太陽と月に背いて
「お父様は何故、私を追い遣るのでしょう。私は何故、暗く、乾いた土地で暮らさねばならないのでしょう」
女神は嘆いた。彼女は神々の王の娘であったが、冥界での暮らしを余儀なくされていた。
「ああ、何故あの子は明るく、眩しいのでしょう。どうして私はこんなにも、こんなにも……!」
女神は嘆いた。彼女は闇を司るが、実の妹は光を司り、愛を知っていた。
やがて女神は闇を愛し、自らの土地を愛した。光を嫌い、憎んだ。
太陽は天頂を上った。今年最後の日もその半分を過ぎている。時間はもう、残り少ないのだろう。
「空はこんなに黒いのに」
呟いたのは、フードを目深に被った女、エレンであった。彼女は自分の庭でもある監獄を散歩しつつ、とある檻の中を覗き込んだ。
血や汗によって赤錆びた鉄格子の向こうで、一人の女がじっと息を殺している。四畳にも満たぬ空間で機を窺うかのように目を輝かせている。彼女の名は糸原四乃。数日前、一一の身代わりとなってここ、タルタロスに連行されたのだ。
糸原はエレンの姿を認め、愉しげに口を開く。
「今、何時? 何日?」
「時間なんて気にしてどうするのかしら。ここはいつだって砂と土しかなくって、光なんてどれだけ待っても差し込まないのだから」
「間に合わなかったら後味悪いじゃないの」
胡坐をかき、顔を上げた。糸原はその姿勢のまま、じっとエレンの顔を見つめる。
「ふふ、そうね。時間なら経っているわ。あなたの知己が死に、また一人、誰かが天へと上るかもしれないってくらいには。ああ、心配しなくても、ここへ来る子はいないから」
「……ねえ、お願いがあるんだけど」
「ここから出たいの?」
エレンは屈み、糸原と目線を合わせた。
「出たいのね。前みたいに」
ぐっと、糸原は唾を飲み込む。彼女は以前、ここに捕えられていた時期があった。だが、北欧の神具レージングを奪い、まんまと抜け出すことに成功している。糸原を手助けした者がいるのだ。その人物こそ、タルタロスの住人でもあるエレンその人であった。彼女が何を思い、何を考えて糸原の脱出に手を貸したのかは分からない。だからこそ糸原は考えあぐねていた。
「どうして、あの時は私を助けたのよ」
「さあ、何故かしら」
「はっきり言うと迷惑なんだけど。期待しちゃうし、計算しちゃうじゃない。あんたがいるから、ここに連れてこられても何とかなるって思っちゃったのよ。で、私はまたここにいる。どうしてくれんのよ」
くすくすと笑い、エレンは白い指を自らの唇に当てる。
「素直に言えばいいじゃない。助けてくださいって。裸になってそこに頭を擦りつければ、可哀想だと思った誰かが牢屋の鍵を開けてくれるかもしれないわよ」
「私が素直だったらこんなところにはね、最初からいてないっつーの」
糸原は口角をつり上げた。囚われの身とは思えない態度であった。
「ようし、取引しようぜミステリアスパートナー。あんたの欲しいものをどうにかして手に入れてあげる。だから」
「無理よ。私の欲しいものは、あなたの手には大き過ぎるもの」
「言ってよ。じゃないと話が進まないし、私はここから出られないじゃない。何が欲しいの?」
エレンは自嘲気味な笑みを見せる。
「……光よ。私はそれが欲しい」
光。呟き、糸原は唸り、目を瞑った。
「だったら話は簡単じゃん。一緒に外、出ましょうか。出られないなんて言うつもりじゃあないでしょうね」
エレンは光が欲しい。
暗く、乾いた世界には飽いている。
だが、恐ろしかった。知らないものが怖いのだ。だからエレンは外から人を招き、話を聞くのが好きだった。未知を既知に変えるのが好きだった。
「無理よ。外に出たら、きっと、目が潰れてしまう」
眩し過ぎて、自分はきっと死んでしまうのだろう。エレンは首を横に振り、糸原に背を向けた。
「私はきっと、溶けてなくなってしまう」
「……確かに外は怖いわよ。今はたぶん、色んなやつらがうろついているんだろうし。でもね、あんたは外に出たいって思った。だから、私からも、一からも話を聞いたんじゃないの。未練とか、後悔とか、抱えたままでいいの? 私は嫌よ」
一一。彼にも、同じようなことを何度も言われていた。エレンはぼうとした様子で立ち上がる。その瞬間、格子の向こうから腕が伸びた。糸原は彼女のフードを引っ張り、無理矢理に引き寄せてから襟首を掴む。
「出せって言ってんのよ」
「ここがどういう世界なのか、分かっているの?」
振り解くどころか、エレンがその気になれば糸原は土か、埃にも変えられる。だが、エレンはそうはしなかった。面白そうに彼女を見つめている。
「知るかっ。んなもん、興味ないっつーの」
「そう」
糸原は興味がないと切って捨てた。ここは、自分たちにとって最後の領地である。ここ以外にエレンたちの居場所などないのだ。
「私たちは、地上を自分たちの世界にするわ」
タルタロスは進撃する。地下で、闇で、息を殺し続ける時は終わった。かの王が外道に堕ち、魔を引き連れて進むのなら、自分たちはその期に乗じるだけである。
「光も闇も、私たちが……私が呑み込む」
「何言ってんの、あんた」
エレンが微笑む。彼女と、糸原とを阻んでいた鉄の格子が砂に変わった。糸原は瞠目し、彼女から手を放す。袖口についた砂を払い、エレンから距離を取る。
「私は怖いのよ。こうやって、好ましく思っているものを砂に変えてしまうのではないかって。何もかも怖い。けれど、欲しい……!」
床が、壁が、天井が、砂となり、埃に変わり、乾いた空気が糸原たちを包み込む。彼女は周囲を見回した。土がある。岩がある。しかし他には何もない。どこまでも広がっているであろう荒野だ。それしかない。
「欲しいのよ。ここにはない何もかもが。……あなたを逃がしてあげたのは単なる気まぐれ。羽虫が蜘蛛の巣に引っかかっていたから、ちょっと助けてあげただけ。二度目があるかなんて、そんなの誰にも分からない」
エレンは気だるそうに右手を伸ばす。
「誰も帰らない。何も還らない。この世界を見ても、あなたはまだ言うの? ここには光の一筋だって差し込まない。あなたはどこに帰ると言うのかしら」
糸原はエレンの顔をじっと見つめ、空を指した。
「うちに。うちに帰るのよ、私は。あんたがただものじゃないってのは最初から知ってるの。だからこそ言うのよ。あんたにしか、私を助けられない」
「だったらあなたは私を助けてくれるの?」
「助けろってんならいくらでも助けてあげるわよ。あんたらが地上に出た後、何をしたって構わない。世界を支配しようが滅亡させようがそんなの私の知ったこっちゃないもんね。ただ、私たちに手を出そうってんなら、どうやったって許さない」
糸原四乃には武器がない。得物がなければ力もない。この場、この時、この世界にいる限り、彼女は塵と変わらない。
「お願い。会わなきゃだめなの。守ってやりたいのよ。もう、そうしてやれるのが私しかいないんだ」
「ハジメね。あの子に会いたいのね」
その名を口にした瞬間、エレンの声に熱が宿った。彼女自身は未だ気づいていないことであった。
「一に、あんただって借りがあるはずよ」
「どうかしらね。そんなこと、どうしてあなたに分かるのかしら」
「私はあんたのことを何も分かってないけど、あいつのことなら結構、色々分かってるつもりよ。こんなところにいるやつを、あいつは放置出来なさそうだしね」
なるほどと、エレンは内心で頷きかける。そして彼女は考える。自分が欲しいものを。この世で一等、手に入れたいものを。『タルタロス』に与したままで手に入るものなのかどうかを。
「なら、助けてあげる。でも、その前に一つ助けてもらおうかしら。いえ、まずは先に助かってもらうと言った方がいいのかもしれないわ」
「……何よ」
「もしも上手くいったなら、その時はあなたにいいものをあげる。さ、ついてきなさい」
先導され、エレンの背を見ながら歩く。糸原は鼻をすんすんと鳴らし、つまらなさそうに溜め息を吐き出した。
「ねえ、どこに連れて行こうっての」
「どこまで行ってもここは死の国よ」
「死……? でも、まだ私は死んでない」
だから。そう言ってエレンは立ち止まる。
「本当なら、ここには死人しか来られない。ここの住人に招かれた者だけが、生者であろうと立ち寄れる。そういう場所なのよ。あなたたち、勤務外よね。私たちは、あなたたちオンリーワンにこの場所を貸してあげてるのよ」
「ここを? そんなの、何の為に」
「邪魔なものを追い遣る為でしょうね。ここは広いから、別段気にしないけれど。その代り、私たちは人を借りて地上のことを教えてもらっていたの」
貸し倉庫みたいなものかと、糸原は噛み砕いて納得した。エレンは再び歩き出す。
「あなた、魔法はご存じ?」
「知り合いが魔女に遭ったって言ってたから、少しくらいは。『館』って連中とかね」
「そう。けど、あの子たちは所詮、人なのよ。ただ、例外はいたけれどね。……ここはある意味魔法の国なの。オンリーワンはタルタロスと呼ぶけれど、実際のところ、そうじゃない。タルタロスでもある、そう言った方が正しいわ」
「もしかしてあんた、自分を魔女とでも言いたいの?」
糸原がエレンの隣に並ぶ。彼女は首を横に振り、歩くペースを少しだけ上げた。
「失礼ね、あなた。……さ、ついたわ」
エレンが手をかざす。ぱきりと、乾いた音が目の前で鳴った。何もなかった空間にひびが入り、硝子のように砕けてしまう。同時、低い唸り声が聞こえた。糸原は空気が変わるのを感じ、思わず身震いする。強烈な獣臭と重圧だ。目を瞑り、恐怖に耐える。次に瞼を開いた時、荒野が消え失せ、闇が広がっていた。振り返るも、やはり、来た道はどこにも見当たらない。
「……何がいるのよ。ねえ、あんた。あんたらは、ここで何を飼ってるの?」
「飼ってなどいないわ。もとより、彼を飼い慣らせる者なんてどこにもいないもの。さあ、まずは助かりなさい。彼と話し、気に入られるのが先決よ」
かちかちと、擦れるような音が聞こえた。ずりずりと、引きずるような足音が聞こえた。糸原は前方に目を凝らす。……這っていた。何者かが這いつくばり、少しずつ近づいてくる。
「あんたら、マジで何なの?」
子供であった。年端もいかぬ、少年とも少女とも思える襤褸切れだけを着た子が、全身を紐で縛られ、足枷をされ、二つの大きな石に括りつけられている。子はそれらに拘束されながらも、ゆっくりと距離を詰めていた。それは、彼女には冬の精霊に思えた。肌は白く透き通り、血管さえ浮き出ている。
「ぇん、いぅ……」
「言葉を忘れているのね。長い間、ずっとこうだったから」
冷静なエレンをねめつけると、糸原は少年を解放してやろうとして足を踏み出した。
「その子、あなたを殺すわよ」
「……は?」
「悪名高き、ヴァン河の怪物。それが彼よ。放てば、もう私たちでも抑えられない。何をされるか分からないのよ」
よく見ると、足枷は壊れそうであった。少年の身体のどこからそんな力が湧くのか。否、そも、これは。
「ねえ、誰なの、あんたは」
問いかける。少年は顔を上げ、糸原の目を覗いた。
「えん、りう……」
「……フェンリル。北欧神話最強の魔獣と言ってもいい。彼は、この世で最も恐ろしい狼なの。人狼とは違う。人がそれに変わるのではなく、狼が人にもなれるということ。彼は生まれながらにして魔の法を扱えるのよ」
「だけど、ガキじゃないの」
「……長い間、人に近いところにいるから弱ったのね。でも、彼はただの子供なんかじゃあないのよ。外見に惑わされて、食べられないように」
そう言われるも、あまりにも無慈悲な光景である。糸原はフェンリルの顔をじっと見下ろす。
「えん、りう……」
フェンリルの舌に針のような刃物が突き刺さっていた。これのせいで喋りづらそうにしているのだろう。糸原は屈み込み、手を伸ばした。
「じっとしてなさい。とったげるから。……動くなって言ってんの」
フェンリルは舌を伸ばし、目だけで糸原を捉える。涎がつうと糸を引き、彼女の手の甲に垂れた。糸原は針の先端を指でつまみ、一息で引き抜いた。
「う、あううぅぅ」
「我慢なさいよ、男なんでしょ?」
「だから、弱ってるって言ったじゃない」
抜いた針を見遣ると、フェンリルは何度も舌を出し入れし、表情を綻ばせる。
「弱ってるっつーか、なんか、幼児退行みたいなんなってない?」
「……最後にこの子を見たのは、ええと、いつだったかしら。その時はまだ狼の姿をしていたはずよ。ここまで弱っちゃうのねえ」
「他人事みたく言ってるけど、あんたらの仕業でしょ」
「フェンリルを置いていったのは彼の妹よ。自分では抑えられないから私に押しつけたのね」
糸原はフェンリルを見下ろす。白い肌、白い髪、黒い目。華奢な体躯は雁字搦めに封じられている。だが、人とは思えない。獣を前にしているようなプレッシャーを覚える。
「あんたは、私に何をさせたいの。このガキをどうにかしろっての?」
「殺せるものなら殺してもらってもよかったけれど、きっと無理ね。改めて目にしたけど、ちょっと怖いわ。私の魔法でも、彼を砂に変えるのは骨が折れそうだもの」
「お、こ、ころすの? わたしを?」
つぶらな瞳であった。フェンリルは、親に縋るような目で糸原を見ている。
「……あなたには武器がないはずよ。レージングもドローミも失っている」
赤い少女に、アグニに、糸原は得物をなくされている。これから先、徒手空拳で戦うには、相手はあまりにも強大過ぎた。エレンは、自分に武器を与えようとしている。そのことに気づいていた糸原だが、並の代償ではないのだろうとも知っていた。
「あなたには戦う力をあげようと思った。見なさい、その紐を。いいえ、糸と呼ぶべきかしら。この世にないものを知ってる? 猫の足音、女の髭、岩の根、熊の腱、魚の息、鳥の唾液。この世から失せた六つの素材。これらを使い、小人たちがあるものを作った為に消えたのよ。それがその糸、魔法の枷」
フェンリルが唸る。怒りをあらわにして、自らを戒めるモノをねめつける。
「貪り食うもの。彼を封じる為だけに作られた、この世で最も柔らかく、この世で最も固いもの。イトハラシノ。あなたには、この意味が分かるかしら?」
唾を飲み込む。一目で分かった。これさえ、グレイプニルさえあれば戦える。以前に使っていたモノとは比較にならない。エレンはこの糸を解き、自分に与えようとしている。しかし、グレイプニルを解けばフェンリルが放たれるのだ。彼女の話が真実なら、彼は稀代の魔獣である。
「なんだ。どっちにしろ死ぬかもしれないんじゃない」
フェンリルに殺されるのを恐れれば、武器を手に出来ないまま地上へ上がる。駒台の街で何が起こっているのかは分からないが、ろくでもないことに決まっていた。ソレに襲われれば成す術なく、死ぬだろう。
武器がないのを恐れ、グレイプニルを手にすれば、その瞬間、フェンリルに襲われるかもしれない。彼の力は分からないが、何らかの魔法を扱えるエレンでさえ嫌がる相手なのだ。ただではすまないだろう。
糸原はエレンの横顔を見遣った。彼女はその視線に気づき、艶然とした様子で微笑む。どうするのか問われているような気がして、糸原は覚悟を決めた。
「ねえ、あんたにも欲しいもんがあるんじゃないの?」
顔を覗き込まれる。
「私が手伝うわ、それ。だからさ、まあ、私たちを殺さないでくんないかな。どうしてもやんなきゃだめなことがあんのよ、私」
くん、と、フェンリルを鼻を鳴らした。嫌な臭いだった。目の前の女は他人を騙し、奪うことに長け、慣れている。きっと自分のことも騙そうとしているに違いない。
だが、欲しいものはあった。それは命である。自分以外の何もかもの生が憎かった。
「ほしい、もの……」
言葉は次第に思い出す。舌の傷もじきに治るだろう。喰えば力も戻るはずだ。
「ほしい、のは」
――――殺してやる。
フェンリルは内心で歪んだ笑みを浮かべる。噛み殺してやる。目の前の女どもだけではない。目についた端から壊して殺す。もう誰も信用しないと決めたのだ。
「おあか、おあかが……すいた」
「ねえ、ちょっと、どんだけエサやってないの?」
「覚えてないわ」とエレンが嘯く。フェンリルは目を瞑った。それにしても、腹が空いた。どんなゲテモノでも構わない。空いた箇所を満たしてやりたかった。
「じゃ、約束してよね。これ解いてあげるから、私らは殺さないこと。で、私はあんたにご飯を奢ってやろうじゃないの。有り難く思いなさい。私が自分以外の誰かの為にお金を使うなんて、めったにない事なんだから」
糸原が目を細めて、右腕を差し出した。フェンリルはその腕を見つめた。
「とは言っても、信じないわよね。だから前金ってのを払っとくわ。ここにはなーんにも食べられそうなものがないから、これで我慢してちょうだい」
「お、おお」
肉だ。肉がある。フェンリルは口を開け、舌を伸ばす。
「……止めておきなさい。冗談では済まなくなるわ。片腕だけでこの先、どうするの?」
冗談では済まさない。片腕だけでは済まさない。フェンリルは糸原の行為に驚喜した。
「先なんて、誰が保証してくれんのよ。五体満足で進める先なんてね、もうどこにもないの。体全部燃やされたって、やらなくちゃだめなのよ、私は。……で、これ、食べる?」
同時に、フェンリルは思い出した。初めてこの枷に囚われた時のことを。彼女のような真似をした、勇気ある者の存在を。
「う、そだ」
「……あ?」
「うそだ」
嘘だと思った。また自分を騙そうとしているのだと思った。
「嘘だと思う? だったら、はい。好きにしたら? さ、早いとここいつの縄、解いちゃって」
エレンが息を呑む。口約束とはいえ、相手は北欧の大魔獣だ。かつて、神々に災いを齎し、最高神をも呑み込んでいる。
「……グレイプニルを解き、あなたが使えるように誂えるには一分はかかるわ。その間に右腕だけで済むと思っているの?」
「やりなさい。私の身体は高くつくってのを見せてやるから」
「あ、う、ううううう」
殺してやる。必ず。自分を見捨て、ここに括りつけたものを何もかも。フェンリルは大口を開け、その時を待った。
「やはり影だったか。あの女」
「仕方あるまいよ。アレは、我等の中でも変わり種よ。何を企み、思っているのか誰にも分からん」
斑の犬がぐるると唸る。顔には四つの目がついていた。異形の頭を撫でるのは、紺色の着物を纏った大柄な男である。長い顎鬚を蓄えた彼は、低い声で笑った。
大男の隣に立つのは、細身の若い男である。彼は褐色の肌を露わにし、腰巻しか身に着けていない。
荒野の中、黒点がある。それはヘルヘイムへと繋がる穴だった。二人の男は、自分たちを裏切ったであろう女が漆黒の空間にいるのを見遣り、次いで、どこか見覚えのあるスーツの女と、
「……何?」
フェンリルの存在を認めた。
「成程。かの魔狼を使い、アアルを突破するつもりか」
若い男は眉ひとつ動かさず、事態を把握する。傍らの男は顎鬚を扱きながら低く唸った。
「解せんがなあ。あの女の力なら、回りくどいことをせんでもええと思うが」
「根暗の考えることは、俺には分からん」
「お前が言うかね、お前が。……さて、どうするね?」
決まっていると、若い男は短く告げた。
誰もいなかったはずの荒野に二人の男が立っている。彼らは異形を連れ、こちらを見ていた。
「誰? あんたの知り合い?」
「知り合いと言えば知り合いなのだけれどね」
エレンは物憂げな息を吐く。
「出くわせば嬉々として殺し合うような仲でもないけれど、かと言って仲良く立ち話をするような間柄でもないわ。たぶん、私を殺しに来たのでしょう」
糸原は目を細め、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「へえ? それって、私を助けたから」
「勘違いしないでちょうだい。まだ助けている途中よ。どうあれ、あの二人には勘違いされてしまったみたいだけど」
「どうする? やんの?」
気楽そうに糸原が言う。エレンはこの女を砂に変えてやろうかと思った。フェンリルにとってあの二人は憎らしい存在である。彼の表情こそ大きく変わってはいないが、さっきから目が血走っていた。
「褐色の男がアヌビス。髭の男がヤマ。彼らは……ある意味王様ね。この世界を、私たちと分割統治していると、そう考えてもらって構わないわ」
「強いの?」
「どうかしらね」
エレンは、殺される気がしなかった。この世界を創り出したのは自分たちだが、その中で最も広大な領土を所有しているのは彼女自身である。死の国を統べているという自負があった。
「お、あ、わ、わたし……」
フェンリルがじたばたともがく。糸原は彼の頭を叩き、黙らせた。だがフェンリルは収まらず、ぐるりと回り、アヌビスとヤマをねめつける。
「おなかがああ、すいたの! ひとのうでよりも、あえ、あえがっ、あえがいい!」
「……どういうこと?」
「長々と説明している時間はないけれど、彼は、私を含めたここの神様たちに縛られたのよ。尤も、私はその後、彼の面倒をごくたまに看ていたから、そこまで嫌われていないらしいけれどね」
ああ、と、糸原が口を開く。
「じゃあ、あんた、自由にしてあげるから、食べてもいいわよ」
「ほ、ほんとう?」
何を言っているのだ、この女は。エレンは首を横に振る。糸原が持ちかけたのはあまりにも無謀で、考えなしの提案であった。
「まさか、フェンリルを飼い慣らせるとでも思っているの?」
「いや、ペットなら間に合ってるし。つーか、さあ」
糸原はエレンの耳元に顔を寄せる。
「チャンスじゃない? このガキから糸を取り上げたって、私らはすぐに襲われない。ガキがあの二人を襲ってる間、私にグレイプニルってのを寄越しなさい。元はガキを封じ込める為に作ったもんなんでしょ? 手元にあるんなら、最悪、また縛ってやればいいのよ。どの道選べる道なんかない。あんただって欲しいものがあるから覚悟して、私に手を貸そうとしてるんだ。違う?」
「ハジメにもあなたみたいな強引さがあればって、今はそう思うわ」
アヌビス、ヤマが動く。彼らは指笛を鳴らし、しもべの獣を糸原たちのもとへ向かわせた。
迷っている暇はない。フェンリルがどう動こうが、ここで動かなければ後はない。糸原は祈るように手を組み、目を瞑る。エレンは彼女の所作を微笑ましく思い、グレイプニルの解放作業に移った。