猛犬ケルベロス
サーラメーヤはヤマのしもべである。まだら模様の、四つ目を持った犬である。しもべは主の指示通りに動く。だが、強大な力を前にしては動けなかった。身体の四肢どころか呼吸すら出来ず、サーラメーヤは絶息し、その場に倒れ込む。
ヤマはしもべの死を認めた。死者の罪を裁き、地獄へ送るのが彼の、彼らの仕事である。この空間、この世界で自分たちに仇名す者は許せなかった。
「……所詮は獣」
芋虫のように這っていたフェンリルが立ち上がる。彼はぼうとした様子で、立っていることですら精いっぱいのようにも見えた。その瞬間、ヤマは二つの真実を目の当たりにした。一つは、大狼を完全に敵に回したということであり、もう一つは、エレンが敵に回ったということである。彼はアヌビスを横目で見遣った。
「半分以上を牛耳っているとはいえ、たかが女よ。だが、許せんなあ」
「案ずることはない、ヤマよ。かの神喰いも今は見る影もないではないか。本来の姿を保てず、餓え、弱り切っている」
フェンリルは北欧の最高神ですら食う怪物だ。本来なら神ですらまともには戦えない相手だろう。だが、今は違う。ヤマは口の端をつり上げ、好戦的な笑みを浮かべた。
視界からフェンリルが消える。目を凝らし、真正面から突き進むそれを認めた。接触まで一秒あるかどうか。その間隙の中、ヤマは目を見開きながら、水晶で出来た鏡を召還する。その鏡にフェンリルの姿が映し出された。人間の姿ではなく、太陽や月さえも呑み込んでしまいそうな巨躯の獣だ。それこそが彼の本性であり、正体である。
浄玻璃鏡。
地獄を守護するヤマが死者の裁判を行う際、死者の善悪を見極める為に使う鏡だ。浄玻璃鏡には死者の生前の行動が全て、余すところなく映し出される。見極めの際、ヤマは死者に問いかける。罪を問うのだ。虚偽の申告をした場合、ヤマは死者の舌を抜いて罰を与える。本来ならば、これは死者を罰する為でなく、反省を促す為に使用される。が、フェンリルの罪は決まっていた。もはや裁判をする必要はない。彼の罪はヤマの台帳にも記されている。
「認めぬか、罪を!」
フェンリルは答えず、右手を振り被る。あまりにも不恰好で、力の制御が出来ていない証左であった。
「判決、死刑!」
鏡が光る。申告は必要ない。浄玻璃鏡に映し出されたフェンリルは数多の命を食らっていた。罪を暴かれた死者は、舌を抜かれる為に浄玻璃鏡によって動作を停止させられる。
「つみ……?」
「なっ……!?」
だが、フェンリルは止まらなかった。彼の拳は浄玻璃鏡を粉々に砕き、その後ろにいたヤマの胸を抉り取る。彼の肉と皮がめくれ、臓腑が暴かれた。痛みよりも驚きの方が強く、ヤマは声を荒らげた。
「何故っ、お前はああああ!」
ヤマが腕を伸ばす。フェンリルはそれを掻い潜り、彼の喉元に食らいついた。決して逃すまいと強く歯を立て、首を振って食い込ませる。ヤマは狂ったように頭を振るも、力は抜けていくばかりであった。
アヌビスはヤマを助けなかった。彼は距離を取り、地獄の大王が血を吐くのを見つめている。
「そ……うか。おま、え」
ぶちりと、ヤマの意識が食い千切られる。首の肉を咀嚼しながら、フェンリルは長い息を吐き出した。知らずのうちに頬が綻び、フェンリルの視界がくらくらと揺れる。彼はヤマの鮮血を浴び、全身を震わせた。両手を掲げ、その血をいっぱいに受け止めて啜る。空腹だった胃の腑が蠕動し、彼はその甘美さに耐えられず、膝をついて吠え声を放った。
形に騙されたのがヤマの敗因であると、アヌビスはそう認識していた。
フェンリルは人ではなく、獣である。浄玻璃鏡は罪を見せるのではなく、真実を映し出す。人を食い、命を食い、あまつさえ神を殺した彼にとって、それらの行為は罪ではないのだ。少なくとも彼自身は罪だと認識していない。生物が呼吸をするように、組み込まれた遺伝子、あるいは本能に従っただけである。
――――獣を裁くことなど、誰に出来ようか。
裁くのではなく、ただ殺すのだ。
「疾く」
アヌビスが地を蹴る。フェンリルは彼の存在に気が付いていたが、そのスピードにはついていけなかった。
「去ね」
「うっ、あ」
跪いていた背を強かに蹴られ、フェンリルが口から血を吐き出す。尤も、それは彼のものではなく、含んでいたヤマの血液だった。大して効いていないのだ。アヌビスは背が粟立つのを感じ、出し惜しみの意味がないことを知る。
「ならば……う、おおおおおおおおっ」
アヌビスの首から上が変化を始めた。人の形を保っていたそれが、獣のそれに姿を変えていく。
「がああああああああっ!」
聖地の主人。自らの山にいる者。ミイラを布で包む者。半獣半人である冥界の神が正体を露わにする。黒い獣が吠えた。ジャッカルの頭部を持つアヌビスが大口を開け、食い殺してやろうと、フェンリルに狙いを定める。
アヌビスの眼前に、狼の顔があった。自分よりも大きなそれが、上顎と下顎を目いっぱい広げている。何か言う前に、アヌビスは狼の口の中に呑み込まれた。鋭利な牙が彼を砕き、骨を食む乾いた音が周囲に響いた。
狼の正体はフェンリルの右腕であった。遠くから見ているエレンにはそれが分かった。アヌビスは何も理解出来ないまま死んでいったのだろう。少しばかり哀れに思えてしまう。
「……彼、力が戻っているわね」
ヤマの血肉を自分のものにしたことで、フェンリルは一部分だけとはいえ、正体を現せるようになっていた。彼はアヌビスまで食らったのだ。先までとは違う。餓えた獣も恐ろしいが、肉の味を思い出したそれも脅威であった。
エレンは、ある意味、この状況を引き起こしたであろう張本人を見遣る。
「具合はどうかしら?」
「んなもん、分かんないわよ」
オープンフィンガーグローブをはめ、新たな得物の感触を確かめている張本人、糸原四乃は少しだけ楽しそうに笑った。
「さて、彼はどうするつもりかしら。お腹いっぱいだけど、餌はまだあるんだし」
「ちょっと、誰が餌よ。食われてなんかやるもんですか」
「あら、約束したんじゃないの? その手、あげるって」
「時期尚早よ。いつかはやるわ。そうね。今わの際にでもあげようかしらね」
フェンリルがむせ、咳き込んでいる。右腕は元に戻り、今の彼は普通の子供のようにしか見えなかった。
「ところで、あんたは手伝ってくれないの?」
「考えておくわ」
「何様だっつーの。あ、神様なんだっけ?」
「……生き残れたら、私のことも話してあげるわ」
エレンは未だ、どちらにつくか迷っている。タルタロスにつき、残った者たちと地上に進出するのも悪くはない。だから彼女は糸原の、人間の力というものを見たかった。
フェンリルは未だ収まっていなかった。何もかも中途半端なままである。復讐心も、怒りも、存分に晴らせていない。中でも一番辛かったのは飢餓感であった。二柱の神をしこたま貪ったというのに、腹は鳴り、空腹を訴え続けている。
「う、うう……」
立ち上がり、それを見た。フェンリルは糸原を認め、嬉々とした様子で地面を蹴飛ばす。思い切り嬲り、食らってやろうと思った。力が戻りつつある今、恐れる者などどこにもおらず、何もなかった。
恐ろしい。
恐怖で体が強張ってしまう。相手は人ではない。死の国の神すら喰らう魔獣なのだ。
「けれど不足はないってか」
指を動かす。空気を刻む。糸原の手指から伸びるのは、銀色の光であった。貪り食うものの意を持つグレイプニル。彼女は思わず感嘆の息を漏らす。その手触りはまるで絹のようであった。だが、性質はレージングやドローミよりも凶暴である。柔らかさに気を抜けば、自身の指すら切り落としかねない。細心の注意を払い、精緻を極めた指捌きでもってそれを操る必要がある。
上等だと、糸原は思った。
「あ、あ、あ、ああああああ」
「……来るわよ」
フェンリルの姿が消える。右手の人差し指が震えた。大きな岩や、朽ちかけた木に糸が絡みついている。糸原は既にグレイプニルを周囲に張り巡らせていた。いわばそれは結界だ。踏み入る者の存在を主に知らせる。
右後方、フェンリルが大口を開けていた。糸原は振り向きざま、腕を交差させる。網目状になったグレイプニルが彼の攻撃を凌いだ。だが、直撃こそ受けなかったものの衝撃は凄まじい。何重にも重ねた柔らかな糸ですら、勢いの全てを殺し切ることは出来なかった。
糸原は後ずさりしながら、再び糸を張る。作業の途中、彼女は全てを投げ出して、地面に身を投げるようにした。頭のすぐ上を何かが通り抜ける。それは、フェンリルの本体である狼の頭だ。がちがちと歯を噛み合わせながら、生臭い息を吐いている。口内には未だ血が溢れていた。先に食ったヤマとアヌビスのものである。
「腹八分って知ってる?」
グレイプニルが狼の頭を捉えようとした瞬間、フェンリルは変化を解いた。子供の姿になった彼は左右に跳ね、糸原に襲い掛かる。彼女は避けられない、逃げきれないと判断し、腕を伸ばした。
「……う!? うううううう!」
フェンリルは糸原の腕を食おうとして口を開いていたが、子供の姿では無謀な選択である。腕を噛むことすら出来なかった。
「悪い子にはおしおきね」
糸原は躊躇なくフェンリルの舌を引っ張った。彼は苦痛に喘ぎ、涙を目の端に浮かべる。彼女は腕を引き抜き、グレイプニルをフェンリルの身体に巻きつけ始めた。彼は必死になって逃れようとしたが、糸はフェンリルを封じる為に作られたこの世に二つとない逸品である。彼は四肢を縛られ、身動きが取れなくなった。それでも抵抗する力は強く、糸原は必死になって手指を動かして現状を維持している。
「動くんじゃないっつーの。切り落とすわよ」
「や、やだ……」
フェンリルは不自然なほど小刻みに震え、その場に蹲った。糸原は息を吐き、呼吸を整える。心臓がばくばくと、痛いほどに鼓動を刻んでいた。
「あら、上手くいったわね」と、エレンがとぼけた風に言う。
「きっと、トラウマというやつね。彼、長い間その糸に囚われていたから、苦手意識が出来ているのかも」
恨めしそうな目つきで糸原に見られても、エレンはくすくすと微笑をたたえるばかりであった。
「それじゃあ、約束していたから話してあげましょうか。私が、何者なのか」
「……あんたってさ、寂しがりだよね、たぶん」
エレンは何も言わず、少しだけ歩調を速めた。彼女の後ろを、フェンリルを引きずるようにして歩く糸原が続く。
グレイプニルに捕えられたフェンリルは、何も言わず、抵抗せず、ぼうとした様子でただただ糸原たちの後ろを追いかけている。尤も、彼の手首には手錠の如く糸がかけられており、時折、彼女がくいと引っ張って急かしていた。今のところ、フェンリルが何かしでかすような様子は見せていない。
「ここが駒台じゃないってのはなんとなく分かったわ。でも、タルタロスって、つまり何?」
「地獄よ。死者が住まう国でもあるわ。私や、さっきのヤマやアヌビスたちで創り上げた空間と考えてもらって構わない。ただ、規模はあなたの想像以上だと思って」
世界を創る。糸原は何故か、途轍もなく悲しくなった。
「ヤマの地獄。アヌビスのアアル。私の国。あと、三人ばかりで『タルタロス』を形成しているの。そもそも、タルタロスとはギリシャの神なの。それでいて、奈落という存在でもあるわ。……まあ、この世界は名前だけを借りているようなものだけれどね」
「パッチワーク感溢れる場所ってことね。ま、なんとなく分かった。そんじゃあ、あと三人どうにかすればこっから無事に出られるってこと?」
「概ねその通りよ。残っているのは……ああ、川が見えるわね?」
「ええ、それが何?」
この世界はどこまでも荒れ果て、広大である。そして、一定の距離を進むたびに妙な違和感が身を苛む。無理矢理に空間同士を繋いでいる為の、バグのようなものであった。
「あの川で休憩でもするの?」
立ち止まったエレンにつられて、糸原は足を止める。言われずとも、先から見えていた。荒野が途切れている。切り立った岸壁のはざまを流れているのは、底が見えないほどに黒く淀んだ川であった。
「各々の世界をめちゃくちゃに繋いでいるから、本当は違うのだけれど。あれはアケロン川といって、地獄と、そうでない場所の境界線のようなものよ」
「あの川を渡れば、外に出られるの?」
「更に進む必要があるわ。でも、あの川を渡らなければ先には進めない」
低い唸り声が轟く。フェンリルのものではなかった。彼は耳と鼻を動かし、声のした方向へと目を向けている。糸原はその視線を追った。
岸壁の端に、黒い何かが座り込んでいる。三つ首を動かし、鼻を鳴らし、周囲の状況を確かめているらしかった。それは、巨大な獣である。黒々とした毛並みを有した、獅子や像とも見紛うばかりの犬であった。鬣は蛇のように蠢き、ソレの口から垂れた涎は地面を溶かした。
「……何よあれ」
「冥界の番犬よ。ここから逃げ出そうとして、あの川を渡ろうとする者を許さない存在。ハデスの飼い犬、ケルベロス。でも」
エレンは物憂げな息を吐き出す。
「正直、フェンリルの後だと霞んでしまうわね」
「犬だしね。二番煎じというか、柳の下には一匹しかいなかったっていうか」
「弱点も案外多いのよ。甘いものに目がないとか、音楽を聴くと眠ってしまう、とか。ただ、ここには甘いものなんかないのだけれど」
「歌えばいいじゃない」
音痴だから。エレンはそう言って、フェンリルを……彼を縛っているグレイプニルを見つめた。糸原は彼女の意図を察し、苦い表情を浮かべる。
「あんたが戦えばいいんじゃないの?」
「出来るだけリスクは背負いたくないのよ。あの子を殺して、誰かさんの機嫌を損ねるのは……」
「ちょっと。おい。ここまで来て何言ってんのよ。どっちつかずのコウモリなんて汚い真似はやめなさいよね。そうやって何でもかんでも秤にかけてると、どっちも手に入らなくなっちゃうわよ」
恐らく今の発言は糸原の経験から出たものなのだろう。しかし、エレンはまだ決めかねているのだ。
「分かってるわよ。あんたがやらないってんなら、グレイプニル解いて仕掛けるしかないってのが。……ただしフェンリルはどうなるか分かんないって話よね」
フェンリルはぽりぽりと頭を掻いて、視線を虚空に彷徨わせている。時折、腹を撫でて空腹をなだめているようであった。糸原は底意地の悪そうな笑みを見せる。
「……そうか。コウショウのテーブルにつかせんのは、腹いっぱいにさせてからでも遅くないってことね」
糸原はグレイプニルを手元に戻すと、震えを隠しながらフェンリルの背中を叩いた。彼はきょとんとした顔で彼女を見遣る。
「ハングリーボーイ、あそこの犬っころが見えるわよね?」
「い、う。いう。……ぬ。いぬ?」
「あのでかいのよ。アレ、美味しそうに見えない?」
フェンリルは答えず、しかし、口から涎を垂らした。
「食っていいわ、あいつ」
「いいの? たべても、いいの?」
「私が許すわ」と、糸原は飼い主気取りで言う。フェンリルは彼女の態度に気分を害した様子も見せず、小さく頷いた。
「ふふふ。なんだか、最強になったような気がしてきたわ」
この女はいつか必ず痛い目に遭う。エレンはそう確信した。
許しを得たフェンリルは、ケルベロスのもとへ一目散にかけていく。途中、彼の右腕が狼の頭に変化した。
標的の存在を認識したケルベロスは吼え声を上げる。三つの頭がフェンリルをねめつけると、ソレは前足を使って立ち上がった。黒犬と白狼が対峙する。先に飛びかかったのはフェンリルだ。彼はケルベロスの懐に入り込み、三つのうち、真ん中に位置する首へと牙を剥く。だが、左右の首がフェンリルの腕に噛みつき、引き剥がした。彼の右腕、大狼の顔面が憤怒に歪む。
「う、お、こ……ろ」
フェンリルが左腕を伸ばした。ケルベロスは三つの首を伸ばした。
――――犬が。穴蔵の霊風情が。殺してやる。
フェンリルは知っていた。ケルベロスという存在を知っていた。ソレの鳴き声は彼の妹、ヘルの根城であるヘルヘイムに押し込められていても届いていたのだ。
「ころす」
ケルベロスの口腔から煙が上がる。垂れた涎が地面を溶かし、フェンリルの左腕を焦がした。その瞬間、彼は身を震わせ、喉から声を迸らせる。生白く、華奢だったフェンリルの腕が一瞬間と掛からない内に変化した。
狼の脚である。鋭利な爪の先には血肉がこびりついており、刃物のようにぎらついた光を放った。ケルベロスは、伸ばしていた三つの首を全て切り裂かれ、悲鳴を上げる。好機を得たりと、フェンリルは変化させた右腕を伸ばした。
「おまえも、ころすっ」
狼の大口が、ケルベロスの右端にある頭に噛み付いた。ただ、一口では呑み込めず、顔面の半分を食い千切るに留まる。彼は左腕で残った二つの頭を抑えながら、ゆっくりと、冥府の番犬を咀嚼し始めた。血と肉が体の中に浸透していくのを感じ、歓喜に打ち震える。
力だ。力が漲っている。だが、まだ足りない。食えども食えども腹は減り、満たされることはない。
ケルベロスがフェンリルの左腕に牙を突き立てた。耐えられないほどではない。ただ、許容は出来ない。やられたらやり返す。フェンリルは右端の頭を食らい尽くした後、残った頭にも牙を剥く。
「いっ、あ……! あっ、ああっ」
狼の口が真ん中の頭を捉えた。だが、フェンリルも胴体を捕まれてしまう。前足の爪が彼の肩を抉り、口に銜えられ、中空で振り回された。屈辱であった。人の世で力が弱まり、衰えた。このような体でなければ、ケルベロス如き、とうに食い殺しているような相手である。
「う、ううっ」
涙がぽろぽろと零れた。痛くて、苦しくて、辛かった。酷く惨めで、どこまでも自分が情けなく、哀れだった。
「もう、何してんのよ」
「あっ、あ、や、やあっ」
視界の端を光が横切った。銀色の線が目の前に広がる。それの正体が分かった途端、フェンリルは頭を振った。身体が強張り、言うことを利かなくなる。光の正体はグレイプニルであった。彼の身体を長きに渡って戒めてきたモノである。フェンリルにとっては恐怖の対象だ。だから彼は目を瞑り、暗闇に囚われていた頃を思い出す。
獣が哭いた。ふわりと、浮遊感がフェンリルの身を包んだ。その後、彼は尻餅をつき、訳が分からずに周囲の状況を見回す。
ケルベロスの身体には何重にも糸が絡みついていた。フェンリルを銜えていた頭は切断され、漏れた体液が地面を溶かしながら転がっている。グレイプニルに捕えられたソレは四肢を踏んばらせて足掻いたが、動けなかった。番犬は唸り、最後に残った頭で糸の繰り手をねめつけている。糸原四乃は怪物を前にしても動じず、にやりとした、厭らしい笑みを浮かべた。
「上げ膳据え膳ってね。さあ、食っていいわよ。いただきますをしてからだけどね」
ごくりと、フェンリルは唾を飲み込む。
――――こいつ、何だ?
糸原の思惑が読めず、フェンリルは戸惑った。人間であるはずの彼女だが、グレイプニルを扱える。その気になれば自分を縛るどころか、殺せるだろう。何故そうしないのか、フェンリルには分からなかった。
「いただきますは?」
「う……あ」
びくりと体が震える。逡巡の後、やはり空腹には逆らえず、フェンリルはたどたどしい口調でいただきますと告げてから、ケルベロスの身体に食らいついた。
十分と掛からず、ケルベロスの半分はフェンリルの胃の腑に収められた。糸原はその光景を間近で見てしまい、途中でアケロン川に向かって嘔吐した。
「カロンが怒るわね」
「あー、水が欲しい。ねえ、なんかないの?」
「……やめておきなさい。ここにあるものを口にしたら、戻れなくなるから」
あっそう、と、糸原は興味なさげに言って、肩を落とす。
「あっ、あのクソガキ、まだ食うつもりかよ! ずるいっ」
糸原は先の光景など忘れ、つかつかと歩み寄り、フェンリルの頭を叩いた。八つ当たりであった。彼は食事を止め、じっと彼女の顔を見つめる。
「だめ? たべちゃ、だめ?」
「先に行くのよ。……で、どうやって川を渡るんだろ」
アケロン川は広かった。岸壁近くに立った糸原は辺りに目を遣る。橋も、渡し船も見当たらない。反対側まではだいぶ距離があり、助走をつけて跳んでも無駄だと悟った。彼女はエレンに顔を向けて、どうするかを尋ねる。
「おかしいわね。ここには、渡し守がいたんだけど」
エレンは不思議そうに小首を傾げていたが、何かに気づき、ふっと微笑んだ。
「ああ、バレたのね」
「何が? ちょっと、はっきり言いなさいよ」
「ペットがいるなら飼い主だっているはずよ。ここは冥府。守護し、支配する神が……」
『然り』
声が響いた。だが、声の主はどこにも見えない。
「来たわね」と、エレンが身構えた。糸原とフェンリルは視線をあちこちに向けていた。
「飼い主ってやつ? 放し飼いにしてるから悪いんじゃない」
「とはいえ、ここは彼の庭だもの。不法に侵入したのは私たちの方よ」
「だったら素直に噛み殺されろって?」
然りとどこかから声がする。糸原は舌打ちし、虚空を睨みつけた。
「隠れ兜を被っているのよ。自分の姿を見えなくしている。近くにはいる。居場所の特定は出来ないけれどね」
「臭いで分かんないの?」
「う?」
「……犬のくせに」
フェンリルは首を傾げた。糸原は溜め息を吐いた。
ここは自分の知る冥界ではない。かつて自らが支配していた世界ではない。だが、今はここが自分の世界である。ここしかない。
――――しかし、ここから始めるのだ。
地下に息を潜め、死者と暮らす神。彼らと創り上げた新たな世界だけでも充分だったが、長い雌伏の時は野心を芽生えさせる。だから彼は、冥界の王たるハデスは、二又の槍を握り締める。隠れ兜で姿を消しながら、虎視眈々と機を窺う。
ハデスにとっての脅威は三つだ。一つは大狼フェンリル。もう一つはグレイプニルを手にした糸原。最後の一つはこの世界の真の支配者とも呼ぶべきエレンである。最も恐ろしい相手だが、簡単には手を出すことが出来ない。また、彼女に戦う意思がないようにも見受けられた。見定めようとしているのだろう。自分は、他の誰かと一緒に秤にかけられている。口惜しいが、そうするだけの実力がエレンには備わっていた。ならばと、ハデスは最初に排除すべきモノを見遣る。
血煙が上がった。フェンリルの腕が落下し、彼は目を丸くさせる。フェンリルの隣にいた糸原がグレイプニルで周囲を刻むも、手応えは感じられなかった。
「う、え、うえ、が……」
フェンリルは傷口を抑え、鼻水を啜る。
「仕掛けてきたわね。たぶん、標的はあなたたち二人のどちらかよ」
「あんたは狙われないっての!?」
「少なくとも今は」
エレンは息を吐き、その場に座った。糸原は舌打ちし、周囲に糸の結界を張り巡らせようとして、気づく。ここはフェンリルと戦ったような先の場所と違い、大きな岩や木が……糸を『くくりつけられるような』ものがない。彼女の得物の真価を最大限に発揮出来る場所ではなかった。
「ああもう、辛気臭いしやり辛いやつらばっか!」
必ず抜け出してやる。行く手を遮る者は全て切り刻んでやる。糸原はそう決意し、グレイプニルで虚空を切り裂いた。