自分REST@RT
冥界の支配者ハデス。彼の所持する隠れ兜は自身だけでなく、身につけたものも余人の目から逃れられる。それはハデスの得物である、二又の槍も例外ではない。
だから、見えないのだ。糸原たちには、ハデスの姿も、彼が攻撃の際に振る槍も、衣服の端ですらも。気づかず、分からず、何も認識出来ないまま嬲られるしかない。
「……手はある、か」
糸原はフェンリルを見遣る。ハデスは今、彼だけを狙っていた。
――――囮になる。
姿は消えていても、この世から消えてなくなったわけではない。フェンリルが攻撃を受けた瞬間、グレイプニルで周囲の空間ごとやたらめったら引き裂けば、ソレが距離を離す前に捉えられるかもしれない。
フェンリルは既に四肢を突かれ、肩口を刺されている。ただ、彼は再生能力に優れているらしい。痛みを感じてはいるようだが、傷自体は塞がりかけている。それどころか先に斬られた腕が元に戻っている。まるで蜥蜴の尾だと、糸原は思った。傷は受けても治る。囮にして、見殺しにするような真似をしても罪悪感など覚えるはずがない。自分がここで傷つくわけにはいかなかった。
『ほう?』
「う……あ、あ?」
糸原がフェンリルを守るようにして彼の前に立つ。グレイプニルを重ね、盾にしている。
「来るんなら来なさいよ」
自分の知る男なら、一一という人間は、他人を道具のようには扱わないだろうと思った。糸原は知っている。彼は脆弱で臆病だが、清廉なのだ。だから自分もそうありたいと思った。
ハデスが槍を回し、フェンリルの背を突こうとした。が、槍の穂先が何かに引っかかり、彼は咄嗟に得物を戻す。その瞬間、顔面近くをグレイプニルが通り過ぎた。風圧が顔に当たり、ハデスは顔をしかめる。
『そう、か』
周囲に糸をかけるようなものはない。糸原は自らの身体に糸を巻き付け、背後を守っている。だが、諸刃の剣だ。操作を誤れば、グレイプニルは彼女の体を切り刻むことになるだろう。彼女は極めて精密な指捌きと、豪胆な心の持ち主である。ハデスはそう評価した。
「クッソ汚い真似してんじゃないっつーの! 出てこい根暗っ」
隠れ、息を殺し、地下に潜んだ。機を窺い、光ある世界を手中に収める為だ。……しかし、ハデスにとってこの世界は居心地が良かった。今までもそうしてきたのである。死者の国に住まい、支配してきたことは恥ではない。誇りを持ってことにあたってきた。だからモグラと揶揄されようが根暗と言われようが、彼にとっては些事である。
地上では『王』と『円卓の奇士』が駒台の街を蹂躙しようとしていた。彼らに便乗し、横合いから何もかもを掻っ攫うのがタルタロスの目的である。
――――出来ぬのならそれもよし。
地上を奪えずとも、地下があればいい。この地、この国、この世界には王の軍勢といえども容易には攻め込めない。同胞はどう思っているか分からないが、ハデスはここさえあれば十分であり、満足だった。だからこそ、邪魔者を排除する必要がある。外敵なら対処は可能だ。問題なのは内部の敵である。
『ヘルヘイムの愚者め』
報いは受けてもらう。守るだけでは勝てないのだ。
自由になった体は重かった。
傷は治るが、痛む。斬られた腕も刺された胸も、元に戻ったはずなのに、ひたすらに疼いた。タルタロスに住まう者に縛られ、実妹に捨て置かれた。一度は満たされつつあった腹がくうくうと鳴る。空虚な気持ちが頭の中を支配する。膨張していた憎悪は他者の血肉によって影を潜めた。冷静さを取り戻してしまえば、自身の存在が曖昧になる。あそこであのまま、グレイプニルに戒められていた方がどんなに気が楽だったろうか、と。
『獣め。報いを受けろ』
自分が何をしたというのだ。ただ、あるがままに生きてきただけだ。それを咎だと正すなら、貴様らはいったい、何者なのだ。フェンリルは哭いた。背を突かれ、胴を薙がれ、胸を刺された。
ハデスの槍を見ることも、彼の存在を嗅ぐことも出来ないでいる。回復が追い付かない。食った肉を吐き戻す。この世全ては敵しかいないのだ。フェンリルは頭を振り、残った闘志を必死になってかき集めた。
槍は見えない。敵は見えない。しかし、やつはそこにいる。いるはずだ。糸原はグレイプニルで標的を捉えた。
『ふ、はは。狂え、人め』
糸原が捉えたのはハデスではない。彼女がグレイプニルで捕えたのは、ケルベロスの死骸であった。糸原は槍を突き刺されたフェンリルに目を遣る。彼はその意図を察し、吼え声を放った。苦しみ、舌を出して喘ぎながらも、両腕で不可視の得物を掴む。奥深くまで入り込んだ穂先は彼の膂力に逆らえなかった。
「いよっし!」
まず、ケルベロスの胴体が糸原たちの頭上で切り裂かれていく。一つが二つに。二つが四つに。四つが八つに。彼女は全身をフルに使いながら、グレイプニルで死体を刻み続ける。ハデスは糸原の狙いに気が付き、槍を引き抜こうとした。だが、フェンリルがその行為を阻み続ける。彼は必死で歯を食い縛り、痛苦に耐えていた。
「これならどうよ!?」
血の雨が降る。フェンリルに半分以上を食われたケルベロスの遺骸から、鮮血が降り注ぐ。自らの唾液によって爛れた肉が削げ落ちる。ぽたぽたと、ぼたぼたと、真下にいる者を叩き続ける。
離れた場所にいるエレンからは見えていた。赤い雨の中に空白が出来ている。『そこ』だけを、『彼』だけを避けるかのように、雨がなくなっていた。隠れ兜を被る者に触れれば消える。見えなくなる。暴かれ、曝されたハデスはその場から逃れようとした。
だが、遅い。右腕を狼の頭に変化させたフェンリルが迫っていた。彼は空白の空間を噛み砕く。悲鳴が上がった。ハデスの発したものだ。
「う、ああ、ああああっ、よくもっ、よくもよくもよくも!」
『ぎいいいいいいいいいいいいいいいいやあああああああああ!? あ、ああああああああっ、は、な……! はなせええええぇぇええええ!』
「痛がる時はうるさいのね、神様ってやつも!」
グレイプニルがハデスを捉えた。隠れ兜はフェンリルに砕かれ、遂に冥府の守役の姿が現れる。だが、既にハデスは体の殆どを食われていた。否、今も食われているのだ。
タルタロスを創り、率いてきたのはハデスという男であった。
エレンには何もなかった。考えというものがなかったのである。だから、彼に従おうと決めた。
その男が死んだ。結局、彼の顔を拝むことは一度もないままに。しかし、エレンは何も思わなかった。とうにタルタロスから気持ちが離れていたのかもしれないと、彼女は自己分析する。
「先へ進みましょう」
戦いを終えた糸原とフェンリルは、大量の血を頭から被っていた。鮮血に濡らされた二人は、未だ視線が鋭い。糸原は大河をねめつけ、どうするつもりだと問うた。
「渡し守ってのが見えないわよ」
「……そうね。けれどフェンリル。彼はハデスをも喰らった。そろそろ、本当の姿を見せてくれてもいいんじゃないのかしら」
フェンリルは低く唸る。
「わ、たしを、つかうの? そうするつもりなの?」
冥府を流れる川であろうと、エレンの力をもってすれば砂と土に変えられる。だが、フェンリルは力を蓄え過ぎていた。彼女は、幾らか彼の力を使わせておかないと危険だと判断した。
「あなた次第よ。その気になればひとっ跳びに出来るでしょう?」
「え、そうなの? 何、あんたそんなの出来るの?」
「えう……」フェンリルは黙り込み、それから、小さく頷く。
フェンリルは川の近くまで歩いていき、身を震わせた。右腕を狼の頭部に変化させたように、少しずつ、体を入れ替え、変化させていく。糸原はその度に悲鳴のような声を上げていた。
やがて、一匹の大狼が完成していた。象よりも大きく、ケルベロスの数倍はあろうかという巨躯だ。エレンと糸原は彼を見上げて、しかし、何も言えずにいる。
「きっと、これでもまだ彼の正体ではないのでしょうね。月も太陽も呑み込めるような……それこそがフェンリルなのだから」
「こりゃあ、誰も飼えないわけだわ。餌代で破産しちゃいそうだもの」
フェンリルは四肢を震わせ、顎を持ち上げる。彼は偽りの空を見て、吼え声を放った。物悲しい声は、タルタロス中に響いた。
糸原はフェンリルに近づき、彼の腹を撫でる。
「乗せてくれるの?」
声は返ってこなかったが、フェンリルは姿勢を低くし、じっと待っている。エレンは眉根を寄せた。彼は上手く言葉を使えていないが、本来は尊大な性格である。プライドが高く、人を背に乗せることなど考えられない。ここまでの力を取り戻しておいて、大人しく他者に従っている理由が分からなかった。
「イトハラ、あなたは気に入られているみたいね」
「そう? 動物にはあんまり好かれないんだけどなあ。前にこっから出た時も、犬に追っかけられてたし」
「変わったんじゃない?」
「私が?」
頷き、エレンはフェンリルの前足に足をかけ、背中へと向かう。糸原は不思議そうに小首を傾げていたが、グレイプニルを使い、フェンリルの背に上った。彼は少しだけびくついていた。巨体を震わせるフェンリルの姿が面白くて、エレンはくすくすと笑った。
「お、おお? おおおおおおおっ、すごい! すごい速い! サラマンダーとかより!」
フェンリルは川を飛び越え、まっすぐにひた走っていた。速度もあり、身体が大きい分、ぐんぐんと距離を稼いでいく。
「この調子なら、サカまではすぐね」
「坂? そこが出口なの?」
「ええ、あなたも、ハジメたちもいつも、そこを通って来るのよ。長い階段があったのを覚えていないかしら」
「あー、そういや、そんなんあったかも」
「そこがヨモツヒラサカという場所で、タルタロスと地上を結ぶ場所なのよ」
糸原は話を聞いているのかいないのか、フェンリルの身体が揺れ動く度に、ジェットコースターみたいだとはしゃいでいる。しかし彼女はジェットコースターどころか遊園地に行ったことはない。
「残っているのは二人。ヘルヘイムを支配するヘルと、ヨモツヒラサカにいるイザナミね」
「強いの?」
「あなたよりは」
ヘル。その名を糸原はよく知っている。何故なら、彼女がここを抜け出る時、エレンと共に相対した女だからだ。糸原はその際、奪ったレージングでヘルの右腕を傷つけた。もう二度と会うことはないと思っていたが、再び、彼女の手によって……そして何よりも自らの決断によって、この地へ落ちた。何の因果かと、彼女は自嘲気味な笑みを浮かべる。
「……勘違いしないことね。前は上手くやれたけれど、それは、戦った場所がヘルヘイムではなく、私の領地だったからよ」
「それって意味あんの? 自分の領地だからって……」
言いかけた時、糸原の身体ががくんと揺れた。正確には、フェンリルの動きが揺れたのだ。
フェンリルの鼻が何かを捉えた。郷愁とも呼ぶべき、懐かしい臭いだ。それに気を取られた瞬間、地面を掴んでいたはずの前脚が捕まってしまう。顔をしかめ、視線を下に落とすと影があった。
亡者だ。肉体を失い、魂を落としたモノたちがフェンリルに群がっている。地の底の底から姿を見せたソレらは、窪んだ穴で彼をじっと見上げていた。
「へいポチっ、何かあったの?」
「……ぽち?」
ふざけた名前で呼ばれ、フェンリルは糸原を見ようとして首をめぐらせる。だが、その前に一人の女が現れた。亡者の群れの中から音もなく登場する。これ見よがしに、右腕に包帯を巻いた女だ。彼女の下半身は、泥のような、影のような、霧のようなもので覆われている。女はフェンリルではなく、彼の背に乗っている糸原を見つめていた。
「どこへ行くのかしらねえ、あなたたち。檻は? 鎖は? 看守は? いったい、どこへ行ってしまったのかしら」
「しつこい女ね、あんたも」
「諦めが悪いのはそっちも同じでしょう? でも、ここまでよ。ここはもう遠い遠い暗い場所。私の世界へようこそ。……ところで、いつまでそうしているおつもりですか、兄上」
糸原は目を丸くさせる。目の前の女が兄と、そう呼んだことに反応したのだ。
「あなたじゃないわよ」と、ヘルヘイムの女は、フェンリルを指差した。
「ねえ、兄上」
フェンリルは低い唸り声を上げた。確かに女は、ヘルは、妹だ。
「それじゃあ、始めましょうか。いえ、実はもう始まっているんだけど。ごめんなさいね、兄上。少しだけ我慢してください」
フェンリルが脚を上げようとする。だが上手くいかなかった。亡者どもに掴まれているだけではない。足の裏から冷気が伝わっている。彼の四肢が凍り付き始めていた。フェンリルの背にいる糸原たちにも冷たい風が吹いている。
土が、岩が、空気が、少しずつ固まり始めていた。荒野が凍土に変わっていく。
「……何よ、これ。なんで、急に」
「連れてこられたのよ。ヘルの国へ。ここは」
喋りかけたエレンを制し、ヘルが口元をつり上げる。
「ここはニブルヘイム。冷たい冷たい、氷の国よ。居心地はどうかしら?」
「ふざけんな最悪よっ、寒い!」
「そうでしょうねえ、ここの風は人間には厳しそうだもの」
得意げに笑うヘルだが、エレンは彼女の誇りを打ち砕くかのような笑みを見せた。
「イトハラ。さっき言いかけたことだけれど、タルタロスでは自分がどの程度の領地を持っているかが重要なのよ。自分の能力を最大限に使える。それに、下にいるやつらみたいに駒もいればいるだけ有利になる。領地の広さがそのまま自分の力になると思って」
風には雪が混じっている。糸原は両手を擦り合わせ、白い息を吐き出した。動かないままだと戦えなくなる。彼女はそう判断し、フェンリルの背から飛び降りた。彼に群がっていた亡者どもが糸原に顔を向ける。彼女は僅かに距離を取り、右腕を背に隠した。その手は寒さではなく、恐怖によって震えている。
「ねえ、ミステリアスパートナー。こいつは、どれくらいの領土を持ってて、どれくらい強いのか説明してくれない?」
「二割。タルタロスでは二番目よ。前とは違うと言ったわね。あなたがヘルを出し抜けたのはここではなく、私の領土で戦っていたからよ。彼女が本気を出せば、その右腕を傷つけられることもなかったでしょうね」
「言うじゃないっ。上から目線はさぞや気持ちがいいんでしょうね!」
エレンの言葉にヘルが反応した。その表情には鬼気迫るものがある。
「確かにそうよ。私は、ここでならあなたたちを上手く殺せるわ。でも二番手に甘んじている。お前がいるからだ! お前が!」
「……ねえ、エレン。あんたの領地はどんだけあんの?」
「六割よ。とは言っても、こんなところに『私のものです』って看板を立てても虚しいだけなのかも」
ヘルは足で地面を蹴飛ばし、苛立ち紛れに声を荒らげる。
「私を馬鹿にしているのね、お前も!」
両手を地に添えると、ヘルの周囲に光が灯った。彼女の下半身を覆っていた黒い靄が、渦巻きながら中空へと昇っていく。フェンリルの真上で、それは雲となった。ぎちりぎちりと、暗雲の中から鋭い塊が姿を覗かせる。正体は大量の氷柱であった。
「あら、思っていたより粗末なのね」
「おおおおおおおおちろおおおおおおおおおおおお!」
ヘルが高く掲げていた腕を下ろすと、全ての氷柱が地面を目指して、雨のように降り始める。フェンリルはこの場から逃れようとするも、ヘルの力の半分以上は彼に注がれていた。亡者と冷気がフェンリルを押し留めている。
「身内がいるんでしょうが!?」
「兄上はこれくらいじゃあ死なないわよ」
糸原はフェンリルの脚を蹴り、彼の背に両足をつけて降下する氷柱をねめつける。間に合いそうになかった。諦めようとは思わなかった。
「座ってなさい」
冷や汗が肌に張り付く。糸原は息を呑み、目を細めた。その時、傍にいたエレンが立ち上がる。彼女はふっと、唇から息を漏らした。
与えられないのなら奪うだけだ。
手に入らないものはこの世にない。
何故なら自分はこの世界で最も優れているのだから。
――――そう。この世界では。
タルタロスの半分以上を領土として収めていても、幾千、幾万、幾億の亡者を従えていても満たされることはなかった。はっきりと分かった。地下に留まり続けていても何も手に入らないのだと。奪うのではない。与えられることを待つのでもない。たとえ地上の光が自らを焼き尽くしたとしても後悔はない。
「私はきっと……」
凍土がめくれ上がり、乾いた地面が剥き出しになった。雪の混じった風は止み、中空にあった黒雲が少しずつ晴れていく。ヘルは目を見開き、兄の背に乗る女を睨み据えた。
「お前が、動くなんて……!」
「分かったのよ」
立ち上がったエレンがヘルを見下ろす。
「あなたのお陰かもしれないわ、ヘル。私はきっと、長く生き過ぎて、ここに居過ぎたのよ。だからもう終わらせる」
エレンは自らの手でフードを外し、ローブを脱ぎ捨てた。ヘルはごくりと唾を飲む。隣にいた糸原は驚きの声を上げた。
エレンの病的なまでに白い肌には血管が浮き上がって見えている。手足は細く、小さかった。地面にまで垂れそうな長い髪は緩く波打っている。彼女は目にかかった黒髪を掻き分け、周囲を見回した。
「あ、あんたって」
「驚いたかしら?」
糸原の視線を受け、エレンは自らの身体を見遣る。彼女は黒い布のようなものを全身に巻きつけて肌を隠していた。頭の上には小さなティアラが乗っている。まるで――――。
「ちっちゃ……!」
エレンは糸原を見上げて睨みつけた。だが、外見だけで判断するなら、彼女には全くと言っていいほど迫力がない。何せ、エレンの姿は十歳前後の少女にしか見えなかったからだ。
「絶対縮んでるわよね、それ?」
摩訶不思議なものを見たとでも言いたげな顔で、糸原はエレンの身体を遠慮なく撫で始める。
「やめなさい、塵にするわよ」
「ねえ、さっき脱いだやつ着直したら? 全然こわかないんだけど」
「あっはっは! あはっ、何よ!? あなた、そんな顔だったの!? そんな姿をしていたの!?」
ヘルはげらげらと笑った。その声が耳障りで、エレンは彼女をねめつける。ヘルの右腕に巻かれていた包帯が独りでに解けていった。彼女は傷ついた腕を隠そうとして、胸にかき抱き、その場に屈み込む。
「……超能力でも使ったの?」
「いいえ。ここはもうヘルの世界ではないわ。私の世界でもあるの。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけもらったのよ」
「はあ!?」
顔を上げたヘルはエレンの目を直視してしまい、咄嗟に視線を逃がした。
「く、油断? そんな姿で私の隙を衝こうだなんて、随分と小賢しいじゃない!」
「別にそんなつもりで変身したつもりはないのだけれど。でも、勝手に油断してくれたのね。ふふ、助かるわ。ありがとう」
「感謝なんて、これっぽっちもしていないくせに!」
ヘルは右腕を背中で隠して立ち上がった。
「いいえ、しているわ。私は、あなたのような小さな者になりたくないの。そのことを教えてくれたのだから感謝しているのよ。ありがとう、ヘル」
直感した。既に、自分はこの数分の間で何度も死んでいる。殺されている。だが、そうはならなかった。しかし、死は間もなく訪れるであろう。エレンが――――。
「くっ、エレシュキガルゥ……! 私を、私すらを!」
「そう。私の名前よ。きっとあの子は、良い名前だと言ってくれるでしょうね」
――――誰も戻らない土地の女王、エレシュキガルが嗤ったのだ。
エレシュキガルはシュメール神話において、地下にある土地、乾燥し、塵以外には何もない世界を支配する女神であった。彼女は主神の娘でありながらも疎外され、地上へ抜けることすらも阻害された。だからエレシュキガルは何もかもを呪った。光を浴びる者を引きずり込んでやろうと強く思った。彼女の想いはいつしか両目に宿り、見つめたものに死を齎すようにもなった。
長い時を暗い地で過ごした。この世界で息を殺し、タルタロスを支配し続けてきた。それも、もう終わる。終わらせねば先へ進めないのだ。
エレンはヘルを両目で見た。だが、彼女の魔眼は発動しない。ここはまだ、彼女の土地だけではない。ヘルもまた一国の主であり、プライドがあり、力は十分に残されている。
どこからか吹き始めた風が何もかもを凍てつかせようとしていた。フェンリルは頭を振り、妹を見据える。だが、その声は苦悶と苦痛だけを孕んでいた。もはや彼の呼びかけはヘルに届かない。そも、彼女は聞く耳を持っていない。
「ヘル。私はあなたが『円卓』のメンバーだと言うことも知っているわ。その上で尋ねるのだけれど、あなたはどうするつもりなの?」
タルタロスに与することを止めたエレンは、糸原たちに手を貸すことを決めている。だから、敵なのだ。
「知ったことか! 私は、私はァ!」
ヘルがフェンリルを拘束していた理由は、『円卓』の駒として、地上で好き勝手に暴れさせる為であった。兄は弱り、衰えたが、一個の力としては依然として強大であり、有用である。だが、彼は変わった。終わったのだ。人間を乗せ、まるで乗り物のように振舞っている。妹として許せなかった。
「戦うのね」
「誰が戦わないと、一言でも言ったのよ!」
白い世界と乾いた世界が拮抗している。ヘルのニブルヘイムと、エレンのクルヌギアがぶつかりあっているのだ。自らの世界で染めようと、食らおうとして、互いの力を殺し合っている。瞬くごとに世界は色を変えていく。風圧が力のない亡者を吹き飛ばし、冷気がヘル以外の者に襲い掛かった。
そうしている内、フェンリルの拘束が外れた。ヘルの力が彼を留められなくなったのである。フェンリルの四肢を覆っていた氷が溶けると、亡者は前脚に踏み潰され、爪によって引き裂かれる。
「え、あ、へ、る……っ!」
フェンリルもまた、ヘルを許せなかった。彼女は実の妹だが、タルタロスの者たちと共謀し、グレイプニルで縛り上げたのだ。助けてくれなかった。放置され、慰めの言葉一つすら寄越さなかった。もはやアヌビスやヤマと変わりない。
「兄上は、黙ってくださるかしら!?」
黒い霧がヘルの下半身から伸びる。フェンリルは霧に首を絞められ、顎を上げた。彼女の体を覆っていた霧がなくなったことで、素肌が露わになる。ヘルの下半身は腐敗し、緑がかった黒色に染まっていた。肉は溶け、爛れ、体液がぼたぼたと地面に落ちる。ケルベロスの涎と同じく、それは触れたものをゆっくりと、嬲るように溶かしていた。
「見たわね、これを……!」
ヘルはこの身体を醜いと、呪っていた。なまじ、半身だけが人の形を保っていることが気に入らなかった。彼女は美しいものを知っている。そうでないものを宿している。自分が醜いものだと思い知らされている。だから、ヘルは完全な肉体を手に入れたかった。『円卓』に、アーサー王に肩入れしたのはその為だ。魔法使いが束になっても叶わない大魔女ヴィヴィアンになら、一人分の肉体程度、用意出来ると信じていたのである。
「見たわね、私のあそこをォ!」
ただ、その願いはもう叶わない。叶わないことをヘルは知らない。既に魔女の肉体は滅び、アヴァロンに還ったのだ。彼女の力は王が握り、ヘルの為に使われることはなかった。
「見たくて見たんじゃないっつーの」
「……っ!?」
右腕が引っ張られる。ヘルは驚愕の表情を顔に貼りつけて、傷痕だらけの腕を認めた。
エレシュキガルではない。フェンリルでもない。ただの人間が、たまたま糸を手に入れただけの人間が近づいてくる。白い世界と塵だらけの世界を、ゆっくりと進んでくる。
「糸原、四乃」
名を告げられ、彼女は口の端を歪めた。
「いい名前でしょうが。……あんたが『円卓』だってのも、私らの街で暴れようとしてんのも、どうでもいいっちゃあどうでもいいのよね。ただ、あんたには借りがあるのよ」
糸原は立ち止まり、指を動かす。ヘルの右腕がグレイプニルによって、人形のように操られた。
「嘘。いったい、いつ、こんなものを……」
「借金踏み倒されちゃあたまんないのよねえ、こっちは。他にも貸しがあるのがいるみたいだから、さっさと一発ぶちかまさせてもらうとすっかー」
「答えろっ、糸原四乃!」
「地獄の沙汰もって言うじゃない! 誰に平手かましたと思ってんのよっ、倍返しじゃ済まないでしょうが!」
「ぐっ、ああ、答えになってない!」