Grip!
駒台デパートの駐車場は手酷く荒らされていた。アスファルトは巨大な何者かによって踏み砕かれたのか、ひび割れて、地面が剥き出しになっている。停まっていた車は横転し、反転し、真っ二つにされているものもあった。周囲のフェンスはひしゃげており、誰かがそこに突き刺さっている。
「出入りが自由になりましたね」
そう言って帽子の位置を直したのはナコトである。彼女とアイネが、目的地へ最初に到着した。
アイネは長い息を吐き出して、デパートだった建物を見上げる。正式名称は定かではない。ただ、この街の住人の殆どは駒台デパートと呼んでいた。十三階層、地下と屋上があり、駒台でも屈指の高さを誇っている。否、誇っていた。今は見る影もない。外壁はぼろぼろに砕けて、剥がれて、建物の半分以上が骨組みだけになっている。地盤が傾いてしまったのだろう、各フロアの商品も外に流れ出て、胃の内容物をぶちまけたような有様だった。
蠢く影が二人の視界に映り込む。建物の中には小さなソレが入り込んでいた。生きた獲物を探しているのかもしれない。異形の怪物どもは奇怪な鳴き声を上げ、我が物のようにデパート内を闊歩していた。
だが、そんなことはどうでもよかった。二人の目を惹きつけているのは七色の橋だ。虹の根元が、駐車場のど真ん中に生えている。……本来、虹に明確な根本というのは存在しない。この虹は多様な現象を無視している。橋として機能しており、ただ、空に向かって伸びているだけだ。
「虹の根元を掘ると宝物が出てくるって、聞いたことがありますね」
「余計なものが出てきそうですから、お止めになった方がよろしいかと」
「分かってますよ。……あ、メイドだ」
二人に遅れて、ナナも駐車場に辿り着いた。彼女は既に返り血で塗れている。
「マスターは? ナナのマスターはまだ到着していないのですか?」
ナコトは鼻で笑い、わざとらしい所作で肩を竦めた。
「やれやれ。これだから勤務外は愚鈍なんですよ」
「私を馬鹿にするのは構わないのですが、マスターを馬鹿にしていると判断した場合、貴女の頭蓋を粉砕しますよ。それよりも、先の火炎を放射するソレはどうなりましたか」
ナコトはアイネを見た。アイネはナコトを見た。一目散に逃げ出した彼女らには、誰がどうなったかも分からないのである。
影が揺らめく度、地面が振動した。
小さな雑居ビルを薙ぎ倒して進むその影の主は、巨大な蜥蜴であった。外皮は鋼のように固い赤銅色の鱗で覆われている。四脚には鋭い爪牙。背からは蝙蝠のような翼が生えており、鼻腔や口の隙間から、ちろちろとした炎が漏れ出ていた。
「アアアァァッ、もう、チクショウ! どうしてアタシを追ってくるの!?」
ヴィーヴル。ガルグイユ。ドレイク。リントヴルム。ワーム。ワイバーン。呼び名は多様だが、ソレらは一つに括られる。
ドラゴンだ。
その名は諸説あるが、古代ギリシャ語のドラコーン、はっきりと視るという意である(あるいはギリシャ・ローマ時代のドラコ。蛇を意味する言葉が元になっているとも)。古今東西、世界に数多の怪物はあれど、ドラゴンほど名を知られているものは他にないだろう。……ドラゴンは蛇が由来と言われていたように、蛇の怪物として認識されていた。それが巨大になり、足や翼が生え、火炎を吐き出すように強化されていったのである。姿も、由来も、千差万別だ。ドラゴンとは簡単に語れない幻獣である。ヤマタノオロチと同じく、今日のドラゴンも元を辿れば蛇神であり、水神とも言えるだろう。
ドラゴンも最初は人々に信仰され、大自然の脅威が具現化したものと認識されていた。事実、東洋のドラゴンである龍は絶大な霊力を持ち、神として、あるいは神に近しい存在とされている。一方、西洋のドラゴンは凶暴であり、強欲であり、獰猛だ。ドラゴンの登場する話は多いが、殆どが人類の敵として描かれている。異教を許さないキリスト教が、神として崇められていたドラゴンに悪の側面を与えたのだ。
それでも、ドラゴンとは絶対的なものである。知名度、風格、何よりもその力はトップクラスのものであろう。
ジェーン=ゴーウェストは、ドラゴンに追われていた。
ナコトが一番最初に遭遇したソレは、彼女らに向けて炎の息を放った。その後、七人はばらばらになって逃げたのだが、ジェーンが標的として見定められたのである。人狼の彼女は身体能力に優れているが、種族しての差は如何ともし難かった。何せ、ジェーンが必死になって離した距離を、ドラゴンは数歩、数秒で容易く詰めてしまう。狭い路地裏を使って逃げても、ソレは強靭な肉体に物を言わせて、建物を破壊しながらまっすぐに突き進んでくるのだ。
ドラゴンには飛行出来るものと、そうでないものがいる。ジェーンを追っているソレには翼があるが、高空を飛べない種であるらしい。また、神話や伝承には山よりも大きな竜も出てくる。彼女を追っているのは比較的、小さなドラゴンだろう。それでも、このドラゴンとてある程度の障害物なら簡単に越えられる。二階建ての民家なら、紙を破るように易々と壊してしまう。他のドラゴンより幾分かは劣るかもしれないが、人間から見れば充分に脅威的な存在だろう。
ぎょろりとした、感情の宿らない目がジェーンを見据えた。
ジェーンは弾丸をぶち込むことを諦めていた。何度かドラゴンの身体には当てたのだが、全く通用しないのである。鱗は鉛の塊を通さず、弾き返す。柔らかな部位を狙おうにも、ソレにも知能が備わっていた。前脚を盾にしてリボルバーの弾を防ぎ、時には炎の息で飛来する弾を燃やして溶かすのだ。懐に潜り込み、眼球を抉り出すなり、鱗のない場所を探して仕掛けるなりやり方はあるのだろうが、彼女は近距離での戦闘は避けたいと思っている。
「――――――――ッッ」
竜が声を荒らげた。ジェーンの身体は独りでに竦む。彼女は頭の中であれこれと考えた。このまま駒台デパートを、虹を目指すべきかどうかを。自分一人だけでは難しいだろうが、七人全員でかかればドラゴンの打倒も不可能ではない、かもしれない。だが、強大な怪物も、この街の中では有象無象に蠢くソレの一匹である。かかずらっている場合ではなかった。
「決めた!」
ジェーンは振り向き、銃口をドラゴンの額に向ける。巨大な影が彼女の姿を覆い尽くした。
ジェーンがドラゴンに追われている最中、他のメンバーとはぐれた糸原四乃もまた、別のものに追われていた。
糸原はドラゴンから逃げ出した後、ビルの屋内に逃げ込んでいた。建設途中で放り出されたビルが連なる廃墟じみた通りであり、彼女にとっては一の部屋の次に馴染みのある場所であった。
朽ちかけた建造物は、今も大して変わりがない。糸原は窓――――硝子も何も嵌っていないが――――外から見える位置に立つことはせず、屋内の隅の壁に背を預け、長い息を吐き出していく。打ちっぱなしのそれは酷く侘しく、冷たかった。冬の夜風を直に受ける造りは、彼女の身体から、少しずつ体温を奪っていく。
糸原が俯きかけた。その瞬間、彼女の前髪を何かが掠めていった。解れ、千切れた毛が目の前を舞う。糸原は身を低くし、室内から出て階段へと向かった。その際、壁につけられた弾痕を認める。
「……しつこいやつ」
嘆息し、糸原は目を瞑る。彼女を狙っているのは『天気屋』の長雨だ。元相棒であり、育ての親でもあった男である。まだ自分のことを諦めていないらしいと、糸原は苦笑した。ヤマタノオロチが現れ、消えた夜。糸原は一枚のコインに己を託し、自らの生きる道を勝ち取った。彼女はフリーランスを辞め、長雨とは一生会わないと決めていたのだが、彼はそのつもりではないらしい。
ケリをつけてやる。糸原はそう決心する。一たちと合流する前に、この街が消えてなくなってしまう前に、自分が死ぬ前に、何もかもを終わらせてやろうと決めたのだ。
「さっきのやつ、何だったんだろ……」
「竜ってやつじゃないのかな。あのでっかい、馬鹿みたいなとかげ」
一と立花は二人で逃げていた。二人はドラゴンと遭遇した時、炎の中を突っ切るような形で走ったのである。彼のコートや彼女のセーラー服は所々が焼け焦げていた。
二人はドラゴンの影、足音から遠ざかるように道を選び、デパートの駐車場へと辿り着く。最初に見えたのは、やたらに砕かれ、外壁がぼろぼろになった建造物ではない。叢雲をぶち抜くビフレストだ。
一たちは視線を少しずつ下げていく。虹は、駐車場のど真ん中から生えて、天へ向かって伸びていた。根本の近くには、ナナ、ナコト、アイネの三人がいる。
「しのちゃんとジェーンちゃんが」
「まだ、来てない……」
足元が揺れた。同時、吼え声が轟いてくる。
「……どっちか、もしかしたら二人ともが捕まったのかもしんない」
「待つの?」
立花の瞳が揺れていた。一は口を開きかけて、唾を飲み込む。彼は答えを出すことは後回しにして、ナナたちの傍へと、のろのろとした調子で歩き始めた。
「ウーノ。どうぞ、先へお進みくださいな」
「しようがありませんね、本当。あなたはどう足掻いたってヘタレで、意気地がないんです。あの二人のことが気になっているんでしょうが。腹が立ち過ぎて、もうどうでもいいですから、ほら、さっさと行ってくださいよ」
虹を指で示すと、ナコトは口元を歪める。
「あたしたちがここで留守番してあげるって言ってるんです。二人が来たら、すぐに追いつきますから」
「いいのかよ。ここにだってソレが来るぞ」
「今は我々がお二人の背中を守ります。どうか、お気になさらず」
ナナが深く頭を下げると、立花は縋るように彼女の顔を見つめた。
「お二人って。ナナ、お前も残るのか?」
「『図書館』と『貴族主義』だけでの防衛は困難です。それに、マスターを守るのは私の役目ですから」
迷ったが、時間はない。ここに来る前から覚悟は決めていたはずなのだ。自分も、友人も、仲間も、誰が生き残られるか分からない。そのことを理解したうえでここにいる。一は頷き、手で虹に触れた。不思議な感覚だった。冷たくも、温かくもない。固いとも、柔らかいとも違う。ただ、そこにあるだけだ。
一は意を決して、虹に足をかける。最初に右足、次に左足。両足で体重をかけてもぐらつきはしなかった。しっかりとした床に立っているような感覚である。だが、七色の光が彼の目を誤魔化していた。正確な幅が分からないのである。虹の外側は薄ぼんやりとしていて、空と一体化していた。意識して真ん中を歩かねば、足を踏み外してしまいそうである。
「に、一さん。どうですか? 歩けるんですか?」
ナコトの言葉を受け、一は虹の先を見遣った。斜度はなだらかである。高度が上がるにつれ、傾斜がきつくなるわけでもなさそうであった。
「……こいつが急に消えたりしない限りはいけそうだ」
「うん。それじゃあはじめ君、行こう」
立花が跳び、一の真後ろに着地する。彼女は竹刀袋から雷切を抜き、紐を使って、鞘を腰に結わえつけた。
「それじゃあ、先に行ってる。皆、気ぃつけて」
「いってらっしゃいませ、私のご主人様」
一と立花は頷き合い、虹の感触を確かめながら歩き出す。やがて、少しずつ歩幅を広げ、遂には駆け出した。
北駒台店での戦闘は拮抗状態に陥っていた。オンリーワン側は、店内にいた春風たちが参戦し、手薄な箇所に入って押し返している。何よりもエレンの存在が大きかった。
ハーピーたちは彼女のクル・ヌ・ギアを警戒している。全員で突っ込めば人間たちを一息の内に打破出来るかもしれない。だが、再び砂の世界に連れて行かれれば全滅は避けられないだろう。
ソレの攻撃は散発的だ。二ノ美屋たちはそれを凌ぐも攻勢には転じられない。突出した者が、空中から集中して狙われるからだ。
「二ノ美屋店長。エレシュキガルは先のアレを、もう使えないぞ」
「……だろうなあ」
春風の報告を受け、二ノ美屋は屋根を見上げる。腕を組んで立っているエレンは泣き言を言わなかったらしいが、情報部には見抜かれていた。
発砲音に紛れて男の悲鳴が響く。春風らがそちらに目を向けると、情報部の男がハーピーたちに囲まれて、肩や腕を引っ張られているのが見えた。彼は抵抗し、タラリアを使って蹴りを放つも、ソレは次から次へと襲い掛かってくる。
二ノ美屋は男を救出すべく、拳銃のトリッガーを三回引いた。飛び出した弾丸は、彼の周囲にいたソレの腹に風穴を開ける。彼女は半ば諦めつつも、周囲を見回した。手の空いている者は殆どいない。堀を向かわせてやってもいいが、彼が抜ければ医療部の乗った車を守るのが難しくなる。別の情報部を遣れば二次的な被害が出るだろう。
「一人で出るなと言ったのに。ああ、もう。お前らを使うのはこれだから嫌なんだ」
「私と……木麻! 木麻凛がいる。二人で向かおう」
呼びつけられた木麻は不機嫌そうだったが、同僚を助けることに異議を唱えなかった。
「くっ、来るな! ごっ……!? お、オォ」
ハーピーに囲まれている情報部の男は必死の形相で声を荒らげる。彼の身体は既に中空にあった。
「立花に、立花真に伝えてくれ!」
「助けるって言ってんじゃない! 自分の口で伝えなさい!」
木麻は拳銃を両手に構えて跳び上がろうとしたが、二ノ美屋が彼女を止める。木麻もまた、槌屋との戦闘で負った傷が癒えていない。彼女は苦し紛れに発砲した。音が鳴る度、ソレが墜落する。
「立花真にっ、死体は、なかったとォ!」
男が叫んだ。彼の姿がハーピーたちによって隠される。
「ああ、分かった! 必ず伝える!」
二ノ美屋が答えた。男を捕えていたハーピーたちが喚き出す。彼女は歯軋りして、ソレをねめつけた。男の姿はもう見えなかった。ハーピーは八つ裂きにした彼の腕や足を咥えて、喰らって、狂ったような声を上げた。
古代北欧には、死者の爪を切るという習慣があった。死人は、死んだ時の、そのままの姿で冥界に旅立つからだ。……だが、実際はそうではない。彼らは知っていたのだ。世界が終わる時がいつなのかを知っていた。
――――ナグルファル。
ラグナロクにおいて、アース神族の王国へと攻め込んだ、巨人族と死者の軍勢を乗せた船である。ナグルファルは、ヘルが死者の爪で造るとされた。絶望を乗せたこの船の完成こそ、ラグナロクの始まりでもある。だからこそ、ゲルマン人は死者の爪を切ったのだ。ヘルに奪われない為に、彼女にナグルファルを造らせない為に。何よりも、神々の黄昏を起こさせない為に。
虹の上は揺れることがなかった。揺れているのは、自分たち以外の何もかもだ。一と立花は、景色が僅かに歪んでいることに気づき、立ち止まる。背後からは地鳴りが聞こえていた。ドラゴンの吼え声かとも思ったが、そうではない。
振り返って後ろを仰ぎ見ると、駒台デパートがその姿を変えていた。壊れかけて、崩れかけていた建物が、地響きと共に終わりを迎えていく。崩壊し、崩落し始めたデパートの真下から、黒い霧が噴き出していた。
「……あれって」
噴き上がる霧だが、一には見覚えがある。火災ではない。アレは魔力だ。ヴィヴィアンらと戦った寄橋で、彼女の呼び出した騎士から発せられていたのと同様の霧である。
「はじめ君。何か、出てくる」
空気が淀み、凝り固まっていくのが分かった。方々に散っていた黒い霧が一か所に集まっている。どす黒い色の中から、巨大な嘴が姿を覗かせた。咢を開けば、一口で家屋すら収めてしまいそうな大きさである。
嘴の正体は、舳先であった。岩礁に乗り上げるかのように、斜めになって浮かび上がってくる。木でも、鉄でもない材質で造られたであろう船首が現れたのだ。次いで、船体部分が霧と共に現れ出る。船体の中程がゆっくりと進み、デパートの瓦礫を薙ぎ倒しながら駐車場内へと侵攻し始めた。中央部に聳え立つ一本の帆柱には、横帆として擦り切れた黒い布が張られている。風を受けて靡くそれの下には、幾つもの巨大な影があった。
「船、なのか……?」
ビフレストからそれを見下ろしていた一は息を呑む。帆船にソレが乗っていたのだ。巨人や、小さな獣までいる。その数は百を超え、千にも上ろうとしている。立花は目を見開いた。以前に倒したことのある、アンズーという鳥の怪物がその船に乗っていたのだ。あそこには死者も乗っているのだと彼女は気づく。
地の底から出現した帆船の殆どが地上に顕れた。船首が勢いよく地面を叩き、船が全貌を露わにする。横幅は大きく、数多の異形を乗せてもまだ余裕があった。帆柱はデパートの七階部分にまで届いており、地上から見上げるには――――。
「はじめ君、戻ろう。皆が危ない」
虹の根元をナナたち三人で支え、守り切るのは難しいだろう。一は判断に迫られた。ここまで無傷に近い状態で来られたのだ。あの三人の戦闘能力は高いだろう。それでも、数が違い過ぎる。まともな状態でぶつかる訳ではない。目立った怪我はなくとも、確実に皆が疲弊しているのだ。
「俺は行くよ。先に進む」
「でもっ、アレを見てよ!」
「分かってる。けど、俺が戻ったって大した力にはなれない。だったらさ、事の元凶を潰す方が早いんじゃないかな。それに、俺はあいつらのことも信じてる。前にも言ったかもしんないけど、皆、俺より強いんだ。やってくれる」
一は、自分だけでも虹の先へ行こうと決めた。未だ、この先に何があり、誰がいるのかは分かっていない。ただ、望みを託したのだ。
「はじめ君!」
立花は一の背中を見つめていたが、諦めて、現れた帆船を見下ろす。巨大なそれは動きを止めていた。
行くか、戻るか。立花は振り切るようにして目を瞑り、駐車場から背を向けた。彼女もまた、ナナたちを信じている。今は信じるしかなかったのだ。
貧乏くじを引かされた。アイネはそう思った。虹の根元を背にした彼女らの眼前には、巨大な帆船が聳えている。乗船しているのは巨人や、怪物どもだ。その中には、かつてアイネが自らの手で殺したソレの姿もある。
「非常識な事態だと認識します。これは、フライング・ダッチマン号でしょうか」
ナナが、どこかとぼけた風に言った。
「いえ、この状況を思い出してください。ラグナロクのようなモノが起こりかけているんですよ。アレはヘルヘイムの支配者が造ったナグルファルという船に間違いありません。黄昏時、あの船はアースガルズに攻め込むとされています」
「場所が違うと、教えて差し上げた方がよろしいのでは?」
「ではそうしましょうか。いあいあっ」
ナコトの持つ魔導書、『黄衣の王』から淡い光が漏れ出した。彼女が呪文を唱えると、平べったい影が足元からぬるりと現れる。有翼の魔物、バイアクヘーを呼び出したのだ。
「教えてあげましょう。いったい、やつらは誰を前にして、相手にするのかを」
呪文が紡がれる。ハスターを称える文言がナコトの口から流れ出す。彼女は早口で呪文を唱えながら、バイアクヘーの背を蹴りつけた。有翼のソレは高度を上げ、ナグルファルの帆柱よりも高い位置で停止する。
「ぶる ぐとむ あいっ あいっ はすたあ!」
ナコトの周囲に旧支配者、グレート・オールド・ワンの力の一部が解放された。可視化されるまでに強大な風の力は固まり、丸まり、三つの球体に姿を変える。彼女は、眼下に蠢くソレの群れを見た。心の中で行けと命じると、風の塊は全く同一のタイミングで奔り出す。ナグルファルの甲板にいた怪物が風に薙ぎ払われ、打ち倒された。巨人の頭部が中空を舞い、落下して、下にいたソレを押し潰す。死者の爪で造られた船が、鮮血によって穢されていく。
風が奔るのとほぼ同時に、ナナは袖口からガトリングガンを出して、掃射した。ナグルファルからソレが降り始めている。怪物どもの狙いは虹だ。虹の近くにいるナナたちだ。
弾丸の雨を受けたソレは、身体中に穴を穿たれ、血を撒き散らしながら死んでいく。その雨を掻い潜ったモノも、ナコトの魔術によって横合いから叩きつけられた。
「……あら、貧乏くじを引いたのはあの船の方々なのでしょうか」
風と鉄雨を抜けた、四足の小さな獣がナナに向かって飛び掛かる。アイネは組み立て式のレイピアで、ソレの喉を貫いた。彼女はすぐさま得物を抜き去り、中空に留まるけだものを蹴り飛ばす。
彼女たちは知らなかった。
ナグルファルという船は、タルタロスで死んだヘルの呼び出したものなのだ。彼女は糸原に止めを刺された時、地上を呪ったのである。地上を、世界を、自分以外の全てを呪い、恨んだ。タルタロスを構成していたヘルの世界の魔力が放たれ、ナグルファルを生み出したのである。
彼女たちはまだ知らない。召喚された絶望の船には、まだ乗り込んだモノがいる。ヘルの呪いはこれで終わった訳ではない。そのことを示すかのように、ナグルファルのどこかから汽笛が鳴った。
一の後ろには立花がいた。彼女は、彼よりも遅れているようだが、虹の根元に戻ることを選ばなかった。
一は少しだけ安心して前を向く。七色に彩られ、淡く光る橋の向こうに、人影が見えた。……否、先ほどから見えていた。彼は立ち止まり、風の勢いが強くなってきたことに気づく。下を見ると、身体が震えた。下層雲も近づいてきた高度である。落ちたらまず助からない。
虹の斜度はまだ緩やかだ。そして、虹の先は雲の中にある。手前には門番らしき男がいた。なんて分かりやすいのだと、一は心中で喝采する。
「はじめ君」
「うん」
追いついた立花も、その人影を認めた。彼女は鞘に手を遣り、腰のものを抜き取る。夜風と虹の光を受け、伝家の宝刀が煌めいた。
「ボクがやる」
「分かった」
そう答えるしかない。一は歯噛みする。彼も門番の正体は知っていた。ブロンドの髪を結った髷と赤い着流し。構えた長剣からも、男からも、只ならぬ気配が漂っている。サンダーバードが空を飛び、『騎士団』が剣を振るった時に、立花と戦っていた男だ。彼の名はテュール。『円卓』の第七席に座るモノである。
この狭い幅ではまともに戦えない。二対一だが数の利など生まれない。むしろ、足を引っ張り合うだけだろう。
一と立花はゆっくりとした歩調で進む。対峙するテュールは、二人の到着を待ちわびていたようだった。
「……サトウ殿。二度も出会うとは思いもしなかった、で、ござる。して、こうして相見えたのも何かの縁。一つ、本当の名を教えて欲しい」
「一一。あんたも『円卓』なら、俺の名前を知ってるんじゃないのか」
「知ってはいたが、本当の言葉というものを貴殿の口から聞きたかった。何せ、三度目はないのでござろうからなあ」
ふざけた喋り方だが、立ち振る舞いは本物である。侍気取りの西洋人を前にして、一の喉は渇きを訴えていた。
「俺とやんのか?」
「貴殿と? むう、それもまた魅力的な誘いだが……生憎、拙者が死合いたいのは、其処のイヌでござる」
つ、と、顎をしゃくられ、立花は目を細める。
「ボクのことをまだイヌって言うのか」
「それを確かめたいのでござる。もう、この街には誰もいない。皆、いなくなったでござる。今宵、拙者のもとに辿り着いたのはお主で最後なのだろうよ。死に花、どちらかが咲かせるまでは終わらぬ」
「どっちにしろ、ボクたち二人ともを通してくれないんだね」
然り。テュールは頷き、すす、と、道を開けた。
「一殿、通られよ。この先に『王』がおられる。好きに決着をつけるでござる」
「俺はいいのかよ。足止めとかしなくていいのか」
「拙者には『円卓』の行方など、興味がない故。ただ、強者を求めて行きついただけのことでござる。また、止められるものなら止めて欲しいという気持ちもござる」
「後ろからバッサリ斬るのはナシだぜ」
テュールは答えず、鼻を鳴らす。一は立花を見遣った。彼女もまた無言で頷き、先へ行くことを促した。
「立花さん。また後で。君が来なかったら、俺が迎えに行くよ」
「うん。必ず。絶対、また会おうね」
一が歩を進める。テュールに近づくにつれ、身体が強張った。彼の横を通り過ぎる時、妙な感覚が頭を過ぎる。そのことに気づいたのか、テュールは口を開いた。
「もし。一殿、この街には今、狼がいるのではござらんか」
「……ああ、何匹かはいるぜ」
「ふ。そうか。そうでござったか。あいや、邪魔をして済まなかったでござる。武運の長久を祈り合うような仲ではないが、お達者で」
「ありがとう、侍。出来るんなら、ちゃんと立花さんにやられてくれよな」
呵々と笑い、テュールは立花に向き直った。彼はやはり、居合を使うらしい。鍔に指を当て、抜く機会を窺い始める。
「なんだ」
立花は雷切を大上段に構えて応えた。彼女はテュールと、空と、虹を見る。随分と整えられて、出来上がった舞台だと思えた。
「映画だね。まるで」
「いざ、勝負」
テュールがすり足で距離を詰め、鯉口を切った。
気づけば一人だ。息が苦しくなる。
いつも一人だ。いつだって一人だ。足が重い。身体が鈍い。
虹の橋を一人で渡る。目の前には分厚い雲が広がっていた。駒台の空を埋め尽くし、光を覆い隠した叢雲だ。
静かだった。自分が呼吸をする以外の音はない。ただ、頭の中だけが酷く騒がしい。途切れ途切れの雑念が行為の邪魔をする。脳味噌は勝手に働いて、余計なことばかり考えようとしている。一は思考を断ち切る為に叫んだ。彼の声は空の中に吸い込まれていく。
物思いに囚われたのか、一の足が大きく右方に逸れて虹を踏み外す。ぐらりと、彼の身体が宙に踊った。浮遊感が身を苛むより早く、一は右腕を伸ばして虹を掴む。自分の体重が腕一本に圧し掛かる。歯を食い縛り、か細い息を吐くだけで、しばらくの間は動けなかったが、彼は左腕を少しずつ持ち上げて、持っていたビニール傘を橋の上に置いた。ぐ、と、力を込める。両腕で体重を支えながら、自身を持ち上げていく。
虹の先は未だ見えない。雲の中に入るのか。それとも捕らわれることになるのか分からないのだ。終着点などどこにもなくて、虹は途中で途切れているのかもしれない。
しかし諦めることはない。
『好きに決着を――――』
迷いを打ち消す。惑いを掻き消す。この先には必ず『王』がいる。自分たちをめちゃくちゃにしたアーサー・ペンドラゴンがいる。そのことを思えば、諦める必要など、どこにもないのだ。
おお、と、気を吐き、一は上半身を虹に乗せる。腰から下を一気に引き上げて、その場に座り込む。胸の裡にビニール傘をかき抱いて、何度も呼吸した。今の彼にはこれしかない。……糸原とジェーンを信じている。虹の根元にいるナナたちを信じている。テュールと対峙する立花を信じている。それでも、頼れるのは自分だけなのだとも分かっている。女神から賜ったアイギスとメドゥーサは、今日の内にも消えてなくなるだろう。その時、一一という勤務外も消えてなくなるのだ。ソレと戦う為に受けた力は、いつの間にか、一にとっての存在理由にもすり替わっていた。
何もかもに決着をつける。その果てに自分がどうなろうと構わないと決めたのだ。
元南駒台店勤務外店員である、戦乙女のヒルデ、シルトの両名はとうに気が付いていた。今宵、この街に、黄昏時が迫っていることを。
人々のモラルが消えてなくなり、命と肉のあるものは平等に地に還る。
太陽と月は雲に隠れて見えなくなった。
空には虹の橋がかかり、神喰いの大狼が姿を見せる。
地の底からは絶望の船が出現し、あらゆる命を食い尽くすだろう。
だが、それだけではない。
戦乙女は知っている。新たな力の登場を。逆様に廻る因果の理を。
「……ルル」
「あんた、平気なの?」
医療部の目を盗み、ハーピーの襲来よりも前に抜け出したワルキューレがいる。彼女の名はゲイレルル。
「ねえ、この街が、好き?」
ルルはヒルデらに合流して、儚げな笑みを浮かべた。