偶然天使
オンリーワン北駒台店に到着した一は、外にシルフを待たせて一人きりで入店した。アルバイトをしに来たのではない。シフトの確認の為でもない。一人の女を殺す為であった。
店の中は、最後に訪れた時と変わりがない。ただ、フロアには誰もいなかった。電気も点いている。しかし、棚に並べられた商品の期限は切れているものが殆どであった。その日付は、一が出雲に着いたのと同じものである。彼は苛立たしげに、陳列された商品を薙ぎ倒した。
向かうのはバックルームである。一はその扉を蹴破るようにして開けた。中から応答はない。ただ、いつものように二ノ美屋愛が座っていた。部屋の中はいつもより煙草の臭いで充満している。彼は引き攣れた声を発した。嬉しかった。
「一か」
一には気づいていたらしく、店長はそれだけを口にした。彼女は椅子をくるりと動かして、彼と向き合う。だらりと両腕を下ろして、疲れた目を一に向けた。
「何をしに来た?」
答える必要はないと、一は足を踏み出す。
「私を、殺しに来たか」
「ええ、まあ」
ぴくりと、一は僅かに動きを止めた。が、彼は店長に向かって腕を伸ばす。彼女は抵抗しなかった。首に触れた男のそれに、ごみでも見るかのような目つきで視線を投げている。
一は呼吸を整えた。このまま力を込めればいい。メドゥーサの力を使ってもいい。あるいは、店長が動かなくなるまで暴力を振るい続ければいい。彼女もそれを望んでいるようなそぶりであった。
「どうした。怖気づいたのか」
「誰だ。あんたは?」
一は店長の首から手を離した。彼女は名残惜しそうに、その手を見遣っている。一は何も言わなかった。先まであった殺意は、既に彼からは感じられない。ただ、失望している風である。
店長は――――二ノ美屋は椅子に座り直した。彼女の目は空虚であり、彼女の身体は骸も同じであった。……彼女は死を望んでいた訳ではない。一に殺されるのを待っていた訳でもない。どうせ、あと一日もしない内に街は『円卓』に押し潰されてしまうのだ。投げ遣りになり、命を投げ出していたに過ぎない。二ノ美屋は誰の望みも叶えてやるつもりがなかった。
「二ノ美屋愛。お前の生まれ育った街を壊して、お前の何もかもを奪った女だ」
「……そうだよ。そうだ。あんたは俺の仇なんだ。俺たちの仇だ」
「だったら殺せばいい」
好きにしろ。そう言って、二ノ美屋は笑おうとする。しかし、上手く笑みを作れなかった。それすらも億劫になっていたのだ。
「過程がどうであろうと、結果は変わらん。私たちの思いなど、お前には関係も、興味もないことだろう」
一はその場に座り込む。視線だけは二ノ美屋から外さなかった。
「聞きたいことがある。今、この街はどうなってるんだ?」
冷静であろうとしているのか、一は感情を押し殺そうとしているようにも見える。
「『円卓』が来る。支部の裏切り者連中は、そいつらを迎え入れる準備の真っ最中だ。残念なことに、一般市民の内、半分程度しか逃げられないだろうな。じき、ここにもソレが押し寄せる。私からも聞きたいことがある。一、お前は何をしに来た?」
「…………は?」
「出雲でどんな話を吹き込まれたかは知らんが、何故、駒台に戻ったんだ?」
二ノ美屋が口の端を歪めた。
「お前を殺しに来たんだ! 俺はっ、そう言ってるだろうがよ!」
一の頭に血が上り、喉からは声が迸る。彼は拳を床に叩き付けて、何度も叫んだ。畜生と怒鳴った。
「街や皆を守るだなんて綺麗事を言いに来たんじゃねえよ。俺は、先を越されたくなかっただけなんだ。この街に『円卓』が来るんならお前は死ぬ。殺される。俺じゃない誰かが殺すんだ。それだけは嫌だって、そう思っただけなんだよ」
何故だと、店長は問う。何故自分を殺さないのかを問い掛ける。一は獰猛な笑みを浮かべた。
「俺が殺したいのは、俺の街を焼いて、俺の家族をぶっ殺した二ノ美屋愛だ。今になって思うんだ。俺は、あんたの全部が嫌いで憎かったんだって。あの日面接で初めて会った時からなんだ。偉そうな声も気だるそうな顔も腕も足も髪の毛も生意気そうな笑い方も自信たっぷりな雰囲気も不味そうにたばこを吹かしてるのもてめえが全部見透かしてるぜって目も何もかもがムカついて仕方がなかった。出来るんなら爪を一枚ずつ剥いで指を一本ずつ寸刻みにして体の中の全部の骨を丁寧に砕いてやって皮を剥いで肉を千切って脳味噌だってぐちゃぐちゃに掻き回して少しずつ時間をかけてゆっくりと甚振ってやりたかった。その間にずっと痛い痛いって泣き喚きながら後悔するあんたが見たかった。俺が本当に聞きたかったのはこの街の今でも過去でも未来でもない。皆がどうなってるかなんて大して興味がないのかもしれない。俺は謝って欲しかった。俺たちにごめんと言って欲しかったんだ。それだけなんだ。けれどもう遅いって分かってんだ。だから俺はあんたを殺すしかなかった。だってそうじゃねえか。俺にはもう何もないんだ。知ってたかよ。俺はアメリカに逃げてジェーンと出会った。だけどその前後を覚えちゃいないんだ。街が焼かれて皆が死んで記憶が飛んでる。気づいた時には俺はアメリカにいて、次に気づいた時には俺は駒台のアパートに一人で暮らしてた。他の思い出なんか何一つない。家族が死んだことは分かってる。なのに、その顔が思い出せねえんだよ。靄がかかって薄っすらボケて見えるんだ。分かるかよ? 俺にはこのしみったれた街しかねえんだ。ここで過ごしてたのが俺の全部なんだ。夢も希望もねえよ。何もないから、これしかない。もう、あんたを殺すしかなかったんだ。俺が一一でいられるのは、二ノ美屋愛ってやつに復讐するって目的があるからなんだ。あんたがいなけりゃ俺は俺でいられない。一一だって断言出来ない。……違うか? なあ、違うのか? 俺は、あんたを殺さなくちゃならないんだよ。なのに、なんだよその顔は。その目は。お前は本当は誰なんだ? ドブを浚った後みてえなツラしやがって。何もかんもどうにでもなっちまえってかよ。ああ? ふざけるんじゃねえぞ。死にたいってんならまだしも、もう別にどうでも、死んでもいいってそんな目があるかよ。最後に会った時のあんたはそうじゃなかった。自分が神様みたいな顔して、自分以外の全部を見下してたじゃねえか。忘れられねえよ。めちゃくちゃにしてやりたかった。けどな、俺には狂った趣味はねえよ。死人はもう殺せねえんだ。死体をぐちゃぐちゃにしたって気なんかちっとも晴れやしねえんだ。なあ、生きたいと思えよ。死にたくないって思えよ。俺は、そうやってのうのうと息を吸おうとするあんたを殺したいんだ。お願いだ。そんな顔すんなよ。そんな目で見るんじゃねえよ。俺の知っている二ノ美屋愛を、俺の知っている二ノ美屋愛のまま殺させてくれ」
ああ、と。
思わず、息が漏れた。まるで愛の告白ではないかと二ノ美屋は陶酔した。ここまで素直に感情をぶつけられたのは生まれて以来初めての出来事であった。
「まさか、ここまで想われていたとは知らなかった。正直に言おう。嬉しい」
一は二ノ美屋の意図を透かそうとして、じっと彼女を見据えつける。彼は視線を逸らさないまま、その目に光を宿らせた。
「分かった。一つ分かった。あんたはこの街がどうなろうと、誰がこの店に来ようとそこから動かないんだな。だったら俺のやることは一つだ。あんたを殺そうとするものを殺す。それだけだ。俺はこの店を守る。この街を守る。あんたを守る。そして、邪魔者がいなくなったら、その時にあんたを殺す」
嬉しかった。
数日ぶりに生きているという実感が湧いた。
二ノ美屋は無表情のまま、ゆっくりと頷く。一の決意を受け入れようと思った。
「ならば橋に向かうといい」
「橋? どの橋だよ?」
「分からん。だが、『円卓』の狙いの一つでもある。あるいは手段でしかないのかもしれないが。やつらは『橋』を渡ろうとしているらしい」
一は首肯し、立ち上がる。二ノ美屋の知る限り、最も人間らしい、彼らしい姿であった。
「……そうか。お前が、一一なんだな」
「必ず戻ってやる。生き延びて帰ってやる。……だから、それまでは死なないでください」
「うん。うん、分かった。ここで待っているよ、お前を」
オンリーワン近畿支部、一階ホール。
追い込まれた田村薫と氷室は背中を合わせて座り込んでいた。彼らをねめつけるのは戦闘部の女が二人。情報部の男が二人。四対の視線に射られた田村と氷室は逃げ場所を探していた。だが、ここに至るまでタラリアを使い過ぎている。身体には確かな疲労が積み重なっていた。
「春風、上手くやってくれてるかな」
「ど、どうかな。はあ。ぼ、ぼくはもうだめだ。だめな予感がする」
氷室は情報部の実働で、若い。田村は後方支援を担当し妻子のある身だ。今の今まで、二人が互いの命を預け合うようなことはなかった。だが、二人の思惑は奇妙にも一致している。自己犠牲と呼ばれるそれだ。
「田村さん。おれが引きつける。あんたは先に上へ行ってくれ」
田村は首を振る。どう足掻こうと各個撃破されるのが見えていたのだ。上へ逃げるくらいなら百目の巨人の領域に逃げ込んだ方がましだとすら思える。
「き、君のが若いからね。どうせ逃がすんなら君を逃がすよ。妻には、こう言ってくれ。『田村薫は八面六臂の活躍の末に恰好よく殉じた』って。それに、君には恋人がいるじゃあないか。ほら、医療部のすぐに手を出してくれる人」
「あ、あんたまで知ってんのかよ! くそが春風のやつっ、あっさり喋っちまった!」
二人の話を聞いていた情報部の男が頭を掻く。
「なあ、もう大人しく捕まってくれねえかな? 別にこっちだって殺す気なんざねえんだし。他のやつは知らねえけど、おれは『円卓』にケツを振る趣味も振らせるほどイカレてもいねえよ。だからなあ、あ?」
言いかけた男の胸から、何かが飛び出していた。彼は血を吐き、背後を仰ぎ見ようとする。だが、胴を薙がれて叶わなかった。氷室、田村は即座に立ち上がり、距離を取る。情報部の男を殺したのは戦闘部の女だ。陰鬱そうな雰囲気を漂わせた、長髪の女である。彼女は一振りの剣を持っていた。剣身が蛇行の如く曲り、うねる特殊なものである。
仲間割れであった。蛇行剣を佩いていた女――――中之島みぞれは、倒れ、血を流し続けている男を見下ろした。そうしてから、彼の頭部に剣を突き立てる。四肢を激しく震わせると、それきり男は動かなくなった。
「……何が起こってんだ? あのアマ、狂っちまったのかよ?」
中之島は充血した目を更に血走らせる。発言した氷室をねめつけて、血溜まりを踏み荒した。
中之島みぞれ、二十五歳。
彼女の長い髪はろくに手入れもされておらず、中之島は化粧の一つもしたことがない。陰鬱そうな雰囲気に違わず彼女は根っから暗い性格をしていた。駒台に住んでいるが友人はいない。恋人が出来たためしがない。ただ、中之島は現状に満足していたのだ。戦闘部に属してから数年、ソレを殺すことで自らの生を実感する。充分だと思っていた。
だが、中之島は『円卓』のメンバーと出会う。自分よりも暗く、どす黒いモノを身に纏う女であった。彼女の声は身に染み入り、一目で分かった。
――――天使だ。
中之島は天使に恋をした。同性同士だが大した問題はないと認識していた。自分は彼女と出会う為に今日までを生きてきたのだと、強く実感した。……つまるところ、中之島みぞれは『円卓』に恐れて隷従の道を選んだのでもなければ、『王』の力に心酔したのでもない。地獄から来たという天使に惚れただけだった。
だから、先の男の発言は許せなかったのである。
「……中之島。お前、何をやってんだ、ああ?」
情報部の男が詰め寄るも、中之島は身じろぎ一つしなかった。
「こいつは」中之島は死体の頭部を踏みつける。
「私の天使を踏み躙った。穢したんだ。天使の尻と言ったんだ」
オンリーワン近畿支部で反乱を起こした者は、支部の半数にも上る。だが、同僚を殺してまで『円卓』に従おうという者の数は少なかった。『彼ら』に与しない者たちは捕えて縛りつけるだけでいいと思う者が殆どである。しかし中之島のような人間は違った。彼女は心底から『円卓』に、そこに属する天使とやらに忠誠を誓っている。
曲がりくねる得物は中之島の性根そのものであった。彼女は蛇行剣を血振りして、三人の男女を見回す。先までは肩を並べていた者たちである。今となっては敵でしかなかった。
「あなたたちも、きっと天使を穢すはずだ」
情報部の男が構える。彼らの所持するタラリアの能力は中之島も知っていた。彼女は男の足元を見据えたまま、後方の戦闘部に対して攻撃を仕掛ける。無理な体勢、無理な角度からの奇襲だった。しかし中之島にとってはそうではない。柔軟な肉体はまるで蛇のようであった。戦闘部の女は得物を構えて振るう前に腹を裂かれてしまう。傷口からぼたぼたと臓腑が零れ始めた。女はその場に跪き、両手で穴の開いた箇所を塞ごうとする。呻き、助けを求めようとして顔を上げた。瞬間、彼女の首が遥か彼方に飛んでいく。
「次は、誰?」
ゆらりと体を揺らして、中之島は蛇行剣の切っ先をふらふらと行ったり来たりさせた。生き残った情報部の四人が目を合わせる。まず、氷室が右に動いた。彼の初動に呼応して、残りの三人が別々の方向へ駆け出す。中之島の四方を囲んだ。タラリアが起動する。彼女は身を低くした。深く腰を落としたまま、右足を軸にして得物を振り回す。高く跳躍し、足の止まった男の脳天に唐竹割りを見舞った。男の頭蓋にひびが入り、あっという間に断ち割られる。噴出する中身が四方八方に飛び散って雨を降らした。血を受け、血を浴び、血に塗れた中之島が低く笑う。
「戦闘部にはこんなのしかいねえのかよ」
「だ、だからこそ、彼女は戦闘部に入れられたんだ。そ、そこ以外じゃあまともに働けないから」
氷室と田村はこの場から逃れることだけを考え始めていた。情報部の人間は速度で優る。しかし中之島はタラリアを捉えている。唯一のアドバンテージを失ったのだ。彼女に勝てる道理などどこにもなかった。
そう思っていたのは二人だけであった。情報部の男は仲間を失い、怒りに我を忘れていた。
「人殺しが! 裏切り女が! 行くぞっ」
「……は?」
男は一人きりで飛び出している。氷室と田村は彼を見送るような形になっていた。男の行く先は中之島の得物のもとである。
「裏切ってんじゃねえよてめえらも!」
「お前らには言われたくねえよ! どうせだからそのまま死んでろ! 逃げっぞ田村氏!」
「が、がってん」
「ぎいあああああああああああぁぁぁぁあああああ!?」
四肢を薙がれ首を刎ねられる。情報部の男の目が憤怒と苦痛によって見開かれ二度と閉じない状態に陥ったと同時、中之島が氷室たちに狙いを変える。彼女は肩の骨を鳴らした。長い腕が蛇行剣をだらりと垂らしている。
「逃がさない。天使を穢すものは全部私があああああああああ」
ひいっ、と、田村が身を縮ませる。氷室はドレッドヘアーをかき上げて、ふっと笑んだ。諦めたのである。だが、轟音が周囲一帯に響き渡り、振動がその場にいた三人の足元を駆け抜けた時、事態は動いた。一階ホールの出入り口のシャッターが破砕音と共に破られる。すわ巨人の到来かと、中之島が身構えた。
「あ、ああああ…………」
だが、現れたのは巨人でもなければ天使でもなかった。むせ返るような臭気を吹き飛ばしたのは、光輝を押し固めたかのような甲冑を纏った女だ。彼女は少女を共に連れている。
「ここがオンリーワンの近畿支部ね。前に見た時とは、様子が違っているみたいだけれど」
「あ、あ、貴女は。貴女は、いったい……?」
甲冑の女は微笑を浮かべた。兜から背に流れる蜂蜜色の髪が風を受けて揺れる。輝く瞳に射すくめられて、中之島は呼吸困難に陥りかけた。
「跪きなさい、人間。私はオリュンポス十二神が一柱。都市を守護する女神、アテナ。さあ、私の勇者はどこにいるのかしら」
中之島はがくりと膝をつく。現れたのは女神であった。一目で、彼女は新たな恋に落ちたのだ。
見張りをしていた情報部の漁火は、百目の巨人が動き続けているのを見て、瞠目した。ソレは今も戦い続けているらしかった。埒外の戦闘力とぶつかり合えるモノがこの世にいるのかと、彼は息をすることを忘れて、その光景に見入ってしまう。
「だから言ったじゃねえか。やべえのが来るってよう」
「……あんた、あんたいったい、なんなんだ?」
俺か? そう、室内の男は聞き返した。
「さっき言ってたので間違いはねえさ。ただの呑んだくれのおっさんだよ。昔は勇者とか英雄なんてものをやってたがな」
北英雄。
女神に気に入られ、蛇姫の首を落とした英雄である。その正体はペルセウス。アイギス、タラリア、ハルペーといった数々の神具を扱い、星になった男であった。
北の正体は情報部の一部の人間に知られていた。『円卓』に与する者たちが恐れ、警戒しているものはいくつかある。最たるものはアイギスであった。だが、その使い手である一一は駒台から遠ざけている。次に警戒するのは第二の使い手になりうる人物だ。木麻派の情報部は、女神の動向が知れない為にペルセウスを捕縛、幽閉していたのである。
「……英雄、だと?」
漁火の声は掠れて震えていた。
北は自ら支部に囚われていたのである。ゴルゴンが現れた時は血が騒いだが、彼は面倒なことはしない主義であった。英雄とはいえ半神である。数多のソレや支部の戦闘部を相手にするのは骨が折れると考えていた。だが、事情が変わった。女神の気配を感じただけではない。あの男が駒台に戻ってきたのだ。自分の後継者とも呼べる存在が、風と共に街へ降り立ったのだ。ならば、自らが動かぬ道理はない。
「ああ、そうさ。据え膳食わぬは、って言うだろ? あの時もそうだったが、俺が戦う場面としちゃあ、中々に決まってる。そうだろ?」
今、北の手には蛇姫の首を狩った鎌はない。身を隠す冥界の王の外套も、絶対の盾もない。しかし、
「てめえらは、よくよく馬鹿なんだろうよ」
「ドアが!?」
空を翔ける靴はある。ただのサンダルに見えたそれは道祖神から賜ったオリジナルのタラリアであった。手錠を掛けられた状態で十全に力が出せずとも足は封じられていない。北は扉を蹴破った。外にいた漁火はそれを蹴り退けて、英雄の前に立つ。
「……おっさん。あんたが英雄だろうと持ち場は持ち場だ。そこから出すわけにはいかない」
空手の漁火は未だ室内から出てこない北を睨みつける。かつて英雄だった男は大儀そうに自らの腹を摩った。次の瞬間には、漁火の視界から北は消えている。
背に一撃。絶息しかけた漁火の頭部に北の膝が叩きつけられた。北が天井を蹴り、自分は背後を取られた。彼に認識出来たのはそこまでである。漁火は床に体を打ち据えられると、倒れたところを強かに踏みつけられた。
「おお、呆気ねえな。まあいい。迎えが来る前に逃げるとするかね」
北は漁火の身体をまさぐり、鍵を見つけ出して手錠を外すと、タラリアを使わずに歩き始める。物見遊山のような、呑気な歩調であった。
女神アテナ。彼女の登場によって中之島は殺戮を止めた。彼女は跪いたままである。氷室と田村は顔を見合わせ、それから、支部の奥に行こうとするアテナを留めた。
「何よ」と、彼女は不機嫌そうに答えた。
「まずは感謝を。ありがとうございます。しかし、何故、女神がここに?」
アレスとの戦いが終わって以降、アテナは駒台から姿を消していた。梟の姿をしていたはずの彼女が、人間の真似をして支部に訪れる理由が把握出来ず、氷室は疑問を口にする。
アテナは自らに付き従う少女、ニケの頭を撫でると、氷室の髪の毛をじっと見つめた。
「変な髪形。それ、流行ってるのかしら」
「ぐ……は、流行ってる。流行ってるんだよぉ……!」
田村は首を傾げる。だが、こうやって和んでいる場合ではない。彼はアテナの興味を惹くことを考えた。
「も、目的は聞きません。私は手段を問いたい。外には死角のない巨人がいます。空間と時間に一切の隙のない百目の巨人が。あなたは、どうやってここへ来られたんですか?」
「死角が? ……これだからあなたたちは。目玉が百あろうと千あろうと、アレはただの巨人なのよ。私たちはギガントマキアを戦い抜いた。あの戦いと比べれば、なんてことはないわ」
しかし、外では巨人が暴れている。音が響き、振動が断続的に伝わっている。誰かがソレと戦っているのだ。それでも、田村はこの女神と関わりを持ちたくなかった。彼は、アテナの一たちに対する振る舞いを知っていたのである。味方に回しても敵に回しても、強過ぎる力は害にしかならない。
「わ、かりました。それでは、私たちは医療部の方へ向かいます。あなたは、どうぞご自由に支部の中を見て回ってください」
「あら、エスコートしてくれないのかしら。ふう、これだから醜男は」
「私には愛する人がいますから。い、行こう氷室君」
「おうよ田村氏。……こええ女しかいねえな、ここは」
「ああ、お待ちなさいな」
アテナはニケを見遣る。少女は唐草模様の包みを取り出した。彼女はそれを両手で差し出すも、氷室らは受け取りを拒否する。
「私は英雄には嫌われているみたいなの。中々出会えそうにないから、あなたたちが渡してくれないかしら? アレも、無手ではしまらないでしょうし」
「……中身は、なんだ?」
「決まっているじゃない」
決まっているのかと、氷室は息を吐く。
「分かった。とりあえず、預かっときますよ」
アテナに背を向け、二人は医療部へと急いだ。残された彼女は仕方なさそうに息を吐き、跪いたままの中之島に声を掛ける。
「じゃあ、あなたでいいわ。ねえ、北という男に心当たりはないかしら?」
「あっ、あああああります! お連れします! そ、その場所まで!」
中之島は天啓と天命を受けたかのような表情であった。
百眼の巨人、アルゴス。彼は『円卓』が送り込んだ近畿支部の見張り役であった。建物に近づく者を叩き潰し、建物から逃げ出そうとする者をすり潰すのが使命である。
アルゴスの背は支部と同程度であった。鈍重そうな体躯ではあるが、その実、動作は素早い。贅肉ではなく筋肉の鎧を纏っているのだ。情報部の速度にも対応可能であり、攻撃範囲も広い。伸ばし、振り回した腕に掠れば、人間ではひとたまりもないだろう。
だが、その巨人と対等に戦うものがいた。二人の女である。彼女らは全く同じ姿をしていた。地面にまで垂れてしまいそうな黒髪。病的なまでに透き通った白い肌を惜しげもなく露出させている。下着のような布切れだけで局部を隠していた。毒のような妖艶さをまき散らすその姿は間違いなく絶世の美女であろう。しかし、彼女らは人ではない。
「雄々しいのね」
「雄々しいのね」
声が重なって聞こえる。
「あの女に従うのは虫唾が走るけれど」
「あの女に従うのは虫唾が走るけれど」
二人の女は互いの手を合わせ、指と指とを絡ませ合う。
「もう一度、あの子に会えるのなら……」
「もう一度、あの子に会えるのなら……」
アルゴスが腕を振り下ろした。風を切り裂きながら突き進むそれは力の塊である。しかし、女はゆるりとした動作で答えるように腕を上げた。大気が軋むような音が弾ける。衝撃が近畿支部の建物を覆った。巻き起こる嵐のような圧力の中で、女は不意に顔を上げる。彼女の細い腕が、アルゴスの巌のような拳を受け止めていた。
「アレに従うのも」
「止む無きこと」
「それでは戦を」
「続けましょう」
女が腕に力を込める。アルゴスの目がぎょろりと動いた。拳を弾かれた大巨人の眼が驚愕に見開かれる。
女の正体は人ではなく、蛇だ。一に宿るアイギスに埋め込まれた、稀代の蛇姫の姉にして不死の怪物である。力のステンノ、飛翔のエウリュアレ。それが彼女らの名であり、正体だ。……一とメドゥーサの力で石と化した二人は、北の手によってアテナのもとに運び込まれていた。二人はギリシャ最高峰の山、オリンポスの神気を浴び、女神の力を受けることによって、数日前にようやっと呪いが解かれたのである。
『妹に会いたいのなら、私の言うことに従いなさいな』
ステンノ、エウリュアレに異論はなかった。怨敵に従うことは屈辱ではあるが、妹に会えるのならと、甘んじて辱めを受けた。不思議なことに、石化から解放された二人には、一に対する憎しみの気持ちが薄れている。彼女らは女神に振り回された誼として彼に同情しているのだ。また、ある意味でメドゥーサを助けてくれたという感謝の念もある。『円卓』の三席として行動していたが、その目的は『妹』だ。女神が機会を与えてくれるのならば、これ以上『円卓』に味方する義理はなかった。
「あなた、逞しいわ」
「あなた、逞しいわ」
「けれどあなたは敵わない」
「けれどあなたは敵わない」
「私たちの為に」
「妹の為に」
「あの子の好きな人の為に」
「アケロン川を渡りなさい」
エウリュアレが空を翔け、ステンノが力を振るう。アルゴスは二人に気を取られていたせいで、とある人物の影を見落としてしまっていた。