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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
タルタロス
291/328

Strings Of Life

 雷神が威嚇の声を上げながら、穴蔵から這い出てくる。その後ろに黄泉の鬼どもが、最後尾にはイザナミが。

 黄泉比良坂の住人が地上の光を浴びている。糸原にはそれが許せなかった。彼女は先頭にいたモノを刻み、飛び掛かってきた黄泉醜女を蹴り飛ばし、元の世界へ還す。

「ここはっ、あんたたちの世界じゃない! あんたらの居場所なんか、私がやるもんか!」

 八柱の雷神も、今は半分以下にその数を減らしていた。だが、黄泉醜女や黄泉軍の数は変わらない。糸原がどれだけ切ろうが、刻もうが、イザナミの足元から新たに現れる。

 エレンは、その戦いを離れたところから見ていた。タルタロスから離れ、領地を手放した今の彼女には先までの力がない。ここはもう地上なのだ。


 ――――こんなことなら、もっと早くに。


 後悔は決して先に立たない。タルタロスに留まり、イザナミを殺せておけばどんなによかったか。どれだけ考えても、今はどうしようもなかった。ただ、エレンには残している手が一つだけあった。

 糸原は圧されている。グレイプニルでも貪り切れない物量差があった。イザナミだけは決して地上に出てこない。タルタロスから外に出れば力の低下は免れない。だからこそ僕を増やし、駒を増やす。そのことを彼女も知っているから出てこなかった。イザナミが自身の地にこもり続ける以上、黄泉の鬼は無限に湧き続ける。クルヌギアを所有していたエレンがそうであったように、黄泉比良坂という領土を持つイザナミの力も相当なものであった。

 かつて黄泉路を閉ざした道反之大神も今はない。エレンは周囲の景色を見回して、儚げな笑みを浮かべた。

「あなたは、どうするのかしら」

「……わ、たしは……」

 フェンリルはエレンを見上げ、糸原の背を見つめる。彼の心もまた決まっていたらしい。エレンは微笑み、黄泉比良坂の入口へと向かった。



「糸を戻して」

 傍にエレンが立ったが、糸原には彼女を気にしている余裕はなかった。

「……戻しなさいと言ったのよ」

 腕を捕まれ、糸原はエレンをねめつける。一瞬間、攻撃の手が止まった。黄泉の鬼が地上に溢れる。彼女はグレイプニルを使おうとして、瞬きを繰り返した。

「かりは、かえす」

「なっ、言ってんの!?」

 フェンリルが駆けている。彼は右腕を狼の頭に変化させながら、近寄ってくるソレどもを左腕で薙ぎ払った。一撃を受け、黄泉軍の群れが壁面に叩き付けられてひしゃげる。何匹かは同胞を巻き込みながら黄泉比良坂を転がり落ち、二度と地上に来られなかった。

「あっ、ああああああ! ああああああああああああああっ!」

 黄泉醜女に群がられながらも、フェンリルは黄泉比良坂の入り口前に立つ。彼とイザナミの視線が交錯し、雷神たちが稲光をちらつかせた。しかしフェンリルは怯まない。大神の頭はタルタロスにいた頃よりも大きくなっていた。入り口全てを覆い隠すほどに大口を開けると、攻撃を仕掛けようとしていた雷神どもを容易く呑み込んでしまう。イザナミは間一髪で難を逃れ、後方へと退いた。この瞬間、確かに黄泉路は閉じたのである。ただし、次に開くのにさして時間はかからないだろう。

「何してんのよバカ! 早くそこを退きなさい!」

「こっ、こないで! くるなぁ!」

 フェンリルはぶんぶんと首を振った。

「……まさか、あんた」

「さあ、行って。シノ、あなたにはやらなくてはいけないことがあるはずよ。私たちの犠牲を無駄にしないで、なんて、漫画だったらそんなことを言っていたわね」

「私、たち……?」

 そうよ、と、エレンは小さく頷く。

「彼だけでは完全には抑えられない。根元から絶つ必要があるの。つまり、黄泉比良坂を壊すのよ」

「そんなことが出来るの?」

「ええ。今やタルタロスという歪な世界を構成しているのはイザナミと私だけ。既にタルタロスは壊れ始めているはずよ。あとは、少し力を加えてあげるだけでいい」

「だったらお願い、早くして。でないと皆死んじゃう……!」

 頷き、エレンは掌を広げ、地面に両手をついた。

「具体的に何が起こるの? 私は何をすればいい?」

「黙って見てて」



 地上の光は闇に慣れ切った体には眩しかった。後悔がある。不安もある。だが、希望もあった。期待し、夢想し、そして、諦観した。

 エレンは自らの世界を崩壊させることを選び、決めたのである。彼女は自らの領地クルヌギアごと、イザナミの黄泉比良坂を失くすことにした。力を失うだろう。故郷を失うだろう。

「……あの子の世界だものね、ここは」

 自らの命さえも失うのだろう。それでもエレンの意志は固かった。

 フェンリルが己の身で黄泉路を塞いでいる。その間、エレンはクルヌギアを手放そうとしていた。タルタロスの半分以上を形成している世界が終わるのだ。黄泉比良坂も崩壊に巻き込まれる。彼女はイザナミを本当の黄泉に落とすつもりであった。

 黄泉路の向こうからイザナミの潰れた声が聞こえてくる。彼女もまたエレンの意図に気が付いていた。そうはさせまいと、手駒の鬼たちと共にフェンリルの身体に食らいつく。彼は叫びながら必死に耐えていた。糸原だけが何も知らなかった。

「う、うううっ……!」

 少しずつ、フェンリルが押されていく。地面に跡をつけながら後方へと追いやられていく。隙間から黄泉醜女が飛び出し、彼の肩口に爪を立てた。フェンリルを助けようとして糸原が動くが、エレンが彼女を制止する。

「どうしてっ」

「あなたには分からない。分からないでしょうね。陽の当たる場所で育って、まっすぐな性根を持ったあなたには」

 糸原はエレンを強く見据えるが、エレンもまた、彼女をきつく睨み返す。

 希望を抱くことも夢を見ることも、エレンという女には慣れていないことであった。彼女は辛かった。穴蔵で生き続けたエレンは温い絶望にすら脆い。ならばいっそと、そう考えた。

「眩しいのよ、私にとってはあなたも!」

 吼え声が聞こえる。フェンリルが声を荒らげながら体を押し込んだ。彼に食いついていた鬼どもが黄泉路に戻る。エレンはその時、タルタロスの崩壊を感じた。彼女の手から光が漏れる。魔力を伝い、地獄の亡者が剣を執って立ち上がる。彼らには肉がない。魂もない。あるのは骨と錆びた得物だけだ。しかし、冥界の女王エレシュキガルが魂を亡くした者に力と理由を与える。

「その糸はここで使うべきではないわ。あなたの大切な人の為に敵を切り刻みなさい」

 エレンが歩き始めた。その前を死者の兵が往く。乾いた音を立てながら、敵へと向かって行軍を始める。彼女は、糸原が何か呟いたことに気づいていたが、振り返らなかった。



 黄泉路へ戻ったフェンリルは目を見開いた。纏わりついていた鬼を退かし、蛇を食い殺す。その先に見えたのは暗黒であった。先刻まであった壁がない。階段がない。ゆっくりとしたスピードで、天井やそこにいたモノを、闇が食い散らしている。

「つきおとす!」

 フェンリルは狼の頭に変化させた腕で、鬼を掴んで放った。遥か後方へと投げ飛ばされたソレは暗がりの中に溶けて消える。

 黄泉比良坂が、タルタロスが壊れていた。フェンリルは鼻を鳴らし、ヘルヘイムの臭いがないことを知る。仮初の故郷とはいえ、長い間いた場所を思い、少しだけ胸が痛んだ。

 黄泉醜女がフェンリルの脇をすり抜けようとする。彼はそれを阻もうとしたが、雷神の電撃が体を伝い、一瞬間動けなかった。だが、地上から髑髏の兵士たちが現れる。兵士たちは黄泉の鬼を切りつけて黄泉路へと向かった。エレンの呼び出した援軍である。

「押さえつけて! 私がイザナミを連れていく!」

 階段が一段ずつ消えていく。壁が、床が、天井が、闇に喰われていく。その様を見ながら、フェンリルは舌に残る飴玉の甘みを感じていた。よもや自分が人間の為に、人間が支配する世界の為に戦うのだとは、数時間前までは考えもしなかった。


 ――――それも面白いか。


 闇の中へ帰ろう。

 暗く冷たい世界へ還ろう。

 エレシュキガルと同じく、自分もイザナミも地獄の亡者どもも、ここにいるべきではなかったのだ。そう思い、フェンリルは一層力を込める。雷神に絡みつかれ、鬼に食いつかれ、前へと進む。エレンの手駒が彼を援けるかのように動いていた。




 前へと進むのではない。戻っている。自分たちはあるべき場所へ還っているだけだ。エレンもフェンリルも暗がりへと向かっている。彼らの行き先を阻むのは黄泉の鬼だ。イザナミの従僕は主を光指す方へと導くべく、クルヌギアの女王と稀代の怪物に立ち向かう。

 骨が砕け、ひしゃげる。鈍い音が闇の中へ吸い込まれた。イザナミは首を振りながら、潰れ、爛れた喉で叫び声を上げる。彼女の世界、黄泉比良坂が消えつつあった。もう戻らない。イザナミの支配していた場所はこの世にも、あの世にもない。

「う、ああああっ!」

 フェンリルが壁を叩きつける。彼が腕を退かすと、最後に残っていた雷神が潰れ、破片と共に落ちた。末期、ちろちろと覗かせた赤い舌と共に小さな稲光が漏れる。ただ、その光は夕焼けに呑まれて誰の目にも届いていなかった。

 エレンの呼び出した死者の兵が黄泉の鬼を道連れにして、次々と落ちていく。彼らに感情はない。からからに乾いた腕で敵をかき抱き、飛び込むだけだ。土へ還る彼らをエレンだけが見送っている。揺れる瞳が闇を捉える。彼女は表情を変え、イザナミを見遣った。

「あなたは何がしたかったの?」

 イザナミは答えず、落ち、消えていくモノたちを見ていた。彼女の足元から湧いていた鬼の数も減りつつある。イザナミの力は少しずつ削られていた。黄泉比良坂が終わっていくのと同じように、同じ速度で、ゆっくりと絶えようとしているのだ。ただ、大人しく消えるつもりはないらしい。イザナミは残った手駒と共にフェンリルに組み付いた。彼は口角をつり上げる。目論み通りであった。

 フェンリルは引かず、前に出た。鬼どもを連れたまま一歩ずつ階段を下りていく。

「が、が、ががぁ」

 潰れた声を発し、イザナミがフェンリルから離れようとした。彼が捨て身であることに気づいたのである。しかし遅かった。クルヌギアの死兵が逃れようとしたイザナミを押さえつけている。彼女は右腕を伸ばした。その腕をフェンリルが掴む。イザナミは残った腕で空を握った。

「……さ、一緒にいきましょう?」

 エレンがイザナミの手を握り、微笑んだ。彼女は段を、とんと飛び降りた。



 自分が恵まれているなどと考えたことはなかった。

 陽の当たる場所とは、真っ直ぐな性根とは、何だ。糸原は己自身に問いかける。

「んなもん……」

 しの。音を与えてくれたのは糸原の親だった。しかし顔は覚えていない。彼女は家族というものを知らないに等しい。知らぬ間に捨てられ、知らぬ間に拾われた。糸原を拾った男は長雨と名乗り、しのという音を聞き、四乃という名を彼女に与えた。

 長雨との生活は糸原四乃を歪ませなかった。最初から歪んでいたからだと、彼女はそう思っていた。家がなく、家族がいない。夢も理想も日を経るごとに擦り減って、路地裏のどこかに置いてきた。影に潜み、隠れるようにして生きた。何年も、何年も。……エレンは言った。あなたは眩しいと。糸原にはそうは思えない。ただ、エレンは歪んでいるのだと思う。歪み切っている自分を真っ直ぐだと錯覚するくらいには。だから彼女に知ってもらいたかった。本当に真っ直ぐなものを。真っ直ぐ過ぎて、馬鹿に見えるくらいの男を。

 足を踏み出す。地を蹴り出す。指が動く。糸が閃く。息を一つ。瞬きを一つ。黄泉の鬼がまた一匹、切られ刻まれ地に伏し、土に還る。

 黄泉軍が跳躍し、糸原が迎え撃つ。低く跳んだソレの首に糸が絡みついた。彼女は人差し指で黄泉路を示す。その瞬間、ぶちんという音と共にソレの頭が上方へと舞った。邪魔をするモノは全て退かした。

 糸原は片目を閉じる。先にはフェンリルがいる。彼は真っ暗な中で戦っていた。黄泉軍どもに傷つけられても決して倒れず、退かなかった。何故、フェンリルがそうまでして戦うのか糸原には分からない。

「……どこ見てるってえの、こいつ」

 フェンリルに食らいついていたイザナミの洞が糸原を捉える。

「そんなに、ここが欲しいっての……?」

「が、あ」

「そんなに、こんな世界が欲しいっての!?」

 糸原は見た。イザナミの手を握ったエレンが降りるのを。

 壁も天井も床もない。もはや先まであった場所には何もない。ただ、巨大な穴があるだけだ。エレンはその中へと落ちていく。否、糸原は知らない。エレシュキガルは落ちるのではなく、帰るのだ。



 イザナミは見た。失ったはずの眼球で幻視する。窪んだ虚でしっかりと。

 最初に閃いたのは銀色の煌めきだ。闇の中をひた走り、闇に棲むモノを潜り抜けたのはグレイプニルである。

 イザナミは口を開いた。失ったはずの声が溢れる。

「何をする」のだと。

「人間が私に逆らうのか」と。

 対峙する糸原は口の端をつり上げた。髪を振り乱し、姿勢を低くし、腕を動かす。フェンリルを捕えていた鬼どもが切り刻まれてばらばらになる。彼は自由になったと同時、振り向いて糸原をねめつける。何故来たのかと問い掛ける。彼女は答えず、エレンを見遣った。

「そいつと心中するって言うなら、もう止めない」

 グレイプニルによって切断されたイザナミの両腕が、穴の奥へと落下していく。ついで、イザナミ自身が。彼女と共に降りようとしていたエレンはすんでのところで踏み止まった。落ちかけ、自由になった体を捩り、腕を伸ばす。彼女の右手をフェンリルが掴んだ。

 主を失った黄泉路が閉じつつある。夕暮れ時、差し込んだ光が徐々に薄まる。糸原の後ろにある世界だけがエレンの目に映り込んだ。フェンリルに掴まれた腕が熱を帯び、宙ぶらりんになった両足が心細く感じられて、彼女は目を瞑る。


 ――――何故かしらね。


 何故、伸ばしたのか。

 何故、助かろうとしたのか。

 何故、生きようとしたのか。

 死んでもいい。そう思ったのは嘘ではない。エレンは自分の行いを信じられず、ただ、顔を上げた。その先にいる糸原を認め、薄く微笑んだ。

「みっともないって、笑うかしら」

「それでいいのよ。死んで終わるよりもね」

 エレンは闇の中に目を向ける。イザナミの姿はどこにもなかった。彼女は自分の世界へ、本当にあるべき場所へと還ったのだろう。

「もう、疲れた。早く上げてちょうだい。……フェンリル?」

 フェンリルは鼻を鳴らし、顔をしかめる。エレンが訝しげに思っていると、右足首を何かに捕まれて、彼女は悲鳴を上げた。

「これは……っ!?」

 手であった。

 枯れ木を更に削ぎ落としたような、骨さえ剥き出しになった細腕が、しかし、がっちりとエレンの足首を捉えて離さない。イザナミのものであった。糸原に切断され、失ったはずの腕を再構築している。

 イザナミはまだ落ち切っていなかった。エレンたちは目を凝らす。永劫へと続いているかと思われた暗がりの底で蠢くものがある。それは黄泉醜女であり、黄泉軍だ。ソレらは自らの身体を踏み台代わりにし、塔となっている。幾百、幾千、幾万の死が折り重なっている。イザナミは不安定に揺れる足場を駆け上り、再び姿を見せたのであった。

「しつこい!」

「来ては駄目よシノ! もう、ここが持たない!」

 ぐるると、フェンリルが喉を震わせる。イザナミはもはや『死にかけ』だ。だが、手負いの者ほど恐ろしい。彼女に残された膂力は、あろうことかフェンリルのそれと拮抗している。

 糸原は足を踏み出すのを躊躇った。もう猶予はない。足場は殆ど残されていなかった。留まれば黄泉路が閉じる。閉じれば二度と地上には戻られない。見捨てろと、頭の中で誰かが囁く。心中するつもりなのか。誰も見ていない。咎められない。ならば裏切れ。縁を切れ。甘えた意図は切ってしまえ。

「シノっ、早く行きなさい!」

「うるさい! だったら!」

 エレンの瞳が揺れていた。

「だったら、そんな目でこっち見てんじゃないわよ!」

 覚悟を決めた。

 糸原はぎりぎりのところまで踏み込み、眼下のイザナミに狙いを定める。少しでも手元が狂えばエレンやフェンリルを傷つけてしまうだろう。焦燥に駆られながらも、腹の据わった彼女には関係がなかった。

『あああああああがあああああっ、人よ! 人の子よ!』

 イザナミの声が木霊する。壁も天井も床も判然としない空間に、彼女の声が幾度となく反響して聞こえてくる。

『なぜえええ、どうして!? 私にぃ! わたしにいいいいいいっ』

 神が哭く。

『私は、この国の! この国のぉおおお! 神だというにっ』

 グレイプニルがイザナミの右腕を切り落とす。彼女は焦った様子で、残った腕でエレンの足首を掴んだ。片腕だけだが、先よりも力がこもっている気がしてフェンリルは表情を歪める。

『誰のお陰で、誰の上でお前らはあ! この国を作ったのは……人は! 人はああああぁあ』

「抜かしてんじゃないわよ! 今更神様ですって偉ぶんな!」

『殺すっ』

 耳元で囁かれたような気がして、糸原の手元が狂う。空ぶったグレイプニルが暗黒に閃いた。

『殺す! 殺してやる。お前らっ、お前の国の人間を、オォォ! 一日千人殺してやる! 必ず! 必ず殺す! 千の命を連れていく! 私のところへ! 私が! 私が殺す!』

 イザナミの声が轟く。糸原はぐっと息を呑む。気圧されたのだ。しかし、彼女の手元はもう狂わない。寸分違わず、標的へと糸が向かう。

「……やってみなさいよ」

 糸が、

「やってみろ! 人間人間って馬鹿にして! 私らはね、本当の人間は作って、生むくらいしか能がないのよ! だからあんたが殺しても、明日になりゃ人間ってのは生まれてくんのよ!」

 イザナミの腕を切り落とす。

「そこでずっと見てればいいのよ! 明日は来るし、人は生まれる! あんたも女ならそんくらい分かってるでしょうが!」

 エレンの足が自由になった。フェンリルはすかさず彼女を投げ、地上へと戻す。

 両の腕を失ったイザナミは落下する。自らの僕、黄泉醜女と黄泉軍を巻き込みながら、怨嗟の声すら吐けぬまま、やがて、常闇の中へと姿を溶かした。

 しばらくして、エレンが安堵の息を吐き出す。

「……そう言えば、シノ、あなたも女だったわね」

「子供は欲しくないけどね。それに、私がいいって思ってるやつはヘタレだから」

 グレイプニルを戻すと、糸原は完全に閉じつつある黄泉路へと視線を移した。そこに、フェンリルは留まり続けていた。

「何してんのよ。早くこっち来なさい」

 フェンリルは答えず、糸原と、イザナミが消えていった方を交互に見遣り、ぼうとした様子で立ち尽くす。

「……フェンリル?」

「わ。わたしは」

 手を伸ばす。小さなそれは何も掴めず……否、そのつもりもないのだろう。フェンリルは諦めたように頭を振った。

「そっちへ、い、いかない。いけない」



 時間がない。この世界と向こうが繋がっていられるのはもって数分だろう。黄泉路に残るフェンリルを見遣り、エレンは目を瞑った。

「何故、残る必要があるのかしら」

 問いかけるも、フェンリルは答えを返さない。

「さっきの飴玉一つで満足したんじゃないでしょうね。馬鹿言ってもらっちゃ困るっつーの。あのね、こっちにはもっと美味しいものだってあるんだから」

「だから」と、フェンリルは糸原に向き直る。

「だから、のこる」

 フェンリルは思っていた。先刻、飴玉を舌の上で転がした時から思っていた。

 この世界は、こんなにも甘いのか、と。

 甘く、美味い。糸原の言ったとおり、この世界には、人の世には様々なものがあるのだろう。想像するだけで気持ちが良かった。心が騒いだ。だが、フェンリルは同時に恐れもした。自身が何もかもを壊してしまうことが怖かった。人はモノを生み、作る。しかし脆弱だ。羽虫を摘まむように接する必要がある。しかし、彼はそうすることが出来ないと知っていた。いけないことだとも分かった。何せ、勿体ない。

「わたしはせかいをこわせる。こわす」

 虚言ではない。事実だ。フェンリルは終末を呼び込む獣である。そして彼は、この世界を、この世界に住む人間という種族を殺したくなかった。何もかも無茶苦茶にするには惜しいと思えたのだ。

「せかいの敵は、そっちに、い、いあ、いられない」

「敵? いいから……」

 言いかけた糸原が息を呑む。黒色が広がったのだ。フェンリルは今、闇の中に立っている。彼は小さく微笑んだ。彼女らの見た初めての笑みであった。

「それじゃあ」

 フェンリルは躊躇わずに身を投げ出す。エレンは動けなかったが、糸原はグレイプニルで彼の腕を絡め取った。ぐんと重さがかかり、彼女は顔を歪める。首の皮一枚でフェンリルは繋がれた。

「……はなして」

「離すかっ」

 右腕だけでつり下げられたフェンリルは力を抜き、真下を見た。底なしの闇だった。怖くはなかったが、強い空虚感を覚える。落ちれば、満たされることのない飢餓感を抱えたまま、意識が擦り減り切ってなくなるまで生き続けるだろう。

「はな、して」

 フェンリルは敵意すらこめて糸原を見上げる。彼女は、彼を少しずつ引き上げようとしていた。糸原は苦心していた。グレイプニルは命綱の代わりに使えるような気軽な道具ではない。力加減、指捌きを少しでも誤れば、対象を即座に刻むことになる。また、フェンリル自身にも助かる意図がないと難しかった。彼が暴れればグレイプニルは操れない。右腕を無理やりに引き千切れば終わりだ。

 そして、フェンリルはグレイプニルを苦手に思っている。彼の呼吸は乱れていた。囚われていた時をいやが上にも思い出し、心拍数が上がっている。フェンリルにとって、糸原が垂らしているのは救いではないのだ。蜘蛛糸にも等しい絶望である。

「わざわざ死ぬことなんか、ないっ。大人しくしてりゃあいいのよ」

「わたしは……」

 フェンリルは目を瞑る。

 壊す。

 殺す。

 間違いなく、善悪の区別なく、躊躇いすらなく、何もかもを打ち滅ぼせる。獣特有の衝動には抗えない。そも、抗う必要すらないはずだ。

「みんな、み、ころす」

 だから死ぬ。だから生きていてはいけない。そう思い、フェンリルは口を開く。

「だから、死ぬって?」

「そう」

「分かった」

 糸原は力を抜いた。グレイプニルが僅かに解け、フェンリルの身体がするすると落ちていく。その時、彼は咄嗟に顔を上げた。彼女の目を見てしまう。

「そう。……よーく分かった」

 底意地の悪そうな笑みを浮かべると、糸原はフェンリルの身体を再び元あった位置まで引き戻した。彼は抵抗しなかった。

「マジで死にたいってんなら死なせてやるわよ」

 少しずつ、糸が手繰り寄せられる。フェンリルの身体が地上へと近づき始める。

「わ、たし……」

「あんたがどうしても我慢出来なくなって何かを殺すって言うなら、その時は私があんたを止めるわ」

 フェンリルは目を見開いた。そうだと独りごちた。この世で、自分を止められるものがいたとするならば、あるとするならば、それはただ一つ、グレイプニルに他ならない。

「それにさ、たぶん、あんたは出来ないと思う。本当の獣だったら我慢なんかしないだろうし。だから、あんたは仲間ってやつなのよ。今のところはね」

「……お前はきっと、こうかい、する」

「そいつが人間ってもんよ」



 地上に出たフェンリルは、右腕に絡んだままのグレイプニルを認め、目を細めた。エレンは、黄泉路が完全に閉じたのを見届けると、彼らからは離れた場所に立ち尽くしていた。

「ああ、忘れてた。私、あんたに借りがあるんだった」

 言って、糸原は腕をぶらぶらと動かす。

「食べる?」

「……いらない」

 糸原をじっと見つめた後、フェンリルは首を振る。肉付きが悪くてまずそうだった。彼は、すとん、と、その場に座り込む。彼女はつまらなさそうに唇を尖らせた。

「……こうかい、する」

「しないわよ」

 反論しようとしたが、フェンリルは諦めた。それに、と、彼は空を見る。暗く、淀んだ色だ。もう間もなく始まるはずだと思う。


 ――――知らない。誰も知らない。私がここにいるということは。


 間もなく、始まるのだ。きっと、皆死ぬのだろう。その時を思い、フェンリルは身を震わせた。

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