INFORMATION HIGH
春風麗は、巨人が二人の女に翻弄されているのを確かに見た。一か八かだ。彼女は窓を開け、中空に身を躍らせる。ソレは、こちらに注意を払う余裕はないらしかった。春風は目的地までの最短距離を突き進む。両足を前に出し、タラリアの力を借りて窓ガラスを蹴り破った。破片と共に、彼女は室内にその身を滑らせる。
「やあ、待ってたよ」
手錠をかけられ、縄で縛られた旅が嬉しそうな笑みを見せていた。何をやっているのだ、この人は、と、春風は頭が痛くなる。
「おっと、気をつけなよ春風君。木麻君が――――」
「春風えええええええええええっ! 麗ぁぁぁぁあああぁぁぁ、あああああ!」
「――――来るよ」
開け放たれていた扉が衝撃を受けて歪んだ。木麻凛が春風を指差し、ねめつける。彼女は戦う前から肩で息をしていた。その後ろには何とも言えない表情をした朱鷺田がいる。
「木麻凛か。また会ったな。こんばんは」
「あっ、あ、あんたの! あんたのその余裕ぶった態度が気に食わないのよっ、私は!」
木麻が地団太を踏む。旅は仕方なさそうに首を振った。
「でもここまでよ。無茶苦茶に引っ掻き回してやったみたいな顔してるけど、追い詰められてるのはあんたなんだから。ふ、くふふ、後悔なさい」
「いや、別に私はそんな顔をしていない」
「しなさいよおおおおおおお!?」
「分かった」と、春風は表情を変える。しかし、彼女の感情を読み取れる者は少ない。
「さっきとおんなじ顔じゃないのっ! やっぱりあんたは私を馬鹿にしているんだ!」
どうしたものかと春風が考えていると、木麻が動いた。彼女は眼鏡の位置を指で押し上げながら、天井を蹴っている。初動が見えなかった。春風はその場から逃れるように、横っ飛びで壁に足をつける。
「朱鷺田、そいつを外に出さないように。私はこの女を仕留めるわ。必ず、ぶちのめす」
「あ、ちょ、ちょっと引っ張らないで」
木麻は言外に邪魔をするなと言っているのだ。理解した朱鷺田は旅を引きずりながら部屋を出ていく。情報部一課の部屋は惨憺たる有り様になっていた。机や椅子は引き倒されて、パソコンからは煙が上がっている。ホワイトボードや薄型テレビはもう二度と使えないだろう。
電灯がぶつぶつと音を立てる。ちかちかと明滅する室内で、春風と木麻は視線を交錯させた。
「木麻凛。聞きたいことがある」
「嫌よ」
「何故、『円卓』に手を貸した」
答えず、木麻は壁を蹴りつける。その反動を利用し、春風に襲い掛かった。しかしタラリアの速度ではタラリアに追いつけない。上手く逃れた彼女は窓枠に着地して屈んだ。
「貴様が死神を手引きしたのか?」
何かを思いついた木麻は、そうだと口にする。
「ああ、漣のことを言ってるのね。そうよ、私よ。まあ、私だけじゃないけれど。もうあんたも知ってると思うけど、『円卓』に味方してるやつの方が多いのよここは。何故だか分かる?」
「さあな。何故だ」
「教えてあげるものですかっ」
木麻が動く。
春風が逃れる。
積極的に打って出ない春風に、木麻は苛立ちの表情を見せた。
「……何をしに来たってのよ、あんたは」
「私は旅さんを助けに来た。そのついでに木麻凛、貴様と話をしているんだ。情報部たる者、情報を集めなければ話にならないからな」
春風は大真面目である。しかし、木麻はそう受け取っていなかった。
あまり知られていなかったが、木麻凛は旅に次ぐ情報部の古株である。――――尤も、オンリーワンは老舗という企業でもなかったので社員には若い者が多かったが――――。木麻は旅に誘われる形で近畿支部の門戸を叩いた。彼女は優秀であり、旅を補佐する役目に就いた。その木麻にも頭痛の種がある。
春風麗だ。
彼女の面倒を入社当時から看ていたのは木麻である。彼女が教え、彼女が鍛えた。無感情で無表情な春風は情報部という職務には向いているとも判断していた。だが、その認識が間違いだと気づくのに大した時間はかからなかった。……春風麗は始末書提出の常連である。彼女の尻拭いを何度させられたか、木麻は数えることを諦めていた。
「春風麗っ、あんたは頭を下げこそすれ申し訳ないですって気持ちが欠片も見当たらないのよ! 何回あんたのせいで私が頭を下げたかっ、何枚あんたのせいで始末書を書かされたかっ。私の命令に逆らって好き勝手に行動したのは、私を馬鹿にしているからでしょう!」
「馬鹿にはしていない。木麻凛、貴様には感謝している」
「……なんですって?」
「感謝をしていると言ったのだ」
木麻は思い出す。春風と向かい合ったまま、彼女のことを回想する。
『ああ、木麻凛。すまないが私の代わりに始末書を頼む』
『ちょ……』
『始末書をよろしくお願いする』
『ちょっとちょっと! いい加減に自分で書きなさいよ暇でしょうがっ。書き方だって私が教えたはずよ!』
『有給を使わせて欲しいのだが』
『え? ちょっと、今が一番忙しい時期だって知っているでしょう……って話を聞きなさいよ!』
『帰ってきて早々、勝手に戦場にもぐりこんで無線を奪って場を引っ掻き回したですって? 春風麗、あなたには』
『遅れてすまない木麻凛。これはお土産だ』
『木彫りの……何よこれ!? いらないわよこんなもの!』
木麻は決意した。『円卓』に味方する義理こそなかったが、彼らを敵に回す道理もない。おまけに、ここには憎き怨敵がいるのだ。今は戦う時である。
「やっぱりろくでもなかった!」
「……私怨で動くか木麻凛っ」
「それの、何が悪いってのよ!」
逃げ回る春風には追いつけない。木麻は一度立ち止まり、タラリアの機能を全開にすることに決めた。靴で床を踏みつけて、殆ど宙を滑るようにして駆けだす。やはり春風は反撃を選ばない。またも壁際に逃げようとしていた。だが、木麻は遂に捕える。彼女の襟元を捻じるようにして掴み、床に引き倒した。違和感を覚えたが、木麻は春風の身体へ馬乗りになる。荒い吐息が無表情な彼女の髪にかかっていた。
「はあ、はあっ、春風麗。あなたにタラリアの使い方を教えたのは私よ。いつまでも涼しい顔をしていられると思ったら大間違いだわ」
春風は四肢を広げている。無抵抗を示しているのかもしれなかった。
「別に涼しくはない。私は今焦っているくらいだ」
「だから分からないって言ってるじゃない!」
「そうか。少し、残念だ。私はこの支部内に限り、三森冬の次に、貴様に心を許していたのだ」
じっと、木麻は春風の顔を見つめる。彼女の微細に変化する表情を捉えられた気がした。
「その次に漣だったがな」
声を出す暇はない。春風は自由になっていた両足で、木麻の脇腹を締めつける。変則の三角絞めであった。彼女は喚き、無駄だと分かっていても尚、春風の足をタップし続ける。
「駄目だ。ギブアップは認めない。……木麻凛。貴様には感謝している。しかし憎悪もしている。裏切り者め。死神を手引きしていたのは、やはり貴様だったのだな」
「いだっ、いだ、いだい! だって、しようがないじゃないっ。やらなきゃ私がやられてたんだっ。あいつには悪いことをしたと思っ……だあああああああああああ!?」
「嫌だ許さない。お前はいわゆる人殺しというやつなんだぞ」
木麻の顔が上がる。春風は脇腹を絞めていた足を即座に動かし、彼女の首に巻きつけた。
「え、『円卓』の力を直に見たらっ、あ、あああああそんなことも言え、言えなくなる……っ。私たちは所詮、人間なんだもの!」
「私は既に死んだような身だ。だから、人間のまま死にたいだけだ。それを邪魔するのなら、このまま貴様の首をへし折ってやる」
「もう、その辺でいいんじゃないかなあ」
のんびりとした声が春風の力を緩めさせる。木麻は数分ぶりに、まともに呼吸が出来た。
戸外より現れたのは拘束の解かれた旅である。木麻は事態を把握し、朱鷺田を呼びつけた。手錠の鍵は彼女に持たせていたのである。
「私の許可なく裏切ってんじゃないわよっ、馬鹿朱鷺田!」
「馬鹿は貴様だ、木麻凛」
「ひだっ!? ひだだだだだだだだだだっ、や、やめて」
旅は屈託のない笑みを見せていた。
「いやいや、朱鷺田君はよく頑張ってたよ。最期まで『円卓』の味方であろうとしていたからね。手錠も縄も、悪いけれど自力で破らせてもらったよ。こんな身体だけど、僕だって神様だからさ」
言って、旅は木麻に向かって何かを投げつける。赤い液体をまき散らしながら飛ぶのは、朱鷺田の左足であった。彼女は顔を歪める。ぼとりと落下した肉塊は、木麻に分かりやすく死という概念を伝えた。
「残念だ。僕は朱鷺田君には再三言っていたんだよ。どっちにつくかはっきりしなよって。けれど、彼女は僕の敵であることを選んだ。……ふざけるなって話だよ。あのね木麻君。どこまで馬鹿なのかな君たちは。そうだよ。君たちは所詮、人間なんだ。どこまでいっても人間でしかない。『円卓』と肩を並べられることなんか、ないんだよ。彼らに味方したって、彼らは君たちには味方しないよ。『円卓』に恐れて駒に成り下がっただけなんだ。気づかないかな。何故、あの百眼は君たちすらを攻撃するのか。それとも、気づいていてこんなことを続けていたのかな?」
旅の顔を見ることは出来なかった。木麻は顔面を蒼白にして震えていた。『円卓』も春風も恐ろしいが、それよりも今、旅というモノがこの世で一番恐ろしかった。
「馬鹿め」と、旅は短く吐き捨てる。
「馬鹿な子だな、君らは。皮肉な話じゃあないか。この場、この時に限って言えば、人間を殺すのは人間だけなんだ。この建物にソレがいたかい? あの巨人以外に、人間を殺した怪物がいたかい? いなかったろう。いたのは、人間だけじゃないか。人間同士で殺し合わされていたんだよ。『円卓』の狙いは支部を乗っ取る事じゃあない。支部の人たちが殺し合って数を減らすことにあったんだ。その目論見は腹の立つことに上手くいったけどね」
「だって、だってぇぇ……!」
春風は木麻の身体を蹴飛ばした。彼女はぐすぐすと泣いている。
「まあ、『円卓』が怖いってのは分かるよ。僕もそうだし。僕は許すよ。間接的にではあるけど、君たちが漣君たちを殺したことを」
旅は春風に視線を送った。彼女は口答えしたがっていたが、黙殺する。
「でも、ここから先の君のとる行動によっては許せなくなる。さあ、答えてくれないかな。『円卓』と僕。どちらにつく?」
どちらが怖いか。そんなこと、問われるまでもなく決まっていた。木麻凛は、再び旅の狗になることを選ぶしかなかった。
旅が大人しく捕まっていたのは、支部にいる人間というものを見定める為であった。この先、この夜を越えるにあたり、自分が手を貸すに相応しいかどうかを確かめる為であった。だが、彼の御眼鏡に叶う者は少なかった。……零ではなかったことに安堵している。
「人間って本当に馬鹿だなあ」
旅はオンリーワン近畿支部に、駒台に、人間に味方することを決めた。
旅が決意していたのと同時、中之島みぞれはアテナとニケをとある部屋に案内していた。その部屋の前では漁火という男と歪んだ扉が倒れている。北の姿はどこにもなかった。
「す、すみっ、すみませ……!」
「まあ、こうなるわよね。私から逃げようとするわよねえ」
アテナは信者の前で露骨に舌打ちした。北は勘がいい。これまで数年間彼女から逃げ回っていたのは伊達ではない。彼は女神の性根を、もう一度、戦いに巻き込まれてしまうことを知っていたのだ。
「仕方ない。まずは外に出ようかしら。アレだって英雄だもの。街にはびこるやつらを放置出来ない性質でしょう」
「え、そ、外に、ですか? でも、外には……」
アルゴスがいる。ソレは今、ゴルゴン姉妹と戦っている。その光景を見ながら、アテナはつまらなさそうにあくびを漏らした。
「どうでも良過ぎて忘れていたわ。ここにはアルゲイポンテスもいたのね」
「あ、あのう。私はどうすれば」
「あなた、何者?」
問われ、中之島は自らの所属と名前を明かす。
「そう。なら、答えは決まっているじゃない。私は、人間のお仕事にはあまり興味がないのだけれどね。けれど、そうね。……頑張りなさい。ここは、あなたたちの守るべき場所なのでしょう?」
医療部の者たちは、皆、同じ部屋に押し込められていた。医療用ベッドが敷き詰められたそこは酷く狭苦しくなっている。だが、彼らあるいは彼女らにはどうすることも出来なかった。医療部には戦う力がない。更に、長である炉辺は目を覚まさないのだ。引き受けた患者も何人か残っている。しかし、この緊張状態ではまともな処置が出来ない。
烏合の衆が蠢く様を想像し、室内の見張りが息を吐く。彼はその手に槍を構えていた。戦闘部の堀である。彼もまた、『円卓』の走狗と成り果てていた。堀には医療部を害する意はない。ただ、『円卓』に協力することで必要なものをもらえる。その為に屈辱を受け入れていた。が、彼の内心を推し量れる者はここにはいない。敵意をぶつけられながら、堀は目を逸らした。
「言っておきますが、暴れないでくださいよ。全快の身ではないですが、それでもあなた方を相手取るには充分過ぎる。どうか、大人しくしていてください」
命令ではなく、懇願であった。ここには炉辺もいる。彼女と争うくらいなら自害する。堀はそう決意していた。
「……姑息な」
がたん、と、廊下で音がした。恐らく罠だろう。堀は槍を持つ手に力を込める。……気を引いている内に、外から室内に侵入するつもりだろう。情報部の考えそうな、狡い手だ。
堀は一息に扉を開け放つ。そこには、よれよれのシャツを着た中年の男がいた。明らかに部外者である。しかし、堀は彼の正体を知っていた。
「……まさか、ペルセウス?」
何故と問う前に、ペルセウスは、北は堀をにらみ据える。彼は憤りを感じているらしい。
「てめえ、何をやってんだ?」
北が視界から消えた。堀は咄嗟に、背後に槍の穂先を突きつける。タラリアの速度に反応出来たのは偶然であった。
「おい。こんなところで何をやってんだ。あ? こんな俺でさえ、ちったあ人様の役に立とうとしてんだぞ」
北は奇襲を見破られるや、すぐに堀から距離を取った。
「そうか。情報部が連行したのはあなただったのですね」
「俺の話を聞けやっ。てめえ、今この街がどんな有様なのか知ってんのかよ。怪物どもが押し寄せてるってのに、オンリーワンは身内同士で殺し合いか? 反吐が出るぞ」
「だったら、あなただけでもどうぞ怪物の相手をしていてください。私には、今の私には必要なことをしているだけだ。文句も、横槍も、無用でしかない」
堀は槍を回転させる。必要とあらば、英雄が相手でも戦うつもりであった。北は彼の目を見て、落胆の色を顔に浮かべる。
「そうかよ。てめえになら、分かってもらえると思ったんだがな。ふざけくさって。あの坊主のがまだマシだ。てめえはもう英雄でも何でもねえ。ただの半端者だ」
再び、北が堀の眼前から消失する。……否、彼は床を踏みしめ、壁を蹴り、天井を越えて堀の後ろを取ろうとしていた。その動きが今の堀には見えている。しかし、反撃には転じられない。攻撃を回避し、死角から襲われないようにするのが関の山である。彼は歯噛みした。今の自分は、本当の自分ではないと。
イメージに身体が追いついていない。堀の奇妙な動きに、北も気づいていた。
「……馬鹿にしてるって訳じゃねえよな? 俺ぁ無手だけどよ、生身でもてめえくらいならぶっ殺せるんだぜ」
その言葉は真実だろう。北と堀はよく似ている。互いがそう認識している。
――――アレさえなければ遅れを取らないと言うのに!
堀が苛立った瞬間、北は彼の懐に入り込んでいた。槍の機能する距離ではない。柄の部分で追い払えるような速度でもない。堀は諦め、腹筋に力を入れて、ダメージを抑えようとして自ら後方へと跳んだ。しかし、それを北は読んでいる。蹴りはフェイクだ。彼は更に踏み込み、思い切り、ねじり込むように堀の腹を殴り抜く。
「ぐっ、あ!?」
無様であった。衝撃と苦痛に耐えかねた堀が顔を上げる。北は追撃しなかった。舐められていたのだ。堀は槍を手放しこそしなかったが、数メートルも冷たい床を滑っていく。
「本性見せねえで戦うのは楽できっから構わねえがよ。親父が泣いてんぞ。俺ぁよ、てめえの親父には勝手な共感を覚えてんだ。色んなもん使って戦うからよ。それに強え。で、てめえはなんだ? 槍一本に命かけるにしちゃあ、随分とまあ動きが重くて信念ってのが脆いわな」
舐めるなと、堀が立ち上がる。彼は得物を片手で突き出しながら疾駆する。低い体勢から放たれる刺突の連続に、さしもの北も防戦一方であった。何せ、彼には武器がない。防ぎ、弾き、ぶつけることは不可能だ。避けることしか出来なかった。タラリアを使おうにも、堀が上手く距離を保ちながら立ち回っている。この距離では、北の初動は丸見えであった。
アテナから逃れた氷室、田村の両名は医療部が閉じ込められている部屋を発見した。二階の、大会議室である。しかし、室内には堀がいた。彼を相手に人質を解放するのは困難極まる。そのせいで二人は手をこまねいていた。が、現れた北を認めると、彼らは恐怖を押し殺しながら窓の外へ向かう。建物を越えて反対側の窓にこっそりと取りついた。内から鍵を開けてもらい、北が堀を抑えている間に脱出の準備を始める。
「氷室っ」
その際、氷室は医療部の女に理由なき暴力を振るわれていた。田村はその光景を横目で見ながら、彼女が件の恋人なのだろうと気づく。そして、ベッドに寝かされている炉辺と、
「……この子もここにいたのか」
ジェーン=ゴーウェストの姿を見つけた。彼女の肌は青白い。栄養剤を点滴されているだろうが、それでもやせ細り始めているようにも見える。ジェーンは眠り続けていた。まるで、魔法にでもかかっているかのようであった。
「あ、あの、本当にここから抜け出せるんですか?」
若い女に尋ねられ、田村はジェーンから目を外す。自信ありげに頷く。嘘でも慰めでもなかった。彼らには勝算がある。
「あの巨人を倒すんだ。……ああ、うちの偉い人がね。だから、怪我人みんなを連れて脱出する。車に乗せるんだ。急ごう」
「けど……ひっ」
廊下から聞こえてくる風切り音と堀の怒号に、女が身を竦ませる。
「田村氏、田村氏。まずは巨人よりも堀をどうにかしようぜ。ほら、あのおっさんが女神の言ってた勇者だろ。アレを渡そう」
頬の腫れた氷室が、女神からの預かり物を示す。
「そっ、そうだったね。……よし、他力本願作戦はうまくいってるぞう」
田村は氷室の肩を叩いた。彼は包みを解き、びくつきながらも扉を開く。
扉が開いた。
堀の動きが僅かに鈍る。彼は中から出てきたのが医療部の者だと思い、槍を引いた。だが、現れたのはドレッドヘアーの男、氷室である。彼は堀と北を見比べて、持っていたものを床の上に滑らせた。
「げえっ、こいつは……」
北が嫌そうな顔をしつつも、それの柄を爪先で蹴り上げた。草刈鎌の如く、湾曲した内刃の剣である。女神が、彼が部屋に隠しておいたのを持ち出していた。その名はハルペー。メドゥーサの首を刈り取った、ペルセウスの得物である。
「くそっ、やられましたかっ」
堀が槍を突き出す。氷室が悲鳴を上げつつ扉を閉めた。北はハルペーを中空で掴むと、曲刀部分で槍の石突きを弾き返した。
曲刀が半円を描く。堀は槍でその軌跡を捌いた。北は前進する。タラリアが彼を風の領域にまで押し上げる。残像ですら尾を引いた。三日月の凶刃が唸りを上げる。鋼と鋼が激突し、高く悲鳴を放つ。火花が窓に映り込んだ。冷え冷えとした刃が触れそうになる度、互いが顔をしかめる。
堀は速度についていけなかったが、勘と経験で北の攻撃を凌いでいた。知覚出来ない斬撃を躱し、渾身の突きを放つ。寸分違わず急所へと進む一撃は、それでも英雄には届かない。北は槍を巻き込むようにして、攻撃範囲の中へと飛び込む。彼の腕が柄に絡みつく。堀は得物を振るえずに選択を迫られた。
「寝てろよ、半端者」
ハルペーではなく、拳による痛打が堀の顎に突き刺さる。意識が混濁し、視界が明滅する。彼は槍を手放して、仰向けになってその場に倒れた。からん、と、掛けていた眼鏡が床に落ちる。北は得物を引き、半端者に背を向けた。まだ、戦うべき相手は残っているのだ。
「ペルセウス、あ、あなたはこれからどうするんですか?」
田村の問いに、北は外を示して答えの代わりとした。彼はハルペーを携えて窓を開ける。氷室は堀が気絶しているのを確認し、医療部の者たちを誘導し始めた。
「ぼ、僕たちは地下へ向かいます。あなた方が百目を倒したところで、皆を連れて脱出したいと思います」
「了解だ。だが、どこへ逃げるつもりだ?」
「北駒台店へ。そこで、戦える人たちと一緒に立て直します」
「立て直す、か。いい言葉じゃねえか。なら、急がねえとな」
窓枠に足を乗せて、北はアルゴスをねめつける。飛び回るモノを認めて、彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
近畿支部の屋上で、アテナはくすりと微笑んだ。戦闘の余波で吹き荒ぶ風圧が、彼女の髪を揺らしている。
「久しぶりねえ」
「……僕は君に会いたくなかったけどね」
「あと、ここには根暗もいると聞いたのだけど」
「会わせないよ。殺すつもりならね。僕たちがやり合うのは、誰にとっても面白くなさそうだからね」
「残・念。手ずから縊り殺してあげたかったのに」
アテナと対峙するのは情報部の長、旅だ。彼は百目の巨人を見上げる。恐ろしくはない。懐かしい相手だった。……アルゴスは脅威となりうるが、それはあくまで人間にとっての話であった。大勢を引き連れて移動するのなら、百目の打倒は必要不可欠である。
「姉さん。君は、戦うのかい?」
今のアテナはかりそめの姿ではない。梟の皮ではなく、戦装束を着込んでいる。
「力を全て取り戻した訳ではない。けれど、時間がないの。その気になれば、私たちには時間なんて無意味だけれど、人間はそうじゃない。……あなたは信じないんでしょうけど、私は、借りを返しに来たのよ」
「へえ。あの、一一君にかな? 流石に、色々と堪えたみたいだね」
「邪推は無粋よ。では、仕掛けましょう。私の勇者も舞台に上がるみたいだし。ふふ、ふふふ……」
何をやっている。
何をやっているのだ。
自分は、こんなところで倒れているような男だったか? 問いかけるも、胸は空っぽで何も湧いてこない。
「……ちく、しょう……っ!」
落ちていた眼鏡を拾い上げた堀は、誰もいない部屋の中を歩き、座り込む。半神の英雄、ペルセウスに成す術もなく打倒された。悔しさよりも怒りが先立つ。あまりにも貧弱な自分の心臓に槍の穂先を突き立てられたなら、どれほど楽になれるだろうかと夢想する。
弱い。
自分はあまりにも弱かった。誓約に縛られた身とはいえ、情けないにもほどがあった。
「私は、誰の味方をしているんだっ」
春風たちのようには逆らえない。北のようには振舞えない。まして、神々のようには諦められない。半端者という言葉が耳から離れなかった。