の陰になることを誓った。使命感からでも、親の言いつけによるものでもない。……可哀想だと思ったからだ。自分と同じように、泣きながらこの世に生まれたのに、最初から生き方が決められている。他にも道があることを知らされず、『立花』となるように育てられて、生きていくしかない。ならば自分は出来る範囲で真の力となろう。椛は心からそう思ったのだ。
『ああ、また泣いちゃってる』
椛は真と話したことがない。禁じられているのだ。陰から誰かが見守っていると気づけば、心根が弱くなる。『立花』の教えだ。だから椛は、真が自らの生まれについてどう思っているのか、推し量るしかない。
嗚呼、きっと、呪っているだろう。自分を縛りつけているものを恨んでいるだろう。出来ることなら、こんな家を出ていってしまいたいだろう、と。
立花家が『円卓』のメンバーによって壊滅させられた後、真は近畿地方、駒台へと向かわされた。椛は少なからず安堵の息を漏らしたのだ。家を離れたことで、主にも真っ当な幸せが訪れるのかもしれない。現実は違ったが。
もう一つ、椛の認識とは違うものがあった。真の気持ちである。新が駒台に向かい、戻ってから、椛は真の本当の気持ちを知った。立花真は、決して自分の生まれを恨んではいなかったのである。また、立花新のことも呪っていなかった。
椛は猛省した。新と共に乗った新幹線の中で、自らの浅はかさを呪った。主は、立花真は、ここまでまっすぐに育っていたのか。可哀想だという気持ちは消えて失せた。今、椛は純粋な感情によって、立花真に仕えている。
由布椛が駒台に到着したのは、街に虹がかかるよりも前のことで、立花が『騎士団』を抜けたのと殆ど同じタイミングであった。
街に着いた椛は、まず立花の姿を探した。……駒台に危機が迫っている。立花の家にその報せが届いたのは、数時間前のことであった。立花新は別件で家を離れており、また、報せを聞いたとして、ラグナロクには間に合わなかったであろう。烏天狗の椛だからこそ、このタイミングで到着出来たのだ。
椛は駒台の地理に明るくない。最初に北駒台店へ向かおうとしたが、街にはソレが溢れて、死者がそこかしこに転がっている。以前に見た時とはまるで違う有様だ。彼女は戸惑ったが、記憶を頼りに店へと向かった。
その途中、街から逃げていく者たちを見た。何故だか知らないが、自分と同じように街へ向かう者もいた。幽霊のように存在感があやふやな男であった。気になったが、椛は先を急ぎ、
「……って、なんですか、こいつは」
ソレの群れを見つけた。
群れの中には女と、少女が一人いる。囲まれている。少女は腹から血を流しており、彼女の傍にいるのは三角帽を被った女だ。姉妹か、親子か。椛は二人の関係と正体を訝しんだが、考えている余裕はない。立花のもとに急ぎたかったが、危機に陥っている者を見殺しに出来るほど、椛は冷血漢ではなかった。
椛は提げていた竹刀袋から一振りの刀を抜き放つ。彼女も『立花』の当主ほどではないが、剣の扱いには慣れていた。
「動くなよ、畜生ども」
烏天狗が地上で跳ねる。中空から振り下ろされた日本刀が、二足の蜥蜴の頭蓋を叩き割った。返り血が飛び散るよりも早く、彼女は次の標的へと向かう。小型の獣が高い声で鳴いた。
疾風が唸りを上げる。椛は囲まれている二人の傍に立った。余波を受けたスカートが翻り、彼女は刀身を血ぶりして、得物を鞘に戻す。
怪物どもは椛に襲い掛からんとしていたが、動きが徐々にぎこちないものになった。彼女はもうソレを見ていない。こちらを睨みつけるようにして見上げる、三角帽の女の様子を確かめた。
「あんたら、こっから離れた方がいいですよ。その子、死にかけだし」
「……後ろっ」
熊のような姿をしたソレが、大口を開けて椛に噛みつこうとしている。彼女は、女から目を離さなかった。
「その子、あんたの娘さんすか? それとも妹さん?」
椛らを囲んでいたソレの首が、ごろりと落ちる。噴き上がる血液を見遣り、椛は息を吐いた。
「関係、ないだろ。さっさと消えな」
「や、だからほっといたら死んじゃいますって。よかったら病院……は、どうせやってないか。まあ、この辺にオンリーワンの人たちだっているでしょうから、連れてってあげますけど」
「ほっといとくれよ!」
「聞き分けないなあ。その子、大事な人じゃあないんですか。見殺しにする気なら、椛ちゃんが許しませんよ。それとも、あんたも畜生ですかね。その時はこの、波遊ぎ兼光が黙っちゃいないですよ」
冷たくなり始めた身体が反応した。ランダに抱かれた神野姫は、傷口にそっと手を当てる。まだ温かい。その温度が、彼女の意識をはっきりとさせた。
「ばかに、するな」
目を開けると、見馴れない女がいた。……一瞬、見間違えた。その女は立花真と同じく、烏の濡れ羽色のセーラー服を着ていたのである。だが、よく見ると彼女よりも背が低く、髪の毛が短い。別人だが、気に入らなかった。
「お師匠をばかに、するなっ」
「姫。姫、喋っちゃだめだ。こんなの、無視しときゃあいいんだよ」
ランダの声はいつになく優しいものだ。だから、姫はきっと自分は死ぬんだろうと思う。自分がこの世からいなくなる。だからこそ、自分の大切な人を馬鹿にされたくないと思った。
「……大丈夫ですって。別にあんたらを馬鹿にしてるわけじゃあないんです。ただ、助かるかもしれないって人をほっとくのは気持ちが良くない。そいつがたとえ、お嬢様の敵であっても」
姫はきつく抱きしめられる。ランダの表情は先よりも険しいものになっていた。
「あんた、勤務外でもフリーランスでもないけど、おかしな気配がするね」
「やっぱりか。お嬢様の近くにいるやつらのことは頭にゃあ入ってたんですが、今思い出せてよかった。しっかし、はあ、そうですか。そんなんどうでもいいんですよ。どうするんすか。『立花』の敵に回るのか。大人しくそっちの子を助けるのか。早いところ選んでください。お互い、時間がないんです」
「だからっ、もう……!」
そうか、と、得心する。目の前の少女もまた、自分の敵となりうる存在だ。しかし姫は迷わなかった。
「お師匠を、助けてください」
椛が姫を見下ろす。
「私はどうなってもいいですから」
自分は死ねば兄と同じところにいられるかもしれない。ランダは、独りきりだ。姫は死ぬのが怖くて、嫌だった。何より、ランダを独りにしてしまうことに申し訳なさを感じている。
「『館』の魔女でしたっけ、あんたら。人を殺しといて、よくもまあ……まあ、うん。人間、死ぬ寸前ってのが本性を出すときなんすよね。そっちの子、思ってたより根が腐ってないのかもしれません」
姫はランダの手を握り返す。三角帽子がずれて、姫の顔に影が落ちた。
「……ああ、馬鹿だ。姫。あんたは本当に……」
ランダもまた、姫の手を優しく握る。どちらともなく微笑んだ。途端、淡い光がランダから発現し、姫の身体へと伝っていった。
ランダ。
その名は寡婦を意味する。ランダは、インドネシアのバリ島に伝わる魔女だ。伝承に登場し、悪霊を統べて人間に敵対する。彼女は他者を呪い、災いを齎す魔術や魔法を行使する。
バリ・ヒンドゥーの悪がランダなら、善を象徴するモノもいる。それが、バロンという獅子の姿をした聖獣だ。
ランダとバロンは、打ち倒され、殺されたとしても必ず復活し、永遠に戦い続ける。両者は善と悪の象徴として、いつまでも殺し合うのだ。……そのはずだった。
――――あたしはどうやら、解放されたらしい。
そう気づくには随分と時間がかかった。ランダは『館』の魔女たちと出会って、日本に辿り着き、方々を巡ってからようやくにして実感出来た。この世界にはバロンがいない。善も悪もない交ぜになった、壊れて創り直された、新しい人間の世界なのだ、と。だが、存在理由ともいえる戦いから解き放たれたランダには何もなかった。『館』の仲間と生活するくらいしか生きていく理由を見つけられなかったのである。
神野姫と出会うまではずっとそう思っていた。ランダは彼女を弟子にして、触れ合うようになってから、今までは得られなかった感情を獲得したように思える。姫を守ってやりたい。この子を笑顔にしてやりたい。そう思うようになった。しかし、ランダは魔女である。彼女は人間に災いしか与えられない。幸福や笑顔とは縁遠い存在である。自分と一緒にいては姫が駄目になる。彼女はきっと人でなしになって、どうしようもなくなってしまうだろう。分かっていてもランダは姫と離れられなかった。姫もまた、彼女と離れようとしなかった。
今、姫は血を流して、死のうとしている。ランダの腕の中で、少しずつ死に近づいている。
自分のせいだ。罰が当たったのだ。ランダは、自分がもっと『良い』存在であればと悔やんだ。
「お師匠を、助けてください」
ランダは涙を流す。悲しくて、嬉しかった。こんな時に嬉しがる自分に腹が立って、なんと浅ましい女なのだとまた泣いた。
その時になってランダは自分の胸の内が酷く温かいことに気づく。次第にその感情は体の中を駆け巡り、身を焼くほどの強いものに昇華し始めた。実際、彼女の手から光が洩れ出でている。ぬるま湯のような熱さの光は、ランダから、姫へと伝わっていった。
「……なんだい、こりゃ」
ランダは自嘲気味な笑みを漏らした。今の今まで苦しそうに喘いでいた姫の顔が、安らかなものに変わっていく。少しの間、ランダは覚悟を決めた。姫が地獄に連れて行かれたのではないか、と。だが、そうではないらしい。魔女の彼女から溢れた光が姫を包んでいる。傷口は開いたままだが、血が止まった。
その様子を見ていた椛は、興味深そうにして姫の顔を覗き込む。
「死相が消えてますね。驚いた。この子、持ち直したってわけですか。あんた、何をしたんです?」
ランダにも分からなかった。だが、何が起こったのかは理解している。魔法だ。魔力が姫の体を癒している。それを行っているのが自分だとは、俄かに信じられなかったが。
「そんなことが出来たんなら、さっさとしてやりゃあよかったじゃないですか」
「あ、あたしにも、なんでなのか」
姫の手を離してしまい、ランダは慌てて彼女の指に自分の指を絡めて握る。椛はその姿を見て苦笑した。笑われていることに気づいたが、ランダにはどうでもいいことであった。姫が生きている。彼女が死ななくて済むかもしれない。その事実だけで頭の中がいっぱいになっていた。
「落ち着くところに連れてって寝かせてやりましょう。椛ちゃんが運んでやりますから」
「分かった。頼むよ」
「最初から素直になってりゃあよかったんすよ。そいじゃ、背中に乗せてください。おぶりますから。はい、さん、のう、があ」
ランダは椛の背に姫を託して、自分の掌をじっと見つめる。
本人は知らなかったが、ランダはやはり、人間に対して害のある魔術や魔法しか使えない。永遠に戦うことだけを宿命づけられた彼女には、それ以外に何も必要なかったからだ。
しかし、人間の温かな優しい心に触れて良心というものに目覚めた時、ランダは人間を治癒、回復出来る魔術、魔法を使えるようにもなる。
「礼を言うよ。あんたには借りが出来たね。ねえ、よかったら名前を聞かせておくれよ」
「由布椛。さっきから聞こうと思ってたんですが、うちのお嬢様を見ませんでしたか?」
その後からしばらくして虹が現れた。椛たちは被害の少ないビルの屋上から、空にかかる橋を見上げていた。
虹の橋、ビフレストを見上げながら、戦乙女は目つきを険しいものに変えた。
この街には今、ラグナロクが起こっている。だが、それは出来損ないだ。歪で、中途半端で、だからこそ腹が立った。
怪我を押して合流したルルの足取りは重く、覚束ない。ヒルデとシルトは彼女に肩を貸して、少しずつ目的地へと向かっていた。彼女らが目指しているのは虹の根元でも、北駒台店でもない。アレスたちに襲撃され、用なしとなった南駒台店である。そこには、店長であり、戦乙女の長でもあった、金屋の遺したアイテムがあるはずだった。
「……ルル、平気?」
ヒルデの問いにルルは遅れて反応する。彼女は弱弱しく首を縦に振った。
三人はソレのいない道を選んでいたが、時には時間を惜しみ、怪物相手に得物を振るった。南駒台店に到着した頃、ルルはついに口も利けなくなった。
南駒台店はアレスたちに襲撃されてから手つかずだ。死体は片づけられたが、他はそのままの状態で残っている。
「私だけで見てきます。あの、ルルを見てやってください」
「ここじゃあ危ないから。三人で行こう」
シルトはヒルデを店の中に入れたくなかったが、彼女は扉を押し開けて先へ進む。フロアの商品棚は薙ぎ倒されたままだ。電気は通っておらず、暗闇が広がっている。血の臭いは未だに濃く漂っていた。
「……デスクにあったと思う。前に見たから」
バックヤードへと繋がる扉を開けると、臭いは一層強くなる。ヒルデは顔をしかめたが、臆せずに進んだ。暗がりの中で金屋のデスクを探す。それはすぐに見つかり、シルトが携帯電話の画面を使ってデスクの周辺を照らした。鍵のついている引き出しがある。ヒルデは力ずくで開けようと試みるが、がちゃがちゃと、やかましい音を立てるだけだった。
「鍵はあのおばさんが持ってたんだろうなあ。どうします? って、あ、あぶな!」
ヒルデは大鎌を構える。横薙ぎにして振るい、刃の切っ先を鍵穴部分にぶつけた。勢いは収まらず、彼女が得物を手元に戻そうとした時、刃には引き出しが刺さっていた。
「……上手くいった」
「えー、マジっすか」
「…………余計なことは言わない」
引き出しを抜き去ると、ヒルデはそれをデスクの上に置いた。中に多くの物は入っていなかったが、お目当てのものは書類の束の下に置かれていた。ヒルデとシルトは顔を見合わせる。管理の甘さを嘆いたが、同時に助かったとも思った。
「よっしゃ、あとは扉さえ見つければ」
シルトが言いかけた時、外から愉しげな笑い声が響いてくる。三人は急いでフロアに出て、割れた窓からこっそりと外の様子を確かめた。
そこには、道化師の格好をした小さな男がいる。彼は鞭のようなものを振り回し、南駒台店の外壁や硝子を叩き続け、子供のような高い声でひたすらに笑っていた。
「うわ、キモ。なんなんすか、あいつ」
ヒルデはじっと男をねめつけた。シルトとルルは知らなかったが、彼女は、彼が誰なのかを知っていたのである。
「邪魔しに来たんだ、あの人」
「ヒルデさん。もしかして、あいつのこと」
「私が全力で押さえるから、二人は扉を作って」
「ぜ、全力って」
大鎌を肩に担ぎ、ヒルデは硝子がなくなった窓から外に躍り出た。道化師は彼女を見遣り、口を三日月のようにして笑む。
「ブリュンヒルト。ブリュンヒルト? ああ、ブリュンヒルトか! そうか!」
「あなたほどの方が、何故、こんな時に」
「ラグナロク。ラグナロクっ、ラグナロク! そうだ! 黄昏るべきなんだ! 誰も彼も!」
「…………邪魔しないで」
ヒルデが横薙ぎに振るった鎌を、道化師は自らの得物で絡め取った。その正体を知った彼女は眉根を寄せる。鞭ではなく、彼の得物は腸であった。
雲の中に入った途端、視界が悪くなった。一はビニール傘で、靄のようなものを掻き分けながら進む。ここにあるのはただの雲ではない。
一は頭に手を遣った。痛むのだ。覚えのある痛みが、彼に魔力の存在を伝えている。風は強く、吐く息は白い。一は、自分がどの程度の高さにいるのかも分からなくなった。虹を踏み外すわけにはいかないが、足元すら良く見えないのである。自分が真っ直ぐ歩いていると信じて、ぶれずに先へ進むしかない。
「は」と、一は呆れた。信じるも信じないも、真っ直ぐもそうでないのも今更である。彼は喉の奥で噛み殺すような笑みを漏らし、前を見つめた。
いつか見た空が広がっていた。雲を抜けたのだと気づき、一は足元を確かめる。虹はもう、どこにもなかった。背筋が凍てつき、落下する恐怖を誤魔化そうとして声を荒らげたくなった。
丸い月が一を見下ろしていた。真下には叢雲があり、その向こうには駒台がある。夜明け前の空の中、彼は周囲を見回した。自分の進んできたであろう道の先に、若い男が立っている。星にも負けぬほどに光り輝く、アーサー・ペンドラゴンの長い髪が揺れていた。
アーサーはただ立っているだけだ。一はそれだけで、英雄だとか、神様だとかを頭の中に思い浮かべる。嗚呼、と、彼は息を漏らした。やはり、アレは人ではない。人であってはならない。
一は気力を振り絞って歩き始める。歩くだけで、自分が大それたことをしているような気分に陥った。神様に逆らうのかと、心が囁いた。
アーサーも彼の存在には気が付いていたらしい。ふと顔を向けて、一を見た。
「怯えなくていい。この辺りは私が固めているから、遠くに行かない限りは落ちることがない」
答えようとして口を開いたが、一は声を出せないでいる。
「見晴らしがいいだろう。ヴィヴィアンの遺してくれた魔力のお陰だ」
親し気な笑みと、穏やかな声だ。
一は、また一歩足を踏み出す。
雲の上。
空の中。
星の下。
自分の立っている場所を肌で感じながら、アイギスを握った手に力を込めた。アーサーに答える義理はないと思ったのだ。
「『円卓の奇士』が十一席、ワタリガラス。いや、一一。ここまで来るとは思っていなかった。誰かが来てくれるとは信じていたんだがね」
一とアーサー。彼我の距離は十数メートルある。一は長い息を吐き出した。
故郷を滅ぼされて、魔女に操られた自分が何者なのか。今は考えられなかった。仇がいる。街を襲い、人を殺したモノがそこにいる。目を瞑れば、いなくなった者たちの姿が浮かんでくる。彼らは何も言わない。何も望まない。
仇を討て!
あいつを殺せ!
否。何も言わない。何も望まない。そう望んでいるのは自分なのだ。
アーサーがふっと微笑んだ。彼の腕に煌々とした光が宿る。現れ出でたのは一振りの剣だ。鞘はない。ただ、アーサーの右手にしっかりと収まっている。
一は駆け出し、次の瞬間、目を見開いて立ち止まった。アーサーは『彼女』の襲来に気が付いていたのだろう。撫でるようにして真上を切り裂いた。
中空に留まっている間、剣の切っ先に靴の裏を当てると、襲撃者は跳ねるようにして飛び退く。
「青髭の玩具か」
「もう違います」
猫のような耳のついたニット帽を目深に被り、丈の合わない赤いダウンジャケットを着た少女がいた。道理を蹂躙し、理不尽を具現化したような存在がアーサーの言葉を否定する。少女の形をした暴君が、王と対峙しようとしている。
体勢を整えた赤い少女が、アーサーをねめつけた。
「おいっ、なんで!」
「一さん」
駆け寄ろうとした一だったが、自分の真上にガーゴイルがいることに気づく。
ガーゴイルは一の傍に降り立ち、首を振った。
「一人じゃ勝てないだろうが」
「一さん。あの方の身体はすでに限界を迎えています」
「だったら尚更だ」
だが、ガーゴイルは一を行かせようとしない。
「最期の、人としての望みだそうです。あの方を人のまま逝かせて欲しいのです」
「……人と、して」
一は、あの少女がアーサーを倒せるかどうかは問題にしていなかった。自分と似たような境遇の彼女がどうなるか、それだけが気になっていた。
少女は思う。
青髭は戦いが起こると言っていた。少女は、彼の言う戦いとは、アレスたちが起こした戦争のことだとばかり思っていたが、そうではなかったのである。彼が危惧していたのは、今だ。北欧の神々ですら成す術を持たなかったラグナロクこそが件の戦いである。青髭がどのようにしてこの戦いを生き抜くつもりだったのか、もう誰にも分からない。
――――でも、あの人も、もしかしたら!
『円卓』の『王』を倒す。彼はソレであり、ソレを従え、人を襲った。人類の敵なのだろう。
ならばと、少女は自身に問いかける。
自分は何者だ。
怪物か。
化け物か。
人間なのか。
自分はどうありたいのか、再度確認する。少女は思った。自分は人間だ。自分は人間でありたい。人間のままで死んでいきたい。
身体はもう限界だった。長くない。今にも倒れてしまうかもしれない。この先、一度でも意識を手放せば、そのまま二度と目覚めなくなるだろう。戦いは怖くない。死も怖くない。
少女は、化け物だと思われたまま死にたくなかった。……ここは空の中だ。誰も見ていない。誰も知らない。人類の敵を倒せたとしても、何も変わらないのかもしれない。それでも体は動くのだ。終わりに向けて。終わりを迎える前に。
跳ねる。
少女の矮躯が中空を飛び回った。
「私と戦ってぇ!」
アーサーの右肩に強かな衝撃が伝わる。彼は魔力を使い、鎧の一部を肩に纏わせて凌いだ。少女は反動を利用して、アーサーから距離を取る。
「やられてください!」
「君はっ」
剣が空を切った。少女はアーサーの懐に潜り込むも手が出せない。彼の、剣を戻す速度が予想以上だったからだ。
少女は後ろに着地し、アーサーは剣の切っ先を地面――――空の中に突き立てる。
「君は、何の為に戦う」
「私は」
ふ、と、少女は薄く微笑んだ。
「世の為、人の為に」
そうか、と、アーサーは頷いた。
「私も、そうだ」
少女は再び前に出る。この力を、自分の命を、がらくたにしない為に。