グッナイ
『犬小屋?』
それが一の部屋に足を踏み入れた、ジェーンの第一声だった。一つ物を見つけては怒鳴り、見つけては喚き、見つけては呆然としていた。
「……もう良いか?」
「ウン」
今ジェーンは、こたつに入って、お茶を大人しく啜っている。
それじゃ、と一もジェーンの向かいに座って、こたつに入った。一が足をこたつの中で無造作に伸ばすと、人間の脚らしきものを蹴飛ばしてしまった。が、気にせず、みかんに手を伸ばす。
ジェーンが何か言いたそうな顔をしていたが、一は気にしない。
「色々聞きたいことはあるんだけどさ」
みかんの皮を剥きながら、一が言う。
「……元気だったか?」
「エ?」
「いや、唐突だとは思うけどさ。他に聞くべき事がある気もしないでもないんだけどさ。まずは、こう、なんつーの? やっぱ元気だったかなー、とか、そういう事が気になったんだよ。腐っても、俺はお前の兄ちゃんだからさ」
皮むきに没頭しながら、視線は合わさないまま、ジェーンを見ないようにして、一が少しの照れを混ぜて呟いた。
「フフ。ありがと」
「笑うか、礼を言うか、どっちか一つにしろ」
「そうよネ、やっぱり2年会わなくても、手紙もtellもくれなくても、お兄ちゃんは腐ってもアタシのお兄ちゃんだヨ」
そうかよ、と、みかんを咀嚼しながら、一がぶっきら棒に言い放つ。
「お兄ちゃんこそ、元気にしてた? こんなコエダメにいてたらウイルスに侵されちゃうワ。ニッポンは家が狭いし、人がswarmしてるから、すぐに病気が感染しちゃうヨ。こんなコエダメにいてたらダメダヨ!」
「掃き溜め、な。肥溜めって二回も言っちゃ駄目だ。二度と使っちゃ駄目だ。それとお前、英語忘れてんじゃないか?」
「それはある鴨しれないわネ。イングリッシュよりジャパニーズを優先して使っているシ」
一は「かも」のアクセントが気になったが、一々訂正していては身が持たないな、と思い、突っ込みは口にせず、みかんを黙々と口に運ぶ。
「そういや、おじさんたちは元気か?」
「Yes、アイカワラズcoolヨ。オンリーワンに行くって言った時は二人にどつかれたワ」
「……ふーん」
どつく、って誰がジェーンに教えたんだろう、と。一は考えた。
一はじっと、ジェーンを観察する。安っぽい蛍光灯に照らされ、きらきら光る金色の髪。
一が最後に見た姿。二年前のジェーン・ゴーウェストと、何一つ変わらない容姿。一の記憶と完全に一致する、白い肌、蒼い瞳、赤いリボン。
「お兄ちゃん? どしたの、アタシに見惚れたの? ユーラブアイ?」
「Oh……」
変わったと言えば、目、ぐらい、かな。と一はふと思う。ジェーンの眼。目。目つき。視線。眼球。真っ直ぐに、相手の目を見て話すジェーン。まっすぐに。純真で無垢で、一のことを信頼しきっている目。
――苦手だ。
「?」
ジェーンが一を見つめる。一の心を、一の感情を、一の向こう側まで透き通すように見つめる。それは、もはや見え過ぎて盲目的とも言えた。
「……あ。いや、別に。来る前に連絡くれたら、俺も色々準備出来たのになあ」
「お兄ちゃんを驚かせようと思って。サプライズ?」
「ああ、ホントに驚いたよ」
一は思い出す。
アメリカへ行ったときの事を。ジェーンのこと、ジェーンの家族のこと。アメリカでの生活、二年間の思い出。
二度と会えない、会わないと思っていたのに。
「オンリーワンの社員ってことはさ、お前ソレと戦ってたりしてたの?」
一の質問で、ジェーンの表情に少し影が差した。
しまったか、と一は思い、「言いたくなかったら別に良いよ」と慌てて付け足す。
が、
「イエース。ザッツライ、ハードな生活だった、かな。ニホン語覚えて、ソレとの戦い方も覚えて、忙しかったワ」
笑顔でジェーンは答えた。
「そっか」
少々、作り物めいたそれではあったが。
「But、辛くはなかったよ。お兄ちゃんと会えるから、ガンバレば、きっとまた会える。そう思って、アタシはお兄ちゃんがいなくなった2年をガンバッタの」
何で、そこまで? 一は尋ねようとした。
けど止めた。
「……ウチのSVになるのは良いんだけどさ、お前日本にいつまでいるつもりなの? ずっとこっちで暮らすつもりなのか? 見たところ、荷物も何も持ってないけどさお前」
「ニホンに、いつまで?」
「そうだよ」と、一が頷く。
ふっ、とジェーンが笑った。一を馬鹿にするように、薄く笑う。
「アタシのせりふだよ、お兄ちゃん? お兄ちゃんこそ、いつまでここにいるつもりなの?」
「……何言ってんだお前?」
「お兄ちゃんこそ何を言ってるの? 約束を忘れたくせに」
一が言葉に詰まった。
確かに、一はジェーンとの約束を忘れていた。
守らずに、破らずに、ただ忘れた。
「だからアタシが来たのヨ。迎えに。お兄ちゃんが来てくれないから、アタシが迎えに来たの。ネ、アメリカに、アタシの家に、お兄ちゃんの家に帰ろ?」
一は、呆然と、楽しげに話す目の前の女を見る。
「……おいおい、冗談きついぞ」
「冗談? それこそ冗談じゃないワ、お兄ちゃん」
精一杯の一の虚勢を、ジェーンが軽く一蹴した。
ジェーンの一を見つめる視線、瞳に変わりはないが、鋭さが増している、気がする。
「アタシがどれくらい待ったと、耐えたと思うの?」
「それは……」
「ソレと戦って、戦ったワ、疲れて、疲れた。お兄ちゃんと会いたいから、暮らしたいから、約束を守って欲しかったから」
「約束、ってそんな、お前が小さいときの話じゃないか……」
「関係ナイ!!」
バン、とひっくり返るかと思うぐらい、こたつの卓に拳を勢い良く叩きつけ、ジェーンが怒鳴りつける。実際、こたつからみかんはひっくり返って落ちたし、一も心臓がひっくり返ったんじゃないかと思ったくらいびっくりしていた。
「え、あ、ああ、そうだ、な。ごめん」
「謝ったネ? じゃあ帰ろ、お兄ちゃん」
「……あー。そうだよな。けどな、いきなりは無理だ。俺にも準備とか、後悔とか、やり残してることとか、置いていけない、置いちゃいけないことがあるんだよ」
「じゃあいつ帰れるの? 明日? あさって? それとも1週間、1ヶ月、1年? アタシ待つよ。お兄ちゃんがやり残したことも終わらせるの手伝うヨ。だって、アタシは」
もう何年もずっと待ってるんだから。と、ジェーンは唄った。うたうようにいった。
「言い方が悪かった。ハッキリ言うぞ。俺はアメリカには戻らない、ここで、日本で暮らす。多分、駒台で俺は死ぬよ。ここで大学を卒業して、このへんで就職して、彼女も見つけて、結婚して家庭を持って、そんで死ぬよ。ここが俺の最後の場所だから。もう最後にする場所だから」
「……じゃあ、アタシもここに残る。死ぬまで、お兄ちゃんのそばでずっと一緒に暮らすワ」
「ジェーン。俺とお前が一緒にいたのは、たったの二年だぞ? 確かに俺も、その、楽しかったのは楽しかったよ、あの家は。でもさ、たった二年で、たった二年俺といたせいで、お前はソレなんかと戦ったり、死ぬ思いしたり、しんどかったり、俺のせいで人生を棒に振ってんじゃないのか? もっと、お前は優しくて、素直で、良い子だったろ」
落とされたみかんを拾い集めながら、一が言う。
「たった? たった2年? 今そう言ったよ、お兄ちゃん。ダメ、ダメ。ダメだヨお兄ちゃん。アタシに言っちゃダメなのに」
二年。
一年が二回。
十二ヶ月が二回。
二十四ヶ月。
三百六十五日が二回。
七百三十日。
一時間が……。
「時間は関係ナイ。アタシには、2年でも長すぎたヨ。1年でも、ううん。お兄ちゃんと会って、好きになって、一緒にいたいって思うには1秒あれば、あれば」
ジェーンにとって、二年は、時間は関係なかった。例えば、生まれたときから一緒にいたとしても、街中ですれ違う瞬間だとしても。一を一目見たときから。
「錯覚だ。錯覚だよ。俺みたいな奴を好きになってんじゃねえよ、馬鹿。せっかくお前は、まあ、なんだ。可愛いんだからさ、オンリーワンなんてやばい仕事辞めて、アメリカ戻って、彼氏の一人でも作ってさ、楽しくやれよ。わざわざこんな島まで来て、お前の生き方変えるんじゃねえよ、勿体無い」
「…………」
「…………」
「…………」
「何だよ? 言いたい事があんなら言えよ」
二つ目のみかんを剥きながら、一が吐き捨てるように言った。
「分かってくれないノ?」
「うん」
「何度言っても?」
「ああ」
「……OK。アタシもすぐにかたがつくとは思ってなかったよ。今日は、もうこの話は終わり。ゴメンね、お兄ちゃん。せっかく、せっかく会えたのに……」
一変して、ジェーンが落ち着きを取り戻し、悲しげに俯く。
今にも泣き出しそうな雰囲気。壊れそうな儚い空気が狭い部屋に立ち込めた。
一も頭に血が上っていたのかもしれない。
突然の、二年ぶりの来訪者。整理が、脳の回転速度が思考速度が速さが、事態に追いつかなかった感はある。
ふう、と一息つき、一は冷静を装った。
「俺も大人げなかったよ。ごめんな、とりあえず布団敷くから今日は寝ろ。な?」
「ウン……」
一がこたつから出て、押入れから布団を引っ張り出す。
「汚いけど、今日は我慢してくれな」
「ウン……」
「ほら、泣くなって。そうだ、みかんでも食べて元気出せって。結構良いやつなんだぜ、それ。こたつにはみかん! って隣町のスーパーまで買いに行かされたんだけどさ、苦労した分美味いんだ。まあ、俺はこたつにはアイスだって言ったんだけどさ。糸原さんは働かないくせに食べ物には」
そこで一は自分を突き刺す視線に気付いた。さっきまで沈んで萎んでいたジェーンの顔が上がっている。そして呪い殺すように、憎憎しげに一を睨んでいた。
「……どした?」
無言で、ジェーンが畳を指差す。
正確には、畳の上の雑誌。
女性誌。
「あ」
指を動かし、次に流し台を指差す。
マグカップ。しかもペアの。赤と黒の、色違いのハートマークなんぞが描かれている代物。際物。
――あの人はホントに……!
「それは」
一の言葉を無視し、次にジェーンは「イトハラ?」と、舌足らずの、可愛らしい声を極限まで低くして、恨み言でも絞り出すようにして一を睨んだ。
「イトハラって、誰?」
「え、あ、あ。あ! 俺の友達だよ。たまに遊びに来るんだ」
「……お兄ちゃんのフレンド? ふうん、敬語使うんだ。友達に。へえ、アタシにも使ってもらおうカナ」
「ミスジェーン。何が仰りたいのですか?」
何か、一が頑張っていた。
「説明を求めるワ。それに、謝罪と賠償とドゲザと、お兄ちゃんからアタシへの最大限の無償の、フォーエバーラヴを」
別に、一とジェーンは恋人同士のそれではない。ただの、日本人とアメリカ人の姉妹。血の繋がっていない赤の他人。
「……すいませんでした」
一は土下座した。
「賠償は?」
「……今度、好きなもん買ってやるよ」
「かってやる?」
「買わせて頂きます。いえ、買わせては頂けないでしょうか?」
土下座したまま一が言う。
「イエース。お兄ちゃん、最高にクールな答えネ。もう一つ忘れてない?」
「愛してます」
「ダメー。顔上げて、アタシを見ながら言ってヨ」
「それはちょっと……」
「What!?」
そう。
土下座なんて、一がする必要はない。謝る必要も、理由も筋合いも何一つない。
あるとするならば。
――俺は、この関係を潰したくはない。
顔を上げないまま、一がもう一度、愛の言葉を唱えた。
「ヘックショォンッ!」
盛大なくしゃみをした患者に、看護婦が声を掛けた。
「風邪ですか?」
「ん? んー、違うと思う。分かんない」
「ふふ、誰かが糸原さんの噂でもしてるんじゃないですか」
「人気者だかんね、私も」
「それじゃ、そろそろ消灯時間ですし、私も戻りますね」
「うん、おやすみー」
「おやすみなさい」
看護婦が音を立てないで、静かにカーテンを閉める。
枕に頭を預けながら、糸原が瞼を閉じる。
頭を過ぎるは、先日の、アラクネ戦の事。自分の事。三森の事。堀の事。店長の事。白い梟と小さな女の子の事。
そして。
「あー、退屈」
あんな奴でも、いないよりはマシか、なんて考えつつ、糸原は眠りに就いた。
一はこたつに入って、みかんを食べていた。
ジェーンは顔を真赤にさせて、拳を震わせていた。
「な、な、こ、ここ、こんな狭い部屋で! い、一緒に住んでルの!? お兄ちゃんと女の人が!?」
「うん」
「ジーザス!! 信じられない! アンビリーバボゥ! 一部屋しかないのに、トイレも一つだけだし、お風呂は無いし! 一体どうしてるのヨ!?」
ジェーンは遂に立ち上がる。
「風呂か? 近くに銭湯があるんだよ」
「二人で? あの女と二人で一緒に行くの!?」
「あの女って、お前まだ会った事ないだろ。うん、まあ、たいてい二人で行くかな。あの人に財布握らせて一人で出歩かせるの怖いし」
一の、主に財布の中身が。
「KANDAGAWA!」
「良く知ってるな。とにかく座って、でかい声出すな。近所迷惑だろ」
「ね、ねねね寝るときは、ど、どうしてるの?」
動揺を隠せないまま、ジェーンが目を泳がせながら一に尋ねた。
「俺はこたつで、糸原さんが布団。逆の場合もあったかな。でもさ、あの人寝相悪いし、何か夜中にメチャクチャでかいくしゃみとか寝言とか歯軋りすんだよね。勝手に人の布団潜り込んでくるときあるし。邪魔くせえよ」
「ドロボウネコ!?」
「うわっ、声がでかいって。しかも何だよ泥棒猫って……」
「ドロボウネコ?」
「聞き返すんじゃねえよ」
「ドロボウネコ!」
面倒なので、一は無視してみかんを食べ始める。
「まあ今日は別に良いんだけどさ。もうちょいしたらその人も帰ってくるし、お前住む場所決めとけよ」
「イトハラを見捨てればいいじゃナイ」
「一回鍵閉めて、無視して寝てたんだけどさ。あの人ドアの前で大声で喘ぎだすんだよ。真夜中だってのに、そんでしょうがないから中に入れたらドン引きするぐらいしこたま殴られた」
一が体のあちこちを摩りながら呟いた。
「アタシとソイツ。どっちの味方なの?」
「……じゃあ、このアパートに住めば?」
「ここに?」
明らかな嫌悪、拒否がそこにあった。目は口ほどになんとやら。ジェーンは本当に、至極嫌そうにそう言った。
「何だよ、一緒に住みたいって言ってたじゃん」
「NO! NO! アタシはデビルでお兄ちゃんと暮らしたいの! 一人で、こんな狭いトコロに住めるワケないじゃない! 死んでしまうワ!」
「おお、俺が妹に馬鹿にされている、なんと情けない。あと、デビルじゃなくて、あくまで、な」
「合ってナイ?」
あくまで=悪魔。
「明日図書館で辞書借りてきてやるよ」
「いらない! もう寝る! 明日もお店に行かなきゃダメだし!」
「ん、そだな。けど、嫌だったら仕事辞めても良いんじゃないか?」
ジェーンは何も言わずに布団に潜り込む。
「それに俺は、やっぱりお前には危ない目に遭って欲しくないな」
「……ダイジョウブ。それに、お兄ちゃんはそんな子を好きにならないヨ」
「いやいや、俺は案外ダメそうな子がタイプなんだよ」
「ウソツキ」
「その通り。じゃ電気消すぞー」
部屋の明かりが落ちると、何ともいえない静寂が訪れた。さっきまで普通に話せていたのに、声が出ない。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「アタシ、諦めないから」
「ん」
「それじゃ、また明日ネ。お休み、お兄ちゃん」
「お休み、妹」