みんなくたばるサァサァサァ
黄衣ナコトの目的は達成された。ハスターの風を受けたヴィヴィアンの肉体はこの世から消えてなくなった。
魔女は狩られ、死んだのだ。だが、釈然としない。ナコトは消化不良の思いを抱えたまま、ヴィヴィアンの倒れていた場所を見遣る。
「……どうして」
どうして。 どうして、抵抗しなかったのだ。ヴィヴィアンにはまだ魔力が残されており、戦う術を幾つも持ち合わせていたはずだ。そも、何故に大技を使わなかったのだ。彼女が本気になれば、周囲一帯が焦土と化していたはずである。ナコトは目を瞑った。考えても考えても、どうしようもないと思ったのだ。
ただ、どうしても一つだけ気になることがあった。それはヴィヴィアンの目的である。突き詰めれば、魔力を必要以上に使わなかったのも、無抵抗で風に切り刻まれたのも、彼女の目的によるものなのかもしれなかった。……橋に来て、一たちと戦っていたのは、時間稼ぎをしている風にも見えていた。ならば、何の為に。
――――誰の、為に。
ナコトは失念していた。ヴィヴィアンもまた『円卓』に座るものなのだ。ならば、彼女が誰の為に行動しているのか、すぐにでも分かるはずだった。
ナコトだけではない。一時の勝利。その余韻に浸るのは女神も、英雄も同じであった。ヴィヴィアンが消えたことによって、橋にいたソレの大部分は姿を消し、ベイリンたちの鎧も動かなくなっている。皆、疲れて動けなかった。
「……え、あ?」
失った片目がずきりと疼く。ナコトは前方に視線を向けた。ゆっくりと、足を引きずるようにして進む男が見えた。彼が歩く度、金属同士が擦れるような音が軋んだ。
ヴィヴィアンの願いは誰も知らない。彼女本人と、彼を除いては。
「ヴィヴィ……アヴァロンに帰ったか。今まで、よく仕えてくれた」
しわがれた声は優しい。西洋の、抜身の剣を引きずりながら歩くのは、齢六十か、七十にも見える老人であった。彼は日本人ではなく、くすんだ黄金色の髪を三つ編みにして垂らしている。中世の農民が着ていたようなシャツとズボンは所々が擦り切れていた。ともすれば路上生活者のようないでたちである。だが、男の瞳には確かな光が宿っていた。強い意志を秘めた碧眼は、彼の前に立つ者たちをぎょろりとねめつける。足取りに力はない。しかし決して歩みを止めることはない。
「ああ、そうか。畜生。そういうことだったんですか……!」
魔女に目的はない。あるのは役目で、機能である。彼女はきっと、彼の到着を待っていたのだ。そのことに思い至ったナコトは舌打ちし、魔導書を強くかき抱く。彼女だけでなく、この場にいた殆どの者は男の正体に気が付いた。
ヴィヴィアンの逝った場所に立つと、男は剣を杖代わりにしてその場に立ち止まる。目を瞑り、静かに涙を流した。誰も、彼に手を出すことは出来なかった。
「……あいつが、『円卓』の」
一は楯列の傍に屈みながら、男から目を逸らせない。彼こそが、『王』なのだと理解する。
そして王は、一たちを見た。確かに認め、口元を緩めた。
「お初にお目にかかる。そうでない者もいるようだが、些事か。これで最後になるかもしれないのだから名乗らせていただこう。私は『円卓の奇士』が一人、アーサー・ペンドラゴン。貴君らの敵、といったところなのだろうな」
言って、王は剣を掲げる。天を向いた切っ先も、刀身も赤錆びていた。
アーサー・ペンドラゴン。
彼は竜の名を継ぎ、名剣を振るい、数多の敵を打ち滅ぼした。
アーサーに関するエピソードもモチーフも出展によってばらばらだ。が、確かなことはある。アーサーは偉大な王であり、英雄であった。敵国の侵攻を妨げ、打ち払い、英国を救ったのだ。海を越え、時を越え、彼は当世においても王としてあり続ける。
「『円卓の騎士』の親玉か。やっとケリがつけられんじゃねえか」
一が立ち上がり、アーサーをしっかと見据えた。その視線を受けたアーサーは口元を緩める。
「騎士、か」
アーサーは笑みを深めた。自分たちはラウンドオブナイツを名乗ってこそいるが、騎士ではない。自ら騎士だとは名乗らない。騎士でなく奇士である。『円卓の奇士』は紛い物であり未練の証左だ。人を外れ、人道を外れた者たちの寄せ集めだ。かつて王と貴ばれ、神と呼ばれたモノも現代の世ではソレと一括りにされるだけだ。魑魅魍魎の類と変わらない。
「そう呼ぶか。私を。私たちを」
だから一の言葉は有り難く、彼らの視線は面映ゆくもあった。……アーサーは死者を思った。既に、この世のものではなかった自分たちが、再び大地を踏みしめ、大気に抱かれることになろうとは誰が思ったろう。誰の考えた絡繰りだろう。ただ、いるからにはやるだけだ。
世界は変わってしまった。ただ、アーサーに今の世を否定するつもりはない。時は流れ、移り行くものだと知っているからだ。そして世界を変えたいとも思わない。英国はもはや自分のものではなく、居場所などないからだ。が、ここにはアヴァロンもない。未開の地も未踏の地もなく、開拓され開発され切っている。
――――ならば私たちの安住の地はどこにある。
たぶん、どこにもないのだ。
だからこそ他の奇士は人と戦った。アーサーは人の目を隠れ、穏やかに過ごそうと思っていたが、その道を選べなくなったと悟った。所詮、自分たちは人ではない。『円卓』に座るモノが集まった時に、心のどこかでは、いずれ必ずこうなるのだと諦めていたのかもしれない。
「私は、一応は人なんだがね」
「それでもお前らは人を食って、殺しただろうが」
蛇神たちと一緒くたにされたくはなかった。しかし彼らは仲間である。逝った者たちの死は悲しく、嘆いた。だが、摂理である。肉体を得たのであれば肉体的な死が訪れるのは当然だ。何より、自分は人間である。人を食らったことはない。人の命を食らっただけだ。そしてアーサーは人間という種族を、存在を愛している。王の使命を全うしたのち、彼はアヴァロンと呼ばれる穏やかな場所で過ごした。その生活の中で、アーサーは自らが裏切られたことも許容出来るようになった。時間は人を丸くさせる。諦めさせる。
「君は信じないだろうが、私は、人が好きなんだ」
人は好きだ。人を愛している。だからこそ、自分たちのようなモノに負けて欲しくなかった。局地的に見れば人は弱く脆いだろう。しかし、この世を掌握するのは人なのだ。何故ならば――――。
「戻ったか」
剣の柄を握っていたアーサーの右腕が力を取り戻す。ヴィヴィアンが死の際、魔力を彼に渡していたのだ。彼女の役割は、つまるところそれである。ヴィヴィアンはアーサーに力を渡す為だけに『円卓の奇士』となったのだから。
枯れ枝のようだったアーサーの腕に血と肉が宿り肥大化する。外見に似合わぬ軽い動作で虚空を裂くと、彼は剣をだらりと下げた。
一のすぐ傍を風が吹き抜けた。既視感を覚えた彼は思考を巡らせる。が、後方からの悲鳴に全てを奪われた。振り向き、血飛沫が上がっているのを認める。誰のものか確かめる前にアーサーが口を開いた。
「これは仲間に教えてもらった技でね。何かを極めようとするのは、その何かがなんであれ美しく、素晴らしいことだと私は思う。この歳になるまで知らなかった」
ぱっくりと顔面を横に切り裂かれ、すっぱりと頭部を切断されたのは女神の近くにいた少女、ニケであった。
「斬撃とは飛ぶのだな」
一は目を見開く。やせ細り、強い風が吹けば倒れてしまいそうだったアーサーの肉体が若返っていた。しわがれた声には張りが戻り、くすんでいた金髪は光り輝き、乾いた肌にも瑞々しさが宿っている。蒼い瞳には力強さがあった。
「ふむ、卑怯とは言わないな。素晴らしい。戦いならもう、とうに始まっているのだから。さあ、構えるんだ。勝利の女神がいなければ戦えないとでも言うのか、君らは」
「野郎、ハナっからあの子を狙ってやがった」
アラクネやアレスとの戦いの際にも、一たちに味方していたニケは、彼らに勝利という名の栄光を呼び込んだ。だが、彼女はあっけなく死んだ。血は流れ骸は晒され、勝利の女神の死は駒台の地へ永劫にこびりついたのだ。
変わり果てたニケを見下ろし、アテナは喉の奥で笑みを噛み殺した。おかしかった。自分たちは神だが、こうして、あっけなく、あっという間に死ねる。殺される。現世を渡り歩くのに肉の器は脆く、頼りない。しかし体がなければ何も出来ないのだ。
「人が好き、なんて」
アーサーはそう言った。アテナも人は好きだった。だからと、彼女は思う。人間はきっと、人を好きだとは言わないのだ。人という種や存在そのものを好きになるのは、人以外の何かでしかない。
アーサーは勝利の女神を知っている。彼はニケを脅威だと判断し、排除したのだろう。……ヴィヴィアンが死んだ今、彼女の掛けていた魔法は消え、魔力の全てはアーサーへと還った。一を矢面には立たせられない。アテナはニケの骸から、名残を断ち切るかのように目を逸らし、前を向く。
「退きなさい、人間たちよ」
何かを感じ取ったのか、早田が楯列を背負い、一と共に後ずさりを始めた。敏い子だとアテナは微笑む。恐らく、この場では彼女こそが最も人間らしい存在なのだ。誤魔化さず、恐怖を恐怖として捉え、逃れようとする。それでいいとアテナは思った。
「手強いのが来たなあ」と、アーサーが好戦的な笑みを浮かべる。
「退きなさいと言ったのよ、一」
アテナの前に一が立った。彼は獰猛な光を目の奥に宿している。狂気に駆られているのだ。
「逃げたって変わらねえ。ここでこいつを殺せば、全部が終わるんだろうがよ」
「私を殺す、か。是非、お願いしたいな」
「……勝てないわ。きっと皆、殺されてしまう」
一がアテナに顔を向ける。彼は女神の弱気を信じられなかった。
「あんたらしくないと思うぜ。全員でかかりゃあ、こんなやつ……!」
アーサーを殺せば彼自身は止まるだろう。ただ、彼の同胞はどうだろうか。また、街で好き勝手に暴れ回る怪物どもはどうなるものか。第一、彼ら全てを打ち倒しても別の怪物がやってくるだろう。終わらないのだ。一の指す『終わり』とアテナの思う『終わり』とは別物であった。
「一。人間の力の本質、本当とはね、怒りでも憎しみでもない。誰かを殺し、何かを壊すことではないの。想い、生み、創ることにあるの。私たちのようなモノを生かすのも殺すのも、何もかもあなたたち人間次第なのよ。そのことをどうか、忘れないで」
興味深そうに、アーサーはアテナを見遣った。それは、何かを探るような目つきであった。
「私が死ねば、アイギスもメドゥーサの力も消えてなくなるわ。一日だってもたないかもしれない。あなたは戦う術を失ってしまうでしょう。でも、もう、許してあげる。あなたを人間に戻してあげる」
「……何を、言ってんだ?」
「ステンノとエウリュアレ。短い間だけど、あの二人は預けておくわ。最後の時間を姉妹で仲良く過ごさせてあげる。あの子たちのことを、残った子たちのことをお願いね。ごめんね。巻き込んでしまって。今更、何も信じてくれないと思うけど、本当に、ごめんなさい」
一が何か言いかけるが、アテナは彼を後方に突き飛ばし、アーサーと対峙する。彼は剣を素振りし、長い息を吐き出した。
「かりそめの姿とはいえ、女神が相手か。昂るというものだ」
「お互い様よ、王様」
人間たちよ。案ずることはないと、アテナは小さく微笑んだ。勝利の女神は翼を捥がれ、この地にて息絶えた。ならば彼女は未来永劫、駒台という地に勝利をもたらし続けるのだろう。
アテナに突き飛ばされ、一はシルフに助けられる形で橋の欄干に降り立った。
「何してくれてんだ、あの女!」
「だめだニンゲンっ。あいつ、もう……!」
「謝ってくれてんじゃねえよっ。俺だろうが! 勘違いすんなよ! 最後の最後であんたに力を貸してくれって! 頭下げたのは俺だったろうが! あんたが頭を下げてんじゃねえよ! もう、いいんだから! だからっ」
アーサーの剣とアテナの盾が衝突する。激突し、火花を散らしてせめぎ合う。一はすぐにでも彼らのところへ向かいたかったが、シルフがさせなかった。彼女は後方へと距離を取り、暴れる一を必死に抑えている。
「離せよっ、離してくれ! ここでやらなくちゃ意味がねえんだ!」
「馬鹿野郎! 考えろバカ! あんなやばい神様が逃げろってんだぞ!? オマエ、あんなの相手したら殺されるんだぞ!?」
「俺だけ逃げろってのか! そんなこと出来るかよ! ここまで来たんだ! ここまで!」
一はアーサーをねめつけようとして前を向く。瞬間、見てはいけないものを目にした。少なくとも、彼だけは見てはいけなかったのだ。ヴィヴィアンが死に、一にかかっていた魔法は全て解かれた。
「……あ、が」
耐えられない。激痛が走る頭を押さえ、一はアイギスを手放した。ビニール傘になったそれは川に向かって落ちていく。彼は頭を振り、苦痛の声を上げた。嫌だ嫌だと喚き、涙を流した。
場に現れたのは黒い風であった。皆の視線を掻っ攫うかのように空を翔けてきたのは、下界の衣服に身を包んだ有翼の女人たちである。だが、彼女らは天使ではなく天女でもない。
「ぎゃっ、はははははははは! やってますか王サマー!? ちょーっと遅れちゃったけどごめんねえ! そんかし、こっからうちら、めっちゃ殺しまくってやっからさあ!」
耳障りな声で笑い、中空から見下ろすのはハルピュイアと呼ばれるソレであった。寄橋周囲の空を埋め尽くし、地上の獲物を前にし、舌なめずりをしている。千を超える同胞を率いているのは学生服らしきブレザーを羽織り、プリーツスカートを穿いた黒髪の女であった。制服には破られたあとであったり、乾き切っていない血が付いている。彼女以外のハルピュイアも同様のものを着ていた。しかし数が足りなかったのだろう、裸のままのソレもいる。
眉の位置でまっすぐに切り揃えられた黒髪が背に流れる。ハルピュイアの長らしき女はけらけらと笑った。堪えられず、中空で小さな体を丸めるようにして腹を抱えた。
「似合うー? 見て見て王様ってば。見ろってんだろ? あ? で、どうすんの、こいつら? うちらがやっちゃってオッケー? オッケーだよね!?」
「……君たちか」
アーサーは面倒くさそうに女を見上げる。
一を除いた者たちは、圧倒的な物量を前に嘆くことすらしなかった。戦う構えこそ見せているが、押し潰されるのは火を見るよりも明らかである。
「いや、ここは私一人でいい。君たちは、君たちの役目を果たせ」
「ちっ、獲物を前にして素通りかよ。もったいねえ。まあいいけど! どうでもいいけど! ひっ、ひゃははは! またね! またね王様!」
千の妖鳥が一たちの頭上を飛び去っていく。アーサーは彼女らを見送ったのち、アテナの盾を殴りつけた。金属音が尾を引いて響き、彼女は我が目を疑う。先まで何もなかったアーサーの腕に籠手があったのだ。
「魔女の力かしら」
「正確には違う。もともと、ヴィヴィアンの魔力というのは、私の知り合いから奪ったものでね。彼女はそれを返したに過ぎない。尤も、その知り合いはここにはおらず、私はあくまで代理だがね」
そう。呟き、アテナは盾でアーサーを殴りつけようとする。彼は鈍重な一撃を避けつつ、横薙ぎに剣を繰り出した。
盾が切り裂かれる。女神アテナは己の運命を悟り、しかし、微笑んだ。慈しむような笑みを受け、アーサーは僅かに躊躇った素振りを見せる。
「こんなものでいいのか」という顔をしながら、アーサーは剣を振り下ろした。
「もっと、やりてえことはあったんだがなあ」
一があの様子ではまともな会話は望めないだろう。いやしくも、彼よりも先にアイギスを使っていた身としては、もっと教えてやりたいことがあった。だが、アテナはもう肉体から解放され、死に至る。気づけば、ステンノとエウリュアレの姿がない。あの二人は恐らく、妹のところへ行ったのだ。一の中へと入り込んだのだ。彼女の力たるアイギスが消えて失せるのだと知っていても、残された時間を謳歌する為に。
――――そうなっちまったら、坊主。お前はどうするんだろうなあ。
「坊主たちを頼むぜ」
「……あなたは、どうなさるおつもりなのですか」
「神様が言ってたろ、退けって。じゃあな、嬢ちゃん。他のやつにもよろしく言っといてくれ」
アイネに背を向けると、北は軽く手を振った。……アーサー王。かの名高き男と戦うことになろうとは、考えもしていなかった。英雄にとっては好機であり、駒台に住む北英雄としては、この上ない不幸であった。
北の接近に気が付いたアーサーは剣を血ぶりすると、大儀そうに息を吐き出す。
「次は半神の英雄か」
「よう、アテナ」
アーサーを無視し、北はアテナに声を掛けた。彼女は虫の息であった。咄嗟に避けようとしたのだろうが、肩口から腰までを深く切りつけられている。倒れ、血を流し、人間のように青ざめた顔をしていた。
「……あ、あの子は……?」
一のことを言っているのだろう。北は心配ないと言い、笑みを作った。
「逃げんのは今だけだって、あいつらも分かってる。でも今は、な」
「う、ん。うん。よ……かっ、た」
北は眉根を寄せる。良かった。何が良かったというのか。一たちを巻き込んだのはアテナである。彼女がいなければ、彼らが死地に立つことはなかった。ただ、彼女がいなければもっと早く、怪物どもに蹂躙されていただけだ。
「でもま、選んだのは坊主か」
くつくつと笑み、北は槍を構える。
「さらば。さらばアテナ。しかしすぐに見えよう。黄泉路には俺も付き添うつもりだ。死出の旅路は寂しく、冷たく、暗い。薄明のように頼りない半神の身なれど、貴女と共にありたいと願う。如何か?」
アテナは小さく頷き、口を利かなくなった。
「……ふー。じゃ、ま。ちっと付き合ってくれや」
「私でよければ、心行くまで付き合わせてもらおう」
槍と剣、その切っ先が触れ合う。がちんと叩き合い、北はタラリアを使い、アーサーの後ろに回り込む。しかし、彼の槍の穂先は、先の一合で斬られてしまっていた。
残ったソレを茨で叩きながら、聖が声を荒らげる。楯列の車を運転出来るのは彼女と灯だけであった。早田が後部座席に楯列を横たえ、自身も乗り込む。彼女に続き、槐も後部座席に向かった。
「足の遅いやつが乗りなさい! 早く!」
「姉さん、押さえ切れません。このままでは……」
女神は地へ還った。半神の英雄もアーサーと交戦している。北は死ぬつもりだ。捨て身となって時間を稼いでくれている。無駄にするわけにはいかなかった。
聖は周囲を見回し、逃げ遅れた者がいないか確認する。一はシルフに任せ、フリーランスは手練れ揃いであり、各々の判断に任せた。
「出すわよ、ここから離れるわ」
「姉さんがハンドルを!」
「結構。逃げ遅れる愚図は、あの勤務外以外にはいないはずよ」
向かってくるソレを退かせつつ、『教会』の二人が車へと進む。後ろからは槐たちの急かす声が聞こえてきた。その時、走り出す二つの影を認めてしまい、聖は畜生と叫んだ。
海が見えた。
在りし日の海だ。
王となる前、一個の英雄であった自分の、輝かしい記憶だ。
「上れ、ペルセウスよ」
その記憶ごと断ち切られる。失いかけた意識の中で、ペルセウスは空を見上げた。得物を手放し、薄い笑みを浮かべる。空手となった右腕を伸ばし、ゆっくりと握り込んだ。
「俺も今、そっちに、行くからよう……遠回り、しちまうけど」
ここに残った者たちは、どうなるのだろうか。そう思ったが、存外、大して心配していないことに気が付いた。何せ、彼らはれっきとした人間なのだ。神代ならばともかく今の世界は人が支配する。
「おっさん!?」
山田の声が聞こえた。北は返答しようとしたが、声が出なかった。彼はそのまま、分厚い雲の向こうにあるはずの星を幻視しながら、息を引き取った。
アーサーは北を切り捨てたあと、向かってくる山田とコヨーテを認めた。女神と稀代の英雄を相手にした後では物足りないが、それもよしだと自らを慰める。
コヨーテが声を荒らげた。だが、彼の魔力はアーサーには届かない。ヴィヴィアンの力が全て注がれているのだ。さしもの謳う犬も湖の魔女には敵わない。
「君らでは……」
「おおおおおおおおおおおああああああああああああっ!」
眩い輝きが放たれる。太陽も月も目を逸らしてしまうだろう。アーサー・ペンドラゴンは、光を押し固めて作られたかのような鎧をその身に纏っていた。ヴィヴィアンが召喚した絡繰りの騎士と酷似した意匠だが、違う。彼こそがオリジナルであった。山田の会心の一撃を額に受けても尚、微動だにしない。兜にはひび一つ入らず、彼女の拳を痛めるだけだ。サーコートを翻し、アーサーは剣を閃かせる。
「耐えられない!」
アーサーの振るう剣が姿を変え始めた。赤錆びたそれは、魔女の力によって本来の色を取り戻していく。松明何十本分にも劣らない光量が拡がり、周囲一帯の闇を明るく照らした。飛び掛かっていたコヨーテの腹を横一文字に切り裂く。スパークした金色の線が走り、謳う犬は悲鳴を上げて地へ落ちた。
難を逃れた山田だが、決して引かなかった。彼女は懐へ飛び込む。アーサーはコヨーテを切ったのち、返し刀で山田を切ろうとした。彼女は反応し、避けようとして体を捩る。が、それよりも早く光が散り、山田の四肢に無数の線が刻まれる。それでも彼女は止まらず、怯まなかった。傷を負っても歯を食い縛り、アーサーの兜に強烈な一撃を浴びせる。これには彼もたじろぎ、異様な感覚を覚えて立ち止まった。まるで魔獣を相手取っているかのような気分であった。
山田は吠え声を迸らせ、アーサーに肉薄する。しかし、身体がついてきていなかった。右の拳に巻いた晒しは真っ赤に染まり、打ったパンチにもキレがなく、重みがない。羽虫ですら殺せそうになかった。ただ、眼光は鋭い。死の際に瀕しても、目だけは死んでいなかった。必ず殺すと訴えていた。
「痛くはないのか。恐ろしくはないのか」
「……いてえのよりも死ぬのよりも、もっと怖いもんがあんだよ、オレには」
「むう、見事」
魔力を還され、力を取り戻したとはいえ感覚までは掴み切れていない。とはいえ、アーサーの剣力は並ならぬものであった。
「まだまだ未熟だ。私は。前言撤回だ。君は耐えた。見えていた」
山田にはその剣筋が見えていたのだろう。完全には避けられないまでも、致命傷を免れる程度には躱していた。だが、ここまでだとアーサーは力を込める。無駄に苦しめるような真似はしないと、そっ首を刎ねるつもりで横薙ぎに振るった。
一陣の風が吹く。空を切った感触が伝わり、アーサーは息を吐いた。山田とコヨーテを救ったのは、黄衣ナコトである。彼女は魔導書をかき抱き、何事かを呟いた。バイアクヘーが負傷した者を背に乗せ、鳴き声を上げる。
「……そうか。君も魔女というわけか」
ナコトはバイアクヘーの後退を認めて口を開いた。
「聞いてもいいですか。二つほど」
「察しはついている。だが、君を満足させる答えを持ち合わせているかどうかは、定かではないな」
「何故、こんなことを?」
問われ、アーサーは目を瞑る。
「王と名乗ったからだ。そう認識されたからだ。だが、君にとっては言い訳にしかならないのだろうな」
「ではもう一つ。ヴィヴィアンという魔女は、今、どこにいますか」
「帰ったよ。彼女の場所へ」
あの湖の底へ。果実が実る島へ。出来るなら、アーサーは自分もそこへ向かいたかった。
「そうですか。では、あなたももう一度、そこで眠るのをおすすめしますね」
「そうしたいものだ」
風が奔る。アーサーは咄嗟に剣を振った。不可視の風が切り裂かれるのを確認しないまま、ナコトはハスターの風に背中を押され、一目散に逃げ出している。追おうとも思ったが、存外、疲労は溜まっていた。
無駄遣いは良くないとも思いつつ、アーサーは鞘をイメージし、魔力を利用して顕現させる。元は、自分の腰に下げていたものなのだ。違和感などなかった。彼は鞘に剣を納め、ゆっくりとした歩調で進む。寄橋には多くの骸が晒されていた。
――――何故、か。
王の道を妨げる者はいない。少なくとも今は。アーサーは血肉を踏み越え、大量の死を踏みつけにしながら、『橋』を目指した。