Hightension Wire
魔女の攻撃は苛烈であった。大規模で無差別な魔の法は、橋に押し寄せたソレごと包み込み、貫き通して一に襲い掛かっている。彼はヴィヴィアンに近づくことすら出来ず、怪物の身体を盾にして逃げ回るので精いっぱいだった。
「こいつらが邪魔なんだ」
シルフが忌々しそうに呟く。彼女の風を使えばヴィヴィアンの元まで飛んで行ける。だが、上方から仕掛ければ魔力の雨を浴びる羽目になるだろう。かと言ってソレを潜り抜けていくというのも至難の業である。壁さえなければまっすぐに飛行出来るが、現状では叶わない。
「何手も足りねえ札も足りねえってか」
小細工は通用しない。必要なのは傷を受けてでも前に進む覚悟である。一にはそれがあった。彼は駒台に戻ってきた時から覚悟していた。だが、シルフが無謀な前進を許さない。
獣の吼え声が聞こえる。期待してもいいのかと、一は内心で自分に問いかけた。走り寄る肉食の怪物の腕を防ぎながら、彼は防戦に徹した。逃げ、受け、防ぎ、時間を稼ぐのは慣れた所作であった。
「囲まれるぞっ」
「見えてる!」
右に蛙。前に狼。左に蜥蜴。後ろに巨鳥。一は歯噛みし、シルフが天を仰いだ。が、逃げ場はない。風を伝って空へ逃れようにも、ソレに塞がれていてはどうにもならなかった。
一は、最も与し易そうな蜥蜴に顔を向ける。瞬間、右方の蛙が舌を伸ばした。褪せた茶色の肌が粘液で滑っている。真っ赤な舌には肉片がこびりついていた。彼はアイギスを絡め取られたことを悟り、冷や汗を流す。力比べで負けてしまえば、得物を失い、術を失い、命を容易く奪われるだろう。
「離しやがれええええっ……!」
「逃げろバカっ」
狼の遠吠えが聞こえた。前方にいた四足の獣が、声のした方を見つめて硬直する。視線の先には灰色の毛並みをした小さな獣がいた。大型のソレは怯え、すくみ上がっている。けだものたちだけが彼の恐ろしさを知っている。
「よう、随分とまあ男らしくなったじゃないか、一一」
「傘が取られちまう! あの蛙をなんとかしてくれ!」
「オーキードーキー!」
コヨーテが走り出す。一は彼が風のように駆け抜ける様を認め、僅かに力を抜いた。蛙の怪物が力を込めようとしたが、伸び切った舌をコヨーテに引き裂かれて苦痛に呻く。
「ボーイっ」
自由になった両腕でアイギスを掴むと、一は鳥と蜥蜴に目を遣った。蛇姫に力を借り、即座に石化させ、硬直したままの狼の喉笛に得物の石突き部分をめり込ませる。
コヨーテが蛙の頭部を爪で引き裂くと、ソレはもう動かなくなった。一人と一匹は次なる獲物に狙いを定める。巨人が、石となったソレを武器にして振り回した。一がアイギスで受け止めると、コヨーテが素早い動きで巨人の腕を伝い、跳躍して眼球を抉る。視界を失ったソレは闇雲に得物を振るい、同胞の頭部を叩き壊した。
混乱する巨人の群れを抜けて、新たなソレが姿を見せる。小型の鬼だ。
「ミーに向いてる。リトルボーイ、ビッグフットのお相手は任せたぜ」
「おうよ。しこたまぶち込んでやらあ」
一とコヨーテが二手に分かれる。駆けつけてきた応援に、一の頬は緩んでいた。先までの鬼気とした表情はどこにもない。彼は今、戦いを楽しみ、怪物の命を狩ることに至上の喜びを見出しているのだ。
鎌を振るい血を流す。ヒルデは、倒れたソレが絶命したことを確かめると息を漏らした。
「…………これで三匹目」
「だめっすね、ここも」
シルトは他人事のように言い放つ。ヒルデは彼女を咎めなかった。二人は既に気づき始めているのだ。この街がどうにもならないことを。
二人は北欧の戦乙女であり、いましがた屠ったソレも、北欧のとある一地方に見られる怪物であった。ヒルデは空を見上げる。分厚い雲は太陽を覆い隠し、月光すらを奪った。駒台に差し込む光はない。
「規模は小さいけど、たぶん、これって」
ヒルデはこくりと頷いた。彼女とシルトは、オンリーワンの近畿支部に向かっている。医療部にいる、ルルを救出する為であった。
「あいつ、無事ですかね」
「……あの子なら、きっと」
一一という男の安否が気になった。ただ、駒台を当てもなく探し回ることは難しく、その間に救えるものを見殺してしまう可能性の方が高かった。
街を襲撃したのはソレの群れではない。いわば、現象のようなものであった。
子鬼の群れを噛み散らす。千切れた四肢が後続のソレにぶち当たる。歌う犬が吼え声を上げれば四足の獣が動きを止めた。コヨーテは、橋の中央で戦っている一を見遣り、口の端をつり上げる。
一一は変わりつつあった。否、戻りつつあるのだろう。彼は恐らく、自分にとって決定的な何かを得たのだ。一の目には力が宿っている。復讐に身を焼くような、危ういものでもあったが。……理由が知りたかった。コヨーテは、駒台という街に未練などない。ジェーン=ゴーウェストさえ無事ならば充分であった。街を守る義理も、意味もない。一方で、一一が悪鬼蠢く地に留まり続けているのが気になった。もはや、たった一人の人間が行く末を左右出来るような状況ではないのである。勤務外としての職務も、ヒトとしての尊厳も秤にかける場合ではなかった。
コヨーテが一の元に駆け寄り、高く、鳴く。
「ボーイ。ユーはどうして戦うんだい」
一は骸骨の剣士を蹴り飛ばし、血の混じった唾を吐き捨てた。
「殺したい女がいる。見ろよ、こいつらを。……先を越されたくないんだ。他のやつなんかに、あの女をやらせたくない」
思わず口笛を吹きかけた。コヨーテは思う。一を変えたモノはいったい、どんなものなのだろうかと。
「この世の地獄を見たって顔をしてるぜ」
「だろ? ニンゲンってばずっと難しい顔をしてんだ」
「そうか? でもな、この世はこの世だ。地獄なんざ、こっちにゃねえよ」
コヨーテは知らない。一が伴侶となりえた者を失ったことを。一が忌まわしい記憶を取り戻したことも。
「そうかい。だけどな、リベンジプレイは似合わねえぜ、ボーイ。なんたってあんたは一人じゃない。何もかもを奪われたわけじゃないんなら、道だって選べるさ。今のあんたには仲間がいるだろ。そいつらと一緒に考えな」
「何を?」
シルフが風を放つ。吹き荒ぶそれに身を切り刻まれたソレが後退していく。コヨーテは楽しそうに笑った。
「ハッピーな終わり方さ」
「……だったら、その前にこいつらをなんとかしねえとさ」
「違いない! ついてきな、いい夜だ! いい夜は踊るに限る!」
駆ける。コヨーテが地を駆ける。
翔ける。シルフが中空を翔ける。
影がとぷんと波立った。現れたのは漆黒色の鮫である。コヨーテがソレの背びれを切りつけ、後に続いた一がアイギスの石突きでとどめを刺した。向かってくるのはソレだけではない。強大な魔力を操る女が、光の礫を放った。
百を超える光の礫が進路上の何もかもを貫いて突き進む。コヨーテは立ち止まり、一が彼を追い越して盾を広げた。
「前に出るんじゃねえぞ!」
歯を食い縛り、礫の弾雨を耐え凌ぐ。一発一発は重くない。だが、連打で受ければ腕が痺れてくる。
「前に出なボーイ。腕が持たねえぜ!」
「持つ! 持つんだよ!」
コヨーテは、一を抱きすくめているシルフを見た。彼女は安心しきっている。これくらいならまだ耐えられると、一を信頼しているらしかった。
「ふ、はは! やっぱりリトルボーイはリトルボーイだな」
光が止んだ。コヨーテが跳躍し、シルフが風を使い、彼の速度を上げる。一がアイギスを畳み、再び駆け出した。
一は前方のヴィヴィアンを見据える。彼女を打ち倒さねば先はない。だが、魔女は生半な方法で倒れない。ヴィヴィアンは口中でぶつぶつと呟き、右の掌を一たちに向けた。
「風だ!」
シルフが走っていた一の動きを無理やりに止める。コヨーテは後ろ足でソレを蹴り、反動を使って後退した。鼻の利く彼もまた、嫌なものを感じたのである。
「風がどうしたって!?」
「あいつ、やばいのが来るぞ! シルフ様じゃ防げない!」
ヴィヴィアンが放とうとしているのは、黄衣の王の化身たる、旧支配者の力であった。風の精霊であるシルフとは格が違う。全てを飲み込んだのち、粉々に切り刻み、吹き飛ばすほどの力だ。
「……逃げるか?」
「もう遅そうだがね」と、コヨーテはその場に座って丸くなった。
ヴィヴィアンが微笑むのが見えた。彼女は若い女から童女に姿を変え、手をかざす。耳を塞ぎたくなる音が破裂し、離れた位置にいた一たちの間を突風が吹き抜ける。彼はアイギスを広げるも、無駄だろうと直感していた。
――――足りないか。
一には分かっていた。並のソレを相手にする分には困らない。アイギスがあり、メドゥーサがいて、シルフがいる。傍にはコヨーテもいるのだ。凡百の怪物など易々と押し返すことが出来る。しかし、相手は稀代の魔女であった。自分たちだけではアレに手が届かない。それでも逃げず、諦めなかったのは何故なのだろうかと自問する。
本当に、二ノ美屋愛の殺害だけか?
ここで魂を削るような殺し合いをしていたのは、それだけを望んでいたからなのか?
『あんたには仲間がいるだろ』
一は顔を上げて、ヴィヴィアンをしっかとねめつける。彼は思う。自分はまだ、あの夜から目を逸らし続けているだけではないのかと。アグニが現れ、三森が逝った。気づかぬ内に北駒台店の面々は店を離れた。戻った記憶に熱が疼いた。春風麗からもたらされた言葉だけで出雲に逃げたのだ。駒台に戻ってきたつもりだが、その実、そうではなかった。まだ向き合っていない。復讐に身を焦がしたまま、戦いに逃げたのだ。この街にはまだ、守りたい者が残っているはずだった。
「……道理で。笑っちまうわけだ」
「ニンゲン……?」
「ヒ……アハハハハハハハハハ! 突っ込めシルフ!」
コヨーテの制止の声を無視し、シルフが耳元で怒鳴るのも構わずに、一は子鬼を蹴散らしながら駆け出した。
自分の為に戦っている。そう思っていた。だが、心の奥底ではまだ理由が、意味が残っていたのである。尤も危険なところで戦いたい。そうすれば、他の人間が助かるのだ、と。
ヴィヴィアンが笑った。彼女の表情には子を見守るような慈しみが込められていた。掲げた掌から、圧縮された大量の風が放出される。この街全てを貫けるような苛烈さを秘めていた。旧支配者の力が具現し、形となった。
「俺のやりたいことはあああああああああ!」
一が駆けながらアイギスを前に突き出す。柄を両腕で握り、歯を食い縛った。その瞬間、彼の身体が宙に浮く。魔女の放った風が襲い掛かったのだ。遥か彼方へ吹き飛ぶのをシルフが必死になって堪えている。
一の真後ろにいる者には被害が及んでいなかったが、風圧の余波を受けて小型のソレがなすすべなく吹き飛び、身を刻まれ、地に叩き付けられ、下方の水に落ちる。橋全体がぎいぎいと軋んで哭いていた。
「とどのおおおおおおおおお! つまりいいいいいいいいい!」
声を荒らげて、一が風の姿を捉えようとして瞼をこじ開けた。荒れ狂う風の中、彼はメドゥーサを通して見た。力の残滓を。旧支配者の影を。
名を唱える。命を告げる。女神の盾が光輝を帯び、空間を裂いて怪物の目玉がぎょろりと覗く。彼女にかかれば不可視のモノすら動きを止める。魔女の生んだ風が勢いを失った。一はその隙を見逃さず、突き上げるようにしてアイギスを上向きにする。メドゥーサの力が霧散した時、行先を見失った旧支配者が天へと上った。
「これが人間か一一これが人間の力なのか」
ヴィヴィアンが目を見開く。上昇する風は、駒台を覆っていた叢雲を突き抜けた。姿を隠していた満月が、空いた箇所から久方ぶりに現れる。月光が寄橋に留まった者たちを照らした。
肩で息をしながら、一は片膝をつく。彼は苦しそうにしながらも笑い、アイギスを杖代わりにして再び立ち上がる。
「……こういうことなんだよな。俺は」
シルフが顔面を蒼白にさせ、口をパクパクと開閉させていた。
雲が再び月を隠した。橋に落ちた光が消える。ヴィヴィアンはにっこりと微笑み、
「いいものを見たけどこれはどうかしら耐えられそう?」
再び、掌を一に向けた。彼は苦笑いを浮かべる。
「それはちょっと無理そうだな」
「ではさようなら」
いた。
見つけた。
これはもう運命だ。赤い糸で二人は結ばれている。
「スピードをっ、上げなさい!」
バイアクヘーの背を蹴飛ばすと、きゅう、という泣き声が漏れ聞こえた。ナコトは魔導書をかき抱いている腕に力を籠め、魔女の姿を捉えた。砂の世界で戦ってから、もう会えないと思っていた。僥倖である。
「……あ。一さん。っ、一さん!」
橋の中央には一一がいる。その後ろにはいつか見た灰色の獣もいた。だが、再会を喜ぶ暇はない。童女の姿をしたヴィヴィアンは、旧支配者の力を行使しようとしている。させるものかと、バイアクヘーが高度を下げた。
その時、目が合った。ヴィヴィアンはナコトの姿を認めると、掌を虚空に向けて幾度か振った。……彼女は親しげに手を振っているのだ。
「舐めてやがりますね」
ぶちかましてやる。ナコトは歯軋りの後、呪文を唱えた。魔導書が熱を放ち光を帯びる。
同時に、ヴィヴィアンも旧支配者を呼び出す呪文を呟き始める。彼女はナコトよりも先に魔力を練ると、口の端をつり上げた。
「いあいあ……!」
寸暇遅れてナコトが魔導書のページを開く。
疾風が地を舐めた。ヴィヴィアンではなく、ナコトでもない。一がシルフの力を借りて魔女に肉薄している。その後ろにはコヨーテも走り込んでいた。
一がアイギスを振るう。彼とヴィヴィアンとの間に大樹が出現した。一は瞠目しつつも攻撃を止められなかった。太い幹を叩き、顔をしかめる。
「すぐそこだってのによォ!」
ヴィヴィアンが踊るように歩き始めた。彼女の姿が陽炎のように揺らめく。大樹を迂回したコヨーテがヴィヴィアンの背を切り裂いた。が、彼女はそこにいない。幻だと気づいた時には、ヴィヴィアンは橋の欄干の上で艶然とした笑みを浮かべている。
翻弄されていた。だが、時は稼いだ。
「はすたああああああああああああ――――ッッ!」
魔導書からハスターの力が放たれる。ヴィヴィアンは右手を軽く上げて風を生み出した。ナコトの魔術は相殺され、衝撃がぶつかった際の風圧で煙が上がる。
ナコトは新たな呪文を紡ぎ、忌まわしき双子を古代都市の地下から一時的に解放した。二対の、人魂のようなモノが煙の中に突入する。彼女はヴィヴィアンの姿を捉えてやろうと、目をしっかりと見開いた。ふと、背に冷たい空気を感じる。
「裁いてみせろ黄衣ナコト魔女を私を裁いてみせろ」
バイアクヘーが短く鳴いた。ヴィヴィアンは有翼の魔物の上に転移していたのである。童女の姿をしていた彼女は若い女に変化していた。モーニングドレスのスカートが揺れ、白い手袋が暗がりの空に蠢いた。ヴィヴィアンは何もないところからフリルのついたパラソルを取り出すと、その柄を掴んで深々とお辞儀する。トークハットのベール越しに視線を感じ、ナコトはバイアクヘーの背を蹴飛ばした。
ふわりふわりと揺れ動くヴィヴィアンは、氷の矢をナコトめがけて何本も放つ。バイアクヘーが器用に空中を旋回し、その攻撃を回避していく。ナコトも鎖分銅で矢を叩き落した。だが、彼女はいつの間にか大量の魔女の矢に囲まれている。逃げられていると思っていたが、ヴィヴィアンに上手く追い詰められていたのだ。
ナコトはふと、橋に目を遣った。下方の土煙が晴れる。風の精霊がぐんぐんと上昇するのが見えた。彼女は一を抱きすくめており、彼は灰色の獣を片手で抱えている。
「黄衣っ!」
「下がって一さん!」
「いいから耳を塞げ!」
コヨーテが大きく口を開けた。一が彼から手を離して耳を塞いだ。ナコトは鎖を使い、魔導書を身体に巻きつけ、空いた両手で耳を覆った。その瞬間、空気が強く叩かれ、震えるのが分かった。氷の矢がぱきんと音を立て、砕けて落ちる。
落ちかけたコヨーテを再び中空で抱えると、一とシルフはヴィヴィアンやナコトよりも高い位置に上昇した。
「これからドッグファイトってのもオツじゃないか。そうは思わないか、リトルボーイ」
「犬だしな」
「ミーは犬じゃない! コヨーテだ!」
ヴィヴィアンがパラソルを捨て、ナコトを見遣る。真上にいるコヨーテが鼻で笑った。
「無視だぜ。全くこれだから女ってのは……」
口の端をつり上げると、一は二人の『魔女』を視界に入れる。
「だったら男らしく、女の尻でも追っかけようぜ」
「いいアイデアだ。だったらお先に! よう、失礼するぜサマーガール」
コヨーテは一の胸を軽く蹴り、落下した。彼はくるくると回転しながら、バイアクヘーの背に着地する。ナコトは小さな悲鳴を上げて一を睨んだ。
「なんですか一さん、この犬は! あたしは犬は嫌いなんです!」
「わんわんっ、ミーは犬じゃないって言ってんだろ! って言葉通じないんだよな!」
「楽しそうじゃない黄衣ナコト私も少し混ぜてもらおうかしら」
ナコトと一の間にヴィヴィアンが浮遊し、先刻と同じく、大量の氷柱を生み出した。その場に留まっていた氷柱が四方に飛ぶ。一は更に上昇して逃れ、ナコトはバイアクヘーを操って、彼の背を追いかけた。
肌が冷える。氷柱が頭を掠める。逃げ続けるより防いだ方が楽だと判断し、一はアイギスを広げた。反転した瞬間、十の氷柱が傘を叩く。
アイギスによって砕け散った欠片が、下方にいるバイアクヘーの背を濡らした。
「随分と温い真似をしますね」
ナコトが舌で唇を濡らす。ヴィヴィアンはハスターを使わず、魔法を封じているようにも見えた。彼女が本気になれば、自分たちは大規模な魔力に呑み込まれているはずだ。ならば、本気になれない理由がある。ヴィヴィアンが楽しんでいるのは間違いないだろうが、砂漠の世界を創っていたように、一を眠りの国に誘っていたように、別の部分に魔力を注いでいる可能性もあった。
巡り、混濁した思考を掻き消すかのようにコヨーテが吠えた。彼の声は氷柱を掻き消し、誇らしげに胸を張る。声に魔力が宿っているのだと、ナコトは気づいた。
「ただの犬じゃないってことですか。……では、特別にこいつの背を貸してやりましょう」
「いいわねそれ私にも頂戴」
ヴィヴィアンが目の前に出現する。彼女は嗜虐的な笑みを浮かべていたが、ナコトもまた同種の笑みを返した。
鎖が回転し、先端の分銅が氷柱を砕く。ヴィヴィアンは笑いながら宙を舞った。捨てたはずのパラソルが彼女の姿を隠し、死角の向こうから巨大な氷塊が現れる。
「いあいあっ」
魔導書から風が奔った。ハスターの力が氷を破壊し尽くすも、幾つかに砕けたそれは礫となって飛来する。バイアクヘーが上昇するが、攻撃の全てからは逃れられない。そう悟ったコヨーテは跳躍し、飛んでくる氷に向かって声を荒らげる。ぴたりと止まった欠片を足場にして、前方にいるヴィヴィアンへと突き進んだ。
コヨーテの姿を認めた一はシルフに指示し、ヴィヴィアンの元へと向かう。ナコトもまた、コヨーテの後を追った。
「獣に魔女は裁けない歌う犬あなたに私は倒せない裏切り者にはきついお仕置きがいいかしら」
「『円卓』の座り心地は最悪だったぜ、尻軽が」
「私は一途よ」
ヴィヴィアンが手を掲げる。コヨーテが足場としていた氷が消失し、彼は浮遊感を覚えた。シルフが加速し、一がコヨーテに腕を伸ばす。彼は前足でそれを掴んだ。一たちはそのまま降下していき、彼らと入れ替わる形でバイアクヘーが上昇した。
「魔の法を見せないつもりですか!」
「あら見ていなかったのアレを結構頑張ったつもりなのだけれど」
「今度はここを砂漠に変えるつもりかっ」
答えず、ヴィヴィアンは襤褸を纏った老婆に姿を変える。魔力の無駄遣いが気に入らず、ナコトが苛立たしげに歯軋りした。
「魔女め……!」
「もはやあなたもそれに近しいわだったらどうするあなたも狩られる?」
ヴィヴィアンが腕を突き出す。放たれた風をまともに受け、ナコトはバイアクヘーから押し出されて中空へと投げ出された。
橋に降り立つと共に、残っていたソレが牙を剥く。一はアイギスで獣の前足を受け止め、コヨーテがソレの胴体に噛み付き、肉を食い千切った。低い唸り声を背に、一らは空を見上げる。
「行きな、ボーイ。ミーなら心配いらない。何、逃げるだけならどうにかなるさ」
「無理はすんじゃねえぞ。やばくなったらキャンキャン鳴きな、飛んでいくからよ」
少しの間だけ迷ったが、一はシルフに頼み、再び空を翔けた。その時、風が彼の真上を駆け抜けていく。ナコトがバイアクヘーから落下するのが見えた。
「ニンゲン、しっかり抱えてやれよ」
シルフが足元に風を集め、一気に爆発させる。一はビニール傘のカバーを強く噛み、目を瞑るのを堪えながら両腕を伸ばした。彼の接近に気付いたナコトが小さく微笑み、胸の中に飛び込む。一は彼女を左手で抱えると、口を開けてアイギスを右腕で掴んだ。
「よう。元気そうで何よりだ。あの平べったいのって、お前のか?」
「どこに行ってたんですか、今まで。知ってるんですよ。遊びに行ってたらしいですね」
「……誰に聞いたんだ?」
「全くいい気なものですね。この街がこんなことになってようやく帰ってきたんですから」
一は頭をかきたくなったが、両手が塞がっていたので諦める。
「先生と公口さんは?」
「山を越えて逃げているはずです。あっちの方にはソレがいませんでしたから」
「俺は反対側からきたんだけど、そっちにもソレはいなかったな。見張りの戦闘部ならいたけど」
安堵の息を吐き、一は目を強く瞑った。知っている者が死ぬのは嫌だった。怪物如きに殺されるのが嫌だった。
「一さんはなぜここに?」
「『円卓』の連中は橋を渡ろうとしてるらしいんだ。で、ここであいつを見つけた」
「……橋と言うのは何かの比喩かもしれません。しかし、魔女を放置するつもりはありませんよ。向こうだって逃がすつもりもないでしょうし」
「よし。ぶっ殺そう」
ナコトは一の顔を二度見した。
「なんだか物騒なことを言うようになりましたね」
「頼もしいだろ」
「まさか。気が触れたんでしょ?」
かもしれない。一は内心で笑う。
「まずは、あの平べったいやつと合流するか」
「もう少しこのままでもいいんですよ? このシチュエーション、実にロマンチックじゃないですか」
「やだよ。重いもん」
「重くないし! 重くないしー! というか失礼極まりないですよ!」
無視して、一はバイアクヘーのもとへと向かった。
「超ムカつきますね。……でも、あなたがここにいてくれてよかった。あたし一人だとかなりの苦戦を強いられてたと思いますが、もはや負ける要素は見当たりません。魔女狩りといきましょう。あたしとあなたで」
「……ああ、だな」
一は、お前も充分魔女だよという言葉を飲み込んだ。