Free Your Soul
お話の邪魔をしてすみません。たぶんこれが最後の前書きになると思います。
僕の力不足のせいで、今回からの注意点らしきものを5月19日分の活動報告に乗せておきました。ちょっと長いので、そちらの方にもさらさらっと目を通してくださるだけでも助かります。
お伝えしたいことは以上になります。お邪魔しました。次は後書きで皆様と出会えるように、最後まで頑張りたいと思います。
夜が深まる。
影が濃くなる。
異形との戦いに身をやつした者は気づいていた。この街が既に囚われていることに。自分たちが食らわれようとしていることに。
十二月三十一日、午前一時。
オンリーワン近畿支部の情報部の一室で、ダークスーツの女が瞼を揉んでいた。彼女は黒縁の眼鏡を掛け直して、ショートカットの黒髪を撫でつける。木麻凛。情報部の長である旅直属の部下であった。目下、彼女を悩ませているのは旅派の情報部である。つまり『円卓』に、自分たちに敵対している者たちのことであった。
木麻はパイプ椅子に腰掛けている。尻の位置を動かす度に、ぎいと軋んで耳障りであった。……彼女が『円卓』と繋がるようになったのは一年程前のことである。旅たちを裏切り、『王』に忠誠を誓った。誓わざるを得なかった。強大な力の前ではプライドも人としての立場も意味を為さなかった。
「……くそっ。旅は捕えたのに」
木麻は爪を噛み、白い壁をねめつける。既に旅は『円卓』の手に落ちている。別室に監禁した。武器を取り上げ、見張りを立てているのだ。だが、春風たちは今も逃げ回っている。それが木麻を苛立たせている原因であった。戦闘部は医療部を抑え、籠城中の技術部を引きずり出す為に動いている。『円卓』からの援軍が来る前に片をつけなければと、木麻は頭を掻き毟った。
「くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそっ……」
足で床を踏みつけて、携帯電話を握り締める。どいつもこいつも役立たずだと、木麻は歯噛みした。しかし時間の問題である。何人であろうと近畿支部からは出られない。見張られているのは彼女も同じなのだ。ここから出るには百目の巨人を討伐しなくてはならなかった。その前に、春風たちの逃げ場所も狭まってきているはずである。気を落ち着けて、木麻は深呼吸して立ち上がった。
「あああああああああああっ、畜生! 春風、春風麗ぁぁぁぁぁぁ! ああああっぁぁぁぁあああああっ!」
逃げ場はない。いずれ、戦闘部とぶつかることになるだろう。というのが、逃げ惑う春風たちの見解であった。
春風は薄暗い室内を見回す。彼女らは支部の最上階にある、使われていない会議室にいた。ここに居るメンバーが旅派の人間である。春風や氷室、以前、三森と糸原にかつあげまがいの真似をされた田村薫ら六人だけだ。あまりにも頼りなかった。
「……なあ、今出てったら命だけは助けてくれるんじゃねえのか?」
ぼそりと、情報部一課の男が口にする。氷室は同調して何度も頷いた。戦力差は明らかである。逆らうことは無意味だ。死を長引かせる程度の抵抗にしかならない。しかし、春風は首を振る。
「ここまでのことをしておいて、私たちを生かしておくと思うのか。いわばクーデターだぞ。しかも、近畿支部の殆どが参加している。いつだって少数派が損をする」
何が起こったのか、春風たちにも詳しくは分かっていない。だが、この状況は近畿支部どころか駒台の危機だとはよく理解していた。彼女らはタラリアのお陰で逃げ出せたが、旅は捕まってしまっている。外部と連絡を取ろうにも電波が繋がらない。以前に駒台の高校を襲撃した、モノを隠す『館』の魔女と似た手法を使われているのだ。
「外へ逃げようにも、なあ。……なんだ、アレ?」
「知るか」
近畿支部の外には巨大な人がいた。ソレである。全身に数多の目を持つギリシャの巨人であった。その体躯は技術部が造り上げたタロスとは比べ物にならない。何せ、支部の建物と背を並べているのだ。目玉は時折ぎょろりと動き、支部の中を観察している。ソレの動作は体の割に俊敏であった。先も、逃げ出そうとした情報部の一人が中空で捕えられ、体中の骨を粉々にされて握り潰されているのだ。その光景を見ていたからこそ、春風たちは動けなかった。
「最悪、誰かを生贄にするという手もあるがな」
春風は氷室に目を遣る。彼は勘弁してくれと、肩を竦めた。
「手はまだあるよ」と、ノートパソコンの液晶と睨めっこしていた田村が顔を上げる。彼は春風や氷室のような実働部隊としてではなく、後方支援を主とした情報部の一員であった。
田村は窓の外に目を向ける。つられて、他の五人がその視線を追いかけた。腰巻だけをつけた巨人の目玉が一斉に彼らを見据えつける。ひいと、誰かが情けない声を上げた。
「時間の問題なんだ。ここにいても。ここにいる支部の裏切り者連中全部と戦うか、あの巨人をどうにかして逃げ出すか。どちらか二つなんだよ」
「……なんかこいつ、キャラ変わってね?」
「嫁と子供が心配なんだろ。で、田村よう。どっちだ? どうすりゃいい? 俺たちが生きてこっから出るにはどっちと戦う必要があるんだよ」
田村は人差し指を一本立てる。芝居がかった動作だったので春風たちはイラついた。
「僕たちにはどうしようもない。支部にはまだ捕まっても殺されてもない人らが残ってるはず。その人たちに何とかしてもらおう」
「他力本願じゃねえか!」
「悪くはない考えだが。だが田村薫。医療部は戦闘部に抑えられている。技術部も引きこもって出てこられない。散り散りになった生き残りを探すにしても困難を極めるだろう。貴様は如何にこの窮地を脱するつもりだ?」
春風の目が田村を捉える。彼は額の汗を拭い、鼻から息を吐き出した。
「まずは旅さんを助け出そう。あの人なら、アレをどうにか出来るはずだ」
百目の巨人は田村を睨みつけている。彼は気を失いそうになるのを堪えた。
手足を縛られ、武器を取り上げられた。なおも、旅は無邪気な笑みを浮かべたままであった。彼を見張るのは情報部の女である。木麻の一年後輩の女であった。スーツにはまだ着られているという雰囲気がある。短い髪形はあまり似合っていない。童顔の所為かどこか自信がなさそうで、ともすれば与し易い人物にも見えた。
「猿ぐつわまでされなくてよかったよ。僕はこれでもおしゃべりだからね。尤も、こうして縛られてたら口を開けたり閉じたりするくらいしかやることがないんだけれど」
「そのう、なんだか、すみません」
「いいよ、いいよ。君にだって立場ってものがあるからね。まあ、情報部の長の僕がこんな醜態を晒してる時点で立場って何? って感じはするけど」
旅の容姿は幼い。サンダルに半ズボンと、半袖のTシャツという、小学生のような恰好をしている。だが、彼は紛れもなく情報部の長である。知性と余裕を湛えた瞳でもって、部下であった女をじっくりと見つめていた。
「確か、朱鷺田君だったね。どう? ここには慣れそうかい? なあに、大丈夫。うちの情報部は僕が仕切ってるだけあって自由なのが売りだからね。気にせず、のびのびとやってくれればさ。困ったことがあったら何でも言うといい。僕の出来る範囲で君の助けになるよ」
朱鷺田は開いた口が塞がらない思いであった。囚われ、縛られた者が何の役に立つというのか。旅は口元を歪める。
「おやおや、なんだいその顔は」
「あ、あのう。だって、旅さんは何も出来ないですよ。というか、何者なんですか。こんな状況なのに軽口ばっかりで」
「僕かい? 僕が何者なのか答えても構わないけれどね。それよりももっと大事なことがあるんじゃないかなあ」
なんですと、朱鷺田が答える前に旅は口を開く。そこから発せられたのは聞く者を底冷えさせるような声であった。
「君の進退だよ。朱鷺田君。木麻君につくのもいいと思うよ。そういうのは当人の自由意志だからね。僕は裏切り者には寛容だ。ただし、僕の部下を傷つける者には容赦しない。そして残念ながら、君たちは僕の部下を深く、傷つけている」
「そ、そんな状況で強がりを言えたものですね」
「まあね。ちょっと油断したよ。木麻君が僕を裏切ってるのは知ってたけどさ、ここまでたくさんの人が彼女に……いや、『円卓』についているとは思わなかった。あの死神を手引きしたのは木麻君だけじゃなく、近畿支部の半数がやってたんだって気づいた時には後の祭り。この辺り、僕の限界だよね。やっぱりどうしても人間を下に見ちゃうんだ。悪い癖だよ」
朱鷺田は眉根を寄せる。裏切りに気づいていたという旅の発言は強がりにしか聞こえなかった。
「で、どうするんだい。君は誰につくつもりかな。……ま、いいか。どうせ春風君辺りが助けに来てくれるだろうし」
近畿支部には監視役のソレがいる。百の眼を持つ巨人アルゴスだ。全身に目を持ち、更にその目は交代で休息をとる。アルゴスは常に目覚めており、死角はない。最強の番人であった。尤も、ソレは無差別に攻撃を仕掛ける。支部から出る、あるいは近づく者に対して容赦しない。朱鷺田たちもまたアルゴスに注意して動く必要があった。
「ところで、木麻君は随分と趣味が悪いね。まさかよりにもよって僕にあいつをぶつけるようなことをするなんてさ」
旅の楽しげな呟きは、朱鷺田の耳には入らなかった。
籠目鹿柾、情報部一課実働所属。彼は上階に逃れた春風たちを追っていた。籠目は戦闘部に所属していた経歴があり、当時使っていた得物を携えていた。ずるずると床を擦るそれは、スレッジハンマーである。巨大なハンマーヘッドは血で錆びついていた。技術部に作成させたハンマーは人を殴ることには向いていない。構造物を破壊する為のものだ。が、籠目はハンマーを人に向けられる。膂力があり、躊躇がない。
籠目は丸坊主の痩身だが、ハンマーを操る両腕だけが発達した筋肉で膨れ上がっている。バランスの悪い体躯が左右に揺れていた。ずりずりと、ハンマーが床を擦り、削る。
「おぉぉおおおい、氷室ぉおおお、春風ぇえええぇ。てめえらああ、出てくるんなら今の内だぜえ?」
最上階には部屋が幾つかある。廊下を進んだ奥の会議室、そこの扉が僅かに開かれていた。籠目はその意味を悟り、けたけたと笑った。
「これ見よがしってやつだよなあああ、てめえらああ。ああ?」
何が飛び出てこようと叩いて砕く。砕いて壊す。それだけを考え、籠目はゆっくりと歩を進めた。
「おい、春風。春風、行くぞ。やべえのが来た。よりによって籠目のバカだ。……おい、聞いてんのか?」
春風は窓の外から視線を外せなかった。そこから見えたものを認めて、彼女は小さい笑みを零す。やっぱりな、と、春風は腹を抱えた。
「だめだ。おかしくなっちまった」
「ふ、ふふふ、いいや、問題ない。そうか。ハンマー信者の籠目鹿柾が来たか。ならば交渉の余地はない。やつは聞く耳を捨てた男だからな」
春風を除いた五人は扉の前で、椅子や机を持って構えている。投げつけて隙を作るつもりであった。だが、その一方で籠目のハンマーの前では無力だとも知っている。中途半端に距離を詰めれば、破片ごと身を砕かれてしまうだろう。
「口火を切るぞ」
全員が、僅かに開いた扉の隙間から、接近する籠目を認める。彼らはタラリアに手を伸ばした。春風は口元を緩ませる。
「我々を思い知らせてやるぞ。我々には戦闘部のような火力はない。技術部のように手先が器用でもない。医療部のように他者を癒せない。勤務外のように捨て鉢にもなれん。腐肉に沸く蛆のように、糞に集る蠅のように飛び回るのが情報部だ。しかし我々は、空を往く鳥よりも自由な魂を持っている」
春風が扉を蹴り開けた。同時、他の五人が椅子などを投げ飛ばす。籠目がハンマーを振るった。破砕音が鼓膜に飛び込んできたのと同じタイミングで、情報部は床を蹴り、天井を蹴り、左右の壁を蹴っていた。
籠目は情報部に移ってから日が浅かった。彼にも情報部の象徴とも呼べるタラリアは与えられている。しかし、籠目はそれを使うのに抵抗があった。生粋の、根っからの戦闘部でいたいと思っていたのだ。タラリアを使えば情報部に成る。そんなものがなくても、自分は戦える。自分はまだ戦闘部なのだ。籠目は吼えた。
椅子と机を一振りで破砕する。視界が塞がる。思考が停まる。膨大なエネルギーは勢いを失わず、欠片の陰にいるであろう情報部へと襲い掛かった。
「おれはっ、蠅なんぞに屈しねええええんだ!」
春風の顔が見える。だが、一瞬のことであった。籠目は狼狽し、スレッジハンマーを天井に向けて振るった。咆哮と共に、それは床へと叩きつけられる。
「貴様は知らない!」
春風が床を蹴っていた。
氷室が天井を蹴っていた。
田村たちが壁を蹴っていた。
その姿を籠目は捉えられなかった。
籠目は、ここが逃げ場のない、狭い空間だとたかをくくっていたのだ。しかし、彼は情報部に属する人間を甘く見過ぎている。彼らは矢面には立たない。戦いを避ける臆病者だ。が、死地の中で安全地帯を見つけることは情報部にとって造作もないことであった。臆病であるが故に、彼らは他者よりも死に敏感であり、死の影から逃れられる程度には俊敏であった。
「籠目鹿柾、貴様は知らない!」
声の出所が分からない。籠目は闇雲に得物を振ったが、ただ壁を壊すだけであった。彼は背中に衝撃を感じる。肺から空気を吐き出した。次いで、真正面から腹部に蹴りを食らう。よろけて、武器を取り落しそうになる。
「お前は、我々の速さを知らない!」
四方八方から攻撃を受け、籠目は吼え声を上げた。その瞬間、ひときわ強い一撃をもらってしまう。田村の体当たりをまともに受けて、彼は窓へと突っ込んだ。
「あんたは知らない!」
「くっ、うおおおおおおおおお!?」
スレッジハンマーが窓を砕く。籠目は勢いを殺し切れず、その身を宙に躍らせた。彼はプライドを捨ててタラリアを使用する。中空で姿勢を制御しようとして、両目を開けた。
目が、彼をねめつけていた。
百眼の巨人が狙いを定めていた。籠目は落ちながら両腕で顔を庇う。巨人の腕が大気を切り裂き、一個の人間を叩いた。ぱんと、弾けるような音が鈍く響く。空に鮮血が広がった。赤い花が咲いたようであった。
散った籠目を見遣り、春風は息を吐き出した。
「……どうやら、あの巨人は敵味方の区別がつかないようだ。この建物に囚われ、見張られているのは我々だけではないらしい」
「らしいな。で、このまま行くのか? 正直、さっきみたいな手は何度も使えそうにねえぞ。あのバカだから通じたってだけだ」
氷室が憂鬱そうに肩を落とす。同僚が彼の肩を軽く叩いた。
「誰が敵に回っているかははっきりしないが、旅さんだけは味方だろう。あの人の救出を第一に動こう」
「当の旅さんはどこにいる?」
窓ガラスの散った廊下で、情報部たちは顔を見合わせる。
「たぶん、木麻のところじゃないか? 四階の、情報部の部屋だろ」
「けど、真正面から行ってもバレバレだよな。どうする?」
自然、皆の目は春風に向けられた。いつの間にか、彼女の指示に従うことに慣れていたのである。春風は外に目を遣り、目を瞑った。自分たち、というよりもタラリアの生み出すスピードに追い付ける者は少ない。幸い、ここにいるメンバーは田村を除けば全員が実働所属である。他の情報部の者よりもタラリアの使い方を知っているはずだ。
「よもや、我々がまともに戦うことになろうとはな。しかも、相手は同僚だ。全く無益なことだ」
言いつつ、春風は表情を歪めていた。氷室たちの顔はひきつっている。疫病神が愉しげにしている、と。
近畿支部には陣が敷かれてあった。『館』の魔女が仕掛けたものとは比較にならない。『円卓』に味方する者にとって都合のいい状態になっていた。間もなく、支部は制圧出来る。そのはずだったが意に沿わない動きを続ける者は残っていた。
木麻は椅子を蹴り飛ばし、壁に手を付いて息を荒らげていた。今は旅ではなく、彼女が情報部を率いているのだ。
「木麻」と、声が掛かる。情報部の男が立っていた。呼ばれた彼女は顔を上げる。その表情は常の怜悧なものではなく、憤怒によって醜く歪んでいた。
「用があるなら電話を使いなさいよ」
「通じづらいんだよ。所詮、得体の知れない魔法ってやつだ。それよりもな、春風たちが分かれて行動し始めた。人数はこっちが多いが、どうする?」
「一人ずつバラけたの……?」
その報告を聞き、木麻は落ち着きを取り戻す。春風たちの狙いは明確だ。彼女たち六人きりでは大したことは出来ない。十中八九、捕えられて身動きの叶わない者たちを助けて回るはずだ。特に、救出してやりたいと思っているのは旅だろう。
「こっちの目を誤魔化そうとしてるみたいね。いいわ。旅には私もつく。他の部署に援軍を寄越してもらうこともない。タラリアは使っちゃってもいいから、確実に一人ずつ仕留めなさい」
男の目が揺れる。疑心を孕んだ視線であった。
「殺すのか?」
「……任せるわ」
掻き回されてやるつもりなど、木麻にはなかった。
オンリーワン近畿支部の一室に、一人の男がいた。連れられ、囚われているはずの彼は酒と煙草を要求し続けていた。
「おぉい。だからよう、気分よくこんな狭苦しいところに入れられてんだからよう、酒の一つや二つは差し入れしてくれたっていいじゃねえか」
うるせえ、と、扉の前に立っていた見張りの男が毒づく。彼は情報部の新入りであった。持ち場を与えられたのはいいが、立ち、たまに室内の男に口を利くくらいしかすることがない。
「……どうして、こんなおっさんを見張る必要があるんだっつーの」
木麻たちがクーデターまがいのことを始めたのと同時、男は支部内に連れてこられた。中内荘という朽ちかけたアパートの住人である。それ以外の情報は、新入りには与えられなかった。
「なあ、おい。あんた、いくつだ? 少なくとも俺よりかは年下なんだろう? だったらよう、年長の言うことにゃあ素直に耳を貸しとけ。な?」
「何を言われたってなあ、酒も、たばこも、ここにはねえんだ!」
「嘘吐くんじゃねえよ。嘘を言うやつぁ嫌いだぜ、俺ぁ」
ただ、軽口を叩く男が只者ではないと分かり始めていた。この状況下で気楽そうに酒を要求する男の性質もそうだが、情報部が一介の男を危険視することはまずない。何者なのかと、新人の男は暇に飽かせて思考を始める。
「おい、聞けって! こちとら中毒なんだぞ! ……お?」
「漁火っ。こっちに、誰か来なかったか?」
漁火と呼ばれた新人の男は、情報部の同僚を認めた。漁火は首を振り、憂鬱そうに息を吐く。
「いいえ、誰も。誰か来たんなら、こんな風に突っ立っていませんよ」
「それもそうだな。まあ、実際にやり合うよかマシだろうよ。……籠目がやられた。巨人に殺されたが、あいつを外に叩き出したのは春風たちだ」
ごくりと、漁火は息を呑んだ。人間同士、それも支部の者同士で殺し合うことになったのだ。彼は若く、未だ覚悟は出来ていなかった。
「もしかしたら、ここにも誰か来るかもしれないからな。気をつけろよ。そこにいるやつだがな、俺たちの予想以上にやばいやつかもしれねえんだ」
「どういうことです?」
「さあな。俺もそこまでは知らねえ。けど、木麻のやつがいの一番に引っ張ってきた男だ。何かあるって、そう考えといた方がいい。じゃ、俺は別のところに行くけどよ。油断はするなよ」
漁火は頷いて返す。同僚の男はその場から消えるようにして立ち去った。
「よう、いよいよ動き始めたって感じがするよなあ?」
「黙ってろって言ってんだろうが!」
「そう邪険にすんなや漁火くん。短い間だが、話し相手なんだぜ、俺たちは」
男は大声で笑う。漁火は扉を軽く蹴った。男は黙らなかった。
「てめえら、まだ気楽な体でいやがるんだな。呑気にしてると誰も彼もが殺されるってのによう。知らねえのか? 気づいてねえのか? この建物を見張ってるデカブツもやべえが、ここに居残ってるやつの中にもやべえのがいるんだぜ」
漁火は答えなかった。
「それに、もっとやべえのがこっちに来るかもしれねえぞ? なあ、漁火くん?」
春風たち情報部は、追っ手の目と、自分たちの目的を晦ませる為に六手に分かれて行動していた。彼らの狙いは旅や、囚われの身となった者の救出である。追われ、危うい立場にあるが、彼らはすぐに殺されるようなことにはならないと踏んでいた。何せ、自分たちは人間で、つい先日までは仲間だったのである。最悪、捕まってしまってもそれだけだと思っていた。
地下の駐車場に向かっている者がいた。情報部二課実働所属、木庭である。彼は春風らと別れ、一人きりで目的の場所へと向かっていた。脱出する際、人数がいてもそうでなくても足は必要だ。そう考えた上での行動である。
幸い、誰にも見つからずに駐車場まではやって来られた。しんと静まり返り、冷えた空気が木庭の身体を撫でる。彼は息を殺して、周囲の様子を確認した。……一人、いた。出入口の近くに佇む者がいる。背の高さから見て、男だと判断した。木庭は迷ったが、先に仕掛けることを決めた。ここで立ち尽くしていても、後ろから追いつかれる可能性がある。相手は一人で、何かあっても逃げ切れるという自信もあった。
声すら発せず、足音を最大限に消し、木庭は男へと近づく。
「――――っっ!?」
しかし、視線が交錯した。確実に、自分の動きを捉えられている。そう認識しても尚、木庭は止まれなかった。
人間は鍛えられる生き物だ。研鑽を積み、腕を磨く。未知の領域に足を踏み入れ、次の世界を覗き込む。しかし、限界というものは存在する。人によってその線は決まっているものだ。持って生まれた才能もそうだが、人という種そのものに限界がある。どれだけ鍛えても、獣の俊敏さ、腕力には敵わないだろう。
人間とは無力な生物だ。爪も、牙も、力もない。だからこそ知恵を絞って武器を作り、それを手に取って戦う。
――――果たして、本当にそうなのか?
オンリーワン近畿支部、戦闘部の槌屋は常々疑問を抱いていた。人間に限界はあるのか。限界を定めているのは他ならぬ自分自身の脳だけではないのか、と。
槌屋は考える。鍛え上げた肉体だけで獣を打ち倒せるはずだ。死線を一つ潜り抜け、死体を一つ増やす度に自分は強くなれる。今日より明日。明日より明後日。今よりも自分は高みへと近づけるはずなのだ。
「槌屋かよ!?」
槌屋は思い出す。戦闘部には昔、三森冬という女がいた。サラマンダーに魅入られた彼女には力があった。最強という呼び声も高かった。だが、彼は違うと思った。人は人であるべきだと。人がその規を超えたモノを手にした時、人は人でなくなる。あくまで、人間という種を保ったままで強くなりたいと、槌屋はそう思っていた。
槌屋という男は純粋な人間である。彼には二つだけ才能があった。一つは恵まれた体格である。槌屋は両親に対する感謝を欠かしたことがない。もう一つの才は、脳の構造である。彼はどこまでもシンプルな男であった。多くを考えない。雑念はない。ただ、強くあろうとしていた。そうある為の努力を重ね続けてきた。
身長、百八十八センチ。
体重、百六キロ。
それだけが槌屋という男の武器であった。彼には他に何もない。女神や精霊に見込まれることもなく、肉体を極限まで弄られることもなかった。スーツの下にははち切れんばかりの筋肉があるが、愛用する武器はない。ただ、槌屋には力があり、技術があり、
「……木庭か」
「くそがっ」
情報部の速度に、即座に追いつけるほどの俊敏さを備えていた。
槌屋は木庭の攻撃を避けると、彼の頭を片手で掴み込む。……槌屋は『円卓』に忠誠を誓っている訳ではない。彼らに恐怖しているのでもない。ただ、上司の命令には逆らわないだけだ。立つ場所、拠る物が違っても彼には一切、関係がない。歯車として回り続けるだけである。同時に、
「うおおおおわああああああああ!?」
槌屋は歯止めが効かない。押し潰した木庭の頭部だけでなく、駐車場の床すらも砕いてしまっていた。返り血と脳漿を浴びても尚、槌屋は眉一つ動かさなかった。ただ、感謝していた。木庭という男の死は自らの血となり肉となる。これでまた一つ強くなれるのだと、槌屋はそう信じている。
齢三十にして、槌屋の肉体は未だ進化し続けている。彼は紛れもなく人間だ。数多のソレを屠り、幾多の夜を潜り抜けてきた。異能を扱う者を除けば、槌屋が近畿支部で最も強い。誰もが認めざるを得ない事実であった。彼の強さ、在り方に惹かれる人間もいた。尤も、その男はスレッジハンマーという武器に頼っていたせいか、槌屋本人が気に掛けることはついぞなかったが。
地下駐車場。そこが、槌屋に与えられ、任された持ち場であった。彼はここで更なる敵を、新たなる強者を待ち続けることになるだろう。ただ、それは『円卓』の目論見や近畿支部から逃げ出そうとする者たちとは関係のない話であった。