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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
インタールード
273/328

俺の街スカイウォーク



 オンリーワン出雲店。十二月三十日。

 短い間だが、世話になった部屋を掃除し、荷物を整理した一は屋外へと降りた。時刻は昼過ぎ。駐車場で養老と合流し、駅まで送ってもらう手筈となっていた。

「……騙しやがったな」

 一を待っていたのは冷たい風と麗らかな日差しだけではない。柿木、桜江、石見の三人である。養老の姿はどこにも見えなかった。彼は、三人には近づかず、その場に立ち止って煙草に火をつける。話すことなど何もなかったのだ。

「やあ、少年。おはようと言うには少し遅いかな。よく眠れたかい」

「おかげさまでぐっすりと」

 柿木は薄い笑みを浮かべた。何もかもを見透かされているのだろうと、一は嘆息する。彼女は俯いていた石見の肩を叩いた。

「よう。向こうに戻るんだってな。へっ、せいせいするぜ」

「だろうね」と、一は顔を合わせないままで答える。彼の吐き出した紫煙がたなびいた。

「てめえが行くまでに、もう一発ぶん殴っておきたかったんだけどよう」

 ごきごきと拳の骨を鳴らし、石見は一へ近づいていく。

「殴れ。俺を」

 石見は自らの頬を指差した。彼の意図が読めず、一は短くなった煙草を落とし、靴の裏で強く踏みつける。

「みとと、よしかさんから話は聞いた。お前、俺たちを」

 そこまで石見が言いかけた瞬間、一は彼の頬を殴り飛ばした。不意を打たれた石見はよろけ、楽しげに笑う。

「根性なしかと思ってたらよ、結構いてえじゃねえか。……こないだは悪かった。すいませんでしたっ。俺は!」

「俺は、君らのことが嫌いだよ。だから君を殴ったんだし、桜江さんを突き放した。言ったことは嘘じゃない。全て本心だ」

 石見は頭を下げたままであった。柿木だけが微笑んでいる。彼女は一が嘘吐きだと知っていたのだ。

「流されるままってのはよくないですね。こんなところ、来るべきじゃあなかった」

「一さん」

 一は目を逸らしかける。桜江の視線はあまりにもまっすぐなもので、耐え難かった。彼女は目の端に涙を浮かべている。それでも、笑顔を作り続けていた。

「今度は、遊びに来てくださいね」

 今度は。その言葉は一の胸を深く抉った。駒台に戻れば『円卓』と戦うのだ。ここでの約束は無意味になる。彼は自分が生き残れると思っていないのだ。……何よりも、桜江の気持ちが痛かった。何故、自身を傷つけた者に対して、そんな風に笑いかけることが出来るのか。一にはそれが辛かった。

「まだ、この街を全部見たわけじゃないですし、それに、案内したい場所は残ってるんです」

「やめてくれ」

「今度、私たちがお休みをもらえたら、一さんのところに行ってもいいですか? 色んなところに連れてってもらってもいいですか?」

 当たり前だと応えたかった。もちろんだと頷きたかった。一は首を振り、頭に手を遣った。

 本当に止めて欲しかった。

 泥濘のような優しさに嵌りたくなかった。無垢な笑顔で目が潰れてしまいそうだった。

「俺はっ、そんなにいいやつなんかじゃないんだよ。クズなんだ。一人だけでここに逃げた! 嫌になって何もかもを置き去りにしたんだ! そんなやつに、桜江さんが優しくなる必要はないんだよ!」

 優しさが辛かった。

 笑顔を向けられるのは苦しかった。

「知っているよ」

 ……しかし、心の底では望んでいたのだ。

「少年。知っているよ、そんなことは。私たちは知っているんだ。君が駒台に戻って何をするのか。君が逃げ出してきたことも。君が、嘘吐きで意地っ張りな捻くれ者だってことも。……楽しかったよ。君が来てくれたおかげで、いい年を越せそうだ」

 柿木は微笑む。

「や、約束ですよ? 絶対に、また来てください」

「おうっ。今度はケンカなしでな! 楽しくやろうぜ!」

「……なん、で……」

 桜江と石見の視線を受けて、一は嗚咽を堪えた。限界だった。彼は全てを突き放して駒台に戻りたかったのである。約束は必要ない。向けられる気持ちも笑顔も自分には過ぎたものだと思っていた。

「それじゃあ、そろそろ行きましょうか」

 どこからか様子を見ていたのだろう。養老は車のドアを開けて、柔和な笑みを浮かべていた。一は頷き、出雲店に背を向ける。彼は助手席に乗り込み、窓を開けた。

 ありがとうと、心の中で呟く。

 養老が運転席に戻り、ゆっくりと車は動き始める。

「またな、一! 絶対だからな!」

「一さんっ、気をつけて! 元気で!」

 一は何度も頷いた。窓から身を乗り出し、大きく手を振る。

「ああっ、ああ! またな! 絶対にまた来るから!」

「少年っ。君と、君の大切な人たちの無事を祈っているよ!」

「みんな、ありがとう! 本当に、こんな俺にっ……!」

 言葉がつっかえて出なかった。車はスピードを上げる。石見と桜江が手を振りながら追いかけてくる。一はもう、泣くのを我慢出来なかった。なんて茶番だと心中で嘲りながらも、それを得難く、有り難いものだと思った。

 必ず戻る。

 生き延びる。

 強く胸に刻み、一は前を向いた。視界に滲んだ海を、初めて綺麗だと思えた。



「一さん、駒台にいるオンリーワンの関係者と連絡が取れました」

 一の涙が止まった頃、養老は口を開いた。

「情報部の友人です。どうやら、『円卓』は本格的な侵攻を始めていないみたいですね。しかし、本日中には仕掛けるつもりでもあります」

「……何が狙いなんでしょうか」

「無論、近畿支部と北駒台店の壊滅でしょう」

 それだけではないと、一は直感している。『王』が出張るのだ。何か、もっと別の目的があるのだ、と。

「本当にそれだけなら、何か、回りくどいような気がします。俺は今まで『円卓』のやつらを見て、戦いもしました。正直、化け物中の化け物ですよ、アレは。そんなのが徒党を組んでるんなら街ごとむちゃくちゃに襲えばいい。わざわざ支部にスパイ回さなくても力ずくでどうにか出来ますよ」

「私は『円卓』のメンバーについて詳しくないのですが、実際に彼らを目にした一さんがそう思うのなら、間違いではないと思いますよ。……狙いですか。駒台を落とし、南への足掛かりにするのかと踏んでいましたが、なるほど、もっと別の企みがあると見るべきでしょうね」

 ただ、その目論見が何なのか、養老には思いつかなかった。

「行かなければ何も分からない、か。急いだ方がよさそうですね」

「あ、いえ、安全運転でお願いします。なんか、こっから景色見てたら、急に名残惜しくなってきました」

「……余計なことをしたかと心配していたところです。いや、よかったよかった」

「いや、余計なことですよ」

 養老は助手席からの視線を感じて苦笑する。

「仲直りが出来てよかったですねとのたまうつもりはありませんよ。ただ、店の皆さんを嫌いになったままで帰って欲しくなかったんですよ。もちろん、その反対も。一さんのことを誤解したままでさよならしては、なんだか嫌じゃあないですか」

「俺はしんじも、みとも、よしかさんのことも嫌いじゃありませんよ。俺が嫌われるのはいいんです。自分たちと誰かを重ねて見てるんでしょうって、そう言われたんです。ああ、その通りだなって」

「はっは、結局、一さんは駒台が好きなんですよ」

「縛られてるだけかもしれませんけどね」

「それはそれで羨ましい。好きだから縛るんですよ。それに、この世には完全な自由なんてありませんから。何を捨てて、誰かから逃げ出して来たって、しがらみってのは残るんですよ。ああ、いや、残ったものをしがらみと呼ぶべきなのでしょうか」

 目を細める。養老はアクセルを緩く踏んだ。彼は関東支部にいた頃を思い出して、少しの間だけ物思いに耽る。あの時、ああしていれば、自分はどうなっていたのだろうか、と。

「本当に、迷惑ばかりかけてしまいました。今になって、もっと皆と楽しくやれたらよかったって思いますよ」

「……次の機会がありますよ、一さんには。あ、それと、あとでメモを渡しておきます。乗り継ぎの駅や、時刻を調べて書いておきましたから、困ったらそれを見てくださいね」

 一は顔を歪める。彼はまた泣いてしまいそうだったのだ。

「何から何まで、本当に……。必ず戻ります。恩返しします」

「別にいいですよ、これくらい。出雲店は人数が少ないですから、ついつい甘やかしたくなるんです。皆、いい子だ。一さん、一つだけお願いがあるんですが、聞いてくれますか」

 何でもと一は首肯する。養老は遠慮がちに言った。

「クビってのは取り消してもらいたいんですよ。君が駒台に戻り、その後どうなるかは誰にも分からない。しかし一さん、君は紛れもなく出雲店の仲間なんです。私は、そう思っています。いつでも戻ってきてくれていい。掛け持ちってやつですね。……だから、君の名前は残しておきたい。構いませんか?」

 一はしばらくの間、声を発することが出来なかった。彼が頷く頃、車は駅前に到着していた。



 駒台の街は静かであった。日付が変わり、夜が深まるにつれて、音が少しずつ消えてなくなっていく。風だけが唸りを上げていた。冬の塊のようなそれは、街の中を縦横無尽に駆け巡る。寒風は一人たりとも逃がしはしない。

 だが、その影で蠢くモノの姿があった。深淵から這い出し、生ある人間を獲物として見定めるモノがいた。この街を狩り場として認識するモノがいた。

「ひっ、あ、ああああああぎゃあああああああああ!?」

 ビルの間から伸びた毛むくじゃらの腕に引きずり込まれる。

 滑空する鋭利な爪牙に引き裂かれる。

 血溜まりの中で食い散らかされる。

「だれかっ、だれか娘をっ、たすげっ――――」

 行進する獣に蹂躙される。

 家族。恋人。絆は血で穢され、壁には肉片が叩きつけられる。

 幼き者の手を引いて逃げる者がいれば、その手を振り解いて立ち去る者もいる。

「やめ、やめてお兄ちゃん……!」

「ご、ごめんな、ごめんな!」

 親が子を殺し子が親を殺す。子が親を犯し親が子を犯す。圧倒的な絶望の前では倫理など紙にも等しい。血に依って成り立った絆は血に拠って引き裂かれる。淫奔が跳梁し姦淫が跋扈する。人は獣に。獣は骸に。錆び、饐えた空間の中では人の規は芥も同然であった。

 この街に盾はなく、盾を持つ者すらいない。逃げ惑う草の根を追い立てる猟犬が四肢を伸ばして組み敷くのみだ。今や無法こそが唯一の秩序であった。差し伸べた手を引っ張り込まれて贄と変わり果てるのであれば、己が命を守る為、他者を踏みつけにして逃れるしかない。

 駒台は閉ざされていた。ソレにとっては戦場ではない。屠殺場、あるいは餌場でしかなかった。



 駒台へと続く道に立つ者がいた。彼らはオンリーワン近畿支部の情報部であり、戦闘部に属していた。しかし、彼らは街を守らない。ソレとは争わない。情報部の人間は木麻凛についた者であり、戦闘部の人間の殆どは『円卓』に与する者なのだから。

「……ひでえな」

「従わなきゃ俺たちもああなっていたんだ。俺たちだけじゃあなく、俺たちの家族も、知り合いもな」

 戦闘部の男は視線を上げた。前方には二車線の道路がある。横転した白塗りの車からは煙が立ち上っていた。右方に目を遣ればワゴン車がガードレールと激突し、フロントガラスが散らばっている。車内にいた者の無事は言わずもがなであろう。

 駒台へ至る道は封鎖されている。電車も停まらず、徒で近づく者には問答など無用である。この場にとどまる男二人の役目は番である。駒台から出る者も、入ろうとする者も許さない。そも、許されていないのは彼らとて同じなのだ。

「そろそろ、始まるところか」

「何も、こんな時期にやんなくたって、なあ。新年くれえ、おめでたくやらしてもらいたかったぜ」

 情報部の男は胸元のポケットから煙草の箱を取り出す。彼はライターを弄びながら、ぼんやりと思惟に耽った。近畿支部の半数以上が『円卓』の内通者だった。支部は既に陥落しているだろう。逃げ回る善良な反逆者を捕えさえすれば全てが終わり、始まるのだ。『王』が何者なのか知らないが、『彼』の手によって駒台は、あるいはこの国すら姿を変えるのだろう。興味はない。だが、命は惜しかった。人間が束になったところで敵う相手ではないのだ。叶わぬ夢を見るような歳ではないと、男は頭を振った。

 首筋にちりっとしたものを感じた。情報部の男は暗がりを見通そうとして目を凝らす。

「……マジかよ。あのガキ、本当に来やがったぜ」

 舌打ちし、吸い始めたばかりの煙草を投げ捨てた。男の目が捉えたのは、百七十センチに届くか、届かないかという背丈の男である。彼は草臥れたコートを羽織っていた。擦り切れ、解れ――――戦いの痕というものが見受けられる。男は茶色のくせ毛を掻きながら、歩みを止めることはない。二人の男に気づいていて尚、進み続けている。

「傘だ。あいつ、やっぱり一一だっ」

「島根くんだりからわざわざ戻ってきやがったってのか」

 男は無表情で、無感情な同僚の言葉を思い出す。彼女は、一一は必ず戻ると言っていた。恐ろしいと感じた。彼が一人で駒台をどうにか出来るとは思えない。近畿支部の半数が、『円卓』が、引き寄せられるように現れたソレが、全てが一の敵なのだ。しかし、彼はそう思っていないらしい。安っぽいビニール傘だけで、自分という存在を主張しようとしている。……警戒すべきはメドゥーサの能力であった。駒台に侵入させるつもりはない。ここで仕留めると、戦闘部の男と頷き合った。



 一一が駒台付近に姿を見せたのと同日、同時刻、タルタロスと呼ばれる世界。

 エレンは獣の吼え声を聞きながら、一の到着を確認していた。彼女は白い指を自らの唇に這わせ、微笑を湛える。

「馬鹿な子」と、楽しげに囁いた。

 駒台を脅かすのは『円卓』だけではない。この地下に息を潜めていた連中も動き出すのだ。一一人で何が出来るものか。……しかし、エレンは妙な期待感を覚えていた。彼女は『檻』の中にいる女へと問い掛ける。お前はどうするのかと問い掛ける。スーツ姿の女は意地悪い笑みを浮かべた。

「決まってんじゃない。あいつが来たんなら、やるこた一つよ」

「その中で何が出来るというのかしら、勤務外さん」

 ついぞ、女は媚びるような目をしなかった。エレンは上出来だと言わんばかりに手を打った。



 地獄に落ちた女が垂らされた蜘蛛の糸を見つけた時、ルーガルーは夢を見ていた。幸せな夢であった。故郷、懐かしい屋根の上から星を、月を見上げる。隣には兄がいて、友がいた。眼下の庭では灰色の毛並みをした犬が鳴いている。それだけだった。それだけで幸せだった。

 だから、目覚めたくない。

 だから、ここから出たくない。

 夢を見続けてさえいれば、嫌なことからは逃れられるのだから。だが、喧しく叫ぶモノがいる。目覚めを促そうとしているのは白いハトであった。消えろ。どこか行ってしまえと、少女は夢の中で強く目を瞑った。



「北駒台店を襲う、ねえ。ま、いいんじゃないかな」

 フリーランス『騎士団』の少年は興味なさげに言った。彼の隣に佇むのはディルと呼ばれる長身、長髪の男だ。

「『円卓』の女と肩を並べるのは気が進みませんが、これも仕事ですからね」

「それに、面白い人と戦えるかもしれないしね。ね、君はどう思う?」

 二人からは少し離れたところにいた少女は何も言わない。ただ、彼女の持つ得物だけが妖しく煌めいている。抜身の刀のような雰囲気をまとわせた少女は空を見上げた。この街からは星も、月も見えない。叢雲だけが駒台の空を覆い尽くしていた。



『円卓』の手に落ちかけた近畿支部の地下では、技術部の長、加治が娘たちの目覚めを待ち望んでいた。彼の傍らにはパァラと呼ばれるオートマータが付き従っている。ナナの恰好とは違い、ヴィクトリアンスタイルのメイド服ではなく、フレンチメイドのそれであった。

「試作七号機が起動すれば、一撃でこれを壊せるのだがね。やれやれ、我ながら厄介なものを渡してしまったよ」

 加治は隔壁を何度か叩いた。彼の目の前に下ろされているそれは、技術部の天津たちの手によるものであった。『円卓』に与するのをよしとしなかった天津らはナナを連れ、技術部の一画にこもっている。だが、籠城が終わるのも時間の問題であった。

「あの子らが起きるまでの命というわけだ。さて、我々はのんびりと構えておくとしよう」

「はい、ご主人様。何かお飲物でもご用意いたしましょうか」

「祝杯をあげるにはいささか気が早いかもしれないなあ」



 前方には駒台の街がある。一歩踏み出し、近づく度にどろりとした感覚が身を苛んだ。もはや勝手知ったる場所ではないのだ。一刻も早く確かめねばならない。電車を途中で降り、殆ど夜通し歩いてきたが、不思議と疲れてはいなかった。一は苦笑する。今は見えないが、月はきっと今日も丸いはずだ。血が騒ぎ、四肢に力が漲った。

「止まれ、一一。お前、ここに何の用があるってんだ? 知ってるのかよ。お前ら北駒台はもう終わりなんだ」

 自分に出来ることなどたかが知れている。人間が一人きりで成し遂げられることはあまりにも少ない。それでも、今の一はなんでも出来るような気がしていた。生まれてから初めての感覚である。実に気分が良かった。己が身に宿るメドゥーサも、同じように考えているはずだろうと、アイギスを強く握り締める。

「……こいつ、聞いてねえぞ。というか、俺たちを無視してるんだ」

「舐めやがって……! なんなんだ、こいつっ」

 些事に構っている暇はない。まずは事情を聴く必要がある。ここで何が起きたのか、何が行われようとしているのか。その上で、やりたいことをやってやろうじゃないか。一は口元を歪める。くつくつと、喉の奥で笑みを噛み殺す。……男が二人向かってくるのが見えた。一陣の風が吹く。一を迎えるような、心地よいそれであった。

 戦闘部の男が自らの得物を構える。鉄製の多節棍が空気を食みながら回転を上げていく。十分に勢いを得て、一が射程圏内に入ったと同時、男はそれを叩きつけるようにして振り下ろした。高く、乾いた音が響く。アイギスに防がれた棍が砕けた音であった。男は瞠目し、

「てっ、めええええ……」

 激昂する。

 一は男を見ていなかった。街に視線を置いたまま、まるで蠅か、蚊でも払うようにして攻撃を防いでいた。事実、今の彼からすれば蟲にも似た存在であったのだ。

 一は歩く。彼は背後にいる者には目もくれず、心地いい風を全身で受けた。歓迎しているのはお互い様であると、一は両手を上げた。

 情報部の男は、風が集約する様を目の当たりにしていた。不可視の筈のそれは、一の周囲に絡みつき、離れようとしない。先までまっすぐに伸びていた紫煙も、横転した車から立ち上っていた煙も余波を受けてぐるぐると渦巻いていた。

「精霊か!」

 エメラルドの風が一を抱きかかえている。『彼女』は悪戯っぽい笑みを浮かべた。封鎖された駒台の中で、風の精霊だけが自由であった。彼女だけは誰にも止められず、留めておくことも出来ない。

 一はシルフの顔を見ずに口を開いた。

「出迎え、ご苦労」

「どこ行ってたのさ、ニンゲン。すげーことになってるぞ」

「ちょっとな。海を見に行ってた」

「ふん、そんなのよりいいものを見せてやるさ」

 シルフはアレス戦で失っていた腕の再構成に成功している。彼女は両腕で一を抱きすくめて、地を蹴った。ふわりとした浮遊感が一を包む。しかし、風は次第に速度を増し始めた。地上では番役の男たちががなり声を上げている。一の視界には空しか映り込んでいなかった。



「で、どこまで行きたいんだ?」

 シルフが中空で制止する。一は街並みを見下ろした。ここから落ちれば、跡形もなく砕け散るだろう。風は刺すように激しく吹いている。汗が凍りついたかのように感じられた。

「もっと。もっと上まで。この街の一番高いところまで、連れてってくれ」

「あいよ」

 ぐん、と、一の身体に負荷がかかった。火の手が上がる街から、悲痛な叫び声から徐々に遠くなってくる。鳥が風に巻かれてどこかへと飛ばされていく。分厚い雲が近づいた。星が線になって見える。電波塔もデパートのビルも小さくなった。

 一は目を瞑る。雲の中に突入したらしい。空気が変わるのを感じた。恐怖より先に興奮を覚える。彼は自分でも知らない間に笑っていた。出雲店で得た泥濘のような安寧も、これから先に待ち受ける地獄図のような戦闘も頭から抜け落ちていた。

「ほうら、着いたぞ!」

 目を開けると、自分たち以外には何もない世界が広がっていた。一は自分の感覚というものを強く意識した。今、彼は夜を敷き詰めたような大空の一部と同化している。月まで手が届きそうだった。異様な優越感を覚えて、一は声を上げて笑った。

「これが空だ。これが風だ。ニンゲン、オマエはこれからどうしたい?」

「そうだな」

 思案している内、無粋な乱入者が姿を見せる。身体の半身が鷲と馬に分かれた合成獣。人の顔をした、蛇の身体を持つ怪鳥。翼の先が青銅で出来た巨大な鳥。一は舌で唇を湿らした。

(ここ)が誰のもんなのか、教えてやるのが先じゃねえのか?」

「任せろよ。分からせてやる。んじゃ、行くぞ。しっかり掴んでてやるからな」

 ソレがけたたましい鳴き声を放つ。それを合図にシルフが空を駆けた。爆発した風はソレの羽ばたきすら許さなかった。一たちを獲物と見定めた翼持つソレはシルフのスピードには追いつけないでいる。尚も彼女は加速する。身体の中身をぶちまけてしまいそうで、一は目を開けていられなかった。

「見てみろよ」

 駒台の空を切り取るようにして駆けていたシルフが立ち止まる。彼女は鉄塔の上で一に微笑みかけていた。彼は目を開ける。次の瞬間、目の前を何かが落ちていった。翼の引き千切れたソレである。次から、次へ。鳥型の怪物たちはか細い呻きと共に墜落する。幾ら翼を持とうとも、風の精霊の速度にはついぞ追いつくことが出来なかった。その代償にソレどもは力を使い切り、建造物と衝突して倒れ伏している。

「内臓の位置がぐちゃぐちゃになってるぜ、きっと」

「ニンゲンは柔だなあ。それじゃあ、次はどうする?」


 ――――殺してやる。


「そうだな。北駒台店まで頼むぜ」


 ――――あの女のところまで。


 一は表情をなくしていたが、シルフは気づかなかった。彼は昏い喜びを胸に秘めたまま、駒台の街を見回した。なんて醜いところなのだろうと内心でせせら笑った。

 魔が降りる街を風が吹き抜ける。十二月三十一日が始まったばかりの時であった。

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