星が瞬くこんな夜に
幸せな光景だった。
見目麗しい女が三人、仲睦まじげに微笑み合っていた。
潮騒に耳を傾け、海の匂いを嗅ぐ。周囲に目を向けると、青色に囲まれていることが分かった。紺碧の中、見知らずはずの風景が懐かしく感じられる。次いで目に入ったのは崩れかけた大理石の柱だ。足元に転がっている瓦礫は灰色がかっていた。どうやら、自分の立っている場所は神殿のような地であるらしい。そのことに気が付くも、さしたる感慨はなかった。朽ち、終わった場所だ。……であるならば、何よりも彼女らには相応しい。
楽しそうで、幸せそうで、満たされている。だから分かった。これはきっと、夢なのだと。
この街の行く末も、自分たちのことさえも判然としない。右を見れば負傷者が。左を見遣れば心の折れた者が。彼方此方で獣が唸りを上げている。魔が群れ、暗がりに身をやつしたモノが悠然と闊歩している。火の手が上がる。先まで耳に五月蠅かった悲鳴もない。ここは地獄である。靄のかかった道程を思い、しかし、オンリーワン北駒台店の長たる二ノ美屋は、自身がようやくにして暗中を抜けたのだと知った。
三森が死に、糸原が黄泉へと攫われ、ジェーンが夢の世界に入り込んだ。立花は姿をくらまし、ナナの機能は停止しかけていた。知った者が死んだ。とうに慣れている。だが、再び立ち上がることは困難に思えていた。
――――お前がしたことは、僅かな時間を稼いだだけか? それとも……。
二ノ美屋は店内を、奥にいるであろう一のことを思った。反撃の狼煙は未だ上がらない。しかし、火種は今も燻り続けている。逃げ帰っただけで終わらせたくはなかった。まだ自分たちは生きている。そして、『円卓』の首魁たるアーサー・ペンドラゴンもこの街にいるのだ。
「……二ノ美屋さん。報告しておきたいことがあります」
情報部の生き残りが、足音を立てずに隣に並ぶ。彼は肩を怪我していたが、先まで周囲を見回っていた。ただ、その目には力がない。
「北駒台店周囲にいたソレは、勤務外の手で一掃されました」
「武器、弾薬はどうなっている」
「支部へのルートが拓き次第、技術部が向かう手筈になっています」
誰が向かう。どうやって障害を排除するつもりだ。支部の生き残りはどうなった。二ノ美屋は口を開きかけて、煙草を吸うことでそれを誤魔化す。詰め寄ったところで、返ってくるのは沈黙だけだろう。
枯渇している。人も、武器も、気勢も、何もかもが足りなかった。打てる手は少ない。皆、今は考えることを放棄しているに過ぎない。ソレと戦っているのは意志からではなく、一種の機能だ。機械のように動いているだけだ。
「急げ。夜が来れば、やつらの動きは活発になる」
頷き、情報部の男はその場を立ち去る。
戦っている。生き残る。そのはずだ。皆、そうしたいはずだ。だが、何一つとして、誰一人としてイメージ出来ていない。相手が見えないのだ。『円卓』の『王』を目標に捉えていても、その実、有象無象の怪物しか目には映らない。想像の中ですら、二ノ美屋たちは王まで辿り着けないのだ。
一天地六。賽がどう転がり、どのような目を出そうとも、自分たちは、人間は、まず、負けるだろう。獣に喰われ、魔物に貪られ、人としての尊厳を散々に蹂躙されて無意味に死んでしまうだろう。
二ノ美屋は周囲を見回した。たった一つ、希望があった。生き残った者には力がない。意志がない。意気地がない。だが、決して逃げようともしていない。恐らく、その気力すら湧き上がらないのだろうが、彼女にとっては嬉しい誤算であった。道連れは多い方がいい。ともすれば自傷行為にしか見えない彼らの停滞を、二ノ美屋は心から喜んだ。
もう一つ、希望めいたものはあった。駒台の各地で戦闘部の槌屋や、情報部の長、旅らが抵抗を続けている。オンリーワン近畿支部が機能していない現状、北駒台店はこの街で唯一の拠点と呼べる場所だ。『円卓』の席に座る騎士が残っている以上、敵の目が一か所に集中していないのは二ノ美屋にとって有り難かった。
「……意気軒昂なのは私だけじゃあないか」
面白そうに、二ノ美屋は口の端を歪める。抱え切れず、溢れそうな破滅願望をしかと感じ、彼女は最後の時を希った。
夢だと気づけば、目覚めるのに大した時間はかからなかった。一は体を起こし、自分が仮眠室のソファに寝かされていたのだと知る。窓の外を見遣り、日没が迫っていることを認めると、鈍重な動きで煙草を探した。やがて箱から一本取り出し、口に銜える。
「火はこちらに」
促されるまま、一はナナの持っているライターに顔を近づけた。紫煙が天井に向かうのはすぐのことであった。
「……ずっと、傍にいてくれてたのか」
「マスター。……マスター。ナナは、良いメイドではないのかもしれません。私は、父というものを害してしまいました。自動人形として、私は」
「会えてよかった。お前が生きててよかった。俺はそう思うよ」
一はナナの横顔を見遣る。彼女はいつしか、人と変わらないようにしか見えなくなっていた。彼女にも何かあったのだろう。話を聞いてやりたかった。傍にいてくれて嬉しく思えた。だが、温い感傷に浸りたくはなかった。……ナナが人間に近づいている。しかし、自分からは人間性が失われている。そのように思えて、一は行き場のない感情を押し留めるのに必死だった。
「今、どうなってるか教えてくれ」
頷きかけたナナだが、彼女が話を始めるよりも先に、仮眠室の扉が開く。現れたのはジェーンであった。彼女は一が起きていることに気づいて眉根を寄せる。
「……ジェーン。お前も無事だったんだな」
ジェーンは答えず、一を強く見据えていた。
「どうして」と、彼女は呟く。
「どうして、今になって戻ってきたの?」
その言葉は一の胸に突き刺さった。理由を話すわけにはいかなかったからだ。
「お兄ちゃんがいない間、いっぱい人が死んだ。殺されたんだよ?」
「ジェーンさん、それはマスターのせいではありません。八つ当たりは……!」
「八つ当たりしちゃあいけナイのっ。だって、この街はこんなことになったのに。アタシたちだって、もう」
短くなった煙草を灰皿の上で揉み消す。一は息を吐き出し、テーブルの上のペットボトルに手を伸ばした。そうして、他人事のように言った。
「ああ。死んだな」
ジェーンは弾かれたかのように顔を上げ、一へと近づく。ナナが彼女を止めようとしたが、それを一が制した。彼はソファの上で胡坐をかき、ジェーンを見上げる。
「目の前で殺されたよ。んで、俺の知らない間に知らないやつが死んだんだろうな。ジェーン。お前の見ている前で誰かが死んだんだろうな」
「だったらどうして、そんな顔でっ、そんなこと言えるの!?」
互いの息がかかる距離で睨み合う。一は、ジェーンの顔をじっと観察した。疲労の色が濃く、彼女は精神的に疲れ切っていた。常なら甘い声に苛立ちや焦りが混ざっている。
「俺が生きて動ける内はお前を守るよ。たぶん今の俺は、最優先でお前を庇う。だけど他のやつまでは面倒見切れねえよ。勝手に助かって、勝手に死んでもらう。そいつは駄目か? 本当によくねえことか?」
「お兄ちゃんは、そんな人でなしじゃなかった!」
ならば目に見える人間を全て救えと言うのか。一はぐっと言葉を飲み込んだ。
「……八つ当たりも好きにしたらいい。でもな、それでも我慢出来なくなって嫌になったら、こっから出て、駒台から離れろ。安全なところまで見送ってやるから」
ジェーンは手を上げて一の頬を叩こうとした。しかし、彼女はすんでのところで堪える。ゆっくりと息を吸い、冷静であろうとしていた。
「何があったの?」
「何がって、何だよ」
「ミツモリが死んだから? だから、お兄ちゃんはそんなことを言うの?」
一は、それは違うと言いたかった。違うとは言い切れないと悟っていた。
「あの人は死んだ。死んだやつはもう生き返らねえ。死んじまったやつは、もう守りたくても守れねえんだ」
「話、反らさないで」
「反らしてねえよ。俺は俺だ。何も変わってねえって」
「イトハラとタチバナはまだ戻ってこない。もしも二人が死んでて死体が見つかっても、お兄ちゃんは二人の前で同じコトが言える?」
心が痛んだ。一は二人が無事だと断言出来ず、信じ切れないのである。
「お前は俺にどうして欲しいんだよ? 全部助けろって言うのか? 俺がどうなったって俺以外の全部を守れって言うのかよ?」
「そこまで言ってナイ! ただ、今のお兄ちゃんは」
「だったら俺は誰に守ってもらえばいいんだよ」
弱音だった。思わず口にしてしまった言葉に、一の表情が凍り付く。ジェーンは彼の顔を認め、目を見開いた。二人は無言で見つめ合っていたが、ナナが割って入った。
「お二人とも、やはり疲労が蓄積されているようですね。マスターもジェーンさんも休息を続けてください。ナナは、外の様子を確認してきます」
言って、ナナは仮眠室を出ていく。気を遣われたのだと気づき、一の身体から力が抜けた。恐らく、この場で最も人間らしいふるまいを見せたのは彼女であった。
「……ヒルデたちが助けてくれたの」
一が目覚めてから五本目の煙草に火をつけた時、黙り込んでいたジェーンが口を開いた。
「ヒルデさんと、シルト、か?」
「うん。アタシたち、支部から店へ車で向かってたの。ソレに囲まれた時、二人が手伝ってくれた」
「二人はどこに? 店にいるのか?」
ジェーンは緩々とした動作で首を振る。
「行っちゃった。イッショに行こうって言ったんだけど、やるコトがあるって」
「やることか。見当もつかないな」
「アタシも。でも、ヒルデは何か知ってる。アタシたちの知らないような、何かを」
ヒルデとシルトは北欧の戦乙女だ。二人に関係しているような事柄なのかもしれない。一は紫煙をたっぷりと吸い込み、低く唸る。
「まあ、なるようになるか。……ジェーン、怪我とかしてないよな?」
「……何、それ。そんなの聞くんならもっと早い内に聞いてよね。オタメゴカシってやつにしか聞こえない」
「平気なんだな?」
一の対面にあるソファにどっかりと座り込んでいたジェーンは納得いかないというような表情を浮かべた。根負けしたのである。
「ヘーキ。お兄ちゃんこそ、平気なの?」
「ああ。平気だよ、もう」
目の前の男は嘘が下手だなと、ジェーンはつまらなさそうに唇を尖らせた。
一は仮眠室にジェーンを残してフロアに出た。店内は数時間前とは様子が違っていた。商品棚は端に追い遣られ、空いたスペースで医療部が負傷者を手当てしている。さながら野戦病院のような有様であった。その中で彼は見知った顔を認める。ドリンク棚に背を預けている春風麗だ。彼女は太腿を怪我しているようで包帯を巻いている。一は迷ったが、口を利けそうなのは春風くらいであった。状況を確認する為、傍に寄って話しかける。
「ひでえ有り様だよな。ここが最後の砦だってのによ、居残ってるのは怪我人ばっかだ」
春風は一の顔をじっと見つめて、窓へと視線を逃がした。
「……私たちは役に立たないな、本当に」
「慰めるつもりなんかねえぞ。俺はお前のことが嫌いだからな」
「知っているさ。支部を抜け出してここへ来たのはいいが、結局のところ逃げ出したに過ぎない。生き残っただけだ。皆、心が折れてしまった」
春風は目を瞑り、思い出す。支部にいた者たちは街を見た。街で死ぬ者を、殺すモノを見た。燃え上る建物を見た。怪物に生きながら食われる子供を見た。助けられない命があった。自分たちの命惜しさに見捨てたものもあった。この先、忘れられることはないだろう。
「もう戦えない。出来れば、私はここから逃げ出したい」
「逃げりゃあいい。文句なんか誰にだって言えねえよ」
「お前は……っ」
一は瞠目した。春風は泣いていた。目の端に涙を浮かべ、何かに縋りつこうとしている。
「……一一。お前は、逃げないのか。逃げたいとは思わないのか? せっかく、駒台から離れられたんだぞ?」
「出雲はいいところだったよ。でも、俺の場所じゃあないって思った」
「この街の何がお前を縛りつける? ここは、お前の生まれた場所じゃない。必死になることなんか、ないじゃないか」
そうかもしれないと、一は他人事のように思った。
「分からねえ。でも、やるって決めて戻ってきたんだ」
「何を……お前、何だ? なんだ、その、顔……」
一は嗤っていた。彼は自らの愚かさを笑ったのだ。しかし、春風には理解が出来なかった。
「今、街はどうなってる? あいつらは、『円卓』はどこに行った?」
「知らない。私は知らない。そんなこと、知る必要があるのかっ」
「逃げたきゃ逃げろ。死ぬ必要なんかないからな」
立ち上がった一は、堀や炉辺、見知った者たちが寝かされていることに気づく。彼らですらこの夜を生き抜くことは困難だとも思った。
「一一。もう会えないかもしれない。話せないかもしれない。だから言っておく。今のお前はもう、弟とは似ても似つかない」
「ありがとうよ。最高の褒め言葉だ」
一は店外に出てコートの前を閉じた。沈みゆく陽は幾分か眩しく感じられる。冷たい風が吹き抜けるも、目覚ましにはちょうどよかった。
店の前には何台かの車が停まっている。見覚えのある車種もあった。道路を挟んだ先にある駐車場は騒がしい。誰かが声を張り上げているのだ。
「目が覚めたようですね」
ワンボックスカーからアイネが降りてくる。彼女は一の無事を喜び、笑みを浮かべようとした。しかし、これから先に話す事柄を思い、それを消した。
「状況が好転したってことはなさそうだな」
「はい。……『神社』の容体は思わしくありません」
「栞さんたち、店ん中で医療部の人に看てもらってたな」
医療部は支部からある程度の器具や薬を持ち込んでいたが、ここは病院ではない。応急処置程度しか出来なかった。また、山田の隣にコヨーテがいたことを一は思い出す。医療部に獣を看られる者がいるかどうかも分からない。
「けど、簡単には街から出られないってか」
「恐らく、『円卓』は私たちを見逃さないでしょう。少人数で抜け出すならともかく、ソレの数は一向に減りません。戦うとなれば、負傷者を庇いながら……かと言って、全員で移動しても的になるだけでしょう」
「他の皆はどうなった? 橋で、あの後、どうなった?」
アイネは俯き、拳を握った。一は彼女の震える手を見遣り、おおよそのことを察する。
「逃げました。私たちはあの橋から撤退しました。『神社』たちはアーサー王に斬られ、今も眠っています。……逃がしてくださったのです。アテナ神と、北さんが」
「ああ。……ああ、そうか。そうだったのか」
――――俺が最後に見たあれは、夢じゃなかったのか。
アテナが死んだ。北が死んだ。
自分に力を与えてくれた者が、力の使い方を教えてくれた者が先に逝った。もう頼れる者がいないのだと悟った。一は胸に手を当てる。メドゥーサは確かに、ここにいる。そう感じられる。しかし、アイギスは消えるのだ。アテナが死んだことにより、彼女の力もこの世から失われる。蛇姫の首は盾に埋まったままであり、アイギスの消滅と共に彼女も消えてしまうのだろう。一からは戦う術が失われる。
『許してあげる』
「……そんなん、いらねえんだよ」
「ウーノ? 何か?」
「あ、いや、何でもない。楯列たちはどこだ?」
「ご学友なら」と、アイネは赤いスポーツカーを指した。一は目を凝らし、運転席で姉妹のように寄り添って眠る早田と槐を認める。後部座席には『教会』の二人がいるのだろう。
「……楯列は?」
「医療部の車の中です。先まで私とチアキが付き添っていました。傷こそ負われているようですが致命傷は免れています。今は疲れ果てて眠っているようですね。どうか、安心してください」
アイネは小さく微笑んだ。しかし、一は安心出来なかった。ただ、彼女が優しい嘘を吐いていることだけは分かっている。だから彼も偽りの笑みを浮かべた。
「これからどうなると思う? いや、どうやりゃあいいと思う?」
「まずはここを守らねばなりません。負傷した人たちを見捨てて逃げるには早いですからね。体勢を整えるのが何よりも優先されるでしょう。そして、『王』を仕留める。生き残るには他に道はないかと存じます」
「だよな。分かった、ありがとう。俺は他のやつにも話を聞いてくる。アイネ、悪いけど楯列や栞さんたちのこと、もう少し看てやっといてくれ」
頷いたアイネに背を向け、一は歩き出した。
死んだ者がいる。殺した者がいる。歩みを止めたいという気持ちはあった。ここで坐している連中と一緒にいれば、最期の時は嫌でも訪れる。だが、生き残った者はいて、自分はまだ生きている。そして何より、殺したい人がいた。
「よかった。そうしている方があんたらしい」
二ノ美屋は店の前に置いたパイプ椅子に腰掛けていた。彼女は紫煙を燻らせ、動き回る医療部や情報部を眺めている。
「起きたのか。身体の具合はどうだ?」
「まだ万全に近いですよ。目の前の女どうにかぶっ殺せるくらいには」
「やるか、今?」
「諦めるには早いと思います。まだ、やることは残ってますから」
二ノ美屋は一を見上げ、愉しそうに笑んだ。彼もまた同種の笑みで応える。殺したいと、そう思えるやつが一人増えたのだ。まだ死ぬわけにはいかなかった。
「店長。今、街はどうなっていますか」
「どうなっているか、か。分かり切ったことを聞くんだな。『円卓』が現れ、ソレが動く者を片端から食い尽くしている。支部は機能せず、各部署の生き残りには力がない。武器も僅かで負傷者の処置に皆が追われている。アレスの時とは違い、出雲店のような隠し玉はない。どこぞの女神が殺され、半神の英雄も後を追ったと聞く。体勢を立て直すことは不可能に近い。向かってくるソレをどうにかして倒すのが精いっぱいで、こちらから『王』のもとまで攻め入ることも考えられん。ただ、今は生き残っているだけだ。夜明けまで持つかどうかも分からん。いや、十中八九無理だろう。他人を見殺しにしてここから離れるしかないだろう。まともな人間ならとっくにそうしている」
概ねその通りだと、一も二ノ美屋と同じ風に考えていた。
「まともなら、な。だが、多くの者はこの場に残っている。逃げ出すことすら億劫になっているのだろうが、彼らをこの地に縛りつけているものがある。そのお陰で、一か八かの手は打てる」
「……縛りつけているものですか。人としての意地ですかね」
「それもあるだろう。あるいは血だよ。自分の、友人の、家族の、恋人の。化け物との殺し合いで流れて染みついた血が生きている者を離さない。私たちが土の上に立って生き続ける限り、逃れられることはない」
一は足元に目を落とす。土に還った者がいる。ならば、自分たちが立っているのは――――。
「なあ、一。『王』を殺せば『円卓』が止まるか? 数えるのも馬鹿らしいくらいのソレが消えてくれると思うか? 私には分からない。だが、お前は戦おうとしている。……一か八かとは言ったがな、実際のところ、私はこう言うしかない。死ぬまで戦えと。そして打てる手というのも、まあ、そんなものだ。戦わねば死ぬ。殺さなきゃあ死ぬ。だったら、なあ?」
「別に、俺はもう何も期待しませんよ。ただ、希望はあります」
「この状況で?」
人間は死ぬ。怪物は死ぬ。神は死ぬ。英雄も死ぬ。皆、死ぬ。平等だ。公平だ。だからこそ希望がある。皆死んでしまうなら、目に見えるもの何もかもを殺してやれるはずなのだ。
「情報部が動いているみたいですね。何か分かったら教えてください」
「ああ、その間は休んでおくといい」
「いや、色々とやっときます。休むんならその後で」
陽が落ちる。二度と見られないかもしれないと思い、一はそれをじっと見つめていた。
その時を待っていたのだろう。一人になった一を風が連れ去った。彼を北駒台店の屋根に当たる場所まで運ぶと、風の精霊は満足げに頷く。
「よし、生きてるな」
「お前もな。シルフ、具合は? まだ戦えそうか?」
「……は、何さ。嫌な目をしてんな、オマエ」
一は自分の瞼を指で押し、苦笑した。
「オマエはシルフ様のことを心配してるんじゃない。オマエは、自分が戦えるかどうかを心配してんだ」
言い訳するつもりはなかった。事実、一はソレとの戦闘時、シルフに多くを任せ、頼っている。彼女がいなければ切り抜けられない窮地は多々あった。
「人間だからな、俺は。お前に頼るしかねえんだ」
「ニンゲンだから、もういいじゃんかよ。充分やったなあって、どうして思わないのさ。これ以上やったって無理だ。風向きは変わらない。この街に残るやつら、みんな死んじゃうぞ」
無意味だと、シルフは目で訴える。
「オマエ一人なら逃がしてやれる。どこへだって行ってやるし、どこまでだって飛んでやる。けど、戦うのは、やだ。諦めろよ。オマエらはさ、死ぬ為に戦ってる。シルフ様にはそう見えるんだ」
「……手伝ってくれないってことか?」
「ああ、そうだよ。風ってのは、本当はもっと気まぐれなのさ。本当なら、ここまでオマエ一人に肩入れしない。……ここまで。この街にはもういい風は吹かないからな」
シルフはそう言って中空に浮かぶ。一の髪を風が揺らした。
「お前がそう言うなら、間違いねえんだろうな。ありがとよ。今まで世話になったな」
「バカ。意地っ張り!」
飛び去っていくシルフの背が小さくなる。彼女の姿が雲の中に消えたところで、一は、アイギスの力が弱まっていくのを感じていた。
男は王と呼ばれた。彼自身も己の役割を理解していた。血を継ぎ国を継ぎ、外敵から守った。戦いの先で男は部下の裏切りによって身を滅ぼした。後悔はあったが、長い時が思いを擦り減らした。だが、理想郷での暮らしの中で、男は一つの疑念を抱いた。果たして、自分は、アーサー・ペンドラゴンという男は何者なのだろうかと。生まれ、生き、死ぬまで不思議には思わなかった。王になり戦うことになることが当然であった。役割から解放された時、アーサーは自らの何もかもが分からなくなったのである。
――――だから知りたい。
自分を。
自分の行ったことを。
自分の守ってきた、人間という種を。
アーサーは王位から退いたが、現世にて肉の器を得た時には彼を祭り上げる『円卓』があった。利用されていることは承知の上であった。王は利用されるものだと知っていたからだ。構わなかった。利用してやろうとも思った。アーサーは生まれて初めて、自分の欲望を解き放った。他者を巻き添えにしてでも、その命を喰らい、蹂躙してでも叶えようと決めた。
「……モリガン」
ソレが征く。王の後ろをひた歩く。知性のない怪物であろうと、頭を垂れるべきあるじが本能的に分かっている。
「はあい、呼んだかしらー?」
怪物たちが道を開ける。その中を一人の女が進み出た。緑色の髪をした、妖艶な雰囲気を漂わせた女である。彼女もまた『円卓』の席に座るものであった。
「私にはやりたいことがある。君は君の恣にするといい。ひいては、それが私の役に立つ」
「あなたは? あなたも、自分の思うまま、好きに、勝手に、欲するままに?」
女はコートの前を肌蹴て笑みを見せる。
「出来れば、そうありたいものだ。しかし実のところ、まだ分からない。だから確かめる。その必要性を感じる」
「……願わくは王様、あなたに良い人生が訪れるよう」
「ありがとう、モリガン。さ、行きなさい。彼女たちに先を越されてしまう。あそこには君の想い人がいるのだろう?」
頷き、モリガンは空を仰いだ。
「いい天気ね。こんな夜は橋がよく見えそう」
「ああ。そして皆に黄昏が。神々だけではない。誰も彼にも、平等に」
アーサーは夢想した。橋が架かる頃、この街から始まるのだ。かつて北欧の主神すらも恐れた、ラグナロクと呼ばれる黄昏時が。