狂気沈殿
グレイプニルがヘルの右腕に絡みついたのは、彼女が現れてすぐのことであった。最初から最後までヘルは気づけなかった。糸原はずっと機を窺っていたのである。ヘルが図に乗り、いい気になって、気持ちよくなるところを待ち望んでいた。
右腕を引っ張られたヘルが体勢を崩し、糸原のもとへ引き寄せられる。
「よくもっ」
「は?」
糸原はヘルの頬を平手で打ち、握り拳で強かに腹を殴りつけた。彼女は肺から息を吐き出し、顔を上げる。グレイプニルがヘルの胴体に巻きついた。
「あ、ああああああああああっ、ああああああああ!」
「うるさい!」
手を出すなとフェンリルが叫ぶ。彼は亡者を踏みしだき、前脚で地面を砕く。
「来るなっ、妹なんでしょう!? 私がやるから、あんたは黙って見てろ!」
ヘルとフェンリル。糸原は彼らのことなど何一つとして知らなかった。だが、二人は兄妹なのだ。ならば自分が手を下そうと彼女は思う。『円卓』のメンバーを逃がすつもりはなく、情けをかけるつもりもないのだから。
「やって、くれたぁ……!」
グレイプニルがヘルの肉を締め上げる。ぎちりぎちりと音を立て、皮を裂き、骨すら食もうとしているのだ。彼女はその力に抗えない。逃れる為に力を回せば、エレンに押されてしまうからだ。ただ、このままでは真っ二つにされるのも確実である。
「どう、して……っ、人間なんかに!」
糸原は目を細めた。『円卓』のせいで自分たちがどんな目に遭ったのか思い出し、ふつふつと、どす黒い感情が湧き上がる。
「人間を舐めるからよ」
「神なのよ、私はっ」
「そんなもんに気後れするか!」
白い世界が徐々に小さくなっていく。グレイプニルが骨にまで届いている。抗えない恐怖が身を苛む。ヘルは自らの死を悟った。彼女は爪を噛み、勢い余って引き剥がす。もはや苦痛は感じなかった。
「……ふ」
雪が次々と砂に変わっていく。雲は乾いた風に吹き飛ばされ、凍てついた土が溶けていく。この世界にヘルの居場所はなかった。領地は奪われたのだ。取り戻す術はない。
「ふ、く、あ、は、は、は、は、は、はっ」
ヘルの右腕が引き千切られる。彼女は踊るように、くるくると回った。
地下に生まれたモノは、どこへ行けばいい。居場所を失った者はどこへ向かえばいい。何かを欲することは悪なのか。殺されてしかるべき存在なのか。ヘルには分からなかった。彼女は最後に残った力を振り絞り、恨み言を呟く。呪いと化した言葉は新たな戦いを招くことになるのだが、今の糸原たちにはそれを知る術がなかった。
上半身だけになったヘルを見下ろし、糸原はグレイプニルを手元に戻した。
「借りは返してもらったわよ。じゃあね、お休み」
「……き」
ヘルの目には何も映っていない。彼女はあらぬ方に顔を向け、口の端をつり上げる。
「きてき、きこえ、た、かし……ら……」
それだけ言って、ヘルは黙り込んだ。彼女が口を開くことはもうない。戦いの終わりを認めたエレンは重たい息を吐き、糸原を見遣る。
ヘルヘイムはエレンの国となった。だが、クルヌギアの女王にとっては些末なことであり、この世界への執着は薄れ始めている。
「最後、ヘルは何を言っていたのかしら」
「さあね。それより……」
フェンリルは狼の姿を止め、子供になってふて腐れたようにそっぽを向いていた。
「言いたいことがあんなら言っときなさいよ、ガキ」
「……う、ど、して、ころしたの? ヘルを」
「あんたが殺したかったっての?」
そうだとフェンリルは頷く。糸原は鼻を鳴らした。
「私がそれが気に入らなかった。だから代わりにやったのよ。悪い?」
「彼に善悪を尋ねても無駄だと思うけれど?」
フェンリルは答えず、その場に座り込む。糸原とエレンは顔を見合わせた。
気分を害したフェンリルは狼にはならず、人の姿をしたままであった。糸原とエレンは仕方なく徒歩でヘルヘイムからの脱出を試みる。
ヘルヘイムには出入口があった。グニパヘリルと呼ばれる洞窟である。切り立った岩に囲まれているグニパヘリルを抜ければ、イザナミの待つ黄泉比良坂へとたどり着く。そこを越えた先が地上だ。
二人と一匹は終始無言で歩き続けた。戦いの興奮は冷め、変わらない風景を眺め続ける。一時間以上も歩いたせいで糸原の気分は落ち切っている。檻から出された時には昼を回っていると聞いたが、地上ではもう陽が暮れているのかもしれない。皆は無事だろうか、必ず合流しなければならないと、彼女はそれだけを考えて、支えにして足を動かしていた。
「じき、終わるのね」
先から、一際大きな岩が見えている。隙間のような細い穴があった。洞窟の入り口を発見したらしく、エレンが息を吐く。
「一応、彼もついてきてはいるのね」
後方にはフェンリルがいた。彼はエレンの視線に気が付くと、ぷいと顔を逸らしてしまう。道中も同じようなことを繰り返していた。
「行く当てがないんでしょ。文句こそ言え、他にどうしていいか分かんないのよ。まあ、何もしないんなら構わないし、外にだって連れてってあげるけど」
「あら、飼い主としての責任というものかしら」
違うと、糸原は首を横に振る。どこか諦めたような所作でもあった。
「ちょっと分かった。あいつはあいつで考えがあんのね。だから飼うとか飼わないとか、そんな考え持ってた方がバカみたいなんだって。……ほら、なんつーの? 今私生きてるし、話せば分かってくれんじゃない?」
「楽天的ねえ。それよりも、あそこを抜ければ坂につくわ。覚悟はいい?」
「そっちこそ」
くすくすと笑みを零し、エレンはグニパヘリルの入口へと向かい、一切のためらいを見せずに中へと入った。そうして、一筋の光すら差し込まない穴蔵をすいすいと進んでいく。糸原は彼女についていくのに必死だった。
「イザナミって、どんなやつ?」
恐怖を紛わせる為に、糸原は口を開く。暗闇に目が慣れてきた彼女は、自分が、見た目だけなら年端もいかぬ少女の尻を追いかけていることに気づいた。
「根の国……黄泉の国の神よ。黄泉津大神という別名を持ち、そして、この国を産んだ女神でもあるわ」
「この国?」
「地上を。あなたたちが住み、生きる場所を」
エレンは国産みの話を聞かせてみせる。話し終えた彼女は糸原の反応を待ったが、当の本人はグレイプニルを使い、障害物を避けるのに必死であった。
「あら、驚かないのね」
「何がー? 日本を作ったってこと? ……まあ、そりゃあ、すごいなあとか、少しくらいありがとうって思ったりもしたけどさ。けど、そいつは土台用意しただけでしょ? 美味しい食べ物作ったり、アニメや漫画作ったり、お金刷ったり、でっかいタワー建てたりはしてないじゃん。今の世界を作ったのはイザナミじゃない。だから、ぶっ飛ばすことに対して罪悪感とか一切ないかな」
「そう。強い子ね」
そりゃどうもと、糸原はつまらなさそうに言った。
「グニパヘリルを抜ければ黄泉につく。タルタロスの中では格下の存在だけれど、イザナミは今まで表立った行動をしていないのよ。たぶん、力を蓄えてきていたはず。充分に注意して」
「分かってる」
狭く、暗い洞穴の中をどれだけ進んだだろうか。眩い光が差し込んだ。出口が近づいている。糸原は地上のことを思い、ここから出られることを強く望んだ。
真白な空間だった。
グニパヘリル以外には何もない。ただ、緩やかな傾斜がついている場所がある。上り坂のようになっていて、その先からは一際強い光が放たれていた。
ここは黄泉の国、黄泉比良坂。黄泉とは地下の泉という意味であり、死者の住まう世界だ。夢を指し、四方を指し、闇を指す世界である。ただ、正確にはここは黄泉ではない。あくまでここは路なのだ。根の堅洲国と葦原中国とを繋ぐ、橋のような世界である。
「この先が……」
糸原は出口を見上げ、認めた。彼女らの行き先は一つきりである。葦原中国、即ち、地上だ。だが、阻む者がいる。真白の世界の中、坂本で糸原たちを臨む者がいる。黄泉を支配し、黄泉路へと誘う神だ。
その名は、イザナミ。天地開闢の際、神代七代の最後に顕現した女神だ。彼女は国を生み、死を齎す。相反する神性を持ちながら、しかし、その性根こそが神である。
元は純白を押し込めた羽衣のようなものだったのだろうが、イザナミの着ているその服は、今や見る影もなく擦り切れていた。彼女の身体からは腐臭が漂っている。肉は削げ落ち、骨すら溶けかかっていた。腐り切って蛆が湧き、集られ、八雷神と呼ばれる蛇に囲まれている。長く艶やかだった黒髪も頭皮ごとずるりと剥けている。もはや彼女は何も生み出さないのだ。腐り、朽ち、堕ちていくばかりなのだろう。ただ生者を妬み、死者に化すのみだ。亡霊のように立ち、窪んだ洞で生者を見つめている。
「こいつが、イザナミ……?」
糸原は手指に意識を注いだ。グレイプニルが震えている。僅かな恐怖、焦燥が糸を無意識の内に動かしていた。腐っても神である。イザナミの重圧に捻じ曲げられそうな錯覚を覚え、彼女は息を呑んだ。
「これが、神様?」
「そうよ。これが神。私たちはそういうものなのよ」
イザナミは口を利かなかった。それはもう腐り落ち、なかったからだ。糸原は一瞬間だけ躊躇する。相手が何もしなければ、ここを素通り出来るからだ。わざわざ殺す必要はない。そう思ったのである。しかし、そうはならなかった。イザナミの周囲にいた八柱の雷神たちが戦いの姿勢を見せたのである。
八つの雷神は蛇の姿をしていた。イザナミと同じく肉は腐っていたが、力だけは充分にある。イザナミの頭には大雷神。胸には火雷神。腹に黒雷神。女陰には裂雷神。左手に若雷神。右手に土雷神。左足に鳴雷神。右足に伏雷神。それぞれが糸原たちをねめつけ、舌を伸ばしていた。
八雷神だけではない。黄泉に住まう鬼女、黄泉醜女たちも地面から現れてくる。恐ろしい形相に塗りたくられた相貌と髪を振り乱し、乱杭歯を剥き出しにして意味の為さない声を張り上げた。また、黄泉醜女だけでなく、黄泉の鬼たち黄泉軍も姿を見せる。純白に染まっていた空間が爛れた臭いと腐った肉の色によって塗り替えられていく。
糸原はエレンを横目で見遣った。
「そんな目で見なくても平気よ。ちゃんと手伝ってあげる。ここまで来たんだもの。私だって外を見たいわ」
「安心したわ。さすがにこの数、私だけで相手すんのはしんどいもん」
既に黄泉醜女、黄泉軍の数は百以上に上っている。今も尚、数は増え続けている。
「ヘルをやった時みたいに、ここもあんたのものに出来ないの?」
エレンは眉にかかっていた前髪をかき上げた。
「難しいわね。あの子の領地を取るのに、思ってたより力を使ってしまったのよ」
「もしかして、ここを奪う力は残っていないとか?」
「あるけど、時間が足りなさそうね。あの時、私はフェンリルの背にいたから亡者の相手をしなくても済んだし、ヘルは頭に血が上ってて御し易かった。人のものを盗るのって、すごく疲れるんだから」
今は状況が違うらしい。そのことを分かった糸原は舌打ちした。
「だったら……!」
糸原は坂道の上にある出口を認める。全てのソレと戦っていては時間も体力も足りなくなる。逃げの一手を打つしかないだろう。そう考え、前方にいるソレをグレイプニルで薙ぎ払った。絹糸の如き得物に腐肉が付くも、するりと落ちていってしまう。
「じゃあ、帰るわよ! エレ……ン、ちゃんと助けてよね! フェンリル、死ぬ以外は好きにしなさい!」
黄泉軍どもが走り寄る。エレンは右手を地面につけ、その場から飛び退いた。彼女の触れた箇所からは死人の兵が現れる。糸原はソレを見て苦い顔を浮かべた。エレンが呼び出した死兵は、アレスとの戦いの際、彼らが駒として使っていたモノと同じだったからだ。ただ、それも当然である。アレスに与していたヘルは、エレンから死者を借りていたのだから。
――――味方になりゃあ頼もしく!
エレンの呼び出した死人の兵と黄泉の鬼たちがぶつかり合う。骨がばらばらと砕け、辺りに飛び散った。
「って、使えないし!」
「失礼ね!」
イザナミは、坂を上ろうとする糸原たちを見上げた。黄泉醜女が後を追いかける。驚異的な脚力で跳躍し、糸原たちに横合いから襲い掛かった。
糸原は立ち止まらず、走りながらでソレどもを切り刻む。木端になった肉片は雨のように滴り落ち、地面を強く叩いた。だが、ろくに定まらない狙いでは迫る黄泉醜女全てを殺し切れない。
「シノっ、あなたが戦ってどうするの!」
追いついてきた黄泉軍が糸原を取り囲もうとしていた。エレンは中空に手を這わせ、死兵を呼び出す。フェンリルの脇をすり抜けたエレンの死人は、黄泉の鬼たちに剣を振るった。錆びた得物は打ち砕かれ、骨だけの身体は叩き壊された。それでも、彼らは戦いを止めない。逃げることも、背を向けることもしない。糸原は僅かな時間と隙間を見計らい、囲いの中から抜け出した。
「走りなさい、あそこを抜けても階段があるわ!」
「階段!?」
糸原は思い出す。タルタロスに入る際、地上の人間は長い階段を下るのだ。その階段もまた、今いる場所と同じく黄泉比良坂であった。彼女は坂の上からイザナミを見下ろす。黄泉醜女らと同じように、イザナミも腐った手足を動かして自分たちを追ってきていた。
フェンリルは出口を越え、既に階段を上り始めている。エレンは出入口近くに召喚陣を張り、死人の兵で固めていた。糸原は彼らを飛び越え、振り向きざま、接近していた黄泉軍たちを糸で撫でた。
糸原の目の前には長い階段が山のように聳えている。真っ白だった先の世界とは違い、壁や天井は赤錆びたものに成り代わっていた。
全力で走り切れるだろうか。背後の黄泉軍たちはどこまで追ってくるだろうか。イザナミが地上に出るようなことがあればどうなるだろうか。疑問は浮かんだが、今は足を動かすことしか出来ない。糸原は一気に階段を駆け上がる。段を飛ばしながら、息を切らして必死になって走った。彼女の前にはエレンが、先頭にはフェンリルがいる。
「ああ、くそっ、畜生!」
雷の音が鳴った。エレンの呼んだ死兵は八匹の蛇の雷によって、いとも容易く真っ黒に焦げ、壁の一部と同化した。背後からは稲光が見えている。糸原は逃げられないと悟った。
「エレンっ! やるわ、ここで仕留め――――」
「分かっているわ」
エレンは立ち止まり、壁に手を当てていた。彼女が触れていた箇所から砂となり、塵になっていく。糸原は急いで走り抜けた。彼女のいたところから後ろの段が平らになり、砂になって蟲のように蠢く。黄泉醜女も黄泉軍も足場を失い、思うようには進めなくなっていた。だが、蛇の姿である八雷神には関係がない。ソレどもは流砂となった地面を這い、逃亡者を追撃する。
貪るものを操る糸原、クルヌギアの女王エレシュキガルといえど、雷の速度には遠く及ばない。
「やると言っても難しいわ。とにかくあなたは走りなさい」
「あんたはどうすんのよ?」
「食い止めるわ」
砂になった天井が落ちる。エレンは塵を集めて雷神たちにぶつけた。蛇である彼らは視覚に頼らない。何の妨げにもならないが、僅かな時間を作ることは出来た。彼女は八雷神の内、最も近くにいた黒雷神をねめつける。死を齎す魔眼だ。目を向けられた瞬間、ソレは塵と化した。
「やるじゃない、あと七匹!」
「簡単に言わないで欲しいわね」
塵は砂となり、集まった砂は礫となる。エレンはそれらを飛ばしながら、少しずつ階段を上り始めた。
「来るわ、イザナミが来る!」
ぬっと、根の国からイザナミが姿を覗かせる。途端、糸原は、狭苦しい階段が更に縮んだような感覚を覚えた。
雷神たる蛇たちが動きを止め、口を開く。そこから漏れ聞こえたのは、押し潰され、枯れ果てた声であった。
「我らは八つで一つ」
「大雷神は雷の力を」
「火雷神は雷が起こす炎を」
「黒雷神は天地が暗くなることを」
「裂雷神は物を引き裂く姿を」
「若雷神は清々しい地上を」
「土雷神は地上に還る姿を」
「鳴雷神は雷鳴を」
「伏雷神は光が走る姿を」
「我らは八つで一つ」
「雷とは即ち神鳴り」
「雷とは即ち神立ち」
「神の怒りを受けよ」
蛇の声を背にしながら、糸原たちが走る。イザナミは砂中をゆっくりと進んでいた。二人の背中を雷が追いかける。しかし、それよりも前に飛び出していた者がいた。フェンリルである。彼は壁を剥がして放り投げていた。皆の盾としたのだ。
「はしって! あ、は、やくっ」
最後尾に回ったフェンリルは雷神たちを見ながら、床、天井、壁を殴りつけ、あるいは腕力で剥がし、それらを即席の盾として攻撃を防ごうとしていた。しかし、全てを防ぎ、躱せる訳ではない。
「う、あ、やあああああっ」
腕に電気を浴び、フェンリルは頭を振って泣き喚く。エレンは床の一部を土の壁と変え、雷への防御壁とした。
「今よ、早く!」
フェンリルは半泣きになりながらも階段を駆けていく。
「また泣いてんの?」
「う、ううううう!」
糸原はフェンリルに倣い、グレイプニルで壁の一部を剥いだ。エレンの生みだした防御壁だが、黄泉軍と黄泉醜女たちの突撃によって今にも崩れてしまいそうである。盾も壁も一時的なものでしかなく、長くは持たない。
「出口はまだなの!?」
「まだ先よっ、いいから走って!」
轟音が響いてくる。轟く雷鳴は糸原の恐怖心を激しく煽った。指が、手が、腕が震える。四肢が弾けて消えてしまいそうな感覚を受け、彼女は歯を強く噛み締めた。出口も先も見えない。漆黒色の空間の中、見えるのは稲光だけであった。糸原が目にしているのは希望の光ではなく、一種の絶望である。
鈍い音と共に土の壁が砕けた。瞬間、糸原はフェンリルの頭の上を通して剥がした壁を投擲する。黄泉の鬼どもは壁にぶち当たって、血反吐を撒き散らしながら後方へと転がった。雷神がソレの足元をすり抜け、砂を食みながら這っていく。
砂が盛り上がり、硬質化して薄い壁となった。その壁は雷神どもの腹を乗せ、天上へ向かって伸びていく。一方、天井からも同じような壁が現れた。二つの壁は三秒かからず衝突し、間にいた雷神を二匹すり潰す。雷神を仕留めた壁は、そのままソレの進軍を防いでいた。
「塵と埃ばかり。住みやすくなったわね」
「よっと、失礼」
「何をするの?」
「あんた、コンパスがアレだから」
糸原はエレンを小脇に抱えて走り出す。フェンリルは壁を削りながら進み、時折、下に向かって破片を投げつけた。
「……全く、神様を子供扱いするなんて」
「お姫様抱っこの方がよかった?」
「あなたにはして欲しくないけどね。……ああ、出口よ」
光が糸原たちを包み込む。彼女らはしっかと目を開けて、最後の段を上り切った。
足は独りでに動いた。先までまとわりついていた湿気た空気が風に流される。陽は沈みかけ、夕焼け色が目に鮮やかであった。当たり前だと思っていた日常を目の当たりにし、糸原は自分でも気づかない内に涙を流した。
糸原たちの背には、真っ白に塗り潰された殺風景な建物がある。この場所は張りぼてで、偽物だ。タルタロスという地獄へ、地下へと通ずる路を隠すためのものでしかない。周囲は高い壁で囲われており、どこか冷たい雰囲気を漂わせている。壁の上には鉄条網があり、正面には重たそうな門が腰を下ろしている。息がつまるような景色だった。だが、生きている。帰ってきたという安堵感を覚えられた。
「どこもかしこも地獄ねえ」
駒台の街には死が蔓延っていた。建物は焼かれ、壊され、白黒問わず煙が上がっている。人が死んでいるのだ。殺されている。しかし、助けを求める声は聞こえない。
「『円卓』が仕掛けたのね」
「エレン。あんたは知ってたんだよね、全部」
「全部じゃないわ。それに、話に聞いていたのと実際に見るのとでは全然違う。……本当、違うのね。何もかも」
初めて見る場所であった。自身が立っているのは、闇に閉ざされた世界ではない。しかし感慨に耽っている暇はない。イザナミたちの足音が聞こえてくる。エレンは息を吐き、あるものを探した。だが、どこにも見当たらない。彼女の様子を訝しげに思うと、糸原は出入口に目を遣りながら口を開く。
「何してんのよ、逃げないの?」
「黄泉の鬼たちを引き連れて? ここでやるしかないのよ。黄泉への道を塞ぐしかないわ」
「どうやって?」
「岩よ。かつてイザナミの夫であるイザナギが、大きな岩で道を塞いだ。けれど、ここには道返之大神は……」
フェンリルはずっと空を見上げていた。後ろでは糸原とエレンが何事かを言い争っている。
「……かぜ、が」
髪の毛を風が撫でる。フェンリルはその場に屈み、掌で地面に触れた。今まで囚われ、這っていた土とは違う。どこか温かみがあった。土だけではなく、空気もだ。無論、大狼として暴れ回っていた頃とも違う。人は地面を引き剥がし、山を砕き、森を切り開いた。今の世は穢れているのだ。それでも陽があった。人々が暮らしているという証があった。ヘルヘイムとは何もかもが異なっている。懐かしさこそ覚えなかったが、胸の内がじんわりと熱を帯び始めていた。
このまま、どこに行ったって誰も咎めやしないだろう。好きに喰らい、好きに殺し、気の向くままに生きるのだ。フェンリルの胸が高鳴り、彼は、背後を仰ぎ見る。
糸原四乃はグレイプニルを構え、穴蔵の底をねめつけていた。電光が蛇の舌のようにちろちろと見え隠れしている。
「シノ、ここは」
「逃げてもこいつらは追ってくる。道を塞ぐ岩なんてどこにもない。だったら! だったら、ここでやるしかない」
まだ戦うと言うのか。
まだ殺すと言うのか。
フェンリルは不思議に思った。イザナミたちは何も、自分たちだけを追っているわけではない。遅かれ早かれ、彼女たちも地上へ現れていたはずだ。他に生きている者の気配があればそちらへ引きつけられるだろう。距離を取り、逃げてしまえばいい。人の住む場所はこの世界には幾らでもある。人間はずっと昔から、神を押し退け、獣を排除してきたのだ。今更、街一つに拘る必要はないと思えた。
「無理よ。イザナミたちは、あなたの手に余るもの」
「やんのよ。そんで、生きて戻る。約束したからね。でも、あんたらに強制はしない。いよいよってなったら私だって逃げるだろうし」
糸原は一瞬だけ振り返る。彼女と目が合い、フェンリルは直感した。諦めている。糸原は嘘を吐いている。きっとここで死ぬつもりなのだ。
「エレン。フェンリル。どうよ。ここが地上よ。ここが私たち人間の住む世界。この街は狭くて、つまんないかもしれないけど、よそを探せば何でもあるわ。私が生きてたら案内したげる。そうね、一緒に色々なとこへ行って、美味しいものでも食べれば、今まで嫌だったことなんかさ、絶対、どうでもよくなるから。また、会いましょう」
「……シノっ、あなたは!」
人は弱い。
いや、人だけではない。フェンリルから見れば、神も同じだ。獣と変わらない。所詮この世は食うか食われるかなのだ。
「あ。そうだ」と、糸原はスーツの胸ポケットから小さなものを掴み、フェンリルに向けてそれを放った。彼が片手でキャッチしたのは淡い橙色の包装紙に包まれた飴玉だった。
「私の腕。もしかしたらあげられないかもしれないから、とりあえず、それで誤魔化されといて」
フェンリルは包み紙を開き、飴を口に含む。
「……ふ」
エレンは目を見開いた。
「ふ。あ、は。あはっ、何、これ」
フェンリルは思った。
人は嫌いだ。
神様も嫌いだ。
自分以外の何もかもが憎くてしようがなかった。
だが、人はこんなに甘くて、美味しいものを作れる。悪くないとも思った。