Resistance Line
男は戦った。
戦って戦って戦って戦って戦い続けた。
その先に何があるのか、何を得るのか。そんなことはどうでもよかった。ただ、切り結びたかった。力を振るいたかった。それだけだ。戦い以外に何も必要ない。原因も結果もいらなかった。
どうせ、この世界には何の未練もない。知らない場所で、どうでもいい。一度は死んだ身なのだから二度死ぬのも大して変わらない。
「……そんなに血塗れで、血を吸って。あなたは、悲しくならないの?」
だから不思議だった。
戦いの末、ぼろぼろになった男の前に一人の女が立ったのだ。彼には、問答などせず、縊り殺せるくらいには余力があった。しかし、動けなかった。
「悲しい? 何がだ。戦いが、か?」
「分からない。戦う人の気持ちは、私には何も」
血で血を洗い、血が滾る。沸々とした思いはやがて荒れ狂い、何もかもを飲み込む。感情の昂るままに、抗わず従えばいい。妻も、子も、友も、目に映るものは全て殺せばいい。男はそう信じていた。
「そうか。俺は死ぬ。それだけだ。悲しくはない」
「残念だけど、その傷じゃああなたは死なない。私が死なせない」
「……何故だ?」
救う価値も、理由もない。自分には意味がない。だから男は問い掛けた。女は答えた。
「助ける理由? そんなの、ないかな。でも、このままほっとく理由だってないから」
「変わった女だ」
「よく言われるよ」
男は口の端をつり上げた。ならば、このまま助かろう。救われようと思った。価値も理由も意味もないはずの生だが、もう少し生きながらえるのも悪くはないと思ったのだ。
二ノ美屋は訝しげな視線を道の先へ遣った。情報部の報告からモリガンたちの到着まで時間がかかり過ぎている。喜ばしいことだが、ハーピーどもも間近に迫っている。
「……三人」
三人の勤務外がモリガンたちを待っていた。彼らは二ノ美屋が持つことを許された唯一の札である。だが、彼女はここで一たちを戦わせることについて悩んでいた。
行け。
戦え。
いつものようにそう告げればいい。『円卓』のメンバーに店の近くまで来られては危険である。一たち三人に対処させたかった。ただ、後がなくなる。モリガンを仕留められればいい。手傷を負っても『円卓』の一人を打倒したならば上々だ。だが、それが叶わなければどうしようもない。迷っている暇はないはずだったが、二ノ美屋は一たちを待機させ続けていた。
目はずっと覚めていた。傷が痛んで、眠りたくても眠れない。堀は頭を振ってから上半身を起こし、店の中を見回した。暫くの間、彼は知った顔が倒れているのを見つめていた。皆、傷つき、苦痛に顔をしかめている。立ち上がれる者はここにいない。傍らで眠る女を見遣り、堀は目を細めた。
来た。
やつが来た。
ならば、戦わねばならない。他の誰にもその役を譲ることは出来ない。譲りたくなくて、戦いたい。
「……堀?」
「ああ、春風さん。ちょっと行ってきます」
堀は立ち上がり、体の調子を確かめる。春風は眉根を寄せ、彼を見た。
「行く、だと? まさかお前、その状態で戦うとでも言うのか?」
アレス、アグニ、ペルセウス、藤原、槌屋。堀は彼らと戦い、痛めつけられてきた。ここに至るまで満身創痍であった。戦い続け、負け続けた。充分なのかもしれなかった。彼はずっと戦い続けてきた。意味もなく、理由もなく、価値もなく、ただ、ひたすらに。だから休めばいい。立ち止まってしまえばいい。
「ええ、戦います」
だが、今は違う。意味が、理由が、価値が、やっと出来たのだ。この世に来て、初めて。
「槍をください」
「堀さん? いや、あんた、寝てなきゃ駄目だったんじゃ」
「ください」
技術部の男をじっと見据える。武器の管理を担っていた彼は、ゆっくりと頷き、出来る限りの得物を堀に託した。その姿を、目ざとくも店長は見つけていた。彼女は少しばかり驚いたらしいが、堀を手招きする。
「……止めないでくださいよ」
「いや、ラッキーだ。この際死にかけの負け犬でも構わん」
かっ、と、堀が笑った。
「ざまあない。私を捕まえて、負け犬とは」
「そりゃあ悪かったな。よし、一たちと一緒にフリーランスどもを仕留めてこい」
「いえ。一人で。私一人で戦います」
「……何? お前、自分の状態を分かっていないのか?」
「分かっています。分かったうえで言っています」
空を指差し、堀は笑みを作ってみせる。曇天の向こうからけたたましい声が聞こえてくる。
「ハーピーが来ます。一個の力は犬にも劣るでしょうが、数が多過ぎる。正直、勤務外抜きで凌ぐには分が悪い。こちらには一君の知友がいるでしょうが、それでも厳しいはずです。現にあなただって考えていたはずですよ。地上の相手には、誰かを捨石にして、少しでも相手の力を削った方がいい、と」
「確かにそうだ。だがな、お前は捨てるには惜しい石だぞ」
「ただでは死にません。それに、誰かがいては足手まといだ。私には一人の方が向いていて、慣れている。独りの方が戦い易いんです」
店長はそれでも堀を行かせることを躊躇い、渋ったが、彼を引き留めることは困難だと判断した。
「情報部から聞いている。どうやらお前の知り合いが来ているらしい。最悪、そいつだけでもやれ。あとはこちらで対処する」
「そのつもりですよ。では」
言って、堀は数本の槍を担いで走り出す。彼の背を見つけた一たちは、店長にどういうことかと尋ねた。彼女は首を振り、苦渋の表情を浮かべる。
「予定変更だ。お前らはハーピーに当たれ。あっちは、あの男がどうにかする」
フリーランスたちが立ち止まり、向かってくる者を認めた。相手はたった一人の男であった。
「あ、あああ、あああああああああ」
全身を西洋の鎧で覆った大男、『要塞』は瞠目する。モリガンが両手で顔を覆い、感極まった声を放ったのだ。
「……あ、ああああの人を殺しちゃあ、だめ、だめだめだめだめだから、だからっ」
モリガンは顔を上げ、ぶるりと身を震わせる。
「だから、嬲って! 彼を嬲って!」
そう言う指示かと、『要塞』は一歩前へと進み出た。その瞬間、彼の兜を槍が貫いた。『要塞』は仰向けに倒れ、喧しい音を響かせて動かなくなる。残ったフリーランスたちは顔を見合わせ、死体に刺さったままの槍を見遣った。
「う、ふふふふふふ。あ、ああああ合図よ。戦いの、合図」
瞬間、男の大音声が炸裂し、長く響き渡る。
「……野郎、何なんだ?」
「知らないのかい?」
『騎士団』の少年が笑っていた。彼は酷く興奮していた。
「彼は太陽神とアルスター王の妹との間に生まれた半神の英雄だ。戦場では敵味方の見境なく暴れ猛る、恐ろしい戦士だよ」
「は、はあ? 神だあ?」
「心した方がいい。僕たちは今、クランの猛犬の前に立っているのだから」
「あっ、ああ! ホリン! ホリン! 私の愛しいホリン!」
アイルランド、アルスター地方には伝説があり、一人の英雄がいた。
後にアルスター人最強という称号を得た英雄にはセタンタという幼名があった。セタンタが七歳の頃、クランという鍛冶屋の館に招かれた際、誤って彼の番犬を殺してしまう。この番犬は猛犬として名高く、戦士が十人いても倒せないクランの自慢の犬であった。嘆き、悲しむクランを見て、セタンタは言った。自分がこの犬の子を育て、その子が大きくなるまでは自分がこの家を守る、と。
セタンタは後にク・ホリンと名乗る。クランの猛犬と呼ばれる英雄の誕生であった。
――――ああ、楽しいな。
「ちくしょうっ、神様だか何だか知らねえけどな!」
槍が獲物を貫く。堀は口を大きく開き、槍を引き抜いた。鮮血が舞い散る中、彼は口の端を歪める。フリーランスたちは皆一様に息を呑み、堀から距離を取った。
「あ。あ。あ。あああああ、あい……」
堀の目がモリガンを捉える。彼女は童女のようにはしゃぎ、紅潮した頬を見られまいとして掌で覆った。
「愛して、いるわ」
「退け。今なら許せる」
「……ひ、け?」
がくりと、モリガンの全身から力が抜ける。彼女は冷たい地面に座り込み、堀を見上げた。
「退く? 許す? う、っふふふふふふ。嘘。嘘でしょう? だって、今のあなたは、とてもとても愉しそうだもの」
「……っ!?」
横合いから投擲されたものを躱すと、堀は槍の穂先をそちらへと向ける。投げられたものはメスで、投げたのは全身を包帯でぐるぐる巻きにした男であった。
「よおおおお、忘れちゃいねえよなああ? 俺を、お前が忘れるわけねえよなあ?」
男の名は『病院』。彼は、堀がまだク・ホリンとして日本で戦っていた頃、有象無象と一緒に斬りつけられ貫かれた。以来、『病院』は仇として堀を追い続けていたのである。顔面に巻いた包帯から、ぎょろりとした目玉が覗く。
「この姿をどう思われたって構わねえのさ。この傷痕はなあ、てめえをぶっ殺してまくってから治すって決めてるんだよ」
「そうですか」
放たれるメスを弾き返し、堀が身を低くする。『病院』は後方へと飛び退き、刃物を取り出した。
「こいつで皮一枚ずつ抉ってやる……!」
乾いた音が鳴る。『病院』の腹に幾つかの穴が空き、血が噴き出した。彼は不思議そうに首を傾げ、傷口に手を当てる。
「……なんだあ?」
もう一発、先と同じ音が鳴った。拳銃である。堀は新たな弾丸を装填せず、胸ポケットに戻した。『病院』は膝をついて嗚咽を漏らし始めた。
「こういうのは好かないのですが、面倒なので使わせてもらいました。それから、いやあ、申し訳ないのですが、私はあなたのことは覚えていません」
真顔で言い放つと、堀は残った者たちをねめつける。モリガンと『騎士団』の二人だけが彼から目を逸らさなかった。
『騎士団』の少年は口笛を吹いた。堀の――――ク・ホリンの戦いぶりがあまりにも勇猛で、あまりにも愚鈍であったからだ。
堀は強い。半神の英雄もアルスター最強の称号も伊達ではない。ただ、恐ろしさを感じなかった。彼は北欧の狂戦士を思わせるような戦闘をせず、あくまで理性的である。どこまでも人間らしく振舞っていた。
――――これじゃあ、立花の方がよっぽど恐ろしいじゃないか。
少年は堀を見る。彼の動きは鈍かった。突きの速度も遅い。手首の返しはぎこちなく、体捌きもどこか危うい。並のフリーランスが相手だからこそ戦えているに過ぎない。自分たちが出れば、即座に彼の首を刎ねられるだろう。
「あれが赤枝の騎士ですか。期待外れですね」
「ディル。……僕もそう思ったけど。たぶん、誓約がかかってるんだ」
誓約。
アイルランド語で禁忌を意味する言葉だ。ゲッシュとは誓いのようなものである。これを守れば神の祝福によって超人的な力を得られる。しかし虫のいい話はない。破れば災いが降りかかるのだ。ゲッシュは厳しければ厳しいほど受ける恩恵も強まる。ただ、多くの英雄がゲッシュを破り、あるいはゲッシュを利用され、罠にはめられて不幸な最期を遂げた。
「……ク・ホリンであれば、犬の肉を食べない。詩人の言葉には逆らわない、ですか」
「うん。彼のゲッシュは他にもある。あるけど、違うだろうね。新しい誓約を課している。あるいは課せられている。じゃないと、あんなにも無様には戦えないよ」
少年は考える。いったい、クランの猛犬を貶めた誓約とは如何なるものか。そして、彼は何故そのようなゲッシュを課したのか。
もう一人、『騎士団』以外に堀の不調を見抜いている人物がいた。モリガンである。彼女は、堀が自分の知らないゲッシュを課していることに気づくと、自分の指の爪を噛み始めて、苛立ちをあらわにした。悔しいのだ。堀のことで、自分の知らない事柄があることが気に入らない。そして、彼に新たな呪いをかけた者を許せなかった。
ゲッシュは、男が一人前になった証として、祭司や女から与えられる。戦いを好み、愛する堀が自らその邪魔をする誓約を課したとは思えない。また、ドルイドはこの地にはいないはずである。ならば女だ。モリガンはそう考えていた。
「……私以外の誰に、誰に、何を、誓ったの?」
堀に近づいた女が許せなかった。
彼自身が憎かった。
だが、今もまだ愛している。
モリガンは自分でも気づかない内に、自らの力を解き放っていた。
槍の穂先が折れる。銃弾が尽きる。持ってきた装備の殆どを失いかけた頃、堀はフリーランスが動かなくなっていることに気づいた。逃げ出した者を除けば、残ったのは『騎士団』と呼ばれる二人だけである。
「あなた方はどうするつもりですか?」
「聞かれちゃったよ。どうするか、だって」
くつくつと笑い、少年はディルから剣を受け取った。
「そりゃもちろん、たたか――――うわ!?」
堀は息を吐き、腰を低く落とす。モリガンがかんしゃくを起こしたのだ。彼女の周囲から灰色狼、骨のない赤色の牝牛が群れとなって現れる。カトブレパスというソレが現れた時と同じものであった。獣どもはモリガンの魔力が垂れ流されたものであり、彼女が収まるまで絶えることなく湧き続ける。
「戦いに愛を持ち込むなと、前にも言ったはずでしょうに」
「ああああああああああ、ホリンっ、ホリン、あなたが悪いのよ! あなたが、私以外の女に心を奪われるから!」
「……女とは、本当に。鋭いものですね」
「ま、それが女ってやつさ」
少年とディルは得物を堀に向けた。
「信じてくれないだろうけど、僕たちはあなたに興味がある。いや、憧れていると言ってもいいのかもね。けれど、今のあなたには興味がない。見るに堪えない」
「不本意ですが、疾く首を刎ねてやるのがあなたの為かと」
「どうぞ。ご自由に」
飛び掛かる灰色狼の腹を蹴飛ばし、大口を開けるソレに槍を突き立てる。背後から少年の気配を感じて振り向くが誰もいない。瞬間、体を捩る。脇腹に熱を感じた。右方から斬りつけられたのだ。少年か、ディルか、どちらに斬られたのかは分からない。知覚出来ない。彼らを追おうとするも、モリガンの僕が足元から這い出てくる。その場から飛び退き、着地した瞬間をディルの長剣が襲った。
「ほう、やりますね」
ディルはにっと笑う。堀は彼の動きを読んでいた。ろくに相手の姿も見ないまま、柄でディルの得物を跳ね上げる。彼は『騎士団』には身体能力では及ばないが、今までに蓄積されてきた戦いの記憶があった。そして感謝する。獣に混じる『騎士団』の二人だが、どうにもならない相手ではない。彼らは北よりも遅く、槌屋よりも軽い。
「ではこれはどうですか」
「二刀流かっ」
ディルはコートを翻し、背負っていた剣を抜く。堀は連撃を捌こうとしたが、灰色狼が利き手側の肩に噛みつき、隙を衝かれて真正面から剣で薙がれた。追撃を避けようとして、無理矢理にソレを蹴飛ばす。反動を利用してディルから逃れると、片膝で立ったまま、周囲をねめつけた。
「満身創痍だね、ク・ホリン」
「……何者ですか、あなた方は」
「さて、何だろうね。ただ、あなたがロートルなら、僕たちはルーキーってところなんだろう」
少年が笑い――――それはおそらく彼も意図していなかった無意識的な癖だったのだろう――――親指を口に銜える。堀は彼の様子を認め、低く笑った。
アイルランド神話には四つのサイクルがある。神々の物語を扱う神話サイクル。ク・ホリンの活躍を中心としたアルスターサイクル。フィアナ騎士団を中心としたフェニアンサイクル。歴代のアイルランド君主を中心とした歴史サイクルだ。
「……ああ、やっぱり気づかれちゃったか」
「『騎士団』。まさか……いいや、私がここにいるのですから、何の不思議もありませんね」
少年は笑みを深める。モリガンから湧き出た牝牛を刻みながら、髪の毛をかき上げた。
「金色の……フィン・マックール……!」
「まあ、隠すつもりはなかったんだけど」
少年は、フィン・マックールは頷いた。
アイルランド神話において、ク・ホリンと並び立つ英雄がいる。それがフィン・マックールであろう。フィンは、ケルト神話の神の一柱、神の一族であるトゥアハ・デ・ダナーンの王たるヌアザの孫娘と、フィアナ騎士団の団長との間に生まれた。紆余曲折の後、彼は父の仇であり、フィアナ騎士団の団長である者を倒し、団長となった。
フィンが団長になる前の話だ。旅をしていた彼はボイン川の近くで出会ったドルイド僧の弟子となる。フィンは師である僧に命じられ、食べた者にありとあらゆる知識を与える鮭、フィンタンを料理する。しかし、料理を師の前に差し出した時、彼は尋ねた。師がフィンの表情が変わっているのを不思議に思ったからだ。フィンは、調理の途中で鮭の脂が親指に跳ねたので、傷口を舐めたと答えた。深く頷いた師は、フィンに鮭を食べさせた。これ以降、フィンは親指を舐めることによって知恵を得られることとなった。
「舐めれば知恵を得られる、か。羨ましいものです」
「言ってくれるじゃないか」
堀は槍を支えにして立ち上がる。フィンは彼の皮肉を受け流し、ディルに目線を寄越した。仕留めろと、そう伝えたのだ。
「知恵を借りなくても今のあなたを殺すのは簡単だ。……って、否定しないのかい? 英雄としての矜持はどこへ行ったんだ? 立ち上がり、狂戦士のように戦ってはどうなんだ。君の半分は神様なんだろう。諦めたような顔をして、賢くなった振りをするのか、クランの猛犬」
「……その名前で呼ばれるのも、いやあ、本当に懐かしい」
目を瞑り、堀は息を吐き出す。周囲には獣が群れ、フィン・マックールは剣を構え、彼の仲間が傍に控えている。逃げることは出来ない。そも、堀は性分から逃げることを選べない。
「私がやります。あなたの手を煩わせるまでもない」
ディルが二刀を振るい、堀の対面に進み出る。
――――三下如きに見下され、舐められ、あげく、狩られるのか、俺は。
「ああ、その目。素晴らしい。激情しそうだ」
ク・ホリン。その名を知らない者はフィアナ騎士団にはいなかった。彼は英雄であり、皆の憧れであった。その男は今、満足に戦えない誓約を枷に、戦士としての誇りすら捨てているように見受けられた。
ディルは堀を見据え、少しずつ、細い息を吐き出していく。
「あなたは私を貶めた。下に見た。あまり私を舐めるなよ、犬め」
フィアナ騎士団団長、フィン・マックールには多くの部下がいた。優れた狩りの才を持ち、詩の才をも持つフィンの息子オシーン。フィンの父親を殺したが、高い能力によってフィンに重用されたゴル。ゴルの兄弟であり、戦いでは決して背を見せることのなかったコナン・マウル。フィンの甥、俊足のキールタ・マック・ロナン。千里眼のディアリン・マクドバ。そして、騎士団最強の戦士、ディルムッド・オディナ。
妖精王を育ての親に持つ『騎士団』のディルこと、ディルムッド・オディナが自らの得物を構え直した。右手にはモラルタ。左手にはベガルタ。二つの激情が交差し、その隙間から彼自身が堀という敵を覗いている。
「ディルムッド・オディナ、参る」
「ああ、いい名前だ。羨ましい。名乗れることが、羨ましい」
剣が閃いた。ディルの動きは直線的である。単純だが、速度があった。堀が自分にはついてこれないとディルには分かっていたからだ。今の彼に小細工は必要ない。
堀は荒い息をしながらディルの攻撃を捌いた。だが、ディルはまだ止まらない。右方の空間が裂かれていく。堀は目を細めた。これを防げば左から斬りつけられるだろう。防ぎ切れないと判断した彼は体勢を崩しながら、その場から離れることを選択した。ディルは堀の後退に激昂しかけた。
「まだ始まったばかりだ! だのにあなたは退くというのか!」
ディルが追う。
「誇りが残っているならば打ち合え! 戦え猛犬よ! 戦って死ぬのが戦士ではないのか!?」
堀は思わず顔をしかめた。誇りで戦い、死ねるならどれだけ楽だろうか。彼とて叶うなら、思うままに打ち合い、戦い、死にたかった。しかし、今の自分は英雄と呼ばれたク・ホリンではない。誓約に縛られた堀という男でしかない。背には仲間がいる。守りたい者がいる。ここで自分が死ねば後がなくなる。少しでも長く戦い、少しでも多くの敵を仕留めたかった。
「誇りですか。多勢で一人にかかるあなたにそれが備わっているとでも?」
「もはやあなたは口で語るなっ」
「そんな言い分がありますか!」
「憧れは憧れのままっ、その名を落とすなク・ホリン!」
ディルが踏み込む。堀は接近してきた彼の右足を狙って槍を突く。右手の剣で防がれた先端が乾いた音を鳴らした。槍を手元に戻す間にディルが左手の剣を振り下ろす。堀は傷口から伝わる痛みと熱を無視し、足でディルの手元を蹴った。ぶれた切っ先は空を切り、標的を見失う。
く、と、堀が喉の奥で笑った。ディルは彼を見上げた。
「見事ですよ色男」
堀は自らの頬に指を当てる。
「私が女なら、即刻恋に落ちていたことでしょう。そうなれば、戦うことなく降ったのでしょうね」
「私を愚弄するか!」
ディルのコートが翻った。堀の目線が僅かな時間、奪われた。一瞬間の後、竜巻のような連撃がディルから放たれる。左右の区別をつける暇はない。堀は迫る切っ先を受け、あるいは避け、一歩ずつ後退し始めた。彼の双剣は凄まじく重く、速い。ただ、怒り任せのせいか酷く荒かった。堀は渾身の力をもってディルの肩口を突いた。しかし、石突きは何も穿たない。ディルの身が深く沈んでいる。追撃を試みた堀だが、彼の目の端に浮遊するものがあった。剣である。先までディルが握っていた二振りの剣だ。この場面で得物を手放すことはありえない。しかし、嫌でも目に入ってしまう。意識してしまう。
視界を、赤色と黄色が彩った。正体は、ディルムッド・オディナの赤槍ゲイジャルグと黄槍ゲイボーである。彼がコートの中、背中に潜ませていた必殺の得物であった。その二撃を堀が躱せたのは全くの僥倖である。彼は全身を走り抜けた危機感に頼り、身を反らしたのだ。脇腹を掠ったが、動きに支障はない。堀はここに留まるのは堪らないと、再びディルから距離を取る。
「……掠めましたね」
「ええ、命拾いしました」
「いや、取りました」
ディルは狂気じみた笑みを浮かべた。そうして、二槍を見せびらかすかのように素振りし、地面に突き刺す。彼は中空から落下するモラルタとベガルタを捕まえた。
「その傷はもう癒えない。血は流れ続け、あなたから力を奪い続ける」
スーツ越しの傷口に手を遣り、堀は掌についた血を見遣った。
「ただのカラフルな槍ではなかったわけですか。中々どうして、面白いものを持っていますね」
「一撃では必殺に至らない。しかし、確実に死に至らしめる。性根の悪さを疑われるので、あまり使いたくはない武器です。……さあ、猛犬。そろそろ、本気を出してもらえませんか」
「素敵な。ああ、なんて素敵なお誘いだ」
堀は天を仰いだ。眼前には強敵が、周囲には敵の群れがいる。彼らを打ち破れば更なる強敵と、かつて愛した女神が待ち構えている。目を瞑ると思い出す。一人きりで戦い続け、何もかもを失い、そして、最期を迎えた戦いを。
モリガンは息を整えて、にいいと笑った。
「ああ、ホリィン。思い出すわね、あの戦いを。あなたが、あなただけが、たった一人で戦い続けたあの戦いを……あ、でも、い、いい今のあなたも素敵だわ。いっぱい傷ついて、いっぱい血を流して、勝てないのに、だけどあなたは退けないのに、味方だっていないのに、それでもあなたはいっぱい殺して、いっぱい戦いたいのね。ふ……う、ふ、ふ」
だから。そう言って、モリガンは身震いする。
「ぜったい、あなたを殺してあげる。今のあなたは見ていられないの。あなたを殺した後は、あなたに近づいた女を殺してあげる。ぜったい、ぜったいに」
モリガンの狂ったような声を聞きながら、堀は地面に滴る己の血を見つめていた。かくなる上はと、ディルムッド・オディナをねめつけた。
風が駆ける。夜空を切り裂きながら、サンダルを履いた伝令の神がオンリーワン北駒台店の上空に立ち止まる。彼は眼下の店、そこに集るハーピーたちを認めた後、別の場所で行われている戦いをも認めた。
「……半神の猛犬か」
ク・ホリン。彼は今なお縛られている。呪われ続けている。逃れる術は一つきりだ。旅はそれを知っている。だが、彼を真の意味で解き放てることが可能なのは一人きりだ。旅には出来ない。
「姉さん、あなたももう、好きに生きたっていいはずなんだ」