疼
「ねえ。どうしたの?」
「ん? どした?」
目の前の少年はいつもと同じように笑った。ただ、彼女は妙な違和を覚えていた。
「……なんだか、いつもと違うような気がして」
「そうかあ?」
「うん。だって……」
少女は少年から一歩後ずさりして、ここがどこなのかを改めて確認する。寒い場所だった。薄暗くて、街灯などどこにもない。足元には黒焦げの女が転がっている。その死体だけではない。彼方此方に屍は晒されている。人のものだけではない。獣も、魔も、路傍の石と同じようにそこらにあった。
「今日のお前はどっか変だな。なあ、立花」
少年が笑う。彼には体の下半分がなかった。立花はそのことに気が付いていたが、決して触れず、笑みでもって応えた。
立花真は目を覚ます。悪夢であった。ただ、それに慣れている自分もいた。あの日、三森冬が逝った日から繰り返し見続けているからだ。
「また、立ったまま眠っていたのかい?」
頷き、立花は呼気を整える。彼女は自分がどこにいるのかを確認した。寒いが、灯りはある。死にかけた街だが、夢に見た場所ではない。どこか饐えた臭いのする路地裏で立花は安心する。彼女は寒風に身を震わせ、ブランド物のコートのポケットに手を突っ込んだ。視線を下げると、背の低い少年の気遣わしげな表情が見える。彼はフリーランス『騎士団』の長であり、今は、立花の仲間でもあった。
「こないだからずっとだね。よほど嫌なことがあったんだろう。けれど、生きている限り……いや、この街にいる限りは続くんだよ?」
分かっている。少年の言葉は立花の胸にすとんと落ち、澱のようにじわじわと広がった。
「あの日、君と出会っていなかったら、君はどうなっていたんだろうね」
「分からないよ。そんなの」
「一度は剣を交えた仲だけど、いやはや、まさか、君がフリーランスになるなんてね」
言って、少年は笑みを深めた。
立花と『騎士団』が出会ったのは一週間前のことだった。三森冬が死んだ日であった。立花は彼女が死んだことを信じられず、また、神野剣の死を思い出し、逃げ出した。とはいえ、逃げたところでどうにもならない。実家に帰るのを躊躇い、店に戻るのもばつが悪く、街をあてどなく彷徨っていたところで『騎士団』の二人と見えたのである。
オンリーワン近畿支部情報部が立花を見つけられなかったのは『騎士団』の片割れ、ディルの能力によるものだった。彼には異性を虜にする魔法が備わっており、立花を捜索していた情報部は女だったのである。彼女は『騎士団』と共にいる立花を発見した。だが、『騎士団』の少年はオンリーワンに嗅ぎつけられるのを鬱陶しく思い、ディルに指示して情報部の女を駒台から追い出した。近畿支部で内部分裂が起こり始めていたこともあり、女の行方に気を回せる者はいなかった。
そうして七日の間、立花は『騎士団』と行動を共にし、現在に至る。
「……ディルが戻ってくるまで退屈だなあ。ねえ、君。何か面白い話をしてよ」
立花は屈託なく笑う少年を見下ろし、眉根を寄せた。
「ああ、その顔。同じことを言うとね、ディルも君みたいな顔をして困るんだ」
「面白いかどうか分かんないけど、話ならあるよ。どうして、あなたたちは戦うの?」
「話というより質問だけど。そして話すのは僕になるわけだけど、まあいいや。一端の騎士になろうとしている女の子にアドバイスをあげようじゃないか」
少年は髪の毛をかき上げ、ポリバケツの上に座る。
「どうして戦うかって、そんなことに理由はないよ。生きることに理由がいらないのと同じようにね。そして、生きるというのは戦うということだ。僕はね、育ての親に狩人として生きていく術を叩き込まれた。他に誰もいなくて、何もない荒野ですら生きていけるように。僕はその後、ちょっとした騎士団でふんぞり返るようになったけどね。でもさ、騎士団なんて言ってるけど、今の僕らは近衛騎士でもなんでもない。傭兵と大して変わらないんだ」
「生きる為にソレを殺して、お金を稼ぐ。騎士も勤務外と同じじゃないか」
「かもしれない。けれど僕らの心には信念がある。『円卓』にはそれがあるのかな。君はどう思う? この街を無茶苦茶にして、ここの人たちを滅茶苦茶にして、彼らは何がしたいんだろうね」
煙が見える。火の手が見える。ここまで来る途中、多くの物が壊れ、多くの者が殺されていた。立花はその光景を思い出し、長い息を吐き出す。『円卓』は許せなかった。彼らは友人を殺し、仲間を殺した。そして尚も止まらない。人は死に、知った顔が端から嬲られていくのだ。しかし抗えない。抗おうとは思えなかった。
「ボクには分からないよ。何がしたいのかなんて、そんなの」
「……僕にもさ。だけど一つだけ分かる。この世には逆らったって無駄なものがあるんだよ」
「『円卓』? あいつらが怖いの?」
そうじゃないと、少年は首を振る。彼が強がっている風には見えなかった。
「彼らではなく、僕らが逆らえないのは運命というやつさ。やりたいことも、何をすればいいのかも分からない。結構じゃないか。流されるまま流されたっていい。人には道がある。そいつを選べる時もあれば、一本に定められている時もある。きっと意味がある。君が今、ここにこうしていることにも何らかの意味がね。……お、ディルが戻ってきたね。じゃあ始めようじゃないか。北駒台店潰しというやつを」
北駒台店から数百メートル程度離れた道に、異様な雰囲気を纏わせた者たちがいた。彼らは日常的にソレを殺して金銭を得る。フリーランスと呼ばれ、人の道を外れた者が殆どである。
『騎士団』、『天気屋』、『病院』など各地で活動するフリーランスを集めたのは一人の女だ。緑髪の女、名はモリガンである。『円卓』の十席に座る彼女の正体は人間ではない。ただ、この場にいる者たちにはどうでもいいことであった。金銭と私怨に依った集まりである。実際、フリーランスもモリガンという女をどうでもいいと思っていた。
モリガンは居並ぶフリーランスたちを見回す。遅れている者もいるらしく、彼らを戦力として見るには不安が残るが、自分さえいればどうにかなるだろうと、モリガンは興味なさげであった。
「それじゃあ、手筈通りによろしくね」
モリガンが笑う。近くにいた立花は思わず、同性の妖艶さに息を呑んだ。混濁していた頭の中が強制的に整理される。たった一つの感情が彼女の脳内を占めた。
フリーランスたちはモリガンの背をねめつけた。手筈と彼女は言った。だが、彼らに与えられたのは二つの命だけである。殺せ。ある男に手を出すな。それだけだ。人間に与えるような指示ではない。まるで猟犬である。しかし、けだものでいいとも多くの者が思った。『塹壕』はこの街に到着してから思った。きっと、世界はここから終わるのだと。口惜しいが、終わってしまうのなら好き勝手にやろうとも思った。『病院』は傷をつけられた恨みを晴らせるのなら何でもいいと思った。自暴自棄かもしれない。しかし、自分が終わる前に世界が終わるのかもしれないのだ。
ならば、と。
けだもののように、本能によって生きることを咎められる者はいるのだろうか。
立花の身体からは熱が去っていた。混乱して、流されるままに流されていた彼女を正気に戻したのはモリガンの笑みである。熱に浮かされ、浮足立っていた。しかし、一度でも冷静になると躊躇いが生まれる。モリガンは言った。北駒台店を潰すのだと。フリーランスは彼女に続こうとしていた。立花は考える。果たして、店はどうなるものか。店には誰か、戦える者がいるのだろうか。いなかったら店は本当に壊れてしまうだろう。もし、誰かいればどうなるのだろうか。いれば殺されてしまうだろう。モリガンはそのように指示を出したのだ。物は壊れ、人は殺される。先まで嫌になるほど見てきた光景であり、この街の真実でもあった。
ならば、と。立花は深く考える。ならば自分はどうするのかと。壊すか。殺すか。勤務外でありながら『騎士団』と共に動き、勤務外を、あるいはそうでない者を殺すのか。流されるまま流されるのか。けだもののように、ただ爪牙を振るうのか。
――――ボクは、そんなの。
ならば抗うか?
自分自身に問いかける。ここで雷切を抜き、モリガンの背に斬りかかるのか。果たして、上手くいくのか。彼女だけではない。他のフリーランスは止まるのか。自分一人だけで止められるのか。立花真という人間に何が出来るのか。
立花はぴたりと足を止め、天を仰ぐ。彼女の行動に『騎士団』の少年やディルも気づいていたが、知らない振りを通した。彼女は、足音が聞こえてくることに気づいた。
壊してやる。
殺してやる。
必ず殺し、必ず償わせる。
吐く息は荒く、体はいつになく昂っていた。
「……ヴィヴィが死んだ。たぶん、始まる。始まってる」
「お師匠の言っていたアレですか? どうでもいいですよ。そんなことより、私は……!」
神野姫――――『館』のレヤックは怨敵の最期を想像し、身震いした。そして見た。モリガンが率いるフリーランスたちの姿を。
『館』もまたモリガンの誘いに乗っていたのだ。ただ、集合が遅れた。ランダがヴィヴィアンの死を悟り、足を止めていたのである。
「いいんだね、姫。もう、本当に」
「戻れなくなりますか? 構いませんよ、私は」
戻れなくなる。家に。人に。姫は言葉を飲み込み、前だけを見据えた。自分にはそれしかないのだと言い聞かせた。彼女の目は血走っている。連日の無理な修業が祟っているのだ。姫は魔女の素質があり、魔女になることを選んだ。ただ、見習いの身でもある。魔力の量も少なく、体力も一般人と変わらない。彼女を支えているのは気力だ。恨みつらみによる負の力だ。
「……殺すっ、殺す殺す殺す」
ランダは姫の強さも、弱さも見抜いていた。ここから先、駒台がどうなるのかも分かっていた。『円卓』が動いている。この街で夜を越えることは不可能に近い。ランダは出来ることなら一刻も早く逃げ出したかった。ただ、姫がいる。彼女にはもう自分の命すら勘定に入っていないのだ。何もかもを犠牲にしてでも遂げたい思いがある。姫を動かしているのは、生かしているのは、復讐だけだ。……出会わなければいいと思った。姫の仇はとうに死んでいて、あるいは逃げ出していて……そうすれば、姫はいつまでも仇を追い続けるだろう。その間だけは生きていてくれるだろう。
「姫。あのさ、オンリーワン狙うって話だけどね」
「私が狙うのはあいつだけですけどね」
「それ、やめとかないかな?」
前を行く姫が立ち止まった。地雷を踏み抜いたかなと、ランダは苦笑する。姫はいつまで経っても振り向かなかった。一点だけを、一人だけをじっと見つめていた。
後ろから女の声が聞こえた。女というにはまだ若い、少女特有の甲高い悲鳴にも聞こえた。モリガンは立ち止まり、訝しげに後方を見遣る。同様にフリーランスたちも立ち止まった。
「あら? あらら? あれって、魔女だったかしら?」
知った顔がそこにいる。遅れていた『館』の魔女だ。ランダと呼ばれた本物の魔女と、その弟子レヤックである。叫び声を放ったのはレヤックであり、彼女に呼び止められたのは、あまりよく知らない少女であった。何かしらの因縁があるのだろうとは、レヤックの表情を見れば推し量れる。ただ、今は仲間内で争っている場合ではない。愛した男を殺す。そのついでに、『王』の障害となりうるオンリーワンを潰さねばならないのだ。時間がない。モリガンは少しの間だけ考え、新たな指示を幾人かのフリーランスに与えた。
「あなたたちはここに残って。それで……ふ、は。そうね、あの、真っ黒い、烏みたいな子を殺してあげて。それ以外はさっきと同じ。うふ、ふふふふ。殺すのよ。ただただ、ね」
モリガンは、立花真が勤務外であることを知らない。レヤックが神野姫という人間であったことを知らない。しかし、レヤックが立花を強く憎んでいることは分かった。少しだけ応援してやろうと思った。何故なら、彼女は自分と同じように見えたからだ。まるで――――否。きっと、彼女は恋をしているのだ、と。
「どうしてっ……どうしてあなたが! よりにもよって、あなたが! ここに!?」
間違いない。立花は目を瞬かせる。目の前に立っているのは神野姫だ。怒り、あらん限りの激情を声に乗せている。
「どうしてって、君こそ」
問おうとして、『館』もまたフリーランスであることに思い至った。彼女らは勤務外に恨みを持ち、『円卓』の魔女と仲間だったのだ。ここにいてもおかしくはない。
「お前が、どうしてここにいるんですか!? 立花真、お前は勤務外で、あちらの人間じゃあないですか!」
それは立花自身にも分からないことであった。だから立花は答えず、じっと姫の瞳を見据える。その視線を受けた彼女の目つきが鋭くなった。
「宗旨替えですか? 勤務外を裏切って、兄を裏切って、『円卓』に与して……それがお前のやり方ですか、立花真」
「そんなのっ、そんなの……ボクにも分からないよ」
「分からないなんて他人事のように言うな!」
ランダの制止の声も聴かず、姫が飛び出した。立花は提げていた竹刀袋に手を遣った。
「子供みたいなことを言うなぁ!」
姫が腕を掲げる。伸ばした左手から何かが放たれる。五発の弾丸であった。身体を変化させるレヤックの能力により、爪を武器に変えたのだ。立花はその場から動かなかった。弾丸は一発も当らず、闇夜の向こうに消えていく。姫は腕を太く、しかし鋭い針に変えて突進する。児戯に等しい体捌きであった。立花は息を吐き出し、半身になって攻撃を躱す。振り向いた姫の形相は悪鬼そのものであった。
「そっちが子供だろ」
立花は姫の足を払い、転ばせてから距離を取る。姫は片膝をつき、針で地面を突き刺した。
「舐めるなっ、子供扱いしないでください!」
「だから、子供だろ」
「それを抜かないで、どの口でええええええええ!」
「待ちな!」
再び襲い掛かろうとした姫の前にランダが身を割り込ませる。彼女は立花を見遣り、頭を下げた。
「お師匠! 邪魔をしないでください!」
「立花真っ、あんた、今のあんたは勤務外じゃないんだろう? あたしらと同じでフリーランスだ。だから、今だけは見逃して欲しい。ここで戦うべきじゃない。違うかい?」
「……フリーランスとか、そういうの関係なく襲ってくるくせに。虫が良過ぎるよ」
「けど、せめて今だけは」
姫の肩が震え、彼女は弾かれるようにしてランダを見た。
「今だけ? 今だけですって? お師匠。何を、何を言っているんですか。私とこいつが出会ったんです。そう。そうですよ。フリーランスも勤務外も関係ないっ。私と、こいつだから! 今やらなくて、他に戦うべき時がありますか!? 明日なんか来ないかもしれないのに、今を逃せると思いますか!?」
「姫、抑えな。前から言ってるだろ。あんたは立花に勝てないって」
「勝てなくても、殺せるかもしれない! いいえ、殺すんです! 私はその為に何もかもを!」
変化する。姫の腕が針となる。ランダは動かなかったが、もはや彼女を抑えることは不可能だと悟っていた。
「立花。頼む、刀を抜かないでおくれ。戦えば、たぶん、姫は」
死ぬだろう。殺すことになるだろう。立花は竹刀袋に手を遣ったまま、後ろに一歩下がる。その時、『騎士団』の二人が自分たちを見ていることに気づいた。少年は仕方なさそうに笑み、あるものを投げて寄越した。彼が得物として使っていた西洋の剣であった。
「君は結局、僕らの前で刀を抜かなかったね。いや、抜けなかったのかな? ま、餞別だよ。短い間とはいえ、少しは楽しかった。そいつを代わりに使うといい。無銘だけど悪くはないから。ここから先、得物なしじゃあ辛いと思うし」
「いいの?」
少年の代わりにディルが首肯で応えた。立花は、これが運命で、流れなのかもしれないと思った。自分が何をすべきなのか、何をしたいのかが分かったような気がした。
「立花さん。次に会った時は切り結ぶ時だと思います。それまで、お互いに生きていればの話ですが」
「……うん。分かった。それじゃあ、また」
少年とディルは背を向け、北駒台店の方へ歩いていく。すぐ傍に殺気が漂い、立ち上っている。立花は姫に向き直り、剣を両手で構えた。
「手加減は出来ないし、もう、するつもりもなくなったから」
上等だと、姫は目で応えた。
少年はフリーランスの後姿を目で追った。彼らは、モリガンに命令されて立花を殺しに行ったのだ。立花が勤務外だと知っていて、邪魔になりそうだと思ったのかもしれない。彼女がそう命じた理由は分からない。あるいは理由などないのかもしれなかった。『円卓』に座るモノの考えることだ。少年は頭を振って思考を排した。
「あの二人、どうなると思いますか」
「なんだいディル。今から僕らだって戦うってのに人の心配かい?」
「気にはなります」
「……見た感じ、『館』の子は立花には遠く及ばない」
少年もディルも、立花の剣力を知っている。彼女がテュールという侍気取りの男と戦い、生き延びたことを知っている。
「立花の剣はまるで獣だ。死ぬことを恐れていない。自分が傷を負ってでも、先に相手を殺せばいいって、そんな捨て鉢にも見えるやり方だ。しかも、実際にそいつが出来るんだよね」
普通の人間なら止まる。斬られれば痛い。痛ければ身体が危険だと信号を発し、動きを鈍くし、止める。だが、立花は違う。幼い頃より厳しく『躾けられた』のだろうと、少年は見抜いていた。
「とびきり強い獣だ。そんなの、止められるやつなんか殆どいない」
「では、立花が勝つ、と?」
「一対一ならね。でもモリガンが横槍を入れた。フリーランスが三人向かったろ。あいつらがどういう風に立ち回るかで話も変わってくるよ」
モリガンに命じられたフリーランスはシャベルを武器にする『塹壕』。カウボーイのような恰好をした『駅馬車』。海賊のような姿をし、小型の錨を得物とする『灯台』の三人だ。少年はその三人の実力を知らない。
「映画から出てきたような人たちだったね。まあ、人のことは言えないけれど。……フリーランスにはああいう服を着たやつらが多いよね」
「それは、彼らが人間だからでしょう。この世界で生まれ、この時代を生きている人間だからです。誰だって怪物と殺し合って生きていくなんて、そんなことを思って育ったわけではないでしょう。どう見ても異常な、色物な服装であり、武器ですが……一時は平和な日常を過ごしてきた者が、非日常たる戦いに身を置くにはスイッチが必要なのでしょうね。それこそが、あの服装なのかもしれません。趣味、という線もありますが」
「ふうん、なるほどね。異常なものを身につけることで、自分自身を誤魔化しているってことか」
そうでもしないと人間は戦えない。哀しくも愚かしいことだと、少年は顔をしかめた。
剣を振るう。刃風で髪が揺れる。立花は長く、細い息をゆっくりと吐き出した。白い呼気が立ち上り、彼女は前を見据える。目の前にいるのは神野の妹、神野姫ではなく、『館』の魔女のレヤックだ。戦うべき相手であり、敵でしかない。
もう一度、剣を振るう。夜気が心地よかった。鋼の煌めきを見る度、心が研ぎ澄まされる思いであった。
「斬る」と告げる。立花は一歩、前へと足を踏み出した。その動作だけで周りの空気が散っていく。
対峙する姫は息を呑んだ。憎むべき相手がすぐそこにいる。戦い、殺すのだ。だと言うのに、呑まれていた。濡れた烏のような立花の黒髪が風で揺れる。彼女を止めるものはない。鞘はない。相対しているのは抜身の刀だ。それも飛び切りに美しい、一振りの。
恐れてなるものかと、姫も応じる。前に出て、異形と化した右腕を僅かに下げた。同時、立花が身を低くする。来るか。姫がそう判じた時には遅かった。剣の切っ先が喉元にまで迫っている。甲高い音がし、剣が弾かれた。彼女は喉を硬化させるのに精いっぱいで反撃に転じられなかった。短い悲鳴を放ち、後方へと退く。立花が追う。扱い慣れぬ剣とはいえ長物だ。魔女を殺す程度なら問題はないらしく、彼女は大上段から得物を振り下ろす。だが空を切るに留まった。
「姫! 駄目だ、駄目なんだよ!」
「黙ってて! 黙っててくださいよ!」
立花の一刀を躱した姫は左手の爪を弾丸に変えて放つ。投擲された五つの殺意は全て剣の腹で防がれた。立花は体勢を崩した姫に向けて、再び得物を振り下ろす。転がるようにして姫がその場から逃れた。彼女は、針では駄目だと思い直し、右の手指をワイヤーに変えて伸ばす。警戒した立花だが、姫が狙ったのは彼女ではなく、電信柱であった。
ワイヤーの先端がくるくると柱に巻きつき、姫の背中から翼が生える。彼女は後ろをろくに見ないまま、爪の弾丸を放って飛んだ。立花はそれを躱しつつ、電信柱へと向かう。彼女ではなく、柱ごと叩き切るつもりであった。姫は柱を軸に、中空でぐるりと回転する。針は槌にその姿を変えていた。躊躇いはなかった。勢いを乗せて立花へと突っ込む。
一瞬間後、剣が槌と衝突した。姫は顔をしかめ、痛みを堪えながら声を荒らげる。鍔迫り合いは長く続かなかった。立花が中空にいる姫の脇腹を蹴り飛ばした。涎と胃液を吐きながら、姫はアスファルトを転がっていく。力の差は歴然であった。
「二対一だけど、構いやしないだろ!?」
立花の横合いからモップが迫った。彼女はそれを得物で防ぎ、姫の加勢に入ったランダを見据えつける。魔女はずれた三角帽の位置を直し、姫が立ち上がるのを認めた。
「ええ、構いませんよ!」
「あんたに聞いてんじゃあないよ!」
姫とランダを視界に入れたまま、立花が剣を構える。姫は走りながら、両腕を細剣へと変えた。威勢のいい声と共に、二方向から斬撃が迫る。立花は彼女の攻撃を弾き、横に薙いだ。姫は頭を下げて剣を避け、再び細剣を突き出す。その間、ランダは手を出さなかった。
なるほど、と、立花は内心で笑む。ランダはあくまで姫に戦わせ、彼女の手による決着を望んでいるのだ。
姫を殺させない。ランダは立花と彼女の戦いにいつでも割り込めるように様子を窺っていた。その為、彼女が一番最初にフリーランスが接近していることに気づいた。
シャベルを持つ迷彩服を着た若い男、『塹壕』。
ウエスタンハットやガンベルト、カウボーイの出で立ちをした中年の男、『駅馬車』。
アイパッチをつけ、小型の錨を武器にする背の高い女、『灯台』。
「姫、あの三人に手を出すんじゃないよ!」
ランダは舌なめずりをして口角をつり上げる。恐らく、あの三人はモリガンの応援だろう。姫は一対一での決着を望んでいるようだが立花相手では分が悪い。ランダには、彼女の想いを遂げさせてやりたいという気持ちもあったが、それ以上に姫の命が大事であった。
一方、立花は『塹壕』たちを認めて舌打ちする。五体一の戦いを強いられるのだ。焦りが動きを雑にさせる。
「……ボクを殺すなら、今しかないよ」
しかし、姫は嬉しそうな表情を見せなかった。